被災地支援レポート 4 (2012.4~)
福島県の図書館を考えるシンポジウム
女川つながる図書館での復興支援ボランティア活動に参加して(白百合女子大・仙台白百合女子大学生有志)
"Help-Toshokanツアー 福島県内被災地図書館 訪問と交流の会"(富田美樹子)
陸前高田市立図書館郷土資料救済支援活動(第2期)(横山道子)
福島県の図書館を考えるシンポジウム
「福島県の図書館を考えるシンポジウム」終了
11月10日(土)、「福島県の図書館を考えるシンポジウム」(会場:福島県立美術館講堂、主催:日本図書館協会、共催:福島県公共図書館協会)が開催され福島県内外から、約60名が参加しました。
午前の講演は「東日本大震災と図書館 ―原発との関連で考える」と題し、松岡要氏(前日本図書館協会事務局長)が統計資料等に基づき、原発地域の市町村の財政や図書館の状況を分析、今後の課題が示されました。
午後の部は、現在も避難区域となっている図書館で、司書として図書館活動に尽力されていた4名の方々が、地域に密着した活動を行っていた震災前の様子と、震災時および現在の状況について報告されました。風間真由美氏(大熊町) からは、読書の町づくりと、町と連携した図書館の活動、震災当日の図書館、避難所での活動の報告がありました。今後の課題として、個人情報管理や貴重資料の搬出、言葉や民俗等無形文化の維持が挙げられました。川俣町からさいたまスーパーアリーナ、加須市の旧埼玉県立騎西高校と避難した町民とずっと行動を共にしている北崎周子氏(双葉町)からは、双葉郡内で最初に開館した双葉町図書館の概要、震災当日の状況、避難所内に開設した子ども図書室の活動についての報告、課題として、寄せられた支援図書の扱いが挙げられました。屋中茂夫氏(浪江町)からは、震災前の図書館の概要、福島市の仮設住宅内に開館された「浪江in 福島ライブラリー きぼう」の紹介がありました。「きぼう」は、解体可能で、5年後に戻った時は移設する予定だが、まずは生活再建が優先事項であること、町の復興計画を説明するために、全国を回っていること等の報告がありました。菅野佳子氏(富岡町)からは富岡町図書館の概要、川内村からビッグパレットふくしまへの避難状況、ビッグパレットでの図書室活動の状況、現在も震災当時のままの資料の保存や避難の課題が挙げられました。
報告後、鈴木史穂氏(福島県立図書館)の司会によりパネルディスカッションが行われました。パネルディスカッションでは、司書の専門性、支援図書の扱い、除染の方法等についての問題提起や、原発事故を風化させてはならないこと、避難者が避難先での図書館利用がスムーズにできるようにしてほしいとの要望、必要な時に手を差し伸べることができるように待つことが大事、非常時に図書館から情報を提供することの重要性の指摘などがありました。
参加者の声(アンケートより抜粋)についてはこちらに掲載。
シンポジウム参加者のレポート
祖国の記録と記憶
鎌倉幸子(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)
「難民の人たちの気持ちが分かった」シャンティ国際ボランティア会(以下、SVA)を長く支えてくれている福島県の会員の方がおっしゃっていた。突然出た指示に従い着の身着のままで南相馬市から避難した。その後何回も場所を移され、不安な夜を過ごしたそうである。その中で頭の中に浮かんだのがSVAの機関誌ででてくる難民キャンプ。「祖国を追われ、危険な中で逃げている難民とはこんな人たちなんだ・・・私も難民になったんだ」。
町全体が避難区域となっている福島県大熊町、双葉町、浪江町、富岡町。浪江町や大熊町は避難指示解除を出す予定は2017年3月11日。双葉町にいたっては避難指示解除を含め復興計画はまだ作業中です。ただ解除が本当に出るかどうかは、誰も分からない。たとえ、2017年に帰れたとしても、まずは町のインフラ整備が最初。その後に図書館となることは全員がおっしゃっていた。
図書館員だった皆さんも、自治体職員として別の部署で仕事をしている。言葉の消滅の危機、無形民俗文化の保護、子どもたちに心の栄養をどう届けるか図書館員としてやるべきことがやれない歯がゆさと、自治体の仕事をまずはしっかりやらねばという狭間に身を置きながら、日々の業務を行っている。
「5年後に戻れたとしても、1歳児が6歳になれば、故郷は大熊町ではなくなる。言葉もその地域の言葉になるだろう。空白となる時間をどう埋めていくのか」
「双葉町で生まれて、ずっとそこで生きていた。フクシマが福島に、フタバが双葉と漢字で表記される日が来ることを願っている」という言葉に、非日常的から、日常に戻りたいと言う強い思いを感じた。
私たちができること。まずは「忘れない」こと。浪江町の職員が他県に出張した時に、「え、浪江町って原発の被害を受けてたんですね」と言われショックを受けたという話をされていた。
私自身が忘れないことはもちろん、図書館としても、福島県に関する資料の展示や報告会をし、市民が「忘れない」手伝いはできる。報道されなくなったので、東北が今どうなっているのか分からないという声を聞くことも増えたが、情報が流れていくメディアよりも、選書して展示をし、しっかりと伝えることができるのが図書館の強みであると感じている。
東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)が11月28日に行った現地会議in福島で、仮設住宅に住む方の「前に進みたいけど、どちらが前かわからない」という言葉が報告された。東日本大震災の現場はまだ終わっていない。それまで忘れないで欲しい。また東北の人たちの経験を、無駄にせずに生かして欲しい。福島の人の今、思いを伝える。記憶を記録として残す。本と人、人と人とをつないでいく。図書館にできることはたくさんある。
シンポジウム終了直後に「jlalist(ステップアップ研修修了生によるML)」に投稿された感想をご紹介します。この感想は投稿者の了承を得て、協会東日本大震災対策委員会で一部を抜粋、短縮したものです。
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「シンポジウム」では、松岡・前事務局長の労作である詳細な資料に圧倒され、この資料を入手するだけでも、シンポジウムに参加した甲斐があったなと思うほどでしたし、警戒区域にあった図書館の職員の方々の発表とパネルディスカッションは、壇上の発表者も助言者も司会者も、観客席の我々も、皆が皆、感極まっての切ない涙、涙、涙の連続でした。
このシンポジウムは、様々な意味で、福島県の図書館史、いえ、日本の図書館史に残る、記念すべき集会だったと思います。パネルディスカッションの最後、図書館関係者ではない、一般市民の方が、「このシンポジウムの内容をインターネット等で世界中に発信してほしい」と発言してくださいました。図書館に奉職してウン十年、数々の集会に参加してきましたが、集会の内容を全世界に知らせて欲しいという一般の方の意見で締めくくられた集会は初めてです。そんな素晴らしいシンポジウムに参加できて、本当に良かったと思っています。
さらに、このシンポジウムは、震災後、ずっと会えないままだった図書館仲間が再会し、互いの存在の大切さを改めて確認し合う、喜ばしい場となりました。
本来の居場所から引き離され、各地で、様々な立場で働いている、警戒区域内に図書館がある司書の方々、そして警戒区域以外の浜通りの図書館の司書の方も参加してくださいました。私も、浜通りの方々が一堂に会する機会は、多分、もう無いだろう、こうしてお会いできるのは「これが最後かもしれない。何がなんでも出かけなくては」という思いで出席しました。浜通りの司書の方から、「千春さんは必ず来るって思ってた」と言われた時には、信頼を損なうことなく、互いに繋がり合う図書館仲間としての未来は、これからもずっと続いていくという確信を抱くことができました。そして、そういう場を作ってもらえたことに心底感謝しました。
私だけでなく、参加者の皆さん、それぞれ、色々な再会が、出会いがあり、感激の一時がありました。私は、今回のシンポジウムは、まさに「REUNION」「RE-CONNECT」だと思いました。再び結び合う、つなぎ合う、そんな感じです。そして、ここに集った福島県内外の図書館仲間が、この共有した時間、分かち合った思いを忘れずにいる限り、福島県の図書館は、また頑張れる、まだまだ頑張れる、そう感じました。
暗いことを言えば、例えば、第一原発の廃炉まで、順調に進んでも40年かかるそうです。警戒区域内の真の復興は、そこから始まると言っても過言ではありません。本当の平時(今はまだ非常時です。少なくとも私にとっては)を取りもどすのは、そんな先の話なのです。私の年齢では、その希望の日を生きて迎えることはできないでしょう。でも、その日が必ず来ると信じられなくても、その日が来るために奮う力を、今回のシンポジウムから、再会した方々から、新たに出会った方々から、頂戴しました。
(阿部千春:福島県立福島工業高等学校図書館)
女川つながる図書館での復興支援ボランティア活動に参加して
白百合女子大・仙台白百合女子大学生有志
女川町つながる図書館(宮城県)でのビニールコーティング作業を行った。女川の図書館は大震災と津波によって全壊し、女川の町も鉄筋コンクリートのビルが横倒しになっている姿が当時の凄まじさを物語っており、市役所なども仮設のプレハブで業務を行っている。図書館も現在は女川町勤労青少年センターの2階を使って開館業務を今年3月から開始した。
今回の作業期間は9月4日(火)から6日(木)までの3日間で延べ2日間。限られた時間の中で応援に駆け付けてくれた(株)日本ブッカーの方からコーティングの手ほどきを受け、最初は慣れない手つきで始まった作業だったが、進むにつれて作業のピッチも上がり、最終的には588冊の図書のコーティングを仕上げることが出来た。
この事業は日本図書館協会の「Help-Toshokan」の一環として,現地で支援仲介のコーディネートにあたっている宮城県図書館の協力を得て実施したもので、参加したのは白百合女子大学(調布市)と仙台白百合女子大学(仙台市)の大学生等8人であった。
貴重な体験を実感したという学生それぞれから、ボランティア活動を終えての感想が寄せられているので紹介する。(座間直壯)
菅谷香澄(白百合女子大学文学部仏文科3年)
今回、被災地に行く事も、ボランティア自体も初めてで、自分が力になれるかどうかとても不安でした。しかし、現地で復興作業をする方々や、女川に残って元気に仕事をする女川町の方々を見て、逆に私が元気を貰いました。
今回は、図書館内での地道な作業でしたが、少しでもお役に立てるようにと、気持ちを込めて作業をしていました。実際、復旧復興には、地道な作業の連続だと思いますが、みんなの諦めない気持ちと、思いやりを行動に移す事が、復興の一番の力ではないかと感じました。
ボランティア後の今、私一人の力なんて、という思いは少しもありません。少しずつでも力を合わせていけば必ず光は見えると感じられました。
これからは、このボランティアの経験と私の思いを周りの人に伝え、より多くの人々に被災地の復興に協力してもらえるように呼び掛けて行きたいと思います。
伊藤海里(白百合女子大学文学部国文科1年)
今回、女川つながる図書館で3日間ではありますが、ブッカ―貼りのお手伝いをすることができました。図書館には既に多くの蔵書がありました。本を開くたび「寄贈」というスタンプが押してあり、改めて多くの人の善意が集まって開設出来ている図書館なのだと感じました。
図書館の利用者はそれほど多いと感じませんでしたが、震災の後に子供の話題にあがったのは色とりどりの絵本だったという話を聞きました。本が全てではなかったかもしれませんが、支えの一つになっていたのは確かのようでした。また、日本ブッカ―の方が貼り方の指導をして下さったことも、いい経験になりました。
まだ、横倒しになった建物が残る女川町で娯楽は限られていると思いますが、全国の方々が寄贈して下さった本を永く楽しんでいただけるお手伝いが出来たのなら幸いです。
小林眞樹(白百合女子大学文学部英文科1年)
3日間、女川つながる図書館で本のビニールコーティングをさせていただきました。震災後テレビも何もない被災地で、子供たちの支えになったのが本だと聞き、一冊一冊丁寧にコーティングしました。私たちがコーティングした本が、誰かの心の支えや拠り所となってくれたら嬉しいです。震災後、「つながろう日本」や「絆」といった言葉が日本そして世界中で言われていましたが、今回のボランティアを通して、たくさんの方々と出会うことができ、その言葉の意味を実感しました。
今後も被災地への支援を続け、また今回のようなボランティアの機会があれば参加したいと思います。このような機会を与えてくださった皆様、本当にありがとうございました。
大徳留理加(白百合女子大学文学部仏文科2年)
あの三月十一日、私は東京で大きな揺れを感じていました。一年半が経過してしまいますが、今回のボランティアは本が大好きな自分に合った活動だと直感し参加を決意しました。女川町の図書館の方々から被災した人々は本の力でとても助けられたと聞き、本の力のすごさや大切さを痛感しました。
その大切な本を長く使えるようにする作業はとても大事なことだと改めて実感しました。とにかく一冊でも多くの本にブッカ―をかけ、たくさんの人に借りてほしいとの願いを込め、作業中はほとんど話もせずに、ただ黙々と作業を続けました。時間がたつのが驚くほど速かったです。その甲斐あってか初心者にしては誇れる数の本にブッカ―をかけることができ、たくさんの「ありがとう」をいただきました。
復興が進み新築された女川図書館ができることを祈っております。とても貴重な体験でした。
中田あゆみ(仙台白百合女子大学人間学部健康栄養学科4年)
姉妹校である東京の白百合女子大学の有志とともに、ブックコーティングのボランティア活動に参加しました。ブックコーティングをするにあたり、まず日本ブッカーの社員の方々から丁寧な指導を受けたため、初めての私でもなんとか作業することができました。震災後、女川に行ったのは初めてでしたが、1年半が経過する今でも、まだまだあらゆる面でボランティアが必要な状況であると感じました。
自分に出来ることがあるのか、不安な気持ちを抱えながら向かったボランティアでしたが、最終日に館長さんから労いの言葉をいただき、わずかでも役に立てた事を大変嬉しく思いました。今後も機会を見つけてボランティアに参加していきたいと思います。
佐藤光恵(仙台白百合女子大学人間学部健康栄養学科4年)
私は震災後、地元の避難所でボランティアをしたことがありますが、他の市町村でボランティア活動したことがなく、女川に行くのも初めてでした。また、ビニールコーティングの作業も初めてで、やり方を教えて頂いてもなかなかうまくいかない事もありました。
しかし作業していくうちに慣れて、一冊にかかる時間も短くなり、段々とカバーをかけられる数も多くなっていきました。
「女川つながる図書館」には全国から寄贈された本が多くあり、自分がカバーをかけている本にも、様々な思いが込められているのではないかと感じながら作業していました。今回カバーをかけた本はほんの一部でしたが、少しでも長く読んで頂けるようになっていたなら嬉しいです。貴重な経験をさせて頂きありがとうございました。
"Help-Toshokanツアー 福島県内被災地図書館 訪問と交流の会"
富田美樹子(元国立国会図書館)
2012年6月1日~3日、第3回目のツアーに参加した。日図協のHelp-Toshokanツアーへの参加は初めてだったが、別の機会に宮城・岩手の甚大な被災状況は見学していた。福島の場合は、また別の困難な状況があるだろうと思い、その中で図書館の果たす役割を考えたいと参加した。
訪問した図書館は、どこも建物が大きく壊れ、資料も大量に落下し、天井からも落下物等があった。それでも、職員の冷静な対応「ガラスから離れて下さい、書架から離れて下さい」という呼びかけや誘導で、幸いけが人はなかったという。日ごろの訓練の大切さを感じた。そして、図書館はそれぞれの休館を経て、建物の修復も終えて素晴らしい活動を再開しておられた。資料や建物はあっても、サービス対象のコミュニティーが破壊された福島。その中から、印象に残ったことを記しておきたい。
<ニーズに合致した支援を>
福島県立図書館。まず目についたのは、「東日本大震災福島県復興ライブラリー」。県立図書館として、1800タイトルを超える事故・被災の記録及び関連資料が開架されていた。ここでは、県内の全体状況についても話を伺った。そこで印象に残ったのは、支援の気持に感謝はされつつも、ニーズに合致しない支援はむしろ事務の煩雑を招く、ということだった。「必要なものを 必要なときに 必要なところへ」これが、説明の締めの言葉だった。福島の場合は、宮城や岩手と異なり、建物の倒壊は少なく資料の消失も殆どない。ニーズに合致した支援はなにか、まさに現場の方の話を伺う必要がある。
県立図書館では、情報発信に合わせ資料の提供にも力を入れている。避難所では当初、生活復興が最優先で読書環境には無かった。ただし、子どもにとって本は大変有効だった、子どもの周りに本があることは大切だった、と伺い嬉しかった。
そして、仮設住宅に移ってから生活が安定化し、最近ようやく、本を届けてほしいという声が届くようになったという。その対応として素晴らしいと思ったことは、県立図書館から仮設の集会スペースに「スーパーもなか」というダンボール製書架に本を詰めて届けているということ。家族や友人を失い、地域コミュニティーからも切り離されてバラバラに入居せざるを得なかった人たちにとって、小さくとも図書館スペースがあることは、本や雑誌を手にして人とつながることのきっかけになりうる。引きこもりや孤独を避けることにつなげたいということだった。コミュニティーの復活における図書館機能の大切さをアピールする必要性を痛感した。そして、鈴木史穂さんという若い女性職員は、多い時は1日250キロもの道のりを山を越えて運転し、本を届けているということだった。ネットを通じた情報だけでなく、人が本を届けることの血の通った温かさに感動した。
<こんな時だからこそ図書館>
浜通りにある新地町図書館では、津波の大きな被害の実態をつぶさに紹介していただき、大きく破壊された沿岸部も見学した。見せていただいたYou Tube の情報では、津波は図書館の直前にまで押し寄せていた。印象に残ったのは、福島の元気は新地町からというモットー。仮設の入居に際しても、先着順とかではなく、集落を壊さないように入ってもらうことで、孤独死を避けられると言っておられた。大切なことだと思った。そして、こんな時だからこそ、図書館は住民にとって息が抜ける場所、前向きになれる場所と感じていると話して下さった。図書館の建物も、明るくて素晴らしいものだった。
南相馬市立中央図書館。ここは、地震による建物被害はなく、資料の落下だけだった。無傷なのになぜ開けないというジレンマを感じつつも、原発被害のために150日間の休館を余儀なくされ、除染をしてから徐々にオープンし、2011年8月9日に再開した。素晴らしい建物で、キッズコーナーやティーンズコーナーなども居心地良く、利用者に対する十分なサービスが提供されているように感じられたが、バックヤードの業務は大変だと言っておられた。他でも共通することだが、震災対応のため、図書館の職員も行政(役所等)の復興業務に携わり図書館業務に携わる職員が減少している上に、除染業務や図書館の修復業務など特別の対策業務が重なっている。人員不足が深刻だと痛感され、現場の重要なニーズだろうと思った。
南相馬市立小高図書館は休館したまま。警戒区域内の資料については、学校の資料も含めて、放射線量の計測が必要で、資料は廃棄せざるを得ないかもしれない。また、震災前に貸し出していた資料が返却された場合も、放射線量については懸念される。これは、福島ならではの課題だと思った。
仮設への本の貸し出しについて、当初は分厚い本などの活字を読むような余裕がなかった人たちも、だんだんに読むようになってきている。図書館を使うのは日常そのもの、日常を取り戻せるという話に、図書館の基本機能を改めて感じた。そして本を手にすることで、ふっと日常に戻ったような癒された気持ちになるのではないだろうか。
郡山市中央図書館。建物被害が最も大きく、1年間休館した図書館(2012年3月10日再開館)。学校の校庭の除染を最初にしたのは郡山市。なるべく家から出ないようにということで、利用者が減り、まだ以前に戻ってはいない。玄関前には、放射線線量計が設置してあった(0.228マイクロシーベルトを示していた)。また、家の中がぐちゃぐちゃなので早く図書館を開けてほしいという要望もあったという。資料のニーズに関しては、当初はいわゆる本よりも、新聞等の情報が強く求められていた。
図書館が市民の日常にとって大切な場所となりうること、また、いわゆる一般的な情報ではなく、その地域の住民に特化された情報、福島ならではの情報を提供することが図書館には強く求められているということを感じた。
<筋書き通りにはいかない>
白河市立図書館。創立100周年の図書館で、昨年2011年7月に新築の明るく素晴らしい建物に移転開館した。地震で、開館前の新築の建物があちこち壊れたが見事に修復され、中高生や子どもたち、大人も含めて心地よさそうに利用していた。素敵な和室もあり、中年の男性が、疲れたら横になれていいですよ、と話してくれた。館内には地域交流エリアもあり、知識文化の拠点・都市づくりの拠点として、図書館をきっかけにシャッター街を戻そうということで、市民に好評だとのことだった。
ここでは、全域が立ち入り禁止警戒区域の富岡町図書館の話を菅野佳子さんから聞くことができた。足を覆う防護服も着用して見せてくださった。これは、福島ならではの問題点を多く感じさせられる話だった。
富岡町図書館のある文化交流センターの総建築費約32億5千万円のうち、29億5千万円が原子力発電施設等立地地域発展交付金ということで、大変ジレンマを感じたということだった。複雑な思いを避けられず、福島ならではの苦悩だろうと心が痛んだ。また、富岡町に原発があるのは岩盤が強いからだ、地震には強いと皆が思っていたとのこと。地震当初は、情報収集が大変だった、役場機能も駄目になり、文化交流センターに震災対策本部を設置。原発による緊急避難で、富岡町の5700人が住民3000人の川内村へ避難し、3月16日には川内村から郡山の「ビッグパレットふくしま」に逃げ、11月まで居た。菅野さんはすぐに避難所対応の業務につき、食事等の配布や様々な問い合わせへの対応に追われ、最初の5日間は殆ど寝ていないということだった。
「ビッグパレット」に図書コーナーを作ろうと、図書館振興財団からダンボール製書架と2000冊ほどの本を届けてもらったが、場所が取れず、5月12日にやっと図書コーナーができた。ただ、あまり利用されなかったような気がする、避難所では明かりも暗いし、スペースも毛布1枚程度、本の置き場に困るし、返却も面倒。仮設住宅の集会所の図書コーナー、これもあまり喜ばれていないようである、コーディネーターでもいればということだったので、大変気になって、どうしてかと質問した。すると、最初のうちは仮設住宅の集会スペースは事務所的に使われており、スペースが狭いので図書コーナーは邪魔だと言われた、ただしこれからは変わっていくと思うと話しておられた。やはり、緊迫した状況のなかでは、頭で考えた筋書き通りには行かないのだと思った。深刻な状況におかれた被災地の方々の側に立って、今何が必要なのか、状況に応じた対応が重要だと改めて感じた。 今後の地域復興計画の中にぜひ図書館を設置してほしいということだったが、図書館機能が仮設住宅等でのコミュニティーの復活に役立つことを十分に提示できるとよい、そのためには何を求めておられるのかというニーズを知ることが大事、ということを学ばされたツアーだった。現地に出向いて直接話を伺う機会を作ってくださった日本図書館協会の担当者の方々に感謝したい。
陸前高田市立図書館郷土資料救済支援活動(第2期)
横山道子(神奈川県立平塚江南高等学校図書館)
津波の約1年後に救出された陸前高田市立図書館の郷土資料。私は、それから約3ヶ月後の平成24年6月3日(日)~5日(火)に行われた乾燥・殺菌・ドライクリーニング作業に参加した。場所は岩手県立博物館の車庫及び駐車場。3日間とも好天で、充分な数の長机や椅子、道具類や作業服・マスク・キャップ・手袋等も用意していただき、周囲の木々に集う野鳥の声に癒されながら作業に集中することができた。
最初は資料の頁をめくりながら湿気を取り除く作業。新聞紙をペーパータオルでくるんだ湿気取りを数ページごとに挟み込み、扇形に立てて風にあてる。が、表面加工をした紙でなく一見普通の紙でも頁が開かない資料が多いのに驚いた。海水・泥水に対する無力さを感じ(内容が読めないと図書館資料として致命的!)、辛い気持ちになったこともあった。そんなときは技術指導者や他の参加者の助言や励ましが大きな力になった。
2日目は、乾燥した資料のクリーニング作業も行った。1頁ずつ、こびり付いた汚れをスポンジやヘラ、ブラシ、刷毛などを使って除去し、必要に応じてエタノールでカビを殺菌する。乾燥が進むにつれ少しずつ頁が開くようになって来たが、固着の状況は多様で、非常に乾燥の遅い資料や、乾燥後も左右の頁の表面同士が頑固に離れない資料もあり、できるだけ慎重に、時には二人がかりで頁を開いた。あちこちでペリッ、バリッと音がし、うまく開くと安堵のため息、読めない部分が生じると落胆のため息がもれた。
また、表紙に数ミリの厚さで海砂がこびりつき無関係の紙片を抱き込んで固まっていたり、頁の上を泥流が流れた跡がみられたり、海藻の切れ端や松葉などが挟まっていたり、カビによるものか、激しく着色した資料(黒、緑、黄、赤、紫、青など)もあった。普通では考えられない状態の資料に出会うたび、一体どんな目に遭ったのかと息をのんだ。
作業を進めるにつれ、資料をなんとか再生させたいという思いが強まっていった。暑い中で根を詰めての作業で疲れはたまったはずだが、それとは裏腹に、作業場所には和やかで真剣な雰囲気が満ちていたと思う。2日目の作業後、ご厚意により県立図書館を丁寧に案内していただけたのも大変有意義だった。
3日目の午後には予定より早めに作業が一段落し、ドライクリーニング済の資料をリストの番号と照合して確認し、重症・軽症・中程度に分類して梱包した。次の作業まで当面冷凍保管していただけるそうだ。処理を試みたものの復元不能と判断された資料も出たが、それらは国会図書館・日本図書館協会資料保存委員会に譲渡され被災資料処置の研究材料とされるとのこと。現場でそれを聞いて本当にホッとした。
県立図書館の担当者が最後の挨拶で涙ぐまれたとき、ここに至るまで、また、この先の道のりを想って、私も目頭が熱くなった。あっという間だったが密度の濃い3日間だった。関係各位が調整を重ねてこのような得難い体験をさせてくださったことに感謝し、今後も出来ることを探して行きたいと思っている。