令和6(2024)年能登半島地震について

この度、地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
また、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げ、一日も早く平穏な日々に戻る事をご祈念申し上げます。
日本図書館協会及び図書館災害対策委員会も微力ではありますが、支援を模索し、対応してまいります。
被災情報並びにお困り事がありましたら、メールにてご一報いただければ幸いです。
saigai★jla.or.jp
(★を半角@に換えてください。)








「図書館員のおすすめ本」本文

これまでに『図書館雑誌』で掲載した「図書館員のおすすめ本」を,こちらのページで掲載しております。

※ 一部は非公開としております。執筆者の所属は,発表当時のものです。

日本の自然風景ワンダーランド 地形・地質・植生の謎を解く

小泉武栄著 ベレ出版 2022 ¥2,300(税別)

 旅行に行くとき,目的とするものは人それぞれである。テーマパーク,名物料理,温泉,絶景……など。私のように,歴史が好きで史跡やお城を目的にされる方も多いだろう。この本は,そんな旅の目的に「自然」も加えてみませんか,と地理学者が誘う本である。「はじめに」には「この本全体のテーマは『頭を使った観光旅行をしよう! そして人生を知的に楽しもう』ということです」(p.5)と書かれている。
 有名な絶景も一部含まれるが,もう少しマニアックなところがこの本の特徴である。日本の自然風景を53か所取り上げ,「海岸」「山」「火山」「渓谷・滝」「植物」「遺跡・湧水など」の6つに分類し,「なぜそうなったのか」を解説している。「ブラタモリの地形・地質にさらに植生を加えた,より広い分野の自然観察」(p.7)である。
 私はこの本に出会ったとき,ちょうど渥美半島への旅行を計画していた。この本によると渥美半島では,東海地方の湿地の固有種であるシデコブシの群生が見られるという。しかも花の時季と旅行がピタリ。大喜びで群生地をはしごして,シデコブシの気品ある美しさに胸を打たれた。湿地なので足元は大変だったが,それも含めて思い出である。旅行のためにさまざまなガイドブックに目を通したが,シデコブシについての言及はなかったので,この本を読んでいなければ,今なお知らないままであったろう。
 自然は動かせないので,その地に足を運んで見ることに価値がある。日本全国どこに行っても同じようなチェーン店が並んでいる時代だからこそ,ありとあらゆるものの動画が配信されている時代だからこそ,この本を参考に「そこにしかない」ものを自分の目で見に行ってはいかがだろうか。

(今野千束:灘中学校・灘高等学校図書館)

ルー・リード伝

アンソニー・デカーティス著 奥田祐士訳 亜紀書房 2023 ¥4,500(税別)

 本稿の主役ルー・リードは,60年代ポップ・アートの旗手アンディー・ウォーホルが,プロデュースとアートワークを手掛けたバンド,The Velvet Underground(以下VU)のフロントマンとして知られるニューヨーク出身ミュージシャン。VUはセールス的には恵まれなかったが「レコードを買った人間はたぶん,全員がバンドをはじめたんじゃないかな!」(ブライアン・イーノの発言,p.104)といわれるほどの影響力を持つ。
 リードは,学生時代からバンド活動を始め,大学では詩人デルモア・シュウォーツに師事し,詩的な才能を伸ばした。小さな音楽出版社のお抱え作曲家としてキャリアをスタート,VU脱退後も2013年に亡くなるまで一貫して音と言葉に頑ななこだわりをもつアーティストだった。
 本書は,リードの人間性や交友関係を知る上でも,50年にわたり発表してきた作品の網羅的な批評集としても読みごたえある,500ページ超の重厚な力作。この本をガイドに,紹介された作品をひとつひとつ聴き返し,掘り下げてみたくなった。
 ただし,ルー・リードならびに本書の魅力はこうした表層的な部分だけでは伝えきれない。帯の紹介文は「鬱屈,孤独,性的倒錯,ドラッグ。」と始まり「吐き気をもよおすクソ野郎」云々と続く。60年代のロック音楽業界という,品行方正とは言いがたい文化・社会に生き,性的マイノリティにして精神的なトラブルも抱えていた人物が,曲者揃いのバンドという組織をどのように構築・運営し,いわゆる健全な歌とは真逆の作品群をどのように世に問うてきたか,さらにそうした楽曲がどのように聴かれ,解釈されるか,というふうに社会学的にも読める。筆者の認定司書としての関心領域である「図書館運営;人権;文化;リテラシー」という観点からも興味深い1冊だった。

(松田 彰:大和市立図書館,日本図書館協会認定司書第1196号)

すごろくで学ぶ安政の大地震

石川寛監修 平井敬編著 風媒社 2021 ¥1,500(税別)

 災害が起きると報告書が作成されるのは古今東西変わらないが,今から約170年前の安政東海・南海地震(安政元年11月4日・5日)の際には,一風変わった報告(かわら版)が作成された。その名は「諸国大地震大津波末代噺」。なんと「すごろく」の形態で,東は江戸,西は日向(宮崎)までの各地の被害を,すごろく一コマに1地域を充てて表現している。例えば,「宮 桑名 大あれ 大あれ」「阿波 讃岐 土佐 大やけ」「摂州三田 大地しん 大あれ」といったように,地名と被害状況を短文で,その様子を絵図で表している。ちなみにアガリは「大坂」。コマによっては一回止まりの意味だろうか「▲はそんりやう(破損料)」「▲とまり」等もある。
 このすごろくかわら版を取り上げて,各コマを翻刻し,一コマ一コマ丁寧に各地の被害の様子等を解説したのが本書である。一コマ当たり見開き2ページで,詳細な被害の程度,現在の当地の様子などが写真・図入りで大変わかりやすく紹介されている。また関連情報も満載で,地震による液状化現象を記したコマ「美濃竹かはな(竹ヶ鼻)地さけ どろ吹出す」の解説では,同じく美濃(岐阜)で起きた濃尾地震での液状化現象を地図やスケッチなど織り交ぜて紹介している。
 また,トピックやコラムも多数散りばめられており,どのページからでも楽しめる仕掛けとなっている。そのうえ,この珍奇なかわら版のおよそ原寸大の複製を付録にしているのが面白い。
 本書を片手に,実際にすごろくで遊んで当時の被害の様子を学ぶも良し,今後発生するとされる「南海トラフ地震」への備えを学ぶにも良し,の良書。これからの防災を考えるために,ぜひ多くの方にご覧いただきたい一冊である。
 なお,このかわら版原本は防災専門図書館の所蔵資料であり,以下リンク先から閲覧可能だ。

〇諸国大地震大津波末代噺 嘉永七年寅十一月四日五日 本志らべ[390-05]
https://city-net.or.jp/htmls/pages/390_05.html

(矢野陽子:防災専門図書館)

索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明

デニス・ダンカン著 小野木明恵訳 光文社 2023 ¥3,200(税別)

 図書館員にとって本の索引はなじみのアイテムである。だが,図書館員でもそれがどのように誕生し,現在に至っているのかあまり知らないのではないだろうか。私もその一人であった。
 本書は,書物史の専門家である著者が古代から現代にわたる索引の成り立ちと,それに関連する多数の書物を紹介し,索引史とともに西洋書物史としても読めるものである。
 索引が生まれる以前,巻子本の時代に索引の並べ方を決めた重要な発明があった。それは,古代アレクサンドリア図書館のカリマコスが作成した『図書目録』の著者名にアルファベット語順が使われ,後の索引語順へとつながっていったことだ。
 13世紀には大学教育と托鉢修道会の出現により,講義や説教のために書物中を素早く効率的に検索することが求められてくる。そこで生まれたのが人名・地名など事項索引でおなじみの主題索引と,文中の単語を見出し語とする用語索引である。15世紀にはページの番号を印刷した索引があらわれ,「グーテンベルクの時代の次の世紀には,あらゆる種類の本に索引が登場」(p.129)し,現在のウェブページの索引へとつながっていく。
 索引にまつわるエピソードも随所にちりばめられている。17世紀のイギリスの二大政党時代には,相手を嘲笑するために敵対する党派の出版物の索引を作って互いに争った。また,小説には索引がないものだが,ルイス・キャロルは『シルヴィーとブルーノ』で巻末に索引をつけた。逆に巻頭に索引がある小説も同時代に現れた。シャーロック・ホームズはあらゆることを思い出せるように犯罪記録の索引帳を作っていたこと等々,興味深い話の数々が,読者を飽きさせない。
 巻末には本文をコンピューターで自動生成した膨大な数の索引と,索引家作成の適度な数の索引がある。両者の違いを見つけるのも楽しい。

(秋本 敏:元ふじみ野市立図書館)

中高生のための「かたづけ」の本

杉田明子,佐藤剛史著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2014 ¥940(税別)

 以前勤めていた高校で,ビブリオバトルに参加予定の生徒と私の5人で練習をした。生徒が紹介した4冊は自分では選ばないものばかりで、どれも面白く,紹介した生徒のことを思い返したりした。唯一ノンフィクションだったこの本を紹介した生徒は,はたして「かたづけ力」は身についただろうか。トレーニング継続中だろうか。
 紹介した生徒は,自分は「かたづけ」ができないので「かたづけ」についての本を読んでみた,と言っていた。そういう気持ちが,この本を手に取るきっかけ,という人は多いだろう。
 著者は序章で,「かたづけ」が,実は「本当は楽しいこと」,「自分の『好き』を知る」,「自分の夢や希望に近づく」,「自分の思い通りに,自分の空間,時間,人生をつくり上げること」(p.ix)だと言う。「えっ,そこまで言う?」との感想を先読みしたように,「びっくりされた方,本当かどうかチャレンジしてみてはどうでしょう。」(p.ix)と続く。
 著者は,自分でモノを選ぶ力をつけるための練習に重点を置いて,「練習」しましょう,と繰り返す。失敗OK,どんどん練習しましょう,と。
 収納デザイナーとして,いろいろなところで行ったかたづけ指導の事例も紹介し,かたづけの手順を示す。「かたづけトレーニング」の手順は,「出す」「分ける」「選ぶ」「収める」の4つ。すべてはかたづける本人が決める。練習に必要な4つのチカラは,「時間」「体力」「想像力」「覚悟」。
 十代よりも大人になってからのかたづけトレーニングが大変なことにも納得。十代のうちに読みたかったと少しだけ思い,親になる前にこの本に出会っていたら,子に「かたづけなさい!」という言い方以外の方法が身についていたかも,とも思う。でも,今からでも遅くはない。

(池沢道子:神奈川県立平塚ろう学校図書館)

限界ニュータウン 荒廃する超郊外の分譲地

吉川祐介著 太郎次郎社エディタス 2022 ¥1,800(税別)

 公共図書館に勤務していると,どこの地域にどれくらいの人が住んでいる…と把握しようと努めるが,その先の集落やかつて開発・分譲された土地の今の姿を見落としがちである。
 著者は自身の結婚を機に千葉県の郊外で物件探しをする中で,かつて開発・分譲された地域の空き地の多さに驚く。訪問した分譲地や団地の現状と問題点を紹介したブログを開設するようになるのだが,調べれば調べるほど,さまざまな問題を抱えていることがわかる。かつて「ニュータウン」といわれ分譲されてきた地域でも,当時から交通の便は悪かった。近くに商業地や学校,病院などインフラ施設もなく,わずかな買い手しかつかず住宅がぽつぽつと点在するだけだった。限界集落ならぬ,限界ニュータウンと呼んだ。
 もはや管理会社も存在しない看板が朽ちたまま放置されたところもあるなど,不動産の問題も一筋縄ではいかない。草木が伸び放題で荒れた地は,不法投棄も増え悪臭も漂うところもある。自治体もすべてを把握するのは難しい。ただ,こういった地域にも人々は住んでいるのである。
 大きな災害が起こったとき,このような地域は特に復旧が難しいと2022年の福島県沖地震を例に著者はいう。たとえば私設の水道設備が壊れた場合,修繕費の負担が大きく,容易にできないのだ。
 本書は千葉県北東部の地域を中心に調査され書かれているが,この限界ニュータウンのような場所は全国に存在する。行政サービスも図書館サービスも,こういったまちの現状を認識したうえでさまざまな計画を立てたり事業を行えたりしているだろうか。「図書館とまちづくり」という言葉が聞かれて久しいが,あなたは本当にこのまちを知っているのかと,問われているような1冊だった。

(村上さつき:松戸市立図書館,日本図書館協会認定司書第1089号)

歴史を読み解く城歩き

千田嘉博著 朝日新聞出版(朝日新書) 2022 ¥910(税別)

今,空前の城歩きブームだ。城の楽しみ方は広くて深い。天守や櫓などの建築物に関心を持つ人もいれば,石垣や堀といった土木建造物が気になる人もいる。深みにはまってくると建物がまったく残っていない城跡や,地面のわずかな窪みを心から喜べるようになる。
本書において城郭考古学者である著者の千田氏は,日本の城にとどまらず,世界で共通する城のかたちに着目し,そこから見えてくる人類史上の城の普遍性について言及している。
特に印象に残った城を本書の中からいくつかあげる。武田信玄が本拠地とした躑躅ヶ崎館は対面と居住空間を分けた主殿,常ノ間などの御殿が軒を連ねた「室町時代以来の武家儀礼に則った理想の館」であった(p.65)。領国の境には屈強な軍事要塞を築いた信玄が,本拠には山城でなくわざわざ館を選択することで甲斐源氏としての正当性,守護大名としてステータスを印象づけようとしたことを著者は指摘している。
もう一つの例として神戸市の兵庫城をあげる。この城は興味深いことに豊臣秀吉の毛利攻めに際して,「兵庫城本丸の出入り口が二つ並ぶように改造していた」(p.165)。館の正面に正門と通用門を並べて作るのは室町時代の最も格式が高い館のあり様であり,おそらく織田信長の進軍に際して臨時の御座所として用いるためだったと著者は推測している。城を読み解くことで,その城を築いた武将の考え方や人となりが見えてくる。信玄の誇りや秀吉の信長に対する気づかいを私は感じられた。
城歩きの楽しさは文字資料ではわからない歴史を体感できることだと思う。城は性別も年齢も関係なく楽しめ,誰もが観察することができる開かれた場所であり研究対象だ。城歩きの入門書として本書を紐解き,歴史を読み解く面白さを感じてほしい。

(壬生あかり:高知県立図書館)

ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く

室橋裕和著 辰巳出版 2020 ¥1,600(税別)

 テレビやネットで多文化共生,多様性といった言葉を目にすることが多くなったが,その意味を本当にわかっている人はいったいどれくらいいるだろうか。
 本書は,コロナ禍真っ最中の2020年夏までの一年間,実際に新大久保に住んだ著者が,外国から来て新大久保で働く人,留学生,もともと住んでいた人たちが何を考え,どう暮らしているかを取材し,まとめたものである。それぞれの文化の違いから起こる軋轢や葛藤,新大久保の歴史,ここまで進んだ多国籍化の過程などがデータとともに書かれていた。そんな箇所は読んでいて緊張したが,日本人以上に日本人ぽい外国の人の話や,江戸時代から伝わる大久保つつじをみんなで育てている小学生の話には,笑みがこぼれた。
 この街のいろいろな出来事を経験してきた住人が「わかりあえる部分はたくさんあると思うんだ。歩み寄れる。日本人も外国人も,お互いいなきゃ困るんだ。」(p.366)と,語る場面には,こちらの胸も熱くなった。
 私は2021年春に新宿区立大久保図書館で働くことになり,地域の人々への支援方法について参考にしようとそんな気持ちで,本書を手にとった。しかし,読んでいくうちに支援する側とされる側に区別することは間違っているなということに気付いた。
 ちなみに,新大久保はご存知のとおり,エスニックフードの街だ。美味しいランチには事欠かない。たまに観光地価格に当たると,私のお財布は少々痛む。それでも,この街を知りたくて,お昼は外に繰り出している。
 もし,あなたの街にいろいろな国の人が住むようになったら,『ルポ新大久保』を読んでほしい。本当の意味での多文化共生や多様性のヒントがこの中にはあるからだ。

(新井三枝子:新宿区立大久保図書館)

花山院隊「偽官軍」事件 戊辰戦争下の封印された真相

長野浩典著 弦書房 2021 ¥2,100(税別)

 「偽官軍」として明治新政府により処断された草莽(在野)有志の隊「赤報隊」の顛末はよく知られている。昭和前期,作家長谷川伸による労作『相楽総三とその同志』の上梓以降,その悲劇性から文芸・映像作品の題材にされ,平成期には人気漫画『るろうに剣心』(和月伸宏著)作中で描写されたため若い世代にも認識が広がった。だが赤報隊以外にも偽官軍として処断された草莽の隊が,維新史の裏面になお埋没しているのである。
 本書が追究する「花山院隊」は,偽官軍事件の第一号として記録される部隊だ。同隊に関しては,戦前の郷土史家の著作や,戦後一部の学術書で言及されるに留まり,全容が窺い知れる文献に乏しかった。本書は,その渇をいやす待望の書だ。
 花山院隊は豊前豊後の草莽を中心に結成。公卿の花山院家理を盟主に戴き,現大分県宇佐市で挙兵した。幕府陣屋を襲撃し牢獄から思想犯を解放するなど,フランス革命におけるバスティーユ襲撃に通じるような行動を見せた。摂取した金穀を被災民に分配するなど民心の獲得にも努めるが,明治政府軍によって討伐,自身を官軍として疑わなかった隊士たちは絶望の中で討死し首謀者は梟首された。高札には「盗賊の所業」と記された。
 著者は如上の行跡を史料から丹念にたどり,さらに九州各地で相次いで発生した騒動が,花山院隊による一貫した討幕行動であったことを明らかにした。これら諸事件は今なお各自治体史で別個の暴動として扱われており,今後九州全土を俯瞰した見直しが進むだろう。
 明治維新は,吉田松陰の思想「草莽崛起」を継承する志士たちによって遂行された。その彼らが為政者となるや草莽の弾圧を始めたのはなぜか。本書は単に一地方史の記録に留まらず,「明治維新とは何か」という本質的な問いに示唆を与える基礎文献だ。日本近代史の棚に備えておきたい。

(家入義朗:くまもと森都心プラザ図書館)

ザ・ママの研究 増補新版

信田さよ子著 新曜社 2019 ¥1,400(税別)

 実際に起こった事件のルポルタージュとして2022年に出版された『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩著 講談社)を読んで,思い出されたのがこの本である。
 この本は,題名のとおり母親を研究して「母親」と良い関係を作るための方法を教えてくれる。著者はカウンセラーとして長年活躍し,DV,虐待,家族関係に関する書籍などを多数出版している。一貫して,「母親と距離を置くことは悪くない」「もっと楽しい関係を生み出そう」というメッセージを発している。子どもが母親とより良好な関係を築けるようにするための手引書ではあるが,現在進行形の子どもだけでなく,大人も自分の過去と今を振り返ることができる。私自身,内なる子どもと母親の両方の立場で読んで,二重に心が痛くなった。自分の家族関係を新たに見直したい人にもおすすめの一冊である。
 ママ研究は,まず母のタイプを7つに分類する。「超ウザママ」「スーパーポジディヴ・パーフェクトママ」「かわいそうママ」「夢みるプチお嬢」「ツンデレ小悪魔ママ」「フツ~すぎママ」「恐怖の謎ママ」だ。自分の母親のタイプがどれなのか,他にはどんなタイプがいるのかとあれこれ思考するうちに自分と母親を少し切り離して考える目が開かれる。次に,母親を観察して不思議リストを作って言語化する。そうやって自分の母親を対象化し,客観的に捉えるための方法が具体的に示されていく。
 本書は2010年に出版されたものに「パパ」と「ばぁば」研究が加わった増補新版である。ママ研究に関しては旧版が出版されてから13年を経ているが,古さを感じない。一方,「パパ」は旧来の典型的な父親像なのが気になるところ。ここ10年で父親の役割はだいぶ変化したという体感があるのだが,それが社会的な現象として数十年先には現れてくるのか,気になるところである。

(合屋月子:小林聖心女子学院ソフィーセンター)

転職学 働くみんなの必修講義

人生が豊かになる科学的なキャリア行動とは

中原淳,小林祐児,パーソル総合研究所著 KADOKAWA 2021 ¥1,600(税別)

 タイトルを見たとき「転職って学問になり得るのか!」と驚くと同時にとても興味が湧いた。私には転職経験があり,友人から転職すべきか相談されていたこともあって,何かヒントを得られればと読み始めた。
 本書は,離職,転職,新たな組織への定着という「転職にまつわる一連のプロセス」を探究した,とても珍しい本である。これからの労働市場を生き抜くために,誰もがその実態を知ることが必要だと著者は言う。
 「転職学」は12,000人のインターネット調査モニターを利用した大規模調査(2019年~2020年)を基にしている。簡単なセルフチェックから職場への不満レベルや離職意向の高さが数値でわかる。
 著者は,人が転職を決意するのは,職場の「不満」からではなく,職場の不満が「解消されない」ことを悟り「転勤の決定」「心身の健康の悪化」「同僚の退職」「知人からの転職の誘い」といった「最後のダメ押し」が重なったときだと指摘する。さらに,転職には「抵抗感」もつきまとう。現在の労働環境を変えることにより,心理的にも物理的にも負荷やストレスがかかるからだ。大いに頷きながら読んだ。
 本書は科学的にアプローチされていて,理解が難しいと感じる部分も否めないが,転職には方程式がある等,興味深い内容の連続だった。
 読後,身近な人に「転職学って知ってる?」と聞いてみたが知っている人はいなかった。「転職学」という稀有な学問を知っていると思っただけで何だか嬉しくなってくる。転職すべきか悩んでいた友人にも紹介したら「そんな本があるんだ!」と驚いていた。果たして読んでくれたかな?

(小林はつき:公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館)

キャンサーロスト 「がん罹患後」をどう生きるか

花木裕介著 小学館(小学館新書) 2023 ¥900(税別)

 日本人は二人に一人が生涯どこかでがんに罹患する。自分や自分の身近な人ががん患者になる可能性は誰にでもあるのだ。病気としてのがんは多様で個人差があるが,薬の副作用による整容の変化,再発の懸念等,長期にわたる心身や経済的な負担は大きい。2006年にがん対策基本法が制定され,医療技術の進歩により,仕事や市民生活を送りながら治療を続ける患者も増加している。厚生労働省や医療機関は,がんに伴ういわゆる「びっくり退職」を防ぎ,がん患者の就労を継続するためのキャンペーンを行っている。2020年度からは小中高等学校でのがん教育が始まった。
 本書の著者は「(一社)がんチャレンジャー」代表で,働き盛りでがんに罹患した経験を持つ。「キャンサーロスト」とは「キャンサーギフト」の対義語で,がんによる喪失を指す造語である。仕事や家庭責任を持つがん患者へのインタビューを中心に構成されており,個々の闘病後の仕事,キャリア,家族等への思いが率直に語られ,産後のマミートラックに例えてサバイバートラックという言葉で表現される。
 筆者が病院司書として特に印象に残ったのは,信頼できる情報へのアクセスの重要性である。近年,市民の課題解決支援の一環として健康・医療情報コーナーを設置する公共図書館が増えている。身近な公共図書館で,標準治療を解説した『患者さんのための胃がん治療ガイドライン』(金原出版)等の最新版や地域のがん相談支援センターの情報が提供されることで助かる人も増えるだろう。そして本書は医学や闘病記コーナーだけでなく,働き方改革やビジネス書の棚にも置いてはどうだろうか。がん患者だけでなく身近にいる職場の上司や同僚,家族・友人や一般市民にこそ手に取ってほしい一冊である。

(佐藤正惠:千葉県済生会習志野病院医学図書室・患者図書室司書,ヘルスサイエンス情報専門員)

エネルギーをめぐる旅 文明の歴史と私たちの未来

古舘恒介著 英治出版 2021 ¥2,400(税別)

 エネルギーに関する本というと,私のように専門外の人間にとっては専門的でとっつきにくい印象があったが,本書を読んでその考えは一変した。
 本書はエネルギーの切り口から物事を捉えることを「旅」になぞらえ,人類とエネルギーの関わりをたどっていく。人類史における5つのエネルギー革命として,火・農耕・蒸気機関・電気・人工肥料を挙げているが,それぞれについて,宗教,歴史,物理学,化学,経済学,そして哲学といった幅広い分野とエネルギーを結び付け,わかりやすく解説している。その着眼点の面白さは『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を彷彿とさせる。
 本書は,最終的に気候変動問題やエネルギー問題への対応についても言及している。コロナ禍により世界経済がほぼ停止した2020年4月上旬,一日の推定二酸化炭素排出量は2006年当時の水準まで減少したという。一方,パリ協定で定められた長期目標は,産業革命以降の平均気温上昇を2℃未満(努力目標は1.5℃未満)に抑えることである。この実現のためには,2050年時点の二酸化炭素排出量を,2006年当時の排出量の3分の1程度まで抑えなければならない。この事実を読んだとき,非常に絶望的な気持ちになったが,著者はそれでも持続可能な社会のために私たちにできることは何かについて示唆を与えてくれる。それは再生可能エネルギーの普及等の技術革新ではなく,エネルギー消費量を抑制しようとする私たち一人ひとりの意思である。エネルギーを獲得したいという際限のない人間の欲求に逆行する考え方のようだが,エネルギーを大量消費する現代の社会が私たちにとって本当に幸せな社会なのか,今一度問い直す機会でもある。
 私たちの「旅」の目的地はどこなのか。この難題に私たちは正面から向き合わなければならない。

(冨樫和行:東京都立中央図書館)

概説西洋政治思想史

中谷猛,足立幸男編著 ミネルヴァ書房 1994 ¥3,000(税別)

 西洋の政治思想史の本は他にもあるのに,30年も前の本を持ってくるのはなぜという人もいるだろうが,私が買った本は2011年時点で13刷もしていた。格調高い文章で,単なるテキストというだけでなく,味わって読める名著だ。ただ,高校の倫理や世界史の知識くらいはないと,読むのは骨が折れると思う。なぜ,この本を読もうと思ったかと言うと,この本は西洋政治思想における重要な著作を,丁寧に説明しているからだ。私は,香美市立図書館に勤めるようになってから,この図書館が数年前までは資料費が非常に少なかったため,子どもの本と家事の本と小説以外の蔵書が十分でないと感じ,いろいろな分野の基本的な著作をあらためて調べているのだ。
 政治に大きな影響を与えた重要な著作がわかるので,図書館員には特にお薦めである。もちろん,この本が出版された1994年以降の本は別途調べなければならないが。もうひとつ,図書館員だからこそ薦める理由がある。図書館員は,公共図書館が民主主義の砦であると言う。しかし,古代の大哲学者のソクラテスもプラトンもアリストテレスも民主主義なんか糞みそ言っている。彼らにとっては,民主主義など衆愚政治である。
 つまり,無知の知を知らない無知が暴れまわるのである。だからこそ,図書館員は,民主主義が理想的なものとなるには,哲人政治と言うよりも,すべての人が哲学者になれるように知識資源たる図書館を整備することを目指すのである。
 この辺を図書館員が自覚しないと,公共図書館なんか,不要不急の金の無駄遣いと思われる。それこそが,まさに無知そのものなのだが,無知というのは罪ではないが手ごわい悪なのだ。無知の知というのは,知らないことがまだあるということを知っているということだが,同時に,無知とは何かを知るべきだという含意もあるのだ。

(山重壮一:香美市立図書館)

古代中国の日常生活 24の仕事と生活でたどる1日

荘奕傑著 小林朋則訳 原書房 2022 ¥2,200(税別)

 子どもの頃からの好きな本に『三国志演義』がある。約1800年前の古代中国の戦乱の歴史を小説化したものであるが,そこで描かれている事柄は,戦争や政争など,私にとっては非日常的である。ただ,そのような戦乱に明け暮れていた時代でも,「演義」には書かれていない日常を送った人々が多くいるはずである。
 本書では,『三国志演義』で描かれる時代よりもさらに200年ほどさかのぼった約2000年前の設定で,「最新の考古学研究から得られる知見と,従来の歴史資料の研究成果を組み合わせる」(p.11),という試みが為されている。本書は,1日を1時間ごとに分けて,その時代の24の仕事と生活の一部分を切り取って物語にしているのだ。なので,もちろん順番に読み進めるのが最良であるが,目次を見て,興味があるエピソードから読むのもまた良いだろう。読んでいて驚くのは,2000年前においても,現在と同様,多種多様な職業や生活があることだ。
 本編は,午前0時に医者が甥の息子のために薬を投与する話から始まり,深夜23時の古参兵が病気と戦う話で語り終える。そのなかで,伝書使(でんしょし)を主人公としたエピソードが興味深かった。伝書使は,馬に乗って,文書を運ぶ仕事をしている。あるとき,豪雨による堤防の決壊が起きて,大規模な洪水を防ぐため地元当局に知らせる必要が出てくるという話がある。馬は,雨と泥のため,約20km進んだところでバテてしまい,主人公も怪我を負うが,彼を目撃した兵士に助けられ,文書は目的地に届けられた。当時の人と人の絆に心が温かくなる。
 本書では,日常に生きる人々の持つ不安や不満が描かれているが,2000年後でも変わることのない思いやりの歴史もまた感じられるのである。

(山田広樹:神奈川県大磯町立図書館)

お金の流れで読み解く ビートルズの栄光と挫折

大村大次郎著 秀和システム 2022 ¥1,500(税別)

 ビートルズの手法を通じて,音楽ビジネス確立の過程を紐解く異色の一冊だ。特に「5人目のビートルズ」とも呼ばれたマネージャー,ブライアン・エプスタインの手腕が冴えに冴えている。
 エプスタインは,ビートルズのデビュー前から1967年の急逝までマネージャーを務めた人物だ。もともとはレコード店の経営者だったが,アマチュア時代のビートルズのライブを見て一目惚れ。すぐレコード店を辞めて,マネージャーを買って出たという逸話が残っている。当初からエプスタインが異色だったのは,メンバーに作詞と作曲を任せたことだ。当時の常識は演奏,作詞,作曲の分業制で,報酬は演奏者と曲の作者に分配されていた。しかしビートルズは,オリジナル曲を自ら演奏することで,桁違いの報酬を得ることに成功した。シンガーソングライターの走りである。また,4人全員にボーカルを任せて,各メンバーへ脚光を当てることにも注力。アイドルグループにも共通するが,魅力的なメンバーが複数いると,ファン層を広げて爆発的人気につなげられるのだ。加えて,エプスタインの豊富な音楽知識が,世界進出を決断する物差しとなった。もともとビートルズの4人は,リバプールの不良少年たちである。プロ志向はあったにせよ,最初から世界進出までは想像できなかっただろう。しかしエプスタインは,レコード店時代に触れた多くの音楽と比較しても,4人の才能が際立っていることを見抜いていた。だからこそ,躊躇せずに世界進出を決断できたのだ。エプスタインの慧眼が,音楽ビジネスの歴史を大きく変えたことがおわかりいただけただろうか。
 著者の大村氏は税務コンサルタントで,お金のスペシャリストである。本書ではプロ視点で,ビートルズの犯したビジネス上の失敗まで鋭く言及している。音楽のみならず,仕事やチームワークを考える一助となること間違いなしの1冊である。

(北嶋大祐:国分寺市立もとまち図書館)

弱い力でも使いやすい頼もしい文具たち

波子著 小学館クリエイティブ発行 小学館発売 2022 ¥1,300(税別)

 たとえば,この本は見開きで置いて読めるのだが,置いてみると「へえ~,押さえなくていいんだ」とわかるように,健常者(便宜上健常者とする)にとってもフツーに便利でやさしい。なるほど便利だ。だが,それはつまり,その作業が実はどれほどたいへんか,ということでもある。
 普段なにげなくできてしまうことは,それがたいへんな人の困難さはわかりにくい。ちょっとケガをしたときに「意外とここ使うんだ」と気づいても,のど元過ぎれば忘れるもの。しかし,ある人には,そのたいへんさ,不便さは,ずっと続くし,なんなら困難さが増していくのだ。
 と言っても,著者の波子さんはそのたいへんさを言っているのではない。開発に携わったひとに感謝し,ただ誰かの「ちょっと不便」がこれらの文具でラクになることを願っているのだ。私たちは,いかに複雑でさまざまな機能を使いこなしているか。自分の体しかり,モノしかり。そこから丁寧に解き明かしつつ,なにがどう困るのかを考え,どこがどう違うのか,実際に試された文具たち。モノがただ自立して立つだけでその作業は格段にラクになるなど,それを使うとどう助かるかもわかりやすく書かれている。
 困難を抱えた人にやさしいモノは,たいていの人にやさしい。文具に興味がなくても,誰にとっても優しい社会を考えるツールでもあるのだ。
 自分が,家や職場で自分と一緒に過ごす誰かとが,少しでも快適に作業するための文具を選ぶもよし,ただ読むだけでもよい。この本には,かわいかったり,楽しげだったりする文具たちが紹介されている。それも,素直な気立てのいい文章と,波子さん独自の工夫を重ねた撮影で。筋力が低下していく中,それを受け止め,できることを大切にしておられる波子さんの文章は,読むだけで心地よく,写真には文具愛があふれている。

(前田幸子:島根県西ノ島町コミュニティ図書館)

理数探究の考え方

石浦章一著 筑摩書房(ちくま新書) 2022 ¥860(税別)

 2018年改訂の高校の学習指導要領は「戦後最大の教育改革」とも言われており,その改革の一つとして新科目「理数探究基礎」「理数探究」が掲げられている。
 本書は,数学的思考能力や自分で納得のいくまで調べるという生き方がこれからの社会に必要であり,それが「探究」で培われることと,教えられる教育から自分で学ぶ教育への転換の本質について,新科目「理数探究」と「サイエンスコミュニケーション」を題材として,多様な事例を通して紹介しているものである。
 「探究」は,数学と理科の知識や技能を総合的に活用して主体的な探究活動を行うもので,これまでにない画期的な科目とされる。
 日本の子どもたちは,先生に言われたことをするだけで,自分で何かを調べようとしないことや,中学校あたりで,論理でものを考える物理や数学が嫌いになってしまうことを著者は問題点として認識している。文部科学省のスーパー・サイエンス・ハイスクール(SSH)事業で探究的な学習を高校生に実施したところ,これらの問題点を解消し得るよう生徒の能力が向上したことから,この「探究」の取り組みの重要性を主張している。
 また,「探究」の授業の具体的イメージがつかめるよう実際の探究の授業例をいくつか挙げるとともに,理科教育の重要性を,対照実験や,相関的研究といった実験のデザイン,フェルミ問題を解く能力など具体例から説明している。
 さらに,科学的に考えることの重要性に鑑み,サイエンスコミュニケーションの必要性について,その歴史とサイエンスカフェなどの実践例を紹介している。
 図書館は,この「探究」を社会人がするための拠点の一つであることから一読をお薦めしたい。

(米田 渉:成田市役所,日本図書館協会認定司書第2052号)

マッピング思考

人には見えていないことが見えてくる「メタ論理トレーニング」

ジュリア・ガレフ著 児島修訳 東洋経済新報社 2022 ¥1,800(税別)

 物事を大局的に捉えるには,視点を変える必要があるのではないか。もっと俯瞰して物事を見ることができるようになりたいと考えていたところに出会ったのが本書である。本書では,偵察隊のように目の前にあることをありのままに捉え,地図を作るように俯瞰的に考える思考を「マッピング思考」と名付け,その思考を定着させるための方法が紹介されている。
 物事をありのままに捉えることは,一見簡単にできそうだが,実は難しい。なぜかというと,人間にはこうありたいという動機や信念が存在し,無意識のうちにこれらに基づいて物事を見るからだ。信念に反する事実がそこにあっても,自分を守るために捻じ曲げて捉えてしまう。これでは,現実と正しく向き合うことができない。
 どうしたら自分を守る思考に左右されずに物事を見ることができるのか。そもそも人間は完璧ではない。新しい情報を得て考えを変えることで精度を高めていくことができると著者は言う。自分の意見に比重を置きすぎず,こだわりを捨て,視点をしなやかに保つことができれば違う意見をくもりなく見ることができる。
 俯瞰的に物事を見るには,自分の意見に固執しがちな人間の性質を知っておく必要がある。自分が守りの思考に陥っていないか常に疑いつつ,マッピング思考で物事を捉え,間違いを修正しながら生きていくマインドセットが身につけば,今よりも生きやすくなるような気がしている。

(古澤理恵:熊本県大津町立おおづ図書館)

監視カメラと閉鎖する共同体 敵対性と排除の社会学

朝田佳尚著 慶應義塾大学出版会 2019 ¥4,000(税別)

 鉄道車両で乗客が襲われる事件が相次いだことを受け,2023年6月に国土交通省は利用者数が一定の水準を上回る地域で鉄道車両に防犯カメラ設置を義務付ける方針を決めた。
 既にその名称からも防犯上必要不可欠なツールとして認められているように思えるが,本書における商店会の監視カメラ設置の過程から明らかになるのは,自己撞着する当事者による語りだ。設置を最初に提案した理事が最後まで確認できない事例や,外部からもちかけられた助成金が発端となり,何らかの不安に後押しされて設置計画が進められる様子を当事者へのインタビューを通して明らかにしている。
 監視カメラは設置すればいつかは逸脱行為を撮影することになり,何か問題となる行為が映し出されたときには監視という役割を果たしたとされる一方で,何も事件が起きなければ防犯としての役割を果たしたと説明される。事件が起きれば防犯という役割を果たしていないはずだがその点は無視される。結果が妥当なときは受け入れ,問題のあるときは論点をずらすことで監視カメラは必ず効果のあるものになる。当事者たちの語りを読むと,身の回りにも似たようなことがあるのではないかと不安に陥るほど,その語り口は饒舌だ。
 同時には成り立たない二方向の解釈を成立させる機制を,アフリカ中央部に暮らす部族が行う卜占(ぼくせん)の事例に類似性をみる著者独自の視点も面白い。さまざまな解釈が可能な映像から問題の場面のみ反復して映し続ける監視カメラは,「卜占以上に卜占らしい装置」(p.127)と指摘する。
 地域社会における監視カメラ設置をめぐる「反省なき自己撞着」(p.169)を指摘する一方,目的化した監視カメラ設置を反省的に捉え直す動きを包含していることを指摘する本書は,よくある監視社会批判とは異なり考えさせられる一冊だ。

(新屋朝貴:公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館)

自分をたいせつにする本

コンテンツの追加...服部みれい著 筑摩書房(ちくまプリマー新書) 2021 ¥920(税別)

 「自分をたいせつに」という言葉はよく聞くが,「じゃあどうやって,たいせつにするの?」と問われると,具体的な方法はほとんど知らずに大人になったことに気づく。
 本書はその「自分をたいせつにする」方法について10代向けにやさしく解説された本であるが,「私たち大人こそ知っておいた方がよいのでは?」と思わずにはいられなかった。私は昭和生まれ,田舎育ちだが,「自分をたいせつにする」方法なんて親や学校からも教えられたことがない。それどころか逆に,「自分に鞭打って厳しく」「がんばらなくてはいけない」「迷惑をかけてはいけない」と教え込まれてきた子ども時代だった。幼いころから,著者の言うところの「自分風(じぶんふう)」の着ぐるみを着つづけ,世間の価値観や固定観念でダルマ状態になり,自分を大切にせぬまま大人になったような気がする。
 そんな大人のために(または若者がそうならないように),本書では「自分をたいせつにする」ための具体的な方法やワークが豊富に紹介されている。どれも身近で簡単な方法ばかりである。特にページ後半の「からだをたいせつにする」「こころをたいせつにする」「わたしをたいせつにする」の3種類のワークは必見。悲しく大変なときこそ,自分が自分の味方(拠り所)でいよう,自分を見つめ直そう,と思えるようになるから不思議だ。
 著者は,「ひとりひとりが自分をたいせつにして,ほんらいの自分に戻ることが,自然やまわりの人をたいせつにすることにつながる」(p.15)と説く。「自分をたいせつにする」ことは,利己的,自己中心的なものではなく,むしろその逆であり,自然環境や社会が大きく変化している今だからこそ必要なのだと。私も著者のように心地よく変わりたい,と強く思った。そして必要な人があれば,本書を手渡していきたいと思う。

(高橋和加:鳥取県立鳥取東高等学校)

差し出し方の教室

幅允孝著 弘文堂 2023 ¥2,900(税別)

 「人が本の場所に来ない時代」に「人がいる場所へ本を持っていく」ことを提案し,ブックディレクターとして活躍してきた著者が,選んだ本をどう差し出すかについて考えた1冊。前半は本に限らず,“差し出すこと”のプロフェッショナルとの対話,後半は自身の仕事を振り返る。最良な状況は,「読め,読め」という圧を感じさせることなく「気がついたら読んでいた」という状況を作ることだという幅さんの言葉には共感しかない。
 動物園の使命は動物を見ることの楽しさや,見ることで新しい発見に気づいてもらうことだという。「動物」を「本」に,「見る」を「読む」に置き変えれば,共通項が見えてくる。たとえば動物園で最も人気のパンダ舎をどこに置くかで人の流れは変わる。また,コアラのケージの前に座り心地のいい椅子を一脚置いてみると時間の過ごし方が変わる。生態を見ることで問いが生まれる。
 Web世界を熟知するプロの現在の関心事は,デジタルとフィジカルの融合だという。すでに視線はデジタルvs紙の対立構造を超えた先にある。ひとり一台の端末の時代となった学校では,調べることは端末で行う児童・生徒が増えるのは当然のことだろうが,すべてネットの情報で事足りると思っている教員も少なくない。学校司書の私は思う-デジタルとフィジカルが融合する場所として「学校図書館」ほど最適な場所はない。
 名ソムリエは,ワインの前で自分をどれだけ消せるかが大事だという。司書もその本の魅力を声高に伝えるだけでは,生徒の心には届かないことを知っている。病院の待合室につくった本棚は,本=良きものという暗黙知を壊し,読んでも読まなくてもいいという距離感を大事にしている。
 「読め」という圧から解放され,気分しだいで自由に本を手に取れる空間は居心地がいい。「あらゆるコンテンツを扱うスマホ」vs「本」ではなく,そこから「本」につながる回路を探したい。

(村上恭子:東京学芸大学附属世田谷中学校)

文明開化に抵抗した男佐田介石 1818-1882

春名徹著 藤原書店 2021 ¥4,400(税別)

 人物について調べ,評伝を書いてみたい,と相談をされたときに紹介できる本として,頭の中にストックされたのが本書である。情報が限られた人物であっても,丁寧な調査により479ページという分量になること,当該人物に肩入れしすぎず観察する姿勢を保つこと,現在から過去を見つめる視点と,その人が生きた時代に寄り添う視点を合わせ持つこと。先人の著作から切り貼りして感想を添えるのが研究ではないということを,改めて教えられたようだった。
 本書で「孤独な異端者」と紹介された佐田介石は,文政から明治まで,まさに文明開化の時代を生きた僧侶・思想家である。書名にあるとおり,文明開化に抵抗し「天動説」や「ランプ亡国論」といった保守思想を貫く様子には,滑稽なようで笑えない,何とも言えない寂寥のようなものが感じられる。この時代,矛盾や問題を抱えながらも,市井の人は社会の変化を受け入れざるを得なかったのだろうことは想像に難くない。そこで大勢になびかずに,自分の考えを開陳する人物,それが佐田介石だった。彼の不可思議な保守思想を目の当たりにした人は,文明開化の「過渡期を生きる者の宿命ともいうべき不安」を見せつけられたような気分ではなかったか,という指摘には,はっとさせられた。現代において,LGBTQ,同性婚,選択的夫婦別姓などを受け入れがたいとする人の言動に触れたときの感覚に似ているかもしれないと。
 巻末には関連地図,系図,年譜,佐田介石建白一覧,佐田介石著作一覧も付されており,今後の研究者にとってありがたいギフトも揃っている。文明開化について調べている方にも紹介できるように,覚えておきたい本である。

(山下樹子:神奈川県立図書館)

うんち学入門 生き物にとって「排泄物」とは何か

増田隆一著 講談社(ブルーバックス) 2021 ¥1,000(税別)

 ブックトークや読み聞かせで「うんち」をテーマにした本を取り上げることが何度もあった。聞き手は必ず「え~,うんち~?」と声をあげ顔をしかめるが,瞳を輝かせて耳がダンボになる。そして「うんち」談義が始まるのである。生物である限り排泄は必須,生きている証拠である。
 本書は動物生態学や遺伝子学を説いた単なる解説書ではない。「うんち」とは何かを考えるために生物,個体,同一種集団,他種,環境にとっての「うんち」の役割,相互関係等,「うんち」にまつわるさまざまな事柄について,ストーリー性を持たせ解りやすく著している。うんちの起源に始まり,生態系の中での役割を細胞レベルや分子レベルを語り,物質循環へと結んでいる。誰もが理解しやすいようにテーマである「うんち」自身が「うんち」について考え語りかけている。
 著者の目的は何だろう,と読み進めていくうちに,「第5章 環境にとっての『うんち』」のなかで,食物連鎖の上位にいる生き物ほど,たくさん「うんち」をする(p.199),「うんち」は生き物にしかつくることができない(p.219)に触れた。植物は草食性動物に食べられ,草食性動物は肉食性動物に食べられる。その肉食性動物をヒトは食べる。ヒトは食物連鎖の最上位ではないか。生き物のあり方を考えることができるのはわれわれ人間だけではないかと納得した。
 「食育」という言葉が教育分野で重きを置かれるようになって久しい。食したものを排泄する仕組みはともかく,排泄物の生態系への役割を取り上げ「うんち育」に取り組んだ事例はないだろう。もし「うんち」から見た生き物のあり方,意義を学べる「うんち育」が教育現場で取り上げられたとしたら,学校で排便ができず気分が悪くなったり,心無い言葉が飛び交ったりしなくなるのだろうか。

(飯田眞佐子:福井県池田町立図書館)

SNSの哲学 リアルとオンラインのあいだ

戸谷洋志著 創元社 2023 ¥1,400(税別)

 私たちが毎日見ているSNSでは趣味,仕事,リアルの付き合いといくつもアカウントを持つ人もいる。この本で述べられているように,その人が好きなもの,関心のあるものだけが出てくるアルゴリズムで,そのアカウントごとの世界が形成される。アカウントごとに発言内容や言葉遣いまで変えたりして,役者のようにいくつもの自分を生きる気分を味わえる。「あなたは何者?」という哲学的な問いは匿名でも参加できるSNSにこそふさわしいかもしれない。
 たくさん「イイね」をもらいたい承認欲求も,疲れるけれど悪いことではない,と著者は言う。他律性こそが自律性を育む,ヘーゲルの「相互承認」の考え方を示唆する。
 SNS特有の時間の流れをハイデガーに,炎上しかねない言葉の扱いをヴィトゲンシュタインに,偶然の起こらないアルゴリズムをベルクソンの思想に結び付ける。10代にもわかるよう平易に丁寧に解説してあり,好感は持てるのだが,少々難しい。
 そして日本でもSNSのおかげで個人が政治的な意見を表明することがはばかられていた風潮から,ゆっくりと政治が生活の一部になり始めている。#MeTooなど#(ハッシュタグ)で個人同士がつながる連帯が世界を動かし始めている。そこでハンナ・アーレントが紹介される。ナチスが支配するドイツからアメリカに亡命した哲学者。彼女は他者と関わるからこそ,一人一人が別の存在でかけがえのない個性を知ることができると考えた。予測不能な個人の集まりである仲間を「許し」,自分の活動を仲間に「約束」することでSNS上の不安定な連帯は力を得る。組織を介さない新しい連帯の形は,試行錯誤を余儀なくされる。不安もあるが,自律を育て,希望を持って社会に参加していきたいと思わせてくれる。哲学を通じて現在の私たちのあり方を認識させてくれる良書だ。

(眞鍋由比:松蔭中学校・高等学校図書館)

シンクロと自由

村瀨孝生著 医学書院 2022 ¥2,000(税別)

 老いて不自由となった体は新たな自由をもたらす。「時間の見当がつかないことで時間から解放される。」「子どもの顔を忘れることで親の役割を免じられる。」(p.55)
 本書の著者は介護事業所の所長である。本書には,支援される側の老人と支援する側の職員,双方の気持ちを考えながら行われる介護の日常が綴られている。さまざまな状態にある老人を支援する事業所での日々は,介護に対する私たちの意識を改めさせる。そして,予期せぬ方向に進んでいく老人たちと所長のやり取りは面白い。
 介護される老人たちはさまざまなやり方で「わたし」を主張する。食事をしなくなったり,自分を納得させるために作話をしたり。ただ,どの行動もその人がその時と場に応じて積み重ねてきた自分らしさ,他者との関係によって培ってきた「わたしらしさ」からきている。そう考え介護を行うことで,この事業所では老人たちが「わたし」を失くさずに生活できている。
 また,対人援助のスキルを学んでいても,介護する職員も生身の人間である。繰り返される対応に限界がきそうになるときもある。そんなとき所長は,これができれば勝ちとゲーム化して考えるなど心に「ゆとり」を作る。職員には自分が保てないときは逃げていいとも伝えている。そう行動する中で老人に赦されたと感じる瞬間があるのだ。
 本書の後半に,新人職員が夜勤の申し送りをする場面がある。本人にとっては大変な初夜勤だったが,話を聞く先輩職員からは笑いが漏れる。先輩職員も経験してきた道だ。申し送りで大切なことは,自分の気持ちを闇に葬らず外に出すこと。老人の対応に苦慮したときのコントロールできない気持ちを笑って解放させる。ひとりではなく,まわりを巻き込み集団で対応する。介護以外の場面でも同じだと思う。自分の気持ちを腹にため込まず,周囲に語り,笑って成仏させるのだ。

(渡邊桂子:高知県立図書館)

美術作品の修復保存入門 古美術から現代アートまで

宮津大輔著 青幻舎 2022 ¥2,500(税別)

 図書館員として古い資料を扱うようになってから,美術館や博物館で展示される作品の状態を見てその保存や修繕方法等にも興味を持つようになったため,本書を読んでみた。
 この本は,美術作品の修復と保存方法について劣化や損傷の原因から,専門家でなくても理解できるよう解説を加えた入門書である。また,一概に美術作品といっても絵画や立体作品だけでなく,紙作品・資料や「タイムベースド・メディア作品」についても言及している。
 著者の宮津氏は横浜美術大学教授,森美術館理事をされており,世界的な現代アートのコレクターでもある。また後書きによると,「文化やアートに関わるさまざまな人たちに向けて有効かつ,ガイドブックのような入門書を出版したいという長年の思い」(p.171)があり,今回の出版に至ったとのことだ。
 最終章である第6章では,映像やサウンドを含むタイムベースド・メディア作品の保存やその課題について触れている。例えば,映像作品は複製が容易に行えてしまう点や,デジタル・アートのような有形の媒体ではない作品は有体作品と同様の法や権利が及ばないという点などがある。図書館の視聴覚資料でも,記録媒体の破損や劣化だけでなく,再生機器の生産終了により再生ができなくなる問題があり,保存については悩ましい部分が多い。今後,新技術の導入や進歩によりタイムベースド・メディア作品のみならず美術界全体が変化していくと,著者は展望を語っている。
 なお,紙作品・資料の修復については第4章で取り挙げられている。修復の世界において,紙資料に書籍は含まれないとのことだが,カビや虫害,紙の酸性劣化の問題など,図書館員として資料の適切な保存管理を考える上でぜひ知っておきたい分野である。

(鈴木奏穂:東京都府中市立中央図書館)

現地嫌いなフィールド言語学者,かく語りき。

吉岡乾著 創元社 2019 ¥1,800(税別)

 著者は,パキスタンやインドのあたりで使用されている言語の研究者である。
 この本の冒頭には調査地へのアクセス方法が4ページにもわたり書かれていて,そんなことを期待していなかったこちらとしては「なんだこれ?」となる。その前のページには,簡易な地図とそのあたりの言語分布図。平面図を立体に起こすのが苦手なわたしは,本文を読んでようやく,「あぁ,谷単位に言葉が変わったりするんだ」などとわかってきた。ところどころに挟みこまれる「ブルシャスキー語」,「コワール語」など著者が研究している諸言語の基本フレーズは,近接する地域の言語なのにあまり似ていないように見える。そこに暮らす人たちは,自分たちの言葉,共通言語(ウルドゥー語),さらに広域に使える英語と,複数の言語を使って生活しているという。イラストの風景はどこか懐かしくさえ感じるのに,そこに放り込まれたら,複数言語に対応できないわたしとしては,どうしていいか見当もつかない。
 フィールドで協力者を募る難しさとか,日本に情報が入ってこないばかりに,せっかく現地に行ったのに治安悪化で缶詰めになってしまった体験などフィールド研究ならではの話はもちろんのこと,言葉関係のさまざまな話題も取り上げられていて,読み進めるうちにいろいろな知識がついてくる。たとえば,他の言語と血縁関係が“証明”されないと「系統的孤立語」と言われる(ブルシャスキー語は「系統的孤立語」とされている,今のところ)とか,「言語が違う」というのか「方言の違い」とするのかの判断は難しいとか,言語の「消滅」とはどのタイミングを指していえばいいのかも難しい,などなど。
 「言語」や「言語学」というくくりで漠然とわかったような気になっていたものが具体的になってきて,言語はとても“生もの”なのだと知った。

(小野 桂:神奈川県立図書館)

専門知は,もういらないのか 無知礼賛と民主主義

トム・ニコルズ著 高里ひろ訳 みすず書房 2019 ¥3,400(税別)

 なんというタイトルだろう。
 「専門知識は当然必要でしょう! だってこういう理由で…」と感情に任せて反論してはいけない。そういうことはいけないとこの本に書いてある。「いや,そんなもの改めて300ページ近い本を読まなくたって,ネット上で読める文献に知識の必要性なんていくらでも書いてあるでしょ…」と鼻息を荒くしてインターネットやSNSで文献情報を調べ始めてはいけない。確証バイアスを意識せずに持論の裏付けを取る検索をするのは怖いことだとこの本に書いてある。
 著者はアメリカ海軍大学校で教鞭をとる大学教授で,本書ではアメリカ合衆国が直面する反知性主義について分析している。「アメリカ人の基礎知識の低さ」「彼らが学ぶのをさまたげているナルシズムや確証バイアス」「無知を直すどころか肯定している大学業界」「自分たちの仕事はエンターテイメントだと考えているメディア」「怠惰や経験不足のせいでまともな記事を書けないジャーナリスト」「専門外分野に侵入する専門家」…と,アメリカの専門知を取り巻く問題について皮肉をからめながら苦言を呈し,批判する。
 序盤では「このまま反知性主義が進めば『良くない』『憂わしい』『危うい』」と,理由のぼんやりした主張が続くが,ページが残り少なくなってきたあたりで,一気に本書のテーマの輪郭がはっきりと浮き上がってくる。無知礼賛と民主主義。専門家が民主主義社会において果たす役割と,市民との関係性。アメリカ社会が陥っている死のスパイラルからどう抜け出すか。最終章で,その道が提示される。
 「民主主義の砦」「知の広場」とも呼ばれる図書館においても,謙虚に向き合うべきヒントが詰まった一冊である。

(髙橋将人:南相馬市立中央図書館)

鬼と日本人の歴史

小山聡子著 筑摩書房(ちくまプリマー新書) 2023 ¥820(税別)

 「鬼」と聞くと思い浮かぶのは何だろうか。節分の鬼,桃太郎の鬼退治,浜田廣介の童話『泣いた赤鬼』,最近では,マンガ『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴著)といったところだろうか。
 鬼に関する本は今まで数々出されているが,文学作品や伝承をもとにした,古代・中世の鬼や伝承に生き残る鬼についてのものばかりであった。史料に基づいて古代から近現代まで通した歴史を考察し,わかりやすくまとめた本書は,たいへん意義深い。
 中国では,人間は死ぬと鬼になるとされる。その鬼には祖霊として祀(まつ)られる鬼と人に病気をもたらす悪鬼の二種類がある。後者の疫鬼として恐れられる鬼が日本に伝わり,追い払う祭が節分のもとになったと考えられるそうだ。
 中国からだけでなく,密教の思想を通じて,インドの鬼神の観念(餓鬼や夜叉の姿)の影響を受けていることにより,多様な鬼がいる。
 中世になると,モノノケと同等に扱われ,やっつけるものだという認識が広がっていく。一方,体の形状に異常を持って生まれた子を鬼子(おにこ)として,政治や社会の混乱が起こる予兆とされた。また,外見が日本人と大きく異なっている外国人の漂流者を鬼と見なし,海の向こうの島に鬼が住むと考えた。中世後期には,「能」に女性の鬼が多く登場する。女性は現実の社会で弱者であったため,仕返しをすると考えられた。
 近代には実在は信じられていなかったが,鬼の体とされるものは,見世物として盛んに楽しまれた。昭和の太平洋戦争時には,敵国や敵兵を鬼と見立て,残虐性・非人道性を強調して士気を高めた。
 社会のマイノリティを鬼とみなして排除した歴史は,現代社会で問題とされる考え方(人種的・性的・障碍者排除)につながっていると実感した。

(武藤尚子:神奈川県立希望ケ丘高等学校)

日本語の発音はどう変わってきたか

「てふてふ」から「ちょうちょう」へ,音声史の旅
釘貫亨著 中央公論新社(中公新書) 2023 ¥840(税別)

 帯の惹句は「羽柴秀吉は『ファシバフィデヨシ』だった!」。この雑誌をご覧の方は,もしかしたらピンと来るかもしれない(来ないかもしれない)。そう,この発音の根拠は,日本語の辞書の歴史に必ず出てくる『日葡辞書』なのだ。この中世の頃のハ行の発音については,「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」という有名ななぞなぞもある(答えは「くちびる」)。
 目録のヨミを入力するときは「じぢずづ」に気をつけること,いろは歌には「ゐ」や「ゑ」など現代では使わない文字があること,漢字には呉音や漢音など音読みでも複数の読みがあること,古代には今よりも多くの音があり万葉仮名で書き分けていたこと……なんとなく知っている日本語の「音」について,なぜ今はそうなっているのか,そしてそれが昔から(学説などの解釈も含めて)どのように変化してきたのかを,古代から近代まで時系列に沿って丁寧に解説したのが本書である。
 このような言葉や学説の変化には,知識,本,そして読み書きの習慣が,より多くの人々の間に広がったことも,大きな影響を与えている。そのような意味では,日本語の音声史は出版史や図書館史と表裏一体と言えるのかもしれない。
 丹念な研究と幸運な偶然により,数々の発見を積み重ねてきた先人たちの知の営為に,胸の熱くなる一冊である。
 なお本書には,愛知県名古屋市の方言には母音が八つある旨が記載されている。私は現在愛知県に住んでいるが,残念ながら特に意識したことはない。ぜひ名古屋方言話者に本書を読んでもらい,実際の発音を聞かせてもらいたいものである。

(小曽川真貴:中京大学司書課程非常勤講師,日本図書館協会認定司書第1096号)

保育者の源流赤澤ナカ 日本最初の保育所の保母

伊藤充著 ウエストン 2022 ¥900(税別)

 「守孤扶独幼稚児保護会」(しゅこふどくようちじほごかい)は,明治時代中頃に新潟市で生まれた日本初の保育所,赤沢保育園の法人名である。私が幼いころ母の勤務先を聞いたときのこと,その難しい法人名の意味について「親が働いていて独りで留守番しなくてはいけない子どもを守るところ」と教えてくれた。本書は,その創始者である赤澤鍾美(あつとみ)の妻,ナカについて書かれた本である。
 ナカは,郷里の村に二人の子どもを残して離婚,赤澤鍾美と再婚する。鍾美は代々私塾を経営してきた教育家で,勉強の場は静粛な環境であるべきと考えていた。しかし,当時は子守をしながら授業を受ける子どもが多く,教室内は騒々しく勉強できる状況ではなかった。勉強の場を確保するためにナカが別室で幼い子どもを預かる役目を担ったのである。
 当時,保育は「自助」で行うと考えられていたが,彼らは今では当然の考え方である「地域で子育て」「共助」として捉えていた。そして,ナカは「人様の子どもを預かっていることを忘れてはならない」つまり,「人様の子どもを危険にさらしてはならない」という基本姿勢を貫き,その教育課程は今も生き続いているという。ナカは,自分自身の子どもと別れなくてはならなかった経験から,目の前の子どもたちの保母ではなく母になろうとしていたと著者は考える。
 巻末には,当時の保育実績など豊富な資料が掲載されている。それもそのはず,著者の伊藤は,小学校長を歴任し『新潟県県民性の歴史』(新潟日報事業社 2018)等を著わした研究者で,市町村史の執筆に関わる第一人者である。裏付けされた彼の研究による当時の社会状況の中で,日本初の保育所が誕生した必然を,まるで当事者から聞き取ったような鮮明さで語りかけており,ナカの思いに胸が熱くなってくる。

(辰口裕美:新潟市立西川図書館,日本図書館協会認定司書第1167号)

ウェルビーイングな社会をつくる 循環型共生社会をめざす実践

草郷孝好著 明石書店 2022 ¥2,200(税別)

 ここ数年の間に,SDGsのロゴや17の目標のアイコンを目にすることが非常に多くなったように感じる。図書館でも,SDGsに関するコーナー展示を行った例が多くあることだろう。勤務館でも月例の展示で取り上げ,ひとまず「時事に関する情報及び参考資料を紹介し,及び提供すること」(図書館法第3条第7号)に努めた。
 タイトルの「ウェルビーイング」とは,「心と体の健康だけではなく,社会生活の面においても満たされた状態にあること」(p.112)と定義されている。ウェルビーイングの概念は,認知が広まりつつあるSDGsの目標3「すべての人に健康と福祉を」と特に関連が深く,SDGsを達成するために必要となる価値観の物差しといえるだろう。帯には,「対立・分断から協働・対話・共創の時代へ SDGs達成に必要な新しい『しくみ』とは?」と著者の思いが込められている。
 著者は,巻末の紹介によると,世界銀行や国連開発計画などの勤務を経て,現在,私立大学教員を務めている開発経済学者であり,地域共創による内発的な地域づくりや2030アジェンダ(SDGs)を推進する自治体を支援していることがわかる。
 本書は,全9章で構成され,社会の現状を踏まえたうえで,「直面する問題の根本原因を突き止めて,これまでとは違う代替の処方箋を示すことを強く意識」(p.221)して作られている。
 3月に取りまとめられた,中央教育審議会の教育振興基本計画でも,「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」が掲げられている。ウェルビーイングの実現に向けて,図書館が果たすべき役割とはなんだろうか。従前のサービスを省察しながら改善するとともに,今後強化すべきサービスとはどういうものだろうか。そのとき,協働はどのようなかたちが考えられるだろうか。皆で考えてみたい。

(長谷川拓哉:ゆうき図書館,日本図書館協会認定司書第1140号)

二番目の悪者 大型判

林木林作 庄野ナホコ絵 小さい書房 2021 ¥1,800(税別)

 根も葉もない噂が膨れ上がって真実を装い,国を滅ぼすまでを描く本書は,絵本だが情報リテラシーの教材としてもうってつけだ。
 一番目の悪者である金のライオンが,自分が王様になるために銀のライオンの悪口をふれ回り,皆は次第に噂を信じるようになる。皆が言っている,火のない所に煙は立たない……そう口にして,事実を告げる声に誰も耳を貸さない。権力者が自分に都合の良い情報を流すのは世の常。日本でも太平洋戦争下に,不利な戦局も優勢であると報じられたのは周知のとおりである。
 さらに「二番目の悪者」について考えるとき,哲学者ハンナ・アーレントが指摘した「凡庸な悪」が思い起こされる。ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の指揮をとったのは,単に上部からの命令に忠実な凡人であったと,アイヒマン裁判を傍聴した彼女は述べた。思考停止した市民により大いなる悪がなされたのだと。その指摘に当時の民衆は激怒した。自分たちにも非があると,認めたくなかったからである。
 本書はもともと2014年に出版されたが,2021年に大型判(といっても27cm)が新たに刊行された。このタイミングを考えると,コロナ禍での私たちの情報の受け止め方を振り返らずにはいられない。この5月から新型コロナウイルス感染症は「5類感染症」となり,インフルエンザと同じ扱いとなった。しかし当初からコロナは5類相当と主張する専門家はいた。その時,私たちは耳を傾けたか? コロナを恐れた約3年――この間に自殺者や失業者は増加し,貧富の格差は増大した。
 私たちは情報の真偽を自分の目で確かめ,その先に何が待ち受けているかを自分の頭で考えたか? この場合の二番目の悪者は誰なのか? 二番目の悪者であり続けることをやめる鍵,それを本書で確認されたい。

(山本敬子:小林聖心女子学院学習センター)

マチズモを削り取れ

武田砂鉄著 集英社 2021 ¥1,600(税別)

 人間の社会というものはどうしても多数派に都合のいいようにデザインされがちである。
 点字ブロックに当事者には見えないキャラクターが隠れアイテムとして紛れ込んでいたり,ある自治体の支所などは3階建てだがエレベーターがなかったりする。
 しかし気づいたときには修正が行われるのも人間の社会というものだ。点字ブロックは通常の形に差し替えが約束され,エレベーターのない支所には階段にレール付きのイスが設けられている。
 こういった配慮について問題視する向きはほとんどないと思われるが,例えば女性専用車両についてはどうだろう。あるいは痴漢犯罪撲滅への呼びかけについては。女ばかり優遇されている,痴漢といえば痴漢冤罪で人生を破壊される人がいるらしい,そんな本質的ではない対論で問題の解決を目指さずに問題の核を曖昧にしようとする声が少なからず上がっているようには見えないだろうか。社会のデザインの中で不都合を被っている人の問題解決の手段という点では同じなのに,よく思わない意見が多く上がるのは何故か。
 本書では,このような問いから日本社会のシステム隅々にまで埋め込まれているマチズモ(=男性優位主義)を浮き彫りにし,それが故にいかに日本社会が男性に都合の良いものになっているかを示す。またそのために潜在的に女性が押し付けられている理不尽についてデータと取材の両面から検証し,このマチズモを削り取るべしと提言している。痴漢犯罪などのわかりやすい悪はもとより,なぜ結婚を披露するのかなど,一見して大きな問題がないように見える論点からも男性に都合のいい社会の姿が炙り出されていく。
 「当たり前」の心地良さが誰かを踏みつけにして成り立っていると知ってなお現状維持を望むのか,あえて直截に,そして淡々と問いかける一冊だ。

(小田那津子:一関市立東山図書館)

子どもの文化人類学

原ひろ子著 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 2023 ¥1,000(税別)

 図書館に来る親子を見ていると,何でも本を使って教えようとする傾向が年々強くなっているのでは,と感じる。トイレトレーニング,歯磨き,友達と仲良くする……あらゆる事柄について,わかりやすく楽しく子どもに教える本を求められる。そんなことを思っていたところ,この本が目に留まった。1979年に晶文社より刊行された本が,40年以上の時を経て文庫化されたものだ。
 著者は1960年代に北極に近いカナダ北西部に住むヘヤー・インディアンと共に生活し,延べ11か月にわたる実地調査を行った。本書はその暮らしの中で見聞きしたことを,他国の事例や著者自身の子育て経験とも照らし合わせ,社会の中で子どもがどのように育っていくのかを考察したエッセイである。
 学びに関して例を挙げると,ヘヤーの大人たちは,小さな子どもが刃物を持っても見守るだけ。多少の危険があってもあえて手出しをしないことで,子どもたちは自分で試行錯誤しながらさまざまな技術を習得していく。一方,泳ぎに関しては,信仰の理由もあって習得機会が与えられることはない。そのような子どもたちの姿を見て著者が感じたのは,子どもは無限の可能性を持っているということ,子育てとはそれをある方向には伸ばし,別の可能性は抑えてしまう,ということだった。
 また,ヘヤーの人たちには人から物を「教わる」という概念がないという。一方で日本の子どもたちは「教えられる」ことに忙しすぎるのでは,そのことによって自発的に学ぶ喜びを得にくくなっているのでは,と著者は述べている。現在の私たちとは時代も生活様式も全く違うヘヤー・インディアンの人々の学びから教えられることがあると感じた。子どもが好奇心のままに自分のペースで学ぶことを支援する。そのことは,近年ますます重要になってきているのではないだろうか。

(小野寺千秋:東京都中央区役所)

多分そいつ,今ごろパフェとか食ってるよ。

Jamマンガ・文 名越康文監修 サンクチュアリ出版 2018 ¥1,100(税別)

 人生に悩みはつきもの。何かのCMではないけれど,みんな悩んで大きくなった。とはいえ,近年はSNSが普及したことで,今までは考えもしなかったような悩みも増えてきた。そんなときに読んでほしいのがこの本だ。
 著者は心理カウンセラーなどの専門家ではないが,とても悩み多き人で,心理学や哲学の本を読みあさるなどいろいろな方法を試してみたが,なかなか効果が上がらなかった。しかし,ある日友人が口にした何気ないひとことが著者を救ったのだ。それが本書のタイトルになった。この本には,著者が見つけた「嫌な気持ちを引きずらないための考え方のコツ」が,全部で64個書かれている。
 本書は,四つのカテゴリに分けられている。「SNSのモヤモヤ」,「人間関係のモヤモヤ」,「職場のモヤモヤ」,そして「自分のモヤモヤ」だ。紹介されている64個のコツは,そのカテゴリに分類され,それぞれ2ページ(ときどき4ページ)で解説されている。最初の1ページ目に関連する4コマ漫画があり,次のページに著者の考え,そして最後にゴシックの活字でその話題に対応したコツが箇条書きで示される。だから本書は,ページを追って最初から読んでもいいし,目次を見て気になる話題を拾い読みしてもいい。
 最後に,「SNSのモヤモヤ」に関連したことだが,2011年6月からサービスを開始したLINEに「既読」がつけられるようになったのは,小林直樹氏(日経クロストレンド記者)によると,東日本大震災の経験を教訓としているそうだ。あのとき,みんなの安否確認がもっと迅速にできないかという思いがあり,つけるようになった。だから,すぐにリアクションするためにSNSの通知に敏感になったり,既読スルーの友だちをいじめたり,メッセージが返ってこないことにイライラしたりするのは,本末転倒なのだ。

(笠川昭治:神奈川県立茅ケ崎高等学校)

本屋で待つ

佐藤友則,島田潤一郎著 夏葉社 2022 ¥1,600(税別)

 広島の山間部,人口約7,000人の小規模な町にある本屋「ウィー東城店」。過疎化が進む地域において,数々のユニークな試みにより赤字だった店を立て直したのが元店長の佐藤さんだ。
 地域には高齢者も多く,困りごとがあれば本屋にやってくる。電気機器の修理から年賀状の印刷まで,利益度外視で相談や要望の一つひとつに丁寧に耳を傾け,解決策を一緒に探る姿は熟練のレファレンサーさながら。コツコツと信頼関係を築いていくうち,本屋はさまざまな役割を担うようになる。美容室の併設,敷地内のコインランドリー,化粧品や文具の他に食品を取り扱うなどなど,地域に根差した複合書店へと徐々に進化していく。
 また,不登校になった子のバイトの受入先となることだってある。コミュニケーションを図るのが苦手で,なかなか仕事に慣れない彼らに対して佐藤さんはすぐに成果を求めない。相手の気持ちを尊重し,動き出すのをゆっくりと待つ。そして,数人を社員として登用し,ついにはそのうちのひとりに店長の仕事を潔く引き継いでしまった。
 「ぼくは昨日よりもよい店づくりをしたいし,一週間前よりも風通しのいい会社をつくりたい。そうすれば,従業員たちはもっと気持ちよく働けるはずだし,お客さんもウィー東城店をもっと気に入ってくれるはずだ。」(p.131-132)と佐藤さんは言う。その言葉の先には確かな希望が見える。
 地域の中で困りごとを抱えた人たち,学校や社会になじめない人たちを取り残すことなくあたたかく迎え入れ,心の拠り所となっている本屋が実在する。その事実は図書館の持つ可能性をも広げてくれるものであり,働く者たちに大きな刺激をもたらすだろう。よりよい明日のために自分は今何をすればよいか,何ができるのか。本屋の話ではあるが,図書館のこととして置き換えて読み進めてみてほしい一冊。

(矢野亜希子:熊本県菊陽町図書館)

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

メアリ・ノリス著 有好宏文訳 柏書房 2021 ¥2,000(税別)

 書店でこの鮮やかな表紙を目にしたとき,なんと力強く,魅力的なタイトルだろうと思った。真剣なまなざしでゲラを見つめ,鉛筆で鋭くカンマをうつ女性の姿が,目に浮かぶようだった。
 私は外国の出版事情にも詳しくなければ,英語ができるわけでもない。それでもこの本を薦めたいのは,一度でも言語に興味を持ったことのある人ならば,あるいは文章の読み書きを楽しいと思った経験がある人ならば,共感し,感嘆し,楽しめる内容だと感じたからだ。
 著者のメアリ・ノリス(Mary Norris)は『ニューヨーカー』誌で働く校正者だ。30年以上にわたって記事のゲラを読み,言葉と向き合ってきた。本書では,誤植やスペリング,句読法や文法の疑問点が,校正上でのさまざまなエピソードを交えて書かれていく。著者のユーモラスな文章を楽しみつつ英語の文法や記号の正しさを味わえる,ある種文法書のような側面も魅力である。
 英語ゆえのおもしろさもあるが,日本語ではどうだろうかと考えて読むのも楽しい。句読点ひとつで意味が変わる文章,誤用のまま広まっている慣用句の扱いの難しさは英語だけの話ではない。(たとえば「5章 カンマは気まぐれ」に引用される「We invited the strippers, JFK and Stalin.〈われわれはストリッパーたち,J・F・ケネディとスターリンを招待した。〉」(p.125)のおもしろさは,日本語の読点でも起こり得る。)
 なお,本書の原著タイトルは『Between You & Me: Confessions of a Comma Queen』(2015)で,ベストセラーとなった。なぜ「ここだけの話」(Between You & Me)なのか。オリジナル版では表紙に大きく書かれているこの慣用句の意味も,本書を読めばわかるはずだ。

(髙橋茉由理:東京都立中央図書館)

ヌシ 神か妖怪か

伊藤龍平著 笠間書院 2021 ¥1,600(税別)

 あるとき,父が話してくれたのはよくある昔話だった。雨を降らせてくれた者に娘をやる,と約束した長者が,大蛇に娘を嫁がせることになる。大蛇は娘を背に乗せて川を遡る。父は言った。「お父さんが小さい頃は,大蛇が川を遡った跡が白い筋になって川の真ん中に見えていたんだ」と。
 日本には「ヌシ」がいる。池に,湖に,沼に,淵に。「ヌシとは,長いあいだ同じ所に棲み続けて,巨体になった生物のこと」(p.5)だと著者は言う。皆さんも一つや二つは「ヌシ」らしき存在を思いつくだろう。だが,「ヌシ」に相当する言葉は英語にも中国語にも存在しない。
 この本には著者が各地の伝承を渉猟して集めたさまざまな「ヌシ」が登場する。人を襲い,敵対するヌシもいれば,逆に助けを求めてくるヌシもいる。人からヌシになるものもいれば,ヌシが人になることもある。ヌシは常に人との関わりの中で存在し,時に境が曖昧になる。日本人は自然を征服する対象としてではなく,畏れ敬ってきたという話を聞いたことがあるが,本書を読んでいると,人と自然との相克の歴史の中にヌシの姿が立ち上がる。ヌシはいつまで日本にいてくれるのだろう。
 タクシー幽霊や怪獣とヌシの関係など,後半はやや焦点がぼやける感はあるが,「ヌシ」研究の端緒を開いた点は意義深い。著者も「本書はヌシ論の序説か覚書」(p.260)という。今後が期待される。
 「川に残っていた白い筋」は「ダムができてから見えなくなった」と父は言う。それでも山道を3km歩き,急な斜面を登った先に,あの大蛇の住む池は今もある。以前訪れたそこは,5分もあれば一周できるような小さな池だった。水はとても澄んでいるのに,すぐに濃い青緑色に沈み,底しれない深さばかりを感じた。
 あの池には今もきっと,ヌシと娘が静かに暮らしている。

(河合真帆:鎌倉市腰越図書館)

柚木沙弥郎のことば

柚木沙弥郎,熱田千鶴著 木寺紀雄写真 グラフィック社 2021 ¥2,000(税別)

 「その人」が話す言葉には,「その人」が現れる。言葉は「その人」そのものではないけれど,「その人」を構成する大きな要素であることは間違いない。
 この本は編集者である著者が,柚木沙弥郎という人の今を,その語る「ことば」で描こうとした本である。柚木沙弥郎は日本を代表する染色家の一人であり,人間国宝だった染色家芹沢銈介の弟子,民藝運動の牽引者,昨年100歳を迎えてなお精力的に活動するアーティスト,と少し書き出しただけでも大見出しだらけの人。たくさんの写真とともに,著者は柚木と出会った2012年から2020年までの「ことば」を読者と共有していく。
 「世の中がどうなろうと,現実から目をそらさず,身の回りから自分が楽しいと思えることを発見すること。(中略)その対象はなんだっていい。それに,いつからはじめたっていいんだよ。僕だって物心ついたのは80歳になってからなんだから」(p.83)。2019年に開催された「柚木沙弥郎の『鳥獣戯画』」展について書かれた章で,著者が最後に引用している柚木の言葉である。なんて優しい大先輩からの励まし!
 なんだか頑張れそうな気持ちになって読了し,まだ少し名残惜しくて冒頭に戻る。すると最初に読んだはずなのに,柚木手書きの「はじめのあいさつ」が鮮やかな口絵の作品とともに目に入ってくる。「私の語った断片を紡ぐうちに次のようなユノキの人物像が浮かんでくるのです。変身をくりかえし そのたびに肩の力が抜けてゆき 幸せの手ごたえを感じながら仕事を楽しんでいる 今を生きる人」(p.21)。なんでそれ柚木先生本人が書いちゃうの…。しかし,そういう「ことば」を選んでまとめた著者に対する,ひいてはこの本を手に取った自分よりも若い人たちに対する,柚木のあたたかい眼差しが感じられる1冊である。

(齋藤五月:仙北市立田沢湖図書館)

揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義

鎌田浩毅著 KADOKAWA(角川新書) 2022 ¥940(税別)

 大きな地震が起こるたびに,学者や専門家の方々がその地震のメカニズム,原因などを解説し,情報が発信される。それらを見聞きして,「あれっ,以前の地震の時に解説されていた内容と違うような気がする」と,ハテナがとんだまま消化不良で過ごしていた。ところが,この本を読み進めると,地震には「海の地震」と「陸の地震」があり,仕組みや構造が違う。火山の噴火のメカニズムには三つのモデルがある。というふうに基本的なことから解説が始まり,私のハテナが,どんどん解消されていった。
 本書は,近い将来(2035年±5年)に起こると予測されている「南海トラフ巨大地震」について,その予測の根拠を記し,生き残るための準備の必要性を述べている。
 また,東日本大震災の影響で,火山活動が活発になり,その最たるものが富士山だという。富士山噴火により,私たちの生活,社会の仕組みや自然に対し予想される被害を,火山灰・溶岩流などの要因ごとに説明している。
 著者は,命を守るには,各々が思想・知識・教養を養うことで,自らができることを探り,さらに世界に発信できる人間にならなければならないと述べている。そして,地球という巨大なものを考えるとき,地球が生まれてから46億年という,日常生活をはるかに超えた時間軸で捉えることも必要だと説いている。
 人と本をつなぐことに関わっている者は,利用者の知的欲求を満たして,人格を高め,人生が豊かになってほしいと願って1冊の本を手渡していると思う。しかし,「生きていること」が何より大事。著者の「みんな死ぬなよ」(p.8)という願いを1人でも多くの人に伝えなければと思った。

(城野裕紀子:京都府立鳥羽高等学校)

麒麟模様の馬を見た 目覚めは瞬間の幻視から

三橋昭著 小野賢二郎監修 メディア・ケアプラス 2020 ¥1,600(税別)

 認知症=アルツハイマー型認知症と思われがちであるが,著者はレビー小体型認知症であり,症状がパーキンソン病に似ているところや「幻視」が見える等という症状がある。本書はその幻視をイラストにして,日記のように書き残し,認知症当事者の心境を綴った体験記である。
 著者はほぼ毎朝,わずかな瞬間,「幻視」を見るようだ。カラーのときもあれば白黒で見えるときもある。幻視はとてもユーモラスなのである。その日の幻視の説明と著者の心境が短文でまとめられ,幻視にさまざまな種類があることを知った。
 2019年に認知症と診断される前からすでに体調の変化としてパーキンソン病の症状があり,医療機関で検査をして,診断結果はレビー小体型認知症であった。その後,診断医の勧めで地域活動に参加し,認知症の方々と接する場面があった。 参加者が認知症とは思えず生き生きと前向きに社会参加している様子を見た。著者は認知症と診断されたから人生が終わりではないことを教えてもらったとのこと。そして今でも積極的に地域活動へ参加している様子が本書からうかがえる。
 本書の中で特に印象に残るのは,自分が認知症と思いたくない時期を乗り越え,「『無理して普通の人? の振りをする必要もないし,社会におもねることも全く必要ないなぁ』ということです。幻視が見えるって素晴らしいことではないですか。」(p.151)という一文。自分の認知症を受け入れ,「幻視」をポジティブに捉え,認知症のことを広く市民へ発信している点である。そして,本書を出版することで同じ症状の方の参考になればと締めくくられている。
 先日,著者本人にお会いし,本書から読み取れる素晴らしい人柄を改めて感じることができた。

(舟田 彰:川崎市立宮前図書館)

きょうから使おう英語で熊本弁 in English

武田修幸著 熊本日日新聞社発行 熊日出版発売 2022 ¥1,200(税別)

 本書は,これを読んだ若人に「英語と熊本弁と共通語ば話しきる,バイリンガルな熊本県人」(本書「おわりに」より)になってほしいという,筆者の熱い思いが込められた一冊だ。
 方言を英語に訳そうとすればまず,その単語が共通語で何というかを考えねばならない。「ううばんぎゃ」「ぎゃん」「あとぜき」…。熊本弁で「ううばんぎゃ」といえば,意味も「ううばんぎゃ」なので,本書では英語訳と共通語訳が併記され一目でわかる構成となっている。例えば「ううばんぎゃ」は「careless」で「おおざっぱ」。知的好奇心をくすぐられるし,話者を集めてクイズでもすれば盛り上がりそうだ。職場でいくつか披露したところ,皆ああだこうだと賑わった。さらにありがたいことに,例文にも共通語訳がつき,英語のアクセントも太字で表記されている。難しい漢字も少なく,小学校の英語学習など,子どもから大人まで幅広く利用できる図書だ。
 さて,本書のような資料は方言話者が多い地元にあってこその資料だろう。なぜ全国向けの記事で取り上げたのか。それは,地元を離れた人にこそ,郷土の情報を届けなければいけないのではと思う出来事があったからだ。最近立て続けに退職して天草へ戻ってきたという利用者の対応をした。「若いうちに離れたので地元のことを何にも知らない,だから地元のことを知ることができる本はあるか」と同じような質問を受けた。離れても地元のことを知りたい人はいるのだという当たり前のことを失念していた。郷土の図書を手に取ったことで郷愁からUターンを考えてくれるかも…とまではさすがに言わないが。
 郷土資料といえば流通も限られている印象だが,本書は幸いにも入手しやすい。もし貴館の利用者に心当たりがあれば,この機に購入を検討していただければ幸いである。

(芥川奈緒美:天草市立河浦図書館)

宇沢弘文 新たなる資本主義の道を求めて 今を生きる思想

佐々木実著 講談社(講談社現代新書) 2022 ¥800(税別)

 宇沢弘文は,戦後日本を代表する経済学者である。およそ50年も前に書かれ,自動車を便利に使うのには社会的な費用がかかっていることを論じた『自動車の社会的費用』(岩波新書 1974)を読んだという人は多いかもしれない。
 本書の著者は,宇沢に師事したフリージャーナリスト。その86年の生涯を追った,簡便だが重要なポイントを押さえた伝記となっている。
 宇沢が本格的に経済学に取り組むのは,1956年米国へ渡ってからのこと。複数の大学で研究に没頭し,最先端の経済学者となった。シカゴ大学では同僚だったM.フリードマンの提唱する「市場原理主義」と対決している。またベトナム戦争には断固反対の立場を貫いた。弱い者の側に立つということが宇沢の姿勢だった。米国での研究生活の描写は,同僚だった高齢の学者に直接取材するなどかなりリアルに迫ってくる。
 1968年,日本へ帰ってからは,とくに水俣病について東大助手宇井純らに教えを乞いながら取り組み始める。人々の声を聞くために現地を訪ね,「行動する経済学者」(p.81)と言われた。
 「宇沢弘文はこれから再発見されるべき経済学者であり,思想家なのだとおもう」(p.126)と著者は述べているが同感である。新しい資本主義像が求められている現在,宇沢の歩んだ道を検証することは,深い意味を持つ。まず読んでみるのには最適な一冊だ。
 同じ著者が『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』(講談社 2019)という638ページもある分厚い本を書いている。これを近くの図書館で,本書刊行の前に見つけたのだが,大部すぎて手にはしなかった。それを今読んでいる。図書館では,新書を読み,そして大部のものへとつなぐことができる。図書館があって良かった。

(大塚敏高:元神奈川県立図書館)

みんなが手話で話した島

ノーラ・エレン・グロース著 佐野正信訳 早川書房(ハヤカワ文庫) 2022 ¥1,080(税別)

 本書は,文化人類学者である著者がアメリカ合衆国ニューイングランドにあるマーサズ・ヴィンヤード島でのフィールドワークをまとめたものである。
 この島では,二十世紀初頭まで,二百年以上にわたり遺伝性聾(ろう)が高い発生率を示した。そのため島民は,聞こえる聞こえないにかかわらず,子ども時代に英語と手話の二言語を自然に習得し,手話が日常生活に溶け込んでいた。聾者は,言語的に不自由がないため,健聴者と同様に育ち,結婚し,生計を立て,政治に参加し,あらゆる仕事や遊びに加わっていた。
 「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」(p.28)と当時を知る島民が話すように,この島において,聾はハンディキャップではなかった。
 聾の子どもの語彙取得率は,その子どもが手話を使用する際には,5歳頃まで千語以上と,健聴の子どもと変わらない。これに対し,手話と接する機会を持たない聾の子どもは,わずか数十語にとどまる。ヴィンヤード島で育った聾者は,島で日常的に手話が使われたため,健聴者と同程度の語彙を取得していたと考えられる。それどころか,聾者は聾学校へ通うため,貧しい島においては,健聴者より教育を受ける期間が長く,健聴の隣人より教育程度が高いことも多かった。そのため,健聴者が聾者の知識を頼る場合もあったという。
 著者が「ハンディキャップとはそもそも,それがあらわれる共同体によって規定されるものではないだろうか」(p.26)と述べるように,本書は,障害とは何か,共生社会とはどのようなものかということを私たちに問いかけ,同時に人間社会における言語の重要性も伝えている。「第5次障害者基本計画」が策定される今,本書を共生社会についてもう一度考えるきっかけとしてほしい。

(佐藤真紀:南相馬市立中央図書館)

トランスジェンダー問題 議論は正義のために

ショーン・フェイ著 高井ゆと里訳 明石書店 2022 ¥2,000(税別)

 トランスジェンダーとは,生まれた性と性自認が異なっている,または落ち着かない,もしくは違っている人を指す(p.11)。英国,日本とも人口の1%未満(p.28,p.393)と言われているため見えない存在と思いがちだが,高校では制服についての申し出がきっかけで当事者を知ることが多く,世間より認知度が高いと思う。そのため当事者視点の本だけでなく,社会的な視点からの本を探していたときにこの本を知った。
 英国のトランス女性が,国内のトランスジェンダー当事者たちのさまざまな社会問題を,幅広い調査を基にして明らかにした作品だ。社会を混乱させる加害者としてイメージされるトランスたちが,実際はどのように差別を受け虐げられてきたのかを描き出している。家庭の拒絶,学校や職場,国家からの差別。LGBTの中における差別。トランス女性は家の外部から虐待やハラスメントを受けるのに対し,トランス男性は家の中での被害が多いこと。就職にも苦労するし,就職できてもトランスであることがわかるとハラスメントを受けたり,失業する確率も高い。それは貧困やメンタルヘルスの問題につながる。にもかかわらず,メディアに取り上げられるのは主張できるだけの基盤を持った比較的恵まれた環境にある層のトランスであり,有色人種や障害を持つトランスが出てくることはないという階級の問題も取り上げている。
 何度も繰り返し主張しているのは,これはトランスたちだけの問題ではない,ということ。プロローグの冒頭で著者は述べる。「トランスジェンダーが解放されれば,私たちの社会の全ての人の生がより良いものとなるだろう。」と。あらゆる差別の構造は同じだからだ。
 訳者解説が章ごとに日本の状況と比較しているので,並行しながら読むことをお勧めする。

(穂積絵理子:埼玉県立大宮高等学校)

ポリティカル・コレクトネスからどこへ

清水晶子,ハン・トンヒョン,飯野由里子著 有斐閣 2022 ¥1,800(税別)

 この本は,性的マイノリティや障害者,レイシズムに関する分野を研究する3人の著者によって書かれた章と,著者たちによる鼎談を記述した章で構成されている。鼎談の部分は,白熱した議論でありながらその場のリラックスした雰囲気が伝わってきて読みやすく,それぞれの問題についての理解の助けになる。
 タイトルにある「ポリティカル・コレクトネス」(以下,「PC」)は直訳すると政治的正しさとなるが,著者は,差別や正しさに関する「社会的な望ましさ」「共有された倫理」という視点を重視している。それゆえにPCは差別されてきた側だけではなく「不特定の他者の尊厳を傷つけないための知識」であり「マジョリティとマイノリティ間のコミュニケーションの糸口である」と解く。少数派の人を差別してしまうことは個人の思いやりの問題ではなく,知らず知らずにそうなっている社会の構造が問題なのだと。
 「誰とでも仲良くしなさい」というのは子どものころ叩き込まれた言葉であり,私も同級生を差別していた記憶はない。しかしそれは,差別が「ない」ことが前提になっている日本の常識がそう思わせていただけかもしれない。私が好んで観てきた映画の世界でも,さまざまな少数派の人々が苦悩してそれを乗り越えていくようなストーリーが多いが,PCの視点で意識したことはなかった。何が正しいのか,何が差別なのか,自分にできることは何かあるのか,そもそも少数派にだけ配慮するのでは足りないのではないか,など各人が自分で考え続けることの必要性に気づかされる。
 巻末にある索引には,初めて見る言葉が多かったが,豊富な注と和やかな筆致に助けられながら読み進めると,PCが持つ多面的な意味について次々に理解が深まっていく快感がある。

(齋藤なぎさ:宇都宮市立東図書館)

子犬の絵画史 たのしい日本美術

金子信久著 講談社 2022 ¥2,600(税別)

 子犬と聞くと,どんなイメージを持つだろうか。本書は,江戸時代を中心に子犬画の魅力について知ることができる。
 そもそも子犬画が生まれたのは中国で,十二世紀には子犬を描いている画家が現われた。それが朝鮮にも伝わり,日本に入ってきたという歴史があるそうだ。
 こうした子犬画をまねたのが,江戸時代の画家たちである。画家たちが描いた子犬は,丸みがあって,触るとふわふわしているように見える。著者は「まるでマンガのような,絵の中限定の魅惑のキャラクターだ」(p.12)としている。確かに,写実的な子犬とは違う部分もあるのだろう。しかし,そのかわいさは本物である。本書では,多くの子犬画が紹介されている。
 円山応挙は,十八世紀後半の江戸時代中期の画家だ。円山応挙の「雪柳狗子図」では三匹の子犬が描かれている。そのうちの一匹は転んでいて,別の一匹は,もう一匹の上に前足を乗せている構図となっている。その表情がなんともかわいらしい。子犬の表情やじゃれ合う様子が生き生きと描かれている子犬画は,いつまでも見ていられる。三匹のまとまりのない様子も,子犬の無邪気さを感じる。ほかにも子犬たちが集まって寝ている様子の子犬画など,楽しい。
 円山応挙だけではない。長沢蘆雪の「狗子遊図」には,表情の違う子犬が複数匹描かれているが,どの子犬も個性があってかわいい。
 また,子犬がモチーフになっている彫刻や工芸,染織なども紹介されている。江戸時代に「絵手本」(えでほん)と呼ばれる犬の描き方のお手本があったことなども興味深い。
 子犬は,時代をこえて人々に愛されているということを感じられる。子犬画の魅力がたっぷりつまった一冊である。

(吉澤瑠美:川越市立中央図書館)

モアイの白目 目と心の気になる関係

小林洋美著 東京大学出版会 2019 ¥2,700(税別)

 本書は雑誌『眼科ケア』(メディカ出版)に連載されているエッセイをまとめたものである。そう聞くと眼に関する医療的な情報でも詰まっているのかと身構えてしまいそうになるが,本書は医学書ではなく「もともと論文を読むのが好きで,日々楽しく読んでいる」(p.ii)という著者が,自らに「目に関する研究」という縛りを設けたうえで「ニヤニヤしながら読んだ論文」(p.ii)を紹介する,科学エッセイというよりは論文紹介エッセイだ。そして目や視線,顔や表情に関する研究は,医学ではなく基礎心理学に当たる諸学問を網羅している。
 例えば私たちは「嘘をつくときに人は目をそらす」ということを,なんとなく経験則で知っている。研究者は「目がどの方向にそれたら『嘘をついている』と感じるのか」「目をそらされると『嘘をついている』と感じるのは何歳からなのか」と,さまざまに検証する。その実験を考えついた研究者はきっと,自分が知りたいと思ったことをきっちり知るために,ワクワクしながら実験の準備をしたことだろう。そんな熱量が伝わってくる。
 また,それを紹介するための著者の文章が良い。嘘をつくときに目をそらす事例として出てくるのが漫画『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子著 講談社)であったり,問題提起として挙げられるのがテレビショッピングの販売員であったりする。好奇心が刺激されること,すなわち学びのきっかけは生活と地続きであることを,ゆるやかに教えてくれているようだ。
 本書に付されたNDCは141.2なのだが,目に関する研究は心理学ばかりでなく動物行動学にも及ぶ。いっそのこと002.7に分類してもいいのかもしれない。内容ばかりでなく実験方法もユニークなこれらの研究が,いつの日か「イグ・ノーベル賞」に輝く日が来るのを心待ちにしている。

(中川裕子:岐阜県立岐阜農林高等学校)

徳政令 中世の法と慣習

笠松宏至[著] 講談社(講談社学術文庫) 2022 ¥1,000(税別)

 「永仁の徳政令」は学校で習ったと記憶している方も多いはずだ。永仁5(1297)年に鎌倉幕府から出された法令で,最も有名な条文の一部を要約すると「御家人(幕府と主従関係を結んだ者)が立法時点以前に売却した土地は本主(売却した御家人)に無償で返還させる」というものだ。
 当時は立法の事実を人々に周知する制度が無かったにもかかわらず,この法令は異例な速さで全国に知れ渡ったという。それは何故か。本書はこの疑問を出発点に永仁の徳政令を取りまく中世社会について,その「社会的環境の実態を,いくらかでも解明しよう」(p.42)と書かれた本である。
 実はこの法令自体に「徳政」の言葉は出てこない。しかし御家人だけが得をする法令にもかかわらず,人々はこれを「仁徳ある政治」という意味の「徳政」と呼んだ。著者はこの一見ちぐはぐな通称に,中世の人の「もの」の所有に関する考え方という視点から,目が覚めるような鋭い考察で切り込んでゆく。中世徳政の本質を指摘する本書の山場の一つである。さらに著者は永仁の徳政令以前の法令や社会状況を考察し,この徳政令が出るに至った経緯を辿ってゆく。現代とは全く異なる裁判制度や民衆の慣習法も取り上げられており,新鮮な驚きとともに中世社会を知ることができる。
 歴史に思いを馳せるとき,昔の人も私たちと同じように物事を考えていたと思いがちだ。しかし本書は「法」を通して,700年以上前の中世人と現代人の考え方の違い,その一端を鮮やかに描き出している。
 原本は1983年刊の岩波新書で,本書の解説によると品切れの時期も長くあったようだ。私は歴史学を学んでいた大学生のとき教授から手渡され,夢中で読んだ。学問としての歴史の面白さに目覚めさせてくれた思い出深い一冊である。この文庫化を機に,再び多くの人の手に届いてほしい。

(小林沙織:福島県立相馬高等学校)

化石の復元,承ります。 古生物復元師たちのおしごと

木村由莉監修 ブックマン社 2022 ¥2,000(税別)

 レストランなら調理場,図書館なら書庫など,利用者が入ることができないバックヤードが好きだ。博物館,美術館などの展覧会では展示そのもの以上に,収蔵品の管理や展覧会がどのように企画運営されているのかに関心がある。なので,2022年開催の国立科学博物館特別展「化石ハンター展」の展示作成現場に立ち会わせてくれる本書をワクワクしながら読んだ。
 展覧会を監修する古生物学者には熱い想いがある。ロマンあふれる化石発掘をテーマに胸躍る展示を作りたい。哺乳類が氷河時代の厳しい寒さに慣れ,進化した鍵はチベット高原にあるという発掘が生んだ新説を紹介したい。そのためにも目玉となる展示が欲しい。そこで,新説を裏付けた太古のサイ「チベットケサイ」の骨格レプリカと生体模型を復元してゆく。古生物の復元には,本書副題の「古生物復元師」という単独の職業はなく,3DCGクリエイターや模型職人など各分野の多様なプロフェッショナルたちが集結する。そのプロたちの学術的根拠に基づく設計や造形の職人技など,各々のこだわりの結晶がバトンパスされ骨格や生体として形になってゆく過程に興奮した。
 古生物の復元ばかりでなく,展示プランナーや空間デザイナー,博物館企画展示担当者,主催者など展覧会を企画運営する側の仕事にも光を当てている。今回の展覧会は,展示プランナーがアイデアノートに2007年にメモした構想が,数多の協力を経て2022年に実現したものだという。
 本書は,恐竜や古生物が好きで携わりたい人に,研究者以外にもその分野に関わる多くの魅力的な仕事があることを教えてくれる。最後のコラムで紹介される「書籍編集」もその一つだ。本書担当編集が手がけた『もがいて,もがいて,古生物学者!!』(同 2020)もまた,読者に古生物研究のリアルとその豊かな世界を届けてくれるだろう。

(藤本昌一:名古屋市港図書館)

歌うま本 上手くなるのは意外と簡単だ

いくみ著 実業之日本社 2022 ¥1,300(税別)

 ある放課後,ふらりとやってきた彼女。長椅子に腰かけて手持ち無沙汰な様子。「待ち合わせ?」と声をかけると「う~ん,約束はしてないけど,誰かいるかと思って」。
 ちょうど図書部が『折り鶴クラフト』(森本美和著 講談社 2020)を参考にして来館者参加型の折り鶴アート企画を始めたところだったので,「鶴,折ってみる?」と誘うと,「え,折ったことないけど出来るかなぁ」。「じゃあ一緒に折ろうか」と,しばし折り紙タイムとなった。
 軽音部の練習をBGMに手を動かしながら,「…このごろ時々『マリーゴールド』歌ってるのが聞こえてきて,私あいみょん好きだから嬉しいんだ」と話すと,目を丸くして「うわっ,それ,私!」。そこで「そうだったんだ!ちょうど,いい本あるよ」と出したのが『歌うま本』。
 人気の20曲の歌い方のコツがオールカラーで見やすく載っており,QRコードから動画も視聴できる。鶴を折り終えた彼女に渡すと,「わぁ,すごい良さそう~,私,ここ,こぶし入れてなかった…」と熱心にページをめくる。「他のもいろいろ歌うよ,Adoとかも…あ,それもある!」。そして「…私,本借りるの初めて」と少しためらったあと,それでも結局,本を抱いて帰った。
 この種の本は,呼吸や姿勢など基本技術は変わらなくても,曲が古くなると寿命が尽きてしまう。でも逆に選曲が良ければ利用されやすい。この本はヒット曲ごとに写真入りで歌唱テクニックが解説されていて,難しい練習は抜きですぐに使える。YouTuberの本だが,編集後記によると動画は全てフルコーラス撮り下ろし。
 彼女は後日,友達と一緒に来館し,「ねえ,この前,司書さんと鶴折ったんだ~」と,今度は友達に教えながら折っていた。きっと歌のほうも上達するに違いない。

(横山道子:神奈川県立藤沢工科高等学校)

古都鎌倉で30年間続いた!伝説のビデオレンタル店から学ぶ遠隔経営術

田中博子著 セルバ出版発行 三省堂書店,創英社発売 2022 ¥1,500(税別)

 私の生活圏では,ここ数年でレンタルビデオ店が急激に減ってしまった。同じ情報媒体を貸すサービス業なので,図書館員としてレンタルビデオ店の現状はどうなのか,多少なりとも気にはなっていた。
 そんなときに,この本が新刊の情報を見ていて目に止まった。鎌倉にあった店舗のことも,著者のことも知らなかったが,読んでみることにした。
 著者は,鎌倉の駅前で小さなレンタルビデオ店を30年間も経営してきた。業界で表彰されるほどの優良店舗だったが,田中氏は月に一度程度しか顔を出さない遠隔経営をしていたという。「なぜ,そんなことが可能なのか?」と誰しも思うが,その大きな理由はPOSの活用にあるという。POSとは会計のレジ機能に,商品や顧客のデータの収集・管理などの機能を付与したもので,コンビニなどでおなじみだ。データをどうやって駆使するのか,閉店したから書けることとして,数値をこう分析してこう使ったと,体験談を交えてわかりやすく説明している。素人目にも「ここまで書いて大丈夫?」という部分にまで踏み込んだ内容であった。
 この店舗では商品を紹介するPOPの作成にも力を入れていた。「POPはこう書け!」というコラムから一部を紹介すると,なぜ貸し出しランキング上位に入っているのか,理由を書くと客の滞在時間は長くなり,客単価も上がったという。また,新商品に添えるPOPは,発注のときにメモを書いておくと,悩んで発注した熱い気持ちが思い出されてよいのだとか。
 このような店舗がなぜ閉店せざるをえなかったのかも本書に書いてある。図書館員としても示唆に富む内容であった。

(高田高史:神奈川県立川崎図書館)

電車は止まらない

松本時代著 芸術新聞社 2022 ¥2,300(税別)

 本書は,写真家である著者がバングラデシュに滞在し,電車の屋根に乗って移動する男たちを撮影したルポルタージュである。
 まず目を引くのが,表紙に収められた少年たちの写真だ。彼らは走行中の電車の屋根の上で,進行方向を見つめている。風に膨らむシャツや,残像として写し取られた周囲の風景が,電車の速度を物語る。著者いわく,彼らが乗っているのは「まるで時代を飛び越えるタイムマシン」(p.5)だ。
 バングラデシュはインドやミャンマーと国境を接するアジアの新興国で,今まさに急激な経済成長の最中にある。貧国からの脱出を目指す政府は,貧困の象徴ともいえる違法な乗車客に対し,排除の動きを強めている。著者が滞在した2018年からの1年半の間にも法規制は進んでおり,人々が車体の外に乗って移動する光景は失われつつある。本書は,そんなバングラデシュの転換期を切り取った記録なのである。
 著者は電車の屋根の上で撮影を続ける中で,恐喝に遭い,怪我を負い,そして同乗者の死にも直面する。車体の外に乗る行為は,違法であるだけでなく,当然危険でもある。スリルを求めて屋根に上る乗客もいるというが,命を落とす者は後を絶たない。
 著者によるエッセイには現地での体験が熱い言葉で綴られ,写真もあくまで主観的だ。そしてそれが本書の大きな魅力となっている。身を寄せ合う少年たち,屋根に寝転がる青年,すれ違う車両に乗った仲間に相図を送る人,エルヴィス・プレスリーよろしく踊り狂って咆哮する青年――。危険と隣り合わせの状況で生き生きと振る舞う彼らの姿が,同じ屋根の上からでしかとらえられないものであることは言うまでもない。
 私たちと同時代に生きる彼らを乗せて,時間は止まらず走り続けている。貧困という根深い問題を示唆しつつ,読者を心揺さぶる旅へと誘う1冊。

(佐藤志帆:白河市立図書館)

あいまい・ぼんやり語辞典

森山卓郎編 東京堂出版 2022 ¥2,200(税別)

 他者との円滑な人間関係を築き,関係を維持していくためには,自分の意図・感情を相手に正確に伝えるスキル,相手の意図・感情を正確に読み取るスキルという基本スキルが必要となる。日常のコミュニケーションでも,意図や感情の伝達は話し言葉による言語的なものだけではなく,身振り手振りや前後の文脈など,非言語的なコミュニケーションである割合が非常に大きい。
 このことは,どの言語でも共通することだが,日本語は特にあいまい表現が多くあって習得が難しいとされる。「いいよ いいですよ」(p.10)のように,イントネーションによっては承諾にも拒否にもなる言葉などは,誤解からトラブルを招くこともある。しかし扱いが難しい反面,あいまい語はその場で言い切ることのできない言外の可能性を伝える便利な言葉でもある。日本文学の中には,それを持ち味として楽しめる作品も多い。
 本書では,この複雑な魅力を持つあいまい表現について,13人の学者たちが実に楽しそうに語っている。収録される言葉は,単なる用法だけではなく,成り立ちなども書かれている。たとえば「結構です」(p.56)なども使われ方によって逆の意味を持つあいまい語だが,「結構」は,古い文献では家の構えの意で使われていた。時代が進むにつれ「結構が見事である」から「素晴らしいのでもう十分である」という意が生じ,その後,断りの用法でも使われるようになったのだという。
 普段はあいまいに何となく使っている表現も,古い歴史に気づくと大変興味深い。本書は,専門的な日本語の知識をやさしい言葉で解説し,さらに浅生ハルミン氏の独特のイラストがそれをフォローして,手に取りやすい一冊になっている。各項目には論説の根拠になる出典も掲載されているので,興味をもったところから研究を深めてみるのもいいかもしれない。

(笹川美季:東京都府中市立図書館,日本図書館協会認定司書第2012号)

全集 伝え継ぐ日本の家庭料理 12 米のおやつともち

日本調理科学会企画・編集 農山漁村文化協会 2020 ¥2,800(税別)

 まずは目次をじっくりと見ていただきたい。日本全国の米のおやつともち,86種が並んでいる。秋田県の「バターもち」,大阪府の「くるみもち」など,食いしん坊の方ならば,その名から味を想像できるものがある一方,「しとぎもち(青森県)」「おかまごんごん(愛知県)」「おしゃかこごり(山梨県)」といったユニークな名前のものもある。同じ原料を主に作られた料理とは思えぬ,ネーミングの多様さと豊かさに,この本への期待が高まるに違いない。
 本書は「日本人の食生活がその地域ごとにはっきりした特色があったとされる,およそ昭和35年から45年までの間に各地域に定着していた家庭料理を,日本全国での聞き書き調査により掘り起こして紹介し」(p.1),全16巻刊行されたうちの1冊である。各巻とも,材料・つくり方に加え,地域の特徴・風習や料理のいわれが記され,おいしそうで,とても美しい料理の写真が掲載されている。これらが,土地で採れた食材を調理し,皆で舌鼓を打ち,人から人へ暮らしの中で伝承されてきたことを読者に実感させる。
 魚・肉・野菜のおかず,行事食などのテーマ別に全集は構成され,中でも米は主食にふさわしく,複数冊に分かれている。よくある料理本とは一味違うが,これから永続的につくられ,食されるようにと,レシピは具体的でわかりやすい。例えば,「ちまき」などの葉で包むもちは,手順が写真で収録されている。その過程を見るに,伝統的な食べ物の中にある手仕事を思わせる。職人が作るお菓子も素晴らしいが,世代を超えて愛され,生活を豊かにするために家庭でつくられてきた素朴な「おやつともち」は,ネーミングと同様,多彩で味わい深い。日本人にとってのごちそうを,まずは目で,そして実際に食していただきたい。

(林 胡蝶:荒川区立中央図書館(ゆいの森あらかわ))

星をみつめて 京大花山天文台から

花山宇宙文化財団・京都新聞出版センター編 京都新聞出版センター 2020 ¥1,700(税別)

 毎夏「週刊朝日」誌上にて「本の甲子園 書店員が選んだ“ご当地本”」という企画記事が掲載される。各地方の目利き書店員が,その地方出版社の良書を一冊選んで紹介するものである。私ならば,迷わずこの『星をみつめて』を選びたい。
 本書は,2019年5月1日~2020年4月30日に,京都新聞で連載された同タイトルのコラムを,一冊の本にまとめなおしたものである。そのため各項目の文章は非常にコンパクトで読みやすい。巻末の連載一覧からは,コラムのテーマが多岐にわたっていたことがわかる。本書一冊で,季節の星座,太陽系,宇宙から,天文学の歴史と最新研究までを簡潔に押さえることができる。しかし,本書の最大の特徴は,京都の古天文学を扱った第一章「『明月記』と安倍晴明」,第二章「京滋の歴史」だろう。
 古い天文記録から当時の人たちが見た星空の世界を再現する古天文学にはロマンをかき立てられる。その最も有名な事例は,藤原定家の『明月記』に「客星が觜と参(ともにオリオン座)の度(赤経)に出づ。(中略)大きさ歳星(木星)の如し」(p.24)と記され,おうし座のかに星雲として痕跡を残す1054年の超新星爆発である。爆発の記録を探し求めたヨーロッパの天文学者と,『明月記』との出会いのエピソードは大変に興味深い。
 他,安倍晴明が残したハレー彗星の記録,伊能忠敬が作成した日本地図の経線の中心「中度」は,現在の京都の御前通に当たり,「江戸時代の京都には,日本の中心線が通っていた」(p.57)こと,本書誕生のきっかけであり,現役望遠鏡としては日本最古の望遠鏡を有する京都大学花山天文台についてなどなど,話題が尽きることがない。
 星の世界への入門書として,天文学を切り口にした京都ガイド本として,図書館の棚に是非加えてほしい一冊だ。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校)

ウェルビーイング

前野隆司・前野マドカ著 日経BP日本経済新聞出版本部発行 日経BPマーケティング発売 2022 ¥900(税別)

 次期教育振興基本計画の内容を検討している中央教育審議会では,次期計画のコンセプトの一つとして「ウェルビーイングの実現」を掲げている。また,同審議会の生涯学習分科会においても「全ての人のウェルビーイングを実現する,共に学び支えあう生涯学習・社会教育に向けて」と題して議論の整理をしている。このような流れを見ると図書館サービスがウェルビーイングの実現にいかに寄与できるかが問われ,ウェルビーイングが評価指標に採用される日も近いと思われる。図書館関係者はSDGsに続きウェルビーイングについても把握しておく必要があるだろう。
 本書は日本におけるウェルビーイング研究の第一人者らによって,基礎的な知識が獲得できるようわかりやすく書かれている。著者はウェルビーイングを,心身の健康だけでなく,心の豊かな状態である幸福と,社会の良好な状態をつくる福祉を合わせた,心と体と社会のよい状態と定義する。従来の資本主義が限界にきている中で,経済成長の追求ではなく,心の成長や心の豊かさを重視する時代への大転換が進展していくとして,経営のあり方や地域におけるウェルビーイングを実現させるための事例が紹介されている。このようにさまざまな分野でウェルビーイングが重視され,取り組みが行われていくと,その効果をどのように測定するかが重要となってくる。これまで世界中で実施されてきた幸福度調査の問題点や改善策,さらに著者らが開発した幸福度診断(ウェルビーイング・サークル)をはじめとした事例の数々は,これから評価指標を策定する際の参考になる。このほか,これまでのウェルビーイングに関連する研究の系譜や今後の方向性がまとめられている章があり,これからウェルビーイングを学びたい人の入門書として適している。

(是住久美子:田原市図書館,日本図書館協会認定司書第1104号)

文にあたる

牟田都子著 亜紀書房 2022 ¥1,600(税別)

 以前,ある雑誌に文章を寄稿した際,校正会社によるチェックを受けた。戻ってきた原稿を見て,そのきめ細やかさに驚いた。文中の日付や引用したデータ,固有名詞などに一つ一つ事実確認が入っており,プロの仕事とはこういうことかと思い知った。
 本書はプロの校正者によるエッセイ集だ。著者は図書館員を経て出版社の校閲部に勤務し,のちに個人で校正の仕事を請け負うようになった。校正という作業について,誤植にまつわるエピソードなどが,それぞれ数ページの短い文章で綴られていて読みやすく,本に関する「お仕事本」としても楽しめる。
 校正には文字や言葉を見る「素読み」と,固有名詞や数字,事実関係を確認する「調べもの」の作業があり,調べものには図書館も使われる。レファレンスサービスに近いエピソードもたびたび登場して,自分だったらどうやって確認するだろうか,とつい考えてしまう。
 「すべての本に」という章では,校正の意義について書かれている。誤りを取り除いて問題が起きないようにするのが校正の目的であり,校正が機能すると「何も起こらない」。校正の成果は目に見えにくく,校正を入れたからと言って本が売れるわけでもない。専門職の校正を経ずに出版される本もたくさんある。そんな中で校正が本作りに欠かせない職業として成り立つには何ができるのか,著者は考え続けている。その仕事に関わっている人は,これはなくてはならない仕事だ,と思っていても,そのことを外部の人に理解してもらうには努力が必要なのだ,というところが何とも身につまされる。
 ちなみに,NDC新訂10版の相関索引を引くと「校正」は749.13(印刷>版下作成.製版>校正)となっている。0類かと予想したら7類なのだった。

(田子 環:神奈川県立厚木清南高等学校)

つぎに読むの,どれにしよ? 私の親愛なる海外児童文学

越高綾乃著 かもがわ出版 2021 ¥1,600(税別)

 長野県松本市に児童書専門の書店「ちいさいおうち」がある。書店の一人娘の著者は,絵本と児童書に囲まれた環境で育ち,5歳で『大きな森の小さな家』に出会い,6歳で『長くつ下のピッピ』,そして『やかまし村の子どもたち』へと読書体験は続いた。本書では,ぼろぼろになるまで繰り返して読んだ本,ふとしたときに読みたくなる本,いつでも読めると思うだけで心強くなる本など,著者にとって身近な存在の物語が紹介されている。手のひらサイズで,22冊におよぶ海外児童文学のエッセイと四つのコラムから成り立っており,幼いころからの思い出と愛情あふれる作品紹介が魅力である。さらに,『おもしろ荘の子どもたち』の翻訳者・石井登志子さんとの対談では,2人が出会うきっかけとなったリンドグレーン作品やスウェーデン文学,翻訳の仕事や新訳について楽しく語っている。
 児童文学は,魅力ある登場人物やキャラクター,装丁や挿し絵の素晴らしさ,満ち足りた気持ちになる読後感などに加え,時代背景の描写や心情が丁寧に描かれているため,子どもも大人も楽しむことができる。そして,「幼年童話に慣れ親しんだことが,長いお話を読むためのステップになった」という著者がつづった『絵本のつぎに,なに読もう? 幼年童話と過ごした日々』(同 2022)も,併せて紹介したい。
 読書体験は人それぞれにある。読み聞かせをしてもらった思い出や,先生や友だちから紹介された自分だけのとっておきの本がある。つらい時や悲しい時に励まし支えになる本や言葉は,人生を豊かにしてくれるだろう。海外児童文学の本は厚いものが多く,長いお話はハードルが高く敬遠されがちだが,子どもたちには,著者が親しんだ海外児童文学をはじめ,長く愛され続けている児童文学の世界もぜひ体験してほしい。

(前田佳代:塩尻市立図書館)

言語学バーリ・トゥード Round1

川添愛著 東京大学出版会 2021 ¥1,700(税別)

 AIが人間の仕事を奪うと話題になったころ,ようやく人並みにAIへの関心を抱き始めた。とはいえ,AIの本は難しそうで手を伸ばすのがためらわれる。そんなとき,「AIの言語認識」という切り口を紹介してくれたのが本書の著者,川添氏である。
 言語学者の川添氏による本書は,東京大学出版会のPR誌『UP』での連載をまとめたものである。ポップな表紙から想像する以上の軽妙な語り口と,扱うテーマ(言語だけではない)へのディープな愛情に巻き込まれ,ページをめくる手が止まらなくなる。何なら,作中にたびたび登場する謎のSTO氏が気になり,『UP』にまで手を出してしまうという恐るべき本である。
 さて,そもそも本書を手に取るきっかけとなったAIについてだが,本書を読めばAIの言語認知について詳しくわかる…わけではない。AIはむしろ入口にすぎず,AIやその他の日常的な言語問題を切り口として,我々日本人が無意識のうちに,どのように言語を使いこなしているのかに気づかせてくれる。
 日本人はAI=青いネコ型ロボットをイメージしがちで,AIもあのように「人間らしい」受け答えができると思いがちである。しかし,少なくとも現時点では,AIは文字どおりの「意味」しか理解できず,一方で人間は言葉に込められた「意図」を理解して,「絶対に押すなよ」と叫ぶ男性を押すことができる。もしかしたら,AIに仕事を奪われないためのヒントはこの辺にあるのかもしれない。AIと人間の言語認識については,川添氏の他著も大変参考になるので,併せて手に取ることをお勧めしたい。

(山内奈津美:栃木県立図書館)

それでも音楽はまちを救う

八木良太著 イースト・プレス(イースト新書) 2020 ¥860(税別)

 1000人ROCK FES.GUNMA,加賀温泉郷フェス,定禅寺ストリートジャズフェスティバルなど,本書では音楽イベントの7事例を示している。これらは「地域のまちを経済的に救うだけでなく,文化振興にも役立ち,住民の交流も促進する(中略)そうした『新しい』音楽イベント」(p.7)の具体的事例である。事例の取材は新型コロナウイルス感染症の流行(以下,コロナ禍)以前の活況期に行われた。当時のどの事例からも地域で関わる人の活力,来訪者が再度当地に訪れたくなるような魅力的な仕掛けがあることが伝わる。また,これらの事例から,際立った有名人を招致するわけではないのに,その音楽イベントが地域や来訪者から愛される不思議を解き明かしている。
 このような音楽イベントについて,世界的に成功しているイギリスの例から基本の「ミュージックツーリズム(p.21)」の考え方をおさえ,日本での具体的事例を踏まえて,収益を目的とした音楽イベントではなく,音楽イベントで地域活性化をするための方法論を示そうとする。それは来訪者ではなく,企画者のための視点である。
 それでも読んでいて楽しいのは,このような企画の実現に必要とされる地域の人たちも,来訪者たちも演奏者たちも,プロもアマチュアも巻き込み,すべての人が楽しむ音楽イベントづくりの姿勢が示されているからである。
 コロナ禍では地域イベントが多数中止となった。2022年は3年ぶりの行動制限のない夏となったが,活況とは言いがたい。「それでも」と再開催を願い続けることは,人と人がつながり,未来につなげる力の一つの道しるべとなる。
 災害があり,コロナ禍があり,先が見えない今だからこそ,本書で紹介されているような,未来の「まち」への願いを託して,音楽イベントを立ち上げた創始者たちの思いを感じてほしい。

(青木 朱:河内長野市立図書館)

最新科学が映し出す火山 その成り立ちから火山災害の防災,富士山大噴火

萬年一剛著 ベストブック 2020 ¥1,400(税別)

 日本一有名な山といえば富士山だろう。富士山は日本最高峰,世界文化遺産などで知られているが,近年は噴火の可能性がある活火山としても注目を浴びている。
 2021年3月に富士山の火山ハザードマップが改定されたというニュースが大々的に報じられた。これを受けて,私が所属する研究所では一般の人からの問い合わせが増えた。対応の中で感じるのは,火山ハザードマップがどういうものかあまり知られていないことである。
 実は火山ハザードマップについて説明のある本はあまり多くない。本書を紹介しようと決めた理由の一つは,火山ハザードマップの基本的なことについて解説されているからである。災害に備える地図に火山ハザードマップと防災マップがあることを,皆さんはご存じだろうか。火山ハザードマップは噴火による影響の範囲を地図上に示したものだが,これを一般の人が防災のために使うには知識がいる。一般の人の活用を目的としているのは防災マップの方で,噴火の影響範囲に加えて避難に必要な情報も示しているものだ。
 もちろん,本書を薦める理由はそれだけではない。マグマがどういったものか,噴火とはどのような現象であるのか等,火山学の基礎がわかりやすく解説されている。なにより文章が読みやすい。理系分野に苦手意識を持つ私でも読み進めることができた。現役の研究者が書いているので見慣れない専門用語が出てくるが,例えを使った説明が理解を助けてくれる。ところどころ誤字(説明の中で用語の意味が入れ替わっている等)が見られるのはご愛敬。読者が誤字と気づけるくらいなので,読むのにさほど支障はない。
 我々と研究者との間には大きな知識の隔たりがあるが,読み終わるとその差が少し縮んだような気持ちを味わえる。

(秋山日香里:山梨県富士山科学研究所)

もっと話がおもしろくなる 教養としての気象と天気

金子大輔著 WAVE出版 2022 ¥1,500(税別)

 今の日本は,猛暑,豪雨,竜巻と数十年前では考えられないほどの気象状況である。このような環境下で,あらためて気象についてわかりやすい本をと思ったときに,「教養としての」というタイトルとともに,「もっと話がおもしろくなる」という言葉に,何がおもしろくなるかと手にしてみた。
 「教養としての」とうたうだけあり基本の気象の項目では,学生時代に学んだ理科の授業を思い出す。その授業内容が,現在の日常気象に合わせて説明されており,導入を学ぶにはもってこいの本だ。気象についての基本知識や気象による災害・異常気象,天気用語を久しぶりにみる私にも理解しやすい構成になっている。「雲は気象情報の宝庫」の章では,雲の正体やでき方から空から降るものについて詳しく解説してある。本書は「なぜ?」に対してわかりやすい答えが差し出される。実際の気象状況を我々が変えることは不可能だが,気象についての知識を持ち得ることで防げる災害もあるので,学ぶことの大切さを感じた。
 また,日本語で表せられる天気に関する語彙の多さを感じた。文中に参考として取り上げられていた,太宰治の『津軽』をあらためて読むと雪の描写につかわれている語句を楽しむことができた。そして,感じる風・雨・雪の名称を自由に名づけることができるなら,自分なら,どのような名前を付けるのだろうと,言霊遊びをする時間ができた。
 下を向くことが多い昨今,たまには空を見上げて,今の空気感を伝える言葉を探してみるのもいいかもしれない。

(髙坂由美:宇都宮市立東図書館)

ゲームさんぽ 専門家と歩くゲームの世界

いいだ,なむ編著 白夜書房 2022 ¥1,800(税別)

 YouTubeを見ていて,ある動画に驚いた。気象予報士の石原良純氏が,コンピュータゲーム『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のプレイを見ながら,ゲーム内の気象について専門的な視点でトークするという動画である。この「ゲームさんぽ」の動画は,他にも古代ギリシャ研究家やプラネタリウム解説員,精神科医,図書館司書などの出演で,ゲストとゲームの組み合わせを変えてシリーズ化しており,チャンネル登録者36.5万人(2022年9月現在)の人気を博している。
 「ゲームさんぽ」は,著者によれば,ゲーム実況動画のシリーズ名であるとともに「ゲームの中をいろんな分野の専門家と歩いておしゃべりしながら,世界の見え方の違いっぷりを楽しむ遊び」(p.3)である。本書は上記の動画シリーズを元に書籍化したもので,「ゲームさんぽ」動画の裏側を語りつつ,著者らの小論や各分野の専門家との対話から,ゲームで遊ぶことの価値について考える入り口となっている。
 さて,本書から一か所,印象的だった部分を紹介しよう。古代ギリシャ研究家の藤村シシン氏が,ゲーム内のパルテノン神殿を訪れた際に言い放った「それ裏なんだよなあ!」(p.6)という言葉だ。よく写真で紹介される,参道側から見た正面は神殿の裏側で,神像があった表側は反対だというのだ。そして,ゲームでもそれが再現されていた。無知を恥じるが,私はそれまでパルテノン神殿の表裏など考えたこともなかったし,今後もガイドブックを読む機会さえ無いと思う。だが「ゲームさんぽ」によって新しい視点と「世界の見え方の違い」を楽しむことができたのだ。
 あなたは最近ゲームをしただろうか? 新しい視点を得たいとき,本書と「ゲームさんぽ」はいかがだろうか。

(吉澤駿裕:白河市立図書館)

日日是日本語 日本語学者の日本語日記

今野真二著 岩波書店 2019 ¥1,800(税別)

 日本語母語話者にとって,日本語は慣れ親しんだ言語である。その多くが日本語でコミュニケーションを取り,日本語で物事を考えて生きてきたことだろう。そうして当たり前のように触れてきた日本語について,ふと気になったことはないだろうか。
 本書は,日本語学者であり日本最大の国語辞典『日本国語大辞典 第2版』(小学館)全13巻を読破した著者による日記である。著者曰く「名づけて『日本語いちゃもん日記』」(p.vii)だという。2018年1月~12月までの日記がまとめられている。内容は,「調子」とは何か,平仮名ばかりの名前の覚えにくさ,鎌倉時代人だったら伝わる「逸邸」の広告,紅白歌合戦出場歌手の表記などの身近なものから,現在使われている日本語に対する著者の考えまで実に幅広い。
 日本語学者で日本語について長年研究しているのだから,著者はほとんどの日本語を知っているのではと思うかもしれない。しかし著者が繰り返し書いているのは,自分が知らない日本語はいくらでもあるということである。だからこそ未知の日本語に出会ったとき,著者はまず言葉の意味を調べ,そして考える。それはまさしく研究対象に真摯に向き合う研究者の姿に他ならない。日記を通じて,著者の日本語への向き合い方がわかるのである。
 本書を読むと,日本語について立ち止まって考えるようになる。今まで気にしていなかった言葉の意味や成り立ちなどが気になってくる。そして調べてみたくなる。
 ところで「いちゃもん」という言葉はどういう成り立ちで,どういった用例があるのだろうか。この文章を読んでいる人の中で,すぐに意味がわかる人はどれぐらいいるのだろうか。気になってきたので調べてみよう。

(小柳直士:埼玉県立熊谷図書館)

ジェンダーで見るヒットドラマ 韓国,アメリカ,欧州,日本

治部れんげ著 光文社(光文社新書) 2021 ¥940(税別)

 昨年東京オリ・パラリンピック開催に向けて世界中から注目されているさなか,大会組織委員会会長の女性蔑視発言があり,退任に追い込まれる騒動があった。同時期に起こっていた#MeToo運動が世界的潮流になっていたタイミングもあり,批判もその影響も大きかった。
 この本はジェンダー視点で,韓国・アメリカ・欧州・日本のヒットドラマをピックアップして,それぞれの国が抱える背景や文化に焦点を当て,どうリンクしているかを示そうというものだ。
 まず著者は総論としてヒットしているドラマを国別に挙げ,次のように分析している。「社会的テーマを正面から描く韓国ドラマ」(p.32)「『人権』と『経済』が地続きのアメリカドラマ」(p.116)「二者択一の価値観の残る日本ドラマ」(p.194)「幸せになるために必要な『自分の人生を自分で決める自由』」の欧州とカナダのドラマ(p.256)国でこれほど差があるのかと思うが,ピックアップされたドラマの概要を比べると言語化・分析されることでその国の全体像が見えて納得する。
 特に日本のドラマは「ドラマが描く女性像がステレオタイプで,人間というより『背景に書き込まれた女性』のように見える」(p.196)と著者は厳しい。さらにステレオタイプから外れた人物を「変人」として描くことの弊害も挙げている。一方で同じアジアの韓国ドラマがジェンダー視点を強く打ち出し,ヒットしている要因にも注目する。
 ドラマがヒットするのは,その国で支持される何かが背景にあるという。建前で多様性を表明しつつ,本音ではジェンダーやハラスメントをうやむやにしてきたツケが,あの女性蔑視発言につながっているのではないか。身近なドラマだからこそ作り手はもちろん視聴者が敏感になることで,現実社会にも生かされていく循環を期待したい。

(亀田純子:神奈川県立三浦初声高等学校)

老後とピアノ

稲垣えみ子著 ポプラ社 2022 ¥1,500(税別)

 小さい頃,私の将来の夢はピアノの先生になることだった。その夢は時を経て挫折したのだが,中年期の今も飽きずにピアノを練習している。「たかが趣味」のピアノに,私はなぜ夢中になるのか。書店で偶然目にした本書から,著者・稲垣えみ子氏の体験記が,私に鮮やかな「回答」を示してくれた。
 著者には「子供の頃に習っていたピアノを,できることならもう一度,ちゃんと弾いてみたい」(p.14)という希望があった。あるとき,雑誌記事の企画として,ピアニストからレッスンを受けることが決まり,40年ぶりにレッスンと練習を再開する。
 著者の自宅にピアノは無いため,普段は行きつけの喫茶店にあるピアノを借り,出かけた先では,ピアノを借りられる場所を確保して,ひたすら練習に励む。その様子は,ユーモラスに綴られる一方で,子どものときは思いもよらなかった壁や悩みと向き合い,格闘するプロセスも語られている。
 ピアノに限らず,大人になると,昨日出来たことが必ずしも今日も出来るとは限らない。しかし,トライ&エラーを繰り返しながら一歩ずつ前進する著者の姿に,私は思わず自身の姿を重ねていた。
 なぜ私は必死に練習するのか。それは自分の奏でる音が,耳へ,身体全体へ届くたび幸せな気持ちに包まれ,心が震えるからだ。この幸福感は,何物にも代えがたい。
 著者は「懸命にやるからこそピアノは楽しいのだ。」(p.151)と言う。また,「どんなに凡庸な人間でも,自分の心の中のどこかに隠れていた美しいものに,自分の手で火をつけることができる。」(p.250)とも。
 本書のラストに著者が到達した,「ピアノが開いたまさかの世界」(p.249)。懸命に学び,練習することの先に広がるその「世界」には,温かな光が満ちているように思えた作品である。

(山成亜樹子:茅ヶ崎市立図書館)

痛風の朝

キンマサタカと全日本痛風連盟編 本の雑誌社 2021 ¥1,500(税別)

 友人がふたり,立て続けに痛風の発作を起こした。痛風仲間としては,お見舞い代わりに何か本を紹介したいところだ。
 本書は「本邦初,いや世界初(おそらく)の痛風アンソロジー」とのことで,映画監督,音楽家,お笑い芸人や,作家,ライター,編集者,校閲者,出版社営業職など(このあたりのセレクトが版元の「本の雑誌社」らしい),さまざまな人たちが自らの体験を交え,痛風について語っている。
 病気について語っているのに,重さも苦しさもなく,ユーモアとペーソスばかりが感じられるのは,痛風という病気そのものの性格(激痛はあるものの,数日で治まり,その後の生活に支障が出にくい)によるところもあるのだろうが,書き手たちがこの病を排除せず,共生を試みているように見えるからだろう。
 お笑い芸人「錦鯉」の渡辺隆は,痛風を「どこか憎めない出来の悪い弟子」と表現する。「絶対に売れないだろうなって思いながらも,なんか憎めない」(p.66)。このあたり,痛風との関わり方がうまく表現されている。
 また,患者同士の連帯感も描かれる。校閲者の栁下恭平は「街場でお互い痛風持ちだって分かると,秘密結社の同輩に出会った気持ちになる」(p.97)という。
 痛風に関するミニブックガイドになっている「痛風文学」(すずきたけし)では古今東西の作家,作品が紹介されていて,図書館員的に押さえておきたいと思わされる。
 とにかく「まるごと一冊痛風」の本書,類書はあまり想像できず「病気に関する本」についての視界が広げられた気がする。
 さて書評を書き終えたので,心おきなくビールで乾杯しよう。いや,これがいけないのだが…。

(大林正智:豊橋市まちなか図書館)

アクティブ・ホープ

ジョアンナ・メイシー,クリス・ジョンストン著 三木直子訳 春秋社 2015 ¥3,000(税別)

 アクティブ・ホープ,積極的な希望とは,望むものを実現する過程に積極的に参加することや生き方を表す。本書は仏教哲学者で社会活動家のジョアンナと,行動医療や精神衛生を専門とする医師クリスの共著で,産業成長型社会から生命維持型社会へと大転換を起こすための方法と希望を失わない生き方について書かれた実践書である。
 気候変動など地球規模の危機を回避するためにはライフスタイルや価値観の転換が必要といわれてきたが,人類は無力感や無関心などから「これまで通り」の道を歩み続けている。しかし,直面する状況がどんなものであれ,どのように反応するかを私たちは選ぶことができると著者は投げかける。人々が創造的に反応できる力を伸ばせるようにと,20年以上実践を重ねてきた対話型の「つながりを取り戻すワーク」が実例と共に多数紹介されている。例えば「あなたは誰ですか?」という問いに5分間繰り返し答える演習や7代先の世代があなたに手紙を書くとしたら何を言いたいか想像して手紙を書く演習など,今すぐ実践できるものばかりだ。さまざまなワークを通して,自己,感謝,勇気,痛みなどへの感覚を取り戻すこと,さらには地球や生命体とのつながりを取り戻すことで,自分の役割を自覚し,行動への意図を強めることができるよう導いてくれる。
 活動家というと大規模な活動をする特別な存在ととらえがちだが,すべての生命あるものの幸福を願って行動する誰もが活動家であり,活動家をより広くとらえるべきと提案している。今や希望とは誰かがもたらしてくれるものではない。ならば本書を希望の杖とし,より良い世界のためにその人なりの方法でできることを探し実践する輪が広がっていけばと願う。アクティブ・ホープという豊かな生き方は,きっと私たちに充足感に満ちた人生という贈り物をもたらしてくれるはずだ。

(磯谷奈緒子:島根県海士町中央図書館)

ルワンダでタイ料理屋をひらく

唐渡千紗著 左右社 2021 ¥1,800(税別)

 題名からまず私が連想したのは,『ルワンダの涙』(2005)だ。少数派のツチ族が多数派のフツ族に大量虐殺された当時を描いた映画だった。本筋ではないが,本著にもその背景が随所に現れている。
 筆者は元会社員のシングルマザー。これまでの人生に疑問を覚え,リフレッシュ休暇で訪れたルワンダを気に入り,勢い子どもと一緒に移り住む。料理屋という,これまでとは全く違う未経験なことを異文化の中で始めてしまう怒涛の展開も面白いが,店を経営していくうちに地元スタッフと徐々に打ち解け,彼らの背景に思いを寄せていくところが私は好きだ。万事順調どころかつまずきだらけで,放り出しそうになるのも共感が持てる。
 乾季には水が出ず,雨季には視界が悪くなるほどの大雨で交通もマヒ。気候的な事情は致し方ないとしても,問題は人間関係だ。店の施工業者は着手金を自宅のリノベに使うし,大家は家賃を過剰請求して知らんふり。スタッフは勝手に客席で休んだり,店の装飾品を売ってしまう。あまりの感覚の違いに四苦八苦し,無邪気に? 詐欺や横領をする人たちに,こちらまで怒り,イライラし疲れてしまう。だが著者は言う。「盗まなくても,嘘をつかなくても[中略]生きていけるなら,それは必ずしも,心が清いってことじゃない。そういう場所に生まれたっていうことなんだ」(p.139)
 ロシアに軍事侵攻されているウクライナの現状は悲惨で,毎日報道される様子に愕然とする。日本からの支援はもちろん必要だが,その一方で他の地域のことも忘れてはならないとも思う。
 ルワンダの大虐殺が行われたのは1994年。その後,人々がどんな思いで生き延び,復興を果たしてきたのか。本著ではその強さとしたたかさの一端を感じることができる。

(佐藤里恵:北海道利尻町交流促進施設どんと郷土資料室(図書室))

あいたくて ききたくて 旅に出る

小野和子著 PUMPQUAKES 2019 ¥2,700(税別)

 昔話は,子どもたちをひきつける。そう感じている図書館員は多いだろう。
 本書は,著者が東北の村の家々をめぐり,「幼い頃に聞いて憶えている昔話があったら,聞かせてくださいませんか」(p.10)とたずねて記したものの集成である。しかも単なる民話集にとどまらず,「民話を求める旅を続けて(中略)五十年」(p.358)という著者により,語り手との出会いの様子が,著者が聞かなければ埋もれてしまったかもしれない民話とともに描かれている。
 東北の厳しい生活の中で語られる民話は,笑いあり涙あり切なさあり。そのむこうに,「ほんとうのこと」が見え隠れてしていることに気づかされていく。
 そのエピソードとして,いじめをうけている男子中学生の話に注目したい。ある日,彼は教室に行くとすべての者が獣にみえると,カウンセラーに泣いて訴える。カウンセラーは,「オオカミのまつ毛」という民話を聞かせる。それはオオカミのまつ毛で人をかざしてみると,すべての者が獣にみえるという話である。彼は民話を聞くうちに心を落ち着かせていく。それはなぜだろうか。
 彼は,教室で人が獣にみえるという事実に戸惑い,生きることに苦しんでいた。民話はその事実を真実として,つまり生きることは苦しく,悲しいものなのだと,彼に語りかけたのだ。だからこそ,その民話が,彼の「心がもとめるもの」として,どんなカウンセリングの言葉よりも心を癒し,支える力となっていったにちがいない。
 民話に隠れている「ほんとうのこと」とは,「人の心がもとめるもの」ではないだろうか。
 民話を聞くことの大切さを知ってほしい。おすすめの一冊である。

(川端朋子:茂原市立図書館,日本図書館協会認定司書第1192号)

「コミックス」のメディア史 モノとしての戦後マンガとその行方

山森宙史著 青弓社 2019 ¥2,400(税別)

 多くのコミックスに,ISBNと並んで雑誌コードが付けられているのをご存じだろうか。これは新刊のコミックスを,雑誌配本ルートで書店などへ送るために付けられているのだ。では,そもそもなんでコミックスの一部に,雑誌コードが付けられるようになったのだろうか。
 筆者は,コミックスにISBNと雑誌コードの両方が付けられていると気が付いて以来,その理由をいろいろ調べてきた。コミックスの初刷は他の本より格段に多いため,発売日までに全国の書店等に届けるため雑誌配本ルートを使ったのだとか,図書配本ルートで送られる本は,基本的には「発売日前でも販売してもよい」(もちろん例外はある)のだが,雑誌の場合は販売協定があり,発売日前に販売してはいけないことになっている。なるほど,どちらもそうなのだろうなと思うが,何かが足りないと,もやもやしていた。
 そんなある日,インターネットで紹介されていて,見つけたのが本書だ。第2章「雑誌」とコミックスでは,1967年5月に講談社が日本初の「雑誌扱いコミックス」としてKCを創刊した。これ以降マンガ雑誌を補完するものとしてコミックスはブランド化し,その雑誌に掲載されたマンガは,コミックス1冊分をまとめて発売するという現在の形が作られていったのだという。
 また,第4章「本屋」とコミックスでは,今ではどこの書店にも当たり前にある「コミックコーナー」が定着していく様子が書かれている。地域の文化を担ってきた書店が,売り上げとのせめぎ合いの中でコーナーを常設していく過程や,取次が果たした役割など,非常に興味深い。
 今では日本を代表するメディアとなったマンガ,その中核を担うコミックスというメディアの成立過程を知ることで,日本の出版文化を深く理解することができる。

(笠川昭治:神奈川県立茅ケ崎高等学校図書館)

〈洗う〉文化史 「きれい」とは何か

国立歴史民俗博物館,花王株式会社編 吉川弘文館 2022 ¥2,200(税別)

 かねてより禊(みそ)ぎは私には謎の行為だった。神前に現れる前に身を清めようという考えは理解できる。だとしても,精神的困難度・洗浄という双方の観点から鑑みて,冷水より湯のほうが適切ではないか。そこにある真の目的は,身を清潔にする以外のところにあるのではないだろうか。
 本書は国立歴史民俗博物館と花王株式会社とが,「洗浄という行為」と「清潔という感覚」に軸を置いて行った共同研究の成果を一般向けにまとめたものである。章ごとに異なる研究者が執筆しており,洗浄に関する語彙の文献内での扱われ方から,江戸時代の藩士の洗浄の実態まで,テーマやアプローチ方法は多様だ。気になった箇所から読むのもおもしろいだろう。
 2部2章では,汚れをふけや砂塵といった生理的なそれと,血・死などの心理的な汚れ=穢(けが)れに区分する。続けて,日本特有の穢れの概念として,平安時代に生じた触穢(しょくえ)思想の紹介がある。祭祀王として天皇が純化し,周囲にも神聖性が求められるようになった。禊ぎは淡水や海水を用いて心身を清めて穢れを落とすことで,神にふさわしいより確かな神聖性を確保する行為だった。
 宗教儀式の前に体を洗う行為の歴史はさらに古く,1部1章で言及される東大寺写経所の奈良時代の記録からはほぼ毎日,専用の湯船で沐浴していた様子がうかがえる。ただ,湯船という言葉からも知れるように,これは薪で湯をわかして行われていたようだ。今も臨機応変に湯も使えば?と改めて思う私だが,締まりがないと感じるのもまた事実。帝国日本における清潔感を論じた1部4章には,「『実際に汚い』と『汚らしく感じられる』ことは似ていても異なる」(p.65)との指摘がある。禊ぎに水が使われるのも,このあたりの感覚に答えがあるのかもしれない。個人的には追加の研究が待たれるところである。

(坂本早希:埼玉県立熊谷図書館)

動物園を考える 日本と世界の違いを超えて

佐渡友陽一著 東京大学出版会 2022 ¥2,700(税別)

 筆者は国内最大級の面積と動物数を誇る動物園を横目に見ながら通勤している。日本で初めてコアラを飼育した園として知られ,コアラ舎は本場シドニーの動物園をしのぐ立派さであり,近年はゴリラ人気が高い。それにもかかわらず入園料はわずか500円(中学生以下無料)! こんなに安くて大丈夫だろうか,と以前から感じていた。
 静岡市立日本平動物園の現場勤務等を経て,現在は大学で動物園学・博物館学を研究する著者は,1960年代の「福祉国家の建設」の発想,その後の低経済成長による「増税なき財政再建」が重なることで,日本の動物園は入園料を低額に抑えたまま経費の大半を税金に依存し,「安かろう,悪かろう」の運営を強いられてきた,と指摘する。現場職員の努力・工夫は種々実践されているが,制度的には市民も役所も動物園現場も,3者全てが不満足な状況に陥っている,と。
 本書を読むと動物園だけでなく図書館を含めた社会資本の方向性を考えない訳にはいかなくなる。図書館法第17条(無料原則)を持ち,収集・保存・提供等の対象が生命体ではない図書館と,飼育・研究対象が生命体であり,動物福祉の観点から特に欧米において強い批判を受ける動物園を同一視すべきでないとは思う。しかし,議論の結果,動物園であれ図書館であれ,現在と将来の人間が必要とする社会資本だと結論づけるのであれば,本書が示すように市場原理(自助)でも政府資金(公助)でも救えない領域を救う善意の資金(共助)を本格活用することが有意義ではないだろうか。
 役所が悪い訳ではなく,動物園には地球規模での野生生物保護の視点が欠かせず,おのずと地方自治体の仕事のスケールを超過するため構造改革が必要だと言う。地方独立行政法人,さらに公益株式会社制度が提言されている。困難が山積する状況においても決して希望を失わない本書を「公」のあり方に関心を持つ多くの人にすすめたい。

(鈴木崇文:名古屋市楠図書館)

草木鳥鳥文様

梨木香歩文 ユカワアツコ絵 長島有里枝写真 福音館書店 2021 ¥2,900(税別)

 朝,窓を開けると,あちこちから聞こえる鳥の声。あのさえずりは何という名前の鳥だろう。仕事に出かける慌ただしさから,その名前を知る機会を逃してきたが,リタイア後のこの4月から少しゆったり時間の流れを楽しむことができるようになった,そんな折に私が出会った1冊だ。
 この本は,著者が日常生活の中で出会って感じた,鳥,草や木について,エッセイふうに語られている内容で,目次を見ると,文章のタイトルのあとに,鳥,植物の名前がある。数えるとそれぞれ36種類あり,好きなところからページをめくることができる。例えば,「生まれたときからの運命」カケス/イロハモミジ など。タイトルからその内容を想像するのも楽しい。
 ではどんな鳥で,なぜこの植物なのかとワクワクしながら読み進めると,その意外な特徴や生態に驚くと同時に,著者のその鳥への愛情を感じる。
 また,この本の一番の特徴は,文章のかたわらに鳥の絵を撮った写真があること。鳥の絵は,キャンパスや紙の上でない意外な場所に描かれ,その写真は「気配が滲み出てくるような独特の世界の捉え方で『鳥の潜む風景』を撮られ」(p.121)たものだ。文章と絵と写真がそれぞれの世界観でそれぞれ楽しめる贅沢な構成になっている。
 文章を読んで,鳥の絵の写真を見る。鳥の絵の中に植物が描かれている。その鳥や植物について,もっと知りたくなる。手元に,2種類の図鑑は最低必要だと気が付いて「鳥の図鑑」と「植物図鑑」を慌てて図書館から借りてきた。
 「斯くして幾重にも幾重にも『語り』の仕掛けられたからくり」(p.122-123)があるというこの本の世界観をぜひ味わってほしい。

(三浦牧子:元神奈川県二宮町図書館)

文豪と印影

西川清史著 左右社 2021 ¥2,200(税別)

 著者の検印紙が貼ってある本。そんな本をたびたび見かけたのは,大学図書館や神保町の古書店街だったろうか。時代を経てきたそれらの本を手に取るとき,本からは風格がにじみ,おのずと厳かな気持ちで本と相対し,大切にめくったものだ。
 かつて出版社は,著者へ支払う印税に正確を期すため,奥付部分に直接,または検印紙に,著者の印鑑を捺してもらっていた。
 “押印不要”の流れがある今日,社会的に印影を見かける機会は減りつつある。種類は違えど,公共図書館の蔵書印や小口印,各種補助印なども簡略化が図られるようになっているようだが,皆さまのお近くではどうであろう。
 本書は,いつ始まり,いつ終わったかも定かではないが,確かに存在していた奥付の印影を,130人,170個掲載している。日本が独自に活用してきた押印文化。それは,所有を誇示することとも,芸術的な篆刻とも異なり,趣向を凝らした手作りの印影からは,ときに繊細で,ときに豪胆,またはチャーミングな人柄がうかがえる。
 紹介されている森?外の四つの印影は,神経質そうなものから,丸みを帯びたやわらかなものまでさまざまだ。印章は,故人を景仰するに最適の品と考えていた?外にとって,自身の印も作品に合わせてこだわりがあったように見受けられる。
 一方,美意識に富んだスタイリッシュな作家という印象の三島由紀夫,さぞ凝った印影が捺されているだろうと期待が湧きあがるところだ。ところがその真逆,面食らい言葉も出ない。
 作品のイメージどおりのものから,意外なものまで,印影から文豪の一面に思いをはせるのはとても興味深い。
 「消え去るものは,なべて,愛おしい。」(p.11)
 継がれていく書物への愛を再確認させてくれる1冊だ。さて,図書館ではどんな検印に出会えるか。図書館での宝探しは尽きない――。

(後藤文恵:越谷市立図書館)

たった一つを変えるだけ クラスも教師も自立する「質問づくり」

ダン・ロスステイン,ルース・サンタナ著 吉田新一郎訳 新評論 2015 ¥2,400(税別)

 私たちがより良い選択,より良い意思決定をするために必要なものは何だろうか? そのひとつは十分な情報が得られていることである。では,十分な情報を得るために必要なことは? その答えのひとつが,本書で述べられている「質問づくり」である。自分が必要とする情報を得るためには,何をどのように問えばよいのか,そのスキルを習得する必要がある。その習得のための方法論が本書のテーマである。
 はっとさせられた記述がある。「低所得者層の親たちから,『自分たちは何と質問していいのかが分からなかったので,子どもたちの教育にかかわったことも,学校に行ったこともなかった』という話を聞いた」(p.4)ことが,著者が質問づくりの方法の開発に取り組むきっかけであったという。
 そしてたどり着いたのが,教師から生徒への質問・投げかけから,生徒が自ら質問を作り出すことへの転換である。質問づくりには始まりから終わりまでの流れの中に七つの段階があるのだが,それぞれの段階と「発散思考」「収束思考」「メタ認知思考」の三つの思考力それぞれを関連づけたり,「質問づくりはアート(創造)であり,科学でもある」(p.46)として,アートである点と科学である点を挙げているのも,単なる方法論にとどまるものではなく,興味深い。
 本書を読み進めていくと,質問づくりもまた「生きる力」であると感じる。学校図書館に引きつけて考えれば,子どもたちが必要十分な情報を得るために,子どもたち自身だけでなく,学校図書館に携わる私たちもまた,質問づくりの目指すものは知っておいてよいのではないだろうか。
 もちろん,探究学習における「問いをつくる」ことにも密接に関わる内容であり,その点でも一読をお勧めしたい。

(清水 亮:鳥取県立米子南高等学校)

クイズ思考の解体

伊沢拓司著 朝日新聞出版 2021 ¥4,500(税別)

 クイズ番組を見ていると,クイズ王を名乗る出演者が,些末なヒントを与えられただけで早押しボタンを押し,解答する様を見かけることがある。クイズ王とは何者なのだろう。全知全能の神か,はたまた知識が無限に湧き出る魔術師か。
 本書は,有名なクイズ王のひとりである著者が,クイズに関する論考をまとめた一冊である。本書のコンセプトは「マジックからロジックへ」。早押しクイズで魔法のように正答を繰り出すクイズ王も,実は論理的思考を経て答えに辿り着いていることを明らかにしている。
 彼らが思考の手掛りとしているのが,問題文の構造である。例として,「~ですが」が含まれる問題文の場合はその前後に対の要素が含まれることが多い。例えば「日本で最も高い山は富士山ですが,江戸幕府の初代将軍は?」という問題は,「最も高い山」と「江戸幕府」が対にならないため出題されにくい。一方,「~ですが,最も低い山は?」という問題になると,「最も高い山」と「最も低い山」の対比が文として自然なため,出題されやすい。彼らはこうした文構造を手がかりに,「日本で最も高い山は…」と問題が読まれた時点で“この文ならば「最も低い山」が問われる”と思考し,早押しボタンを押して,解答するのだ。
 本書は,早押しクイズの問題文構造を25パターンに分類して分析を行っているほか,日本のクイズ史等についても精緻に取りまとめており,読み物としてはもちろん,クイズ文化に関するレファレンス資料としても耐え得る理論書となっている。クイズという身近なゲームに,ここまで奥深く,論理立った世界が広がっていることは驚きだ。
 最近は,気軽にクイズを楽しめるカフェやスマートフォンアプリ等もあるという。業務で疲れた頭のリフレッシュに,本書を傍らに置いてクイズを楽しんでみるのはいかがだろう。

(二瓶 優:福島県立図書館,日本図書館協会認定司書第1197号)

フルートと脳のおはなし 音楽家のための脳神経生理学入門

鈴木則宏著 春秋社 2021 ¥2,300(税別)

 本番であがってしまい,失敗してしまった――。このような経験をしたことはないだろうか。脈拍が速くなり,声は震え,汗が止まらない……。自分の体に起きている異変は,いったい何なのか? 実は,あがってしまう原因は,「自律神経」にあるのだという。
 本書がなぜフルートと脳をテーマにしているのかというと,著者がフルートを吹く脳神経内科医師だからである。医学的根拠に基づいて,楽器(とくにフルート)演奏と,それに関係する人体の仕組みを脳機能の面から解説しており,他に類を見ない内容である。
 私事で恐縮だが,自身もフルートを吹いている。フルートなどの吹奏楽器は,両腕や指の動きはもちろん,舌と口の中,肺と呼吸筋など,これらがしっかりと連携プレーをしなければならない。
 何気なく動かしている各部位が,脳の精密かつ高度な機能によってコントロールされていることや,楽器演奏が脳と体の活性化を促進し,アンチ・エイジングになっていることなど,演奏者にとって新しい発見がいくつもあった。
 それだけではない。なぜ人は音楽で感動するのか,音楽による感動はどのようにして生み出されるのか。そのメカニズムについて,脳機能の面から解明されている部分,未だ不明な部分をそれぞれ紹介している。また,冒頭の「あがり」についても,その対処方法を挙げ,誰もが経験する悩みの解決の一助ともなり得る1冊である。
 脳のメカニズムは,複雑でデリケートであることを知るとともに,日常のさまざまなシーンで音楽によって引き起こされるあの感情は,そう単純に解明できるものではないとわかり,どこかほっとした気持ちになった。

(岩持河奈子:岩手県立図書館,日本図書館協会認定司書第1202号)

目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

川内有緒著 集英社インターナショナル発行 集英社発売 2021 ¥2,100(税別)

 県外に出かけることが極端に減った。これまでは年間パスポートを手に上野へ通っていたのに,とても味気ない生活だ。特別展の情報を見るたびにため息が出る。手持ちの図録を眺めて気を紛らわせるのも飽きてきたな,と思っていた時に手に取ったのが本書だった。不謹慎かもしれないが,白鳥氏がとてもユニークな人物だと感じたのだ。
 登場するのは,著者と白鳥氏という全盲の男性,そして二人を引き合わせた著者の友人。他にも数名いるが,主にこの三人が全国の美術館を巡り,作品を鑑賞しながら感じたことを話し合う。白鳥氏は同行する二人から作品の内容を伝えてもらうという方法をとっている。それってアテンドする側も説明を受ける側も難しいのでは…? と驚いたが,白鳥氏は美術館に通い,いまでは年に何十回も出かけているという。
 これまで美術館・博物館に出かけても視覚障害者と思われる人を見かけたことがなかった。というよりも,意識をしていなかった。音声ガイドは「展示物を見ながら聞くもの」と思っていて目が見えない人はこういった施設を利用しないという感覚があったと思う。読み始めてすぐ気がついた。これは私のバイアスだった。
 著者たちは美術館を巡りながらさまざまなことを話し合う。「作品には何が描かれており,どのように見えるか」からはじまり,その背景にあるものを少しずつ探っていく。写真が掲載されてはいるが実物を見ていないので白鳥氏に近い感覚で作品を想像できるかもしれない。
 本書では何度か見えるものが違うというやり取りがある。それぞれ感じ方が違うのだから当たり前かもしれないが,全盲の白鳥氏の前で言葉にすると余計に面白く思える。美術の楽しみ方と「美術館に行って作品を見る」ことからさまざまな気づきを届けてくれる1冊だ。

(伊藤晶子:福島県富岡町図書館)

児童養護施設で暮らすということ 子どもたちと紡ぐ物語

楢原真也著 日本評論社 2021 ¥1,800(税別)

 『3月のライオン』(羽海野チカ著 白泉社 2007~)にこんなシーンがある。いじめられっ子をかばっていじめられる側になった中学生が,「私のした事はまちがってなんかない」と泣きながら後悔してないと言い切る姿に,昔いじめを受けた主人公は「こんなにも時が過ぎた後で/全く違う方向から/嵐のように救われる事がある」と語る。
 この本は,そんなふうに誰かが誰かの味方でいつづける姿を通して,自分自身が救われる気持ちになれる本だ。24のエッセイに,児童養護施設の制度や背景についての解説が加えられ,読んでいくとありがちな「孤児院」のイメージが覆る。
 「施設職員は,子どもたちの一番近くで苦楽を共にし,彼らの成長を見届けることができるやりがいのある仕事です」(p.4)という著者の子どもたちへのまなざしは,とてもあたたかく,決して「上から」にならない。しかし,実際の施設の現場はなかなか過酷だ。小さい子に暴力をふるう小学生は「俺だって同じようにやられてきた」と叫ぶ。「施設で暮らすとホームレスになる確率が高いって本当?」とふいに中学生に聞かれる。「支えることはできても,彼らの人生を代わって生きることはできない」(p.18)と,もどかしさを抱えながらも,日々の生活を大切に営み,子どもとともに職員も成長していく。過酷なだけでなく,笑顔も歓声もあり,子どもたちの成長をそばで見届けられる現場でもあるのだ(学校現場と似ている)。
 「物語の力」というエピソードでは,絵本や小説,ドラマ・映画との出会いが,子どもたちの成長や回復につながる様子が紹介されている。「理解してもらえた」「ひとりではない」という感覚が子どもたちの支えになり,支援者もまた物語をとおして,子どもたち自身の物語を理解することができるのだという。図書館で出会う物語が,誰かの支えになる。そんな気持ちに私も支えられる。

(佐橋はるな:神奈川県立大師高等学校)

知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと

立花隆著 文藝春秋(文春新書) 2020 ¥950(税別)

 田中角栄,宇宙,武満徹。これは全て,昨年亡くなった立花隆の著書のタイトルの一部である。これだけでも,手がけたテーマの広範さが伝わるだろう。文理を飛び越え,芸術にも造詣が深い知の巨人の原動力は,いったい何だったのか。本書は,立花が読みに読み,書きに書いた半生を語り尽くす一冊である。
 『田中角栄研究 全記録』(講談社 1976)は,時の総理大臣を引きずり下ろした一作。実は続編の構想もあったが,田中側の妨害で握りつぶされてしまう。だがここから,田中を追った「原稿用紙にして一万枚を超える仕事がスタート」(p.196)した。「あんな奴らに負けてたまるか」という執念がエネルギーだった。
 だが,一つだけのテーマをここまで追い続けることは不可能だったという。可能にしたのは,複数の執筆を同時進行していたことだった。その一つが『宇宙からの帰還』(中央公論社 1983)である。元々立花は,素粒子物理学を研究しようとしていた。ある理由から断念することとなったが,科学分野への関心は変わらなかった。
 立花を語るうえで忘れてはならないのは,芸術分野の著作である。その一つが『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋 2016)だ。立花は武満徹の音楽を高く評価していた。それは海外でも同じだった。ただ日本人だけが,その価値を理解していなかったのだ。立花が武満を書き続けたのは,海外と日本の差を埋めるためでもあった。
 政治にしても科学にしても芸術にしても,筆を進めさせたのは強い思いだった。知の巨人も私たちも,根底にあるものは変わらない。79年の歩みが語られる中で,そんなことが見えてくる。だからこそ,立花隆のどの分野の著作も,読者の関心を呼び,支持を集めているのだろう。

(林 美樹:埼玉県立熊谷図書館)

新型コロナ「正しく恐れる」

西村秀一著 井上亮編 藤原書店 2020 ¥1,800(税別)

 本書は新型コロナウイルス感染症(以下,新型コロナ)に罹らないための方法を書いたマニュアル本ではない。国立病院機構仙台医療センター・ウイルスセンター長の西村秀一氏が,編者である日本経済新聞編集委員・井上亮氏のインタビューに答える形で,新型コロナについてメディアが報じる情報と,専門家として登場する人々の発言について問題提起する1冊だ。
 ウイルスは普通,宿主を絶滅させない方向へ変異することに触れており,恐怖を煽りかねない過度の対策に疑問を呈している。本書刊行の2020年10月は,英国やインドで感染力の強い変異株が確認されるよりも数か月早く,国内では冬を前に第3波の兆しが見え始めた頃である。
 信頼できる情報をどのように見分けるか,採られている対策は有効か,本当に空気感染はないのか。SARS(重症急性呼吸器症候群)の感染現場である台湾で調査した経験と,新型コロナの感染者を多く出したクルーズ船に乗り込んで現場を調査見分した結果を踏まえ,「正しく恐れる」ために必要な冷静さと,考える材料を与えてくれるのである。
 新型コロナが流行し始めた当初,私は図書館におらず,コロナ禍2年目の2021年7月にレファレンス担当として戻ってきた。そのときはカウンターに「相談は15分以内」との看板が置かれていて驚いたものだった。一方,対面でのサービスの不十分さを補うために,Webを活用したサービスが格段に充実しており,利用者にとっては災い転じて,との思いもあったのではないかと感じながら過ごす日が続いている。
 本書には続編『新型コロナ「正しく恐れる」II 問題の本質は何か』が2021年6月に刊行されている。併せて読むと,なかなか収束しないコロナ禍のもやもやを,少し整理できるだろう。

(永井夏紀:中央大学図書館)

図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?

生きものの“同定”でつまずく理由を考えてみる
須黒達巳著 ベレ出版 2021 ¥2,000(税別)

 野山で名も知れぬ草木や鳥に出会ったとき,無性に名前を知りたくなる。しかし,図鑑で調べてもなかなか名前がわからない。うまい調べ方がないかと思っていたときに出会ったのがこの本だ。
 本書は,生き物の名前を図鑑で確定すること(同定)がなぜうまくいかないのか,どうすれば同定ができるかをわかりやすく述べたものである。
 図鑑を見ても名前がわからないのは,外国人が「ぬ」と「ね」が同じように見えてしまって,日本語の辞書を引けないことと同じだ。ではどうするのか。それは,生き物の「特徴を正しく捉える目」(p.19)を持つことが要だという。例えば,血を吸うカは,口,翅,脚の3点に特徴がある。それを「捉える目」ができると,カと似た虫の写真の中から簡単に見つけられるようになる。図鑑の使い方がわかる始めの一歩である。
 著者は,専門外であるシダの同定に挑戦してみる。初めは「シダなんてどれも同じ」(p.84)に見えていていたが,図鑑の解説などで全形,質感,毛などシダの特徴を見分けられる目をつくりながら観察を続けると,近所にあるシダの名前がわかるようになり,シダの世界にはまっていく。一年後にはシダの標本作りへと没頭していく姿が微笑ましい。
 同定の難しさがわかっている著者は,執筆した『ハエトリグモハンドブック』(文一総合出版 2017)では,初心者が容易に楽しく同定できるように工夫を凝らす。家の中,家の外壁,樹林など見つけた場所の違いによって容易にクモの種を絞れるように編集する。さらに,対象とするクモと類似種を比較対象ができるようにするなど,調べる側に心を砕く図鑑作りへの熱い想いが伝わってくる。
 「私の『推し図鑑』」(p.174-177)では,紹介する生き物の図鑑に1冊ずつ解説があり,選書の参考になる。番外の仏像の図鑑にほっこり。

(秋本 敏:元ふじみ野市立図書館)

世界史は化学でできている 絶対に面白い化学入門

左巻健男著 ダイヤモンド社 2021 ¥1,700(税別)

 「初期猿人」と呼ばれる人類の始祖が誕生してから700万年。進化の歴史の中で人類は「火」を発見し,「技術」として使いこなしたことが現在の繁栄につながったのは有名な話であるが,これを「燃焼は人類が最初に知った化学的現象」として紹介しているのが本書である。世界史を化学でひもとく,珍しい切り口を持った一冊。
 本書は全18章であり,1章から3章までは導入として化学に関する基礎知識を紹介している。中でも物理学者ファインマンの「あらゆるモノは原子からできている」(p.22)という言葉と共に著者が語る「人は死後ゴキブリの体の一部になるかもしれない」という話は本書の方向性を示す意味でも特に興味深い。大昔に宇宙で生まれた無数の原子が形を変えて存在し続けていることを説明した一節だが,身近な生物に例えることで難しい話もわかりやすく読み進めることが出来る。
 第4章からは「アルコール」「ガラス」「金属」などが登場。いずれも世界を変えた物質として化学の進歩と共に語られるが,かの有名なレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の引用から始まる16章以降では「火薬」や「核」などにも触れることで化学が持つ「闇」に迫る内容となっている。特に,ダイナマイトを発明したノーベルが目指した「平和」の在り方については,化学の功罪を端的に表した例として現代の社会情勢にも通ずるところがあり,本書の読みどころとなっている。
 巻末では人類の発展とともに増大する二酸化炭素と地球温暖化の解決に向けた展望が語られる。昨今話題のSDGsにもつながる内容であり,2030年までの目標が明らかになった今,人類が達成するべき目標に目を向けると,歴史だけではなく未来までもが化学で出来ていると実感する。現代が「世界史」として語られる遠い未来では,化学が諸問題を解決していることに期待したい。

(菊池晃成:久慈市立図書館)

ゴミに未来を託した男 石井邦夫伝

杉本裕明著 幻冬舎 2021 ¥1,500(税別)

 本書の冒頭で石井邦夫氏が市川環境エンジニアリングの社長であったことを知った。社名は,東京都が循環型社会の推進を目的に整備したスーパーエコタウンに関連があったような記憶があり,化学系の会社のイメージを持っていた。石井氏の実家は廃棄物収集・運搬会社。その支店代わりに設立された当初は,浄化槽の清掃と保守・点検を主な仕事としていたと知り驚いた。日本では,し尿やごみを扱う人への偏見が強かった1970年代。既に米国では尊敬される仕事であった現実に,石井氏は認識を変え,将来に夢を持つ。
 そして,1980年代よりリサイクルに取り組み始める。材料プラスチックにむかない汚れた廃プラスチックと古紙を原料にしたRPF(固形燃料)の製造,廃プラスチックからペレット(再生品の材料となる)の製造,フロン(廃冷蔵庫や廃エアコン)の破壊処理,廃家電のリサイクル,食品廃棄物のバイオガス化,容器包装プラスチックのリサイクル等次々と,ノウハウのない手探り状態でも果敢に取り組んでいった。著者は,実際に処理施設を訪れ,初期の担当者に話を聞き記述している。それぞれのリサイクルを行うための新しい機器での実験,よりよい素材にリサイクルするための工夫や,本番稼働後の想定外のトラブルへの対応や処理の実際の流れも書かれていて私は引き込まれながら読み進めた。また,法律や国の施策ができるまでの記述も省庁による力関係や考え方の違いがあっておもしろかった。
 現在では当たり前のように定着しているリサイクル技術を日本でリードし,業界全体の社会的認識の向上に努めた人物なのに一般的に名を知る人は少ないのではないだろうか。私は,この本で功績を初めて知り,日常生活を支えているのに,あまりにも知らない廃棄物処理業界のことを垣間見ることもでき,伝記というジャンルの面白さを改めて感じた。

(中田由起子:府中市立中央図書館(東京都))

#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム

石川優実著 現代書館 2019 ¥1,300(税別)

 昨年の秋,知人から勧められて,石川優実さんの講演会に参加した。「#KuTooから考えるファッションとジェンダー」というテーマで話され,講演後に著書を読んでみた。石川優実さんは,2017年に芸能界で経験した性暴力を#MeTooとハッシュタグをつけてTwitterに投稿した。それ以降,ジェンダー平等を目指し活動され,2019年に職場でのパンプス義務付け反対運動#KuTooを展開,世界中のメディアで取り上げられ,英BBC「100人の女性」に選出された人である。
 この本の表紙は,女性が革靴を履き,男性がヒール付きのパンプスを履いている。石川さんは,葬儀会社に勤めていたが,ヒールを履くことが義務付けられ,身体的に苦痛だったため,その仕事を辞めざるを得なかった経験から,「職場でのヒール・パンプスの強制をなくしたい! 女性も男性と同じぺたんこの革靴を履くよう認めてほしい」と#KuTooのハッシュタグをつけてTwitterに投稿し運動が始まった。著書には,運動を始めた経過と,バッシングを受けたツイートに対する反論,女性の労働について専門家との対談が記載されている。
 自分自身,大学生の時にヒール付きのパンプスを履いて就職活動をしていたことを思い出した。石川さんと同じく,「女性のフォーマルな正装」なのだと,それまでしていなかった化粧をして,嫌いなストッキングを履き,足が痛くて辛かったけれどヒールを履いていた。当時はそれが社会の常識なのだと疑いを持つことはなかったが,著書を読んで,ジェンダー・ハラスメントに当たると知った。石川さんが講演の中で「運動していかないと,社会は変わっていかない」と言われたことが一番印象に残っている。自分の違和感を放置せず,既に出来上がった価値観を疑い,行動することを教えてくれた。

(山下晶子:滋賀県立八幡高等学校)

数学ガールの秘密ノート 整数で遊ぼう

結城浩著 SBクリエイティブ 2013 ¥1,400(税別)

 1から31までの数字のうち16個の数字が表示された異なるカード5枚を使って,相手が思い浮かべた日を即時に当てる。そんなマジックを目の前で披露されたら,何かタネがあるのだろうと思いつつも,驚くだろう。
 本書は,人気の高い『数学ガール』シリーズに含まれる『数学ガールの秘密ノート』の2冊目。「整数」に関する5つの題材について,「僕」と三人の女の子が数学トークをひたすら繰り広げ,読者はそのトークに耳を傾けることで,数学の理解を深めることができるようになっている。
 さて,上記のマジックは本書の5つの題材のひとつ,「数当てマジックと31の謎」の章で出てくる。その「数を当てる方法」は,私でもすぐにできる程度に意外と簡単なものである。だから,本書では「数を当てる方法」ではなく,「数が当たる理由」に主眼を置いて「僕」と中学生の従妹のユーリのトークは進む。私が感じた疑問に,絶妙なタイミングでユーリが質問してくれ,「僕」が丁寧に説明してくれるので,なんとなく私もトークに参加している気分になれる。二人のトークは,「数が当たる理由」を考える過程で,カードに使われている数字が31である謎と「冪乗(累乗)」との関係に及び,そこから「2進法」に至るが,そこでも私はユーリと一緒に「そっか!」と思わずつぶやいてしまった。
 「彼女たちの話がよくわからなくても,数式の意味がよくわからなくても,先に進んでみてください。(中略)そのとき,あなたも数学トークに加わることになるのですから。」(p.iii)と本書の冒頭にあるが,まさにそのとおりであった。
 なお,本書ではこの他に,参考書を読んだだけでは絶対に理解できそうもない「エラトステネスのふるい」や「数学的帰納法」を題材にしたトークもある。いずれもトークを読み終えた後は,理解できたような気になるから不思議である。

(稲木美由紀:神奈川県立川崎図書館)

親を頼らないで生きるヒント 家族のことで悩んでいるあなたへ

コイケジュンコ著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2021 ¥820(税別)

 家族のことで悩んでいる若者に向けて書かれている本書だが,まずは子どもの周囲にいる大人に読んでほしい。家族に関連するさまざまな困難を抱えている子どもの事例と支援先を具体的に知ることができる。また,身近なところにいるかもしれない,ということを考えられる。
 子どもにとっての家族の問題は,外から見えづらく,当事者も自分が支援を受けるべき状況にいることにも気づきにくい。自分の状況を客観的に見るために,本書ではいろいろな立場の大人とつながる大切さを述べている。そして,一人目の大人の対応だけであきらめないで,相談しようと繰り返し書かれている。自分を客観的に見るには,この本のように困難な状況が書かれた本との出会いも役に立つ可能性がある。こういった本は,たとえ学校図書館であっても,「あなたにおすすめ」と手渡すのはためらわれる。必要とする子どもにうまく出合わせられるようにしたい,と思いながら読んだ。
 一章と三章は概説的な説明がある。具体的な支援先情報も掲載されている。コラムとして「里親制度とは」などの基礎知識がまとめられている。この本の中心は,二章の家族に関連する困難を抱えて生きてきた九人のインタビューである。支援制度や,助けてくれる大人との出会いで,少しでもよい育つ環境に移れたり,進学や就職など自分の希望する進路へ進めたりしたこと,困難な状況にある人に向けたメッセージが書かれている。
 また,この本の中には学校図書館や公共図書館に通って本を読んで,国語の先生や司書と交流するなど,読書を心の支えにしていた人や,海外ドラマなどから空想の世界に接することで自分を保つことができた人などが出てくる。ものがたりや本の力を感じることもできた。

(千田つばさ:東京都立町田総合高等学校)

フォントの話をしよう

パイインターナショナル 2021 ¥2,200(税別)

 本書はさまざまなフィールドで活躍するグラフィックデザイナーに,文字を扱うことについてインタビューして回った一冊である。大きく3つのカテゴリーとして“ブランディング”,“ブックデザイン”,“雑誌,WEBデザイン”とそれぞれのフォントとの関係性について紹介されており,一見専門的な一冊のように思えるが,その実私たちにも伝わりやすい内容で面白く読めてしまう。
 この本を読んでいると,私たちの生活がいかに文字に囲まれているか(=フォントに囲まれているか!)ということに気づかされる。私たちが当たり前のように目にし,手に取っている1つ1つに意味のあるフォントが存在し,こちらに語りかけてきているのだ。ああ,あの商品のこのフォントはこんな意味で採用されているのか…と理解することで,もっと多くのフォントが見たくなる。そして,これまで見えてこなかった文字たちが急に視界に入ってくるような感覚を抱く。これは嘘ではない,ふぉんとの話である。
 視点を変えてみよう。私たちは普段,フォントを使う立場でもある。図書館からの発行物や,書架に置くサイン,最近ではInstagramなどで画像データをデザインするときなど,幾度となくフォントの選択を求められる機会があるだろう。これは図書館員に限らず,どんな立場の人にも当てはまることだと思われる。
 大切なことは,私たちが何を伝えたいかだ。伝えたい相手にどうなってほしいのか。そのための手段としてそのフォントは適切なのか。そんなことを改めて考える機会を与えてくれるのが本書である。掲載されている実例を通じて,プロフェッショナルの想いに触れることで,新しい視点を手にすることができる。
 私もそうだったが,この本を読んだ人は,自然と誰かと話をしたくなるはずだ。ぜひ私と一緒に「フォントの話をしよう」。

(増田隆人:豊橋市まちなか図書館)

スタートラインに続く日々

今村彩子著 桜山社 2019 ¥1,500(税別)

 5年前から手話の授業に携わるようになり,もっと身近に手話を知ってもらいたい。また,その人たちの生き方や考え方に触れ,手話の学びをもっと多くの生徒たちに広げていきたいと思っていた。そんなときに出会ったのが今村彩子氏のエッセイだった。
 今村監督は生まれつき耳が聞こえず,中学校・高校時代は「聞こえる世界にも聞こえない世界にも私の居場所はない」(p.28)と2回も転校を繰り返し,高校1年生のときに生徒会長として立候補し,当選。愛知県内のろう学校出身者として初めての国立大学合格も果たす。大学在籍中に留学し,映画製作を学び,現在は多くのドキュメンタリー作品をプロデュースし,全国各地で上映している。本書は今村監督のドキュメンタリー作品を軸に,それらの撮影の背景や秘話を語っている。
 どんな場面でも体当たりで取材に臨み,時に葛藤して悩む著者の姿が各章から垣間見え,ここから多様な人たちと共に学び共生するためのヒントを読者は得られることであろう。ろうや難聴だけではなく,LGBTや自閉症など,マイノリティーへの理解を深めるきっかけにもなる。また,2013年に『架け橋 きこえなかった3.11』を発表した今村監督は現在も宮城に通い,熊本地震,西日本豪雨,新型コロナウイルスの流行といった困難の渦中にいる聞こえない人たちの姿を記録し続けている。特に印象深かったことは今村監督の「本当の障害は社会にある!と考えています。今の社会が健常者を基準にして成り立っているので,それに当てはまらない人たちが不自由な思いをするのです。」(p.317)と語る姿だった。
 自らも手話に携わる立場として,このメッセージを多くの生徒たちに伝えなければいけないと感じた。聞こえる人も聞こえない人もみんなが自分らしく生きていける社会を私たち,一人ひとりが考えていかなければならない。

(岩崎東里:姫路女学院中学校・高等学校)

ケアの倫理とエンパワメント

小川公代著 講談社 2021 ¥1,500(税別)

 タイトルの「ケア」という言葉を見て,医療や介護の本と思うかもしれないが,本書は文学を読むことが固定観念からの解放につながると教えてくれる,本が好きなあなたにとって希望の書だ。
 効率や経済的価値,自立が求められ,その規範から外れるもの,たとえば妊婦や病人,障害者やLGBTQといった弱者が見えなくされている社会に,息苦しさや限界を感じている人も多いだろう。
 文学は,自分が弱者になるかもしれないという想像力や当事者意識が欠如している社会に揺さぶりをかけることができる。本書が取り上げているヴァージニア・ウルフや平野啓一郎らの作品では,共感力に優れた人物として両性具有者が描かれ,状況に対して善悪ではない判断がなされる。文学は,こうあるべき という観念から外れた存在や考え,答えの曖昧さを祝福してくれる。それは今の社会に抑圧を感じる人へのケアにもなるだろう。
 文学を読み,登場人物に感情移入することは,あなたの中に新しい他者を生む。他者がどんな葛藤を感じ,どのように行動するかをあなたは体験する。読めば読むほど,新しい価値観に出会い,決まりきった答えなど一つもないと気づく。これは本書で説く「ケアの倫理」そのままだ。「『ケアの倫理』は与えられたシチュエーションにおいて人間がいかなる葛藤を感じ,そこからどのように行動するかについて考えていく方法論」(p.27)。文学を読むことで,あなたは「ケアの倫理」を身につけていた。
 コロナ禍によって誰もが一人では生きていけないと気づいた。他者と共にどう生きていくのか。浮かび上がるのが,読書によって生まれたあなたの中の複数の他者だ。決まりきった答えなどないと知っているあなたは,他者と共に逡巡し,考え続けることができる。文学が,他者との関わりのガイドになると教えてくれる本書は,本が好きなあなたをきっと「エンパワメント」してくれる。

(熊谷充紘:豊田市中央図書館)

1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人

川内イオ著 ポプラ社(ポプラ新書) 2020 ¥900(税別)

 本書では,規格外の稀な人を発掘し取材する「稀人ハンター」を自称するフリーライターである著者が,10人の食のイノベーターを紹介している。ビジネスで成功した人の企業戦略を語った本はたくさんあるが,この10人はビジネス的テクニックではなく「美味しいものを作りたい」という熱い想いを胸に社会に果敢に挑む人たちである。彼らが作っている塩,パン,チーズ等は,それぞれオーダーメイドや,店舗を持たない通販専門販売や,店舗はあっても月に一度しか営業しないなど,ユニークな形態で販売されている。新規事業を始めるには資金や広報戦略など課題はたくさんあるが,「いかに売れるか」ではなく「いかに美味しいものをつくるか」に中心を据えて邁進していく生産者の生き方は大変爽快である。
 信念を胸に抱いた彼らのチャレンジは孤独だが,世間に対して決して批判的ではない。作るのが好き,人が好き,美味しいものが好き。好きなものに向かって突き進む揺るぎのない姿勢には,何が起こるかわからない不安の多い社会を生きる私たちを安堵させる何かがある。
 このような企業形態が可能となったのは,生産者と顧客が共に情報発信できるネット社会の特長でもある。その特長を的確にとらえ,本書では各章の終わりに,商品が購入できるウェブサイトの二次元コードが記載されている。これは編集者の案だとのことで,「良いものは良い」を根っこに「作りたい」気持ちのままに突き進む生産者,そこに光を当てる著者,それらの意をくんで本書にまとめあげる編集者,三者三様に素晴らしい。
 世界は広く,チャンスはみんなが等しく手にしている。何からきっかけをつかむかは本人次第。人のもともと持っている力を信じたくなる本である。

(笹川美季:府中市立図書館(東京都),日本図書館協会認定司書第2012号)

学校の枠をはずした

東京大学「異才発掘プロジェクト」の実験,凸凹な子どもたちへの50のミッション
東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室編 どく社 2021 ¥2,000(税別)

 今の学校教育で育まれることも多いが,その中では息が詰まる子どもたちもきっと少なくない。
 こちらの本には,集団での学校生活において何らかのトラブルを抱えた凹凸な子どもたちが,さまざまなミッションを通して自ら考え,学び,行動し,何かを得ていく様子が記録されている。彼らは学校という枠から飛び出し,学校ではなかなかできないことや学べないことに取り組んでいく。
 ミッションの内容,それに対する子どもたちの反応や行動をたどるだけでも十分に面白いが,大人がちくりとするような文章で気付きも与えてくれる。その中でも「利便性と引き換えに失ったもの,それは遠さの感覚だ。」(p.31)という文章が特に印象的だ。五感,感性といった人間の感覚。手間と暇をかけて体験する労力と気力。利便性は日本社会を発展させたかもしれないが,人間そのものはどうだろうか。考えさせられる一文だった。
 課題や興味について自分で考え,自分で行動する。全体を通して感じるそのテーマこそ,失われたものを取り戻す術なのかもしれない。
 大人が子どもにできることは,正解をすぐに渡すことでも結果を急ぎ求めることでもない。可能な限り待つこととサポートすること,そして何かを得られたときに一緒に喜ぶこと。それが子育て奮闘中の私がこの本から学んだことである。読後感じることは人によって違うかもしれないが,学びの本質を垣間見ることのできる一冊だ。

(濱田実里:淡濱社,元利尻町交流促進施設どんと郷土資料室(図書室))

となりの難民 日本が認めない99%の人たちのSOS

織田朝日著 旬報社 2019 ¥1,500(税別)

 死因は「飢餓死」。2019年10月4日の東京新聞で長崎県の大村入国管理センターで亡くなったナイジェリア人の死因を出入国在留管理庁がそう認めたことが報じられた。先進国であるはずの日本でハンガーストライキによる「飢餓死」。この衝撃は忘れられない。その後も報じられる入管の数々の問題行為。2021年3月にはスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなり,大きな問題となった。今も政府の不十分な対応にご遺族の苦しみは続いている。
 日本は難民の受け入れが先進国の中でも極端に少なく,入管にも問題があることはSNSに流れる情報からなんとなく知ってはいたが,この本を読むと,その問題の大きさに驚かされる。日本と世界の難民・移民への対応の違い,守られていない人権。著者は実際に入管に収容されている人々への面会を重ねている。そのため国連人権委員会からもたびたび指摘されている日本の難民に対する人権侵害,特に期限のない長期収容による恐怖が具体的に記されており,暗澹たる気分になる。それほどまでに日本の難民政策は問題が多い。
 しかし,絶望しているだけでは問題は解決しない。より多くの人にこの現状を知ってほしいと願っている。この本とほぼ同時期には日本に暮らす難民の故郷の味と共に紹介した『故郷の味は海をこえて 「難民」として日本に生きる』(安田菜津紀著・写真 ポプラ社)が出版され,少ないながらも難民認定され日本に暮らす人々の様子を知ることができた。また,中島京子氏は入管や移民政策をテーマにした小説『やさしい猫』(中央公論新社 2021)を出版した。併せて読むと,問題点だけではなく,「難民」という言葉でひとくくりにされてしまいがちな人々にも一人ひとり違う物語があり,解決するためにすべきことがみえてくるのではないだろうか。

(鳴川浩子:玉川聖学院)

バイアスとは何か

藤田政博著 筑摩書房(ちくま新書) 2021 ¥860(税別)

 バイアスとは,人間がさまざまな対象を認知するときに生じるゆがみのことだ。人の性格や能力,印象,自分や他者がどんな人間かを都合よく認知し,物事の判断や意思決定に影響する。これらはほぼ無意識下で作用しているということらしい。
 「確証バイアス」の項では,内向的であると仮説を立てられた人物が図書館司書に向いているか,を大学生に問う実験があげられている。このバイアスは過去の経験や自分の信念からくる仮説に対し,それに近い情報を周囲やインターネットなどから無意識に選び取る。結果「やっぱりそうなのだ」とその仮説を強化したり,正しいと思い込んでしまう。「バイアスって言葉,最近よく聞くなあ」と本書を手に取った私はまさしくこれである。世の中で話題と呼ばれる事柄の多くは,こうした人間の無意識のバイアスを利用しているのではないか。バイアスのことをよく知る誰かによって,私たちは操作されているのか?
 さまざまなバイアスが無意識下で働く理由に「生き残りのため」という進化心理学の観点がある。1,000円を得る喜びと失う痛みを比較したとき,数値的には同じでも,後者の方がその感情は大きくなるという。今あるものを保持する方が,生き延びるために有利と考えるからだ。そしてこの事実を知った後でも,これらの感情を意図的に操るのは難しい。さて,私たち人間はどうしたらいいものか。完全に平等で均一な判断や意思決定はもうできないのであろうか。
 著者は言う。「自分の都合のいいようにゆがんで見えるものであったとすれば,それは私たちが世界や他者や,あるいは自己を,自分にとって良い意味のあるものとして認識したいという方向性の表れなのかもしれません。」(p.249)あまりに健気だ。機械ではない,不完全な,ゆがんだ自分という人間への愛おしさを感じる。

(西倉幸子:飛騨市図書館)

SF思考 ビジネスと自分の未来を考えるスキル

藤本敦也,宮本道人,関根秀真編著 ダイヤモンド社 2021 ¥1,500(税別)

 50年後の図書館はどのように変化しているだろうか。50年前にはOPACがなく,所蔵情報は専ら各図書館に電話で問い合わせていたことを思うと,想定外の変革が起こるかもしれない。また,未来の図書館を描こうとすれば,当然ながら未来の社会を考えることになり,考慮する要素も複雑に絡み合っていく。そんな遠大な構想を描くとき,本書が役に立つはずだ。
 本書はSFの発想を取り入れた思考法,ワークショップ形式による未来像の構築ステップ,活用方法等を解説する。そして,未来像をもとに作家と共創したSF小説とそのメイキングを掲載している。物語を介することで未来像が一層明確かつ身近になり,同僚や市民らに広く共有できる。
 筆者によると,SF作品の登場人物は大抵,「斜め上の未来」に暮らす。これは,①予想外の未来社会,②そこに存在する課題,③その解決方法,という三段階の未来予測の上にSFが成り立つからである。例えば,特定の技術が異様に発展したら? その世界で暮らす人の悩みは? それを解決する制度やビジネスとは? と思考を重ね,予想外の未来へ進んでいく。しかし,課題や解決方法に普遍性を持たせることで,読者は現実につながる洞察を発見できるだろう。実は,本書に掲載しているSF小説には2070年の国立国会図書館こども図書館のレファレンスAIが登場する。簡便な一方で,その時代の主流となる探索手段からこぼれると,情報へのアクセスが難しくなると感じられた。この課題意識は現代のOPACやGoogleの検索に通じると思う。
 アイザック・アシモフの「ロボット三原則」がロボット研究や制度設計に影響を与えたように,SFを契機としたイノベーション事例は多数ある。大胆に思考を飛躍させて,未来の図書館を夢想するのも悪くないだろう。

(森口 歩:東京都立中央図書館)

ミュージアムグッズのチカラ

大澤夏美著 国書刊行会 2021 ¥1,800(税別)

 博物館に勤務する司書としては「ミュージアムグッズ」とくれば見逃せない。当ミュージアムライブラリーでは学芸員の研究用資料だけでなく,利用者に役立つ資料も収集しているが,「ミュージアムグッズ」を扱う本は希少だ。
 本書は,ミュージアムグッズのカラー図版満載で読みやすく,入手に役立つ情報もついている。全国の博物館の中から著者が選んだ49館を四つのチャプターに分け,そのミュージアムグッズを1館につき見開き2頁で紹介する。群馬県立歴史博物館の「発掘&修復可能なハニワクッキー」や上野動物園の「ほんとの大きさパンダの仔」など,その博物館ならではのオリジナリティーがあって楽しい。一見カタログ本のようにも見えるが,チャプターごとに冒頭で3館ずつ紹介される各4頁のインタビューの記録を読むと印象が変わる。
 著者は,大学でデザインを学び,大学院で博物館経営論をベースにミュージアムグッズの研究に取り組んで修士論文を書いた。現在もフィールドワークを欠かさず,1,000点を超えるコレクションを持つという。そんな著者が「作り手の想いを聞かせてもらうために,日本中を駆け回って開発秘話を伺い」(p.5),グッズを開発した学芸員やショップ運営者,普及担当職員等から聞いた話を披露している。学芸員は研究成果を発信し,収蔵品の魅力や研究の面白さ,驚き,醍醐味などを現場感覚そのままに伝えたいと願っている。そんな学芸員の声やこだわりを大事にして開発されたグッズは魅力的だ。著者の的を射た問いかけが,ミュージアムグッズに込めた「博物館の魅力を伝えたい」という真摯な想いを語らせている。
 ミュージアムグッズの魅力を楽しみつつ,博物館を支える人々の熱い想いに触れ,文化や自然を守り伝える社会教育施設である博物館という存在を見つめ直すことのできる1冊である。

(森 由紀:神奈川県立歴史博物館ミュージアムライブラリー)

d design travel KAGAWA

D&DEPARTMENT PROJECT 2019 ¥1,900(税別)

 香川県出身の画家・猪熊弦一郎の美しい表紙絵で始まる本書は,その土地にずっと在り続けるデザインが「その土地らしい考え方」であると定義し,郷土を再確認させてくれる。このd design travelシリーズは,2009年から都道府県ごとに特集され,現在は29都道府県が出版されている。本書は編集部が旅人の視点で約2か月間,香川県内を暮らすように旅して,「ロングライフデザイン」の視点で本当に感動したものだけを紹介する。これは,その土地に根づいた長く続くもの,その土地の個性=らしさを観光・飲食・買物・喫茶・宿泊・人物の六つのカテゴリーに分け,美しいデザインであることを基準に再定義したものだ。
 人の生きざまにもスポットを当てる。例えば,町を楽しみ創意するユニークな企画を展開する高松琴平電気鉄道㈱社長や琴平町出身の画家・和田邦坊の魅力と偉業を発信する学芸員などだ。
 また,この土地から必然に生まれてきたものづくりを「かがわもの」とし,県外の人からみた驚きや不思議な事柄を集めた「香川のふつう」,香川県らしさがあふれ出るデザインや看板や風景を捉えた「香川もよう」や「香川の民藝」を紹介。そして県内に約700軒うどん店があるとされるが,実際に食べながら巡った「讃岐うどん」,うどん以外の美味しい飲食「香川のうまい」など全192ページの中に香川県の魅力がぎっしりと詰め込まれている。丁寧な取材から語られる奥深い文章と各所に添えた手描きイラストがカッコよく,興味をそそられ飽きさせない。
 本書は,土地に長く愛され続けている魅力が,年月と共に失われぬようにデザインを通して残す役目も担っている。
 日本で一番小さい面積の香川県が,美しく魅力的であることに改めて気づかされ愛おしくさえ感じさせてくれた。読み進めながら憧れを膨らませ,本を片手にこの地を訪ねてほしい。

(嶋田貴子:香川県まんのう町立図書館)

「決め方」の経済学 「みんなの意見のまとめ方」を科学する

坂井豊貴著 ダイヤモンド社 2016 ¥1,600(税別)

 私は大学で経済学を学んだ少数派の司書だ。せっかくなら自分の強みである経済学の本からおすすめしたいと考え,浮かんだのが本書である。
 本書はタイトルのとおり,ある集団が各個人の意見をまとめてある決定をするときに用いる「決め方」を,経済学の一分野である「社会的選択理論」の枠組みを中心に分析したものである。
 社会的選択理論は,「決め方」を各個人の持つ情報(好みや希望)を集団の意思として集約するための制度として捉え,数理的に分析することに特徴がある。本書では選挙等で幅広く用いられる多数決を分析の中心に取り上げている。多数決の問題点は直感的には広く知られているが,多数決という制度が情報の伝達や集計にもたらす問題として捉えることで,三択以上の投票ではより望ましい性質を持つ代替案が存在すること,二者択一の投票では多数決の利用を正当化し得る状況があるが,その条件は厳しいことを明らかにしている。
 本書を経済学の本としておすすめする理由は二つある。一つは,本書では経済学と聞いてよくイメージされるお金や景気の話がほとんどないからだ。つまり「経済学はお金もうけや景気の話をする学問」というよくある偏見を解き,経済学の奥深さを実感するのにうってつけの本なのである。もう一つは,「決め方」という制度を考える本書を通じて,読者が普段当たり前に受け入れがちなさまざまな制度を改めて考え,より良い生き方を実現するヒントになるのではないかと考えるからだ。
 なお,著者による類書として『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波書店 2015)がある。本書は具体例や図表を多く用いて,この分野になじみがない読者にもやさしく読める構成である一方,前掲書は学説史等を通じ,民主的な意思決定のあり方を追究する観点をより強く打ち出した記述となっている。あわせておすすめしたい。

(田口麻人:福島県立図書館)

配色アイデア手帖 日本の美しい色と言葉

心に響く和のデザインがつくれる本 [完全保存版]
桜井輝子著 SBクリエイティブ 2018 ¥1,780(税別)

 知識としての色の名前は,赤や青といった原色から始まり,徐々にバリエーションが増えていくが,その多くは洋名だ。厳密に色の名前を言い当てることを求められる機会はそう多くないと思われるが,紅緋(べにひ)色や蘇芳(すおう)色と言われるとわからなくても,マゼンタやワインレッドならだいたい想像できるという人がほとんどだろう。その理由として,洋名のポピュラーさや名前に用いられた物の色からイメージできる利便性があるのだろうが,和色の名前に多くの日本人にとって馴染みのない日本語が多いことや,日本文化を知らない人が増えていることも挙げられるのではないだろうか。
 さて,本書は配色やデザインを書名に掲げているが,ページをめくるとそこに広がっているのは配色の理論ばかりではなく心を和ませる芸術の世界である。帯に書かれた「心に浮かぶ日本の表現を形にできる新しい教科書。」というキャッチコピーに偽りはなく,日本文化や芸術,四季の行事,七十二候,日本列島の美しい自然の景色まで,さまざまなテーマを設け,それらを象徴する和色と伝統的な言葉の解説や実用的な配色例などが多数紹介されている。なかでも,律令制のもと,特定の位の者しか着ることを許されなかった衣服の色「禁色(きんじき)」や,反対に誰でも使用できた「聴色(ゆるしいろ)」,平安時代の公家の服飾の中から生まれ,色の組み合わせによって四季の変化を表現する「かさねのいろめ」は源氏物語にも登場する配色としても説明されており,頭の中にイメージされる物語の世界がよりリアルに鮮明に描き換えられていく感覚は心震えるものがあった。
 何かを彩る色としてどこかで目にしているだろうに,言い表せない色。本当に洋色で言い表せているのかわからない色。それらを正しく表現できるようになることは,同時に日本の歴史や文化を知るということなのだと教えられた1冊である。

(玉手可奈美:滝川市立図書館)

食べものから学ぶ世界史 人も自然も壊さない経済とは?

平賀緑著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2021 ¥820(税別)

 世界史は世界史でも,本書は世界経済史の本である。著者は本書で,飢餓と肥満,気候危機,そして現在のパンデミックに産業が受けている打撃等,今ある行き詰まりの因について,資本主義経済の成り立ちを「食べもの」を通して読み解くことで浮かび上がらせようとしている。
 人類の主食に穀物が選ばれたのはなぜだろうか。著者は『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(ジェームズ・C・スコット著 立木勝訳 みすず書房 2019)を引用しながら,保存がきく穀類は税の徴収や富の蓄積に都合が良い点において「昔から政治経済に組み込まれた『政治的作物』だった」(p.25)と指摘する。戦後,肉や乳製品の消費量が増加して食生活が洋風化した,と言われる通説もまた然り。この変化を「油脂や甘味を好むのが人間の本能的嗜好だから」で説明しきれるものではなく,背景には,小麦・大豆の過剰生産に陥り市場を海外に拡大したい米国の思惑と,企業再建と経済成長を目指したい日本の思惑の合致があった,と。さらには和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことも,日本国外に市場を求めて「日本人の伝統的な食文化」をブランド化する戦略と読むことができるとの指摘は衝撃だった。
 資本主義の行き詰まりは指摘されて久しいにもかかわらず,社会はいまだ経済成長で物事を測るのをやめない。その中で著者は,まず日々の食事を見直し,「作り手の見える食べ物」を選ぼうと呼びかける。食の選択は,家族の健康を守るだけでなく,経済第一ではない価値観の選択でもあることに気づいた。
 本書はジュニア新書にふさわしい読みやすさと併せ,関連する書籍や映画の紹介も多く,食の実態を知る入門書として勧めたい。

(白井恵子:君津市立中央図書館)

最初のRPGを作った男ゲイリー・ガイギャックス 想像力の帝国

マイケル・ウィットワー著 柳田真坂樹,桂令夫訳 ボーンデジタル 2016 ¥2,700(税別)

 RPG(ロールプレイングゲーム)と聞いて,みなさんは何を思い浮かべるだろうか。“ドラクエ”? “FF”? 先日の東京五輪でもそうしたコンピュータゲームの音楽が使われたことを,さまざまなニュアンスで想起する人もいるだろう。読書の時間を奪う,図書館の天敵だと考える人もいないとは言えない。
 だが,ガイギャックスなる一風変わった名前の人物が作った「最初のRPG」は,冊子体で出版されたものだった。それは「審判役が,空想上の冒険を用意」し,複数名の「プレイヤーは自分だけの特別な個性と各種能力を備えた『キャラクター』を作り,他のプレイヤーと力を合わせて冒険をくぐりぬける」(p.4)ために,キャラクターに何ができて何ができないか,冒険にはどんな障害が待ち受けているのか,ルールや世界観を提供する本だ。この人間どうしのRPGは現代日本ではTRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム)と呼ばれ,コンピュータRPGは,TRPGから生まれた子孫なのだ。
 研修でロールプレイをしたことがある,と思い出す人もいるだろう。ごっこ遊びの類か,と思う人もいるかもしれない。まさにそのとおり,「ごっこ遊びをゲームに持ちこんでみたらどうだろうと思いついて,出版にこぎつけた」(p.276)のが自分だと,ガイギャックス自身が述べている。RPGは人々を結びつけ,想像力による冒険の旅に出たいと願う「みんなのための靴」(p.310)となった。
 さて,最初のRPGは本だった。その後も多くの本が出版されているし,小説から映画,ゲームまで,RPGに影響を受けた作品は数知れない(たとえば映画『E.T.』で主人公たちが遊んでいるのも“最初のRPG”だ)。近年ようやく日本の図書館でもRPGに注目する動きが出てきているようだが,図書館員として,まずはルーツを知る資料に当たってみてはいかがだろうか?

(宇野亮一:国立国会図書館)

湯けむり行脚 池内紀の温泉全書

池内紀著 山川出版社 2019 ¥1,800(税別)

 著者は,ドイツ文学者である。ゲーテ,カフカからケストナー,エンデまで幅広く翻訳を世に送り出してきた。評論も多い。その専門分野以外に,洒脱な紀行の著作がたくさんあるが,その中に温泉紀行とも言うべきものが何冊か見つかる。
 「1975年あたりから90年にかけて…」(p.384)に熱中して温泉通いを続けたようだ。温泉紀行も当然ながらこの時期に生み出されたものだ。『湯けむり行脚』には,1980年代後半から2000年にかけて刊行した数冊に掲載された文章と『毎日グラフ』の後継誌『アミューズ』に1995年から70回ほど連載したものが,『池内紀の温泉全書』を副題にしてまとめられている。
 末尾には「掲載温泉一覧」としておよそ100か所のリストが載っている。著者の出かけた,とっておきの湯ばかりである。そのころは「見つける目さえもっていれば,そして多少の不便をいとわなければ,簡単に行きあえた。…」(p.4)と著者は言う。しかし,温泉がリゾート地として再編されてしまうとその多くは個性をなくし,つまらない存在になっていく。だからこそ魅力ある温泉を記録にとどめておくことには,意義がある。本書で著者が語っているのは,そのことなのだ。
 奈良県吉野温泉元湯を訪ねた紀行の冒頭に「出かける前に学問をしようと思った。そこで町の図書館で吉野関係の本をどっさり借りてきた。」(p.69)とある。そして,湯上がりの一杯をやっていると「しこたま学問を仕入れてきたせいか,歌の切れはしが泡のようにわいてくる。」(p.72)と記す。町の図書館で本を借りて学問を仕入れるということの豊かさが,さりげなく伝わる。著者の暮らしの中に,町の図書館があることが見えるようで,うれしくなった。
 残念ながら池内紀氏は,2019年8月30日に急逝された。本書が刊行されてわずか8か月足らず後のことである。

(大塚敏高:元神奈川県立図書館)

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版

マーシャル・B・ローゼンバーグ著 安納献監訳 小川敏子訳 日本経済新聞出版社 2018 ¥1,900(税別)

 「なんでわかってくれないの?」という台詞に覚えはないだろうか。大体の場合,これは「なぜ」相手がわかってくれないのかを理解するために発されている言葉ではない。それを誤って「理由はかくかくしかじかで…」と言ったら最後…。きっと目も当てられない結末を迎えることだろう。
 だが,このようなコミュニケーションは日常茶飯事だ。かくいう私も,本書に出会う以前は望まない結末を何度も味わった。疲れているときに脱ぎっぱなしの靴下を見つけてしまった時は最悪だ。頭に血がのぼり「また!? 何度言ったら治るの? だらしない」と吠えてしまう。「うるさい」と言われたら喧嘩になり,「じゃあ10回言って」ときたら苛立ち,「ごめん」と謝られても別日に繰り返されたら,キレる要素が倍になるだけだ。
 しかし,本書に出会い,著者の知恵に触れ,残されたこんな詩にハッとした。「わたしがやりっぱなしにした家事を見て,がっかりしたといってくれてかまわない。しかし,わたしを『無責任』と呼んでも,やる気は起きないだろう」(p.56)
 私は,靴下を脱ぎ捨てたことに怒っているのではない。自分の大切な人に靴下は洗濯機に入れてとお願いした約束が破られた(事実)≒自分の気持ちが尊重されなかった気がして(解釈)残念(私の感情)だったのである。ということは,私は「約束を守ってもらえなくて自分が蔑ろにされた気がしちゃったよ。次は約束を守って」と伝えれば正しく自分を表現できていたのである。
 NVCとは,Non-Violent Communication(非暴力なコミュニケーション)であり,反応的な言動・行動を変え,両者が望む結果をもたらせる関係性を築くための意識と行動のガイドである。日常から平和的な関係性を築けるように,私自身も絶賛訓練中である。

(志賀アリカ:長野県小布施町立図書館)

世界の神話

沖田瑞穂著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2019 ¥900(税別)

 神話とは今,私たちにとってどのような存在なのだろうか。この本を読み終わった後なら,「不敗神話」といった使われ方だけではない,神話のおもしろさ,深さを改めて感じられるはずだ。
 聖なるものの物語である神話は,超ロングセラーとして語り継がれている。有名な地域別の神話の本は,児童向けから幅広く目にすることができる。
 その中でも本書は,読みやすい新書という形で世界中の神話が紹介され,解説とともに1冊にまとめられているため,手にとりやすくなっている。それも一般的に知られているギリシャ,ケルト神話といっただけでなく,オセアニアや南米,インドネシアといった国々の神話まであり,読みすすめていくうちに,魅力的な神々や展開に親しみを持ち,世界中を旅したくなる気持ちになってしまう。
 また扉絵にも見られるように,登場するキーワードから,絵画や音楽,演劇,ゲームや商品名など,現在でもさまざまな場所で,神話からの影響力の大きさに気づき,驚くはずである。勤務校で手に取る高校生の多くの理由も,そこにあると私は思っている。
 これらのことから,ジュニア新書はじめての人から,一般の方にまで幅広くおすすめすることができる内容である。
 さらに,神話の伝わり方や,登場する者たちに普遍的な内容が含まれる理由などにも迫っており,さらなる興味を進めていくことができる点も,著者の神話に対する姿勢とともに楽しみである。

(前田美香子:埼玉県立新座総合技術高等学校)

16歳からの相対性理論 アインシュタインに挑む夏休み

佐宮圭著 松浦壮監修 筑摩書房(ちくまプリマー新書) 2021 ¥880(税別)

 年に何冊か科学史関連の図書にも目を通すが,何度読んでも相対性理論を理解するのが難しい。
 本書は16歳の高校1年生鈴木数馬が,リケジョで科学部員の2年生渡井美月との出会いをきっかけに,相対性理論に挑んでいくという小説仕立てとなっている。部員の質の低下から廃部寸前の科学部。存続の条件として,顧問から相対性理論を的確に説明できることという課題が提示される。窮地の美月を助けるために,数馬は,自転車,スマホ,パンケーキなど,身近なものを使った思考実験を通し,相対性理論に迫っていく。
 ストーリーは取り立てたものではないが,一般の解説書とは違い,ストーリーを追いながら読者も一緒に思考実験に参加できること。多くの解説をそぎ落とし,特殊相対性理論,一般相対性理論の原理中の原理のみの解説に特化していることが,この本の特徴だろう。私にはそれまで読了した図書よりもイメージしやすい一冊だった。
 加えて100年越しにアインシュタインの予言が確認された2016年の重力波観測の発表のトピックを通し,相対性理論発見の意義,現在の物理学,天文学の到達点が理解できるようにも記されている。また,スマホの位置情報など,身近な事柄の中に相対性理論が生きていることもわかる。強いて言えば,「E=mc2」(特殊相対性理論からみちびかれる物質とエネルギーの式)が開いてしまった核兵器開発という負の側面にも一言言及があればさらによかったと感じる。
 すべての高校生がこの本を読んで相対性理論をスッキリ理解というわけにはいかないが,もし興味を持つ生徒がいれば,『ノーベル賞でつかむ現代科学』(小山慶太著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2016)を併せて紹介したい。歴史的背景から本書の内容を理解するには最適のガイドとなるだろう。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校)

47都道府県・発酵文化百科

北本勝ひこ著 丸善出版 2021 ¥4,000(税別)

 一つのテーマで日本文化を紹介する「47都道府県百科シリーズ」。このシリーズで私が紹介したいのが,健康食ブームで海外からも日本食が注目される中,醤油,味噌,日本酒など,多様な発展を遂げた日本の発酵文化を探求した本書である。
 2部構成となっている本書は,第I部で,微生物の働きによって,おいしさが増し保存性が高まるなど,食材に人間にとってよい作用をもたらす発酵について解説する。加えて,古代から現代に至る人々の暮らしと発酵の関わりを振り返るなど,発酵文化を理解するための基礎知識を記している。
 また,第Ⅱ部では,47都道府県ごとに,伝統的な発酵食品やそれを生み出す素地となった風土や文化を紹介している。加えて,伝統的な発酵食品を次世代に引き継ぐための取り組みについても報告しており,例えば香川県の章では,小豆島の「木桶職人復活プロジェクト」に触れている。
 「木桶職人復活プロジェクト」は,木桶職人が減少する中,木桶による発酵文化を残し伝えるため,木桶づくりの技術を共有し,木桶と木桶職人を増やすことを目指して2012年に始まった。毎年,木桶仕込みをするメーカーや関係者が小豆島に集まり,新しい木桶づくりを行っているという。
 くしくも本書発行直後の2021年7月,このプロジェクトの努力が実ってか,小豆島の大型の木桶を用いた天然醸造による醤油づくりなど,香川県の「讃岐の醤油醸造技術」を,文化財保護法の改正により新設された登録無形民俗文化財とするよう,国の文化審議会が文部科学大臣に答申した。機械化の流れの中,昔ながらの醤油づくりが受け継がれていると評価されたようである。
 日本各地にはその地域に息づく多様な発酵文化がある。本書を手に取り,自分自身が暮らす地域にどのような発酵文化があるか,調べてみてはどうだろうか。新たな発見があるはずである。

(藤沢幸応:香川県立図書館,日本図書館協会認定司書第1126号)

人新世の「資本論」

斎藤幸平著 集英社(集英社新書) 2020 ¥1,020(税別)

 人新世という地質年代と,資本論を結び付けて論じているところに本書の先駆性がある。ノーベル賞化学者パウル・クルッツェンが提唱した人新世とは著者によると「人間たちの活動の痕跡が,地球の表面を覆いつくした年代」(p.4)とする。それは人類の経済活動が環境を破壊し尽くし,地球が安定し自己修復できる限界を迎えていることを意味する。つまり,基本的な人類と地球の関係が変わってしまったことであり,これに強い危機感を持つ研究者から「グローバル・コモンズは,既成概念を超えて,人類の共通利益のために新しいガバナンスを求めている」1)と社会的に共有される富としてのコモンが語られる。
 著者はマルクス,特に晩期の地球環境と人類の未来に向けた研究の深まりに着目し,ソ連崩壊とともに歴史の彼方に忘れ去られた大著を読みなおそうとしている。経済学・哲学手稿など初期マルクスの疎外論が注目を集めた時期もあったが,生産力至上主義を清算して「『人新世』の環境危機を生き延びるためには,まさに,この晩期マルクスの思索からこそ学ぶべきものがある」(p.151)と読み解く。従来の全集には収録されていない研究ノート類を精査する中で,思想家マルクスの新たな地平を描き出し,「マルクスの概念には大きな拡張性がある」2)ことを主張する。資本主義が行き詰まり気候変動とコロナ禍を経験する中で,脱成長コミュニズムを提唱し「コモンに重きを置けば人新世の危機は乗り越えられる」3)と道を示している。私たちは人新世の時代を理解し,こうした提起にどう応えられるのだろうか。

1)石井菜緒子「グローバル・コモンズの責任ある管理」(『世界』岩波書店 2021年5月号)p.75
2)白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社 2020)p.20
3)斎藤幸平インタビュー(東京新聞2021年2月20日)

(若園義彦:元鶴ヶ島市立図書館)

ほろ酔い黒百合 北八ヶ岳・山小屋主人のモノローグ

米川正利著 山と渓谷社 2008 ¥1,800(税別)

 「黒百合ヒュッテ」は北八ヶ岳に位置する山小屋である。著者米川は母が開いた黒百合ヒュッテの二代目として小屋を守ってきた。1956年開設当初は,現在のようにヘリコプターでの荷揚げも,エコトイレもなく,大変な苦労があったことがうかがえる。このエッセイ集は,先代から紡いできた半世紀以上の八ヶ岳と小屋の歴史の記録である。
 エピソードは16ある。そのひとつ「犬」で登場する愛犬コロの存在は大きい。孤独な小屋番を癒し,時には登山者の命も救った。私が数年前この小屋の前で出会った年配の登山者は,過去に雪山で遭難しかけたときにコロに救われたと語ってくださった。「コロはすでに亡くなっているが,会いに来たんだ」と懐かしそうに話された柔和な表情が今でも強く印象に残っている。本の巻頭には,著者一家やコロの写真が収録されている。
 また「山岳ガイド」では,今は亡き世界的登山家の長谷川恒男氏,「遭難」では,レスキューに命をかけた東邦航空の篠原秋彦氏との交流を綴っている。素晴らしい自然に囲まれている場所だけに災害や遭難の危険とは隣り合わせ。小屋番は常に緊張感を持ち山の世界の厳しさと向き合わなければならない。登山道の整備,登山者の保護,山の管理など地道な作業にはただただ頭が下がる。
 著者は,プロの山岳ガイドの組織を作るために奔走するなど八ヶ岳のため尽力してきた。過酷な環境で培った柔軟さが幅広い活動につながっており,高所医学研究者の顔も持つ。著者のコミュニケーション力と発想力,魅力的な人間力は困難な世の中で生きていくためのヒントとなるだろう。新型コロナウイルス感染症拡大の中,小屋では感染防止の対応に苦慮していると思うが,収束後に真っ先に訪ねてみたい。現在の黒百合ヒュッテについてはhttp://www.kuroyurihyutte.com/に詳細あり。

(宮崎祐美子:所沢市立所沢図書館吾妻分館)

デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方

カル・ニューポート著 池田真紀子訳 早川書房(ハヤカワ文庫) 2021 ¥900(税別)

 ベストセラー『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著 久山葉子訳 新潮新書 2020)は本校でもブーム。高校生たちが「俺のことじゃん」と笑い合いながらも手に取る。スマホの誘惑,SNSのしがらみへの漠然とした不安は,彼らにとって切実なもののようだ。
 しかし本を1冊読んだくらいで人は変わらない(実体験)。「スマホ脳」を自覚できても,体に染みついた通知チェック,ネット渉猟の習慣は抜けず。これではいけないと,リベンジのため選んだのが本書だった。が,一読して内容に驚いた。著者の最大の関心は「生き方」をめぐる哲学的な議論。スマホ世代の「幸福論」といった趣きで,危機感をあおるだけの啓発書とはひと味違う。
 そもそも初代スマホは「通話もできる音楽プレーヤー」という単純なコンセプトだった――とは本書の明かす真相。SNSやアプリは営利を求めて発達したものであり,私たちがなんとなく手を出したあげくついつい使ってしまうのは,そう仕向ける企業努力の結果。はじめから個人の意思に勝ち目はないと,著者は励ましを込めて語る。
 「寝室に持ち込まない」の類の続かないハック以前に必要なもの。それは書名が示唆するように,個人の人生観なのだ。スマホでの気晴らしや不要な交流を絶ったとして,代わりに何をするか?――この問いから,読者はしだいに「本当に大切なこと」(本書の文庫化前の副題でもある)の探究へと導かれる。ときおり挟まれるソロー『森の生活』の言葉も時を超えて背中を押してくれる。
 後半の実践的なアドバイスは一見荒療治。しかし知的な話題の後だと納得がいく。「実行する勇気は……」が自然な感想だが,反面「実行しないのはなぜ?」という自問も頭を離れず。本書の哲学的性格,著者からのエールの力強さゆえだろう。

(新井直也:埼玉県立小川高等学校)

比べて愉しい国語辞書ディープな読み方

国語辞書ほど面白い遊び道具はない!
ながさわ著 河出書房新社 2021 ¥1,420(税別)

 読売新聞2021年4月28日朝刊14面の記事の「帰宅してすぐに作れる『速攻ゴハン』を教わることにした。」という一文に目が留まった。「速攻ゴハン」とは何だろう。記事の内容から時間をかけず,すぐにできる料理と読み取れた。「速攻」の意味に「すばやく攻撃する」以外に「すばやくする」という意味が加わったことを本書で知る。著者によれば,「単にすばやくする意の「速攻」を最初に載せた辞書は二〇〇六年の『例解新国語辞典』第七版のよう」(p.26)だ。
 著者は辞書の収集・研究家で,1000冊の辞書を所有している。本書はウェブメディア「Zing!」に掲載した記事を改稿したもので,国語辞書を引き比べる楽しさを教えてくれる本である。
 本書では①漢字でどう書くか,②似た意味のことばの使い分け,③適切な言い換え表現,④明治の文学作品に出てくる難しいことば,⑤現代小説に出てくることば,⑥毎日の暮らしに密着したことばの六つの視点でベストな一冊は何かを検証している。検証に使われた辞書は16冊。この検証のほかに辞書にないことばの用例を集める楽しさを紹介しており,例として,「一ページ」を見出し語として載せる辞書が少ない理由の考察は興味深い。
 本書を読むと,国語辞書がみな同じでなく,それぞれ違うものなのだと気づかされる。いつの間にか国語辞書を引き比べたくなる。冒頭で取り上げた「速攻ゴハン」の「ゴハン」に「料理」という意味があるか手元にある国語辞書で調べてみた。「食事」の意味はあるが「料理」まで書かれていない。「食事」には「食べ物」の意味がある。また,今年出版された『戦前尖端語辞典』(平山亜佐子編著 左右社 2021)の中のことばを使って,国語辞書の引き比べの読書会を企画してみたい。
 本書に国語辞書の見方を変えられた。

(石井一郎:町田市立金森図書館)

料理と利他

土井善晴,中島岳志著 ミシマ社 2020 ¥1,500(税別)

 この本は料理研究家の土井善晴氏と政治学者の中島岳志氏によるオンライン対談をまとめたものである。料理番組の中で「まあ,だいたいでええんですよ」と気負わず話す土井氏はTwitterでのつぶやきも楽しい。ふたりを結びつけたのは,中島氏の勤務する大学で始まった「利他プロジェクト」。そこでは,排他主義がはびこり分断が加速する現代の中で,より良い社会を実現するキーワードに利他という視点を掲げ対話を重ねている。
 料理というあたりまえの毎日の営みを社会学として論じているところが,この本の醍醐味。料理の利他は作る人と食べる人の間に生まれると土井氏は言う。季節のものを食し,素材の良さを生かすといった日本の家庭料理の中にある観念が,一汁一菜を唱える土井氏の思想につながっている。
 土井氏が基本だというご飯とみそ汁とつけもん。そこにある美味しさは人間業ではないという言葉に,私は敬愛する杜氏を思い出す。杜氏は酒造りには人の力が及ばない何かがあるんだよと話してくれた。「私たちは稲の種を醸し飲んでいる」と言い,酒蔵から半径5km内で採れた酒米だけをつかって醸された純米酒は地域の宝だ。
 私が好む美味しいものは多くが素材そのもの。秋田の恵みに感謝しかない。地域で育った野菜も果物も米も肉も,私が調理で手を加えることは少しだけ。料理が苦手ということは差し引いても,そのままで十分美味しいのだから仕方ない。いつもよりほんの少し丁寧に洗ったり切ったりすることが,食べる人へ心を寄せること,それが「利他」という自分のためではなく,自分ではないもののために行動することなのだと思う。
 対談の中で土井氏がポテトサラダを作る場面がある。食材を均一に「混ぜる」のではなく「ええ加減に」美味しい瞬間まで「和える」のがいいという。今夜のおかずにつくってみよう。

(石川靖子:横手市立平鹿図書館)

インプロがひらく〈老い〉の創造性 「くるる即興劇団」の実践

園部友里恵著 新曜社 2021 ¥1,800(税別)

 千葉県柏市で活動する高齢者インプロ集団「くるる即興劇団」の実践を紹介・分析する本である。
 インプロとは,脚本や事前の打ち合わせなく共演者や観客とともに物語を生み出していく即興演劇のことである。それ自体が上演されたり演劇の創作過程で用いられたりするほか,演劇以外の場面で,教育や学習の手法として利用されることもあるという。
 本書は博士論文をもとに執筆された。著者は学生時代にインプロに出会い,生涯学習論・高齢者学習論を専門とした研究者である。2014年に「即興劇で学ぶコミュニケーション」という生涯学習講座を開き,2015年に講座参加者を中心に「くるる即興劇団」を結成,定期的な稽古と公演を持つようになった。参加者の大半は,著者の想定より高齢の70代後半から80代の方。身体能力や認知能力もさまざまである。
 高齢者の学習活動は,「健康づくり」「認知症予防」等の観点で語られることが多い。当事者の切実なニーズでもあるのだが,著者は,あらゆる活動が「できなくならない」ための訓練として意味づけられる場合,「健康」でない高齢者の参加が否定されるのではないかとの問題意識を持っている。
 本書では,インプロのパフォーマンスや劇団員へのインタビューを分析する。たとえば,劇団員がルールから外れた際に「新しいゲームが生まれた!」と受け止めるファシリテーター(著者)。または,「障害」のある劇団員についての周囲の劇団員の意識の変化。「その場限り」で構築され,失敗・勘違いや「できないこと」を生かすユニークな関係性を読み解いている。
 場の性質は違っても,図書館にも多くの高齢者が来館する。関わり方について考えるヒントになるのではないだろうか。

(廣瀬恭子:千葉県立中央図書館)

マイパブリックとグランドレベル 今日からはじめるまちづくり

田中元子著 晶文社 2017 ¥1,800(税別)

 「マイパブリック」は著者の造語であり「自分で作る公共」と定義されている。では「マイパブリック」をどう作るのか。まず著者は「公共」とは「与えられるもの」「みんなのもの」ではなく,自分自身が「公共」であり,「公共」は自分でつくれるということを,さまざまな実践や経験による裏付けから本書で提言する。
 例えば「趣味」を「自分をしあわせだ,楽しい,と感じさせるためにする,無為の能動的な行い」(p.55)と定義づけた上で,心理学者アドラーの幸福3原則を絡めて持論を展開していく。かつ「パブリック」は地上(グランドレベル,地面)で実現してこそ,という論点は,それこそ地に足のついた生活に根差したものであり,だからこそ感覚的にも自然に納得し共感できる。
 「パブリック」とは,公共空間でも公共施設でもなく「公共的である状況」という明文は,胸にストンと落ちてきた。曰く,第三者との接触可能性(共有性),第三者にとっての「自分の居場所」(実践性),第三者同士が互いの存在を許容し合えること(関係性),この条件を満たす状況が「パブリック」であり,「まち」や「社会」が,グランドレベル(地面)やアイレベル(地面に立って,人の視界に自然に入ってくる風景)で「パブリック」な状態になってこそ人は幸せになる。幸せな人がいる風景が見える化されることで,よい「まち」よい「社会」が見えてくる,というのも当然,と納得である。
 そのために必要なのが「マイパブリック」で,各個人が「パブリック」を作り,自分が「パブリック」になることが勧められている。著者のような魅力的な存在とまではなれなくても,各個人が幸せを感じる「パブリック」を作ることが,「まち」をつくることにつながるのだと,本書で改めて確信することができた。

(小廣早苗:佐倉市立佐倉図書館)

日本語を,取り戻す。

小田嶋隆著 亜紀書房 2020 ¥1,600(税別)

 ニュースで「スピード感をもって」やら「骨太の方針」などと見聞きするたび,日本語としてこれでいいのか落ち着かない気持ちになる。あるいは,首相や閣僚,官僚の振る舞いに得も言われぬ引っかかりを覚えてしまう。そんな症状をお抱えの向きには,本書をおすすめしよう。
 言葉に向き合い,言葉にこだわる著者が,権力者たちの言葉を腑分けし,そこに潜むモノを暴き出していく。例えば,「アベノミクス」という言葉から,そのネーミングに経済政策の議論を成立させない機能があることを喝破し,政府発信の名称を無批判に伝える報道機関を批判し,首相の名前を冠するがゆえに惹起される政治的にして感情的な問題を浮き彫りにして見せる…といった具合にだ。モヤモヤしたモノが晴れる。
 元々が各種媒体で発表された時評コラムであり,皮肉に地口と諧謔を織り交ぜたその語り口が絶妙だ。著者は怒りと違和を表明し,鋭い分析と舌鋒で攻め,確固とした批評性を提示するが,あくまでも笑いを誘いつつだ。激しい糾弾や毒舌で相手をくさして溜飲を下げるタイプではないので,激情で血圧が上がってしまう副作用は少ない。
 表紙に描かれるのは,サイズの合っていない小さなマスクをつけ,毛並みの良さげな犬を抱えた,最も長く首相の座にあったアノ人の肖像。やがてこの符丁も通じなくなるであろうが,コレから喚起される負の心象はまだまだ現役だ。本書は時評集ゆえに,森友・加計問題,公文書の破棄・隠蔽・改ざん,無理筋の検事長定年延長など,言葉を雑に扱う者たちのアーカイブともなっている。
 言葉とは,コミュニケーション。権力者の口から繰り出される雑な言葉の先には,雑な扱いをされている我々がいるのだ。健全でまともなコミュニケーションを取り戻す,あるいは保つため,言葉に対して敏感に,丁寧に,しつこくこだわり続けることの大切さが,改めて認識できる1冊だ。

(野里 純:那覇市立開南小学校)

山小屋ガールの癒されない日々

吉玉サキ著 平凡社 2019 ¥1,400(税別)

 人生を変えたできごとは何か? この問いに,あなたの頭の中にはどんな答えが浮かぶだろうか。私にとってそれは山との出会い。インドア派だった私が山の魅力にはまり,ときには山小屋を利用しつつ山歩きをするようになった。そんな私が書名に惹かれて手に取ったのが本書である。
 この本は,山小屋スタッフとして10年間働いた著者が山小屋での日常を綴ったものである。吉玉氏は山小屋について「私の常識をはるかに超えた世界」(p.4)だと語っている。電気は自家発電でまかない,水は雨水や沢水を使用,宿泊施設なのに風呂もなく,満室であっても宿泊者を断らない。近くには病院もスーパーもない大自然のなかで,登山者を受け入れる山小屋の業務内容は多岐にわたり,宿泊関連業務から食料品等の荷揚げ,登山道の修繕,ときには自力で動けなくなった登山者の救助までも含まれるという。登山者にとっても山登りの重要な拠点となるのが山小屋なのだ。
 著者はかつて心の調子をくずし,就職した会社を立て続けに辞めニートになった自分に自信を失くしてしまったという。あるきっかけで山小屋で働くことになり,そこで出会った年齢も経歴もさまざまな山小屋スタッフたちとの関わり合いを通して,自分を社会不適合者だとする自己否定から脱却できたことも綴っている。山小屋が人生を変えてくれたのだと言う。元々の夢であったライターへの道を歩き始めたのも,山小屋特有の濃密な人間関係を経てこその気づきがあり,人生を見つめ直すきっかけとなったからなのだろう。
 山好きには山小屋の裏側について知ることができる楽しい本であるが,そうでない人でも手に取ってみてほしい。著者の山小屋ガールとしての人生への向き合い方は,何がきっかけで変わるのかわからない,人生の不思議さやおもしろさを伝えてくれている。

(深谷恵理:宮城県大河原町駅前図書館)

光の田園物語 環境農家への道

今森光彦著 クレヴィス 2019 ¥2,500(税別)

 四季折々の里山。その風景の中で人と生きものの豊かな営みに深いまなざしを注ぎ続けている写真家,切り絵作家,今森光彦氏の著書を紹介したい。
 琵琶湖と比叡山に挟まれた丘陵地一帯を流れる1本の谷に沿った,美しい棚田。著者はこのフィールドを「光の田園」と名付け,アトリエ“オーレリアンの庭”を構えた。本書は新たな挑戦の記録である。45年間放置されていた荒れ地を開墾し,生きものが集う農地を取り戻そうと悪戦苦闘の日々を文章,写真,切り絵,海外の銅版画モチーフで美しいハーモニーを醸しだし,編まれている。
 著者は荒れ地を手に入れたとき,新しい言葉が浮かんだという。“環境農家”。作物を収穫するだけでなく,生きもののすみかとしても考え,人々が数多くの生命と触れ合える場所を目指す。
 著者の自然観は子どもの頃の体験が根底にある。誰にも教わらず,自分で発見し体験したことを著者は“感性の栄養”と呼ぶ。培う土地は,ここ30~40年間で激減した。「絶滅しているのは,生きものではなく環境の方だったのだ。」(p.77)
 地域の人々の協力を得て奮闘していると,神様からのプレゼントがぽつりぽつりと現れた。柿の古木,樹齢150年のヤマザクラ,山の神々の姿。息をひそめていた姿に再び,光が差し込み,蘇る。未来へ贈る新しい物語の扉が開かれたかのよう。
 開墾した里山で「いきもの観察会」が開催され,筆者も参加した。子どもたちは思い思いに生きものを探す。「この虫,なんていう名前?」子どもの質問に優しく答える著者。その様子を眺めながら,自分の呼吸が深くなったことを実感した。土の匂いに身体が共鳴したような不思議な感覚だった。
 日本の原風景,里山を守り,自然,生きものを愛する全ての人へ届けたい1冊である。

(廣澤貴理子:徳島市立図書館)

一門 “冴えん師匠”がなぜ強い棋士を育てられたのか?

神田憲行著 朝日新聞出版 2020 ¥1,600(税別)

 将棋界には伝統的な師弟制度があり,プロになるためには棋士の下に入門しなければならない。図書館員なら『聖の青春』(大崎善生著 講談社 2000)で描かれた故・村山聖九段とその師匠・森信雄七段を思い浮かべる方も多いだろう。だが,一番弟子の村山が夭折した22年後,森門下が13名の棋士と4名の女流棋士を擁する棋界最大の一門となったことは,ご存知ないかもしれない。
 本書は,森門下全員への取材を基に,師匠・森の人生と,弟子たちが棋士になるまでの物語を,師匠との関係を織り交ぜて紹介したものである。
 勝敗に偶然の要素がない将棋の世界は,シビアな実力社会だ。棋士として「冴えん」存在だった森は,弟子に技術的な指導をほとんどしない。だが,森には自らの人生経験や村山九段との濃密な関係から得た人間への洞察と観察眼があり,それがときに弟子をピンチから救う。プロ入りの窮地にあった西田拓也五段が,一見将棋とは関係ない「晩ご飯は自宅で食べなさい」との助言で立ち直り,14連勝で奨励会を突破したエピソードは,羽生ならぬ森マジックである。実に痺れる妙手だ。
 人知を超えた将棋ソフトを前に,もはや人間に指したい相手はいないと断言する棋界きってのリアリスト・千田翔太七段の心の支えは,意外にも師匠のくれる安心感だという。勝負にかけるあまりに森の逆鱗に触れ,「将棋が強くとも人として意味がない」と破門されかけた山崎隆之八段も,「他人に対して熱を込められる」師匠に一門は支えられていると感謝し,その人間力に敬服する。当代一流の弟子たちの目に映る師匠の姿は,きっと誰よりも冴えているに違いない。
 棋士のドラマは本当に魅力的だ。活字だけでなく,動画やSNSで多様な将棋コンテンツが発信され,将棋を指さずに「観る」という楽しみ方が生まれた。私もその沼にハマった一人だ。あなたにも試してほしい。

(市村晃一郎:群馬県立図書館)

カリカリベーコンはどうして美味しいにおいなの?

食べ物・飲み物にまつわるカガクのギモン
ANDY BRUNNING著 高橋秀依,夏苅英昭訳 化学同人 2016 ¥1,500(税別)

 高校図書館に勤める私には新入生に向けてのオリエンテーションで紹介する「持ちネタ」がいくつかある。「アワセオオギって知っている?」「構造色って聞いたことある?」という質問に毎年,新入生全員が頭を抱える。いずれも私が以前,受けたレファレンスから得た「ネタ」である。
 勤務校の「ヴェリタス(ラテン語で「真理」)」と名付けられた課題研究で,テーマ探しができるような内容を,オリエンテーションに盛り込んでいるのだが,何もこうした「聞いたことがないこと」「難しい事象」をテーマにする必要はないのだ。
 「カリカリベーコンはどうして美味しいにおいなのか」とても気になるテーマではないか!「タマネギを切ると,どうして涙が出るの?」「クリームを泡立たせるとふんわりするのはなぜ?」などなど,どれもこれも気になるテーマばかりがこの本には取り上げられている。
 この本は食べ物や飲み物を扱っているけれど,料理や食品の本ではなく,化学の本である。そして,知っているようで知らない「身近なナゼ」に科学的に答えてくれる本なのである。読み物として読むのももちろん楽しいが,身近なテーマ探しのヒントとなる本として,ここ数年,新入生のオリエンテーションの折に必ず紹介している。一つ一つのテーマに化学構造式が示され,有機化学を使って解説していくという本格的な内容であるが,色彩が美しい写真や図表も多く,わかりやすく解説されているので,化学が苦手な文系の人でも読みたくなる,また,読むことができる,そんな化学の本である。日々の暮らしに役立つヒントも満載。
 「お酒をちゃんぽんすると,二日酔いになるの?」こんな疑問の答えも解説されているので,気になる答えはぜひ本書で!

(野村晴美:神奈川県立厚木高等学校)

書店本事 台湾書店主43のストーリー

郭怡青文 欣蒂小姐絵 小島あつ子,黒木夏兒訳 サウザンブックス社 2019 ¥2,600(税別)

 台湾の書店というと,日本橋にオープンした「誠品書店」という大型書店チェーンが近年注目を浴びている。しかし,本書で取り上げているのは「独立書店」と呼ばれる個性あふれる個人経営の町の本屋である。
 店主へのインタビューを元に,古書や貴重書を取り扱う老舗から文化活動や人々の交流の場を提供する新進気鋭の店まで,それぞれの書店が持つ物語や店主の思いを交えて紹介している。
 面白いのはどの書店も店主のこだわりや価値観が反映されており,一つとして同じものがないことである。本を収集する際に出会った野良動物たちの一時保護をしている店や,田園に囲まれた場所で本と野菜の物々交換をしながら書店と農業を営む店など,さまざまなコンセプトやアイデアがある。
 台湾でも日本と同じく,インターネットの普及による読書離れや出版不況が続いており,個人経営の独立書店が生き残るのは容易ではない。しかしさまざまな困難を乗り越えて店を経営し続ける店主たちの声からは,本への愛情はもちろん,文化を広め知識をつないでいきたい,地元や社会に貢献したいという強い思いが感じられる。
 ある書店では,大型書店では取り扱いが少ない詩集や脚本,LGBTQや少数民族等に関する書籍を扱っている。そこには,自身も客家人というマイノリティーである店主の「社会的弱者に発言するための舞台を提供する」という思いがある。
 また,書店情報のページには,本書と並行して制作された気鋭の台湾映画監督ホウ・チーランによるショートドキュメンタリー集『書店の詩』(原題:書店裡的影像詩)へのリンクも掲載されており,紹介されている書店を映像で見ることができる。実際に台湾へ足を運ぶ代わりに,本書と映像で台湾の書店巡りをしてみてはいかがだろうか。

(吉澤麻衣子:栃木県立図書館)

きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる

イギル・ボラ著 矢澤浩子訳 リトルモア 2020 ¥1,800(税別)

 「コーダ」(CODA:Children of Deaf Adults)という言葉を聞いたことがあるだろうか。聞こえない親をもつ聞こえる子どもを意味する言葉だ。本書の著者はろう者の両親をもち,ろう文化と聴文化を行き来しながら育ってきたコーダの一人である。2014年,著者はろう者である両親の世界を聴者の娘の視点で撮ったドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』を発表した。その翌年に出版された同タイトルの本書は,映画制作の経緯とその後の道のりをつづったエッセイだ。
 聞こえないとはどういうことか。聞こえない両親のもとで育つとはどういうことか。家族の歩みとともに著者の体験が語られる。どこに行ってもまず「両親は耳が聞こえないんです。」と説明しなければならなかったこと。親戚の集まりや学校の保護者面談をはじめ,引っ越しの契約,銀行の手続きに至るまであらゆる場面で両親の通訳をしなければならなかったこと。両親に向けられる差別のまなざしを敏感に感じ取ってきたこと。このような経験の中で著者は「少しでも早く大人にならなければならなかった」(p.32)という。
 しかし本書はかわいそうな障害者とその子どもの話ではない。著者は時に両親とぶつかりながらもろう文化に親しみと敬意をもち,彼らの言語である手話がいかに美しく複雑で,豊かな表現を持っているかを教えてくれる。手をたたく拍手の代わりに両手の手のひらをひらひらと振る動作を著者は「きらめく拍手」と呼ぶ。彼女の目を通して語られる両親の世界はまさにきらめいている。
 著者によると,「明るい表情で相手に接すること,彼らの言語と文化を尊重すること」(p.269)がろう者に会うときの心構えだそうだ。ろう文化に出合うために国境をこえる必要はない。本書を読んで興味が出たら,あなたの隣のきらめく世界に会いに行ってみよう。

(小郷原良美:玉野市立田井小学校)

ぼくにはこれしかなかった。

早坂大輔著 木楽舎 2021 ¥1,400(税別)

 私が幼稚園のころ七夕で願ったのは「ほんやさんになりたい」だった。関西の企業にてプログラマとして多忙を極めていた私は,パソコンとだけ向き合う日々が続いたあるとき,ふと本屋になりたかったことを思い出し,岩手に帰ってきた。
 著者は,岩手県盛岡市で本屋「BOOKNERD」を営む。この店は,かつて私が通った幼稚園や書店のすぐ近くにあるのだが,当時の書店はもう無い。他県出身の著者が盛岡市に移り住み,本屋を軌道に乗せるまでを自伝的に記したのが本書である。盛岡市と言えば,同じ県内に住む私から見れば,充分に都会で文化に富んだ街というイメージがある。しかし,著者いわく,人口30万の地方都市で小さな本屋を営むのは「自殺行為」(p.56)なのだとか。それでもなお,この街に惚れ,店を開くことに躊躇がなかったという。
 読み進めると,赤裸々につづられる著者のさまざまな思考や葛藤の跡から,そこにいたるまでにたくさんの試行があったことがわかる。そして,本屋の枠を越えて唯一無二と言える店を作り上げていく。「本屋しかなかった」のではなく「これ(BOOKNERDという店)しかなかった」ことが見えてくる。
 本書では何度か「きみ」と,読者に語りかけるような描写がある。「きみにしかできない仕事をみつけることには,たぶん人生を賭けてもいいはずだ。」(p.158)こう言い切ったその後,それは生まれたばかりの自らの息子に語りかけているとわかる。しかしそれは同時に読者である私にも間違いなく語られ,流れ込んでくる言葉であった。
 かつて漠然と本屋を目指したころを経て,本に携われている今,私にしかできない仕事をしているか。本書をきっかけに自分自身を見つめ直して,本と読者をつなぐ仕事が楽しいのだと一つの答えが出た。それを,もっと磨いていきたいと気合いを入れ直している。

(岩間朝美:花巻市立石鳥谷図書館)

声が通らない!

新保信長著 文藝春秋 2020 ¥1,300(税別)

 館長という立場から,人前で話をする機会が多い。声の大きさや速さなど,相手に伝わる話し方をそれなりに心がけてきたつもりである。ところが,先日タクシーを利用した際,行く先を5回も繰り返したあげく変更した。伝わらないのである。これほどではないにしても,マスク着用が日常化した今,声にまつわる気持ちの晴れなさを経験したことはないだろうか。
 本書は,著者によるコンプレックスシリーズ『字が汚い!』(文藝春秋 2017)に続く第2弾である。著者の声は極端に小さいわけでも妙にかすれているわけでもない。編集者でライターという仕事柄,むしろ人と会話をすることが多く,そういう場面では支障を感じたことがないという。そんな著者が飲食店で「すいませーん」と叫んでも,店員に気付いてもらえない。そこで,「通る声」になりたい著者は取材と体験を試みた。
 まずは,プロのカメラマンやアナウンサーなど「声が通る」人たちに,発声のコツや心構えを聞く。すると,録音した自分の声と普段聞いている声とでは,違いがあることがわかった。そもそも,音は空気中の振動が鼓膜に伝わり聞こえる。これと,声帯の振動が頭がい骨に伝わる音が合わさったのが自分の声。すなわち,自分の声は骨の響きが加わる分,重厚に聞こえる。ところが他人が聞いているのは空気中の振動のみなので厚みがない。ようするに自分が変だと思っている「録音の声」こそ,相手が聞いている声なのだ。
 さらに著者は「通る声」を目指して,多くの本で声に関する知識を得,ボイストレーニングに通う。さてその結果は。「とりあえず(中略),大きく息を吸って呼びたい人に狙いを定める。そして,高めの声を意識して腹から『お願いしまーす!』」(p.198)マスク越しでも自分の声を相手に届けられるよう,私も本書から習得したい。

(小出泰子:八代市立図書館,日本図書館協会認定司書第1092号)

オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと

近藤弥生子著 ブックマン社 2021 ¥1,800(税別)

 世界的感染症という緊急事態にデジタルを活用することで一躍有名になったオードリー・タン。彼女の功績はネットや自身が語る形式で書かれた『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』(プレジデント社 2020)他,多くの著書,多くのメディアで知ることができる。その中でもこの本がフォーカスしているのはオードリーの「考え方」だ。彼女のような大臣が存在する台湾を多くの人がうらやましがる。だが最初から台湾にそのような環境が整っていたわけではないことが本書でわかる。多様性を大事にする土壌はオードリー含め,人々の歩みで育ててきたのだ。おかしいと思うことを丹念に整えていった人々がいたからこその結果に思える。IQよりEQ。持続可能な社会のため,デジタルな社会においてより大事にされる能力だと主張している。そして実際大切にしている。それを裏付けるように,動画に観る彼女は常に相手へのリスペクトと許容とユーモアに満ちていた。本書でオードリーのバックグラウンドや哲学を知り,インターネット上のコンテンツで実際のオードリーの表現を見る。デジタル媒体と紙媒体の両方から彼女を知ってほしい。
 日本の教育界では「楽しい」が学習指導要領には明記されたが,現場はいまだ楽しいを敵視する風潮がある。オードリーが成し遂げたことの根底に彼女の気質が大事にされた自由があることを,多くの人に認めてほしい。そこから「人間らしい」社会に向けての教育が始まるのではないだろうか。人権,ジェンダー,民主主義,メディアリテラシー,ICT技術,ユーモアのあるコミュニケーション,教育,……オードリーの思考と,デジタルでソーシャルイノベーションを実現させてきたハッカーたちのあり方は,これからの人権の世紀に示唆を与えてくれる。「一人一人の心に小さなオードリー・タンを」(p.7),そしてSDGsの実現を担う人々を。それがこの本の向かう先だ。

(森 文江:鹿児島県立鹿児島工業高等学校)

イラスト&図解知識ゼロでも楽しく読める!数学のしくみ

加藤文元監修 西東社 2020 ¥880(税別) 文系の人のために書かれた理系の本を見かけることがある。その反対の視点で書かれた本はめったに見かけないことからすると,文系の人の数学に対する苦手意識が根強くあることがうかがえる。 本書では,英会話の学習が単語や文法の暗記ではなく,たくさん会話をすることが重要であるように,単に公式を覚えるのではなく,たくさん数学に接することで数学の楽しさを知ることができると説いている。 高速道路のカーブは,最初はほぼ直線で,先に進むごとに少しずつカーブがきつくなる「クロソイド曲線」で設計されている。ハンドルを同じ速度で自然に操作することが可能となるのはそのためである。その曲線は,ジェットコースターの垂直ループにも利用される。直線軌道から急にカーブに入る円弧とした場合,急激に体に負担がかかり首などを痛めるため,クロソイド曲線が体にやさしい曲線であることを理解しやすく説明している。日本の建築や芸術に使われる白銀比の「1:√2」の比率は,ドラえもんやアンパンマンなどのアニメキャラクターやA判・B判の用紙に用いられている。「三平方の定理」で知られる数学者のピタゴラスが音階に数学的なルールがあることを発見したことで,ギターなどの弦の長さに基準ができ,音のデジタル化には18世紀末のフランスの数学者フーリエが提唱した「フーリエ変換」が応用されていることなど,身の回りにある数学が平易な説明文とイラスト,図解で解説されていて,数学の面白さに触れることができる。 東京工業大学理学院数学系教授である監修者の加藤文元氏は,数学に関する著作を多数手がけており,『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』(KADOKAWA 2019)で,第2回八重洲本大賞(八重洲ブックセンター主催)を受賞している。 (民安園美:北海道幕別町図書館)

マイホームの彼方に 住宅政策の戦後史をどう読むか

平山洋介著 筑摩書房 2020 ¥2,900(税別)

 住まいの広さやデザイン,構造など建築的な特徴が,国や地域,時代によって異なることは容易に想像がつく。では,その住宅を支える法や制度,政策の場合はどうなのか。本書はこうした観点に気付かせながら,日本の住宅事情を紹介する。
 著者は,日本の住宅政策の戦後史を「持ち家社会」の形成とその基盤解体の過程とみる。終戦後から70年代にかけて,国は住宅金融公庫法,公営住宅法,日本住宅公団法の3本柱で所得階層別に住宅を供給し,なかでも中間層への持ち家取得に力を入れる。高度成長期後は住宅ローンの普及を図り,その傾向をさらに強める。一方,公営住宅の整備など所得再分配の政策は,他の先進諸国と比べ日本では極めて弱いという。結果として持ち家取得に向かわざるを得ないのだ。
 なぜ住宅の所有を強いるのか。その理由として,経済を支える役割を個人の債務に担わせる政策があるという。これは「民営化されたケインズ主義」とも呼ばれ,国債の発行により景気対策を行う公共事業から移ってきた手法だといわれる。
 もうひとつは,住宅が資産価値を持つため,その所有は家族も含めた社会保障の代替になり得る点だ。そういえば,昨年,菅首相が掲げた政策理念に「自助,共助,公助」とあったのは記憶に新しい。この順に重きを置くなら,住宅をめぐる社会の実相としては十分に具現化していたのだ。
 本書の後半は,現在の経済成長が望めない時代の住宅事情を描く。そこでは中間層が減り「蓄積家族」「食いつぶし家族」「賃貸家族」というように,住宅の格差を生み出すメカニズムが紹介される。自助に頼らないシステムの確立が,住宅研究を専門とする著者のメッセージである。
 当初新書として企画された本書は,その分量を超え単行本となった。読みごたえがあり,この分野の研究へも関心が高まりそうだ。

(森谷芳浩:神奈川県立図書館)

本当の夜をさがして 都市の明かりは私たちから何を奪ったのか

ポール・ボガード著 上原直子訳 白揚社 2016 ¥2,600(税別)

 私たちは生活に光(明かり)を求め続ける。「節電」という言葉が災害後の社会に飛び交った記憶は徐々に薄れ,また今日もドアの脇のスイッチに手を伸ばす。
 「暗さ」を称賛した日本の随筆に,谷崎潤一郎『陰翳礼讃』があることはご存知の通りである。ご紹介する本書も,「暗さ」を評価する立場から人々が現在失いかけている大切なものを示そうとする。
 目次を開けば,章立てが「9」から始まって「1」に向かっていくことにまず驚く。読み進めていくと,数字が減っていくにつれて,まるで海の底に降りていくような,はたまた,遊んでいた友達が夕方一人また一人と帰っていくような,そんな感覚に襲われる(「夜が更けていくような」の例示は本書の書評としてあまりに陳腐と思われた)。
 天文学的な視点を切り口として始まる本書であるが,文学的な視点,歴史的な視点,医学,社会,文化,思想,教育…とさまざまな角度から「夜」の要素をひもといていく。もし図書館に「夜」という分類の棚があるとしたら,本書を核にして参考文献を集めるだけでずいぶん体系的な棚ができてしまうのではないか…とまで思わせられる。
 中でも光と闇のメタファーを扱った章は秀逸で,宗教的な役割を持つ人物との対話から人の「恐れ」に焦点を当て,論を深めていくが,章の最後にはきちんと椅子に座らせてもらえる。
 巻末の原註ひとつひとつの,まるでコラムのような読み味も楽しい。
 ある日,夜空を見上げて何かを思い,普段の生活ではなかなか縁のない言葉を選びたくなってしまうような,そんな離れた感覚に,本書読後も包まれた。

(髙橋将人:南相馬市立中央図書館)

読まずにわかる こあら式英語のニュアンス図鑑

こあらの学校著 KADOKAWA 2020 ¥1,500(税別)

 かわいいコアラのイラストが目を引く1冊だが,かわいいだけの本ではない。この本には『今』がギュッと詰まっている。
 まず,タイトルだが,「本は読むもの」という固定観念を最初に壊してくれる。「絵や図でわかる」とうたったものはよくあるが,「読まずに」とまで言い切るものはほとんどなかった。それほど,「見ればわかる」ように工夫されている。
 具体的には,似たような意味を持つ英単語の使い分けの方法などのテーマを,見開き2ページでメインキャラクターのコアラがカラーイラストや表を上手に使って説明している。
 例えば,推量を表す助動詞(must/may/mightなど8単語)の違いを表現するのに,はっきりコアラである(be)状態が,少しぼんやり(must),大分ぼんやり(may)と変化し,最終的にはコアラではなく(not)カンガルーになる過程を示すイラストと,それぞれの単語が持つ「可能性の度合い」をmustなら99%,mayなら50%などのように表している。見れば一目瞭然なので,ぜひ手に取ってもらいたい。
 なお,本書はもともと,オーストラリア在住の会社員である著者がTwitterやInstagramで発信している「英語をわかりやすく学べるイラスト」が話題になって出版された。そのため例にあげた図の元も今現在インターネット上で見ることができるし,最近はこの本の解説動画もYouTubeで配信されている。また,発行の際には,クラウドファンディングを活用して,学校等にこの本をプレゼントする企画もあった。
 まさに,インターネットの活用が当たり前になった時代の本なのである。
 とは言うものの,実際の利用者である高校生には「とってもかわいくて,わかりやすい英語の本だよ」とシンプルにこの本の面白さを伝えたい。

(森谷美弥子:神奈川県立横浜緑園高等学校)

名古屋の富士山すべり台

牛田吉幸著 大竹敏之編集 風媒社 2021 ¥1,200(税別)

 私は,「調べる」ということが好きである。しかし,調べたことをまとめ,後に残す「調査研究」とするのには力が要る。そのため,「調べた」だけの不完全な調査が積まれていく。この本は「調べる」に留まらず,完全に「調査研究」とすることの大切さを気づかせてくれる。
 名古屋市の公園を中心に富士山型のすべり台(富士山すべり台)が多くある。地元で生まれ育った人でなければ富士山すべり台を知らないのはもちろん,地元の人であり,このすべり台を知っていてもこれが特別なことであると感じる人はほとんどいないであろう。この富士山すべり台に注目して調査を始めたのが著者である。
 著者はこの調査で図書ではまとまったものがないため,建設に携わった当事者からの聞き取りやインターネットでの地道な調査を行ったとしている。ある種の調査において図書は万能ではないということだ。図書館で働いている身としては図書は万能だと考えたいが,調査によっては他の方法のほうが必要な情報に結びつきやすいこともある。しかし,図書館は図書を中心とした情報を保存して後に残すという役割を忘れてはならない。それが,あとがきで述べられている著者の言葉だ。
 著者は図書館で古い航空写真や新聞記事を見ることで,富士山すべり台の建設に関わった人々の情熱に感化され,著書がずっと先の人々に参考資料として使われることを願っているとしている。ある人が書いた著作物が後の人によって使われ,また新たな著作物を生み出す。このサイクルは連鎖する。今後,紙の本の比重が変わったとしても,このサイクルを回す仕組みづくりが図書館の重要な役割であろう。

(齋藤森都:名古屋市鶴舞中央図書館)

精神科医が教える聴く技術

高橋和巳著 筑摩書房(ちくま新書) 2019 ¥800(税別)

 カウンセラーを指導する立場の精神科医である著者が,一対一でクライアントの話を「聴く技術」を,<黙って聴く><賛成して聴く>など四つのステップに分類し,具体的な会話例とともに解説する一冊である。この本で特に印象に残ったのは,<黙って聴く>ことの難しさだ。
 クライアントが話し始めたら,カウンセラーは「絶対に,口を挟まないで」「絶対に,質問しないで」「絶対に,助言をしないで」話し終わるまで,ただ静かに聴く(p.33)。ところが,実際にカウンセラーの会話記録を見ると,クライアントの発話と同じ回数だけ口を差し挟んでいることが明白となる。口を差し挟むのが相づちのつもりであっても,差し挟んだ一言がクライアントの話の方向性をも変えてしまう,と著者は言う。
 このことを意識して,<黙って>クライアントの話に耳を傾けると,クライアントの話し尽くしたという満足感がはっきりと見えてくる。
 <黙って聴く>ことを身につけるのは難しい。時間もかかる。その中で,時として相手を理解することができない,話に賛成できない,耐えられないと聴き手があきらめて落ち込むのは,聴く技量が伸びるチャンスであるという。ここで,感情に左右されずに,話の内容を分析しながら「聴く技術」の実例が提示される。「聴く技術」を深めることで,深層で論理的に動く「人の心」が理解できるようになると,著者は結ぶ。
 実際に<黙って聴く>ことを意識して同僚の話を聴く。自分が口を差し挟もうとした一瞬,相手がその空気に敏感に反応して口をつぐむ姿にハッとする。<黙って聴く>難しさと同時に,聴くことで新しい視点が見えてきた。
 図書館の現場で,利用者の声をきちんと聴くことができているだろうか? 「聴く技術」は司書にとっても必須と痛感した次第である。

(熊木寛子:新潟県立長岡高等学校)

モニカと,ポーランド語の小さな辞書

足達和子著 書肆アルス 2020 ¥1,300(税別)

 『ポーランドの民族衣裳』(源流社 1999)は同国の文化を服飾の歴史を通じて紹介した好著だった。今回は同書の著者が20年を経て出版した新刊を紹介したい。
 ある日,ワルシャワ大学に留学中の著者の下宿先に大家の遠縁にあたる小さな女の子が連れてこられた。着替えの1枚も持たないモニカであった。本書は1976年に1歳9か月のモニカと出会ってからの42年間の記録である。
 著者は幼い頃に両親が離婚し母親に育てられ,周囲からの偏見や差別に傷ついた背景があったため,自身と同様の不幸がモニカに降りかかるのではないかと常に憂慮していた。留学を終え帰国する際に著者はモニカに日本の昔話をポーランド語に訳して書き残してきた。「まだ,六,七年たたないと読めないけれど,これは,モニカが,いつか自分の生い立ちに不安を感じるときがきたら,『けれど,小さいころ,わたしはみんなにかわいがられた』と思えるようにその証拠品としてでした。」(p.33)後に著者は多くの日本の民話を翻訳し出版したが,その発端がモニカへの愛情であったと受け取れる。そして,2人の交流こそが,柔和な懐かしい民話のように感じられる。
 40年を越える年月,著者はモニカの心の支えとなるように手紙を通して慈愛を注ぐ。モニカにとっても「チョーチャ(おばさん)・カズコ」がかけがえのない尊い存在になってゆく様子が,お互いの手紙のやり取りから見て取れる。
 モニカの成長と重なるように,日本からは想像できないポーランドの社会主義の崩壊していく様子が描かれている。世界中から愛される美しい音楽を持つ国ポーランドを著者はこれまでも読者に紹介し続けたが,本書でさらに強く深くポーランドの文化を引き寄せてくれた。

(田中貴美子:札幌市厚別図書館,日本図書館協会認定司書第1062号)

異世界に一番近い場所

ファンタジー系ゲーム・アニメ・ラノベのような現実の景色

清水大輔著 パイインターナショナル 2019 ¥1,850(税別)

 高校図書館に勤務していると年に数回,必ず受けるレファレンスがある。「イラストを描きたいのですが,なんかいい本ありませんか?」
 いい本とはイメージを膨らませるヒントになる本であろうと解釈し,自然系? 都会系? お気に入りの映画やアニメはある? 鼻息荒く質問を繰り出すと「あ…もういいです」と,ナイーブでシャイな人々はたいてい去っていってしまう。そんな時「まず,これめくってみたら?」と,若干のゆとりをもって手渡せる本がこの本だと思っている。
 帯に「元ネトゲの住人が世界を旅して撮りました。」とあるように,ゲームやアニメの背景に登場しそうな風景をレンズ越しに切り取り,写真集に仕立ててある。撮影地はカンボジア・エジプト・インド・中国・台湾・チェコ・スコットランド。「はじめに」で仕事と睡眠食事通勤以外をゲームに費やしてきた,とある。だからこそ,同じ文化圏に生きている高校生の求めているイメージに合致するのだろう。一枚一枚おそらく丁寧に加工してあるだろうなと思わせる光の演出や,全く人影の映り込んでいない作品を眺めていると,「写真集」に分類することに躊躇される館もあるかもしれない。これは本格的な旅の写真集ではなく,あくまでも読み手の空想を駆り立てるための一冊である。
 「そう,こんな感じなんです! でも,もう少しこんな感じで描きたいので…」と読後に言ってくれたら,ご案内できる次の本が必要になる。ああ,そして果てしなく選書の悩みは続くのだ。
 この本も,近隣高校の司書仲間が教えてくれたものだ。潜在的なニーズにこたえられる次なる一冊を,今後も広く網を張って探し続けたいと思っている。

(宮本 歩:熊本県立天草高等学校)

モンテレッジォ小さな村の旅する本屋の物語

内田洋子著 方丈社 2018 ¥1,800(税別)

 「モンテレッジォ」は,イタリアのトスカーナにある小さな山村である。試しに,旅行雑誌のイタリアを見てみたが,一文字も見つけられなかった。そんな村に,本と本屋の原点があるとは!
 本書は,ジャーナリストの内田洋子氏が,「本の行商人」の子孫たちを丁寧に取材し,小さな村の歴史をまとめた渾身のノンフィクションである。
 籠いっぱいの本を担ぎ,イタリアじゅうを旅した行商人たちのおかげで,各地に書店が生まれ,読む文化が広まったという。「なぜ山の住人が食材や日用品ではなく,本を売り歩くようになったのだろう。」(p.7)著者ならずとも,読者の好奇心をかき立て,冒険の旅へと誘う。天災,活版印刷,禁書など,歴史をひもときながら謎解きは進むが,その道のりは,この山村のように険しい。著者と一緒に苦楽を味わってみてはいかがだろうか。行商人の魂に触れる喜びを感じながら。
 イタリアにも本屋が選ぶ文学賞があり「露天商賞」という。発祥地はモンテレッジォだ。第1回受賞作品(1953年)は,ヘミングウェイの『老人と海』。2020年,この伝統ある賞の「金の籠賞」を著者がイタリア人以外で初めて受賞した。
 本書の表紙は,こんな山奥からと一目でわかる村の全景。カバーには,籠いっぱいの本と両手にも本を持ったたくましい行商人の挿絵。栗の森のような質感の見返し。細部まで凝った装丁に,モンテレッジォへのリスペクトを感じる。本を閉じれば,天アンカットが美しい。どこまでもbravo(ブラーヴォ)なのだ。モンテレッジォを誇りに思う人々や内田氏が紡ぐ極上の言葉たちに,メモを取る手が止まらない。本に携わる人を感奮興起させ,励ましてくれる一冊である。
 子どもたちが登場する『もうひとつのモンテレッジォの物語』(方丈社 2019)も,ぜひ手に取ってもらいたい。物語は明るい未来へと続く。

(吉田悦子:天草市立中央図書館)

新写真論 スマホと顔

大山顕著 ゲンロン 2020 ¥2,400(税別)

 去年の初め,一眼レフのカメラを買った。目についたものをスマートフォンですぐに何でも撮ってしまえる時代,改めて写真を撮ることを特別だと感じたくなったからだ。新しいカメラを首から下げたとき,小さい頃,母がカメラを構えて写真を撮ってくれたときのことを思い出した。カメラに触り,ねだって写真を撮らせてもらったときや,現像した写真を一枚ずつ見るときの気持ちまでも。
 この本は,工場や団地などの建造物を中心に撮る写真家が,人や社会とのかかわり方の変化から写真とは何かを論じている。スマートフォンは誰もが手にしている高性能なカメラで,目に見えたものは手軽に記録でき,すぐに見返し,気に入らなければ消すこともできるようになった。「自撮り」した顔も,よりよく見せられるように加工できる。撮った写真はSNSで多くの人にシェアされ,反応も瞬時に返ってくる。読み進めながら,写真のあり方も,カメラのあり方と共に変わっていることが改めて感じられる。
 著者は,スマートフォンのカメラが「眼」としての光学センサーとAIを備え進化してきたことを「カンブリア大爆発」に例え,SNS時代の写真を「人間のためのものではなくなった,それ自体のシステムのことである」(p.264)という。その言葉に背筋がぞっとした。写真そのものだけでなく,撮り手や被写体,写真には写らないが感じ取れるものまでもが,大きくうねって進化するシステムの中に取り込まれたような気がしたからだろうか。
 かくいう私のスマートフォンにも,数えきれないほどの写真が収まっている。出かける機会が減り,カメラの出番もなかなかやってこない。自撮りをするのには抵抗があるけれど,今の自分の顔をカメラで撮ってみたら,どう写って見えるだろうと,この本を読み終えて考えている。

(飯田朋子:神奈川県立図書館,日本図書館協会認定司書第1172号)

雪のことば辞典

稲雄次著 柊風舎 2018 ¥8,500(税別)

 取り上げられる数々の「雪のことば」が,銀世界だけではない,思いがけない世界へと誘ってくれる一冊である。
 本書は民俗学者である著者による読む辞典だ。方言やことわざ,雪の降る音や和菓子名,日本酒名,地名,名字,俗信といった,自然科学,文化・文明など,さまざまな分野から雪に関することばを集めている。豪雨と同じように大雪も害をもたらすことがあるが,「雪は豊作のしるし」「大雪にケガチ(飢饉)なし」など,雪のことばには恵みを表すものも多いことを知ると心が和む。
 年中行事などをテーマにしたコラムも所収。著者にはかまくらに関する著作があることからコラムで詳しく取り上げられており,読みごたえがある。コラム「雪のつく歌」(p.244)では,天明期の上方地唄や最近の歌まで,曲名に雪のつく93曲が紹介される。なぜこの93曲なのか,興味がわいて調べてみた。名曲やカラオケでのランキング等いろいろ出てくるなか,J-STAGEで荒木紀人ほか「『雪』がつく歌謡曲名について」(『2006年日本雪氷学会全国大会講演予稿集』)を発見(2021年2月8日確認)。こちらは180曲。本書の選曲がますます気になる。
 最後に,ぜひ見てもらいたいのが「雪下ろし」の項だ。本書には三つ登場する。①新潟市の除雪用具の名称,②新潟県で十二月中旬頃に雷と風とを伴って降る雨の呼称,そして③「全国的に関心が高い」が「相場が公表されていない」雪下ろしの手間賃を調査した結果,なのだ。三つめの項目は「雪下ろし料金は全国各地様々である。依頼する場合は見積書を取ってから頼むことが肝要」(p.246)と結ばれる。これは早く誰かに案内したい,あなたもきっとそう思われることだろう。

(上杉朋子:真庭市立中央図書館,日本図書館協会認定司書第1122号)

2016年の週刊文春

柳澤健著 光文社 2020 ¥2,300(税別)

 本書は,1世紀にわたる株式会社文藝春秋の歴史に名を残し,日本のジャーナリズムに今なお挑戦し続ける二人の編集長,花田紀凱と新谷学を軸に,読者に「真実」を伝えるべく奮闘した編集者と記者たちの記録である。ここでは,その二人をはじめとする多数の関係者の証言により,『週刊文春』(以下「文春」)がスクープにこだわり続ける理由が明らかにされている。
 花田は,天性の“雑誌づくりの天才”であり,新谷は,人脈を情報に変えて武器にした“努力の人”である。異なる個性を持つ二人の活躍は,当人の力量に加え,社のトップや編集部員との信頼関係によって生み出されたものでもあった。一方で,彼らに対する嫉妬や対立など企業内の人間模様も生々しく綴られており,その意味では,本書は企業論/組織論/リーダー論といった多角的な側面からも読むことができる。
 週刊誌は時代を映すツールと言われる。本書も昭和~平成の重要事件の取材現場を,臨場感と緊迫感に満ちた描写で描いている。前線にいる編集者と記者は,「人間のどうしようもなさ」を愛し,取材対象の人生に寄り添い,真実を明らかにすることにこそ社会的意義があるという強い意志を持ち続けた。だからこそ「文春」は絶対的な信頼を獲得することができたのである。情報の価値と重みは,紙/デジタルを問わず,雑誌を編む人間の信念と覚悟,情熱と息遣いによって生み出されるものだと,改めて知らされた。
 タイトルの「2016年」は,“文春砲”の言葉が生まれた年であり,雑誌の未来を拓くために新谷が仕掛けた「文春」挑戦の年である。日本の雑誌とジャーナリズムは,変化しながら,これからも我々をドキドキさせるだろう。翻って,自分は図書館員としてどれほどの熱量をもって情報と人に向き合っているのか。重い一撃である。

(古川 淳:由利本荘市中央図書館)

家族と社会が壊れるとき

是枝裕和,ケン・ローチ著 NHK出版(NHK出版新書) 2020 ¥800(税別)

 イギリスの映画監督ケン・ローチ氏と日本の映画監督是枝裕和氏が,NHKの番組で対談後に加筆し,まとめた本である。ローチ監督は社会主義思想を持ち,常に労働者の立場で映画を製作し,彼の考え方も前面に出す監督である。私自身は2016年製作『わたしは,ダニエル・ブレイク』,2019年製作『家族を想うとき』の2作品しか見たことがないが,忘れられない映画であった。『わたしは,ダニエル・ブレイク』ではイギリスの福祉制度の矛盾をつき,『家族を想うとき』では,不安定な職業に従事する家族が崩壊していく有様が描かれていた。皮肉っぽいシーンが多かったことを覚えている。
 一方是枝氏は,ローチ氏を尊敬しつつも,自身のさまざまな思いを映画に投入することには慎重な姿勢である。映画の中で何か解決策を提示したりすることについても,危険を感じると語っている。映画を見ながら,悶々と悩み,それぞれの生活に戻ってから,答えを見つけてほしいというのが是枝氏の考えである。両者には若干違いがあるが,技術的な部分や,監督業についての考え方は共通部分が多いようである。文中にて映画製作の手法が語られている。例えば,観察者の視点から見た映像にするためカメラを静止すること,子役には台本を渡さないこと,カメラを設置する場所へのこだわり,どのような気持ちでカメラを回すべきか等。二人の手法はドキュメンタリー的と言われ,フィクションを感じさせないような撮影にこだわっている。両監督とも細部まで神経を尖らせ,演技者の魅力を引き出し,私たちを映画の世界に運んでくれる。そのメッセージは,現在の社会で何が起きているか目を離さずしっかり見つめ判断する力を持て,ということだと思う。

(沼田富士子:東京都立秋留台高等学校)

画家の食卓

林綾野著 講談社 2013 ¥2,000(税別)

 美術館に行っても,なんとなく絵を眺めただけで帰ってきてしまう,そんな経験はないだろうか。私は美術館に行くのは好きだが,そこにある絵や画家は,どうしても遠い存在に感じてしまう。もっと身近に,絵画の世界を楽しむことはできないだろうか。本書は,そんな私のような人に,絵画を楽しむヒントをくれる1冊である。
 著者は,美術館での展覧会の企画や美術書の執筆を手がけるキュレーター。本書では,西洋から日本,古代から近代のものまで多くの作品や画家を取り上げ,「食」という観点からそれらを解説している。また,作品や画家にまつわる料理を再現し,そのレシピも紹介している。ゴッホ,ゴーギャン,モネ,フェルメール…多くの偉大な画家たちが愛した料理を見ていると,その画家の暮らしぶりを想像することができる。彼らを「遠い時代の,遠い国の,偉大な画家」ではなく,一人の人間として,私たちに親しみを持たせてくれるのだ。
 絵の中に出てくる料理を考察して,再現しているページもある。中でも特に興味深かったのは,ブリューゲルの『農民の婚礼』に描かれた謎の料理だ。この料理が何であるか,専門家の間でもいろいろな説があるという。著者は,この絵が描かれた時代の食文化,絵の中の物の配置,人物の動き・表情等から,この料理について考察している。これがまた,なぞ解きを読んでいるようで面白い。絵の中のどんなところに注目すればいいのか,プロの視点を知ることができるのも嬉しい。こんなふうに絵を見ることができたら,と次に美術館に行くのが楽しみになる。
 そして,この本の最大の魅力は,やはり画家たちが愛した料理を実際に作って食べることができる,という点だろう。ぜひ,おいしい料理を食べながら,絵画の世界に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

(小川みのり:我孫子市民図書館)

水都東京 地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外

陣内秀信著 筑摩書房(ちくま新書) 2020 ¥1,000(税別)

 町を歩くのが好きだ。歩いたり調べたりしていると,どの町の歴史も水と深い関係があることに気がつく。例えば,私が勤務する図書館がある玉川上水の分水沿いに発展した地域では,分水の大切さが今も語り継がれている。
 著者は,建築史・都市史の専門家。1980年代から東京の都市史に関して多くの著書を発表している。本書は研究の集大成として書かれたという。
 著者は東京を「凸凹地形を巧みに読み,多様な水資源を活かしつつ,人間の手も加えて創り上げられた,世界にも類例のないダイナミックな三次元的『水の都市』だった」(p.161)と書く。平坦な土地に隅田川が流れ,水路が巡っている下町は,ヴェネツィアと似ている。しかし,高低差のある武蔵野台地でも,地形を緻密に計算して江戸城の濠や水を活かした大名庭園が作られ,玉川上水などの用水が河川や湧き水と共に利用されてきた。このあたりが「三次元的」で他に類がないという。
 震災や戦災,再開発などで建物が建て替わってきた東京であるが,地形や川や湧き水などが生み出す場所の特長は意外なほど受け継がれているそうだ。川沿いの丘の斜面には寺社の緑が残り,街道は高い尾根を通り,谷間の町人の町は商店街になっている。東京のしぶとさに嬉しくなる。
 この本を読み通して,東京の成り立ちについてぐっと見通しがよくなった。東京全体にわたる著者の研究成果が詰まっている上,他の研究者の成果や,水にまつわる団体の活動についても丁寧にまとめられている。「ブラタモリ」や「東京スリバチ学会」の話など,身を乗り出してしまった。
 大規模な再開発が進む中,地形と歴史を楽しむ動きはむしろ活発になっている。これからも町を歩きたい。勤務する館でも,町を知る愉しさを利用者のみなさんと共有できればと思っている。

(林 泰子:立川市上砂図書館)

和本入門 千年生きる書物の世界

橋口侯之介著 平凡社(平凡社ライブラリー) 2011 ¥1,400(税別)

 和本を手に取る。書名が記された題簽,見返し,序文,そして本文を見る。するとそれぞれの書名の表記が異なる。いったいどれが本当の書名なのか…そんな経験はないだろうか。
 複数の書名が記される理由はいくつかあるそうだ。江戸の名産や名所を案内する『江戸砂子』という本では,巻によって「江戸寸奈こ」「江戸寿南故」等表記を少しずつ変えているが,それは粋な遊び心なのだと著者は言う。版元が売り上げ増を狙って増版の際書名を変える場合もあった。著者は本文の始まりに書かれる題名(内題)を書名として採用するという。
 本書の著者は和本を扱う古書店主。長年の経験と知見の積み重ねから,和本の基礎知識や魅力について解説する。用語にも丁寧な説明が加えられ,予備知識がなくても読みやすい。
 また,和本の著者名表記にも独特の用例が見られる。たとえば荻生徂徠は,本姓の物部氏から「物」一字を使い,姓名を中国風に三文字にして「物茂卿」と記すことが本書で紹介されている。こうした用例を知らない読者が,人名事典を引いても著者が見つからず困惑することもあるという。
 さらに,和本では奥付にある年代を鵜呑みにできないと著者は述べる。なぜなら木版印刷用の版木は長持ちし,100年後に増刷してもそのまま使用する場合があるからだ。もとの版木を削って別の版木片を差し込み,刊行年を追記する「埋め木」も見られ,線が切れていたり,不自然な囲み線のある事例が写真つきで解説されている。
 書名も著者名も推理しながら読まなければならない。刊行年は出版経過を読み解く必要がある。後世の読者が解読に苦労するとは,和本の書き手も版元も想像しなかったことだろう。本書で学びながら,昔に思いを馳せ,和本をひもときたい。

(松矢美子:長岡市立中央図書館,日本図書館協会認定司書第1076号)

鉱物(いし)語り エピソードで読むきれいな石の本

藤浦淳著 創元社 2019 ¥1,800(税別)

 子どもの頃から,綺麗な石に惹かれることが多かった。この本との出会いも同様で,多くの鉱物標本が並んだ表紙に惹かれたのがきっかけである。サブタイトルにもあるとおり,本書はさまざまな鉱物を名前の由来や文化的な役割,採集に赴いた筆者の体験談など,多角的な面から取り上げて紹介した本である。
 「『人と鉱物の関わり』を大きなテーマとして,できるだけわかりやすい言葉を使って」(p.2)と初めに筆者が述べているように,それぞれの鉱物に関しては科学的なデータも簡単に掲載されているが,中心として語られているのは鉱物に関わる多様なエピソードだ。内容は大きく五つの章に分かれており,どの項目も興味深く読むことができたが,私はその中でも3章で主に触れられている,鉱物の持つ歴史や文化に強く心をつかまれた。
 「文化の裏に鉱物あり」(p.93)という章題のように,ここでは鉱物が歴史の中で果たしてきた文化的な役割についてのエピソードが多く,身近な鉱物である金についてもこの項で触れられている。ここでは奈良の大仏を造る際にどのように金が関わっていたかという話が語られており,一度は目にしたことのある歴史の遺産を,鉱物という新たな視点から見つめ直すことができた。
 また同じ章では,宮沢賢治の記した作品で情景描写に使われているという「藍晶石」についても紹介されている。物語の中で比喩表現として鉱物が使われることも多いが,実物の写真を見てその光景を想像するのもまた,新たな視点での楽しみ方かもしれない。
 全部で50話のエピソードからなる本書は,鉱物の持つ多様な面を少しずつ,わかりやすいかたちで伝えてくれている。
 美しい鉱物写真と共に綴られる物語を通じ,鉱物の魅力を改めて感じられる1冊だ。

(谷口真衣:白山市立松陽小学校)

山のクジラを獲りたくて 単独忍び猟記

武重謙著 山と溪谷社 2019 ¥1,500(税別)

 猟銃を背負って一人山を歩く。集団で行う巻き狩りと違って犬は使わない。何歩か歩いては立ち止まり,景色を見て,枯葉の音,鳥の鳴き声に耳を澄ませ,空気の匂いを嗅ぐ。それをひたすら繰り返す。そうやってほとんどの時間を動物の足跡や糞などの痕跡を読むことに費やす。止まっている獲物を見つけたら忍び寄り,タイミングをじっと待って確実に仕留める。淡々とした中にもドラマがある「単独忍び猟」の世界が,著者のその時の気持ちを織り交ぜながら書かれている。
 双眼鏡越しにオスジカと目が合う。狩猟を始めてから初めての発砲,緊張の中思い切って撃つ。シカは驚く様子もなく,ゆっくりと逃げ始めた。「なんで撃った?」「あんなに思い切って撃つことはなかった」「中途半端に当たって手負いにしたらどうする?」この後悔から自信のある時以外は撃たないという著者なりの狩猟哲学ができる。狩猟スタイルからその人の哲学をうかがい知ることができるとは奥深い。
 著者は箱根で宿泊施設を営業しており,ある日家の前を「山のクジラ」(イノシシ)が通る。それを見て「獲って食べたらうまいだろうね」と言ったことをきっかけに狩猟を始めた。初心者だからこその迷って,失敗して,考えて,また挑戦する過程が率直に書かれている。さらに後半には,これから単独忍び猟を始める人に向けて,基礎知識や道具の選び方,猟の始め方をまとめている。ベテラン猟師とはまた違った立場からのアドバイスとして参考になるだろう。
 どうして猟をするのか。自らの問いに対して著者は,おこがましいと言いつつ「『山』の一部でありたいと思う」(p.94)と答える。動物が動物を狩るのと同じように,生活の一部に狩猟があり,山があることを目指すのだ。「山が好き」を超えたこの答えからは,単独忍び猟に魅せられた著者の思いの強さが感じられる。

(伊草祥子:横浜市中央図書館)

忌野清志郎ロッ研ギターショー 愛蔵楽器写真集

田坂圭取材・文 星野俊撮影 リットーミュージック 2017 ¥2,500(税別)

 「ロッ研」とはミュージシャン忌野清志郎が設立し,創作活動の拠点としたプライベートスタジオ「ロックン・ロール研究所」の略称である。本書はそのロッ研に所蔵された忌野のさまざまな楽器を,詳細な解説とともに紹介した写真集だ。登場するのは,47本のギターにはじまって,ハーモニカやオルガン,ドラムセット,三線や法螺貝にいたる多種多様な楽器群である。
 色とりどりで美しい形の楽器はその全体像の写真を見るだけでも楽しいが,注目してしまうのはやはり弾き傷や経年変化,サインなどの書き込み,ステッカー,アクセサリーなど,その個体独自の様子をとらえたクローズアップの写真だ。楽器をハードに使用しながらも大切に扱っていたことが伝わるこれらの写真から,忌野の音楽が膨大な「手仕事」の集積であることが実感できる。
 また,各楽器の解説に入手や貸借の経緯が書かれているのも興味深い。いつ,誰と,どんな楽器店で購入したか。誰から借り受け,誰に貸し出し,何と交換したか(自動車とギターを交換したという記述もある)。そういったエピソードから見えてくる人間関係は,彼の創作活動が仲間と影響を与えあい,支えあう中で進んでいったことを裏づけるものだ。そしてその仲間たちと同様,楽器たちも忌野への敬愛や友情を雄弁に語っているように感じられるところが本書の存在意義と言えるだろう。
 「ロックン・ロール研究所」というネーミングは忌野独特の「シャレ」ととらえていたが,音楽に真摯に向きあったその活動は,まさに「研究」という呼び方がふさわしいものだったのだと思い直した。そして彼が目標としてきた「愛と平和」のためのロックン・ロール研究は,後続のプレイヤーやリスナー,そして読者によって受け継がれていくべきものなのだ,とあらためて感じることになった。

(大林正智:豊橋市まちなか図書館開館準備室)

海の外来生物 人間によって撹乱された地球の海

日本プランクトン学会・日本ベントス学会編 東海大学出版会 2009 ¥3,200(税別)

 2050年,地球温暖化は進み,夏の気温は47℃になるという。環境問題の著作で筆頭に挙げられるのはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』であるが,カーソンがあげた叫びを私たちはいまだ受け止めていない。さまざまな学術調査のもと信頼性の高い数値が示され,国際会議や環境団体による示唆が発信され続けており,メディアを通して,書物を通して,環境問題を知っているにも関わらず。新型コロナウイルス感染症が拡大,新しい生活様式が叫ばれる一方で,SDGs(持続可能な開発目標)が社会のキーワードとして教育現場でも取り上げられている。レジ袋の有料化も始まった。しかし,本当に私たちの意識は変わってきているのだろうか? 環境破壊を止めるため,生活様式を変え,社会を変革する強い意志とそれに伴う決断をしているのだろうか?
 本書はプランクトンや貝,カニなど小さな海洋生物の生態系に及ぼす侵略的外来種の問題を取り上げている。なじみの少ない分野ではあるが,食卓にもあがるアサリに付着して流入する天敵外来種の貝や,船舶に付着して世界中に広がる外来種の存在に言及している。外来種が生態系に及ぼす影響として在来種への圧迫,食物連鎖のバランス崩壊,遺伝子撹乱があげられ,その深刻な状況を海洋生物の特徴と共に丁寧な解説を行っている。また,この問題が貿易の構造にも関わる国際問題であることから,外来海洋生物問題に関して制定された唯一の条約「バラスト水管理条約」についても紹介されている。専門用語も多いため,理解しにくい部分もあるが,見えない海の底で何が起こっているのかを知るきっかけとなる良書である。
 私たちは破壊され続ける地球の現状に怯えなければいけない。そして行動しなければいけない。改めて言うまでもないが,環境破壊の首謀者は人なのである。

(西村理惠:東京都立大島海洋国際高等学校)

あるあるデザイン 言葉で覚えて誰でもできるレイアウトフレーズ集

ingectar-e著  エムディエヌコーポレーション発行 インプレス発売 2019 ¥2,000(税別)

 イベントのポスターや企画展示のパネルなどを作るとき,ある程度見栄えするように,しかしなるべく時間をかけずに作りたいと思うなら,手本になるものがあると心強い。本書はデザインレイアウトでよく使われる手法を,テーマごとに作例を示しながら紹介する。技術について専門的な解説があるわけではないが,デザインの引き出しを短時間で増やすことができる1冊だ。
 さて,どのようなデザインが飛び出してくるのだろうか,とページを開くと「だいたいツートーンでいける」(p.12)。初手からシンプル極まれり。しかしながら作例を見れば,確かに,とうなずかされることだろう。実際に作って試していただきたいが,背景色を黒にし,モノクロにした写真で画面の半分を埋めるだけで驚くほど様になる。
 卑近な例で恐縮だが,何度か本書を参考にMicrosoft Wordでポスターを作ったことがある。手本があることで作業工程が減り,時短につながった。にもかかわらず,評判は上々だった。講師の写真を目立たせたい講演会のポスターでは,「オビを敷くだけ」(p.84)。本っぽさが出て,遠くからでも目立つようになった。大人向け朗読会のポスターが思ったより柔らかい雰囲気になって悩んだ時には,「グリッドってかしこそう」(p.96)。出演者の写真を正方形にトリミングし,マス目のように配置すると,雰囲気がまとまっていい感じに。
 デザインを勉強したことはないが,ポスター・チラシ作成の必要に迫られている人は多いのではないだろうか。Wordでも再現が可能なほどシンプルにデザインレイアウトを紹介している本書が,悩める戦士の一助となることを期待している。

(菊地伸江:南相馬市立中央図書館)

ぼくの「自学ノート」

梅田明日佳著 小学館 2020 ¥1,500(税別)

 本書は,著者である梅田明日佳君が小学校3年生の時に宿題で出された「自学」を書き始め高校3年生の今も続けている27冊のノートが元になっている。新聞を読み気に入った記事を切り抜き,言葉を調べ関連する本を図書館で借りて読み,文章をノートに書く。この体験を書いた「ぼくのあしあと 総集編」は,中学3年生の時に北九州市が主催する「子どもノンフィクション文学賞」(中学生の部)2017年度大賞を受賞した。
 作品を面白いと思った北九州在住の人が佐々木健一NHKプロデューサーに送付。「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険」として13回放映された。番組は「令和元年度(第74回)文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞」などを受賞。放映が出版につながった。
 4章に分かれた本書には,「自学ノート」と共に絵本から学芸書まで17年間の読書記録が掲載されている。幼稚園の頃から日曜の午後を図書館で過ごした梅田君は自発的に読書をする子どもではなかったと自分を振りかえり,こう続ける。「図書館で長い時間を過ごすうちに,知りたいことは(中略)なんでも本で読めると気づき,今も『こんな本がある』という驚きを繰り返しています」(p.133)この言葉を北九州市の図書館に45年間勤めた私は司書を目指す大学生たちに語りたい。
 梅田君の17年間の読書記録と「自学ノート」は,子どもが図書館と本の役割を発見していく過程であり,みずみずしさに溢れ元気が伝わってくる。例えば読書時間ゼロの大学生を減らす解決策は児童書から一般書へのシフトを大人に助けてもらうことだと書いている。この大人の一員が司書。
 「これも読んでみませんか」と声をかけられた体験が第3章に記されている。目に見えない司書や図書館の仕事が利用者の視点で表現され,明日も司書として頑張ろうと思える本である。

(轟 良子:九州女子大学非常勤講師,日本図書館協会認定司書第1022号)

剱岳-線の記 平安時代の初登頂ミステリーに挑む

髙橋大輔著 朝日新聞出版 2020 ¥1,700(税別)

 2000年度青少年読書感想文コンクール課題図書『ロビンソン・クルーソーを探して』(新潮社 1999)の著者,探検家・髙橋大輔氏の新著。ロビンソン・クルーソー(のモデルとなった人の足跡)を探したあとも,浦島太郎が向かった竜宮城を探す等,「物語を旅する」探検を続けている。2016年開始の今回の探検の目的は,「剱岳史上初登頂」と思われていた明治時代の測量隊よりも早く,おそらく平安の頃に剱岳に登頂し,山頂に錫杖頭と鉄剣を残した“剱岳ファーストクライマー”の正体を突き止めること。「いつ」「誰が」「何のために」というような「5W1H」を軸に古の登頂者の正体を探るため,複数の経路から剱岳に幾度も登頂する。朝一番に岳近くの山小屋を出発しても,下山にかかる時間を考えると,頂上にいられるのは一回の登頂につき一時間程度。登る前の下調べがとてつもなく重要になる。
 髙橋氏は,崖を登り岩を降り,自宅のある秋田から東京,富山の剱岳やその周辺の町々はもちろん,剱岳付近の地名にまつわる姓を辿り奈良県にまで足を延ばす。「探検」の足は「過去」へ向かっても遠く延ばされる。万葉集,今昔物語集,各地の考古学研究機関の発行する各年代の研究誌等を縦横無尽に渉猟する。多種多様な資料やいろいろな人から聞く体験談が,探検家の目と耳と手を通してつなげられ,謎の解明の手立てとなっていく。
 1967年に富山県で行われた全国高等学校登山大会で使用された地図が謎解きの大きな手掛かりとなるという展開は,図書館等で扱っているさまざまな資料の重要性を改めて認識させてくれる。
 終盤の登頂にはNHK取材班が同行。2016年から2018年にかけて行われたこの探検の様子が,2020年の今もインターネット配信を通して視聴できる。いろいろな意味で「過去」から「現代」を味わうことのできる「探検記」である。

(山上孝治:京都経済短期大学)

感染症大全 病理医だけが知っているウイルス・細菌・寄生虫のはなし

堤寛著 飛鳥新社 2020 ¥1,636(税別)

 本書は,感染症を専門とする病理医による感染症に関する本である。しかし難しい専門書ではなく,誰にでも感染症を楽しく学べるよう,感染症防止に役立ててもらうために書かれた本である。
 第1章では,感染症の歴史についてわかりやすく提示されている。特に「感染症はメディアの報道や政治的判断によって,その被害が大きくなることがあれば,逆に最小限に抑えられることもある。(略)どうやら,人間は過去の歴史・過ちから学ぶことがあまり得意ではないことがわかるだろう。正しく怖がりながら,どうか適切にご判断あれ」(p.23)という言葉は,昨今のパンデミックの中でヒヤリとさせられるものがある。
 また,「アルコールスプレーによる手指消毒では,スプレーのノブを一番下まで押すこと。(略)ちょこっと押してなじませるだけはNGです」(p.32)との紹介は,誤った方法で感染症対策ができないことを私たちに思い知らせるだろう。
 第2章は,Q&A形式で病原体や感染症の疑問に答え,今知っておくべき内容ばかりが掲載されている。例えば,2005年に京都大学で行われた「うがい実験」では,「うがいなし」「イソジン液でのうがい」「水でのうがい」の順で風邪をひいてしまうという結果が出た。これは,うがい薬で常在菌を殺してしまうことで,かえって風邪をひいてしまうということらしい。
 第3~5章では,病原体や症例別に多様な事例を紹介している。この事例の豊富さは,病気に対して幅広い知識を持つ病理医ならではと言える。
 一見,難しそうに感じるタイトルであるが,このように,誤った知識を払拭できるそんな内容であった。正しい知識で自身の身を守ること,今,これが一番大切である。そのためには図書館が正しい知識を提供することが何より重要である。

(萬谷ひとみ:新宿区立中央図書館)

こけし図譜

イラストレーションでわかる伝統こけしの文化・風土・意匠・工人
佐々木一澄著 誠文堂新光社 2020 ¥1,800(税別)

 東北に住む私にとってこけしは,生活の中に溶け込んだ身近な存在だ。子どもの頃,ままごとでは家族の一員だったし,雛人形がない我が家ではお雛様に見立てて飾っていた。時が過ぎ,10年程前に新築祝いに槐製の大きな鳴子こけしをいただいた。初めは「インテリアに合わない!」と思ったものの,今では穏やかに微笑むこけしと目が合うたびに,可愛らしくてつい頭を撫でてしまう。
 本書は,著者が東北6県11系統の伝統こけしの産地を訪ね,丁寧な取材を重ねて書き記したもの。系統ごとに伝統や構造・形・描彩の特徴,風土等を,素朴で温かみのあるイラスト入りで紹介している。
 中でも各系統の工人(作り手)へのインタビューは興味深い。工人になるまでの歩みは,「家業を引き継いだ」「元はピアニスト志望だった」「後継者募集の新聞記事を見て使命感に駆られた」等さまざまであり,それぞれが越えてきた苦労や修業時代,伝統を守りながらも新しい表現を取り入れることへの葛藤等のエピソードにも心が引き寄せられる。物としての「めんこい民芸品」だったこけしにも,命が宿っていると感じた。
 巻末にはこけしの起源について論考が付されており,著者が紡ぎ出す言葉からは,代々の工人たち,こけしに魅了された蒐集家たちへの敬意が伝わってきて胸が熱くなる。
 ところで,ほとんどの伝統こけしの産地は,山あいの温泉地にある。COVID-19拡大の難局が落ちついたら,湯めぐりも兼ねてのんびりと,本書を手に各地のこけしに会いに行こうと思っている。
 著者の佐々木一澄氏は,絵本や児童書などを手がけるイラストレータ-。こけしに「他の玩具とは異なる引力」(p.2)を感じ,惹きつけられたという。本書もまた,読者を伝統こけしの世界へといざなう新たな「引力」となるだろう。

(大場真紀:宮城県松山高等学校)

着せる女

内澤旬子著 本の雑誌社 2020 ¥1,650(税別)

 捨てる女から,着せる女へ。著者の内澤旬子さんは,出版業界の「この人,もっとちゃんとマシな服を着たら,カッコよくなるのに」という人たちを,バーニーズニューヨークの凄腕フィッター(スーツ・ソムリエ)らとともに,変身させてゆく。
 凄腕フィッターが,オジサンたちのニーズや,コンプレックス,着るシチュエーション──普段のスーツから授賞式,謝罪の場で着るスーツまで──を丁寧に聞き取りながら,知識と経験に裏付けられたセンスのある提案をしていくさまは,まさに専門職。清々しさがある。しかし,そもそも服屋に来ていく服がなく,お洒落をすることにも怖気づいてしまうようなオジサンたちには,水先案内人が必要だ。本書では,「着せる女」こと内澤さんとその編集者が,オシャレ「偏差値」の低い,悩めるオジサンたちとともに紳士服売り場へ乗り込み,店員との会話を「通訳」しつつ,ノセていく。最終的に,ビシッときまったスーツが見つかったときのチームの一体感は,圧巻だ。
 特筆すべきは,選ぶべきスーツのイメージを著者と編集者が「出版社」で表現するシーンだ。「格好で言うなら晶文社じゃないな」「まあ平凡社でもいいんですけど」「法政大学出版局のレベルまで行きたいな」(p.103)というやりとりに,つい吹き出してしまうこと間違いなし。出版界の人間どうしゆえ,版元の名前でイメージを共有できてしまう──おそらく,図書館界隈の方々も同様に,イメージすることは容易いのではないだろうか。どのように「出版社のイメージ」をスーツとしてカタチにしてゆくのかも必見だ。
 悩める人,ノセる人,専門家の3者による試行錯誤,そしてチームワークの勝利。スーツ選びが,かくもエキサイティングだったとは! 読んだあと,うっかりスーツやネクタイが増えてしまったのは,きっと私だけではあるまい。

(冨貴大介:神奈川県立相模向陽館高等学校)

「関ヶ原」の決算書

山本博文著 新潮社(新潮新書) 2020 ¥800(税別)

 子どもの頃から戦国時代が好きだった。テレビや漫画,小説・ゲームなど,多様なメディアで取り上げられているのを自然に受け取り,好きになっていたのである。本書のタイトルを目にしたとき,心が躍った。
 さて,人が生活をする以上,お金がかかる。それが戦国の世で,ましてや戦が起きたならば,金額が大きく動くのは明白である。天下人・豊臣秀吉亡き後,日本を東西に二分する天下分け目の決戦である「関ヶ原合戦」は,1600(慶長5)年に起こった。本書は,この戦を収支の面から白黒をつけようと取り組んでいる。
 序章では,まず戦を起こした場合の,戦国大名と豊臣秀吉での兵糧確保の違いが語られる。ここに「腹が減っては戦ができぬ」と言わんばかりに,兵糧を重視した秀吉の慧眼を見ることができる。また,貨幣と米の換算など,収支の算出に必要な基準が明示される。
 第一章から第五章までは,史料に基づき,「関ヶ原合戦」に至るまでの経緯から戦の決着までを分かりやすく解説している。専門的に読むならば,出典に当たるのもよいだろう。また,これらの章の中心にいるのは,島津家である。「島津家は,関ヶ原合戦において,西軍に参加しながらも,なぜ領地の減封や改易を免れたか?」という魅力的な謎とともに歴史の流れを追うことができる。
 終章では,いよいよ関ヶ原の収支決算が明かされる。序章を思い起こして,文章とともに収支を計算するのも面白い。本書は,お金の流れで「関ヶ原合戦」を追うという,従来とは別の角度で物事を見ている。それは,物事は一面的なものではなく,さまざまな見方があるということを教えてくれる。日本史上有数の戦である「関ヶ原合戦」。どれくらいのお金が動き,誰が損をして,得をしたか? 本書を是非読んで確かめてほしい。

(山田広樹:神奈川県大磯町立図書館)

戦争は女の顔をしていない 1

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ原作 小梅けいと作画 速水螺旋人監修 KADOKAWA 2020 ¥1,000(税別)

 「本を読む前と後で,世界が違って見える」よく聞く感想だが,私にとっては,まさに本書がそうだ。本書は,ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが,500人以上の従軍女性を取材し,その証言をまとめた実録インタビュー『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳 群像社 2008)をコミック化したものである。女性たちは自ら志願し,狙撃兵,射撃手,斥候,さまざまな兵科につき,戦争に参加した。この戦争体験をもとに,自らの戦果を語る者,戦場での友情を語る者,戦場で見た美しい風景を語る者が本書に登場する。どの語りにも,女性の目に映る「戦争」という地獄が表れている。
 従軍した女性たちの主観に基づいた部分は,ともすれば批判されそうな部分だが,本書に限っては,「主観が強い」というのは瑣末な問題だ。そう思わせるだけの迫力が,本書にはある。第四話では,負傷した味方を救うため,衛生兵の少女が手を挙げ,歌を歌い,ドイツ兵が撃たないことを祈りながら戦場を歩く。両軍が対峙する激戦区だが,その間は一発も銃声は鳴らなかった。等しく死が降りかかる世界で,絶望と希望が訴えかけてくる,これが私の体験した戦争だと。
 中高生に読んでもらいたい本だが,原著は分厚く,難しい。コミック形式を図書館が所蔵することは,よき入り口となるだろう。
 『グリッズルド』という第一次世界大戦を舞台にしたボードゲームがあるが,読了後にはこのゲームに出てくる砲弾や塹壕が単なるカードの一つに見えなくなった。本書によって,殺戮兵器のリアルが立ち昇る気さえする。

(高倉暁大:熊本県立大学図書館,日本図書館協会認定司書第1169号)

日本語の個性 改版

外山滋比古著 中央公論新社(中公新書) 2020 ¥800(税別)

 コロナ禍で「新しい生活様式」への移行が余儀なくされ,柔軟な発想が必要とされている今,頭のストレッチ体操となるような本を紹介したい。
 1976年に発行された時と同じ内容のまま文字を大きくして読みやすく改版された本書は,40年以上たっても色あせず,自分では思いつかなかった思考法を清らかな水が流れるごとく頭に届けてくれる。新しい考え方に出会い,理解し,共感できた感動は,脳が柔らかくなったと表現したくなるような快感につながる。
 本書は,英文学専門の著者から見た日本語の魅力や特性について記されている。日本語は室内語として洗練され発達してきた言葉で,情報や意思の伝達手段の一つというよりも,人間関係の確立や維持の手段として発展したという。そのため,曖昧な表現によって印象をやわらげ,末尾の動詞に真意や意図を託したと著者は述べる。しかし,明治以来の翻訳文化の影響によってバランスが崩れ,日本語の魅力は失われたと分析しながらも,その回復のカギが話し言葉にあると提示する。例えば関西弁が重宝されるのは,語尾に愛嬌があるからだという。つまり,人間関係確立のための手段として発達し,末尾の動詞に伝えたいことを託した日本語の魅力が関西弁には残っているのだ。
 雑談が言葉によるスキンシップという指摘も面白い。少し柔らかくなった頭で考えてみると,通りすがりの挨拶さえ楽しい関西弁は確かに「スキンシップ」の最たる例であろう。仲間内で楽しく雑談するために言葉の省略・アレンジ等を加え,次々と新語を生み出す「若者言葉」も日本語文化のひとつといえる。室内語としての日本語は実は非常に懐が深く,ある意味室内と同様限られた者同士の交流場所にもなるSNSにも向いているのかもしれない。本書に刺激されて起こるであろう思考の転換を,是非味わってほしい。

(大久保美玲:横浜女子短期大学図書館)

日本のお弁当文化 知恵と美意識の小宇宙

権代美重子著 法政大学出版局 2020 ¥2,200(税別)

 どの国のどの時代でも食事は生活の基本であり,食文化はその国の人々の暮らしや時代背景を映す。この本は日本独自の食文化のひとつである「弁当」をテーマとした研究書である。私たちの日常生活の中に深く浸透している弁当文化の形成過程が,多様な切り口で論じられている。
 海外で評価されている日本のマンガやアニメには,実に多くのお弁当シーンが描かれる。映像で発信された,いかにも美味しそうな庶民の弁当に,世界の人々は驚かされた。持ち歩くだけの食事に,見る楽しみ,作る楽しみが派生した「BENTO」は,世界でも珍しい携行食であるらしい。
 もともと弁当は,人々が仕事場へ持っていく日常的な携行食だった。ご飯を美味しく保つ素材で作られた弁当箱に,きつい肉体労働を支えられる腹持ちの良い食べ物が詰められた。また,長い距離を持ち歩く弁当箱は,持ちやすさ使いやすさも工夫された。漁師が携行する船弁当箱は気密性を持ち,緊急時には浮いて救命道具や水をかきだす桶の役も果たしたという。本書では,元来の実用が優先された携行食である弁当のほか,花見弁当など楽しみのための弁当,戦国時代から現代の戦争までの戦う兵士のための弁当なども,時代背景とともに詳しく解説されている。
 近年,高齢者のための宅配弁当や災害時の弁当支給など,「お弁当」は個人の域を越えて社会的役割を担うものになったと著者は推考する。今年,COVID-19流行の影響を強く受け,休業を余儀なくされた飲食店にとって,テイクアウト弁当は経営を続ける活路ともなった。弁当文化は時代に合わせ,常に新しい顔を持ち続けていく。
 日本の家庭では,老若男女を問わず当たり前のように日常生活の中で弁当文化が引き継がれている。身近にある「庶民の食文化」の長い歴史に驚かされる,大変興味深い1冊だ。

(笹川美季:東京都府中市立図書館,日本図書館協会認定司書第2012号)

日本国憲法を生んだ密室の九日間

鈴木昭典著 KADOKAWA(角川ソフィア文庫) 2014 ¥1,000(税別)

 2019年刊の中島京子著『夢見る帝国図書館』(文藝春秋)を手にした図書館員は多いだろう。随所に挟まれる帝国図書館にまつわる挿話,夢見る帝国図書館の24「ピアニストの娘,帝国図書館にあらわる」では,憲法草案作成のための関連資料を求めて来館するベアテ・シロタが描かれている。彼女が帝国図書館にあらわれたとされる1946年2月4日から2月12日の九日間,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民政局で行われた日本国憲法の草案作成過程を描いた同名のドキュメンタリー番組(1993年放映)をまとめたのが本書(単行本1995年刊)である。著者の鈴木氏は,昭和史をはじめ多様なテーマでドキュメンタリー番組を作成されたプロデューサーである(2019年ご逝去)。
 日本政府の憲法試案が極めて保守的であったため,GHQがモデル草案を提示したとされる。本書では著者の取材当時,草案執筆者25名のうち,存命であった6名へのインタビューや豊富な資料から,どのように草案の条文が生み出されたか,その変遷と背景にある国際的な歩みや情勢が詳述されており興味深い。憲法制定史を扱った図書は数多いが,「密室の九日間」に焦点を絞り,草案執筆者の行動,思い,息遣いが,映像を見るように浮かび上がってくるのが本書の特長である。
 「こういう仕事には,まず資料が必要だとわかっていました。そこで,あちこち図書館を駆けめぐったのです」「机の上に積んで置いたら,みんな<貸してくれ><貸してくれ>と言ってきて」(p.78)と,草案作成の命が下された2月4日のベアテ・シロタの行動について紹介している。借り受けた資料も参考にして彼女が起草した人権に関わる条項案は,幾多の修正を経ながらも日本国憲法第24条「両性の平等」等の条文として生きている。日本国憲法の草案作成と図書館とのかかわりにも思いを巡らせつつ,ぜひ本書を繙いてほしい。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校)

自衛隊イラク日報 バグダッド・バスラの295日間

防衛省原文 志葉玲監修 柏書房 2018 ¥1,700(税別)

 自衛隊の海外派遣の詳細を記す重要行政文書でありながら,「戦闘」の証拠があるとみなされるやわずか3か月あまりで「廃棄」され,ほとぼりがさめたころに「発見」された,いわゆる「イラク日報問題」の主役である日報。本書はその日報を防衛省機密に当たるとして黒塗りで提供された部分もそのままに出版された一次資料である。
 思えばこの問題を皮切りに,文書が見つからない,廃棄された,改竄されたという不祥事があまりに多すぎはしまいか。行政の評価は,どのような意思決定が行われたのか,当事者はどう考えていたか,その結果がどうであったかを突き合わせてはじめてなされるものであるはずだ。
 しかもこの日報,ノンフィクションとしても十分に面白い! 自衛隊広報誌『MAMOR』などを読んでいても思うのだが,自衛隊員の方々の筆力はおしなべて高い。簡潔でありながら記録は正確で,時折ユーモアも挟んでくる書き口は,ほかの日報も読んでみたいとさえ思わせるほど。
 1年分にも満たない活動記録だが,多国籍のPKOの中で日本は,日本人はどう見られているかがよくわかる。さまざまな国の隊員とのやりとりはとても人間味にあふれ,普段の地域住民との邂逅の様子は「世界の果てまでイッテQ!」や「なるほど!ザ・ワールド」でも見ているようなほのぼのとした場面すらある。
 ただそこに時折,当たり前に差し込まれる「迫撃砲」「弾着音」の記述。そこが紛れもなく戦闘地域であることの描写。それ故に,この日報はなかったことにされた。こんなにも生き生きと現地の様子を物語ってくれているというのに!
 自衛隊PKOノンフィクションとしても,公文書廃棄問題の一次資料としても,図書館必置の1冊ではないか。

(竹内洋介:富山県立図書館)

翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと

寺田真理子著 雷鳥社 2020 ¥1,500(税別)

 普段何気なく目にする外国小説や外国映画は,翻訳されているおかげで理解し楽しむことができる。翻訳には映像翻訳や産業翻訳などさまざまな種類があるが,本書では特に出版翻訳家を志す人へ向けて,翻訳の勉強の他に何をすればよいのか,細かな行動を具体的に示している。
 著者はまず,なぜ出版翻訳家になりたいのか,そしてどんな出版翻訳家になりたいのか,と読者に問いかける。その後に示すのが7つの行動だ。「分野を絞る」(p.12)「原書を見つける」(p.20)「版権を仮押さえする」(p.32)「企画書をつくる」(p.36)「プロフィールをつくる」(p.51)「実績をつくる」(p.61)「出版社に持ち込む」(p.63)。自身で実証済みのノウハウを惜しげもなく公開しているが,決して特別なことをしているわけではない。コツコツ地道な努力を続けて,いつでもチャンスをつかめるように準備すること。それが出版翻訳家になるために必要なことなのだ。
 著者は,認知症ケアの分野を中心に英語やスペイン語の翻訳書を多数出版しているが,もともとは通訳をしていた。著者のように出版翻訳家を目指して取り組んでいたわけではないのに,出版翻訳家として活躍する人がいる一方,何年も翻訳学校に通っていながら一冊も出版翻訳できずに諦めてしまう人もいる。著者は出版できずに悩む人々から相談を受けるうちに,出版できるかどうかの違いは学力や技術の差よりも,前述にあげた考え方や行動の違いにあると気付いたのだ。
 図書館で働いていると,翻訳本に接する機会も多々ある。翻訳本がどのような過程を経て私たちの手元に届くのかその一端を知ることができた。また,なぜその職業に就きたいのかじっくり考えることや,地道に仕事に取り組むことの大切さを改めて感じた。出版翻訳家を目指す人はもちろん,将来どんな職業に就こうかと悩む中高生にもおすすめしたい。

(高橋明日香:福島市立図書館)

自由すぎる公式SNS「中の人」が明かす企業ファンのつくり方

日経トレンディ,日経クロストレンド編集 日経BP発行 日経BPマーケティング発売 2020 ¥1,500(税別)

 インターネット利用者のホームポジションがポータルサイトからSNSに移行して久しいが,とりわけTwitterは多くの企業で活用が進んでいる。本書で紹介されている6社の人気企業アカウントの「中の人」は,告知や宣伝よりもフォロワーとのゆるい交流を重視し,消費者に対して「企業よりも近い」存在として,企業と消費者の新たな関係性をつなぐ,重要な存在となっている。
 一口に人気アカウントと言っても,その運営スタンスはさまざまだ。企業アカウントは,「企業としての告知」と,「それ以外のおしゃべり」を発信していることが多いが,例えば東急ハンズはコミュニケーションを重視して「おしゃべり」が全体の8割を超え,逆にセガは情報収集目的のフォロワーが多いと判断し「告知」を8割としている。また,大地震等の災害時,「被災地の人が情報収集するのに邪魔にならないように」と発信をやめた企業と,「自粛される方がつらい」という被災者の声を聞き,日常会話を続けた企業とに,対応が分かれた点は興味深い。こうしたスタンスの違いこそあれ,共通しているのは,個人が友人等との交流を楽しむ場であるSNSにおいては,一方的な宣伝よりも対話こそが重要,という視点である。
 さて,本書の中で,企業アカウントは現在第3世代に入ったという分析がある。第1世代は,ほとんど告知のみの発信,第2世代は,上層部はじめ社内のSNSへの理解が無い中で,対話を重視して「中の人」が孤軍奮闘した時代,第3世代は,社内の理解,協力を得て,企業ブランドと公式アカウントが目線を合わせて発信している状況だという。私見ではあるが,図書館の公式アカウントの多くは,対話をしない第1世代レベルにとどまっていると思われ,今後のあり方を考えていく上での,ヒントが詰まった一冊である。

(辻 一生:田原市中央図書館)

「うちの子は字が書けないかも」と思ったら

発達性読み書き障害の子の自立を考える
宇野彰著 千葉リョウコ漫画 ポプラ社 2020 ¥1,400(税別)

 「発達性読み書き障害」という言葉が聞かれるようになってずいぶん経つように思う。生まれつき知能面の問題はなく,話を聞く力・話す力はあるのに読み書きだけが苦手である「発達性読み書き障害」の人。努力が足りないからできないと思われがちで見過ごされてきていた。
 前著『うちの子は字が書けない』(ポプラ社 2017)から3年を経た本書では,「発達性読み書き障害」の子どもの困っている状況を把握し,周りの大人(親や学校)がどのようにサポートしていったらよいのかを,宇野氏が文章・千葉氏が漫画で詳しく教えてくれる(総ルビである)。
 親も学校も,子どもの読み書き障害の状況を把握した上で,サポートしていくことが大事であるという。また,子どもが「読みたい・書きたい」と意欲をもってトレーニングに取り組まないと,大人にやらされている感が大きくなって結局身につかないことになるそうだ。
 学校では2016年4月に施行された障害者差別解消法(通称)による「合理的配慮」というサポートができるとよい。学校での学習形態は読み書きの連続!である。板書をノートに写すことが遅い・教科書の音読など,できる人にはわからない困難さが満載である。子ども・親と学校とで話し合って配慮すべき内容を決めることにより,子どもは学習しやすくなっていく。学校は相談しやすい場を整えていくことも必要であろう。
 いずれにしても子どもがどのように学習したいか・将来の目標はどう考えるのか…によって,大人はサポートしなくてはならないだろう。
 宇野氏は「後天性の読み書き障害と区別するために」「必ず前に『発達性』をつけて欲しい!『発達性読み書き障害』『発達性ディスレクシア』」(p.66)と読者に要望している。

(濱野美由貴:神奈川県立二俣川看護福祉高等学校)

発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ

小倉ヒラク著・イラスト 木楽舎 2017 ¥1,600(税別)

 まず,表紙に惹かれた。ぜひ,カバーがかけられていない本書を手に取ってほしいのだが,表紙の手触りといいタイトルの字体といい,まるで本自体が発酵しているかのようなのだ。
 思わず手に取り,タイトルを見ると「発酵文化人類学」という聞いたことのない単語。「おお?!何じゃこりゃ?!」と好奇心に駆られてまえがきを読むと,どうやらこの語は著者の造語で,意味は「発酵を通して,人類の暮らしにまつわる文化や技術の謎を紐解く学問」(p.20)であるらしい。
 「発酵を通して」というところが斬新だ。発酵と聞いて思いつくのは味噌や醤油,ワインなどだが,これらが作られる過程=発酵を書くことで,人の文化の何が描き出されるのか。
 詳細は本書を読んでほしいが,ポイントになるのは,発酵とは微生物と人という異なる存在同士の関わり合いだということだ。
 微生物は人とは異なる存在である。しかも人はその姿を見ることさえできない。目に見えないものは,多くの場合よくわからない。よくわからないものは意識から外しがちだ。けれど,そのよくわからないものと私たちは「対話」をすることで「発酵」という関係性をつくりだすことができている。発酵技術とはいわば人が世界と関わる方法の一つなのだ。
 著者は発酵に関するさまざまなトピックを通して,発酵技術そのものを解説するとともに,人が,自分たちと異なるものとどのように向き合ってきたかを描き出している。
 一見難しそうなテーマだが,文体は明るく読みやすい。また,話題は,発酵を通したアートや神話,経済,最新技術など多岐にわたる。興味が尽きず,最後まで一気に読んでしまう。知っているようで知らなかった発酵という面白い世界への扉を開き,その世界へ誘ってくれるような本だ。

(坪田英子:大和市立図書館)

サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ

宇都宮徹壱著 カンゼン 2016 ¥1,700(税別)

 旅先で図書館を訪れた時には,地域資料のスポーツの棚をチェックする。その土地のサッカークラブの資料との出会いを期待して。これまでの最大の収穫は,岩手県立図書館で見つけた,東北社会人サッカーリーグの名門・盛岡ゼブラの50周年記念誌。その内容の充実ぶりに時間を忘れて読みふけってしまった。
 盛岡ゼブラのような,アマチュアリーグのサッカークラブを取り上げたのが本書である。副題のとおり,Jリーグ参入を目指すクラブ(奈良クラブ,高知ユナイテッドSCなど)と,企業クラブを中心とした目指さないクラブ(Honda FC,ブリオベッカ浦安など)が登場する。
 各章では,「サッカー地政学(フットボール地政学)」を提唱する著者により,クラブそのものの歴史に加え,地域の歴史や住民気質,競技場や練習場の環境,サッカー協会や他のクラブとの関係などが分析されており,土地に根ざしたサッカー文化の豊かさ,多様さに驚かされる。一方で,経営破綻したクラブや親会社の意向で合併(後には活動停止)したクラブの姿も描かれており,クラブの存続が簡単ではないことも痛感させられる。
 「本当に大切なことは,カテゴリーでも,もっと言えばタイトルでも目前の勝敗でもない。そこに愛するクラブがあり,目の前でゲームが行われていること。そのこと自体が,実はフットボールファンにとっての至福と言えるのではないか」(p.139)。コロナ禍で長期間にわたり試合が開催できず,開催できても無観客試合や入場者数の制限を余儀なくされた今年,この一文に共感するサッカーファンは多いだろう。また,収入が激減し,経営の危機に直面しているクラブも少なくない。危機に瀕した芸術文化への支援が叫ばれているが,地域の文化を支える身近なスポーツチームにもぜひ目を向けていただきたい。

(天野奈緒也:愛媛県議会図書室,日本図書館協会認定司書第1137号)

くらやみに,馬といる 第2版

河田桟著・写真 カディブックス 2020 ¥900(税別)

 「くらやみに,馬といる」。タイトルを目にした瞬間,足元から豊饒な闇が立ち上ってきて私をひたした。まるで,一行詩のようなたたずまいだ。
 東京で編集の仕事をしていた著者が,野生の馬と暮らすため与那国島に移住して10年。本書は,相棒の牝馬カディの看病を機に出会った「夜明け前のくらやみ」の世界を描いた随筆集である。
 自分の「輪郭」が「あいまい」になり,「粒子となって拡散」してしまいそうなほどの夜の森で,彼女は不思議な心境へと到達していく。「やさしいくらやみはどこまでも広がっている。境界線はない。正しさも誤ちもない。善も悪もない。幸せも不幸せもない。よりよくも,よりわるくもならない。あらゆる存在が溶け合いながらそこにある。あらゆるものが変わり続けている」(p.106)。
 なるほど,これは素晴らしいくらやみの効用だと思う。真昼の世界はあまりにまぶしく容赦がない。外的な刺激が多く,弱った魂には暴力的ですらある。そしてまた,激しい光は,年齢・性別・容姿・肩書・障害,あらゆることを明らかにし,私たちを分断していく。そこには色濃い影が,苦しみが生まれ,私たちは静かに消耗し続けている。
 あたたかいくらやみの中ではどうだろう。人の世の価値観が見えづらく,私たちを縛る既成概念から自由になれる。自分本来の魂へと解放される。
 五感がひらく。与那国では,いつでも風が吹いているという。海鳴り,耳を潤す雨の音,木や草の匂い,足裏に感じる大地の感触,うつろう月や星の光,そして愛するカディの温度。満ち足りた豊かな闇の中,そこには,何かしらまぶしい手触りがあった。
 光は麗しい。けれど,明るさだけでは自分の人生を支えられないことがある。私たちは,自分のくらやみをもっと大事にしていくべきなのかもしれない。この本を必要としたその人に,どうかやさしい夜が訪れますようにと願う。

(内山紗也香:鹿嶋市立平井小学校図書館)

質問する,問い返す 主体的に学ぶということ

名古谷隆彦著 岩波書店(岩波ジュニア新書) 2017 ¥860(税別)

 本書は,「主に中学生から大学生を念頭に書いた」(p.210)という。筆者は,共同通信社で二十数年のベテラン記者である。そして,「十数年にわたって教育分野を担当してき」(p.207)たという。
 さて,今回の高等学校学習指導要領の改訂は,「探究」に重きを置いている。看板を変えて「総合的な探究の時間」も設置されている。
 教育現場において,「総合的な探究の時間」は,悩ましいものに違いない。学校には国語や社会の教員はいても,「探究の時間」を専門に担当する教員がいるとは限らない。しかも,「総合的な探究の時間」には,教科書がない。新指導要領は,「各学校における教育目標を踏まえ」て,校長のリーダーシップのもと,学校全体で「探究」に取り組めという。腹を据えて取り組まなければならない。
 ここ数十年の社会の変化は,それ以前の100年分に匹敵するかもしれない。あと10年もすれば,今ある職業のうち,AIが取って代わる職種が多数あるという。
 本書は,具体的な例をあげながら,「探究」するとはどういうことかを考えさせる構成になっている。想定される読者は,生徒・学生である。
 「探究」は,疑問を持つことから始まる。書名にもある「質問する,問い返す」とは,疑問を抱いたところから出てくる行動だ。「主体的に学ぶ」とは,それぞれが自発的に自分自身で考えるということだ。それは,これからの社会を生き抜くうえで必要なことだと,本書は教えてくれる。
 この本を教員が読めば,きっと自らの教育に対する意識を確認するのに役立つと思う。
 「探究」に取り組む際,カギとなるのは,図書館である。業者と連携して探究授業を進める方法もあるかもしれない。しかし,学校独自のカリキュラムマネジメントを考えるならば,図書館を抜きにできないと思うが,どうだろう。

(内藤悦永:関西大学第一高等学校)

仕掛学 人を動かすアイデアのつくり方

松村真宏著 東洋経済新報社 2016 ¥1,500(税別)

 新型コロナウイルス感染症の流行により,新たな生活様式の実践が求められている。私自身もこの状況で図書館をどのように利用してもらうかを悩む毎日を送っている。一人一人の行動の変容を求められている中,ふと思い出したのがこの「仕掛学」という本だ。
 仕掛けと聞いて,皆さんは何を思い浮かべるだろうか。策略やたくらみ,仕掛けるという意味合いのものだろうか。本書では,何らかの問題を解決するために,人の行動を変えるきっかけや後押しとなる“仕掛け”を題材としている。例えば,外出先でkcal表記が付いている階段を見たことはあるだろうか? 普段エスカレーターを使っている人もふとした時に,昇ってみたという方もいると思う。何気ない表記だが,気が付くと私たちが取る選択肢を増やしている。それが本書で扱っている仕掛けの一つである。この仕掛けでは,エスカレーターの利用者を減らし,階段へと誘導することができ,混雑の緩和などにつながっていく。
 本書の魅力は,仕掛“学”という名前の通り,著者である松村真宏氏による,世の中にあるさまざまな仕掛けの体系的な分析や解説にある。仕掛けの仕組みや紹介されている実例を読み進めると,仕掛けられているばかりじゃなく,読者の側も仕掛けを考えたくなるのでないだろうか。本書の終盤には仕掛けのアイデアを考える方法が記載されており参考になる。松村氏考案のアイデアも紹介されており,ユニークで興味深い。
 図書館で勤務していると,さまざまな人が思い思いの利用の仕方をしているのを見ることができる。あの本棚を見ている人には,この棚の本も見てくれないだろうかと思うことも多く,何か“仕掛け”られないかと想像を膨らませている。さまざまな行動変容が迫られる機会だからこそ,新たな行動の提案をしたい人にお勧めしたい。

(駒田紘史:足立区立東和図書館)

古くてあたらしい仕事

島田潤一郎著 新潮社 2019 ¥1,800(税別)

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の出現により,これまでの価値観が大きく揺らいでいる。日常は変容し,多くのことが先の見通しも立たない中,私たちは,いまこの時をどのように生きていけばよいのだろう。
 本書は,従業員は自分ひとりという出版社「夏葉社」を2009年に立ち上げ,丁寧に本をつくり読者へ届け続けている著者の,その仕事と周辺のことを綴った一冊である。
 出版社を立ち上げるに至った経緯,本と本をつくることへの思い,一つ一つの作品を手がける中で経験し感じてきたこと。著者はそれらについて語りながら,人との出会いから得た仕事を続けていくうえでの数々の指針や,便利さや豊かさという尺度の裏でないがしろにされていることについて言及する。淡々と綴られた文章が読み手の心にまっすぐ届き,時に短くはっきりと言い切る言葉が,私たちをはっとさせる。例えば「手紙のような本」の節の「受け取り手が,一人か,二人かによって,文章の質は決定的に変わる」(p.101)「効率的に,合理的に仕事を進めようと思えば思うほど,ひとりひとりの個人の顔が見えなくなってくる」(p.102)といった言葉には,一対一の顔の見える関係性を大事にし,「何度も,読み返される本を。」を標榜する著者の矜持を明確に表している。
 コロナ禍により,今まで確かだと思ってきたことが揺らいでいる今,また社会の生きにくさやさまざまな歪みが炙り出されている今,これから何を大事にして生きていくべきかを考えるためにも,ぜひ読んでほしい一冊である。また本書では,夏葉社が2016年に復刊した前川恒雄著『移動図書館ひまわり号』(筑摩書房 1988年刊の再刊)についても触れられている。こちらも,特に図書館に関わる皆さまには,今こそ再読をお勧めしたい。どちらも,困難な状況において,顔を上げ前進する力を与えてくれる一冊である。

(麻田 真:鳥取県立倉吉農業高等学校)

時代を拓いた女たち 第Ⅲ集 かながわの112人

江刺昭子,かながわ女性史研究会編著 神奈川新聞社 2019 ¥1,400(税別)

 2005年の第Ⅰ集,2011年の第Ⅱ集に続いて出版された,3作目である。著名人から市井の人まで,明治時代以降を生きた神奈川県にゆかりのある女性が幅広く取り上げられている。政治家や芸能人のように目立ちはしないが,地域で教育や福祉,社会的な活動に尽力した人物についても,複数の参考文献や関係者への取材などに基づいてまとめられている。ひとりあたり見開き2ページというコンパクトな記述の中に,それぞれの人物が成し遂げたこと,成し遂げようとしたことがみっしり詰まっており,それが112人分も集まると,熱量に圧倒される。
 国内の女性文学博士第1号は,秦野生まれの人だった。小田原でつくられている低農薬の「片浦レモン」誕生のきっかけは,消費者の会の活動だった。この時代に,この地域に,こんな人がいたんだ,という発見と驚きの連続だ。仕事柄,教育者や学校を設立した人が気になったり,公務員として責務を果たした人に目が留まったりする。県立高校出身と書かれていると,ちょっと嬉しくなって,勝手に親近感を持つ。若くして亡くなった人や,消息不明の人もいる。それぞれの人生に想いを馳せながら,ゆっくりじっくり味わいつつ読んだ。
 内容もさることながら,今自分の手元にこの本があって,50年前,100年前に生きた女性たちの足跡を知ることができる,ということ自体が,考えてみたらすごいことだ。彼女たちに関する記録が残されていて,思い出を語る人がいて,それらを丹念に探しあてて読み込み,聞き取り,文章にまとめる人がいて,それが出版されて……。どこかひとつでも欠けていたら,こうはなっていないわけで,なんとありがたいことかと思う。いろいろな意味で力をもらえて,もらった力を活かして次の行動につなげたくなる,そんな1冊だ。

(田子 環:神奈川県立厚木清南高等学校)

風をつかまえた少年 14歳だったぼくはたったひとりで風力発電をつくった

ウィリアム・カムクワンバ,ブライアン・ミーラー著 田口俊樹訳 文藝春秋 2010 ¥1,667(税別)

 みなさんはマラウイという国をご存知だろうか?外務省HPによるとアフリカ南東部に位置し,人口は1814万人,面積は日本の3分の1ほどの細長い国だ。アフリカの最貧国の一つで,GDPは日本の約120分の1である。
 本書の主人公はマラウイに生まれ育ったウィリアム・カムクワンバ少年。両親と姉妹の8人家族で,マラウイの多くの家と同様,たばこやトウモロコシを栽培する農家である。14歳になると中等学校に進学するも,2001年に全土を襲った大干ばつが原因で学費が払えず退学になってしまう。
 しかしNPOが運営する図書室で出合った本が彼の運命を変える。『物理学入門』と『エネルギーの利用』。これらの本で独学し,親友の手助けもあって,ついには自宅の庭で風力発電を成功させるのだ。人口のたった2%しか電気を使うことのできないマラウイでこのことが評判を呼び,現地のラジオや新聞で報道され,彼は中等学校に再び通えるようになる。それどころか,南アフリカの高校へ進学,2010年にはアメリカの名門・ダートマス大学への進学も果たしてしまうのだ。
 と,まあ本書の魅力は,過酷な境遇でもめげずに成功をつかんだ一人の少年のサクセスストーリーにあるが,私としては見どころがもう一つあると感じた。それは,マラウイの文化や政治事情,そこに生きる人々の姿が実に鮮やかに描かれていることだった。例えば,“魔術”や“迷信”が生活のそばに存在しており,バッタをパリパリに揚げて食べ,マラリアには毎年かかる。汚職政治と貧富の激しさ,猫には名前を付けなくても犬には付ける,そして人と人の結びつきの強さ等など。
 アフリカの大地のエネルギーと,学ぶことの本当の意味を描いたノンフィクションである。
 なお本書は文庫化(同 2014),2018年には映画化もされている。

(平本真理:鎌倉市腰越図書館)

ミツバチおじさんの森づくり 日本ミツバチから学ぶ自然の仕組みと生き方

吉川浩著 ライトワーカー発行 ナチュラルスピリット発売 2019 ¥1,900(税別)

 都会での生活をやめた著者は,耕さず,肥料と農薬も使わない自然農法を始める。次第に田んぼの生態系バランスが整い,これが豊かな自然環境だと気付く。日本ミツバチの自然養蜂にもこの関連を見た著者も養蜂を始めるが,世間の蜜蜂への誤解が環境破壊につながると感じることとなる。
 「ミツバチは,自然の生態系を担っている」(p.153)これは事実であり,大きな誤解でもある。古来日本には日本ミツバチがおり,自然の生態系を担ってきた。日本ミツバチの送粉によりできた種子は,その実を食べる動物によって広がり,新たな天然の森を作る。一方,西洋ミツバチはその養蜂とともに明治期に伝来し,基本的に1種の花で蜂蜜を作る。蜜蜂はそれぞれに,森づくりと養蜂という役割を分担している。外来種の西洋ミツバチが野生化すると,日本ミツバチの巣を奪い,生態系を崩してしまう。
 2015年頃から現在も,外来種のダニと感染病により全国の蜜蜂は壊滅的被害を受けている。しかしこの原因は,本を正せば教育や制度など人為的なものだ。自然養蜂で100群まで増えた著者の蜜蜂も全滅してしまった。蜜蜂が消えれば森がなくなり,水源,農業,漁業など日本の経済活動も滅びる。蜜蜂の消失に大きな不安を感じた著者は,人工林での営巣が難しい日本ミツバチのために巣箱を設置し,繁殖環境を作って自然環境を回復させる<ビーフォレスト活動>に尽力する。活動は森を再生する団体や学校ともつながっていく。
 蜜蜂は生物を食べないということにハッとした。日本ミツバチは花粉と蜜を自然から頂き,森を自然に返して生きている。日本ミツバチを知ることは,生態系の中に自分を組み入れて心地よく生きる土台になると思う。

(齋藤麻理奈:石巻市図書館)

食の歴史 人類はこれまで何を食べてきたのか

ジャック・アタリ著 林昌宏訳 プレジデント社 2020 ¥2,700(税別)

 人類の祖先がアフリカで採集生活を行っていた頃から,現在まで人間の食の在り方に関する世界各地,各分野の知見をまとめ,食に関するいくつもの未来を示唆した書である。
 明日にでも実現しそうな「インターネットに接続された腕時計が血糖値と血圧を常時計測し(中略)医師や保険会社は,インターネットに接続された冷蔵庫を利用して在庫状況を把握し,自分たちが課す食餌療法に見合う食物を摂取するように指導」(p.305)する未来。私たちはそれを望ましいと思うだろうか,それともおぞましいと思うのだろうか。栄養管理を丸投げできる「最先端の生活様式だ」と喜ぶのかもしれない。
 本書による食の未来予測は概ね暗い。世界人口は2019年に76億人であり,大きな変化がなければ2050年には90億人に達するとされる。さらに,家畜,魚,昆虫を養い,西洋諸国と同レベルの消費モデルを維持するには,世界の食糧生産量を70%引き上げなければならないという。これは実現可能だろうか。
 食料不足は遠い未来の「ありえない」話ではない。いつでも買えると思われていた物資が手に入らなくなる。そういう生活を私たちは本書の発刊直後に経験している。食料生産量の大幅な向上が実現不可能ならば,私たちは何をすべきなのだろうか。
 「人間らしい暮らし」を今後も続けるための解決策として,農業改革,食育,地産地消,少糖などいくつかの提案もなされている。大規模な提案は政治的である一方,小規模な提案はこれまでにも唱えられているものが多い。人間活動の中心であった「食」を他人任せのままでいるか,情報を集めて自ら考え,行動を変えるか。「食の歴史」に関心を持つことが行動の一歩になるだろう。

(島津芳枝:宇佐市民図書館,日本図書館協会認定司書第1147号)

知りたくなる韓国

新城道彦,浅羽祐樹,金香男,春木育美著 有斐閣 2019 ¥1,800(税別)

 韓国好きの人にはよくある話と笑われてしまうであろうが,たまたま好きになった芸能人が韓国人だった。そして動画を見たり,新大久保に行ったり,韓国語をかじっているうちに,歴史や文化に興味を持ち,本を読み,現地を訪れ,気がつけばこの数年,この国に興味を持ち続けている。
 日本の書店にはいわゆるヘイト本も結構な数が置かれているが,その隣に同じ冊数だけこの本を置いてほしい。一見地味な(いや,上品なのだ)装丁だし,教科書のようにも見えるから手に取りづらいかもしれない。けれどこの本には韓国の今までの歴史から政治,社会,文化まで全方位的といっていいくらい網羅してある。そして読書が苦手な人にも読みやすいように口語体で書かれているので韓国通の先輩から話を聞いているような中身になっているのだ。例えば文化の章の中で,日本の小説やマンガについて,韓国の大型書店で扱われている日本語のエッセイや小説のコーナーの風景とともに,村上春樹と東野圭吾の翻訳本が出るたびベストセラーになることや,マンガは『神の雫』(オキモト・シュウ著 講談社 2004~2014)が世代を超えた社会現象となり,韓国におけるワインの普及と売り上げに多大な影響を及ぼしたことなどが書かれている。
 実際行ったことがある人にはそうそう,と思う場面がたくさん出てくるとともに,コラムがまた,今の韓国を知るうえでとても役立つものになっている。そして巻末の,韓国をより深く理解するのに役立つリストには映画と本が紹介されているのだが,このラインナップが素晴らしい(もちろんアジアで初めてアカデミー賞を獲った『パラサイト(寄生虫)』(2019)も載っている)。韓国好きな人もそうでない人も,題名どおり,知ってほしいという4人の著者の思いがひしひしと伝わるのである。

(平井真理:ふじみ野市役所)

本を売る技術

矢部潤子著 本の雑誌社 2020 ¥1,600(税別)

 私は図書館員になる前,36年間書店員と出版社の営業の仕事をしてきた。いずれも本を売るのが主な仕事だったが,書店と出版社では大きな違いがあった。それは書店には売る本を選ぶ自由があり,出版社は書店の売り場に本を置いてもらわなければ,売り上げにならないということだ。書店が「場」を持っている力はとてつもなく大きい。出版社の社員は良い(売れる)場所においてもらうために書店に日参し,担当の書店員に売り込み,時には「報奨金」というインセンティブを書店に提示して良い場所に一日でも長く置いてもらう努力をしている。
 本書は有名な書店員である著者に売り場での本の売り方をインタビューした貴重な一冊だ。各章の小見出しには著者の売り場を作る考え方が端的にあらわされている。「その本をなぜそこに置くか考える」(p.19)「取りやすく,買いやすく,戻しやすくする」(p.30)「何かあるかもと思って毎日来てもらえる売り場にする」(p.36)「売れる場所を探していく」(p.44)「毎日平台を入れ替える」(p.94)「どの本も今日入ってきたばかりの本のようにする」(p.204)。
 毎日大量の新刊や追加の本が入荷する書店の店頭は常に変化している。入荷した本をどこにどのようにどれだけ並べると一番売り上げがとれるのか,ベストの状態になるよう著者は売り場を走り回るのである。技術論なので,細かい点は理解するのが難しいこともあるが,一冊の本を売る=読者に届けることに対する情熱はどこを読んでも伝わってくる。本書に書かれている,本と読者との出会いを増やす工夫は,公共や学校図書館においても通じるところがある。最後に巻頭にある「本屋で働く新しい人たちへの10ヶ条」から一つだけ「売り場にいること」を紹介する。新米司書の私も事務所から出てフロアにいよう。ちゃんと利用者に本や情報を届けられるように。

(藤坂康司:名古屋市志段味図書館)

ねこもかぞく ほんのり俳句コミック

堀本裕樹,ねこまき(ミューズワーク)著 さくら舎 2019 ¥1,400(税別)

 俳句は十七音で表現するため,詠むのは苦労するが,鑑賞をするときにはその言葉の少なさ故に,想像の広がる余地を残してくれているように思う。句だけが並んだ俳人の句集を読むのも,また自分なりの鑑賞をしてみるのも良いものだ。
 しかし,少しリラックスして俳句を楽しみたいときや,他の人が俳句をどのように鑑賞するのか知りたいときもある。
 そこでこの本である。俳人の堀本裕樹氏と,夫婦ユニットによるイラストレーターであるねこまき氏が,一つの句をそれぞれに解釈している。堀本氏は俳句から思い浮かんだことをエッセイやショートストーリーといった文章で,ねこまき氏は『まめねこ』(さくら舎 2013~)シリーズや『ねことじいちゃん』(KADOKAWA 2015~)シリーズなどでおなじみの,ほんわかとした猫の登場するイラストで表現している。自分では思い至らなかった解釈が,それぞれの視点で示される。
 この本で取り上げられている俳句は,家族が詠み込まれているか,家族の存在が感じられるようになっている。もちろん犬や猫といったペットも家族である。
 動物を飼うには責任が伴う。だから飼いたくても飼えない人もいるだろう。私もその一員である。そのため,SNSなどで紹介されている愛らしい動物の写真や動画を,親戚のおばちゃんのような気持ちで眺めさせてもらっている。近頃のままならぬ日々,猫ちゃんやワンちゃんにリモートワークをじゃまされている投稿写真を見て,ひととき心を和ませている方もいらっしゃるのではないだろうか。本書のねこまき氏のイラストは,そういった人の需要も満たしてくれているように思う。もちろん肩肘張らず俳句に親しむにもおすすめできる。

(藤井のり子:和洋九段女子中学校高等学校)

つづくをつくる ロングライフデザインの秘密

ナガオカケンメイ著 西山薫,日経デザイン編 日経BP発行 日経BPマーケティング発売 2019 ¥2,500(税別)

 緑とオレンジのインクで,フォルテ記号のような「f」のマークが連なる表紙。一体どんな意味があるのだろうとページをめくっていくと,その答えがすぐにわかる。博多めんたいこの元祖「ふくや」の包装紙であった。
 本書は,「キャンパスノート」や「カルピス」,「黒ひげ危機一発」など,誰もがパッケージを思い浮かべられるロングセラー商品23点を取り上げ,そのデザインの工夫を探っている。
 『日経デザイン』,『日経クロストレンド』の記事を加筆・修正し,再編集したもので,表面的なデザインだけではなく,「つくる」,「売る」,「流行」,「つづく」の四つのポイントで取材しているので読みやすい。
 「ヤクルト」の容器と言えば,子どもの手にも持ちやすく,くびれのある形状が特徴。小さい頃から「こけし」に似ていてかわいいなと思っていたが,やはりそうだった。飲みやすく,強度があるその形状は,1968年から変わっておらず,子どもも大人も,あの甘い味まで思い出されるはず。
 「ヤクルトレディ」の売り方も特徴的で,家族の健康を守る主婦が直接届けることで,一人でも多くの人の健康を守るという創始者の考えが,今も続いていることに驚く。
 ロングセラー商品は,商売の前に「ひとへの思い」(p.241)があると著者は語る。本書で紹介されている商品は,それを使う人の,日々の生活がほんの少し楽になるようにと思って作られていることがわかる。これが,ロングライフデザインの根底にある。
 著者は『d design travel』(D&DEPARTMENT PROJECT 2009-)の発行人。1冊まるごと,各都道府県の個性とデザインが特集された,このガイドブックもぜひ手に取ってほしい。

(妻神昭子:青森県立図書館)

古墳空中探訪 奈良編

梅原章一著 今尾文昭解説 新泉社 2018 ¥2,800(税別)

 先日,奈良まほろばソムリエというご当地検定に合格した。ソムリエは最上位なので,公式テキストに出ていない知識も求められる。当然,あれやこれやと調べていくのだが,その過程においてびっくりしたことがある。インターネットでの情報収集だけで,事足りた。一昔前なら県別の地名辞典をめくって調べていた事柄も,むしろ,インターネットの情報のほうが親切で,辞典のほうが古くて使えない印象を持った。「俺は図書館での調査をテーマに,何冊か本を書いているんだけどな」と,複雑な気持ちになってしまった。
 さて,そうした期間に手にとったのが,今回紹介する『古墳空中探訪 奈良編』で,奈良県内の古墳を空撮した写真集である。著者の梅原章一氏は,1970年代から古墳の空撮を始め「今までに撮影飛行した回数は数知れず」(著者紹介より)だという。収録されている写真は,1970年代から2010年代までと幅広く,数多くの作品の中から「この古墳なら,これ」というベストショットを厳選していったのであろう。「あとがき」によると,梅原氏は,新緑の季節の雨上がりの「山辺の道」沿いの古墳が気に入っているそうである。
 古墳を空から見ると,そのかたち,地形との関連などが理解しやすい。インターネットにある航空写真でも,そうしたことはわかる。しかし,この本の写真からは,季節や時間,天気,風なども感じられ,セスナに乗って古墳を眺める追体験ができた気分になった。著者の経験が凝縮された一冊だからであろう。
 そのような付加価値的な魅力を持つ本が,今の図書館には必要であるように感じた。
 もっとも千数百年を経ている古墳の被葬者から見れば,些細なことかもしれないのだが……,と結ぼうとしたのだが,いやいや,案外,大きなことであるように思えてきた。

(高田高史:神奈川県立川崎図書館)

感染地図 歴史を変えた未知の病原体

スティーヴン・ジョンソン著 矢野真千子訳 河出書房新社(河出文庫) 2017 ¥980(税別)

 コレラという感染症は19世紀に猛威をふるい,多くの人の命を奪う伝染病として恐れられていた。その当時は原因も治療法もわからない致死的な未知の病気だったからである。
 本書は19世紀半ばにイギリスのロンドンで起きたコレラの大発生により,わずか10日間で600人が亡くなるという惨事を,科学的また社会的な視点から追いかけた著作である。
 主人公は人当たりの良い現地の牧師と,当時はコレラの原因はにおい(瘴気説)だと信じられていたが,それに疑いを持つ無口な医師の二人。そして急成長を果たした都市と,宿主を求める病原体,探偵小説風な展開で進んでゆく。
 疫病の原因は「水」が汚染されたことだと,どのように立証していったのか。聞き込み調査とデータの解析,そして二人の出会いが大きなカギとなる。さらに感染した人を地図上に表す「感染地図」を初めて作成したことが,歴史を動かすターニングポイントになった。
 作者は当時の公衆衛生状況と都市が急成長をしたために起こるさまざまな問題に目を向け,疫病が広がる要因に迫っていくが,現在にも通じる点が多いことに驚く。
 未知のウィルスが広がり,パンデミックという言葉が毎日ニュースで流れ,「感染地図」の子孫が21世紀の今,膨大なデータの海の中でその役目を果たし,世界規模で感染が広がる様を,真っ赤な地図上の点で表している。
 そんな中でこの本と出合ったことが,偶然の一致だとしたら,いったい何を意味しているのだろうか。私たちはそれを見ている傍観者ではなく,その地図上に存在する当事者であるということを,この本は差し示しているのかもしれない。テクノロジーも経済も格段に進歩したが,人類と病原体の闘いは続いているのである。

(米澤久美子:東京都立府中東高等学校)

だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!(1)

佐野妙著 竹書房(BAMBOO COMICS) 2020 ¥820(税別)

 知り合いから「豊橋ってどんなところなの?」と聞かれたら「この本,読んでみりん(読んでみて)」と私は答えるだろう。
 本書は,愛知県豊橋市の高校への入学を機に県外から引っ越してきた少女が,新しい土地での生活に戸惑いながらも,学校の先輩や同級生たちと交流するうちに,豊橋や三河地方の独特な言葉や食べ物などについての知識を広げていくというストーリーの四コマ漫画である。
 作者は豊橋生まれ,豊橋育ち,豊橋在住の漫画家。地元の人々の日常生活に溶け込んだ「あるある話」を,豆知識とともにコミカルに描いている。
 主人公の部活の先輩に,とにかく「豊橋推し」で地元のことにやたらと詳しく,郷土愛と三河弁が強めのキャラクターが登場する。その知識量とプレゼン力と熱意は,豊橋市のPR大使になってもおかしくないくらいだ。
 女子高校生たちがおもな登場人物のためか,食べ物に関するエピソードが多い。「ブラックサンダー」「ピレーネ」「うずらの卵」「あんかけスパ」「たまり醤油」「モーニング」など,豊橋で暮らしている人には馴染み深いものばかりが取り上げられている。
 地元の人かそうでないかは,ある場所の呼び方でわかってしまうことがないだろうか。豊橋の場合は「西駅」と「なんじゃす」が筆頭格だ。「西駅は駅のことでしょう?」と思われる方が多いと想像するが,実は違うのだ。これらのキーワードが何を指しているのか気になった方は,本書を読んでみてほしい。
 2020年4月現在も連載を続けている『だもんで豊橋』。次はどんな「豊橋・三河地方のあるある話」が展開されるのか,続刊を楽しみに待ちたい。

(小川訓代:まちなか図書館開館準備室(豊橋市))

司法通訳人という仕事 知られざる現場

小林裕子著 慶應義塾大学出版会 2019 ¥1,800(税別)

 「司法通訳人」とは,罪を犯した来日外国人や在留外国人など日本語を解さない外国人が司法手続きや裁判を行うために,通訳をする人物のことである。弁護士あるいは検察官の発言を被疑者に,被疑者の発言を弁護士あるいは検察官に,双方向のコミュニケーションを実現するため,双方の発言の意図を汲み取り適切な表現で伝えなければならない。本書からは,あまり知られていない司法通訳人の仕事現場をうかがい知ることができる。
 双方の発言を「厳密に厳格に一言も聞き漏らさずに,そして一語一句たりとも置き去りにすることなく訳す」(p.13)ことが司法通訳人の役割であると著者は述べる。それは,すべての通訳に当たり前と思われるだろう。しかし,司法の現場で正確に訳すということは,より重大な責任を伴う行為なのだ。被疑者が起こした事件が「故意」であるのか「過失」であるのかといった,法律上の判断で重要な場面を通訳することが求められる。その場合,日本の法律を知らない被疑者にも伝わるよう,一語一語を丁寧に,わかりやすい言葉で訳す必要がある。言葉を正確に通訳できるかどうかが被疑者の量刑を,そして人生を左右する。このように司法通訳人は,外国人が被疑者となる事件において必要不可欠な責任のある仕事なのである。
 しかしその一方で,現在の日本では「司法通訳人」の統一的な資格認定制度や法的な制度が整っていない。そのため,法律の基礎的な知識がない者が通訳をしてしまう場合や,人材不足から被疑者の母国語を通訳できる司法通訳人がいない場合もある。著者は,適切な通訳ができているか疑わしい事例もあると述べる。
 来日外国人や在留外国人が増加するなか,司法通訳人の重要性が叫ばれる。言語の違いによるコミュニケーションの齟齬をできる限り小さくすることは,これからのグローバル化する社会において重要であると,司法の現場を通じて考えさせられる一冊だ。

(佐々木彩香:黒部市立図書館)

あいまいな喪失と家族のレジリエンス 災害支援の新しいアプローチ

黒川雅代子ほか編著 誠信書房 2019 ¥2,500(税別)

 「あいまいな喪失」は,ミネソタ大学のポーリン・ボス氏が提唱する概念である。東日本大震災後,被災地でのメンタルヘルスケアに従事していた福島県立医科大学の瀬藤乃理子氏らがボス氏を訪ねたことをきっかけに,瀬藤氏を含む編著者らがボス氏より学んだ理論を紹介するのが本書だ。
 喪失しているかどうか自体がはっきりせず,終結さえわからないあいまいな喪失には,「さよならのない別れ(行方不明,親の離婚など)」と「別れのないさよなら(住んでいた土地や家に戻れない,認知症など)」の二つがある。二つのタイプは同時に経験されることや,受けとめ方によって同じ経験がどちらのタイプにもなることがある。
 支援者にはあいまいではない喪失(特に死別)とは異なる支援が求められる。「人生のコントロール感を調整する」「希望を見出す」といった,介入のガイドラインが示されるとともに,家族やコミュニティとの関係性がもたらすレジリエンス(回復力)を活性化するための理論が展開されていく。「未来が良いものであるという信念」(p.26)というボス氏の「希望」の定義が印象的だ。
 第4章ではあいまいな喪失に向き合う3組の家族が紹介される。特に「夫と母親が認知症の真紀子さん」の物語は,多くの読者にとってリアリティのある事例だろう。物事の善し悪しの判断基準を教えてくれた実の親を介護するという関係性の揺らぎに対して,自分の時間を確保し人生のコントロール感を維持することの重要性(それは日本の介護現場で抜け落ちている視点でもあるだろう)が,あいまいな喪失という「レンズ」を通じて見えてくる。
 喪失のその後に希望を持ちながら生きていくことは誰にとっても容易なことではない。終わりのない悲しみを,知識がゆるめてくれることがあると信じられる読書体験だった。

(南波佐間望:福島県立図書館)

わたしも,昔は子どもでした。

『子どものしあわせ』編集部編 かもがわ出版 2019 ¥1,600(税別)

 「わたしも,昔は子どもでした。」当たり前のことではあるけれど,とても興味を引くタイトルだ。月刊誌『子どものしあわせ』(日本子どもを守る会編 本の泉社)の巻頭インタビュー「私を育ててくれた人たち」を加筆修正してまとめられた本書では,17人の気骨あるおとなたちが自らの子ども時代を語っている。
 それぞれ活躍する分野が違うおとなたちの共通点は,社会に対し,自分の意見を臆することなく言えること。しかし彼ら彼女らは,最初からモノ言えるおとなだった訳ではない。それぞれの子ども時代を過ごし,育てられ,育ってきた。おとなとのかかわり方,そのエピソードも興味深いものばかりである。香山リカ氏は,立派な姿でなくても,おとなのありのままの姿を見て,子どもは何かをつかみ取り,勝手に育つものと言い,上野千鶴子氏は,父親から溺愛されるが,女だから期待されなかったため,好きなことができたと語る。池田香代子氏と大石芳野氏はおとなの愛情が大切だと言う。子どもは,早くてスムーズに育つより,居心地の悪さやモヤモヤしたものから学んでいくのが良いと語るのは,中野晃一氏だ。親が良かれと手出しをしたことで,子どもが潰れてしまうこともある。どれだけ失敗をしても,成功体験を一つ二つ持たせることが大切だと語るのは,金子勝氏。語られるすべてが,自身の実体験からなるものなので,説得力がある。それは,子どもがしあわせになるための方法であり,子育て世代へのアドバイスである。子育ての方法の正解は一つではない。
 イラストは,松本春野氏。エネルギッシュな語り手たちのページに,ほのぼのとしたタッチの挿絵をつけ,読者をしあわせな気分にしてくれる。子育てに行き詰まりを感じた時,悩んだ時にヒントとなるものがいっぱい詰まった一冊である。

(吉村きみ:瀬戸市立図書館)

がん外科医の本音

中山祐次郎著 SBクリエイティブ(SB新書) 2019 ¥850(税別)

 がんに関するトンデモ本は巷に溢れている。白衣を着て聴診器を下げた顎から下の写真の表紙『医者の本音 患者の前で何を考えているか』(2018),そしてブルーの手術着を着て聴診器を下げた首から下の写真の表紙の本著を,書店で見かけた方は多いだろう。あっ,また医師の暴露本? と思われたのではないだろうか。2人に1人ががんにかかるという現在,私の両親もがん患者だった。母は今年17回忌,父は92歳で今も元気だ。
 本書の著者は,大腸がんの専門医で,2,000件以上の手術に参加している,医者になって13年の現役医師だ。どうしても日常の分刻みの診療時間では伝えられないことを,何とかして患者に伝えたいという熱い思いから書かれた著作は,小説を含めて5冊になる。どの著作にも著者の魂が込もり,家族や友人の闘病に正面から向き合った体験を持つ私には,その思いが染み入るように伝わった。そうそう,こんな情報が欲しかった。それをわかっている医師がいる。閉じた医療業界に風穴を開けたいという使命感から,現役医師がここまでのことを書くには相当な覚悟があったに違いない。実際,書き上げた後医者を続けられるのか? と悩んだこともあったという。
 長い教員生活の中で,親のがんと向き合わねばならない生徒を私は何人も見てきた。子どもだからと説明してもらえず,悶々としていたあの生徒たちに,今ならこの本を手渡せるのにと思う。中高生なら,十分に理解できるほどわかりやすく書かれている。また,医師を目指す生徒にも薦めたい。医療現場の真実を知るにも最適の本である。
 Yahoo!ニュースやSNSでの発信も多い著者の熱い人柄に触れながら,「がんにかかることは,雨降りのように自然なこと。あなたも悪くないし,誰も悪くない」(p.246)ということばを胸に刻みたい。

(山本みづほ:長崎純心大学非常勤講師)

少年の名はジルベール

竹宮惠子著 小学館 2016 ¥1,400(税別)

 世代的にはリアルタイムで接していてもおかしくないけれど,わたしが竹宮惠子さんの作品を読んだのは大学生になってからだった。大学の近くの小さな公共図書館の本棚に,当時としてはかなりめずらしいことだったと思うが,小説などに交じって漫画が並んでいたのだ。竹宮惠子や萩尾望都など,名前だけは知っていた漫画家の作品に初めて接し,今まで読んだことのないようなストーリー展開に夢中になった。
 そのときの感銘が深かったので,文庫本化で刊行されたことに気づき,どういう経緯で『地球へ…』(1977~1980)をはじめとする数々の名作が生み出されたのかを知りたくて,この本を手にした(文庫本化は2019年)。
 『少年の名はジルベール』は,竹宮さんのデビュー後数年(1970年代前半)を中心に書いた自伝である。当時を振り返って書いたものだから“そのまま”というわけではないのだろうけれども,売れっ子漫画家として活躍しながらも,描きたいものがうまく描けない,描きたくても描かせてもらえない日々の,あせりやもがきがあたかも今感じているように伝わってきた。
 作品に関することだけでなく,漫画家の原稿料にも男女差があったとか,少女マンガの編集現場に女性社員がほとんどいなかったとか,そういう部分も書かれていた。あの時代――経済の高度成長や学生運動があり,1ドルが300円くらいもして海外旅行は気軽に行けるものではなかった,そして差別と一般には理解されていなかった女性差別があった“あの時代”でのことだとわかるからこそ,「少女マンガに革命を起こしたい!」という言葉が真に迫る。
 後から振り返れば当たり前に思えるものも,時代を切り開く者にはいつも「画期」なのだ。時代(社会や環境と言い換えられるかもしれないが)と作家や作品は切り離せないものだと感じた。

(小野 桂:神奈川県立川崎図書館)

音のかたち

有山達也著 齋藤圭吾写真 リトルモア 2019 ¥2,500(税別)

 「レコードって,針を端っこに置くんだよ」と言ったら,その生徒は迷わずターンテーブルの真ん中にアームを持っていった。その衝撃。だがアナログ盤に塗れた青春を送った私でも,なぜあの溝に針を落とすと音が再生されるのかを実は理解していなかった。この本を手にするまでは。 
 レコードの溝はV字形をしていて,モノラルはその両側に同じ凸凹が,ステレオは左右に違う凸凹が刻まれている。この刻み方のことが「カッティング」なのであった。巷のビニール・ジャンキーたちが,カッティングがどーのこーのと言い合っていたり,伝説のレコーディング・エンジニア,ジェフ・エメリックが,「1964年の夏,ぼくははじめての昇進を果たし,アセテート盤のカッティングを担当することになった。」(『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』奥田祐士訳 河出書房新社 2016 p.138)と書いていたりするのを,わかった気になっていただけと思い知らされた。
 でも,この本の真にすばらしい点は,良い音が生まれるための「かたち」への着目というテーマ設定にある。レコードの溝の美しいマクロ写真。針の振動を音に変換するフォノイコライザーに使われているトランジスタやコンデンサーの愛らしい形。イギリスのベッドフォードに住むオーディオ・マニアの散らかった作業机。ヴィンテージのカッティングマシン。そして,針に研磨される前の天然ダイヤモンドの粒々。
 西にキング・オブ・アナログと呼ばれるマニアがいれば飛んで行き,東に1949年からダイヤモンドのレコード針を作り続けている精密宝石会社があれば取材を申し込み,著者は良い音のかたちを求めて探求を続ける。そして,結論はこうだ。「演奏者の熱だけでなく,その保存,再生に関わる人たちの熱き思い」(p.126)。結局,形をつくるために形の無いものが不可欠なのであった。

(松田ユリ子:神奈川県立新羽高等学校)

日本史の探偵手帳

磯田道史著 文藝春秋(文春文庫) 2019 ¥630(税別)

 子どもの頃から自らを「日本史探偵」としてやってきた著者。テレビや本など歴史に関するあらゆるメディアで大活躍中であることは誰もが知っていることだろう。その著者が読者の「知識欲を応援する本である」(p.9)と称した本書は,探偵の落としたという手帳をこっそり見られる嬉しさと気恥ずかしさ,そしてすべては好奇心から始まることを改めて認識させられる。
 私が高校生だった頃,歴史は覚えるものであり,受験のための教科であった。先生の文字をひたすらノートに写していく。それが私にとっての歴史であったが,授業が好きだったのは,歴史好きな個性豊かな先生方に恵まれていたからだと思う。今やっと,歴史は私にとって現在に通じる先人たちが歩いてきた道としてとらえるようになった。
 まえがきで「本来,歴史は面白いもので,人生の役にも立つ」と断言し,学校教育の歴史は暗記物になっており,年を重ね仕事も経験も積むと,歴史が参考になると気付く(p.9)とある。まさに私のような読者は,これは自分のことだと喜び,何だ,私は歴史が好きなのだと安心するのではないだろうか。すべて日本史探偵にお見通しされている気分になるのも少し嬉しい。
 ではなぜ著者は子どもの頃から日本史探偵と名乗るくらい歴史に興味を持ったのだろうか。好奇心のきっかけはどこなのだろう。「いつも自分だけの疑問を思い浮かべ,捜査をやってきた」という。そもそも「江戸の町に隕石が落ちたことはあったか」(p.10)なんて疑問を私は思いつきもしない。学校での「行進の練習」が苦手で逃げ出し,自転車で秀吉の戦跡をめざした少年は,秀吉と官兵衛の場面を想像し悦にいったという(p.240)。
 目を輝かせる磯田少年の姿に自分を重ねて,読者もこっそり探偵になった気分で次の歴史の世界へ踏み出せる一冊である。

(森戸孝子:伊万里市民図書館,日本図書館協会認定司書第1127号)

犬の伊勢参り

仁科邦男著 平凡社(平凡社新書)2013 ¥800(税別)

 江戸時代ほとんどの人が「一生に一度はお伊勢参りに行きたい」と思っていたそうだ。現在においても1年間に約800万人の方がお参りする憧れの場所である。この本は,人ならぬ犬の伊勢参りについてその始まりから終わりまでを,膨大な資料によってつまびらかにしたものである。
 記録によると,犬の伊勢参りの始まりは1771(明和8)年4月16日の昼頃であったことが序章で述べられる。1匹の犬が外宮北御門口から手洗場に行き,ここで水を飲み,本宮に来てお宮の前の広場に平伏し拝礼する格好をした。そのまま外宮の一之鳥居口から出て五十鈴川を渡り内宮の本宮広場でも拝礼をしたそうである(p.22)。これを皮切りとして,このような「お伊勢参り」の犬が記録上次々とあらわれる。首から札を下げて旅費の銭をもっている犬は「お伊勢参り」の犬として,人々は見かけたらえさをあげたり泊めてあげたり手助けをした。そして犬は,お札をもらって帰っていったという。
 第一章ではこの犬の伊勢参りが「虚説」か「実説」かを問題提起し,第二章では犬が単独で伊勢参りをする様子がさらなる資料を元に紹介される。
 犬に思いを託してお伊勢参りをさせる関係が各章を通して浮き彫りにされている点は,他の伊勢参り関連図書では見られない記述であり,貴重な資料であると言える。牛・豚の「お伊勢参り」もあったらしいという記述も,興味深い。
 終章では,明治になって犬の「お伊勢参り」がなくなってしまった背景が述べられている。それは,町犬や村犬を洋犬と同じように飼主を明確にして飼犬化を図ったことによる結果であるという。文明開化が犬にも押し寄せたと言えよう。
 江戸時代のとてもあたたかく,ほのぼのとする人と犬の貴重な記録である。筆者の膨大な資料集めにも敬服する。

(越智由美子:亀山市立中部中学校,日本図書館協会認定司書第1145号)

近代日本少年少女感情史考 けなげさの系譜

北田耕也著 未來社 1999 ¥2,400(税別)

 近世民衆思想史を独自の感性で思索し続けた著者が,明治大学退職を控えて学生に語った講義をまとめたものである。近代日本の,いや日本の近代化の陰で子どもたちが強いられ,歩んだ道筋を赤子の間引きから語り起こし,歴史的経緯を子どもへの悲しみと思いやりに満ちた視点でたどり,国家の非情さと大人の身勝手さを鋭く突く。子どもの無垢な親に対する畏敬の念が国家に回収され,場の空気という中で自己犠牲を当然とする感情を子守りや奉公に見出し,やがて忠誠心につながっていく。そして野麦峠に象徴される少女たちの過酷な労働は,親と家への心情をすくい取り産業近代化に結び付けられていく。近代化の進行は,そのイエ・ムラ意識の分解を招くが,この代替としての立身出世主義と国家主義が社会を覆う。教育勅語に見られる天皇崇拝とアジア蔑視が表裏一体となった国家主義の熱狂では,時事新報に拠って日清戦争を煽る福沢諭吉の異常な興奮ぶりと差別意識へも目配りを欠かさない。近代化の社会的陥穽と構造的陥穽への指摘は貴重である。
 本書は上記のような関心を手掛かりにして全6章からなり,子どもの自由詩,童謡,自由画運動などから生活史を経ての生活綴り方運動の章へと発展し少年少女の感情の成熟と,強化される国家主義教育の実像を解明しようとする。さらに戦時体制下での満蒙開拓義勇軍の実態,駆りだされ消耗される少年兵,学童疎開の悲劇なども語られる。その語り口と眼差しはあくまで優しい。
 私が印象深いのは,本書に一貫して流れる母と姉への深い思慕の念である。著者の複雑な生い立ちと,自分の身を犠牲にして学業を全うさせた姉への感謝と悔悟の念であり,それに応ええたのかという著者自身への問いかけではなかろうか。「日本の姉の典型」としての安寿と厨子王の例,それに「日本の少女たちが持っていた奥深い感情」に通底するのは“けなげさ”への深い思いであろう。

(若園義彦:元鶴ヶ島市立図書館)

ふるさとって呼んでもいいですか 6歳で「移民」になった私の物語

ナディ著 大月書店 2019 ¥1,600(税別)

 「ビザのない外国人」として日本で成長してきた少女と家族の軌跡を,当事者である女性が描く。日本にルーツがある大人にも読み応え十分だが,すべての漢字にふりがながついているので,子どもや日本語学習途上の人にも読みやすいだろう。
 著者はイランの比較的裕福な商家に生まれたが,1991年,6歳の時に両親や二人の弟とともに来日,以来日本に住み続けている。著者の両親が来日を決めたのは「デカセギ」のためだ。それは,イラン・イラク戦争による経済状態の悪化や盗難などの要因で父親の商売が立ち行かず,大きな借金を抱えてしまったからだった。当時日本はバブル崩壊前の好景気。イランからもビザなしで来日できたので,多くのイラン人が就労ビザを持たずに工場等で働いていたらしい。現在よりも超過滞在に対する取り締まりも緩やかだったようだ。
 著者は当初こそことばやカルチャーギャップで苦労をしたようだが,子どもの順応性は高く,また著者自身の努力や近隣の人,支援団体等の手助けもあり,日本のことばや生活になじみ,かつイスラムの教えとの整合性も保ちつつ成長していく。その過程は明るいタッチで描かれているが,正規の在留資格を持っていないため,保険に入れないので大けがをしても通院を控える,父が警察に捕まる等苦労も絶えない(のちに「在留特別許可」を得る)。悪条件の中懸命に働く両親を支え,弟たちの面倒を見て,周りに迷惑をかけないようにと奮闘するけなげな少女の姿に目頭が熱くなる。
 これから増えていくだろう異文化ルーツを持つ人々や子どもたちとどう接していくのか,どういう法整備,社会づくりが求められているのか,この本は大きなヒントを与えてくれる。
 私は,日本にルーツを持つ一人として「ふるさとと呼んでくれてありがとう」と著者に言いたい。

(藤谷千尋:京都府立洛西高等学校図書館)

図説 世界を変えた書物 科学知の系譜

竺覚暁著 グラフィック社 2017 ¥2,500(税別)

 コンピュータが登場し,情報はデジタル化した。紙でできたものはどんどんデータ化され,例えば図書館の目録カードや個人カードももう見かけなくなった。電子書籍が普及すれば,紙の本はなくなり,図書館という収蔵庫はいらなくなるのかもしれない。
 そういった時代の流れの中,金沢工業大学「工学の曙文庫(The Dawn of Science and Tech-nology)」は,あえて紙でできた科学技術稀覯書を数多く蒐集している。「図書館の原点は書物であるから,価値ある書物を図書館の中心に」(p.4)をモットーに,科学知の発展をたどることができる,系統的なコレクションが構築されている。
 本書は,この「工学の曙文庫」について書かれたものである。
 アリストテレスからアインシュタインまで,誰もが一度は耳にしたことのある科学者たちの発明や発見,最初に発表された書物の初版本が紹介されている。オールカラーのこの図説では,初版本が発売された当時の装幀や美しい飾り文字を垣間見ることができる。歴史を刻んだ本特有の紙質,ページの焼け具合もわかるような,「本」のもち味までも観察できる。この本を手にし,読み語り議論したであろう数百年前の人々を想像させる「本」好きにはたまらない1冊である。さらには,それらの科学知がその後どういった科学に継承されていくのかも解説されている。
 「工学の曙文庫」の書物群には,「世界を変えた書物(The Books that changed the World)」という別名がある。そこには,それまで常識とされてきたことを引っくり返すような発見・発明も記されている。
 本は「本」にすぎないが,世界を変える力があるのだとワクワクする瞬間にであい,「工学の曙文庫」を実際に見られずとも,この図説を目にすることで本の力を感じられる。

(葛西沙織:福智町図書館・歴史資料館ふくちのち(福岡県))

天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災

磯田道史著 中央公論新社(中公新書) 2014 ¥760(税別)

 著者は『武士の家計簿』(新潮新書 2010)を始め,多数の本を書き,歴史番組でも大活躍の歴史学者である。
 本書は東日本大震災を契機に津波,地震,富士山噴火,土砂崩れ,高潮などの被災が記録された古文書や体験者の日記等を紹介したものである。
 著者の母方の先祖は徳島県の牟岐町という日本有数の津波常襲地である。その母は,2歳の時に1946年の昭和南海地震による津波に遭遇した。母が家の人たちからはぐれて一人で山へ逃げ上ったという体験談を,著者は幼い時から繰り返し聞かされて育った。小学生の頃から歴史に関心を持ち,災害史に出会った18歳の春から20年間も地震や津波の史料を収集していた著者が防災史の本を書くに至ったのはこのためだと思う。
 歴史好きは第1章から引き込まれる。1586年の天正地震によって,秀吉側は家康討伐の前線基地で兵糧米を入れておいた大垣城が崩壊炎上,長浜城も倒壊,圧死者多数,城下は火の海。伊勢長島城も焼け散り前線基地を失った。これに対し,石川数正の寝返りにより滅亡の危機にあった家康の領地ではほとんど被害を受けなかった。さらに1596年の伏見地震で伏見城が全壊。朝鮮で交戦中の大明皇帝の使者を迎えるため集めていた美女および宮女400余人がことごとく圧死した中,秀吉は命からがら逃れている。もしこれらの地震がなかったら異なる歴史になっていたかもしれない。
 津波の被災状況を書き残した哀しい古文書が多数発見され,それを読んだ著者は,ある時は読みながら涙を流し,またある時はあまりの悲惨さに胃を痛めたと記している。
 古文書の記録や経験は防災に役立てるべきという著者の強い思いが伝わってくる一冊である。

(野澤義隆:新宿区立四谷図書館)

宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八

小野雅裕著 SBクリエイティブ(SB新書) 2018 ¥800(税別)

 タイトルとともに表紙を飾るのは,小山宙哉の大人気漫画『宇宙兄弟』(講談社 2008~)の主人公,南波六太である。宇宙服を着て堂々と前を見つめる姿に,宇宙飛行士の話かと思ったが違った。本書の主人公は,宇宙に魅せられた技術者,科学者,小説家,そして無名の大衆であり,彼らのイマジネーションの数々である。
 著者はNASAの中核研究機関・ジェット推進研究所(JPL)で火星探査ロボットの開発をしている。本書は,人類が宇宙を夢見ていた時代からアポロ計画などへの宇宙探査の歴史,太陽系探査,宇宙に生命の存在を探した地球外生命・文明探査など,宇宙探査の最前線を初心者にもわかりやすく紹介している。また,本書の魅力は歴史や技術の成果をただ連ねたのではなく,技術者・科学者たちの宇宙にかける情熱と奮闘に焦点をあてているところにある。3人の「ロケットの父」の挫折,戦争の力によって人類を宇宙に導いたフォン・ブラウン博士,アポロ計画を底辺から支えた技術者たち…。彼らの生々しい人間ドラマにより,専門的な内容でも遠い宇宙を想像し,感じることができる。苦難の中で,彼らを突き動かしたのは何か。
 「どんな常識も昔は常識ではなかった」(p.21)。宇宙への道のりは,世間からの冷たい視線,戦争,新技術への拒絶など,苦悩と挫折の連続である。しかし,彼らは壁にぶつかるごとに,常識の外に可能性を見出していった。著者は,それを「イマジネーションの力」によるものだと述べ,本書のテーマにもなっている。「知らないことを知る」想像力こそが原動力であり,あらゆる技術を進歩させてきた。読者にも「想像してみよう」と何度も語りかけている。宇宙はまだまだ謎だらけである。
 宮沢賢治を愛読している私が想像すると,宇宙に行くのはロケットではなく,銀河鉄道になってしまうが,想像するのは自由である。

(斎藤真美:宮城県加美町小野田図書館)

アイスの旅

甲斐みのり著 グラフィック社 2019 1,600(税別)

 濃い水色の背景に映える白い冠のようなアイスケーキ,その静かで気品ただよう写真の表紙をめくると,厚手で点々の凹凸がついたクラフト紙がコーンのように遊び紙として控えていた。本文を読む前から,著者のアイスへの熱い想いが感じられる。
 本書のメインとなる企画は,青森・福島・東京でアイスを売る店を訪ねた取材記,撮りおろし写真による日本全国の地元アイスコレクション,10年間撮りためてきたという旅先アイス写真集だ。アイスの歴史やコーンについての豆知識もコラムとして挿入されている。
 雑貨のように可愛らしく写された地元アイスコレクションの写真にも心惹かれるのだが,やはり圧巻は旅先アイスの写真の数の多さだろう。食べる前にきちんと記念撮影をしているところから,食す楽しみだけでなくアイスという存在そのものを著者が長年愛おしく感じてきたことがわかる。
 取材記では,何代も続いてきた店もあれば,もう閉店が決まっている店もあった。今から100年後の図書館で未来の人たちがこの本を読んだら,昔はこんなものがあったのかと驚くのか今も変わらないと思うのか。閉店が決まっている店のアイスも,形を変えて他の店に引き継がれるそうだ。未来の人は「少し違うけれど,今もあるね」といった感想になるのかもしれない。そうあってほしい気がする。可愛くて美味しいものが無くなってしまうのは,少し寂しい。
 帯のキャッチコピーに「溶けない,記憶。」とあった。読んでいる最中,そして読み終えた今,アイスにまつわる記憶が次々によみがえってきた。 幼い頃の自分の一番古い記憶はアイスに関係していた。アイスの記憶は,どれも泣きたくなるくらい幸せな記憶だった。アイスの「旅」は空間だけでなく時間でもできるが,実際に食べに行って新たな美味しい記憶を作りたくもなるのであった。

(中山淳子:埼玉県立鳩ヶ谷高等学校)

アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」

中川裕著 集英社(集英社新書) 2019 ¥900(税別)

 この本は,漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル著 集英社 2014~)のアイヌ語監修者による公式解説本であり,アイヌ文化の入門書でもある。『ゴールデンカムイ』は,日露戦争の帰還兵杉元が埋蔵金を求めてアイヌの少女アシㇼパと旅に出るという,明治時代の北海道を舞台とした冒険,バトル,狩猟,グルメ満載の物語である。
 『ゴールデンカムイ』を読んだ人はもちろん,読んだことがなくてもアイヌ文化(言語,物語,信仰,食生活等)についてイメージしやすい例えが用いてあり,わかりやすく解説されている。
 アイヌの文化には特徴的なものがあるが,なぜそうなのかを知ると,なるほどと納得するものは多い。たとえば,名前のつけ方には「自分たちが知っている誰かと同じ名前をつけてはいけない」,「生まれてすぐではなく性格や能力がハッキリしてきたころにつける」,「正式な名前がつくまではわざと汚い名前をつける」といったルールがある。現代日本にみられるキラキラネームからは考えられない名づけ方だ。しかしこれは,他の人の災いが同じ名前のものにも来ないようにとか,名前負けしないように等の考えからくるものである。
 食に関しては,その季節のもの,いわゆる旬のものを食べ,狩りで捕らえた動物(ウサギ等)はすべて食べる。皮も何かに利用したり売ったりして無駄なく使いきる。これを残酷だととらえる人もいるかもしれないが,作物や獲物がとれたことに感謝し,いただいたものを無駄にしない精神は現代の私たちが忘れがちなことのように思える。
 巻末のブックガイドや,『ゴールデンカムイ』に掲載されている参考文献で,さらにアイヌ文化について学びを深めることもできる。2020年4月には,北海道白老町に国立アイヌ民族博物館が開館予定である。きっとその魅力に引き込まれることだろう。

(松本和代:熊本県菊陽町図書館,日本図書館協会認定司書第1088号)

やさしい日本語 多文化共生社会へ

庵功雄著 岩波書店(岩波新書) 2016 ¥840(税別)

 最近,街で外国語を耳にする機会が増えた。通勤手段が徒歩から電車に変わったために感じたことかと思ったが,県内の定住外国人は増加しているそうなので気のせいではないようだ。
 多文化共生社会において,異文化間コミュニケーションは重要な課題である。学校では英語教育が積極的に取り入れられているものの,英語を母語としない国は多く,日本国内では日本語が共通語としての機能を持つことになる。その際,普通の日本語よりも「やさしい日本語」が共通語としてより有効である,というのが本書における筆者の主張だ。
 やさしい日本語とは,日本語に不慣れな人が理解しやすいように配慮した文章で,具体的な対応例として,短く簡単な文章にする,あいまいな言葉は使わない,漢字の上にルビを振る,などがある。この試みは,阪神・淡路大震災で被災した外国人が十分な情報を手に入れられなかったことをきっかけに考案され,近年は平時にも日本語を母語としない人に対する情報提供手段として用いられている。図書館においては,ホームページや利用案内で使用するケース,やさしい日本語で記述されたLLブックや運用の手引きに関する資料を収集するケースが見られるが,いずれも普及の途上に感じられる。
 やさしい日本語には「易しい」と「優しい」という二つの意味が込められている。外国人や障がい者といった言語的マイノリティーにとって日本語の習得は簡単ではない。まずは「易しい」日本語を習得し,地域と交流を図りながら社会に溶け込むことによって,自立した生活を実現することが期待される。そのためには,日本語を母語とする我々が「優しい」日本語を意識したコミュニケーションに努める必要があることも忘れてはならない。

(立川幸平:神奈川県立図書館)

生存する意識 植物状態の患者と対話する

エイドリアン・オーウェン著 柴田裕之訳 みすず書房 2018 ¥2,800(税別)

 不幸な事故や病気などによって植物状態と診断された患者は,本当に何も認識できていないのだろうか。この本は,あらゆる外的な刺激にも一切反応することがない植物状態の患者のうち,約2割には完全に意識があることを突き止めた渾身の研究報告である。
 著者はイギリスやカナダを拠点に研究を続ける神経学者で,fMRIという装置を使い植物状態にある患者の脳をスキャンしていく。fMRIは秒単位で脳活動をモニターすることができるため,患者に話しかけて脳活動が確認できれば,言語を理解し意識がある可能性が高いと考えたのだ。
 では,患者にどう話しかけるのだろうか? 試行の結果,「自宅を歩き回っているところ」と「テニスをしているところ」を想像させる心象課題が有効であることがわかった。どちらも想像するのは同じだが,脳で使う部分すなわち活性化する部分が異なるのである。「今,痛みがありますか? ノーならテニスをしているところを想像してください」この質問にある患者は脳で回答した。
 さらに著者たちの研究チームは,意識の有無の判別に患者により負担の少ない方法を考え出す。映画館の観客の脳は全く同じ動きをするという現象をヒントに,患者に映画を見せたところ健常な人と同じパターンで脳が活性化した。意識があり,映画を“経験している”ことがわかったのだ。
 植物状態,昏睡状態,最少意識状態といったグレイ・ゾーンにいる患者のうち,意識があるにも関わらず「私はここにいます」と伝える術を失った人たちがいる。これを実証したことは,今後医療だけでなくさまざまな分野に大きく影響するだろう。
 一般書としても読みやすく,現在困難な状況にある人やその周囲にいる人たちにも希望となる一冊である。

(坂本香織:練馬区立稲荷山図書館,日本図書館協会認定司書第1151号)

目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤亜紗著 光文社(光文社新書) 2015 ¥760(税別)

 まずこの本は「福祉的な情報」を発信することを目的とはしていない。美学と現代アートを専門とする著者が,「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」の観点から,見える人と見えない人の違いを丁寧に確認し,見えない人がどのように世界を認識しているのか,読者に気軽に想像させようとしたものである。
 私も身近に視覚障害者の知人がいるが,彼らとの出会いで一番驚いたのは,ハプニングだらけの日常とそれを笑い話にする彼らのユーモアだった。その出会いは私自身の視覚障害者に対するイメージを一瞬で変えたのだが,これまで,そのときの気持ちを他人にうまく伝えることができなかった。
 福祉的な情報や障害に対する配慮は必要だろう。しかし著者が指摘するように,行き過ぎると,障害者と健常者は「福祉的な関係」にしばられてしまい,気まずい空気になる。そんなとき,ふいにやってくる障害者の「ユーモア」が,健常者の心の中にある「善意のバリア」をほぐし,両者の緊張を解きほぐす効果があるのだという著者の説明に,私は「なるほど」と深く納得したのである。
 見えない人の感覚が体験できる暗闇体験「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」や,他人の目で見る美術鑑賞「ソーシャル・ビュー」など,参加者同士のコミュニケーションを深め,健常者の想像力を刺激する新しい取り組みはとても面白そうだ。
 最後に著者は,障害と高齢化との密接な関係を指摘し,想像力と知恵によって障害を受け止める方法を開発する必要性を説いている。
 「見えない人」にスポットを当て,目という「器官」から私たちを解放し,見ることそのものを問い直したこの本は,今後,私たちが互いの違いを生かした社会を目指し,生きていくためのヒントを十分に与えてくれるだろう。

(田中裕子:佐世保市立図書館,日本図書館協会認定司書第1128号)

天才の証明

中田敦彦著 日経BP社発行 日経BPマーケティング発売 2017 ¥1,400(税別)

 「武勇伝ネタ」でのデビュー直後のブレイクを皮切りに,幾度のブレイクを果たしているお笑いコンビオリエンタルラジオ。本書はオリエンタルラジオのボケ担当である中田敦彦氏の著書である。
 本書はドヤ顔した著者が表紙を飾っており,書名と相まって,読む前は「中田=天才」という図式の下,著者の功績を誇る自伝書かと思った。しかし,実態は「誰しもが何かしらの才能を持った天才である」という定義の基,その定義を証明すべく,さまざまな才能の見つけ方や活かし方を紹介している「才能発掘系」の自己啓発本である。本書において,著者は自身の才能を「分析力」としており,著者の身の回りの人が持つ数々の才能を分析し解説している。中でも相方の藤森慎吾氏の「ビジョンがないこと」を,何色にも染まることができる「他のビジョンに完全にフィットする才能」と分析する点には恐れ入った。
 本書には「勝てるところで努力する」「『好き』こそ最強」等,30のポイントが述べられているが,中でも「優れるな,異なれ」の言葉が印象的だった。「優れている」という状況は,いずれ「より優れた存在」によって追い越されるが,オリジナリティーは唯一無二の価値を持ち続ける。お笑い芸人だが漫才やコントに注力せず,歌やダンス等「芸人の王道」から外れる道を選んだオリエンタルラジオ。その「異なり」により,楽曲「PERFECT HUMAN」で大ブレイクを果たし,著者自身の唯一無二の価値とその才能を証明してみせた。
 本書は著者の体験や他のお笑い芸人の話を多く盛り込んでおり,「芸人の裏話」を知ることができる「タレント本」としての側面もある。お笑い好きならニヤリとするし,そうでなくても楽しめる一冊である。本書を片手に自身の内なる「天才」を発掘し,表紙ばりのドヤ顔を決めるのも一興だ。

(黒田将史:気仙沼市気仙沼図書館)

新書アフリカ史 改訂新版

宮本正興,松田素二編 講談社(講談社現代新書) 2018 ¥1,800(税別)

 アフリカは遠い。知らないことが多すぎる。とりあえず歴史だけでもと思って,アフリカ史の入門書を探してみた。歴史学の専門誌『史学雑誌』(史学会発行)では,毎年1回,学界の文献動向を特集している。その中に「アフリカ」が項目としてあげてあり,本書は,「…アフリカ研究を志す者の(最良の)入門書であり続けている…」(『史学雑誌』2019.5 p.312)という評価のもと紹介されていた。早速手にする。まず驚くのが,新書判で776ページという厚さである。通常の3冊分はある。1997年刊行の旧版に,改訂新版では,21世紀の現代アフリカ社会の動向と未来への展望が,180ページほど加わっている。
 「改訂新版にあたって」を読んでみた。「今からほんの50年前まで,欧米の歴史学界では,依然として『アフリカに歴史はない』という見方が強固に存在した。」(p.20)と書かれていることに驚く。そして「アフリカ史にアプローチするということは,これまで自分自身を支えてきた世界観を再考し再創造する営みでもある。」(p.21)と言い切っている。アフリカ史は知的挑戦なのだ。気軽に入門書を探していたことを反省したい。
 本書の内容は,一言では表現できない。ともかく全部で6部18章からなるとだけ伝えておこう。人類の誕生から現代のアフリカまで網羅され,幅広く,深く,そして面白い。初めて聞く地名・人名も多い。興味を覚えたところ,どこから読んでも差し支えないだろう。アフリカに,少しは近づけたと思わせてくれることは間違いない。
 18章「アフリカの未来」の中で,言語について述べているのが,普通の通史とは異なる点だ。旧宗主国の言語が公用語となっている国がほとんどだが,日常的に使っている言葉(母語)は「人間と社会の開発に役立つ可能性を秘めている」(p.691-693)。読後,いつまでも残る重い指摘だった。

(大塚敏高:元神奈川県立図書館)

まともがゆれる 常識をやめる「スウィング」の実験

木ノ戸昌幸著 朝日出版社 2019 ¥1,560(税別)

「まとも」とはなんだろう。辞典には「社会通念からみて,そうあるべきだと考えられる条件を満たしていて,世間に後ろめたさを感じる点が全く認められない様子」(『新明解国語辞典』第7版)とある。学生の頃は,年齢を重ねれば「まとも」な大人になれるものだと思っていた。実際は満たすべき条件の多さに気づき,後ろめたさばかりを感じる大人になっている。
本書には京都・上賀茂にあるNPO法人スウィングの日常が綴られている。スウィングでは福祉施設として,障害のある人を含む30人程度が集まり,絵や詩などの芸術創作活動や戦隊ヒーローに扮して行う清掃活動など,一般的なイメージとは趣が異なる活動をしている。活動を通し,社会が押しつける「こうあるべきルール」を疑い,ルールに縛られ生きづらさを抱える人が,自分らしく生きやすいような社会となることを願って,個性を活かした活動を行っている。
スウィングに集まる人は,社会が決める「まとも」からは外れている。一般の会社で働きながら銀行からお金をおろす方法がわからず,ただ黙々と20年間働き続けた人。お金の管理が苦手で,親の年金を使ってキャバクラ通いを繰り返す人。彼らはスウィングに通うことで変貌を遂げている。著者は,彼らは変わったのではなく,知らず知らず背負わされた荷物を少しずつ下ろして,本来の自分へと戻っていったのだと言う。それはスウィングに流れる,「社会が決めた『まとも』をゆらす風」と,「弱さと強さは同義であるという弱さを否定しない居場所」の影響のように思われる。
「ええ加減『まとも』にできるようになりたいを捨てて,自分自身の『らしさ』に賭ける勇気を持て」(p.94)これは著者がスタッフにかけた言葉である。自分を取り囲む「まとも」の枠に生きづらさを感じたときに読みたい。

(竹田美幸:岩手県紫波町図書館)

山小屋の灯

小林百合子文 野川かさね写真 山と溪谷社 2018 ¥1,600(税別)

 赤橙色の下地に潔く黒一色のタイトル。表紙中央には空の青が印象的な山小屋の写真を配置している。熟した柿の実のような色と青の色の組み合わせが目を引き,思わず手にした。
 この本は山と溪谷社勤務を経て独立し,山岳や旅に関する本の編集を多く手掛けている著者と,山や自然の写真を中心に作品を発表している写真家のふたりによる著書である。ふたりが訪ね歩いた16軒の山小屋とその主人,そこで出会った人々とのエピソードを描いている。
 尾瀬の美しい時期に必ずいる,あるカメラマンの話や「山小屋は質素でいい」(p.51)という父の言葉を今も大切にしている主人,テレビや電話の電波も届かない場所で,登山者のために毎日ラジオを聴きながら天気図を書く小屋番の女性。食事は自炊のみで,その日偶然集った人々がおいしいものを持ち寄り,分かち合う場を提供したいと考える自炊小屋の主人。反対に本格的な味を提供したいと奮闘する料理人のような主人などが登場する。ふたりが山で出会う人々はなんとも魅力的だ。
 人は自然の美しさを見に,または山頂に到達した達成感を味わいに山に登るのかと思っていた。しかしこの本では,会いたい人がいるから山に登るという選択肢があることに気づかされる。文章に添えられた写真は最近の色鮮やかで輪郭がはっきりとしたものと違い,どこか懐かしく優しい。山小屋のあたたかみや小屋に行くまでの山中の空気感を読者にさりげなく伝えてくれる。
 巻末にはこの本で紹介した山小屋について,営業期間や料金,小屋までの歩き方など詳細な案内が収録されているのも心憎い。無意識のうちに,この山小屋なら頑張れば行けるのではという目で巻末を読んでしまう。あぁ,どうしよう。体力も無いのに。あこがれるだけの私は何度もこの本を読み返す。悩ましくも楽しい空想の時間である。

(横多 綾:佐賀県立図書館)

鉄道車両陸送

菅野照晃著 イカロス出版 2019 ¥1,980(税別)

オリエント急行の車両を展示している美術館で車両が美術館に到着するまでの映像を見たことがある。電車がトレーラーに乗って道路を走っている!! 線路も機関車も無いのだから,トレーラーに運んでもらうのは当たり前のことなのだけれど,非日常の光景にワクワクした。
本書は,20年にわたり鉄道車両の陸送の写真を撮り続けている著者による写真集(プラス陸送ガイド)。著者もさまざまなワクワクと共にシャッターを切り続けているのだろう。
陸送の理由はいろいろ。新車がメーカーから鉄道会社に搬入されるため。廃車となった車両が,他社・海外に譲渡される,博物館に移される。あるいは,役目を終え解体されるために。車両のお披露目で白昼堂々パレードが行われることもあるが,多くは交通の妨げにならない深夜に行われる。撮影者には過酷な状況だが,撮影された写真は,より幻想的なものになる。
鉄道に詳しくなくとも新幹線はわかる。特徴的な先頭車両がトレーラーに乗せられて行く写真は楽しい。頭上を複数の道路が交差する交差点を左折したり,狭い道をゆっくり進んだり。現役を退いた懐かしい新幹線の姿もいくつか。『新幹線誘導中』という看板を掲げたトラックもまた非日常だ。
他にも,満開の桜の下を通る地下鉄都営新宿線,霧の中を進む箱根登山鉄道,自らが走る路線の踏切を渡るJR北海道の車両,プラレールのような保存車両群などの写真もまた興味深く美しい。
主役の鉄道車両と一緒に映り込むトレーラー,クレーンから誘導灯まで,陸送に欠かせないアイテムの解説もある。これらのアイテムについても詳しくなれば,写真の味わいもいっそう深まる。
写真を見ているうちに,陸送写真を撮ってみたいと思った人には,撮影テクニックの公開も。どうぞ,心身鍛えてチャレンジを。

(田中雅代:神奈川県立愛川高等学校)

本をつくる

書体設計,活版印刷,手製本 職人が手でつくる谷川俊太郎詩集

鳥海修,髙岡昌生,美篶堂著 本づくり協会企画・監修 永岡綾 取材・文
河出書房新社 2019 ¥1,850(税別)

 本がどのように作られていくのか。そこにかかわる人々の仕事を,日頃本に接している私たちはどこまで知っていたのだろうか。本とは,ものづくりとは何かを改めて考えさせられる一冊である。
 本書は,書体設計,組版・活版印刷,製本という三つの領域の職人たちが,蛇腹様式の谷川俊太郎詩集『私たちの文字』を完成させるまでの過程を丹念に描いた記録である。
 プロの手による仕事は,緻密かつ専門的で,素人には想像できないものなのだが,多数の写真や図版を取り入れることによって,本づくりに打ち込む職人の細部にわたる技が手に取るようにわかる。例えば,仮名新書体「朝靄」を1年余りかけてつくりあげていく書体設計士・鳥海修の仕事では,墨入れ,原字の完成,データ化,テスト組版など,さまざまな工程が克明に描かれている。美篶堂の手製本では,資材選び,本文の蛇腹の手織り,ブックケース作成,箔押しなど,丹精でみごとな手仕事が浮かび上がり,本を大切に思い,一手間をかける職人の心意気が伝わってくる。
 職人から職人へ本づくりがバトンタッチされる瞬間,職人同士の緊張感や微妙な心の動きも見逃せない。嘉瑞工房・髙岡昌生が組版の過程で,「朝靄」の仮名に対して游明朝体の漢字が強すぎると感じ,鳥海と話し合う。鳥海が「髙岡さんは(略)組版のプロとしての美意識から,このままでは仮名が小さいと感じ,大きくした。これはとても大事なことです。僕は納得しました。」(p.148)とかみしめるように語る場面は,自負を抑え,髙岡に仕事を託した鳥海の一瞬の心の動きが鮮やかに描写されている。
 「技だけをひたすらに研ぎ澄まして,一冊の本に尽くす」(p.225)職人たちの紙の本への思いが溢れる珠玉のドキュメンタリーである。

(秋本 敏:元ふじみ野市立図書館)

国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち

山川徹著 中央公論新社 2019 ¥1,800(税別)

 今の日本ラグビーが広く認知されるようになったのは,2015年にイギリスで行われたラグビーワールドカップでの歴史的勝利があったからだろう。
 優勝候補の一角であった南アフリカを,W杯でまだ一勝しかしていない日本が破った,まさにジャイアントキリングであり,多くの国々が新聞の一面トップ記事やテレビのニュース番組で報じ,それは世界を駆け巡った。日本でもテレビで特番が組まれ,一躍選手たちがヒーロー扱いになったことを覚えている。
 しかし,にわかファンが疑問に思ったのは,勝ったのは嬉しいけれども,日本代表なのに外国人が多いのではないかということではなかったろうか。その時の監督,エディ・ジョーンズ氏は,海外出身の選手との調和こそが,日本を最強にすると確信していたようだが。
 この本は,海外出身の選手がいかにして桜のジャージを着て,日本代表としてプレイするようになったかを,歴史的な流れの中で描いている。
 1980年代,トンガ出身の選手たちが,留学生として,勉学とラグビーを両立しての活躍があり,その後,ニュージーランド,フィジー,オーストラリアなどから,日本でのラグビーを求めて来日した人々の経緯が記されている。またそれは異文化との出会いと軋轢でもあったようだ。誰もがすんなりと日本の環境に溶け込んだわけでもなく,また,外国人をチームに入れたからといって急に強くなったわけでもない。お互いの長所,短所をすり合わせ,15人が一体となったチームが強くなったとある。
 今のラグビーは,代表選手の国籍を問わない。
 居住年数など一定の条件を満たせば代表になれる。驚くのは日本だけのことではなく,世界のほとんどの代表チームが,多国籍の人々で構成されていることだ。ここに未来社会のヒントがありそうである。

(伊藤清彦:一関市立一関図書館)

選択と誘導の認知科学 日本認知科学会監修「認知科学のススメ」

山田歩著 内村直之ファシリテータ 植田一博アドバイザ 新曜社 2019 ¥1,800(税別)

 私たちは外界の情報を,五感を使って収集・処理をし,常に何らかの「選択」をしながら生活をしている。電車の座席に座る時,買い物をする時,貼り紙や広告を目にした後の行動や目的地へのコース選択。その選択の背景には,心理学だけでなく,文化人類学,身体運動科学,哲学等,幅広い分野を含んださまざまなメカニズムが存在する。
 この背景にあるメカニズムを研究するのが「認知科学」という学問だ。本書は一般の学術書籍と違い,サイエンスライターがファシリテータとなり,研究者と協同して執筆するというスタイルをとっている。認知科学になじみのない人や,これから学ぼうとする人も十分に楽しめる構成だ。
 内容は大きく二つのパートに分かれ,前半は人の選択への働きかけについて書かれている。ここでは例えばマナー喚起の貼り紙等について,それを目にした時の受け手の反応プロセスを示しながら,なぜそれが思ったほどの効果を生まないのか,どのような働きかけが効果的なのか等を解説する。
 後半は,人の「選択」が意識下でどのようなプロセスでなされるかを解説する。興味深いのは,本人が「こういう理由で選択した」と認識するプロセスと,実際の選択プロセスとの間に生じる「ズレ」の存在だ。人は案外,自分の意思に従って選択ができていない。自覚する価値観とは別に,日頃の自分の言動を見直す必要を提起される。
 学問は,物事や世界への興味から始まる。本書の執筆者たちの根底には,人への強い興味と関心がある。人の行動のパターンがどこから生じるか,どう変化していくかに興味を持った研究者たちが,自らの研究成果をもって「人はこんなにも面白い」ということを,あの手この手を使ってとても楽しそうに,この本で私たちに示してくれている。

(笹川美季:東京都府中市立図書館,日本図書館協会認定司書第2012号)

歌がつむぐ日本の地図 歌謡曲・童謡・唱歌・民謡・J-POP

帝国書院編集部著 帝国書院 2013 ¥2.400(税別)

 「貴方はもう忘れたかしら 赤い手拭マフラーにして 二人で行った横町の風呂屋」。有名なかぐや姫の「神田川」の歌い出しだが,横町の風呂屋には実在のモデルがあるのだろうかと長年疑問に思ってきた。その疑問に答えてくれたのが本書『歌がつむぐ日本の地図』である。
 本書は,見開き2ページで都道府県ごとにゆかりの歌を紹介した地図を掲載。同じく見開き2ページで,東京23区なら「神田川」,青森県なら「津軽海峡・冬景色」,滋賀県なら「琵琶湖周航の歌」など,地域ごとのトピックや,「日本の鉄道ソング」などテーマごとのトピックを随所に挿入している。全編カラー刷りで,美しい写真や詳細な地図も豊富。眺めているだけで,その歌にまつわる思い出に浸りながら旅した気分になれる。「歌謡曲・童謡・唱歌・民謡・J-POP」のサブタイトルどおり,幅広い世代を対象にできるのも図書館としては嬉しい。巻末の年表や地名索引,曲名索引を資料に,レファレンスブックとしても活用可能だ。レファレンス協同データベースには,本書の記載で解決した事例も登録されている。ご当地ソングを扱った図書としては,『あなたの街のご当地ソング ザ・ベストテン! うたで旅する都道府県・音楽紀行』(合田道人著 全音楽譜出版社 2010)もユニークなので併せて紹介する。
 さて冒頭の「横町の風呂屋」だが,新宿区内の三か所の実在の銭湯であったことを,作詞者・喜多條忠自身の文章を引用して紹介しているが,残念なことに既に廃業されている。一度は暖簾をくぐりたかったものだと思う。「横町の風呂屋」が叶わないなら,次はJR津久見駅の「なごり雪」の歌碑を訪ねてみたいと,172pの大分県地図を見ながら夢見ている。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校図書館)

おうちでできるおおらか金継ぎ

堀道広著 実業之日本社 2018 ¥1,800(税別)

 金継ぎとは,漆を使って欠けたり割れてしまった陶磁器を繕う伝統的な技法である。道具や材料を準備し,乾燥も含め日数をかけながら壊れた器を継ごうとするのは,なかなかの難易度高めなワークだ。しかしながら,金継ぎをやってみようとは人生において一度も思ったことなどなかったはずの私が,本書を読了するや,私にもできるかも? ぜひともやってみたい! と材料をひとそろえ衝動買いしそうになった。幸いにも(不幸にも)目の前に割れた陶磁器がなかったため,すんでのところで未遂に終わったのである。
 「誰でも」「おうちで」「手に入れやすい道具で」気楽に金継ぎを楽しんでもらえるようなやり方を紹介しているところがこの本のすぐれているところだ。本格的な漆を使った「もっとも伝統的なやり方」を踏まえたうえで,「もっとも体に害のないやり方」,「もっとも簡略化したやり方」,「もっともお金のかからない経済的なやり方」と四つも紹介できるのは,著者自らが金継ぎ教室を主宰し,日頃から初心者を教えているたまものであろう。
 難しくなりがちな技術的説明を補足するのが,ナビゲーターの可愛いリスたちである。ちょっとしたコツや,ミニ情報を挟んでくるのだが,漆と混ぜるものの固さを説明するのに「上品にいうと,ワンちゃんの落としものくらいの固さです。」と上品とは真逆の説明をしてみたり,「ほつれ」のページでは,「夫婦のきずなもほつれないようにしたいわネ」なんてお節介なコメントをしてみたり,リスたちの繰り出すゆるいコメントは読み逃せない。むしろ,本文よりリスたちに注目して読むことで何倍も楽しめる。普段はパラパラとたくさんの本に目を通すため,熟読したくてもできないという図書館員特有の職業病を抱えた私だが,この本は久しぶりに隅から隅まで快読したという満足感でいっぱいである。本書は,金継ぎという伝統技術を現代に「継ぐ」名著であるといえよう。

(内山香織:黒部市立図書館)

プラスチック・フリー生活 今すぐできる小さな革命

シャンタル・プラモンドン,ジェイ・シンハ著 服部雄一郎訳 NHK出版 2019 ¥2,000(税別)

 2019年6月末に大阪で開かれたG20サミットで,最も重要な議題の一つになったのがプラスチックごみ問題であった。この会議で取り上げられたことで,それまで広く知られていなかったこの問題が脚光を浴びることになった。
 とはいえ,この問題自体は以前から指摘されていた。『プラスチックスープの海』(チャールズ・モア,カッサンドラ・フィリップス著 海輪由香子訳 NHK出版)が2012年に出版され話題となったことは記憶に新しい。この本で初めて太平洋に巨大なごみベルトが存在していることやマイクロプラスチックが海洋に広く拡散し,生物の食物連鎖にまで入り込んでいることなどの問題を知った人も多いことだろう。その当時から指摘されていたことが,ようやく世界的な問題として取り上げられるようになったと言える。
 このように,世界的な環境問題となりつつあるこの問題に対し,私たちにどのようなことをできるのかを考えるためのヒントを与えてくれるのが,今回紹介する本である。
 実際,私たちの周りを見てみると,プラスチックを使っていない製品を見つけるのが難しいくらい生活にプラスチック製品が浸透している。それらの便利な製品も,使用後はごみとなって大量に環境に流出している。すでに環境に流出しているごみを回収するのが難しいことからも,今後は新たなごみを流出させないことが求められている。
 この本では極端なまでにプラスチックを使わない生活が紹介されている。これらを全て実行するのは難しいだろう。しかし,紹介されているアクションの一つを実行するだけでも,これからの環境に与える負荷を減らすことができる。「プラスチックの沈黙の春」を止めるために,一人ひとりが実行していく必要がある問題なのだ。

(杉山和芳:東京都立南多摩中等教育学校図書館)

つながりからみた自殺予防

太刀川弘和著 人文書院 2019 ¥2,800(税別)

 「自殺」と聞いて,真っ先に何を思うだろうか。日本の死因統計をみると,自殺はがんと並んで健康上の大きな問題の一つに数えられていて,けっして他人事ではない。
 「自ら命を絶つ」ということはとても過酷だ。なぜ,自殺は起こるのか。精神科医として自殺予防の活動に携わってきた著者は,自殺は,個人が「覚悟の上」で及ぶものなどではなくて,「病」に起因しているのだと訴える。本書は,豊富なデータをもとに,「死にたい気持ち」のメカニズムを知る手助けをしてくれる。
 私たちは「つながり」の中であらゆる現実問題――人間関係,仕事,健康の問題など――に直面する。それらがきっかけとなって,「つながり」に障害をきたすと,心の病(精神疾患)を抱えることがある。ここで,「つながり」を手放し,孤立してしまうと,自殺の道をたどってしまうという。
 心はさわって確かめることもできず,いざ調子を崩してしまったらどう対処すればいいのかよく分からない。その“よく分からない感じ”は,複数の問題が絡み合い,解決の糸口が見えないことからきていると説明して,ひとつずつをときほぐす方途を示している。身近に苦しんでいる人を見つけたらどのように話をきけばいいかなど,実践的な内容にも触れている。
 目からウロコだったのは,日本という国は,つながりの維持と秩序を尊重しすぎるあまり,「つながり」そのものに依存する体質を持っていて,それこそが自殺を助長しているという指摘だ。
 著者は,「自殺予防とは,自殺を考える個人のこころを社会に再びつなげること」(p.138)だと語る。これは,生きることに絶望して,一度は失ってしまった「人間」への信頼を取り戻す営みと言えるのではないだろうか。鎖につながれるような社会ではなく,手と手を取りあうようにつながる社会を展望する1冊である。

(東山恵美:福島県富岡町図書館)

ルポ川崎

磯部涼著 サイゾー 2017 ¥1,600(税別)

 「川崎区は日本の縮図そのものだから,図書館利用者の動きをよく見ておきなさい。」初赴任館だった川崎区で,この言葉を当時の図書館長から聞いた。その後10年以上経ち再赴任し,館長は変われども全く同じ台詞を聞いた。川崎市は細長い形状から横断する私鉄によって町の雰囲気が全く変わる。私自身はその中間地点で育ち川崎区は比較的身近な町だった。が,実際図書館員として「カウンターのこちら側に立つ」と,1990年代バブル崩壊後に川崎市では助成として「パン引換券」が配られたが,「市からの助成される食料で栄養は足りるのか」と疑問に思った利用者から栄養成分表と川崎市の予算についてレファレンスを受けたのは忘れられない。それから10年たった川崎市は,駅周辺の再開発であれだけ駅にいた路上生活者はいなくなった(本書によると多摩川河川敷に多くが移動したらしい)。そして外国人労働者と若い人が「自立支援」を求め,図書よりもネット情報を求める。元気な高齢者か介護に悩む家族,と二極化した。今日の日本における社会問題そのものが,この図書館のカウンターの前にあった。
 川崎市は東京都と横浜市に挟まれた立地からの転入者が多く,街への愛着心が薄いと言われている。しかし本書では川崎区桜本地区を中心に,主にHipHop系のラッパー文化が書かれており,時に猥雑で暴力的な表現に眉をひそめる内容も含まれる。しかし,そこには「自分たちの居場所としての川崎への思い」,いわゆる「わがふるさと川崎」が語られていた。今年度の施政方針に「若者たちのストリートカルチャー」が認知されるようになったように街はいろいろなものを受け入れていく。自分の居場所を求め,どんな人も事も受け入れてきた街の歴史があることにこの1冊で気づくこともある。本当に「本」と「街」はいろんな面があると感じさせられた。

(吉井聡子:川崎市立中原図書館,日本図書館協会認定司書第1141号)

負けない力

橋本治著 朝日新聞出版(朝日文庫) 2018 ¥640(税別)

 平成から令和へと元号が変わり,時代の節目を迎えた。昭和の文壇で異彩を放ってきた橋本治氏による本書は,昭和という時代からのバトンのような作品である。
 冒頭から「この本はなにかの役に立つような実用性のある本ではありません」(p.3)と橋本節が飛び出す。しかし読み進めれば,その真意が性急に答えやノウハウを求める現代に対する自身の考えによるものだとわかるだろう。
 タイトルの『負けない力』は「知性とは何か」という問いに対する著者の答えである。
 薄ぼんやりして見えにくい,知性を必要としていない時代だが,役に立つか立たないかの絶対的判断はできないとしても,平気で捨ててしまってよいのか。その中に結構複雑なものが隠されているかもしれないと易しく語りかけてくれる。
 学校教育の世界では,数値化できる偏差値を価値基準としたことで知性が排除され,成績で選別される社会になったと指摘する。確かに,子どもの独創性を育てる教育がない国に,独創的な発想力を持つ人材は育ちにくいに違いない。教育の効率化により生み出される現実とのズレは「ものづくり日本」を揺るがし始めている。
 教育の他にも,勝ちに固執しすぎて負けてしまった戦争の本質や日本における知性の変遷,サブカルチャーまで幅広く実に軽やかに論じている。
 これらの根底にあるのは,思い込みを捨て,考えることの大切さである。自分で「自分の考え方」を掘り当て,さらに自分1人でなく人と話し合うことが必要であり,それこそが知性のなせるわざであると最後を締めくくっている。
 「世界はまだ完成していない」という地平に立ち,一人ひとりが違和感と向き合うこと,そして考え続けることが世界を動かしていくのかもしれない。今すぐ「知性」の世界に一歩踏み出したくなる本である。

(磯谷奈緒子:島根県海士町中央図書館)

公務員の「出世」の作法

堤直規著 学陽書房 2018 ¥1,800(税別)

 この本を最初に見たとき「出世とは,まあなんといやらしいテーマだこと」「それも,公務員向けか,うーん,どうかな」というのが,第一印象であった。現実には公務員の世界でも組織である以上,序列役職は存在するのであり,その意味では,「出世」はありうる。それが,昇任試験であるか,上司の評価による昇任であるかは,自治体により違いはあると思えるが。
 いわゆる「出世」に対する考えは,必ずしも肯定的にとらえられるものばかりではないと思うが,本書では「組織内外で信頼される世に出る公務員のススメ!」と表紙にも副題のように表示されているので,基本的に出世は悪いものとはしていないように思える。
 本書を読み進むと,確かに「出世」についての本なのであるが「むしろ公務員が本来やらなければならないこと,ぜひすべきことが角度を変えて述べられているのであり,『出世』はあくまでそのうちの結果のひとつでしかないものである」というのが本書を読んだ感想である。
 思うに,図書館業界におられる専門職の方の多くは,優秀な方が多く,才能能力も秀でているのだが,ある意味おとなしい印象を受ける。自治体内での位置づけも専門職という枠組み・立場を意識して図書館や自分の仕事には忠実であるが,それ以上,つまり「出世」を意識している方は多くないと思える。しかしながら,現在のような状況下では,果たしてそれでいいのか? 自治体内部での相対的な図書館の地位低下の一因は,専門職であるがために出世を望まなかった方が多いからだ。というのは極論であるのは重々承知しているが,あながち過ちでもないように思えるのは私だけであろうか。
 そのような意味でも,ぜひ本書を図書館業界の専門職の職員の方々に一読をおすすめしたい。
 昇任試験に落ち続けている私が言うのも説得力が無いかもしれないが。

(小川健太郎:市川市中央図書館)

野球ノートに書いた甲子園 FINAL

高校野球ドットコム編集部著 幻冬舎 2018 ¥1,100(税別)

 数年前野球部の生徒から「哲学の本だよ」と勧められたのが,シリーズ初巻となる『野球ノートに書いた甲子園』だ。この『FINAL』は6巻目で,大阪桐蔭,智辯和歌山,乙訓,智辯学園,横浜隼人高校が紹介されている。
 甲子園をめざして練習を続ける野球部の選手たちが野球に関する質問や悩みをノートに書くと,監督やコーチがアドバイスを書き込んでくれ,それを参考にして自分で欠点を克服していくという「戦いの記録」である。本校ではチームスポーツ部に所属する生徒を中心によく読まれているのだが,それにはもう一つの理由がある。
 学校では毎年目の当たりにすることだが,どんなに強いチームであっても時が来ると新チームを結成しなければならない。チームをまとめる使命を託されたキャプテンは,精神的に追い込まれても監督の期待に応えポジティブにふるまい続けなければならなくなる。このような選手共通の「心の戦いの記録」をあらわにし,これらについて考える機会を本書は生徒に与えてくれるのである。
 ただ自分のプレーを冷静に振り返って欠点を認め,不安を引っ張り出すことには痛みが伴う。またそれらをことばに表すことも容易ではない。それでは「『野球ノートは人に見せるもの』という意識があって,自分の気持ちをストレートに書くことができなかった」(p.141)と言っていた選手たちは,どのように気持ちを切り替え,ノートの内容が充実しだしたら野球がうまくなっていた(p.54)と胸を張れるようになっていったのだろうか。
 彼らの心と技術の両面の成長は活字からも十分伝わるが,写真で紹介される生徒の直筆ノートを1字ずつ追っていくと心の奥が垣間見えるようである。それは苦しくもあり貴くもある。そんな「野球ノート」をある監督は「武器」と呼び,ある選手は「相棒」と呼ぶ。果たして私たちにはどう映るのだろうか。

(山内裕美:福井県立足羽高等学校)

間違う力

高野秀行著 KADOKAWA(角川新書) 2018 ¥800(税別)

 今では「ノンフィクション作家」という肩書を持つ著者だが,当初は未知の生き物を探す「辺境作家」を標榜していた。『未来国家ブータン』(集英社 2012)は,雪男探しが目的だったが見つからず,結果としてブータンという国家を考察した一冊となっている。
 作家として成功したものの,結局当初の未知の生き物を探す冒険は成功していない。しかし旅で得たスキルや経験則はその後の冒険に役立っている。言語獲得能力はとにかく高く,大学で講師を務めるほどである。先生にならうほか,前もって現地の言語の文法を調べ,単語帳を作り,現地でも必ず言葉を学ぶ。現地の人と会話ができれば,日本では得られないローカルな情報が手に入る。単語帳を作る方法は,学生のときに「ラクをする」ために編み出したやり方で,英単語を覚えるために教科書の出題範囲に出てくる単語の頻出度を調べ,自分の教科書を作っていたのだという。また探検部在籍中に自分がラクになるために,リーダーになったことで,ひとりで行動できるようになった。著者は決して一流の研究者ではないが,人がやってないことをとにかくやる,やり続けて追い求めた結果,「間違って」いるように見えたものが転じて「オンリーワン」作家として成功したのだ。
 この本は2010年に刊行された当時売れ行きはよくなかったが,編集者の「ますます世間が個人の選択肢を狭める方向に動いています」(p.14)という言葉で7年後の再刊が決まったという。オンリーワンにならなくても,自分の中にあるワクワクする気持ちを大切にしてほしいと,閉塞感あふれる日本で叫んでいるようにも思われる。
 ただ,著者のように「怪しい人にはついていく」(第6条)のはほどほどにすべきかと思う。

(雄川 環:砺波市立砺波図書館)
 

築地 鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと しゃけこさんの市場日記

佐藤友美子著 いそっぷ社 2018 ¥1,600(税別)

 東京築地市場が豊洲に移転し,大きく報道されてから一年。中央卸売市場は去ったが,いわゆる「場外」と呼ばれる市場は築地に残り,営業を続けている。昆布・鰹節・海苔・煮干・豆。鮪・蟹・海老,そして鮭。専門の品を扱う店が軒を連ね,年末の買出し風景は風物詩となっている。筆者も毎年,鮭の専門店で,「年越しの鮭」をもとめる。銀色の鱗が光る立派な塩鮭を,一定のリズムで注文通りの厚さに切っていく包丁捌きが鮮やかだ。その鮭専門店の店主,通称「しゃけこさん」が,築地の魅力をたっぷり語ったのが本書である。
 迷路のような路地では,目利きし,鮪を切り貝を剥く頑固で無口な職人の存在感が際立ち,河岸言葉が勢い良く飛び交う。20代まで物書きをしていた著者がひょんなことから鮭屋に勤め,見聞した日常が活写されていく。買い物客として歩くだけでは見えない奥深さに,思わず引き込まれる。
 さらに,日本橋魚河岸時代も知る老舗の大旦那や古老に取材した話は,まさに「築地に歴史あり」。佃島の漁師や侠客も登場し,ひたむきに働き身代を大きくした夫婦の話など,小説のような面白さである。歴史をたどる著者の作業には,中央区立京橋図書館や,市場の中の専門図書館・銀鱗文庫も登場し,図書館員としては大変嬉しい。
 鮭の産地への訪問も紹介されている。宮城県牡鹿半島・岩手県大槌,東日本大震災から復興を目指す地域の漁師との交流には,豊かな鮭の食文化が見えて興味深い。
 今,築地場外には外国人客が大勢訪れ観光地化も進む。店頭には新たな需要に応える商品が次々に並び,たくましい商魂も満ちている。伝統を残しつつ変化を続ける町,築地場外。本書を読んでから訪ねれば,買い物の楽しさが倍増すること間違いなし,である。

(市川純子:横浜市金沢図書館)

ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春

ロビー・ロバートソン著 奥田祐士訳 Du Books発行 ディスクユニオン発売 2018 ¥3,800(税別)

 ザ・バンドとは1960年代から70年代にかけてアメリカで活動したロックバンドで,ボブ・ディランのバックバンドを務めたことでも知られている。そのバンドで作詞作曲の中心となり,ギタリストであったロビー・ロバートソンは,後年ファンからの評価を下げることとなる。再結成にひとりだけ参加しなかったこともあるが,バンドのメンバーであったリヴォン・ヘルムの自伝『ザ・バンド 軌跡』(ステファン・デイヴィス補筆,菅野彰子訳 音楽之友社 1994)で酷評されたことも大きな理由のひとつであろう。メンバーの追悼式に来なかったこと,印税を不当に我が物にしたことなど,かなり悪しざまに描かれている。
 そのロビー・ロバートソンが自伝を出す,そのタイトル(原題)が「TESTIMONY」(証言)であることを知って,これは四半世紀越しの反撃なのか,と心が騒ぐ。
 ふたりの言い分は食い違う。例えば名曲<ライフ・イズ・ア・カーニバル>についてリヴォンは「ぼくとリック(・ダンコ,ベーシスト)が音楽をつくり,ロビーがそれに歌詞をつけた」と言っているが,ロビーは「ぼくは仕上げの途中だった新曲<カーニバル>をふたりに聞かせた」「この曲では結局リックとリヴォンのふたりと作曲のクレジットを分け合うことになって,ぼくはそれがたまらなくうれしかった」と振り返る。どちらも真実なのだろう,と思わせる説得力が双方にある。
 その他,解散に至る経緯や,薬物への耽溺についてお互いを責めるところもある。それでも読後に重い気持ちにならないのは,結局のところ,そこにあったのは友情であり,音楽を通じた絆だったのだ,と感じさせるリアリティがこの物語に備わっているからだろう。「証言」とはどちらが悪かったのかを裁く法廷でのそれではなく,友情が確かに存在したことへの「証言」だったのだ。

(大林正智:田原市中央図書館)

こっそりごっそりまちをかえよう。

三浦丈典文 斉藤弥世絵 彰国社 2012 ¥1,800(税別)

 「じぶんのいえにあだ名をつけよう。」,「道路に面していない古いいえを見つけ出して秘密基地と名づけよう。」,「照明デザイナーと電気の消し方を相談しよう。」…目次に並ぶこんなワクワクするテーマは,読み手の想像力,いや,妄想力を試しているかのようだ。幼稚な夢物語を語っても現実には何の役にも立たない,などという凝り固まったオトナの考えを持つ読者なら,本書を放り捨てるか,もしくは読んでいて恥ずかしくなるかのどちらかではないだろうか。
 建築家である著者が,現代社会,とりわけ,“まちづくり”に感じる違和感を,平易な言葉で語る本書。学生であれ,為政者であれ,はたまた日々の生活を営む市民であれ,思考の時間を味わわせてくれる一冊である。とはいえ,主張にはきちんとデータの裏付けと分析があり,読者の妄想は,本文を読むことで,きちんと現実に着地することができる。冒頭で紹介したテーマを例にとると,「じぶんのいえにあだ名をつけよう。」の章では,無関心への警告と観察することの意義。「道路に面していない古いいえを見つけ出して秘密基地と名づけよう。」の章では,建築基準法で規定される接道義務への疑問。「照明デザイナーと電気の消し方を相談しよう。」の章では,日本文化を踏まえた“暗さ”の価値への意識が仄めかされ,理想へのロードマップを自ずと考えさせられてしまうつくりになっている。
 図書館とまちづくりの関連性が全国あちこちから聞こえてくる昨今であるが,“まちづくり”の言葉が内包する価値は広く,図書館としての視点,商業としての視点,都市計画の視点,生活としての視点…と,さらに他分野の視点からみることで違ったメリット・デメリットが浮かび上がる。想像力や理想を追う意思がなければ,“まちづくり”は無味乾燥なものになってしまうかもしれないと,本書の平易な言葉に危機感をあおられる。

(髙橋将人:南相馬市立中央図書館)

写真で伝える仕事 世界の子どもたちと向き合って

安田菜津紀著 日本写真企画 2017 ¥926(税別)

 毎年図書委員会の生徒有志と書店への直接購入へ行っている。せっかく大きな書店に行くのだから,日ごろ見て回らないような棚も探って,わが校にふさわしい本を選んでほしいと思うのだが…。だいたいはマンガかラノベになってしまう。そんな中で2年前の図書委員が選んだのがこの本だ。
 写真集としては小ぶりで薄いこの本,生徒の手にも取りやすかったのかもしれない。表紙は民族衣装を着た姉妹らしい少女が微笑みながらこちらを見ている。
 高校を卒業し,それぞれの進路に進んでいく生徒たちのために,学校図書館ではさまざまな可能性や,広い世界が垣間見えるような資料を集めたいと思っている。平和な日本では想像もつかない,戦争や貧困に苦しむ世界が現実にあり,自分たちと同世代の子どもたちがその現実の中にいる。そんな世界を写真で伝えているのが,この本の著者フォトジャーナリストの安田菜津紀さんだ。
 安田さんがなぜ「写真で伝える仕事」を選んだのか? この本の前半では,高校生のときのカンボジアでの体験,日々どんな仕事をしているのか,大切にしていることは何か,から始まり,後半では訪れた世界の子どもたちの写真と,現地の状況が紹介されている。
 最後の「私たちに何ができるのか」の章では,“無知”がいかに人を傷つけるか,“学ぶ”ということが自分以外の誰かのこころを守ることになるということ,そして世界をもっと優しい場所にしていくために,あなたになにができるだろうかと,高校生に向けて語りかけている。
 この本を選んでくれた生徒には,きっと子どもたちの笑顔と,安田さんからの想いが届いていたことだろう。

(甫仮久美子:神奈川県立茅ケ崎高等学校)

身体を通して時代を読む 武術的立場

甲野善紀,内田樹著 文藝春秋(文春文庫) 2010 ¥650(税別)

 日常歩くときに右足を出し,次は左足を出して,今,重心はどちらにかかっているのだろうと考えながら歩いている人はどれくらいいるだろうか。毎日の習慣により,考えずとも足は自然に動いているはずだ。なんば歩きという右手右足を同時に出して歩いていた時代には,体の重心を意識して現代とは違う歩き方だったようだ。飛脚や侍の歩き方がそうであったという。
 本書は,予期せぬ出来事に対応ができる力を身につけることを武術と定義し,哲学者の内田樹と武術家の甲野善紀が行った対談および往復書簡をまとめたものである。著者たちは,政治や経済,介護問題等を武術的視点から論じ,どのような事柄にも対応できなければならないと言っている。
 現代は昔と違い,着物ではなく洋服を着て,帯刀もしていない。便利な乗り物もあり,馬や籠に乗ることもない。身体の使い方は変化して当たり前だが,身体と思考の結びつきが重要であることは変わっていない。人は自分の意志で身体を動かして,そしてさまざまな事を学んでいくのだ。
 常に武術的思考を積み重ねていくことで学びを深め,次第に習慣が変わり,人柄も変わり,人生も変わっていくのである。現代では手をかざせば自動的に水が出て,扉も自動で開く。意図して操作をすることが少なくなり,自ら考え身体を動かしているという意識は希薄になっているだろう。
 学校の体育で学ぶだけではなく,自然に触れ,身体が何を感じるか,意識と身体のつながりをゆっくりじっくり考えることで,自らの身体を大切に扱い生きていく意味や,人生をどう過ごしていくべきかという問題にたどり着けるのではないだろうか。雑巾がけをし,自らの足で近所を散歩し,毎日生活を支えてくれている手足,身体について考えてみるのはどうだろうか。
 もちろん,この本の読後に。

(木下文子:横浜市山内図書館)

花と樹木と日本人

有岡利幸著 八坂書房 2016 ¥2,700(税別)

 初めて日本の古典が出典となった新元号「令和」の影響で,にわかに「梅花の歌三十二首」の序文が注目を集め,『万葉集』を手に取る方が増えているという。古典好きとしては嬉しい限りである。
 本書は,日本人に馴染みが深い八種類の花木や樹木について,縄文時代から現代にいたるまでの分布,特性といった植物学的な解説,文化・文学的エピソードなどが紹介されている。
 日本の古典文学に登場する植物について書かれた書物は数多あるが,営林局で森林育成に携わっていた著者の経験によるものか,本書は常に植物中心となって展開していく点が興味深い。
 その第一章に取り上げられているのが「梅」であり,話題の「梅花の歌」についても,生態や遊びが,知識と観察を根拠として詠まれていることなどに触れられている。
 梅もだが,「めでたい」印象の植物がある。「植物を示してめでたさを象徴させ,一つ一つの植物で寿,祝,瑞などの嘉事を表す」(p.184)という「瑞祥植物」である。植物は,薬や食用,観賞などの用途に加え,「象徴」としても捉えられてきた。「松竹梅」などは聞くだけで姿が浮かび,「縁起がいい」と思うほど,現代の私たちにも馴染み深い。
 しかし,本書を読み,私たちの想起する樹木や花木の様子は,万葉人が実際に見ていたものと必ずしも同じではないということに気付かされた。
 貴族から武士,その時代の権力者の移り変わりにより,植生分布の広がりも変化する。鎌倉時代には多くの桜の種類が現れ,江戸時代には将軍の好みによる椿などの花卉ブームが起きた。園芸ブームは時代が進むにつれて庶民にも広がりを見せ,品種改良が進み,新種も数多く作られている。楓などは,現代までに400種を超えているという。本書を開いて,さまざまな時代の人の目に映っていた花や樹木に思いを馳せてみてはいかがだろう。

(中村まさみ:所沢市役所)

緊張をとる

伊藤丈恭著 芸術新聞社 2015 ¥1,800(税別)

 緊張してうまく話せなかった,そんな経験を持つ人は決して少なくないだろう。緊張せずに本番を迎えたいと願うのも無理はない。しかし,緊張をとるには,それをないものとするのではなく,緊張しているという事実を認めることから始めるのが効果的である。
 本書は上がり症の冴えないサラリーマンと,派手で下ネタ好きのスナックのママとの会話を中心にシナリオ形式で描かれる。ママの正体は引退した「伝説の天才美人女優」。緊張のあまりプレゼンがうまくいかないという男に,緊張のとり方と演技の初歩を教えていくというのが話の筋である。
 著者は演技トレーナーで,ここで取り上げられているのは主に,いまの演劇界で広く知られている「メソッド演技」の手法だという。緊張の原因や種類,緊張をとるための心構えや練習方法が順に紹介されていく。具体的にはまず,楽しんでいるときは緊張しないという前提から,ジブリッシュ(めちゃくちゃ言葉)により楽しみやすくする下地をつくることが提唱される。
 その他,集中とリラックスと興味のバランスの取れた「絶妙の中途半端」状態を目指す,ポジティブだけでなくネガティブな面も取り入れる,大きな目標のために小さなこだわりを捨てるなど,人生そのものに通じる心構えが散りばめられつつ,ビートたけしの一発芸「コマネチ」により躊躇をとる,発声と滑舌をよくする,乗りやすくするために音楽にあわせて下手でも踊る,「悪役レスラーの入場」さながらに悪態をついてテンションを上げるなど,意外性に満ちた練習方法が挙げられている。
 俳優が積み上げてきた瞬間的緊張,慢性的緊張の双方に働きかけるための知恵が詰まった一冊。これらの練習を実際に取り入れようと思い立った時点で,すでに何かが吹っ切れているはずである。

(山本敬子:小林聖心女子学院)

奇跡のバナナ 生物学の常識を覆す「凍結解凍覚醒法」が世界を救う!!

田中節三著 学研プラス 2018 ¥1,300(税別)

 岡山のスーパーで1本600円の国産バナナが店頭に並ぶことがある。皮が薄く甘みの強い「もんげーバナナ」である。ひときわ高い値がついたこのバナナに,誰もが大いに興味を持つとともに疑問を感じることだろう。ご存知の通り,バナナは熱帯の果物で,日本で見かけるほとんどが輸入品だ。寒さに弱いバナナを日本で栽培するのは難しいからだ。
 本書は日本でのバナナ栽培という難題に挑戦し,見事に夢を実現した田中節三氏による手記である。田中氏はバナナの起源が最終氷期(約1万3000年前)のインドネシアにあるとされていることに着目し,寒さに強いバナナを再現しようと試みる。農業の常識・植物の定説にとらわれることなく試行錯誤を繰り返し,バナナの成長細胞を冷凍することによって遺伝子の中に眠る氷河期を生きた力を呼び覚ます「凍結解凍覚醒法」という技術を発見する。
 この技術を使えば,冬は0度近くなる岡山の露地でバナナを育てることができるようになる。そればかりか,バナナ栽培が直面する課題である新パナマ病による収穫量の減少を防ぐとともに,一本の木からバナナを収穫する時間が短縮できる。病気に強いため農薬を使用する必要もない。
 田中氏はこの技術を小麦などバナナ以外の植物にも応用していく研究を進めているという。
 今はまだ高級なこの国産バナナとそれを生んだ技術が広まれば,やがて世界の食糧危機を救う可能性まで秘めている。
 バナナを40年かけて開発したこの技術に対する著者の真摯な思いが私たちの未来を変えるかもしれない。そんな夢のある物語がすぐ身近にある,なんとも希望にあふれた一冊である。

 (二熊恒平:岡山県立図書館)

歴メシ! 世界の歴史料理をおいしく食べる

遠藤雅司著 柏書房 2017 ¥1,700(税別)

 「歴メシ」とは,歴史的な文献から再現した料理のことで,著者が主催するプロジェクト「音食紀行」で参加者に振る舞われたものだ。実際に歴史上の人物が食した料理を食べることで,普段は縁遠い偉人たちを身近に感じることができるという。この本は,より多くの人にこの面白さを感じてほしいと執筆された。
 収録された料理は,原則として現存する歴史的資料を基に作られている。食べてみておいしければレシピをそのまま掲載し,現代人の味覚に合わなければ,当時の食材や調理法を生かした上でアレンジを加え,入手困難や高価な食材は類似したもので代用する。八つの時代で各5品ずつ,40品もの料理が再現されている。
 本編は,料理のコンセプトとその特徴を解説したMENUが扉としてあり,続いて料理のレシピが写真とともにわかりやすく収録されている。レシピに時折つけられた「point」は,よりおいしく食べるためのアドバイスだ。
 レシピに続くエッセイには,簡単な時代背景とその地域の食文化や当時の人々の生活が紹介されている。そして料理を再現するための文献紹介とレシピ部分の抜粋の解説。このレシピに沿って文献通りに調理して,食べた感想。見たこともない調理方法や意外な食材の組み合わせなど,面白い発見もある。また残念ながら現代人の味覚に合わない場合は,食材を加えたり味付けをアレンジしておいしく食べられるレシピを作っていく。この文献からレシピを作っていく過程がとても楽しい。
 「歴メシ」を作りながら,体験的に歴史を学んでみてはいかがだろう。さぁ,召し上がれ。

(笠川昭治:神奈川県立湘南高等学校図書館)
 

酵母パン 宗像堂 丹精込めたパン作り 日々の歩み方

伊藤徹也写真 村岡俊也文 小学館 2017 ¥2,200(税別)

 緑に囲まれた自然豊かな環境にぽつんと佇む瀟洒な外国人住宅。全国からお客さんが訪れるという宗像堂(沖縄県宜野湾市)というパン屋である。店主の宗像誉支夫さんは,大学院で微生物の研究を行った後,陶芸家に弟子入りし,天然酵母を使用したパン屋を経営するという異色の経歴を持つ。ふとしたきっかけでパン作りと出会うが,手間のかかる酵母パンを研究し,製品化することに成功した。微生物の研究者であったことが酵母作りにも活かされており,微生物の拮抗作用で,宗像さんのパンは最長8か月半カビが生えなかったという。自然の力を大切にし,体にも環境にも優しいロハスな生活が好印象である。本書には,宗像堂のパン作りのヒミツがぎゅっと詰まっていて,全メニューの紹介やレシピの公開もされている。しかし,それだけには留まらない。パンを通した哲学書であり人物伝であり,写真集であり実用書である。また,パン作りの一日を丁寧に解説する言葉は心地よく,まるで文学のようでもある。
 元ザ・ブルーハーツのボーカリスト・甲本ヒロトさん,女性に大人気のブランド「mina perhonen」のデザイナー・皆川明さん,陶芸家の大嶺實清さん,農家の当真嗣平さんなど宗像堂を愛する著名人との対談も読み応えがある。パン談義などではなく,ライフスタイルや仕事の原動力などに関わる奥深い話が繰り広げられ,さながら思想のぶつかり合いである。それぞれの対談相手が,その道を究め,今なお,進化をもとめているからこその対話である。
 現在は,自身の研究が広く伝播することを願い店舗に隣接して宗像発酵研究所を設立した。「好き」を仕事に変えてとことん進化させる姿勢は,人生における仕事との向き合い方を教えてくれる。パンを通してライフスタイルを考える一冊だ。

(呉屋美奈子:恩納村文化情報センター(沖縄県))
 

ヒアリの生物学 行動生態と分子基盤

東正剛,緒方一夫,S.D.ポーター著 東典子訳 海游舎 2008 ¥2,800(税別)

 2017年,各地の港でヒアリが発見され連日新聞やTVニュースで取り上げられた。日本にはいなかった毒性の強い外来昆虫であるだけに,見つかるたびに連日報道されたのは当然だろう。
 同じように侵入定着した北米では年間100余人の死者が出ているというから,尋常ではない。
 しかし過去日本では,危険であるとはいえ在来種ではないヒアリに関する基本的な文献は,本書以外ほとんど出ていない。さらにこれほどまとまった内容の図書は,唯一ではないかと思われる。
 全9章立てでヒアリの分類学的位置,分布,生態,毒性,他国の状況などほぼ各分野の情報が網羅され,巻末には引用文献が付されている。
 本書の重要性はその情報量だけではなく,ヒアリが日本で確認される10年余も前,その危険性に対する警戒を呼びかけていることであろう。最終章で「日本への助言と提言」と記し,わざわざカバー裏表紙までに「『ヒアリ戦争』への備え」5項目を列挙していることからもわかる。
 グローバルな現代において日本だけがヒアリに限らずさまざまな生物の侵入から,例外であり続けることはないだろうと誰でも容易に想像がつく。
 しかし動物学の分野において研究者としての危機感が,これほど明示された図書を私は知らない。
 さらに本書は専門書である。決して一般向けに平易に記述されているわけではない。そしてヒアリが日本で確認される10年余も前,ヒアリなど研究者以外誰も知らないであろう時期に市販されていたことも驚かされる。
 もし今後日本でヒアリが定着し,その被害が出るようになれば,多くの情報が活字化されるようになるだろう。ヒアリに関する図書がいつまでも本書以外に存在しない方が,日本にとってはいい状況なのかもしれない。読むほどにそうあることを願いたくなる図書である。

(笹岡文雄:国士舘大学図書館・情報メディアセンター)
 

パクリの技法

藤本貴之著 オーム社 2019 ¥1,800(税別)

 書影をお見せできないのが残念だが,「世界初のパクリの教科書」であるという本書,表紙とタイトルからは図書館で選書するのがためらわれるかもしれない。実は科研費の助成を受けた研究成果の一部であり,パクリについて身近な題材で興味深く学べる内容となっている。
 パクリと聞くと近頃社会を騒がせたさまざまな問題が思い出される。しかし「パクリ」イコール悪,ではなく,多義的な意味を持った言葉であると著者は繰り返し述べる。パクリの技術が未熟で杜撰であることから問題が起こるのであって,正しい知識と技術をもったパクリはクリエイティビリティを高めてくれる。行き過ぎた自主規制で表現の幅を狭めてしまうことなく,多くの情報から正しくパクって,よりよいオリジナルコンテンツを生み出そう,という趣旨だ。
 パクリの歴史を繙いた章では,ギリシャ神話や聖書に始まりあらゆるコンテンツにオリジナルが存在し,それがまたパクられて派生していく様子を「人類の歴史はパクリの歴史」(p.52),と示す。
 「パクリの技法」の中でも文章のパクリは気になるところである。まずは引用や転載について出典を明示して正しく行うことを絶対ルールとして挙げ,さらに正しい「孫引き」を指南する。既存のニュース記事を元に,まるでオリジナルのような「エセ一次記事」(p.117)を,パクリとばれないようにどう作っていくか,そのテクニックにも感心させられる。
 後半では著作物にあたるか,判断に迷うケースを挙げて著作権をおさらいし,今年1月に施行された改正著作権法についても解説。人工知能(AI)とパクリ,「自炊」などの問題も採り上げる。
 さてこれ以上下手な書評を続けて,引用の範囲を超えた未熟なパクリだとお叱りをうける前に筆を置くことにしよう。

(沖田香織:神奈川県立川崎図書館)
 

ピアノの巨人 豊増昇

「ベルリン・フィルとの初協演」「バッハ全曲連続演奏」
小澤征爾,小澤幹雄編著 小澤昔ばなし研究所 2015 ¥1,700(税別)

 小澤征爾。言わずと知れた日本を代表する世界的指揮者である。この小澤の音楽の原点となった一人がこの豊増昇である。
 ピアニストをめざしていた中学生の征爾にとって,ラグビーの試合で両手人差し指を骨折という致命的な怪我をしたとき,師事していた豊増は「指揮という道もあるよ」と示唆してくれたのだ。
 「音楽は,非ヨーロッパ人には踏み込みえない領域で(中略)バッハの音楽はドイツ人音楽家にしか演奏できない」(本文p.25~26)という考え方の時代にドイツでバッハ(《ゴルトベルク変奏曲》)とベートーヴェン(「ピアノ・ソナタ第32番」作品111)を弾いて,ヨーロッパの著名な音楽評論家を絶賛させたという。中でもバッハの《ゴルトベルク変奏曲》は難曲中の難曲で,ドイツ人でさえも滅多に取り上げないというのだから驚きである。そして豊増は,日本人のソリストとして初めてベルリン・フィルと共演しヨーロッパの一流の聴衆から最高の賛辞を受けた,まさに「ピアノの巨人」である。豊増が活躍した時代は戦争色濃く,まして日本やドイツは第二次世界大戦の敗戦国であり,芸術交流が乏しくヨーロッパでの活躍の情報も日本に入ってこなかった。いまもなお知名度が低い理由はそのためかと思われる。
 本書は,著者の一人であり征爾の弟である幹雄が夫人にインタビューしてまとめた豊増の生涯と業績のほか,征爾のみならずピアニストである舘野泉らが語る恩師豊増,征爾の兄俊夫の翻訳による外国の新聞記事や演奏会のプログラムなど,多彩な内容を盛り込んでいる。また,豊増は古典音楽の研究としてバッハ全作品の演奏を極め,現代における古典演奏の課題を投げ掛けている。日本の音楽界のパイオニアの豊増を知る本書は,音楽を志す者ばかりでなく一般の方々にも一読の価値はあると思う。

(小熊秀子:沼田市立図書館)

発酵の技法 世界の発酵食品と発酵文化の探求

サンダー・エリックス・キャッツ著 水原文訳 オライリー・ジャパン発行 オーム社発売 2016 ¥3,600(税別)

 納豆,醤油,味噌のように日本に代表される食品だけでなく,パンやヨーグルト,キムチなど世界でも利用されている発酵技術。そして,私たちの体内にも乳酸菌などさまざまな微生物が数百種類存在している。この本は480ページを超える大作である。発酵食品を作るための料理本としても,世界の発酵食を知る研究書としても読むことができる。また,発酵の道を探求する冒険家のメモを読んでいるような,研究者の実験ノートを読んでいるようなワクワクした気分にもなることができる本である。
 本の原題は「The Art of Fermentation」となっているが,(微生物・組織の)培養の英訳にはcultureもある。人類における特定の集団や時代の思想や文化,伝統と同じ単語だ。微生物と人類のcultureに共通しているのは,スターターをきっかけとして世代から世代へ引き継がれること,コミュニティを作りだすための重要なツールであるということである。そして,その歴史は安全に,効果的に,効率的に変化に適応してきた習慣をも指す。
 まず,発酵の主なメリットとしての,保存・健康・省エネ・風味と分類し,章立てて説明している。それぞれの基本的な概念と必要な条件や機材はもちろん,こんなときは?というトラブルシューティングまで丁寧に書かれており,次に具体的になにとなにを組み合わせて発酵させるか,に進む。
 微生物の変化する音や匂いを想像しながら,読み進めるうちに,だんだん発酵食品を作りたくなってくるだろう。それは,単純な食欲と好奇心に加えて,気持ちや愛情が表れる「手の味」(p.xiii)を知りたくなるためで,自分の手でものを作り上げたい「Maker」(p.480)が芽を出してきた証である。

(前田小藻:都城市立図書館)
 

タイムトラベル 「時間」の歴史を物語る

ジェイムズ・グリック著 夏目大訳 柏書房 2018 ¥2,700(税別)

 イギリスの小説家H・G・ウェルズが1895年に発表したSF小説『タイム・マシン』は,時間旅行ができる乗り物を導入した初期の作品である。
 作品が発表された19~20世紀は,ちょうど鉄道などの交通網が整い,ラジオや電話から他所の音が聞こえはじめ,アインシュタインが時間を含む世界を計測する理論を示した時代だ。単なる空想話にすぎないという意見の一方,主人公がもっともらしい科学的な説明を交えつつ乗り込み,未来へと時間移動するタイムマシンの存在は,地球規模で科学技術が発達した背景と相まって多くの読者を惹きつけた。そしてその後,タイムトラベルという概念は大衆に浸透していく。
 思いのままに過去や未来へ行けるという状況が注目を集めるのは,人々が常に時間の問題を抱えているからだろう。『タイム・マシン』よりもはるか昔から,時間を移動する物語は各地に存在した。日本でも,竜宮城から戻ると長い年月が経っていた『浦島太郎』の話がよく知られている。
 「では時間とは何であろうか。誰も私に問わなければ,私はそれを知っている。だが,誰か問う人がいて,その人に説明しようとした時には,私はそれを知らない」(p.18)アウグスティヌスがこのように書き残したのは,1600年以上も前である。当時よりも正確に針を刻む時計に囲まれて生きているはずなのに,誰もが納得する説明は21世紀になった今も見つからない。時間から自由になりたいと願う気持ちがタイムトラベルへの憧れ,そしてタイムマシンの不変な魅力と結びついている。
 図書館の蔵書なら,物理学の棚に並ぶであろう本であるが,天文学,数学などの科学全般,哲学,もちろんSF小説をはじめとする文学など,引用作品のジャンルは多岐にわたる。タイムマシンそのものは今も実現していないが,読書によるトラベルへの戸口は,本書のあちこちに散りばめられている。

(間片千春:富山県立図書館)

自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く

松本敏治著 福村出版 2017 ¥1,800(税別)

 この本が書かれたきっかけは,青森在住の著者・松本氏が臨床発達心理士の妻に「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ」(p.3)と言われたことだったそうだ。しかし松本氏は当初,その説を信じていなかった。だから,真実を確かめるというより否定するために調査を開始する。
 松本氏は自閉スペクトラム症(以下ASD)の方言使用についてまずは東北地方,ついで日本各地での調査を行う。そこで不使用の結果が強まると,さらに,ASDが方言を使用しないのはなぜか,ASDはどのように言語を獲得しているか,と考察していく。調査手法や結果の精査の過程などは専門的だが,語り口はやさしく,とても読みやすい。私自身が京都という方言をよく使う地域で日常的にASDと接していることもあり,ぐいぐいと引き込まれた。
 特に印象的だったのは,京都在住で家族が関西弁で会話する中,唯一共通語で話す子どもの事例だ。彼の事例からは,ASDは周囲との会話からことばを学べないが,テレビやビデオを繰り返し視聴することで語彙を増やせるということがわかる。その一助となっているのが字幕であるというのも,ASDの特徴を考えればうなずける。
 ASDの方言使用についてこれまで本格的に研究がされてこなかった理由について,関東圏では日常語が共通語で差が見えにくいこと,また診察といった公的な場面で話す際は方言使用者でも共通語で話すため意識されにくいということが指摘されている。しかし,ASDの言語獲得・使用についての研究は,ASDだけでなくそれ以外の人の言語獲得・使用を研究する上でも新たな視点を与えると思う。この本は「夫婦喧嘩の完敗」で幕を閉じているが,研究がこれからも広がっていくことを願っている。

(梅木さやか:京都府立清明高等学校)

命を守る水害読本

命を守る水害読本編集委員会編著 毎日新聞出版 2017 ¥1,852(税別)

 2018年は大雪,地震,台風や梅雨前線等による風水害等が多発した。激甚化する災害。本書は水害を中心に,イラスト,図版などを多用し,分かりやすく紹介。章立ても,「水害レポート」をはじめ,「気象の基礎知識」,「豪雨に備える」,「はじめての避難」,「減災への取り組み」と,誰もが共通にイメージしやすい構成となっている。
 本書の注目すべき点は,命を守るための「事前避難」と被災者のその後の生活を守るための「事後避難」に分類し,説明されているところにある(p.127-131)。災害には2種類(地震など突然発生する「突発型災害」,水害などの「進行型災害」)あり,この2種類には大きく異なる「避難」の意味とタイミングがあるとしている。「避難」というと,災害の種類に関係なく,被災したら避難所に向かうイメージがあったのではないだろうか。これは,地震などの「突発型災害」における「事後避難」のパターンである。台風等豪雨を伴う気象災害では,降雨,河川への流出,流下,氾濫と順に発生するのが「進行型災害」の特徴である。本書では被害の発生までの猶予時間を使い「事前」に「避難」をする有効性があることを説いている。この事前避難の実践は,ニューヨークに甚大な被害をもたらしたハリケーン・サンディ(2012年)で実証された。これがタイムラインの原型(ハリケーン対応計画付属書)となり,この考え方が,わが国に導入されて「水害に備えたタイムライン防災」(p.150)がはじまったのである。
 最後に,タイムラインは図書館現場でも大いに活かせると考える。ハザードマップで予め館周辺の浸水状況を把握する。空振りを恐れない勇気ある行動。そして,発災までの猶予時間を使い貴重資料などを一時的に退避し,災害をやり過ごす行動。これらは,大規模災害への有効な手段になるはずである。

(加藤孔敬:名取市図書館)

配色アイデア手帖 めくって見つける新しいデザインの本 完全保存版

桜井輝子著 SBクリエイティブ 2017 ¥1,780(税別)

 仕事柄,よくちょっとしたチラシやポスターを自分で作る。いかにも「ワードでござい」という出来にならないよう,格好の良いフォントを選び,構図を考え,各種素材を上手く配置するのだが,どうしてもあと一歩,あか抜けない感じがする。色使いがダサいのだ。
 下描きの段階ではそれほど悪くなかった絵が,絵具を載せた途端に台無しになってしまった経験はないだろうか。あれは形よりも色を整えるほうが難しいということを示している。配色は素人のデザインにおける鬼門なのだ。
 そこで紹介したいのが本書である。本書はいわゆる配色見本で,1テーマにつき9色を紹介している。紹介した色はすべてCMYK,RGB,カラーコードが記載されており,パソコン上で再現が可能だ。テーマは全部で127項目あり,3,175例(1テーマあたり25パターン)というサンプルの豊富さが特徴である。
 2色配色,3色配色などのシンプルな配色例のほかに,デザイン・パターン・イラストといった具体例も掲載しており,しかもほとんど使い回しがない。配色見本というと,イメージ写真が1枚と,同じTシャツの色だけ変えたようなサンプル数枚,といった本をよく見るが,一般的に素人は,色だけ並べられても使い道を想像できるものではない。本書はまさに素人向けの内容である。
 作業の邪魔にならない横長の本体形状や,すべてのテーマが見開き2ページで完結するページ構成など,読者の利便性を高める工夫が随所に見られ,非常に作りこまれた印象を受けた。
 何か深いことを考えさせるような本ではないが,読者の頭を働かせる点については同じかそれ以上であって,しかも実際に自作物のデザインが洗練されるという功徳がある。職場の本棚にも,自宅の本棚にも,1冊あって損はない本である。

(玉井 敦:埼玉県立春日部東高等学校)

未来をはじめる 「人と一緒にいること」の政治学

宇野重規著 東京大学出版会 2018 ¥1,600(税別)

 この本は,著者が東京の私立豊島岡女子学園中学校・高等学校で行った全5回の講義の記録である。政治とは,遠いところで行われていることではなく,実は私たちが多かれ少なかれ悩んでいる「人とのつながり」に端を発して生まれたものだと,本書が私に気づかせてくれた。
 自分と同じ人はいない。だから,すれ違いや対立は必ず起こる。ならば人と関わらず生きていけばいいのか? しかし,他人と関わらずに生きていくのは現代では難しい。では,各個人の自由な意思に基づきながらも他人と一緒にいるにはどうしたらいいのか。皆で決めた「一般意思」に皆が自発的に従えばいいと考えたのがルソーだった。人任せにせず自分で考える勇気を持ち,理性のスイッチを入れて自分で物事を判断しようと考えたのがカントだった。人と対話や議論を重ねながら失敗し,その失敗から学びを得て人は成長していくのだと考えたのがヘーゲルだった。学校で習った人物たちが,この本を読むといきいきと目の前に現れる。
 個人からの視点とは別に,社会という大きなくくりでの「決め方」として,選挙や多数決が登場する。目の前にあるこのシステムは完全ではないと著者は言う。ボルダ・ルールのような新しい方法を考える余地は,まだあるのだと知ることができる。社会では,何が一番大事にされるべきなのか。どのような方法で導き出せばいいのか。私たちは考え続けなければならないし,試し続けなければならないのだ。
 「思考しないことが凡庸な悪を生む」(p.252)
 本書の後半にある,20世紀の政治思想家ハンナ・アーレントの言葉が胸に突き刺さる。とてつもなく苦しく,逃げ出したくなるけれども,私たちは考え続け,行動していかなければならないとこの本は教えてくれる。

(古澤理恵:熊本県大津町立大津北中学校)

現代語訳墨夷応接録 江戸幕府とペリー艦隊の開国交渉

林復斎著 森田健司編訳・校註・解説 作品社 2018 ¥2,400(税別)

『墨夷応接録』は,幕末に取り交わされた「日米和親条約」と「下田追加条約」について,日本側の交渉役の林大学頭ら応接掛と米国全権委員のペリーとの間で行われた交渉の一部始終を記録したものである。そう聞くと,何だか難しい本に思えるかもしれない。確かに原文は,ほぼ漢字で書かれており,読むのは容易ではない。しかし,本書はタイトルにある通り,現代語に訳されており,思いの外面白く,小説のようにさらさらと読めてしまう。
訳者も本書の中で述べているが,本書で注目すべきなのは,当時の日本の役人が,きちんとした交渉術を持ち合わせていたという点である。
「初篇(日米和親条約篇)」では,薪水の提供を承知したものの,交易を拒む日本側に対し,ペリーは交易については無理強いしないと言いつつも,言葉巧みに要求を増やしていき,何かというと「江戸に行く」と脅す。応接掛の面々は冷静に対応していくが,過大な要求をそのまま押し切られてしまうのではないかと,ハラハラさせられる。
しかし,箱舘での外国人の遊歩区域が主な争点となる「二篇(下田追加条約篇)」では,お互いに一歩も譲らない手に汗を握るような交渉が続く。この下田での交渉においては,港の様子を確認するだけで上陸はしないという約束を破り,箱舘に上陸した等の米国側の問題行動について,日本側が次々と釈明を求めていく。これによって,ペリーが困り果てる場面は,痛快である。その結果,下田追加条約は,ほぼ日本側の要求通りとなる。
なお,本書に記録されているペリーとの交渉については,『ペリー提督日本遠征記 下』(角川ソフィア文庫 2014)にも米国側の視点での記録が残されているので,両方を読み比べることをお薦めしたい。

(稲木美由紀:神奈川県立図書館)

新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている

防災心理 自分と家族を守るための心の防災袋
山村武彦著 宝島社 2015 ¥1,200(税別)

 災害現場でいったい何があったのか。危機的状況に陥った人間はどのように考え行動するのか。防災アドバイザーの著者が世界中の災害現場でインタビューして気付いた「防災の死角」を,心理学の観点から実例を交えて解説する。
 皆さんの中には近年災害に見舞われた方もいらっしゃるだろう。私も昨年の9月6日に北海道胆振東部地震を経験した。著者が第3章で明らかにする「地震に備えられない人々」の心理と行動は,地震の記憶が薄れていない今,実体験と相まって他人事とは思えない。
 人間には良い状況がずっと続くと思う心理的傾向がある。いつか大きな地震が来ると言われても,日常生活に支障をきたすような変化を本能的に望まないから,真剣に考えようとしない。心のどこかで「まだ先だろう」と思っている。
 災害の基本的な知識はあっても,いざという時に「ここは大丈夫だろう」と思い込んで避難しない。「周りの皆が逃げないから自分だけ逃げるのは」と集団に依存して逃げ遅れる。「過去にここまで水が来たことはない」と過去の事例にとらわれて,想定外の災害に対応できない。このような心理こそが防災の死角なのだ。
 感情や先入観の影響から逃れて合理的な判断をするには,自分を客観視し影響の存在を認識することが不可欠だ。目に見えない心の動きについて活字化されたものを読むことはその一助となるだろう。
 本書は2005年に発行された旧版に東日本大震災の情報を加えた改訂版である。特に著者が高く評価する釜石市での防災教育は,多くの子どもの命を津波から救った。この事例については釜石市の危機管理アドバイザー片田敏孝著『人が死なない防災』(集英社 2012)に詳しいので,併せて読むと防災心理についてより理解が深まるだろう。

(只石美由紀:北海道日高町立門別図書館郷土資料館)
 

太宰府幕末記 五卿と志士のものがたり

太宰府天満宮文化研究所編著 西日本新聞社 2018 ¥1,600(税別)

 「七卿の都落ち」という言葉は幕末・明治維新に興味を抱く者なら誰しもが知っているであろう。1863年に起きた政変で京都を追われ,長州に逃れた尊王攘夷派の七人の公家たちのことである。しかし,この七卿の内の五卿(一人は死亡,一人は逃亡したため,残された,三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌の五卿)が更に筑前に追われ,太宰府天満宮に身柄を預けられたことまで知っている者は少ないのではあるまいか。
 ところで,現在はお土産屋さんとなっている太宰府天満宮参道沿いの店々は,江戸時代は旅館街だったのである。そしてこの五卿を訪ねて,西郷隆盛,坂本龍馬,桂小五郎といった志士たちが寄り集い,倒幕のための緻密な戦略を練りに練ったのである。
 昨年明治維新150年を記念し,太宰府天満宮が,その所蔵する五卿や志士たちの書簡・肖像画等を展示公開し,その図録を兼ねた解説書として本書を刊行した。そもそも何故太宰府天満宮が五卿の落ち行く先として選ばれたのか。そこには筑前黒田藩内部の微妙な勢力争いが影を落としている。幕府の厳しい監視の下,いかに天満宮宮司や地域の人々は五卿に便宜を図り,もてなしたか。そして勤皇の志士たちは,どのように交流を深めて倒幕に起ち上がったか。これらのことを,第一章 延寿王院と大鳥居信全,第二章 五卿遷座前の太宰府,第三章 長州藩をめぐる福岡藩と薩摩藩の動き,第四章 太宰府での五卿,第五章 大政奉還の構成の下,彼らの手になる書簡文を読み解きながら探ってゆく。
 極めてローカル,郷土史的色彩が濃厚ではあるが,日本の歴史の一大転換点はどのように準備されていったのか,幕末史に興味のある人は,ぜひ一読願いたい「図録」である。

(野見山義弘:大野城市立大野城心のふるさと館,元福岡県立高等学校司書)
 

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体

藤岡換太郎著 講談社 2018 ¥1,000(税別)

 東日本大震災以降,日本は地震や噴火の活動期に入ったといわれる。今後は自分の命を守るため,地質や地形,気象の知識が必要とされる。そこで地形学の入門書として本書を紹介したい。
 日本列島最大の島,本州が中央で折れ曲がったまさにその場所がフォッサマグナである。フォッサマグナは,地底6,000m,地上2,000mを超える火山砕屑物などの堆積物で埋まった世界的に希有な溝である。およそ日本全人口の3割近くが,この溝の中で暮らす。フォッサマグナ西端は,急峻な山脈である日本アルプス沿いの糸魚川-静岡構造線であることが分かっている。
 フォッサマグナ西側は,北から飛騨帯,飛騨外縁帯,舞鶴帯,超丹波帯,美濃帯(丹波帯),領家帯と呼ばれる岩石の帯が連なる。関東平野北東部にも,飛騨外縁帯に対応する谷川帯,舞鶴帯に対応する片品帯,美濃帯に対応する足尾帯,領家帯がある。近年,超丹波帯に対応する放散虫の化石を含む岩が群馬県北東部で見つかったことにより,フォッサマグナを挟む東西の対応が判明した。
 30年以上前,フォッサマグナ東端は不明だと高校地学で習った。私はその答えを知りたくて,本書を手にした。しかし,フォッサマグナ東端が柏崎-千葉構造線なのか,あるいは利根川構造線なのか,それともさらに西にある断層なのか,残念ながらその答えは本書にも書かれてはいない。
 一本の学術論文は,通常ひとつの学説しか示さない。人は無意識に明確な結論を求め,たとえそれが嘘であっても,たまたま始めに読んだ論文を信じたくなるものである。本書は,謎は謎のまま,研究の歴史を丁寧に追い,複数の学説に著者の意見を加えながら,大胆にフォッサマグナ誕生の謎に迫る。一般的科学読み物であるが故の魅力を堪能できる一冊である。

(星野 盾:沼田市立図書館,日本図書館協会認定司書第1026号)
 

アニメ聖地巡礼の観光社会学

コンテンツツーリズムのメディア・コミュニケーション分析
岡本健著 法律文化社 2018 ¥2,800(税別)

 「聖地巡礼」が好きである。この「聖地巡礼」に宗教的な意味はなく,自分の好きな音楽や映画,アニメなどにゆかりのある地を訪れることを意味する。現地のお店に入り,美味しいものを食べたり,記念になりそうなものを購入したりすることも楽しみ方のひとつである。
 何年か前から,「聖地巡礼」という単語をメディアで見聞きするようになった。本書を手に取った理由は,単純に自分と同じような行動を取る人々がどのように分析されているのかに興味を持ったからである。これまでも,観光における現象のひとつとしてアニメ聖地巡礼を取り扱った文献はあったが,研究対象として真正面から取り組んだものは珍しい。
 本書では,聖地巡礼者はどのような人物で,どういった行動を取るかを新聞や雑誌の記事から探り出している。また,同じような行動を取ると思われる大河ドラマ観光と比較している。そこから浮かび上がる聖地巡礼者の人物像は,意外なほど能動的で,現地とのコミュニケーションを大事にしている印象である。実際に現地を訪れてのフィールドワークでは,聖地巡礼者とそれを受け入れる地域の人々のありようを垣間見ることができる。アニメファンと現地の人が,お互いの価値観を認め合いながらコンテンツツーリズムを盛り上げている。
 本書は,2010年頃に調査を行ったものをまとめており,今読むと少し昔の現象という感は否めない。著者も「2018年5月現在のアニメ聖地巡礼と,10年前の聖地巡礼は,大枠の行動としては同じでも,細部や置かれた社会的状況がかなり変化しています」と,あとがきに記している。2010年以後はどうであったのか,この先「聖地巡礼」はどうなっていくのか。今後の研究結果に期待している。

(藤巻幸子:所沢市立所沢図書館)

シリアの秘密図書館 瓦礫から取り出した本で図書館を作った人々

デルフィーヌ・ミヌーイ著 藤田真利子訳 東京創元社 2018 ¥1,600(税別)

 昨年10月,内戦下のシリアで拘束されていたジャーナリスト安田純平氏が約3年4か月ぶりに解放された。この報道の直前に読んだのが本書だ。
 長年シリアを取材してきた著者はたまたまFacebookで「ダラヤの秘密図書館」とキャプションのついた写真と出会う。写真には本棚に囲まれた部屋でごく普通の青年たちが熱心に読書をする様子が写っていた。しかし,ジャーナリストの著者にとってダラヤは反逆の町であり,包囲された町であり,飢餓の町であった。そのような町で読書をする青年たちの姿に好奇心を刺激され,著者は撮影者アフマドと連絡を取ることに成功する。
 2015年ダマスカスから7kmしか離れていないダラヤでは市民がアサド政権に対抗して籠城していた。シリアの反政府軍というとISのような残虐なテロリストを真っ先に思い浮かべるが,彼らは自由を求める普通の市民である。
 政府軍の攻撃で地上の建物は破壊し尽くされ,市民は地下で生活している。また,町は包囲され,国連の援助さえも届けられない。死の恐怖と飢餓の中でアフマドを中心とする若者たちは瓦礫の中から本を掘り出し,地下に図書館を作った。極限の状況下で精神の均衡を保つために彼らは地下の図書館で貪るように本を読む。そして自由とデモクラシーを求める気持ちを維持し続けるのだ。
 やっとつながるインターネットで著者は丹念に彼らにインタビューし政府軍の残虐な攻撃,それに知で対抗しようとする青年たちの活動を伝える。当初,読書に馴染みのなかった若者たちが図書館を作り,そこから希望を生み出してゆく姿は大変感動的だ。
 本書は遠い国の内戦に関心を持ち心を寄せ続けるために,ジャーナリストの果たす役割は大きいと教えてくれる。

(井上三奈子:湘南白百合学園高等学校)
 

ミュージアムの女

宇佐江みつこ著 KADOKAWA 2017 ¥1,200(税別)

 美術館へ行き,入場料を支払い,展示室で作品を眺めていると,ふと気がつく。かたわらにひっそりと,でもしっかりと作品と我々来館者を見守っている人がいることに――。
 本書は岐阜県美術館の「監視係」として働く女性が主人公である。「監視」と聞くと何となく緊張してしまうが,来館者との会話や交流,美術館で働く人たちの普段の様子が,ほのぼのとした雰囲気で描かれた四コマ漫画なのでご安心を。
 監視係と言われても「展示室のすみっこにじっと座っている人」くらいしかイメージを持っていなかった。本書を読んで,他にも表からは見えないさまざまな業務があり独特の気遣いをしているのだと知った(図書館員だってカウンターに座ってピッと本のバーコードを読み取っているだけではないのだから当たり前の話だが)。
 展示されている作品について勉強し利用客からの(時にマニアックな)質問に備える。鑑賞の邪魔にならないように存在感を消しつつ作品の安全に細心の注意を払う。館内で見つけた虫はすべて捕獲し報告する。まだまだあるが紹介しきれないので本書で確認してほしい。
 美術館というと堅いイメージだが,この漫画ではゆるくてふわっとした利用客と美術館職員の日常を描き出している。作者の美術作品への敬意と美術館に訪れる人々へのあたたかい眼差しが感じ取れるエピソードが満載である。
 美術館だからといって構えず普段着感覚でふらっと来てほしい,作品との対話を楽しんでほしいという作者の優しい気持ちが伝わってくるところが,この漫画の一番良いところだ。
 読んでいるうちに本書の中にたびたび出てくるオディロン・ルドンの作品「蜘蛛」を見に行きたくなったが,残念ながら岐阜県美術館は2019年11月まで改修工事のため休館しているそうだ。リニューアルオープンされたら本書を持って訪れたい。

(小川訓代:豊橋市中央図書館)
 

出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本を

すすめまくった1年間のこと
花田菜々子著 河出書房新社 2018 ¥1,300(税別)

 学校図書館に勤務していた頃,先生や生徒から「何か,おすすめの本はありませんか。」と尋ねられることがよくあった。どのような本を読みたいと思っているのか,これまでに読んだ本の中で,気に入った作者や作品はあるのか…雑談を交えながら書棚を歩き回り,おすすめの本を探していくことは,難しさを感じつつも,幸せなひとときであった。その後,新聞の書評欄で本書の紹介記事を目にし,インパクトの強いタイトルに惹かれ,ぐいぐいと引き込まれるように読み進めた。
 本書は,本と雑貨を扱う書店の店長(当時)である筆者が,「もっと知らない世界を知りたい。」という思いから,「X(エックス)」というサイトの存在を知り,そこでの体験談が綴られている。「X」は,知らない人と30分間だけ会って話してみる,というサイトだが,男女の恋愛に限定していないため,いわば「X」という名の共同体の中で,気の合う仲間を見つけることができる仕組みになっているという。
 筆者は30分という短い時間の中で,相手の魅力を見いだすと同時に,個性や好みも考慮して本を紹介していく。初対面の相手にもかかわらず,複数の本を紹介する筆者の力量には,脱帽するばかりだ。相手の気持ちに寄り添う本,人生の支えになるような本を紹介したいという筆者の一途な思いが行間から伝わり,私自身はこれまで,筆者ほどの情熱を持って本を紹介できただろうかと,自問せずにはいられなかった。
 本を通して交流を深めること,それは,「受賞作」や「ベストセラー」といった「肩書」だけでは表現し尽くせない魅力を,自身の肉声で語った時にはじめて実現できることだと思う。筆者の熱いメッセージを胸に,私も自分の言葉で,本の魅力を多くの人と分かち合えるようになりたい…そのような思いにかられた1冊である。

(山成亜樹子:神奈川県立図書館)
 

「若者」をやめて,「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

熊代亨著 イースト・プレス 2018 ¥1,500(税別)

 「子ども」と「大人」,その違いはよくわかる。しかし,それが「若者」と「大人」となるとどうだろうか。年齢や言動,体格など「子ども」と「大人」の違いを明確にしえた指標では,一概に両者の違いは測りきれない。境界線もあいまいだ。なにが「若者」を「若者」たらしめ,なにが「大人」を「大人」たらしめるのか。そもそも「若者」には“やめる”必要が,「大人」には“はじめる”必然があるのだろうか。
 「『なんにでもなれる』感覚が『大人』を遠ざける」(p.63)と筆者は本著で語っている。「完成された何者か」になるべく,「若者」はあれでもない,これでもないと自己探求に野心を燃やし,「若者」の延長に励む。「気が付いたらもう“いい齢”」(帯)と自らの加齢を実感してもなお,揺るがないアイデンティティを確立させずして「大人」にはなれない,と「大人」になることへのハードルを自ら高く引き上げる。そして,さらなる成長を自身に期待し,「若者」を続投する。
 筆者はそんな「若者」をやめられない「“いい齢”の若者」の心理的背景に接近し,彼らが抱える困難に寄り添う。そして,「大人」という社会的存在が背負う,責任や使命の重たい面だけを意識する彼らにこう「大人」をプレゼンする。「『大人』になるのもそんなに悪いものじゃないし,これはこれで面白い境地ですよ」(p.8)。「大人」をひき受けなければ味わうことのできない幸福の可能性を示唆する提言の数々は力強く,優しい。
 筆者が「成熟困難時代」と呼ぶ現代にはさまざまな課題がある。「大人」の担い手の減少が一因となっている問題も少なくないだろう。自分自身について自覚的になるべく,一度まっさらな鏡を見つめてみることこそが,私には「大人」をはじめる一歩に思えてならない。

(松倉彩実:八戸市立図書館)
 

100歳の美しい脳 アルツハイマー病解明に手をさしのべた修道女たち

(本書は「普及版」です。)
デヴィッド・スノウドン著 藤井留美訳 DHC 2018 ¥1,600(税別)

 国際アルツハイマー病協会は「世界アルツハイマー病レポート2015」の中で,2050年には2015年発表当時の3倍,1億3150万人が認知症になると予測している。
 認知症の研究は世界中で行われており,中でも,1986年から始まり現在も進行中の「ナン・スタディ」はとても興味深い。ナンとは修道女を意味する英語で,同じ食事をし,同じ活動をして,共に起き,共に寝る,規則正しい生活を繰り返す修道女678名を対象に,加齢とアルツハイマー病について調べ続けているのである。参加者は75歳から106歳までで,定期的に身体能力と精神能力の詳しい検査を受ける。そして亡くなったあとには脳を取り出して解剖することにも同意している。つまり,修道女たちの献身的な協力によってはじめて為し得る研究なのだ。
 かつてないこの長期にわたる研究で,これまでの通説の数々がどう変わるのか(もしくは変わらないのか),認知症に大きく関与する遺伝子を保有し,脳に変化が表れても,認知機能が衰えない人,その違いは何かが明らかになってくるだろう。
 人は誰しも,ただただ長生きがしたいわけではない。本を読み,旅行へ行き,考え,表現し,食事も排泄も人の手を借りずに行い,大切な人たちと離れることなく生きていきたい。生きることに純粋で前向きな修道女たちの人生がヒントを与えてくれるかもしれない。ナン・スタディを行う研究者によるこの本は,認知症の家族の在宅介護を経験し,自分も病気をした私に,ふとしたとき,健やかに老いることの意味を考えさせてくれる。
 ナン・スタディのモットーは「最後まで人生を生きられますように」(p.19)。そこには,科学的な研究ではあるが,数値では表せない想いが影響していることは間違いない。

(大石美和子:秋田市立新屋図書館)

思うは招く 自分たちの力で最高のロケットを作る!

植松努著 宝島社 2016 ¥1,200(税別)

 人口1万人の過疎化が進むまち・北海道赤平市にある植松電機は,従業員18名の小さな町工場で,宇宙開発という大きな夢のある仕事をしている。ロケットエンジンや人工衛星を製作したり,無重力施設まで備えている。あのNASAやJAXAからも,この会社を訪れ職場見学をしていくというのだから驚きである。著者の夢は「どうせ無理」という言葉をなくすこと。自信を砕き,夢を奪うこの一言を,自分自身が何度も大人たちから投げかけられてきたからこそ,諦めなければ宇宙開発ですら実現できるということを伝えたかったのだ。
 可能性を信じ続け,未来をつかんだ人の言葉は説得力と重みがある。見開きの頁ごとに読者を応援し背中を押してくれる言葉が綴られており,特に私が心に残った言葉は「大事なのは,できるか,できないかで『選ぶ』のではなく,やりたいか,すべきかを『考える』ことです」(p.96)である。図書館に置き換えるならば,予算がないから,人がいないからと,とかくできない言い訳を探しがちであるが,どうやったらできるかを考える方が前向きで良い結果を生むのではないだろうか。「きっとできる!!」そう信じることから,何かが生まれるのである。また,この本の内容はインプットするだけではなく,ぜひアウトプットすることをお勧めしたい。勇気を持って一歩を踏み出すことが夢の実現につながる最善の方法である。人口規模も運営体制も違う全国の図書館が,それぞれの館の個性を生かし,やりたいこと,すべきことを考えて,スタッフ一人一人の心から「どうせ無理」を払拭できたなら,これほど目覚ましい図書館活動の改革や推進はないだろう。
 これからの未来を担う子どもたちや若者はもちろんのこと,もう夢など見るのを忘れてしまった大人にこそ読んでもらいたい。「思うは招く」の題名にすべてが込められている。

(深村清美:滝川市立図書館)

私とは何か 「個人」から「分人」へ

平野啓一郎著 講談社(講談社現代新書) 2012 ¥740(税別)

 我々は,いろんな人と共に生きている。自室を出れば家族,家を出ればご近所さん,電車に乗って,次は学校や職場…。それらの場所で,すべて同じ「顔」で過ごすわけがない。その場にふさわしい人物として,意識的に,無意識的に,その場の「自分」を振舞っている。
 本書は,そんなさまざまな「自分」を肯定し,生きやすくしてくれる。まず,所謂この「キャラ分け」に「分人」という名前が付いている。タイトルの造語である。その複数の「分人」の構成比率によって「自分」は決定しており,対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて「本当の自分」である,と著者は言う。例えば愛することも,「その人といるときの自分の分人が好き」という状態 (p.136)であり,好きな人との「分人」は,やはり生きやすく心地よいものとなる。逆に,いけ好かない人とは嫌な「分人」が生じる。すべて自分との交渉によって生じたものであるから,己を省みる材料となる。自己分析に余念がない思春期にうってつけの本である。
 さらに,「分人化」は故人にも,本や画面の中の人物にも当てはまる。亡くなった親族との「分人」を大切に取っておけば,より故人とつながった感覚で遺影に語りかけられるし,影響を受けたあの登場人物からの鼓舞だと思うことで,その「分人」は新しい一歩を踏み出すことも可能だ。顔色を気にせざるを得ない,リアルな誰かに出しづらい「分人」は,二次元で解消可能。個人的には,神やAIとの「分人化」が今後非常に気になる。ともかく,所蔵冊数分の友人が期待できる図書館は一層心地よい場所になること間違いなしである。
 この本自体も,読んだ人の「分人」となり,その構成比率に影響を与えうるだろう。「分人」分析に加え,著者の過去執筆作とリンクさせて話は進むので,一作家の軌跡としても楽しめる本である。

(村上祐子:奈良育英中学校・高等学校図書館)

胃袋の近代 食と人びとの日常史

湯澤規子著 名古屋大学出版会 2018 ¥3,600(税別)

 石垣りんの詩が好きである。当館の名誉館長である新川和江の詩ももちろん好きである。両詩人とも市井の視座から言葉を紡ぎ,人間味の溢れる詩として結実させている点が特に好きなのだろう。
 本書のあとがき,著者は石垣の詩「くらし」を引いている。「人間にとって,最も重要かつ日々逃れられない性の一つである」(p.321)食べることを丹念にとらえた詩である。本書を読後,人びとの暮らしの本質は生きることであり,同時に食べることであることを改めて意識した。
 特に「食と都市化」が書かれた第1章「一膳飯屋と都市」が興味深い。以下は,林芙美子の自伝的小説『放浪記』に描かれる大正期の新宿における一膳飯屋の風景である。
 十銭玉を握りしめたドロドロに汚れた服装の年恰好四〇前後の出稼ぎ労働者に対し,大きな飯丼,葱と小間切れの肉豆腐,濁った味噌汁が十五,六歳の女中により提供される。「労働者にこれだけの量で足りるのだろうか」。そのように見ていた「私」であるが,私とて広島・尾道から一人で出てきたカフェーの女給である。
 この登場人物3人はみな,それぞれ東京で働き,自らの胃袋を自らによって「満たす必要がある人びと」(p.22)であり,こうした人びとが集まる場所が「一膳飯屋」という社会システムだったのだろう。
 翻って,現今,食事を取り巻く「こしょく」(孤食・固食・個食など)環境があり,打開策のひとつとして「子ども食堂」の取り組みが注目されていることも興味深い。
 なお,著者には,『在来産業と家族の地域史』(古今書院 2009)という結城紬生産における家族の役割についての著作もある。本書第3章以降の理解につながるため,本書との併読をおすすめしたい。

(長谷川拓哉:ゆうき図書館,日本図書館協会認定司書第1140号)

ふわとろ SIZZLE WORD「おいしい」言葉の使い方

B・M・FTことばラボ編 B・M・FT出版部 2016 ¥1,800(税別)

 あなたはどんな食べ物が好きだろうか? ふんわり? とろーり? なめらか? パリパリ? もちもち? おいしいというのは人それぞれ。それを隅々まで言葉にしたことがあるだろうか? この本は食べたくなる,思わずそそられる描写「シズル」の探求本。そもそも私たちは「おいしい」をどうやって感じているのだろう? 主に味覚と目でとらえる視覚,その後,香ばしい香りの嗅覚や食感の触覚そして聴覚が続く気がする。食べるということは生まれながらに備わっている行為で何気なくて自然だ。これからお米を食べるぞ。全身で味を感じるぞと構える行為ではない。
 しかし「おいしい」をつくるプロ目線で考えたらそれはガラリと変わる。本書に登場するプロの方々は食べる人が「おいしい」と感じるよう秒単位,ミリ単位,グラム単位で調整を行う。きっちり数値に落とし込む。経験値で仕上がりをそろえる。プロの研鑽があってこそ洗練された味が生まれることが改めてわかる。
 「おいしい」言葉を考えるという章では6名の専門家の分析が繰り広げられる。キャッチーな雰囲気のこの本で論文調の考察が読めるとは。参考文献が豊富に載っているのも嬉しい。気になるポイントから世界を広げることができるのだ。
 また別の章では「おいしい」目線の映画と本の世界の考察。食べ物起点で見たくなる映画や読みたくなる本にきっと出会える。最後にはシズルワードの字引き。これほど多角的に「おいしい」が詰まっている本がかつてあったであろうか? この本が生まれたのは筆者がマーケティングリサーチ会社を経営しているからこそであろう。15人が語り,5人が書いて,10人で作った本である。まさに「おいしい」がバラエティに富んでいる。あなたも「おいしい」言葉の世界にでかけてみてはいかがだろうか?

(今井つかさ:厚木市立中央図書館)
 

ごみ収集という仕事 清掃車に乗って考えた地方自治

藤井誠一郎著 コモンズ 2018 ¥2,200(税別)

 私たちは日々生活する中で,さまざまなごみを出し続けている。普段何気なくごみを集積所に出しているが,誰もが利用するサービスでありながら,ごみ収集の現場がどのようなものか詳しく知る人は少ないだろう。
 本書は,自治労の「次世代を担う研究者」に採用された著者が,なかなか表舞台には上がってこない清掃行政に注目し,特にごみ収集に焦点を当て,地方自治のあり方を問う一冊だ。「現場主義」を貫き,9か月間にわたり,新宿区内のごみ収集の現場に入った著者は,ごみ収集を中心に清掃指導や環境学習などを体験する。その中で,清掃職員は実に多様な業務を担い,危険と隣り合わせの過酷な収集現場を受け持つことを知る。また,清掃職員と共に働く中で,職員の信念や地域住民への配慮,職員同士の団結力といった細かな様子が語られる。スムーズに進む清掃業務の裏には,一朝一夕では身につかない清掃職員の技術があり,それは今や公共の財産となっている。
 民間委託の問題は,地方自治のあり方を考える本書の第二のテーマだ。収集の経験や住民への説明対応,そこから培われる専門知など,これまで潜在的に享受していた現業職員の人的恩恵をどのように維持していくかが大きく問われる。本来収集業務と清掃指導業務が密接に関係しあい,サービスが向上していくはずが,現在の委託化の仕組みでは,両者が分断され,サービスの質の低下を招きかねないと著者は危惧している。
 決して表には表れない“見えない”所での業務について,実際に現場に入りリアリティをもって報告した本書は,現場からの声を継続的に発信することが周囲の理解を生み,よき地方自治の担い手を育てることを身近な視点から教えてくれる。私たちも可視化や実態を伝え続ける努力を忘れずに業務にあたりたい。

(遠藤桂花:山形県大石田町立図書館)
 

絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか

更科功著 NHK出版(NHK出版新書) 2018 ¥820(税別)

 現在,世界に人類は「ホモ・サピエンス」しかいない。チンパンジーと共通の祖先から分化して700万年の間にわかっているだけで25種もの人類がいたが,すべて絶滅してしまったのだ。この本はこの700万年の人類の歴史を,最前線の研究をもとに素人でも大変わかりやすく書いてある。
 人間は現在地球を制覇している。環境問題を引き起こし,他の生物を絶滅に追いやるほどの傍若無人ぶりだ。しかし,誕生したころの人類はひどくひ弱な存在だったらしい。豊かな森にいれば,捕食動物もおらず,果物などの食料も豊富だった。でも,気候が乾燥化して森林が減った時,他の類人猿ほど木登りがうまくない人類は,森を追われ,疎林という危険な場所で生活せざるを得なくなってしまったのだ。そこで人類は「直立二足歩行」への道を歩んでいくのである。「直立二足歩行」へと進化を遂げたのは地球の長い生命史の中で後にも先にも人類だけなのだそうだ。なぜなら,「直立二足歩行」には,捕食者に見つかりやすい,走るのが遅いなどデメリットがあったからだ。それなのに,なぜ人類は「直立二足歩行」になったのか? メリットはあるのか? なぜこの弱っちい動物が地球を制覇することなどできたのか? 発掘された骨や石器,現在のヒトや類人猿のデータなどから仮説をたて類推していく過程はまるで,推理小説を読んでいるような面白さがある。
 そして,意外だったのが,人類は本来仲間と争うことを好まない「平和な生物」なのだということ。「血塗られた歴史」は人間の本性ではなかったのだ! 「人間は一人では生きていけない」とはよく言われることだが,人類の進化の歴史を考えると「なるほど」と納得できた。私のように「理系」の本は少々苦手な人でも一気に読める本だ。数々の偶然と運も重なった,人類進化の歴史は本当に面白い。

(関根真理:東京都立大江戸高等学校学校司書)
 

世界を変えた100の化石 大英自然史博物館シリーズ1

ポール・D・テイラー,アーロン・オデア著 真鍋真監修 的場知之訳 エクスナレッジ 2018 ¥1,800(税別)

 今夏の暑さは異常であった。「命に関わる」という言葉を耳にするたび,暗い疑問が頭をよぎった。温暖化の進行によって,いずれ人類は滅びてしまうのではないだろうか,と。
 けれども,大規模な気候変動は,地球の長い歴史から見れば決して珍しいことではない。化石は昔の地球の姿や,そこで起こった出来事を教えてくれる物言わぬ証人である。化石を調べることで,地球という一つの生命体が,はるか昔から寒冷化と温暖化を繰り返してきたこと,そうした環境の変化を背景に,生物たちが進化と絶滅のドラマを繰り広げてきたことがわかる。
 この本は,大英自然史博物館のコレクションを中心に,微生物から始祖鳥,人類の祖先にいたるまで,生命史の節目を語る100の化石を紹介した本である。著者は同博物館の学芸員と古生物学者。美しい化石の写真とともに,その生物がどのように誕生し,滅んでいったのか,ウイットに富んだ解説で楽しませてくれる。また,時系列にそって化石が並んでいるため,ページをめくるごとに生命進化のドラマが目の前に繰り広げられるようである。たった一つの化石が,生命史の穴を埋める重要なミッシングリンクとなることもあれば,これまで信じられてきた常識を覆してしまうこともある。この本を読むと,生物の世界には絶対的な真理や常識など存在しないのだと感じさせられる。
 さて,地球上に誕生した99%の生物種はすでに絶滅しているが,何億年も形を変えずに生き続けているカブトガニのようなものもいる。著者はその形態の完全性を,「壊れていないものは直すな」という英語のことわざで表現している(p.113)。果たして人類は壊れているのかいないのか。数百万年後には,答えが出ているかもしれない。

 

健康・医療の情報を読み解く 健康情報学への招待 第2版

中山健夫著 丸善出版 2014 ¥2,000(税別)

 「失って初めて健康のありがたみがわかった」とはよく聞く言葉だが,普段,健康を意識して生活している人はどれくらいいるだろうか。健康とは,身体的,精神的,社会的に満たされた状態のことであり,その情報を読み解く力を「ヘルスリテラシー」と呼ぶ。日本人のヘルスリテラシーは他国に比べ低いことが複数の調査結果で示されているが,海外では幼児からヘルスリテラシー教育を実施している国も多い。健康・医療情報は最も身近なものであるにもかかわらず,日本においては敷居の高いものになってしまっている。ヘルスリテラシーには,具体的に健康・医療情報の「入手」「理解」「評価」「活用」などのスキルが必要で,本書はその習得の一助となるものである。
 医療・健康情報にはエビデンス(根拠)が必要とされ,それを見極めるには,統計学,疫学などの知識が必要となる。既に難解な言葉が並び,拒否反応が出る方もあるかもしれないが,著者は身近な例を挙げ,専門知識を意識せずに情報の見方,判断の仕方をわかりやすく解説している。例えば,「胃がんの原因となる食べ物について調べたところ,唯一全員が食べていた物は米であった。よって米は胃がんの原因と考えられる。この推論の落とし穴は何か」など,読むことで自然と考え方を学べる流れになっている。
 ヘルスリテラシーを身につけ,より質の高い情報を入手できるようになることで,健康の維持,病気の予防・治療などについての意思決定を助け,生活の質の向上に役立てることができる。健康に不安があり,雑誌やテレビの広告が気になっている方にこそ,本書を手に取っていただきたい。ポイントは「きちんと疑うこと」で,「ものの『疑い方』を学ぶことは,その『信じ方』を学ぶことでもある」(p.191)という言葉が,ヘルスリテラシーの本質を表している。

(川崎かおる:岩手医科大学附属図書館)
 

オムライスの秘密メロンパンの謎 人気メニュー誕生ものがたり

澁川祐子著 新潮社(新潮文庫) 2017 ¥590(税別)

 最初に,この本は『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社,2013年)の改題であることをお断りしておく。
 この本の目次には「カレー」や「生姜焼き」など,日本人なら誰もが一度は口にしたことのある料理が表題を含めて28種類ほど並んでいる。著者は,それらがいかにして日本に流入し,そして今の形に定まっていったかを,俗説を交えつつ,資料の裏付けをもってそのルーツにたどり着こうと挑んでいる。
 たとえば「クリームシチュー」の項目を見てみると,著者はまずシチューの歴史から紐解こうとするが,しかし資料がほとんどないことで早々に行き詰まる。そこで,料理を食材にまで巻き戻し,牛乳の普及の視点から到達を試みる。さらに世界の類似料理へと目を向け,最終的に日本独自の料理ではないかという結論に至っている。では,日本でクリームシチューが広まった理由は…一つの答えが次の疑問へとつながり,真相へと迫っていく。
 巻末には11ページにわたる<参考文献>が列記されている。源流にたどり着こうと奮闘する著者の姿勢に,執念すら感じてしまうのは私だけだろうか。感服せずにはいられない。同時に,日々少しずつ変化していく庶民文化を記録しておくことの大切さと難しさにも気付かされる。
 食そのものの魅力もさることながら,取り入れたものを独自に消化し,アレンジを加えて発展させるという日本人の発想力のすばらしさを,改めて感じられる1冊である。
 ところで,表題にある「メロンパン」だが,実は形も内容もまったく違う2種類のパンが存在することをご存知だろうか。その謎と正体についてもこの本で明らかにされているので,ぜひご自身の目で確かめていただきたい。

(髙井 陽:新宿区立こども図書館)
 

「ういろう」にみる小田原 早雲公とともに城下町をつくった老舗

深野彰編著 新評論 2016 ¥1,800(税別)

 本書は小田原の老舗「ういろう」の歴史を軸に小田原の文化を描き出し,これからの小田原のまちづくりを考えていこうというものである。
 「ういろう」と聞いて何を思い浮かべるであろうか。歌舞伎,お菓子,でも小田原?とお思いの方も多いかもしれない。
 時代を遡ること室町時代。元王朝の高官であった陳延祐が明王朝への交代期に亡命,博多に居を構え,中国での役職名をとって「外郎(ういろう)」と名乗った。以来歌舞伎十八番「外郎売」で知られる薬の「ういろう」と,もともとは外郎家が客人をもてなすために作ったお菓子「ういろう」を扱ってきたのである。
 外郎家は大陸から博多へ渡り,その後室町幕府の招聘に応じ京へ,そして北条早雲に招かれ小田原へ移る。この歴史をたどると,その時代の大陸や各地の交易,文化,政策など,違った角度から歴史を楽しむことができる。
 また外郎家は,家業を継承していく上で,地域や文化とのつながりを大切にしている。優れた医薬と各地とのつながり,知識を生かし地域に貢献してきた。650年も続いてきた外郎家の秘密が,これからのまちづくり,文化の継承をどうしていくかという問題のヒントになるかもしれない。
 外郎武氏は今後のまちづくりとは「人をつなげる場,創造を培う場,それを世界に披露する場,これらの場づくりを市民が行っていくこと」(p.294)だと言う。地域の人々が集い縁を結んでいく中で,地域の伝統を守りつつ,新たな要素を加え次へ伝えていく。地域に根ざした図書館や,それをサポートする市民の活動にも通じるものではないだろうか。
 小田原のういろうから図書館にも思いを馳せられる1冊。「ういらうはいらつしやりませぬか。」(「外郎売」より)

(高橋彰子:神奈川県大磯町立図書館)
 

清張鉄道1万3500キロ

赤塚隆二著 文藝春秋 2017 ¥1,500(税別)

 「登場人物の足跡を辿ってみたい」。松本清張以上に,この衝動を掻き立てる作家を私は知らない。そして登場人物のほとんどが鉄道に乗車する。
 「では一体,作中の鉄道乗車場面はどのくらいあるのか。誰がどこの路線に乗ったのか。それらの総計距離はどれくらいになるのだろうか」(「清張と鉄道」展図録,p.8)。清張ファンの誰もが抱くその疑問に取り組んだのが,本書の著者の赤塚隆二氏である。
 氏は清張作品中,登場人物たちが鉄道乗車する場面をことごとく拾い出し,そのうちから最初に登場した線区・駅間を抽出(本書では「初乗り」と呼ぶ)し,登場人物が乗った駅,降りた駅,その間のキロ数を一覧性のある表と地図にまとめた。そして「初乗り」が登場するのが100作品,総計距離が1万3551.8kmであることを示したのである。清張作品と鉄道との親和性は常に語られてきたが,このような網羅的な研究成果を示したのは氏が初めてだろう。本書は,その一覧表と地図を資料として掲載し,さらに登場作品を氏の独自の視点で時代区分し,鉄道乗車場面を中心に,作品発表順に解題したものである。
 本書の魅力は,資料的価値はもちろんのこと,秀逸な鉄道シーンの抜き取りと,それに付した氏の絶妙な一文。清張がそこに託した,日本の風景,社会の断面,懸命に生きる人々の姿が浮かび上がってくる。既読の書は再読,未読の書は一読へ,そして登場人物の足跡を辿る旅へと誘う格好の清張ブックガイド。ぜひ清張作品と一緒に棚に並べてほしい。
 氏のこの研究は,2015年に北九州市立松本清張記念館が主催する「第17回松本清張研究奨励事業」に入選し,2017年に同館が企画展「清張と鉄道-時代を見つめて 小倉発1万3500キロ」を開催したことも付記しておきたい。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校)
 

中谷宇吉郎随筆集

樋口敬二編 岩波書店(岩波文庫) 1988 ¥850(税別)

 この本のここに書いてあった本を読みたくなって読むと,また次の読みたい本が見つかるというような,読書のあやとりというかしりとりというか,そんな経験は,本好きの人ならきっとあることだろう。
 今回の最初の一投は,科学書を読み解いていく高野文子著『ドミトリーともきんす』(中央公論新社 2014)だった。漫画だと思って気軽に借りたら意外に難しく,それでも,紹介されていた中谷宇吉郎の随筆「簪を挿した蛇」に少し興味を惹かれたので,『中谷宇吉郎随筆集』に進んでみた。
 不勉強なもので,中谷宇吉郎という人を初めて知った。雪の研究で有名な物理学者で,東京帝国大学で寺田寅彦に師事した人だそうだ。寺田寅彦も読んだことがなかったわたしは,「天災は忘れた頃に来る」という言葉は寅彦の言っていたことだというのを,これで知った。
 窓ガラスが割れて雪まじりの冷たい風が吹き込む汽車で,乗り合わせた客が「戦争に敗けたんだから仕方がない」とつぶやいた話を導入に,なんでも敗戦のせいにする風潮に異をとなえ,今の困難はわれわれ自身がもたらしたものであるという自覚をうながす「硝子を破る者」など,心に響く文章が多くあった。「簪を挿した蛇」も,全体を読むと先の本に引用されていた部分がずいぶん違う印象になった。なかでももっとも心に残ったのは,「線香の火」という短文だ。地方の高校に赴任してゆく卒業生たちに,研究を続けることが大切なのだから「線香の火を消さないように」という言葉を贈っていた師・寺田寅彦を回想して,中谷は「現在の日本の研究費および施設は,世界での『地方の高等学校』である。それなればこそ,われわれは線香の火を消してはならないのである。」(p.275)と書く。――それから60年余り,今の“日本の研究費および施設”はどうだろう。
 さて次は。寺田寅彦を読んでみようと思う。

(小野 桂:神奈川県立川崎図書館)

描かれたザビエルと戦国日本 西欧画家のアジア認識

鹿毛敏夫編 勉誠出版 2017 ¥2,800(税別)

 ザビエルときいて最初に思い浮かべるのは胸の上で手を交差させ少し上を向いている肖像画ではないだろうか。恥ずかしながらカトリック学校に勤めるまで私はこれくらいの印象しかなかった。
 この肖像画は17世紀初めに描かれた「聖フランシスコ・ザビエル」という作品で神戸市立博物館に所蔵され重要文化財である。ザビエルの手元にあるハートは「燃え上がる心臓」であり煉獄からの救済を暗示しているのだとこの本で知った。
 Ⅰ章では17世紀初頭ポルトガル人画家アンドレ・レイノーゾとその工房による20点の連作油彩画が解説されている。イエズス会の誕生の場面から布教のため出帆し航海の様子,インドを経て日本での活動,中国で亡くなるまでを描いており,ザビエルの生涯を追うことができる。この中で日本を描いているのは3点あるが,かろうじて和服にみえる着衣の他は建物は完全に西洋風で,喜望峰を回る航海ルートが確立され既に交易をしていたインドに比べると正確に認識していなかったように判読できる。
 Ⅱ章以降はザビエルの出身地のバスク地方の歴史,日本での大名との面会,ザビエルが去った後の豊後国府内(現在の大分市)で教会・育児院・病院が設立されるなどキリスト教の発展,ポルトガル人による東南アジア・中国への海上貿易,宗教画についてとさまざまな視点で語られる。B5サイズで図版も大きくカラーで掲載されとても見やすい。これまでの先行研究にも言及しており導入的な1冊としても読める。世界史・日本史・美術史・宗教史と点々としていた知識が改めて編まれつながっていくように感じた。
 今年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。ザビエルが日本に滞在したのは戦国時代後期1549年からわずか2年3か月だったが信仰は確かに根付いている。

(中村知美:栄光学園中学高等学校図書館)

外国人労働者受け入れと日本語教育

田尻英三編 ひつじ書房 2017 ¥1,700(税別)

 私の家は道路に面していて,窓を開けていると道を行くひとびとの声が聞こえる。子どもや若者,年配の方,時々猫の声もする。聞こえる言葉も日本語だけではない。中国語やポルトガル語,どこの言葉かわからない言葉。もう何年も前からすっかり日常となっている。
 厚生労働省が公表している「外国人雇用状況」によると,2017年10月現在の在留外国人労働者数は1,278,670人である。この数は年々増加している(滞在者数は200万人を優に超える)。「外国人が増加している」という表現は「自然に増えてきている」ととらえてしまいかねないが,国の施策として日本で働く外国人を増加させていることに加えて,外国人受け入れ施策がダイナミックに進んでいることが本書を読むととてもよくわかる。施策が推進される一方,いろいろな問題も存在している。
 本書では特に日本語教育の施策が遅れをとっていることに焦点を当て,日本語教育関係の研究者など9名がさまざまな側面から提言を行っている。編者の田尻英三氏は「2014年の日本再興戦略以来,新たな外国人労働者の受け入れ施策が作られたが,相変わらず彼らに対する日本語教育は,ほとんど具体的な施策はないままである。」(p.iii)と書く。
 私は自分の住む市の国際交流協会の日本語教室ボランティアをしているが,いろいろな立場で働く多くの外国人にボランティアという立場で教えることの限界を感じている。この点について田尻氏は「その地域の行政機関が日本語ボランティアを支援する体制を国家レベルで作成すべき」(p.70)と提案している。
 超党派の「日本語教育推進議員連盟」が「日本語教育推進基本法(仮称)」を議員立法で制定しようとしている。外国人労働者を「人材」としてだけではなく共に日本に住むひとびととして受け入れるには日本語教育の整備はもっとなされるべきだ。日本語教育関係者たちのそう望む声を本書は知らせてくれる。

(村上由美子:田原市図書館)

社会学への招待

ピーター・L・バーガー著 水野節夫,村山研一訳 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 2017  ¥1,200(税別)

 「社会のことを学びたい」との動機から,社会学という学問領域に立ち入る間違いをしてしまうことがある(実は私もその一人)。社会諸科学の一つとして社会学があるという分類上の位置付けを理解せず,「学校の勉強なら社会が好き」といった感覚程度でこの学問を学ぼうとするなら,たちまち選択の誤りに気付くこととなる。そのような招かざる初学者にさえ,「社会」を研究対象とする学問の意義と方法論を魅力的に語りかけ,社会学という知的ゲームへ招待してくれるのが本書である。幾度も版を重ね,既に古典の域にあるが,文庫本となったのを機にあらためて紹介したい。
 社会学が対象とする「社会」とは何か。本書はこのことに数章を割き,古典理論を紐解きながら方法論の枠組みを読者に与える。ごく簡単に論を切り取れば,「社会」とは,客観的事実として存在する「もの」(外的強制)であり,内面化されたアイデンティティや思想(内的強制)であり,また,人々が内的,外的強制に縛られながらも,選択的に役割を演じることで成り立つ不安定なドラマである。これらのモデルは学問上の異なるアプローチによるものであるが,いずれにせよ社会学においては,マックス・ウェーバーの「価値自由」の伝統に従い,対象を純粋に知覚しようとする。
 この学問的営みに対しては,「無神経でどっちつかず傍観者」とのイメージがつきまとうが,本書は社会学の人間学的な意義にも迫る。それは,「社会」を認識するという行為にこそ,「自由への第一歩」があるとする慎重な結論に端的に表れる。
 社会学の冷徹なまなざしは,「社会」を言語化し,時に鮮やかに相対化してみせる。知は無知より,あらゆる意味で可能性をもたらすと考えるなら,社会学は多様性の強力な味方となりうると信じる。基本書として推薦したい。

(鈴木章生:オーテピア高知図書館(高知県立図書館))

名画の中の料理

メアリー・アン・カウズ著 富原まさ江訳 エクスナレッジ 2018 ¥2,200(税別)

 皿に美しく盛り付けられた料理は,キャンバスに描かれた絵画のようだ。この本はまさにそんな一冊である。
 書名から,名画に描かれている料理を解説した本だと思いきや,そうではない。有名なものから無名のものまで,料理に関するさまざまな絵画やレシピだけではなく写真や日記,詩や散文からの引用なども紹介されている。
 例えば,マネの絵「アスパラガスの束」にはプルースト著『失われた時を求めて』からの引用と,画家ジョージア・オキーフによるワイルドアスパラガスのレシピが添えられている。セザンヌの「3個の梨」にはセザンヌ自身の梨のデザートレシピ,マネの「レモン」はチリの詩人パブロ・ネルーダの詩と共に載せられている。
 天才ピカソやレシピ本を出版するほど料理好きだったというダリの絵画やレシピ,エピソードも多い。
 前菜から始まり,スープ,卵,肉などと続きデザート,飲み物で終わる章立ては,まさにフルコースで料理を味わっているようだ。
 各章の最初で著者が紹介しているエピソードも興味深く,次に続く作品がより楽しめる内容になっている。
 取り上げられている作品は,19世紀から現在までの食べ物にまつわる文学や詩の引用,レシピ,静物画,写真と多岐にわたるが,その組み合わせが絶妙で,読みながら本当に料理をしているような,料理を前にしているような,画家や詩人たちと食事を楽しんでいるような気分になってくる。
 出てくる料理は主にヨーロッパやアメリカの人々にとっての家庭の味であったり,ごちそうであったり,中には日本人である私には想像もつかないようなものもある。気になるレシピに挑戦してみるのもいいかもしれない。

(緒方仁子:福岡県立太宰府高等学校)

コメニウス「世界図絵」の異版本

井ノ口淳三著 追手門学院大学出版会発行 丸善出版発売 2016 ¥2,800(税別)

 「コメニウスは,十七世紀前半の動乱に生まれた天才である」(『児童文学論 下巻』福音館書店 2009 p.96)。児童文学者の瀬田貞二は,コメニウスをこう高く評価した。
 16世紀末のチェコに生まれ,教育者,聖職者などとして生きたコメニウスの78年の生涯は平坦ではなかった。子どもの頃から家族を相次いで失い,異端とされた宗派であったために祖国を追われ,欧州各地を転々とする一生であった。60歳直前のときには全財産を焼き尽くされるという惨劇にもあった。が,その直前に印刷所に届けておいた文書がその後の欧州の教育,児童文化に大きな影響を与えた『世界図絵』の原稿だったのである。
 「コメニウス以前の中世教育は,体罰が教育の方法だと疑いもなく行われていた。それは子どもを性悪説的な観点で捉えていた結果でもある」(工藤左千夫他著『学ぶ力』 岩波書店 2004 p.107)。その時代に,コメニウスは「子どもたちは絵を見ることが好きである。そしてその中から物事を自由に空想し創造する能力をもっている」(『学ぶ力』 p.108)と『世界図絵』の序文で宣言した。これは,子どもの観方を「性悪説」から「性善説」へと根底から転換する画期的な考え方であった。
 『世界図絵』は「18世紀には聖書に次ぐベストセラー(千野栄一)と言われ」(本書 p.4),「コメニウス以降ジョン・ロックやルソー,カント(中略)などを経て,近代教育と児童文化は開花する」(『学ぶ力』 p.108)ほどの潮流を起こした。
 世界初の絵入りの教科書,絵本の始まりという点からもその出版の意義は極めて大きい。
 本書は『世界図絵』以降,各国で出版された270種類以上もの「異版本」の研究書であり,元祖『世界図絵』への論讃である。最初に日本語に翻訳したのが18世紀に薩摩からカムチャッカに漂着した少年ゴンザだったという点も興味深い。

(橋爪千代子:立川市多摩川図書館)

大丈夫,働けます。

成澤俊輔著 ポプラ社 2018 ¥1,400(税別)

 総務省が2018年6月に公表した5月の労働力調査によると,完全失業者数は158万人となっているが,本書の著者によると,“働きづらさ”を抱えている就労困難者は3000万人と考えられている。“働きづらさ”には身体障がい,知的障がい,発達障がいもそうだが,引きこもり,難病,DV被害者や破産者など,理由は多岐にわたる。本書はそんな働きづらさを抱える就労困難者支援をするFDA(Future Dream Achievement)の活動が綴られている。
 第一章では,5人の働きづらさの体験を一部マンガにして説明をしている。気持ちに余裕がないとき,忙しいと感じているときなどは,マンガで書かれているものも図書館利用ではよく好まれるので,程よい構成に感じる。
 第二章ではどんな人や出来事がきっかけで就労困難者になるのか,第三章では,著者の生い立ちに触れている。実は,著者の成澤さんは,網膜色素変性症という病気で視覚障がい者でもある。また,働く過程でうつ病や髄膜脳炎となり,自身も就労困難者となっている。
 FDAではトレーニングを積み重ね,就職をサポートしている。そんな中で著者がくりかえし「大丈夫だよ」と声をかけ,就労困難者も自分ができること・できないことを理解し,会社もそれを理解し受け入れる。そんな相互の関係を築き上げていくことが,長く働き続けられることにつながる。
 仕事にのめりこみすぎてうつ病や双極性障がいになった人など,だれにでも“働きづらさ”を抱えることはありえる社会になっている。正社員になって働いたことのない人が初めて正社員となり,プレッシャーでうつ病になることもあるそうだ。もはや,私たちはこの“働きづらさ”のある社会から目を背けることは出来ない。「大丈夫」と,多様性を受け入れることが必要なのだ。

(村上さつき:大崎市図書館,日本図書館協会認定司書第1089号)

偉大なる失敗 天才科学者たちはどう間違えたか

マリオ・リヴィオ著 千葉敏生訳 早川書房 2015 ¥2,400(税別)

 チャールズ・ダーウィンやアルベルト・アインシュタイン。天才と呼ばれるような科学者たちの偉大な業績と偉大な失敗をご存じだろうか。
 本書はダーウィンから始まり,さまざまな科学者たちの業績と過ちをたどりながら,最後にアインシュタインの過ちを考察している。天才アインシュタインが犯したとされる「最大の過ち」とは何か。一般的には,相対性理論に宇宙定数を導入したこと(後に削除されている)をアインシュタインは「最大の過ち」と悔やんだと言われている。しかし著者は,その逸話に疑問をなげかけている。①最大の過ちの話の出所が,自分の話を盛ることで有名な人物の発表であること。②アインシュタインが残した私信や論文をチェックした所,「最大の過ち」とそれに類する言葉が使われていないこと。この2点から著者は,アインシュタインは宇宙定数を最大の過ちと考えてはいなかったと結論づける。では,最大の過ちとは一体何なのか。ぜひ,本書を読んで確かめてもらいたい。
 彼らの過ちには,私たちでも日常的にやってしまうような過ちが含まれている。業績だけではなく,過ちに着目することによって,天才科学者たちがただの人であったことも伝わってくるので,伝記のように読むこともできるだろう。過ちを丹念に検証するため,著者が文献にあたる様子も本書の読みどころの一つだ。参考文献や原注はもちろん充実している。科学者同士の議論の説明があるので,手紙や発表された論文を利用して,科学者たちが活発な意見を交わしていたことが伝わってくる。自分の関心のある章のみを読むつもりが,ついつい他の章も読みたくなり,最終的には全部読んでしまう。そんな,人に読ませる構成となっている。なお,本書は文庫版も販売されている。選書の際のご参考までに!

(松本佳奈:広島県立図書館)

故宮物語 政治の縮図,文化の象徴を語る90話

野嶋剛著 勉誠出版 2016 ¥2,700(税別)

 旅先としてますます人気上昇中の台湾。雰囲気のよい書店やおいしい料理に気軽に出会える魅力溢れる島である。しかし,九州ほどの大きさの台湾は,「島」なのか,「国」なのか,「中国」なのか,と問われてみると,困惑し口ごもってしまうのが正直なところである。
 本書は,朝日新聞で中華圏報道を重ねた元記者が,東アジア最高峰の博物館・故宮(台北)の長年の取材を通して示す過去から将来にわたる台湾像である。日本という第三者の視点がかえって像をくっきりさせている感がある。王朝継承と歴史の正統を何よりも重視する中華世界において,過去の文明の集積である故宮文物は日本での想像を大きく超える価値があるという。よって,国民党の蒋介石は,日中戦争時,戦禍を避けるため王朝遺産の眠る故宮(北京)から文物を南方に避難させ,終戦後共産党との内戦に敗れるとその一部を台湾へと運び込んだ。結果として文物は北京と台北に分離し,二つの故宮は政治対立の象徴となった。しかし,台湾の成長に加え近年著しい中国の経済成長は,これまでの双方対立に,解決なしの現状維持という解決法をもたらす可能性を感じさせるという。決して予断は許さないが光である。
 ところで,本書を取り上げた隠れた理由は,巻末の故宮(台北)の歴代役職者インタビューで語られる運営方針の変化や職員の意識が,日本の公共図書館を考える上で面白いと感じたからである。政権と故宮が一体であるのは措くが,市民に比べ伝統中華世界重視の気風が強い職員,広くアジアに故宮を位置づけ多元化を目指す民進党時の院長,セールスに長じても文物理解の浅い院長を好まない職員など,単純に割り切れず胸がずきずきする。
 著者の『台湾とは何か』(ちくま新書 2016)を併読すると理解が進み,日本への新たな視点も加わると思う。あわせて小籠包を味わえばさらに理解が深まるに違いない。苦しく,楽しい時間である。

(鈴木崇文:名古屋市山田図書館)

南極建築1957-2016

LIXIL出版発行 2016 ¥1,800(税別)

南極が舞台のアニメ『宇宙よりも遠い場所』を見て,オーロラ,ペンギン,砕氷船…など,今まで知らなかった南極に興味を持ったとしよう。多くの人は,なんとなくの興味だけで終わるのだろうが,そうしたときにこそ,ぜひ図書館の書架を眺めてほしい。「南極の本だ」と手に取った一冊から,興味が広がっていく。
 今回,紹介するのは『南極建築1957-2016』。NDCだと526(各種の建築)に分類されることが多いので,そこに南極の本が置かれているとは,気が付きにくいかもしれない。
 終戦から10数年後に行われた南極での基地建設は手探りで行われた。初期案では円形の建物も考えられていたが,現場からの組み立てやすさの要望もあり四角い形に改められる。建築家・浅田孝はパネルを組み立てる方式を考えた。「日本初のプレファブ建築」とされる。本書には組み立てマニュアルを兼ねた設計図面集の一部も掲載されている。この建物は工芸品と語り継がれた。
 南極には高床式の建物が多い。スノードリフトと呼ばれる雪の吹き溜まりへの対策である。近年は船も大型化し運べる資材も増えた。エコや生活の快適さを考慮した建物が主流で,昭和基地の自然エネルギー棟は,2011年のグッドデザイン賞を受賞した。
 日本以外の南極の基地も写真で紹介されているが,デザイン的にも目を引く建物ばかりで,機能性も含め,国ごとの特色もうかがえる。
 本書は,南極の建築の歴史を軸に,写真,イラスト,解説,証言などでまとめている。多方面から読みやすく書かれているので,ここから関心が広がることもあるだろう。図書館が出会いの場であるのなら,こんな本もあることを知ってもらいたいと感じた。上記のアニメや南極が舞台の映画などを見ても,これまでとは違った楽しみが生まれるだろう。

(高田高史:神奈川県立川崎図書館)

健康格差 あなたの寿命は社会が決める

NHKスペシャル取材班著 講談社(講談社現代新書) 2017 ¥780(税別)

 センセーショナルな題名だ。寿命とは訪れるものではなく,社会から決められるものなのか。
 寿命に影響を及ぼすものとして何を思い浮かべるだろう。例えば生活習慣病やがんであれば,食事と運動などの生活習慣や遺伝的要因と考えるのではないか。そして生活習慣病になるということは,自らの健康管理を怠ったゆえの結果であり,中高年の問題と考えはしないだろうか。
 本書において,30代で糖尿病を発症し寝たきりに近い生活を送らざるを得なくなった女性の例を始め,これは中高年だけではなくすべての世代の問題であり,「所得」「雇用形態」「家族形態」「地域」といった個人の責任のみに帰すことができない要素が寿命に結び付く健康格差となっており,命の格差ともなっていることが示されている。
 テレビ番組の制作過程の取材に大幅な追加取材を加えて執筆された本書は,貧困や健康上の困難を抱えた人,医療者,自治体職員のほか研究者の声を取り上げている。また番組中の「自己責任」か否かについての討論の様子が紹介されており,読者自身がこの問題をどう捉えるのか問われることとなるだろう。いずれにせよ健康格差を自己責任論で切り捨ててみても,結局は自分自身や社会全体に帰ってくるということだけはわかるのだ。
 図書館で働くということは,少なからず超高齢化社会,雇用問題,貧困,社会的孤立といった問題の渦中にいる人々と向き合うことなのだということを忘れてはならない。また,区民全体の野菜摂取量を増加させた足立区の取り組みの成功例や,人々や組織のつながりを「資源」ととらえるソーシャル・キャピタルと健康との関連等が示されており,未来に希望をつなげるために自分自身あるいは職業人としてなすべきことについて,考える一助となるであろう。

(谷口美和:ふじみ野市役所)

捨てられないTシャツ

都築響一編 筑摩書房 2017 ¥2,000(税別)

 本書は,70枚のTシャツとその持ち主の話を連載したメルマガの記事をまとめたものだ。各文章にはTシャツの名前と写真,持ち主の年齢,性別,職業,出身地がそえられる。「ホノルルマラソン 68歳男性 小説家 京都府出身」という具合。プロフィールだけで誰だかわかりそうなプロの書き手も登場するが,9割は一般の人である。
 「私の自慢のTシャツ」というのとはすこし趣が異なる。自分とTシャツとの出会いをあっさり書く人あり,Tシャツの話より自分の生い立ちや恋愛のすったもんだのほうが長い人あり。体型が変わってしまい今では着ることができない,今は寝巻きになっている,たまに取り出してニオイを嗅ぐだけ…だがとにかく捨てられない,そんなTシャツが登場する。
 「まえがき」で本書の編者都築響一は「これはもしかしたら,Tシャツという触媒から生まれた『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』なのかもしれない」(p.12)と書いている。このプロジェクトはポール・オースターがラジオ番組で「作り話のように聞こえる実話」を全米から募ったものだ。集められたのは,この世界のどこかにいる(いた)名もなき他人がこの世界を自分とは違うように生きている(生きた)という話。それだけなのだが妙に残る。ひょんな事で思い出す。捨てられないTシャツというテーマで語られた70人の話も妙に残る。
 排架待ちのブックトラックで本書を見た時に,読んだことはないのに内容を知っていると思った。しばらく考えて,「家の者が,Tシャツが捨てられないとかいう本を読んでいる」という話を知人から少し前に聞いたことを思い出した。いつか,この話を聞いた時に座っていた木の丸椅子のかたさや,ほの暗い部屋の様子とともにふと思い出し,「なんだっけあの本」と探しに行く気がしている。

(上杉朋子:豊中市立岡町図書館,日本図書館協会認定司書第1122号)

歌う鳥のキモチ

石塚徹著 山と溪谷社 2017 ¥1,400(税別)

 鳥の声は2種類に分けられる,と聞いてすんなりと頷くことの出来る人は,余程の鳥好きに違いない。一つは「さえずり(歌)」で,繁殖にかかわる比較的複雑な声のことである。主に幼鳥時代に学習によって獲得するもので,ウグイスの「ホーホケキョ」が代表的な例である。多くの種類はオスだけが歌う。もう一つは「地鳴き(普段の声)」で,オスもメスも発声する。身の危険を知らせる,など本能的に発せられる声のことである。本書は主にクロツグミの「さえずり」に言及している。
 まず,鳥の種類によって持ち歌のレパートリーがあることを地道な観察によって突き止めている。さらには,さえずっているオスが独身なのか,既婚者なのかを,その歌のレパートリーと回数,鳴く時間帯で区別することもできる。「さえずり」は遺伝ではないため,環境によって持ち歌にアレンジを加え,変化させることがあることも証明している。そこには,一羽につき100回以上の鳴き声を録音し,一回一回の声紋を分析し,鳴き方の特長をひとつひとつ書き出してカウントするという,地道で膨大なデータ解析から成る裏付けがある。そのため,著者は山林で出会うクロツグミを,声だけでどの個体かを聞き分けることもできる。
 その結果著者は,オス鳥たちが自分の遺伝子を後世に残すために,歌を磨き,本来一夫一妻であり育雛に熱心な彼らが,妻の抱卵期に平気で縄張りを越え,近隣のメスに近づく,という事実を発見することになる。既婚メスも自分の遺伝子を残すために,より魅力的な声を持つオスの呼びかけにちゃっかり応じている。オスが二つの巣の間を,それぞれのメスに対して愛の歌を歌いながら行き来しているうちに,二羽のメスの距離が近づきすぎ騒動が勃発,などという修羅場も…。鳥たちの美声は私たちにとっては癒しであるが,その裏には,人間顔負けの命がけのドラマが隠れていることに,思わずにやりとしてしまう。

(鏡 円:東京都府中市立中央図書館)

あやつられ文楽鑑賞

三浦しをん著 ポプラ社 2007 ¥1,600(税別)

 文楽は敷居の高い伝統芸能の一つで,積極的に観劇に行くのは余程好きな人だろうと推測する。私は小学校か中学校かの芸術鑑賞で見たときには文楽というものに違和感しかなかった。生身の人間で演じればいいものを,なぜに人形と義太夫と三味線で演じるのかと。それが大人になり自分の意思で舞台を見ると,なぜか違和感はどこかへ行ってしまった。私も“あやつられ”るように文楽鑑賞にはまりつつある一人だ。
 本書は楽屋取材やしをん流の作品解説で,文楽の魅力を伝えてくれる一冊だ。三味線の鶴澤燕二郎(六世燕三),人形遣いの桐竹勘十郎,義太夫の豊竹咲大夫への楽屋取材を通して芸や伝統,演者の日常や人柄などを垣間見ることができる。
 文楽作品は惚れた腫れたのドラマのような内容や時代物など,江戸時代から庶民が楽しむもの。何百年も前に創作されたのだから,登場人物たちの感覚や発想,行動が今とはまったく違う。それにツッコみつつ,堅苦しく見なくても自由に楽しめばいいというのが著者の語り口調でよくわかる。また,演目には歌舞伎や落語に共通するものもあり,今風にいうメディアミックス。当時の人たちが,文楽で大当たりしたから他の芸能でも取り入れようというノリ。そんな比較も興味深い。
 文楽の魅力について「大夫,三味線,人形が繰りだす芸と技。いきいきした登場人物と,壮大さと深みを備えたストーリー。たまにトンチンカンな言動や思考を見せる登場人物に,「そりゃあないだろ!」とツッコむ楽しさ。(中略)見るひとがそれぞれ,自分だけの楽しみかたを発見できる,間口の広さと奥深さ。それが文楽の魅力ではないだろうか。」(p.263)とある。まさしく舞台を見れば著者の言うとおりだと実感できる。
 文楽の道に邁進する若者たちを描いた同著者の『仏果を得ず』(双葉社 2007)も合せて読むと,本物の舞台も見てみたくなること間違いない。

(金森陽子:大阪信愛学院図書館)

ビブリオテカ 本の景色

潮田登久子著 ウシマオダ発行 幻戯書房発売 2017 ¥8,000(税別)

 本書は,写真家潮田登久子が1995年から撮り続けてきた「本」の写真をまとめたものである。取り上げられているのは,中世ヨーロッパの祈祷書,重厚な革装の稀覯本,近世の和装本から近代の子どもの本までと幅広い。本の置かれた場所も,個人の書斎や図書館の収蔵庫,古書店などさまざまである。著者は,オブジェとしての本だけでなく,本をめぐる環境にも魅せられている。タイトルの「景色」はここから来ているのであろう。
 紹介する際のカテゴリ分けもユニークである。「手稿」や「活字」,部分に注目した「面」「背」「天地と小口」,形態による「豆本」「分厚い本」「痩身」。また内容から見た「日本を旅行する」「美女と美男」,さらには本の行く末について考える「修復」「死亡」など,AからZまで26のテーマのもと,いろいろな本の景色が登場する。次のページに何が現れるのか,わくわくさせられる。
 図書館の特別資料室で整然とならんでいる本もあれば,表紙がボロボロと崩れ角は折れ,形がゆがんで自立しない本もある。蒐集した持ち主を失い雑多にならぶ本,おびただしい付箋がはさまれた辞書,包帯をまかれて書架で修復を待つ本…。モノクロ写真から浮かび上がるのは,本がまとっている,過ごしてきた時間の層だ。そこには不思議な美しさがある。モノとしての本が,どんな場所に収められ,誰に読まれ,大事に引き継がれ,いつの時代の空気を吸って今にいたったのか。本がたどってきた人生を感じさせる。
 日々,多くの本に囲まれて仕事をしていると,個々の本に目が向かなくなることがある。そんなとき,ふいに森から木にピントが移るように,一つ一つの本を慈しみたくなる写真集である。
 前作『みすず書房旧社屋』(ウシマオダ 2016)に続き,本作も高い評価を受け,2018年「土門拳賞」を受賞している。

(神原陽子:埼玉県立久喜図書館)

虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡

小松成美著 幻冬舎 2017 ¥1,300(税別)

 日本のチョークのシェア50%を占める日本理化学工業の取材をまとめた一冊。「ダストレスチョーク」とガラスなどに描き消しできる筆記具「キットパス」が主力商品だ。スポーツ・芸能関係の人物ルポルタージュ等を手掛けてきた著者が,『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著 あさ出版 2008)やテレビ番組で取り上げられているこの会社を,工場,経営者,社員とその家族への取材を通じ,会社の歴史も振り返り紹介する。
 従業員の7割が知的障がい者。大山泰弘会長が社長のときに知的障がい者雇用をスタートさせたのは1960年。経営者は,障がい者が働くための工夫を次々展開していく。作業に必要な道具の改善,各自が設定する1年の目標,個人の特性に合った役割,「6S」活動,10年単位の勤続表彰…。
 「人は仕事をすることで,人の役に立ちます。褒められて,必要とされるからこそ,生きている喜びを感じることができる。(中略)彼らから,働く幸せ,人の役に立つ幸せを教えられたのです。」(p.14)と大山会長は言う。過去には障がい者雇用の取り組みに反発した息子の大山隆久社長も,今は同じ思いでその理念を引き継ぎ経営にあたっている。取材中の2016年7月,相模原殺傷事件が起きる。著者は,この会社に,共に生きるヒントを見いだし,繰り返し「働く幸せ」を伝える。
 褒めることで相手に対し感謝の気持ちを持つことができ,褒められることで自信と責任感が育ち,よい結果が出せる働きをする。できないから責めるより,褒めて褒められて互いに感謝の気持ちを表し認め合えたら,閉塞的な状況が少しはひらけて生きやすくなりそうに思った。
 館内ではチョークと並べて本を紹介してみた。キットパスも使ってみたいと思っている。
 写真は大西暢夫。写真掲載はそう多くはないが,工場で働く従業員の表情を温かくとらえている。

(池沢道子:神奈川県立茅ケ崎北陵高等学校図書館)

牧野富太郎 植物博士の人生図鑑

コロナ・ブックス編集部編 平凡社 2017 ¥1,600(税別)

 社会人になりたての頃,通勤路にある都内の公園の中で,よい香りに包まれる場所があることに気がついた。正体は沈丁花の花だと聞き,その香りが記憶に刻まれた。以来,植物の持つ圧倒的な存在感に心惹かれるようになった。
 図書館や書店で植物の本を眺めることは私の楽しみで,そんな折に出会ったこの本は,日本の植物学に多大な功績を残した牧野富太郎氏の自叙伝である。氏に関する著書は数多く刊行されているが,これはビジュアル版として美しくまとめられた1冊だ。既刊の著書から抜粋した文章を紡ぐかたちで進む本篇は大変読みやすく,緻密で詳細な写生画や植物標本は美術書のように美しい。
 1957年に94歳で亡くなるまで,植物の研究に一生を捧げた牧野氏が収集した植物標本は約40万点といわれ,1,500から1,600種もの新植物を発見している。故郷の高知と東京とを行き来し,さらに全国各地をまわり実地調査を積み重ねて,その地域に根付く植物を解明していった。
 牧野氏は「あるいは草木の精かも知れん」と自身を表現している。植物への果てなき愛が探究心を産み,学び,それが知識となる。知識が人生をどれほど豊かにするか身をもって示している。牧野氏によってこの世に記された多くの植物を,いつでも本で知ることができる私たちは幸せだ。
 図書館員は地域を知らなくては,と言われる。そのために,その地域に根付く植物を知ることも手だてのひとつになるだろう。山や丘陵,花木も街路樹も,花壇の花も,足元の草花も。図鑑などで調べてみよう,そんな気持ちになるはずだ。
 沈丁花の北限が東北南部と知ったとき,秋田での春の彩りには,沈丁花の香りが添えられないことを少し残念に思った。
 巻末には著作目録や略年譜,ゆかりの施設案内があり,牧野氏を深く知りたい人の役に立つ。

(石川靖子:横手市立平鹿図書館)
 

サードプレイス コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

レイ・オルデンバーグ著 忠平美幸訳 みすず書房 2013 ¥4,200(税別)

 昨夏,腰を痛め,半年ほど近所の整骨院に通った。お客さんと整体師さんや,お客さん同士の会話,そして整体師さんのキャラクターが相まって,とても雰囲気がよく,完治した後も通いたいと思ったほどだった。そのようなときに思い出したのが,この本である。
 書名にもなっている「サードプレイス」とは,第1の場である家,第2の場である職場の間にあり,居心地が良く,さまざまな機能を持った場所である。
 この本の構成は,三つに分かれている。第1部は,「サードプレイス」の特徴や機能が解説される。この本で挙げられる機能は,娯楽性から近隣住民を団結させるものなど,数多くあった。第2部では,各国の「サードプレイス」事情について,紹介されている。この本では,イギリスのパブや,フランスのカフェなどが例として挙げられている。
 第3部では,「サードプレイス」の課題を挙げる。この中で筆者は,都市計画等により,空間利用の単機能化が進行していることについて指摘する。そのような場所を「非場所」と呼び,そこではお客さんは,単なるお客さんでいることが求められる。この点については,アメリカに限らず,日本も同様だと思った。一方,「サードプレイス」では,お客さんは,お客さんであると同時に,その場の構成要員としての役割がある。
 近年,にぎわいの創出を目的に,図書館を含む複合施設が作られることが多いが,複数の「非場所」が同じ箱に収められているだけなのではないかと感じた。この本を読むと,本当のにぎわいを創出するとは何か?と考えさせられる。
 地域に根ざす図書館が「サードプレイス」になる可能性は十分にある。そのためにもこの本を一読する価値はあるように思う。

(戸張裕介:調布市立図書館神代分館)

社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話

木村草太,新城カズマ著 光文社(光文社新書) 2018 ¥920(税別)

 SF作家と憲法学者による,タイトルに「物語の力」という本書。帯には「想像力が現実を動かす」とあり,そのどれもがミスマッチな所から興味を惹かれる。SF作家新城氏と憲法学者木村氏の対談で全編構成されている。
 タイトルに「物語」を冠しているので,「物語論」が展開されていくかと思いきや,第1部「法律は物語から生まれる」の中では,対談内容はトランプ現象について,法学の基本とは…等が語られている。現在世界で起こっているトランプ現象や法律学考察が多岐にわたり続き,タイトルにある「物語」は,どこで触れられていくのか?というと,第1部の最終で「ゲームという模擬社会」が語られ,90年代初頭,新城カズマ氏が主催していたRPGゲーム『蓬?学園』の話となる。
 90年代初頭のRPGブームとその運営についての解説は本書に譲り,その中で新城氏が「その時代,インターネットが無くてよかったことは,思考に時間をかけられたこと。」と繰り返し語っているのが印象的であった。
 第2部「社会の構想力」から,主軸となるのはトールキン『指輪物語』である。『指輪物語』はハッピーエンドなのかそれとも…と,登場人物たちの立場を語っていながら,話は「『指輪物語』はリベラルデモクラシーか?」といったテーマにまた発展する。そしてこの推察を現在のトランプ現象の考察へ続けている。まさしく縦横無尽である。
 第3部で「SFが人類を救う?」では,また対談は広がりをみせ「AIから民主主義まで」等と話が進んでいく。そして終章は『指輪物語』とケストナーで締めくくる。対談形式のこともあるが「むき出しの知的好奇心の塊」に触れた思いがした。

(吉井聡子:川崎市立川崎図書館,日本図書館協会認定司書第1141号)

誰がアパレルを殺すのか

杉原淳一,染原睦美著 日経BP社 2017 ¥1,500(税別)

 人が朝起きて学校や仕事に行く,または,出かけるとき,顔を洗い朝食をとり,身支度をする。朝食を端折っても着替えを端折る人は,まずいない。そして,目覚めたときの気分や空模様,また,仕事内容によって,当日の服装を決めるだろう。心待ちにしていた外出の際の着替えは心躍り,その服は記憶に残るに違いない。
 では,人にとって衣服とは,どのくらい意味のあるものなのか。着たきり雀でも,人は生きていける。ただ,「衣食住」という言葉に表されているように,社会生活を営む上で人と衣服は切っても切れないものなのである。
 本書はそんな衣服を巡って,大きな転換期を迎えているといわれるアパレル業界を取り上げている。DCブランドブーム全盛期の華やかなりしイメージは既に過去のもの,もはや,当てずっぽうに「作って」「売る」散弾銃商法は通用しない。そして,それはアパレルのみならず,他の業界にも通ずる論理のように思える。
 すべてが「売れなくなった」のではない。「売れる」ものと,「売れない」「売れ残る」ものがはっきり区別されているのだ。では,その違いは何なのか。業界の川上と川中,川下での景色の違いが,今後変化することはありえるのか。SCMの成功例ユニクロでおなじみのファーストリテイリング柳井正氏や,セールなし,生地は端切れまで,テキスタイルのアーカイブや別注商品を有効活用するというミナペルホネンの皆川明氏,オンラインSPA新興勢力への取材が興味深い。
 業界全体を俯瞰し,ピンチをチャンスに変え,悪習や不合理と決別する。今こそ,「アパレルは死んでいない」と,新しいビジネスモデルを他業界に示す絶好の機会だ。必要なものを見極め提供するという点では,図書館も同様に思える。アパレル業界の今後の展開に注目したい。

(神戸牧子:土岐市役所)

風邪の効用

野口晴哉著 筑摩書房(ちくま文庫) 2003 ¥600(税別)

 今年の冬は風邪を引かなかった。喜ぶべきことなのに少し残念なのは,風邪の効用を体感できなかったからである。
 「風邪を引くと大抵体が整う」(p.18)「風邪というものは治療するのではなくて,経過するものでなくてはならない。」(p.27)と語る著者は,整体協会の創設者にして整体の発展に寄与した人物。本書は,自らの治療経験から見いだした風邪のとらえ方・対処法についての講義をまとめたもので,1962年に全生社から出版され,再構成してちくま文庫になった。
 いわば「古典」であるにもかかわらず,広く読み継がれているのは,積み重ねた経験から導かれた方法=実用と,その先にある普遍的な思想が現代人に響くからにほかならない。
 著者は,決して風邪を軽く見ているわけではない。むしろ,別の病につながる難しさを知るからこそ,体をよく知り,正しく経過させることを目指す。私たちの「常識」である,仕事や用事のために早く治すという考えの方が,風邪を侮り,本来の健康を損なう原因になっているのではなかろうか。何事も,今起きている現象に対処するだけでなく,原因や背景を受け止めなくては始まらない。もし,風邪を引いてしまったら体のゆがみが原因かそれとも心理的な原因なのか,自分の体の声に耳を傾け,体を整える機会ととらえたい。
 文学作品の中で,印象深い風邪の場面がある。昨年,大きなブームになった『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著 岩波文庫 1982)がそれだ。主人公のコペル君が,深い後悔を抱えて雪の中に立ち尽くし,ひどい風邪を引く。長い間寝込むが,回復した後はすっきり晴れ晴れとした心持ちになる。
 これぞ,正しく経過して「蛇が皮をぬいだよう」にすっきりした風邪の効用ではないかと思う。

(佐藤敦子:鎌倉市玉縄図書館)

中動態の世界 意志と責任の考古学

國分功一郎著 医学書院 2017 ¥2,000(税別)

 能動と受動。英文法の授業で習った二つの態は対立する関係にある。しかし今もう一度考え直してみてほしい。あらゆる行為がこのどちらかに分類できると言われたら,疑問を抱かないだろうか。例えば能動的であることを仮に「自身の意志をもって行動すること」とするなら,睡余の一挙手一投足はすべて能動的と言えるのだろうか。また銃を突きつけられて恐怖のままに取る行動は受動的なのだろうか。そこには不本意ながらも行為者の意志が介在しているように思われるが。
 本書では能動態/受動態のほかに,かつてインド=ヨーロッパ語族の諸言語にあまねく存在していたとされる「中動態」という態に焦点を当てて解説を行っている。「中動態」も受動態と同様に能動態と対立する関係にあり,ごく単純化して言うと,能動/受動がする・されるの関係ならば,能動/中動は主体が過程の外か・内かという関係にあたる。著者はこれらの態の概念を言語学の世界にとどめず,哲学の議論,引いては現実世界に生きる私たちの行いにも当てはめて新たな視座を与えている。
 著者も節々で言及しているが,能動/受動のパースペクティヴで物事を見るとき,そこには意志や責任という言葉がつきまとう。ある行動に明確な意志があったか否かは本人以外にはわかり得ない(厳密には本人にもわかり得ないことかもしれないが)はずだが,第三者にその意志の有無を判定され,結果その行動の責任を追及されるということはよくある。しかしそこに能動/中動という区分を用いるならば,必ずしも意志・責任の所在をただす必要はなくなってくる。
 仕事柄中高生に関わることの多い私は,かれらの等身大の悩みを聞くことが多い。かれらの背負ったものを相対化するにはどうすればよいのか。十代には難しい本だが,「こんな本や考え方もあるよ」と紹介したくなる。

(山本貴由:志摩市立小学校)

絶滅鳥ドードーを追い求めた男 空飛ぶ侯爵,蜂須賀正氏1903-53

村上紀史郎著 藤原書店 2016 ¥3,600(税別)

 この本は,鳥類学者の蜂須賀正氏の生涯と功績について追いかけた伝記である。彼は戦時中としては珍しく,イギリスに留学し,北アフリカやフィリピンを探検,アメリカに滞在してドードー鳥の研究論文に着手するなど,日本に留まらない研究活動を行った。しかし彼の日本での評価は,「困った若様」「スキャンダラスな侯爵」などという,放蕩華族の印象が強いものだったようだ。著者がこの本をまとめようとしたきっかけは,鳥類研究の関係者以外で蜂須賀氏の業績が知られていないと感じたからである。関連年譜や参考文献一覧,主要人名索引なども充実していて,蜂須賀氏の研究内容や行動のほか,当時の関係者や,時代背景なども丹念に調べることで,あまり言及されてこなかった蜂須賀氏の人物像を浮かび上がらせることに成功している。
 彼の日本での活動は,日本生物地理学会の創立,英仏語での学術雑誌への寄稿,戦後GHQの野鳥調査への協力などで,国内に世界の鳥類研究の様子を積極的に発信していたことがわかる。しかし日本では蜂須賀氏の評価は低かった。その理由について著者は,彼がコスモポリタン的な思想を持っていたからでは,という見方をしている。日本が諸外国との対立を深め,戦争へ向かっていく流れの中で,古い価値観に囚われず研究のため世界各国を飛び回る蜂須賀氏は日本社会の中では異端だった。戦時中にも海外へ出かけ,敵性語である英語で論文を出版したことなどからもそれがうかがえる。時代に逆らうという点では,新種の発見が主流だった鳥類研究で,過去に絶滅した鳥を研究したのも当時としては珍しかった。その研究から蜂須賀氏は,種の保存のための鳥獣保護という先進的な概念を戦後日本に啓蒙していくことになる。異端であることを恐れない彼の生き方に触れられる一冊である。

(松崎 萌:千葉県立中央図書館)

民藝の日本 柳宗悦と『手仕事の日本』を旅する

日本民藝館監修 筑摩書房 2017 ¥2,800(税別)

 本書は,日本民藝館創設80周年を記念し開催された巡回展「民藝の日本-柳宗悦と『手仕事の日本』を旅する-」の公式図録である。
 柳宗悦は,人々が日常に用いる雑器の中にこそ非凡な美が見いだせるという「民藝」の概念を提唱し,1936年東京・駒場に自ら基本設計した日本民藝館を創設した。この『民藝の日本』には,日本民藝館を中心とする各地民芸館が所蔵する,新古民芸品の逸品約150点が紹介されている。
 柳は民藝の概念を提唱して以降,約20年にわたって全国津々浦々を調査のため訪ね歩き,独自の審美眼で蒐集を続け,焼物,染物,織物,塗物,手漉和紙,家具,藁細工,金物,郷土玩具など800点以上を『手仕事の日本』(靖文社 1948)で取り上げ紹介している。柳以前には誰も注目することのなかった雑器たちが,ただの雑器から,尊ぶべき手仕事として美を見いだされていった。このことは,歩み寄る西洋化・近代化の波に少しは対抗する勢力となったのだろうか。
 サブタイトルの「柳宗悦と『手仕事の日本』を旅する」を具現化するように,北海道のアイヌの小刀からはじまり,南下するような順に作品を紹介している。詳細な解説を読みながら見すすめていくと,東日本,中日本,西日本と辿り,沖縄までを旅しながら民藝をじっくり味わったような疑似体験ができる。名もない作家の名もない作品であっても,一つ一つをゆるがせにせず,丁寧に作っていった職人たちの心意気をありありと感じることができる。最後のページを閉じたところで感じたのは,良質な展覧会を観たような大きな満足感であった。この一冊で,柳らが情熱をかけて蒐集し世に広めていった“民藝”の真髄に触れることができるのである。
 「民藝」ってなんだろうと興味を持った人に,日本民藝館に行ってみたいけど遠くて行けないという人に,ぜひともおすすめしたい美しい一冊だ。

(内山香織:黒部市立図書館宇奈月館)

ゼロからトースターを作ってみた結果

トーマス・トウェイツ著 村井理子訳 新潮社(新潮文庫) 2015 ¥750(税別)

 この本の著者,トーマス・トウェイツはデザイナーである。その彼が王立芸術大学大学院の学生時代に思いついたのが,自分1人の力で原材料から電気トースターを作るというプロジェクト。鉄,プラスチック,銅,ニッケル,もともとは世界各地の地底に埋まっていた石ころや油だったものが,どうやったらお店に行けば4ポンド以下で手に入るあのトースターになるのか。そんな疑問が彼を無謀な挑戦に駆り立てた。この本は,その挑戦の様子を,軽快な口調で,しかし至って真面目に記した1冊である。
 さて,彼はこの挑戦をするにあたって三つのルールを定める。①店で売っているようなトースターを,②部品を全て一から作り,③産業革命以前に使われていたものと「基本的に変わらない」道具を使って,完成させること。しかし,当然彼に工学的な専門知識はなく,さらには三つのルールを遵守して完成できるほどトースター作りは甘くはなかった。多くの人の助けを借り,時にはルールを都合よく捻じ曲げ,9か月の時間と3,060kmの移動と1,187.54ポンドの費用をかけて,ようやくトースターと思しき物体が完成する(完成品はぜひ表紙を見てほしい)。
 彼がこの挑戦で思い知らされたのは,そもそも「1人で」「完全に一から」トースターを作り上げるのは不可能だということ。彼の挑戦を追体験する中で,我々は驚くほど文明に依存していることに気づかされる。そもそもなぜ,彼が1,187.54ポンドもかけて作れなかったものを,4ポンド以下という値段で誰もが手にすることができるのか? 身近な家電製品の裏に積み上げられた多くの努力と知恵,そして途方もない量の燃料と材料の存在が見えてくる。この本を読むことで,身の回りにある物の見方が大きく変わることだろう。大量生産,大量消費の時代にぜひ手に取ってもらいたい。

(浦田愛子:埼玉県立熊谷図書館)

鴎外の恋 舞姫エリスの真実

六草いちか著 講談社 2011 ¥2,000(税別)

 森鴎外の『舞姫』といえば教科書などでもおなじみ,いわずと知れた有名な文学作品だ。主人公の不甲斐なさ,ヒロインの悲劇が印象に残っているが,この物語は鴎外自身の経験がモデルとなっているといわれている。鴎外のベルリン留学帰国直後,現地での恋人の来日について家族や友人の手記などに記されており,また1981年にはそれらしき人物が日本へ来航・出航した記録のある当時発行の新聞が発見されている。
 ではその恋人とはどんな人であるか。文学論的研究など多数の論文類が発表されているが,これらの中でも本書は,恋人と思われる女性の身元について資料に裏打ちされた説得力のある調査として発表当時話題になった。ここで真偽について云々するつもりはないが,とても興味深かったのがその調査過程だ。著者は現地在住ということを生かして,1860年代から1960年代に至るベルリンの住民帳や新聞,教会公文書,古文書,戸籍簿などの原資料を,根気強く綿密に調査している。ベルリンを東奔西走して,読みにくいアルファベットの髭文字や流麗な筆記体を解読し,時には所蔵館指定の資料閲覧時間に間に合わず,時には記録が見つからず落胆したり。そんな時は当時の状況を想像して別のところを調べてみたり,調査過程で知り合った専門家に助言をしてもらったりして,新しい糸口を見つけて調査を進めていく。キーワードを入れて一括検索というわけにはいかず,スキャン画像のマイクロフィッシュを1枚1枚めくる調査の大変さは,レファレンスで同様の経験をした方なら「お疲れさま!」といいたくなるのでは。
 続編『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(2013)でもさらに調査を進めていてこちらもおすすめしたい。ベルリン帰国後,20世紀前半の激動のドイツを生きた彼女の人生は,『舞姫』のヒロインとは異なる印象だ。

(村上恵子:横浜市金沢図書館)

世界のお墓

ネイチャー&サイエンス構成・文 幻冬舎 2016 ¥1,600(税別)

 新聞雑誌を含む年間資料購入費110万2000円。園芸科1クラス普通科2クラスの小さな高校である。園芸科の課題研究はあるが,図書館をフル活用して取り組むには至らず,おのずと蔵書構成は活字少なめな方向になり「マンガでわかる○○」「サルでもわかる○○」的な本が増える。とはいえ,図書館は広い世界へと開く扉でありたい,という願いは捨てていないので,ビジュアルで,しかも類書がない本書などは,理想的構成資料である。
 写真集としても美しいが,内容もまた多彩である。死者の人生の物語とその挿絵のように,色鮮やかな肖像画と詩で飾られた木彫りの墓標は,ルーマニアのサプンツア村で80年前に若い職人の手で建て始められたもの。ここに参るために,いまや年間3万の観光客が訪れる。パリのカタコンブは地下の採石場跡に,閉鎖された市内の墓地から運び込まれた遺骨が整然と積み上げられ,アルカリ土壌のおかげで朽ちずに残る。フランス革命の英雄がどの骸骨かはもうわからない。オーストリアのハルシュタット納骨堂には赤と緑の草花を描かれた頭蓋骨が並んでいる。「メメント・モリ」と刻まれたチェコのセドレツ納骨堂の装飾は骨を組んだシャンデリア。タージ・マハル。墓地の島サン・ミケーレ。チベットポタラ宮の鳥葬の丘。テレジンのユダヤ人墓地。アメリカでは遺灰はケープカナベラルから宇宙に打ち上げられたり,フロリダで魚礁になったりもする。
 小さな図書館の一冊の本から,世界を広げていってほしい。見たことのないものを見て,思いもしなかったことに出逢ってほしい。死者に思いをはせるために,歴史を紐解き,地図を開いてほしい。お墓のいろいろを見比べるだけでも,世界の多様さを感じられるはずだ。

(猿橋広子:長野県富士見高等学校図書館)

日本神判史 盟神探湯・湯起請・鉄火起請

清水克行著 中央公論社 2010 ¥760(税別)

 「盟神探湯」。読めるだろうか?「クカタチ」とフリガナがふれる人は日本史をしっかり勉強した人だろう。
 これは,石を熱湯の中に入れ,争う双方が素手でこれを取り出して,火傷をしたら有罪,何ともなければ無罪とする古代の裁判方法である。
 だが,この何とも原始的な裁判法に酷似した「湯起請(ゆぎしょう)」が歴史の下った室町時代に大流行し,さらには焼けた鉄片を握るという裁判法「鉄火起請(てっかぎしょう)」が江戸時代に盛んに行われていたといったら,にわかに信じられるだろうか?
 この本は,室町時代から戦国期の社会史を専門とする著者が,この不可思議な裁判法について豊富な事例をもとに読み解いたものである。
 湯起請も鉄火起請も,争う者同士の「一騎打ち」だ。領地争いの当事者同士,殺人事件や盗難の被疑者に,火傷の有無で判決が下る。中には,無罪への一発逆転を狙い,被疑者の側から言い出される場合もある。驚いたことに湯起請の有罪無罪の確率は記録上五分五分だ。
 この原始的な裁判法が支持されたのはなぜか。著者はそこに人々の信仰心の変化を見いだしている。時代が下るにつれ,素朴な神への信仰心は希薄化していく。それに反比例する神判の過激化には,神をまだ信じていたい,信じられないという人々の「信心と不信心の微妙なバランス」(p.158)があったのではないかと。
 このような裁判法は外国にもみられるが,共同体内の人間関係のバランスを重視したり,決死の覚悟を尊重したりする日本人の国民性との関連性を指摘しているのも興味深い。
 実はこの湯起請,鉄火起請という神判を超える究極の解決策が存在する。興味のある方は,同著者の『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ 2006)をぜひお勧めしたい。

(河合真帆:鎌倉市中央図書館)

ブルーシートのかかっていない被災直後の熊本城 2016年4月16日撮影

矢加部和幸,浜崎一義写真撮影 熊本城復興を支援するみんなの会発行 創流出版発売 2016 ¥1,500(税別)

 2016年4月に発生した熊本地震からまもなく2年。記憶や恐怖心は徐々に薄れていくものだと思っていたが,不思議なことに,時間が経つほど地震に関する報道や著作物を目にすることが苦痛になってきている。
 本書は被災した熊本城を撮影した47ページの写真集である。撮影日は4月16日。本震と言われた激震に見舞われた日である。今はブルーシートや工事用の幕に覆われ目にすることができない惨状の記録と,それと比較できるよう被災前の写真も掲載されている大変貴重な写真集である。県民として決して見たくはない熊本城の姿だが,「事実の記録」に徹した編集だからか,民家や道路や橋といった日常生活を感じさせる場所ではないからか,今の私が手に取ることができる唯一の地震関連図書である。撮影した矢加部氏は元熊本日日新聞記者で,「城はどうなってしまったのか」と,いてもたってもいられず駆けつけたという。
 私にこの本を開かせる理由のもう一つは,氏の行動に抱く尊敬の念と同時に覚える共感かもしれない。あの時,「記録しておかねば」という,氏が感じたであろう使命感を私たち学校司書も抱いたからである。「片づける前に写真に撮っておこう」という声が地震発生後,自然発生的に各地区であがった。熊本県高等学校教育研究会図書館部会が実施した被災アンケートには,140枚もの写真が集まった。もし生徒がそこにいたらと想像すると慄然とする写真ばかりである。調査をまとめた記録集は2017年度末に発行され,各都道府県立図書館に寄贈予定である。
 地震発生の瞬間まで,熊本が「震災前」だったとは想像もしなかった。今,多くの方が地震前の私たちと同じ思いで過ごされているのではないだろうか。ぜひ一度目にしていただけたらと思う。

(津留千亜里:熊本県立八代高等学校・中学校図書館)

スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運

ニック・ボストロム著 倉骨彰訳 日本経済新聞出版社 2017 ¥2,800(税別)

 本書はAI研究者やビル・ゲイツにも絶賛された世界的話題作の日本語訳である。原著は2014年に発行された“Superintelligence: Paths, Dangers, Strategies”である。その原著副題のとおり,道程,危険性,戦略の三つが書かれている。
 著者はスウェーデン人の哲学者で,現在はオックスフォード大学の教授である。ボストロム教授は次の仮説を検証しようとしている。要約すると「もし近未来にスーパーインテリジェンス,すなわち人間の英知を結集した知力よりもはるかにすぐれた知能が出現するならば,人類が滅亡する可能性があり,そのリスクを回避するためには,スーパーインテリジェンスのふるまいを,それよりはるかに劣る人間がいかにしてコントロールすることができるかという問題を解決しなければならない」という仮説である。
 したがって全15章からなる本書は,この仮説の検証の工程をなぞる構成となっている。まず,第1~5章では,スーパーインテリジェンスとは何かに迫り,どのように出現するか考察している。次に,第6~13章では,スーパーインテリジェンスがどのような能力と意思を持つのか,人類を滅亡させる可能性を考察した後,肝であるコントロール問題を論じている。そして第14~15章ではAIに関わる政策課題を考察し,知能爆発の到来に先駆けて重要かつ緊急の問題に我々の努力と資源を集中すべきだと主張する。
 本書が717頁と分厚いのは,索引・参考文献・原注が150頁を占めるからである。それでもこの本の見た目に怯むことなく,AI研究を目指す高校生にぜひ読んでほしいと思った。AIを活用した企業活動が話題になる中,人間の安全を守るため,軸となる考え方を持っていてほしいと願うからである。緻密かつ論理的に説明する著者の熱意を感じ,そのような人になってほしいと思う。

(山縣睦子:埼玉県立熊谷図書館)

唄めぐり

石田千著 新潮社 2015 ¥2,300(税別)

 2015年の秋,先輩司書の手元に,この本はあった。私も好きな作家だ。勤務館に戻り,探してもエッセイや紀行文の棚にはない。民俗学の棚に在架していた。
 タイトルの「唄」とは,日本で歌い継がれる民謡である。本書は,2011年11月から2014年8月まで,『芸術新潮』で掲載された「唄めぐりの旅」という旅の記録であり,現在も歌われ続けている民謡と,それを生み育て未来につなげていく人々や風土をまとめたものである。北海道から沖縄まで25の民謡(福島は2回取材)とその背景を紹介する本は,いまは少ないのではないだろうか。民謡の参考資料(本・CD)一覧もあり,その土地なら,郷土資料にもなる。伝える意思がなければ,廃れゆく物事を,調査し,記録し,形にして残す,その役割の一環を,本も確かに担っている。
 表紙が印象的だ。佐渡のたらい舟に乗る一寸法師のような旅先のワンシーン。私という言葉をあまり用いない文体が特徴である著者の,とびきりの笑顔だ。一見して魅了された,これは読みたいと頁をめくる手がはやる。訪れた土地の順に編まれたためか,読み進めると旅を追体験し,唄すら聴こえてくる気がする。時おり折りこまれる,著者ならではの視点が嬉しい。小説やエッセイにもある雰囲気が零れ落ちる。活き活きした旅を,石井孝典氏の撮影による写真が伝える。なにより,民謡の唄い手がカメラを前に,少し照れながらも堂々と誇らしく,力強く唄う写真には,人が真摯に物事に取り組む姿は,これほど美しいものかと感じ入る。唄を知らなくても,唄い手がこめる思いが伝わってくるようだ。
 そういえば,民謡をよく知らないとCDを手に取る。いつか機会があれば名人の生唄を聴いてみたい,と読者である私の世界もひとつ広がった。

(高柳有理子:田原市中央図書館,日本図書館協会認定司書第1111号)

地方の未来が見える本

清丸惠三郎著 洋泉社 2016 ¥1,600(税別)

 自分が指定管理者の一般社団法人理事兼職員ということもあり,市民協働分野の本を読む機会が徐々に増えてきた中で出会ったのが本書だ。
 総務省発表の『過疎地域市町村等一覧(平成29年4月1日現在)』(http://www.soumu.go.jp/main_content/000491490.pdf)によると,全国の過疎区域は合計817団体にも上る。本書で(今後の課題も含めて)紹介される地域おこし成功のまち10事例も,かつては少子高齢化・働き口の無さ・若者の流出・空き地や空き家の増加・中心市街地の空洞化・自然環境の破壊等,複数の要因が重なり疲弊した地域の一つだったが,「とにかく,地域おこしは一に人,二にも人,三にも人」というわけで,唯一無二の個性溢れるリーダーが地域おこしを牽引してきたという共通点がある。
 たとえば島まるごと図書館構想でも名高い島根県隠岐郡海士町では,「町長自身の給与3割カット」で「町民の危機感や意欲に火をつけ」自立を促すと同時に,新たな産業創出につながるI&Uターン移住者や,島外からの高校生の受け入れを推進した。また,漫画『HUNTER×HUNTER』作者冨樫義博氏の故郷・山形県新庄市では,市職員が「真剣に自分たちの住む地域を活性化させるための団体」を立ち上げ,地元商店街幹部と協力して全国初の「100円商店街」を成功させた実績を生かし,成功システムとノウハウを全国の商店街向けに公開した。他8事例も同様に,少数の人々が元からあった資源・産物・景観等に価値を見いだし,根気強く地元住民を説得しながらまちの宝として磨き抜いた結果が,継続的な集客や売上げ増加へと結び付いた。
 公や民または「公と民の間を行き交う『渡り鳥』」リーダーの有言実行力に賛同した住民たちが,多大な時間と労力をかけて再生したまちは次世代に誇れる魅力満載で,今すぐ旅立ちたくなる1冊だ。

(郷野目香織:新庄市立図書館,日本図書館協会認定司書第1124号)
 

となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代

内藤正典著 ミシマ社 2016 ¥1,600(税別)

 「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代 仲良くやっていきましょう。
 テロ,戦争を起こさないために-
 大勢のイスラム教徒と共存するために-」
 帯に書かれた言葉に著者の願いが表れている。
 この本は,これまで関心を持ってこなかった人を意識して作られているのだろう。可愛らしい表紙と,語り口調の本文がそれをうかがわせる。
 著者は,1990年代からヨーロッパのトルコ移民の研究をしてきており,第1章ではそれを元に西欧諸国とイスラムの衝突について述べている。各国それぞれに事情が異なるものの,移民たちは居場所を見つけられず再イスラム化が進行。一方で,ヨーロッパ諸国の側からは,同化しないイスラム教徒に対する差別・攻撃・排除が繰り返される。これについては「ヨーロッパの市民よ,これ以上衝突を起こすなかれ。」(p.52)と訴える。
 遠く離れた日本では,イスラム教に対して西欧世界経由の“戒律が厳しい”というイメージやテロへの不安がある一方で,来日するイスラム教徒の増加を商機とみて「ハラール・ビジネス」の成長が目立つ。この状況に対して,著者は,一般の日本人が抱きがちな疑問に答えつつ,「ハラールかどうかを決められるのは神様だけ」(p.105)と苦言を呈する。
 テロ,特に「イスラム国」については,「イスラム世界から生まれた“病”」(第7章)ととらえてイスラム世界の問題点について見解を示している。
 「イスラム世界と西欧世界とが,水と油であることを前提として,しかし,そのうえで,暴力によって人の命をこれ以上奪うことを互いにやめる。そのために,どのような知恵が必要なのかを考えなければなりません。」(p.7)
 この考え方は,イスラムに限らず各地で起こる諸問題にも当てはまるのではないだろうか。

(橋本紗容:洛星中学・高等学校図書館)

CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見

ジェニファー・ダウドナ,サミュエル・スターンバーグ著 櫻井祐子訳 文藝春秋 2017 ¥1,600(税別)

 本書は,画期的な遺伝子操作技術CRISPR-Cas9(クリスパー・キャス9)を発見したジェニファー・ダウドナ博士(カリフォルニア大学バークレー校教授)自身によって書かれた本である。
 一人称で語られる本書は,大きく二部構成になっている。まずCRISPR発見前史から発見に至る経過,論文を発表してから世界中の研究者によってもたらされるCRISPRを応用したさまざまな成果を目の当たりにしての高揚感,遺伝子が原因の病気への応用など,明るい未来が主に語られる。
 第二部は,CRISPRをさらに進めた研究,例えば,筋肉隆々のボクサー犬,犬ほどの大きさの豚,肉がたくさん取れる羊などが紹介される。これは,人間の遺伝子を塩基1個単位で「操作」「編集」できるようになったことを意味する。
 我々人間は,代々受け継がれてきた遺伝子に容易に「操作」や「編集」を行ってよいのか。それとも苦しんでいる人のために活用すべきなのか。第二部のもう一つの主題がこの悩ましい二面性である。CRISPRが医学を超えて,哲学や倫理学,社会学の問題を孕んでいることに博士は気が付いたのである。博士は,生殖細胞への応用について一定の歯止めを設けるようフォーラムを開催し,広くオープンな議論により誤った使い方がされないよう声明を出す。
 博士の心は苦悩しながらも,CRISPRのもつポジティブな面を活用できる世の中を信じて,前向きに進んでいる。
 決めるのはノーベル生理学・医学賞を受賞したニーレンバーグ博士の言うように「(前略)十分な情報を与えられた社会だけである」(p.240)。そういう意味では,我々一般人も否応なく決定を迫られるのである。図書館はそのようなとき,役に立つ存在でありたいと思う。

(三村敦美:座間市立図書館,日本図書館協会認定司書第1080号)

ブータンに魅せられて

今枝由郎著 岩波書店(岩波新書) 2008 ¥740(税別)

 あるファンタジーを読んでいる最中,しきりに頭に浮かんだのが本書だった。それは本書2章の「目にみえるもの,見えないもの」の不思議な話が,ファンタジーの見えないが在る世界と重なりそして通い合うものがあると思ったからだ。
 本書は,チベット仏教研究者である著者の,難関の末のブータン入国から,国立図書館顧問としての10年余りの日々を描いたものだ。ブータン人の日常を描く中で,その穏やかさ,謙虚さ,豊かさに触れ,驚き,やがて多くの示唆を発見していく様が本書の大きな魅力となっている。
 中でも仏教徒ブータン人には見えるが著者には見えない物がある事実と,狐につままれたような昔話の世界が現存する場面は,驚きに満ちている。そして高僧ロポン・ペマラとの出会いからの,数々のエピソードが圧巻だ。ロポンがアメリカを旅行中に突然車を降り読経を始める。一群の亡霊が見えたと言うのである。後に,そこはアメリカ・インディアン大虐殺のあった場所とわかる。
 国立図書館長でもあるロポンは予算は無駄使いしないと人件費のみを使い,職員は資格のない人を採用する。その理由は「高学歴で有能な人は給料も高く,どこでも働ける。(中略)働きたくてもほかで働けない人を採用している」(p.81~82)と。どんな図書館か気になるでしょう? 書籍とは経典で,1980年代当時は法事に使うお経のレンタルが主な業務とのこと。その他,通産省ではブータンの余っている「時間」を輸出しようと話し合ったとか…。ここにはGDPやGNPの思惑はない。あるのは祈りを日常の主とする小さき人々の思い(想像力)であり,ユーモアそのものである。
 翻って,図書館の仕事はこの祈りにも似た目には見えない小さな思いの積み重ねではないかと思う。本書で改めて,人間性を支えるべくある想像力を,見失うことがあってはならないと思った。

(田辺澄子:東京都立三鷹中等教育学校図書館)

わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か

平田オリザ著 講談社(講談社現代新書) 2012 ¥740(税別)

 他者と触れ合うことなく生きていくことはできない。多くの人が人との関係性の中で悩み,社会で求められているコミュニケーション能力とは何か明確にできず戸惑っているのではないだろうか。
 本書は劇作家でありコミュニケーション教育に関わる著者によるコミュニケーション論で,「わかりあう」ことに重点が置かれた従来の論説と異なり,互いが「わかりあえないことから」始まる視点が新鮮である。
 会社では主張を伝えることができる能力を求められながらも「空気を読むこと」も同時に求められ悩まされている若者の実情や,子どもたちのコミュニケーション能力が低下しているように見えるのは,お互い「察しあう文化」で育ち「伝えたい」気持ちを持たないためであることなど,コミュニケーションに関する問題を明示しており興味深い。
 また,日本社会ではあまり意識されてこなかった「会話」と「対話」との違いにふれ,異なる価値観に出会ったときに粘り強く共有できる部分を見つけていく「対話」の重要性を説いている。
 多様性が重要視される現代社会において,さまざまな価値観を持つ人々と「対話」できる人を育てるために教育関係者にも読んでもらいたい1冊であり,あわせて同著者の『対話のレッスン』(講談社学術文庫 2015)もお薦めしたい。
 著者が「わかりあえないというところから歩きだそう」(p.223)と言うように,初めは「わかりあえない」のだから,少しでも「わかりあえた」ときにとても喜びを感じることができる。そう考えるとコミュニケーションが楽しくなってくる。

(大橋はるか:飯能市立図書館,日本図書館協会認定司書第1095号)

うちの子は字が書けない 発達性読み書き障害の息子がいます

千葉リョウコ著 ポプラ社 2017 ¥1,200(税別)

 本書は,知的な障害がないのに,一所懸命努力しても文字が書けない・読めない子どもを持つ母親が,「発達性読み書き障害」という概念に出会い,専門機関に相談し,診断を経て支援を受け,母子の二人三脚で進んでいった体験をもとにしたコミックエッセイ(筑波大学教授・宇野彰氏と著者の対談つき)である。
 「発達性読み書き障害」は,ディスレクシアと呼ばれることもある,アメリカでは約10%の人が該当するといわれる比較的知られた障害である。2012年の文部科学省の調査によれば,日本では4.5%の確率で存在するという。つまり,クラスに2~3人はいることになる。にもかかわらず,学校現場でさえ,ほとんど認知されていないのが現状である。その理由は,日本での研究がこれまで進んでいなかったことに加えて,当該の子どもたちがクラスの中で目立たなかったからだそうだ。そのため,本人にやる気がないからだとか,そのうちできるようになるだろうとか,本人の努力や学力が足りないからだとか思われて,見過ごされてきたのだという。
 本書を読んだ先生方と内容について話し合った時,(合理的配慮をした場合)「『あの子だけずるい!』…となってしまい それがイジメにつながるケースが大変多い」(p.75),(多大な時間や労力がかかっても,本人が努力すれば)「点数を取れるんだったら 配慮する必要はない」(p.159),と言われる場面が切ない,と何人かに言われた。
 合理的配慮は「苦手なことを補ってもらう 自分もまた他の人の苦手なことを補って助け合うと考えればいい」と著者は言う(p.165)。眼鏡や杖や車いすを使うのと同じように,合理的配慮も当たり前のことだと思われるようにするのが,わたしたちの役目だと認識できる本だ。

(土田由紀:滋賀県立大津清陵高等学校)

欧州・トルコ思索紀行

内藤正典著 人文書院 2016 ¥2,000(税別)

 2015年9月,エーゲ海で溺死した3歳児のシリア難民アイランちゃんの報道は,まだ記憶に新しい。しかし,それは自分とは縁遠い出来事だと考え,難民問題を肌で感じることは少ない。
 本書は,中東の国際関係を専門とする著者が,半年間の在外研修で滞在した各都市で体験し,思索を巡らせた雑多な記録である。「あとがきにかえて」で吐露されているように,出発前の著者は,刻々と変化する中東情勢やシリアでの邦人人質事件の解説等でメディアへの露出も多く,ちょっとした気分転換をもくろんでいたようだ。
 旅の前半では,踵の骨が炎症を起こすほど歩き回り,街での衣食住を楽しんでいる。ところが,ベルリンに到着したあたりから,焦点が欧州社会のムスリム移民へと絞られていく。そして,トルコでも有数のリゾート地にある自宅に戻った著者は,自宅前が欧州に向かうシリア難民の最前線と化している姿を目の当たりにする。商人として名高いシリア人の中には,家財道具を満載したベンツに乗って戦火を逃れて来た人もいれば,財産のすべてを金の装身具に換えて身につけている人もいる。新天地での暮らしに希望を抱いている人も少なくない。
 難民の視点から見る世界は,普段,私たちが接している欧米中心の報道で見る世界とは少し違う。他国の利害に翻弄され続ける人の視点があるということさえ気付いていなかった。その視点から見れば,複雑な中東問題も少しは腑に落ちる。著者が体験したように,戦争が前ぶれもなく,衣食住の隣にひょっこり顔を出すものであるとすれば,自分が難民になる,あるいは難民を受け入れる立場にもなり得る。
 度重なる北朝鮮のミサイル発射の脅威の中で,日本においても対岸の火事では済まされないということを改めて考えさせられた。

(宮崎佳代子:千葉県立東部図書館)

絶望手帖

家入一真発案 絶望名言委員会編集 青幻舎 2016 ¥1,300(税別)

 その生徒は大きな困難を抱えているようだった。直感的にこの本を手渡す。私「つらかった時期は,毎朝起きると,あぁ起きちゃった,って思ってたんだよね」生徒「それは病んでましたね」私「落ち込んだときは無理に浮き上がろうとしないで沈んでみるとプールの底に足がつく感覚があって,どうにか浮き上がれてたな」生徒「ふーん」。
 219の名言が,人間関係,仕事,恋愛,空虚,幸福,社会,業,人生,絶望の9テーマに分けてある。各頁に大きく縦書きの名言,下部に小さく横書きで,言った人/肩書き/出典,3行の解説。出典は古典的名著だけでなく現代の図書,ブログやTwitter,「匿名希望/OL/編集部取材」といったものも混じる。解説ではその人がどう絶望していたか書かれていて,言葉の背景を考える助けになる。名言の他にカフカなど9人の「絶望の達人」が1人ずつ似顔絵入りで紹介された頁もあり,この人もつらかったのかと親しみがわく。
 そして各テーマの最初と最後の頁に置かれたイラストと言葉がユニーク。例えば「人間関係」の終わりではコーヒーを見つめる人のイラストに「苦くて深い,絶望の世界」。「絶望」の扉では暗い崖っぷちに向かい四つん這いになる人のイラストに添えて「希望はしばしば あなたを裏切りますが, 絶望は裏切りません。 希望は人を選びますが, 絶望は選びません。(後略)」。
 誰にでもきっと,絶望を味わい噛みしめて向き合うことでしか生き抜けない時期がある。ひざを抱えて「あとがき」の次頁をめくると,闇の先に見えてほしい光降り注ぐイラストが待っている。
 冒頭の生徒「3回読みました,こういうポエムみたいなのって結構好きなんですよ」。彼女の左手の甲に痛々しく留められていた安全ピンは,返却のときには無かった。

(横山道子:神奈川県立藤沢工科高等学校図書館)

「お絵かき」の想像力 子どもの心と豊かな世界

皆本二三江著 春秋社 2017 ¥1,800(税別)

 小さい子どもと一緒にお絵かきをする時,子どもの描く,頭から手足が生えているヒトらしき絵を見て思わず微笑んだことはないだろうか。幼児の絵に見られるこのヒトの形は「頭足人」と呼ばれ,子どもの発達段階で必ず出現する。不思議なことにこの頭足人は,異なる文化や環境にあるどの国の子どもでも「ヒト」を描く時に必ず現れる。
 なぜ世界中の子どもたちはそろいもそろって,誰に教わったわけでもないのに,胴体のない頭足人を描くのだろうか。本書はこの頭足人をはじめ,幼児期の絵にみられるプロセスやモチーフが世界共通のものである不思議を,集団生活の場で大量に描かれた絵や,特定の子どもの描く絵の長期間にわたる観察から解き明かしていく。
 子どもの絵は,まず「点」から始まる。一見無意味のように思える紙に叩きつけるように描かれた点は,実はその後の発達の重要な第一歩となる。「点」は,やがて「線」になり,曲線などの変化がみられる「なぐりがき」の時代を経て,やがて不恰好な「円」になる。そして点や線,円を組み合わせた絵の中に,いつの間にか頭足人が出現する。はたして頭足人とは何者なのか。
 筆者はそれを,人類が四つ足歩行をしていた時代の記憶の現れだと推測する。遠い昔,四つ足動物であった自身の正面から見た姿を,子どもは紙上にコピーしているのではないかというのだ。
 どんな小さい子の絵であっても,子どもの絵の中には記憶にもとづく物語がある。絵は言葉よりも雄弁で,子どもは絵の中で,その時に持っているすべての感覚を使って内にあるものを表現している。筆者は美術教育の立場から子どもの発達について論じているが,そこには子どもの成長を楽しみに見つめる温かい目があり,子どもの可能性を信じようとする強い信念がある。子どもに関わる多くの大人に,手に取ってほしい一冊だ。

(笹川美季:東京都府中市立図書館,日本図書館協会認定司書第1012号)
 

動物になって生きてみた

チャールズ・フォスター著 西田美緒子訳 河出書房新社 2017 ¥1,900(税別)

 動物になって生きるとはせいぜいその動物の生活環境でキャンプを行う程度なのかと思いきや,書かれていたのは凄まじい同化であった。対象とする動物を理解するために生活環境を極限まで近づけていた。動物となっている間は視覚ではなく聴覚と嗅覚に重きを置いている。そして皮膚と口腔と鼻腔から動物の生活環境を感じ取ろうとしていた。本当に動物になって生きてみようとする強い意志と真摯さが記されている。
 アナグマの章では四つん這いで移動し,幼い息子と共に湿地の穴で眠りミミズを食して何週間も過ごしている。「ミミズは究極の地元産食品」(p.40)と述べている。カワウソの章ではザリガニを食しながら丸裸でカワウソ同様に糞を撒いている。著者は山奥や川に住む動物だけではなく,都会に住み人間の出すゴミを食料として生きるキツネや,イギリスの上空からコンゴまで移動し続けるアマツバメにさえなろうとしている。都会のキツネになってネズミを捕らえようとしていると住民に見つかり,警察官に捕まりそうになり逃げだすエピソードは傑作だ。確かに街中で酷い悪臭を放つ身なりでネズミを追いかけていればただごとではないと思う方が常識的である。
 各章に著者の幼少時代からの動物への好奇心と親しんだ童話の思い出が散見する。見守ってくれた両親への感謝が伝わってくる。伸びやかに育った著者は,動物に対して多くの人間が抱く偏見を免れている。そして自然に深く身を置くことで動物を理解できること,自分が怯える自然と愛しく感じる動物をつなげる意義を記している。
 本書は2016年のイグ・ノーベル賞生物学賞を受賞している。イグ・ノーベル賞とは人々を笑わせ,そして考えさせてくれる研究に対して与えられるが実に堂々とした受賞であると納得した。

(田中貴美子:札幌市曙図書館,日本図書館協会認定司書第1062号)

決してマネしないでください。(全3巻)

蛇蔵著 講談社 2014~2016 各¥560(税別)

 とにかく,人間の行動をなんでもかんでも純科学的に考えてしまうラブコメマンガである。
 「僕と貴女の収束性と総和可能性をi(アイ)で解析しませんか?」と,巷に跋扈するチャラ男以上に理解不能なセリフで告白し,撃沈する主人公の掛田。それを慰めるのに「女性は星の数ほどいる」というところを「肉眼で確認できる星は北半球で4,300個,東京ドームに女性を詰めたと仮定して肉眼で認識できる女性の数とほぼ同数だ」と声を掛ける,変人揃いの先輩たち。内容の半分程度は真面目な科学者列伝なのだが,一見役に立ちそうで一生使えないであろう科学知識と実在の科学者の功績とがスムージー化してストーリーが展開してゆく。何が事実で何がフィクションなのかわかりづらく,いつの間にか騙されてしまう。
 体内の細胞を擬人化した『はたらく細胞』など,他の“ためになるマンガ”に比べると本作の認知度は低い。埼玉県内高等学校Web-ISBN総合目録で初巻の所蔵状況を確認すると,埼玉県内で所蔵する高校図書館数はデータ提供館136校中『はたらく~』66校に対し本作品では本校含め10校である(2017年7月末現在。ちなみに人気マンガ『ちはやふる』は101校,埼玉の高校が舞台の『おおきく振りかぶって』は55校が所蔵している)。
 本校理科教諭(女性)が瞬読し,絶賛したこの作品,作者の蛇蔵氏(女性!)によると,理系のための恋愛マニュアルにもなっているとのこと。読めば納得!のはずなのだが,デートの誘い文句が「意思疎通の可能性を追求するために,共同研究という体験の共有を提案します。(掛田)」なんて無理…という方にはもう一作,『バーナード嬢曰く。』をお勧めする。本を読まずに読んだコトにしたい,《なんちゃって読書家》の自称 “バーナード嬢”が,図書室で友人相手に繰り出す名言の数々,ぜひとも堪能していただきたい。

(湯川康宏:埼玉県立飯能高等学校図書館,日本図書館協会認定司書第1032号)

われらの子ども 米国における機会格差の拡大

ロバート・D・パットナム著 柴内康文訳 創元社 2017 ¥3,700(税別)

 日本の子どもの貧困率(2015年調査)が, 13.9%に改善されたという報道があった。進学,食事,日常生活の物資など,子どもたちが苦しんでいる現状を,社会は少しずつ理解して支援の方法を模索している。 今後この問題に対してわたしたちは「何をすべきか」,本書がその指針を与えてくれる。
 『孤独なボウリング』(柏書房 2006)でアメリカの社会関係資本の衰退を分析した著者が,今度は経済格差が子どもたちの機会格差を生むことを,実例を示しながら解き明かしてくれた。恵まれた子どもと貧困下にある子どものライフストーリーが対比的に紹介され,多様なデータと図表の分析も加えられたことで,興味深い内容となっている。
 著者の故郷であるオハイオ州ポートクリントンでは,半世紀前の子どもたちには経済格差を自らの能力で乗り越える機会があった。しかし2010年代に入ると, 経済格差はそのまま機会格差につながるようになった。この,時代の変遷の中で機会の不平等が生み出されていく様子は,アメリカ全土だけではなく,日本にも通じるものを感じる。
 そして本書は,「貧富の格差」が,家族(2章),育児(3章),学校教育(4章),地域コミュニティ(5章)といった要因に合わさることで,「子どもたちの成長過程を大きくかけ離れたものにする」(p.319)ことを説明する。この問題への「単純で即時的な解決策はない」(p.290)ことは,全米各地の若者とその親たちの証言例からわかる。
 日本の大人も子どもたちも,「ほとんどは同じような苦境に直面することはない」(p.258)。しかし,だからこそ,苦境下の子どもたちを「われらの子ども」のひとりとして考え,彼らが将来の希望を持てる公平な機会を保障することは,日本においても必要である。図書館はそのための機関である。
 著者は,共に感じ考えることを呼びかけている。

(戸田久美子:同志社国際中学校・高等学校コミュニケーションセンター)

知識ゼロからの天気予報学入門

天達武史監修 幻冬舎 2010 ¥1,300(税別)

 朝は天気を気にして出勤する。雨が降るなら傘が必要となる。暑ければ涼しい服を選ぶ。あまり雪が降らない地域に雪が降れば,公共交通が止まりパニックとなる。局地的な豪雨は水害リスクを高め,自分で判断して避難しなければ危険である。天気は身近で生死に関わる重要な問題である。
 毎日見ている天気予報だが,使われている言葉の意味を本当に知っているかと言われれば,知っているつもりになっているのは,私だけではないだろう。普段から聞いている言葉だけに,いまさら人に尋ねるのは恥ずかしく,答えを教えてくれる人も周囲にはいなそうである。
 例えば,天気予報の「数日」という言葉。『日本国語大辞典』(JapanKnowledge Personal 2017.09.09採録)には,「数個」について,「三~四個,五~六個ぐらいの個数をばくぜんという語」と記されている。3と6では倍なので釈然としない。それでも,この本を読めば,天気予報の「数日」が,今日を含めた4~5日を指すことがわかる。その他にも,「しばらく」は2~3日以上で1週間以内の期間を指し,「明け方」は午前3時から午前6時までの時間帯を指すそうである。天気予報で使う言葉は,混乱しないように,きちんと定義されているのである。
 この本の内容は,気象予報士の試験を受けるには,少し物足りないかもしれない。しかし,天気予報を理解するには十分である。この本があれば,天気について,小学生の素朴な疑問に答えるのに困ることはないだろう。
 おそらく天候により発注量を調整しなければならないファミリーレストラン食材発注担当だった天達氏の実用的感覚があったからこそ,この知識ゼロからの天気予報入門書が生まれたのだろう。お天気本を持つなら,日常生活に役立つこの1冊を薦める。

(星野 盾:沼田市立図書館,日本図書館協会認定司書第1026号)

日本まじない食図鑑 お守りを食べ,縁起を味わう

吉野りり花著 青弓社 2016 ¥2,000(税別)

 占いやおまじないの本は図書館にどのくらいあるのか?と思い調べてみると,児童書が圧倒的に多い。大人の方が悩みは深いのにと思いつつ,占いやおまじないの本が並ぶ哲学・思想の書棚ではなく,民俗学の書棚で出会ったのが本書である。
 タイトルにある「まじない食」とは「神事,仏事,伝承行事のなかで何かの願いを託してお供えされる食材,食べられる料理(p.14)」である。まじない食に託される願いは病除け,厄除け,安産,子供の健やかな成長,豊作,大漁が主なものである。
 例えば,埼玉県の「お諏訪様のなすとっかえ」は茄子を食べることで夏の毒消しになり,京都府了徳寺で12月に行われる「大根焚き」の大根を食べると病気にならないという。福岡県の「早魚神事」は鯛をさばく速さを競うものであり,その切り身は安産のお守りになる。香川県の「八朔の団子馬」は男の子の健やかな成長を祈る団子であり,子宝を願う縁起物でもある。岩手県の「馬っこつなぎ」ではワラ馬に「しとぎ団子」という団子を供えて豊年満作を祈る。最も感動したのは鳥取県の「うそつき豆腐」だ。12月8日に豆腐を食べると一年分の嘘が帳消しになるというものだ。まじない食,おそるべし。
 本書には「まだまだある,全国の食べるお守り・まじない食」という巻末資料もあり,21種類のまじない食が紹介されている。世間のほとんどの悩みに寄り添う豊富なラインナップである。食べることは生きることにつながる。「まじない食」は,悩む人が「何かを食べよう」という気持ちになり,生きる力を与えてくれる存在だと思った。
 本書は,まじない食を通して日本の豊かな食文化を伝えるとともに,原風景といえるような美しい自然を訪ねる旅の書でもあり,手に取りやすい。誰もが頼ることができるおまじないの本がある書棚=すべての人を否定せずに受け入れてくれる書棚作りにぴったりの本として薦めたい。

(山下樹子:神奈川県立図書館)

はじめて学ぶ法学の世界 憲法・民法・刑法の基礎

関根孝道著 昭和堂 2014 ¥2,400(税別)

 本書は法学の基礎から始まり,憲法・民法・刑法の基礎的な解説書である。その内容は単なる法律の解説だけでなく,法律の存在意義やその構造など,法律を学問的に習得するために必要なことも含まれている。また,解説する項目ごとに関連する法律の条文や重要判例の要旨の一部が載っており,理解の手助けになっている。判例については要旨のみで,事件内容が記載されていないので少しとらえにくくはあるが,判例集の出典が記載されているため,判例を見てみたいと思えば容易に探し出すことができる。
 著者は本書を,教養科目として法律を学ぶ法学部以外の学生を対象とした法学概論の入門書「もどき」と位置付けている。「もどき」とあるのは,一般的な法学の入門書と比べると,条文や関連する判例・学説などに深入りし過ぎず,要点のみを解説した教科書として執筆されたものだからであろう。
 私自身が法学部出身であったため,大学の頃に学んだことを思い返しながら読んでいたが,法学部生が学ぶ法律の基礎知識の大半がこの一冊に入っている。法律の知識を有していない人が学ぶための導入としては非常にわかりやすい。
 また本書の構成は,法学の基礎についての説明から始まり,続いて憲法・民法・刑法という六法の中でも主要な法律について各章で解説を行うというものなので,それぞれの法律の特徴を比較してみることもできる。条文を読むだけではわからない,法律解釈に必要な基礎知識を一度に知ることができる。
 教養としての法学を身につけようとする人や,これから法学を学ぼうという人にとって非常に役立つ本である。

(松田康佑:埼玉県立熊谷図書館)

似ている英語

おかべたかし文 やまでたかし写真 東京書籍 2015 ¥1,300(税別)
 
 日本で暮らしている私たちにとって,外国語の使い分けというのは難しいものだ。それは長い間学んできている英語であっても同じこと。例えば「little」と「small」。どちらも「小さい」という意味を持つが,それらはどう使い分ければ良いのだろう? それとも同じ意味なのだから,気にせず好きな方を使ってもかまわないのだろうか。もちろん,答えは「否」である。日本語にすると「同じ意味」の言葉にも,明確な違いがある。それを,きちんと説明してくれるのが本書である。
 見た目は15×20cmのコンパクトな絵本のよう。そこに,見開きで2枚の写真が並べられていて,それぞれ該当する英単語が添えられている。間違い探しのように2枚の写真を見比べた後にページをめくると,示された二つの言葉の「どこが違うのか」を丁寧に説明してくれる。さらに言葉や写真に関する「うんちく」も添えられていて,最後まで楽しく読み進めることができる。
 ただ,こうした贅沢な作りの本なので,解説されている言葉は38組と少なく,語学の本としては多少物足りない部分はある。それでも「同じ意味」を持つ言葉の違いを考える中で,日本と英米の考え方や文化の違いが垣間見えて非常に興味深い。また,対象となる言葉はアルファベット順に並べられているので,目次などを見て気になったところから読んでいけるのも気楽で楽しい。
 なお,本書は先に出版された『似ていることば』(2014)の姉妹編。私たちになじみ深い日本語の,「同じ読みでありながら異なる意味をもつことば」や「サンデーとパフェ」のように「違いがよくわからないとされるもの」を同様に4ページでわかりやすく解説している。「英語より,まずはなじみ深い日本語で!」という人にはこちらもお薦めだ。

(笠川昭治:神奈川県立湘南高等学校図書館)
 

いまモリッシーを聴くということ

ブレイディみかこ著 Pヴァイン 2017 ¥2,100(税別)

 本書はイギリスのバンド「ザ・スミス」の1984年の1stアルバムから,バンドのヴォーカルだったモリッシーの2014年のソロ最近作までを追ったディスクガイドであり,同時に80年代以降のイギリスの時勢をとらえた社会書でもある。
 モリッシーとはどんな存在か,というのは序章の一節からよくわかる。「モテと非モテ,リア充とオタク,人間と動物,クールとアンクール,ノーマルとアブノーマル,金持ちと貧乏人。これらの対立軸で,モリッシーは常に後者の側に立っていた」(p.10)。彼の活動を追うことで,その時々のイギリス社会の雰囲気をつかむことができる一冊だ。
 また,ブライトンに住み現地の空気を肌で感じている著者の筆致が,イギリスを取り巻く状況をよりリアルに伝えてくれる。
 かつては一般的だった“Would you like a cup of tea?”というもてなしの言葉は,著者が勤めていた保育園では禁止されていたという。日本ではまだイギリス=紅茶のイメージが強いが,今では外国人やコーヒーを好むミドルクラスなど各家庭の多様性を尊重するため,「紅茶」に限って勧めてはならないのだそうだ。一方で,コーヒーメーカーも買えない労働者階級の人々は今も一日中紅茶を飲んでいる。「英国的なもの」が時代に取り残されていく寂寥感が,モリッシーの楽曲“Everyday Is Like Sunday”の詩のやるせなさと相まって語られる印象深いエピソードである。
 英題は“MORRISSEY ? GOOD TIMES FOR A CHANGE”。モリッシーの詩の1フレーズから取られたものだが,本書はまさに変化の時を迎えているイギリスの現状を理解する一助となるだろう。政治とポップ・カルチャー,どちらにも関心がある人も,どちらか一方にしかない人も,ぜひ手に取ってみてほしい。

(久保田崇子:埼玉県立熊谷図書館)

日本の手仕事をつなぐ旅 うつわ① 久野恵一と民藝の45年

久野恵一著 グラフィック社 2016 ¥2,400(税別)
 
 「民藝」や創始者である柳宗悦の名は知っていても,久野恵一や手仕事フォーラムの活動を知る人はそう多くないだろう。本書は,著者の没後に刊行された『日本の手仕事をつなぐ旅』シリーズの1巻だ。
 学生時代,宮本常一の民俗調査の旅に同行,民藝と出合い,柳宗悦に直接師事した鈴木繁男らの教えを受け,日本民藝館で実践を積む。やがて日本民藝協会役員の地位を捨て,思いを共にする仲間と手仕事文化の継承をめざし「手仕事フォーラム」を設立。1年の大半を日本各地の作り手の指導,手仕事普及のため,車で奔走し続けた。
 本巻は,沖縄,鹿児島,熊本,福岡,大分の五つのやきものの産地のつくり手と,新作民藝品づくりのエピソードが中心となっている。
 継ぐ者がなく手仕事が次々と消えゆく今,各地域でどのような背景で道具が生まれ,現在どんな人が作っているのか,見るべき点はどこか,名伯楽であった著者のアドバイスでどのように器が変化したか,写真付きで紹介する。
 ほぼ著者が執筆・監修を行った『残したい日本の手仕事』(枻出版社 2016),『民藝の教科書』シリーズ(グラフィック社 2014),からも,本書同様,柳の精神を受け継いだ手仕事の数々を知ることができる。著者は「現代の目利き」として唯一無二の存在であったが,こうした出版物から学ぶことができるのは幸せだ。
 優れた手仕事とは,作家性を追求するものでも,芸術品として愛でられるものでもなく,道具として暮らしの中で使われ,毎日を豊かな気持ちで満たすものだと本書は教えてくれる。同時に,使い手である私たちに良いものを見る目が備わり,買い支えることで初めて残っていくものなのだということも。「素晴らしい手仕事の国」を引き継ぐのは私たちなのだ。

(手塚美希:岩手県紫波町図書館)

正社員消滅

竹信三恵子著 朝日新聞出版 2017 ¥760(税別)

 図書館で働く者にとって,この新書のタイトルに含まれる「消滅」という言葉のインパクトは,どれほど伝わるだろうか。図書館では,いわゆる非正規の雇用は身近にある,普通の風景となっているからだ。だが,見慣れた風景も,変わることなく存在していたわけではない。どうして正規,非正規と区別される事態が生じたのか。本書は,日本の雇用をめぐる風景の変容を辿り,その行方を探っていく。
 著者は新聞記者として,30年以上労働問題に関わってきた。今は大学で教えながら,正社員となるため必死に就職活動をする学生たちの声を聞く。そして,数多く取材してきた名ばかりともいえる正社員のケースを思い起こす。そこで生まれた実感が,二つの正社員消滅だ。ひとつは,非正社員数の増加によるもの。もうひとつは正社員であることが,安心して働けることではなくなったという意味での正社員消滅。この二つの「消滅」にわれわれは直面しているのではないか,と問いかけて本書ははじまる。
 単なる憶測ではない。続く章で,正社員が大幅に減少した職場や,より過酷な働き方を強いられる正社員の事例を多数紹介する。さらに,正社員,非正社員という区分が生み出された背景や政策,いま政府が進めている「働き方改革」のねらいなどを描き出す。研究者の論文や関係者の証言を丹念に追いかけ検証し,本質を浮かび上がらせる叙述には,誰もが納得できるだろう。
 冒頭で「消滅」という言葉のインパクトが伝わるかどうかと書いたが,著者によれば,無関心こそが危うい。「他の働き手の労働条件悪化を放置すると,いつかは自らの働き方の劣化を招き寄せる」(p.226)。雇用をめぐる風景は,今後,より多様で複雑なものになりそうだ。本書は,働くことの意味を深く考えるきっかけにもなるだろう。

(森谷芳浩:神奈川県立川崎図書館)

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール著 大浦康介訳 筑摩書房(ちくま学芸文庫) 2016 ¥950(税別)

 一冊の本について語るのに最後まで読む必要はない。むしろ全部読まないほうがいい。そんな「えっ!?」と驚くようなことを真剣に,ときにユーモアを交えて論じた本である。
 読まない意義を論じる際,引き合いに出されるのはムージルの長編小説『特性のない男』に登場する司書である。この司書は目録以外,図書館にある本を読もうとしない。本に無関心なのではなく,よりよく知りたいから読まないのである。個々の本に深入りして膨大な書物の海でおぼれないようにするには,全体の見晴らしこそが重要である。著者はこの司書の態度を肯定する。
 本を読まないことに意義があるとしても,読んでもいない本について語ることなどできるのだろうか?決して珍しいことではないという。わたしたちが普段何かの本を話題にするとき,そこで語られるのは記憶の中にある書物の断片に過ぎず,正確な内容などほとんど関係ないからだ。
 日常会話だけではない。本の批評も同じである。オスカー・ワイルドは,ある本について知るには10分もあれば用が足りる,それ以上読むのは批評の妨げになるとまで言い切っている。
 タイトルから想像されるような実用書と違い,本文中には本業の精神分析家らしい難解な概念も登場する。それでも小説を中心とした豊富な実例のおかげで,よく読めば基本的な考え方は理解できる構成になっている。紹介する本を著者自身が読んだかどうかを記号で示した注も面白い(訳者は解説で,やりすぎではと言っているが)。
 2008年に筑摩書房から出た単行本を文庫化したもの。同じく文庫で出ている『本を読む本』(M.J.アドラーほか著 講談社学術文庫 1997)とは対極の位置にある本と言える。二冊いっしょに読んだりするとめまいを起こしそうな気もするが,挑戦する価値はあるだろう。

(乙骨敏夫:前埼玉県立熊谷図書館)

洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光

森田創著 講談社 2014 ¥1,500(税別)
 
 2017年はプロ野球草創期に東京巨人軍で活躍した伝説の大投手・沢村栄治の生誕100年となる。2015年,初めて沢村投手の試合中の投球映像が発見され,NHK番組でも紹介された。1936年12月11日洲崎球場での東京巨人軍対大阪タイガース,第二回全日本野球選手権優勝決定試合のダイジェスト映像である。この映像を発掘したのが本書の著者森田創氏である。
 洲崎球場?と思われた方も多いだろう。プロ野球リーグが誕生した1936年,現在の東京都江東区新砂に建てられたプロ野球専用球場で,初の日本シリーズといわれる先の優勝決定戦など多くの名勝負が行われながら,1938年6月の公式戦を最後にいつしか消えていった伝説の球場である。
 本書は「球場の仕様,規模,収容人数,解体時期など,あらゆることが謎に包まれた球場」の「謎を解明したい」(p.6)という動機から,著者自身が「地球上にある資料はすべて読破した」と豪語する程に積み重ねた調査の集大成である。そこから描き出される,往時の選手たちのプレーや息づかいに,野球ファンなら必ず胸が躍るはずである。
 しかし本書は決して野球のマニア本ではない。風向き一つで左右されるポール際の打球。同様に洲崎球場のポール際にも「あらゆる運命をもてあそぶ,時代の風が吹いていた」(p.7)。戦争の足音である。洲崎球場で白球を追った選手たちも次々と出征,帰らぬ人となった選手も数多い。沢村栄治もその一人。もちろん生をまっとうした選手も時代に翻弄された。本書ではその一人ひとりの選手の足跡を丹念に追うことによって,たんに野球に収まらず,「時代の風」を伝える上質のスポーツノンフィクションとなっている。
 本書は2015年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞しているが,著者曰く「本は売れなかった」らしい。ぜひ図書館に一冊をと願う。

(仲 明彦:京都府立洛北高等学校図書館)

戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊

モリー・グプティル・マニング著 松尾恭子訳 東京創元社 2016 ¥2,500(税別)

 蛸壺壕の中で,一人の兵士が夢中で本を読んでいる写真。枯草と泥にまみれた兵士は,苛烈で陰惨な現実に身を置きながらも,表情は生気に満ち,真剣そのものだ。私はしばらく,表紙を飾るこの写真から目を離すことが出来なかった。
 1933年5月10日,ベルリンでは「書物大虐殺」と呼ばれる焚書が行われた。アドルフ・ヒトラーが,自己の思想信条に沿った国家を作り上げるための計画の一つで,大々的なプロパガンダ攻勢を仕掛けて他国を侵攻し,有害と考える図書を処分するというものであった。本書によると,東ヨーロッパの図書館のうち,957館の蔵書はヒトラーの命によって焼き尽くされたという。
 一方アメリカでは,ドイツによるプロパガンダ作戦に対抗する組織が立ち上がった。その一つがアメリカ図書館協会である。「ヒトラーが焚書によって言葉を抹殺するつもりなら,図書館員は読書を促す」として,「思想戦における最強の武器と防具は本である」というスローガンを掲げた。
 その具体策として,「戦勝図書運動」を立ち上げ,全国から寄贈された本を戦地に届けた。
 出版社は廉価な「兵隊文庫」を生み出し,1947年9月までに1億4000万冊の本を戦場へ届けた。
 前線の兵士は,食糧の包みに貼られたラベルの表示をも,むさぼるように読むほど活字に飢えていた。そして「どんな状況に置かれていても,ユーモアのある作品を読めば,笑うことができた」という兵士の言葉から,いかに本が希望と救いを与える存在であったかが伝わってくる。
 1942年,国務次官補,アドルフ・A・バール・ジュニアは「本と関わりのある人は皆…本が真価を発揮できるように心を砕くべきです」と述べた。
 本の力を信じている私も,本の真価を一層発揮させるには何ができるだろうか。あらためて襟を正さずにはいられなくなった。

(山成亜樹子:神奈川県立図書館)

日本のカタチ2050 「こうなったらいい未来」の描き方

竹内昌義,馬場正尊,マエキタミヤコ,山崎亮著 晶文社 2014 ¥1,500(税別)

 この本は,今注目の4人の研究者たちが,その専門性と独自の視点や論点から日本の未来のカタチを書き記したものである。人間に必要なコミュニティの育て方や関わり方(山崎),未来を想像させる風景⇒生き方(馬場),エネルギー自給を含めた効率的な住まい方(竹内),そして,生きるための権利と政治への向き合い方(マエキタ)について,それぞれが各章で記し,私たちがより豊かな未来を生きるためのヒントとなるさまざまな取り組みや事例を挙げている。また,未来を考える上で必要な統計データや著者おすすめの本も書影で紹介している。
 当初この本は,4人が2010年から4回シリーズで開催していたシンポジウムを編纂して出版する予定であった。しかし,シンポジウム最終回開催の1か月前にあの3.11(東日本大震災)が発生した。「その瞬間から,これまでの議論が一気にリアリティーを持って押し寄せた」(p.181)と感じた4人は,大震災発生から半年後には,シンポジウムの続編となる座談会を2回にわたり開催し,この本の最終章として掲載したのである。そして,ここに4人の切実なる思いが込められたことは容易に想像できる。
 4人を代表して馬場が「震災は,未来を私たちに突きつけたのかもしれない」(p.228)と最後に語っていることからも,この本は未来に向けた強い危機感によって編み出されたと言っても過言ではない。繁栄を築き上げたにもかかわらず日本は何を失ってしまったのか,そして,ここから未来につなげるために何が必要となってくるのか。さらなる向こうの豊かな未来を創造するために,まずは自分事として社会のしくみを見つめなおしてみたくなる,そんな一冊である。

(廣嶋由紀子:秋田県八郎潟町立図書館)

桜がなくなる日 生物の絶滅と多様性を考える

岩槻邦男著 平凡社 2013 ¥760(税別)
 
 この本をなぜ手に取ったかというと,やはりタイトルである。「えっ!桜がなくなっちゃうの?」思わずそう考えた。タイトルは,十分にキャッチーで,読んでみたくなる。そうした動機から,まず本と出会うというのは悪いことではないと思う。
 しかし,この本は,決して「桜がなくなること」を主題としたものではない。「はじめに」を読むとそのことはすぐにわかる。「…分かりやすく日本列島の植物の動態を概観することで,問題の本質について考えるきっかけを提供してみたい。」(p.11)というのだ。「桜」の話題は,全体の5分の1くらいと言ってもよい。
 最初に,秋の七草に数えられているフジバカマとキキョウが,絶滅危惧種のリストに載っていると伝えられる。万葉集の頃から親しまれていた植物がなぜそうなってしまうのか,解説はわかりやすい。これに続いて,「生物多様性」について力を注いで書いている。難解な「生物多様性」という言葉の意味を述べたあと,「生物多様性がもたらしてきたもの」について遺伝子資源と環境問題を背景に説明を加える。しかし,それだけでなく「生物多様性」は,自然と接することによる「人の生き方」に関連している点も多いと力説している。
 ここまで読み進めると「生物多様性」の重要度を伝えることが,この本の最大の目的だということがより鮮明になる。「桜」はそのひとつの材料なのだ。まだ日本の自生種のサクラには絶滅危惧種はないが,未来にわたってそう言えるのか,「サクラの現状だけから想定するのは危険」(p.161)と言う。またこうも言う。「一種でも生存が危うい種があるならば,それは生物圏全体に危機が及んでいることになる。」(p.161)
 著者は植物の多様性についての研究の第一人者。専門的な著作も多いが,新書判のこの本には,幅広い知識に裏付けされた「科学エッセイ」の趣がある。その中に重みのある提言が随所に見える。

(大塚敏高:前神奈川県立図書館)

健康で文化的な最低限度の生活(1)

柏木ハルコ著 小学館 2014 ¥552(税別)
 
 自己責任という名の妖怪が徘徊している。その妖怪の名のもとに,憲法で認められた権利さえ蔑ろにし,蹂躪しかねない言論が横行する。言論を取り扱う図書館としても,注目しておくべき現象ではないだろうか。
 さて,生活保護も妖怪がやり玉に上げる対象のひとつだ。本書は新人ケースワーカーの視点から,生活保護に関わる人間を描くマンガである。110世帯を担当する主人公が受給者に接して感じる困惑は,そのまま読者の困惑になる。「生活保護受給者」という概念ではなく,リアルな人間ひとりひとりと向かい合うことから来る困惑である。
 巷間ナイーブに語られがちな「不正受給」について(2巻で)取り上げるが,その言葉から思い浮かぶイメージと,ここでのエピソードとのギャップに虚を突かれる。人が「不正」を働くというのはどういうことなのか,なぜそれが起こりうるのか,想像できないと理解は単純な方向に傾く。人と接する仕事に従事する者にとって,想像力がいかに重要であるかを再認識させられた。
 また,いくつかのエピソードで,経済的困窮が「適切な情報があれば避けることができたもの」として描かれる(法テラスによる債務整理など)。情報提供機関である図書館としては看過できないところだ。「図書館に来てくれていれば,その情報に触れていてくれれば」とも感じるし,情報提供のための準備はできているだろうか,と自問もすることになる。そもそも生活保護受給者にとって図書館が利用しやすいものになっているだろうか,その視野に入っているだろうか,と。
 生活保護が経済のセーフティーネットだとすれば,図書館は知のセーフティーネットで(も)ある。その役割は「人を守る」ことにある,と自覚しておきたい。本書がそのネットの素材の一部たり得ることを確信している。

(大林正智:田原市図書館)

地方創生大全

木下斉著 東洋経済新報社 2016 ¥1,500(税別)

 現在,ありとあらゆる地域で,地方創生の名を謳って補助金を使った事業が行われているが,そのうち本当の意味で成功したところはどれほどあるのだろうか?
 この本は,地方創生という名に踊らされ,安易に補助金に頼ろうとする地方自治体に向け,警鐘を鳴らしている。
 失敗事例として,財政破綻をきたし,二人もの首長が引責辞任せざるを得なかった青森県青森市の「アウガ」が取り上げられている。私も昨年「アウガ」を訪れたが,その衰退ぶりには心が痛んだ。これは,地方が補助金に依存し,「身の丈に合わない一過性の莫大な予算」で華美な建築物をつくったものの,思うようにテナント料が入らず,維持費もかさんで赤字経営に陥ってしまったことが原因であった。ここまではいかないにしても,損失補てんに税金を投入し,逆に損失を雪ダルマ式に増やしてしまっている地方の事業は多そうだ。
 逆に成功事例には岩手県紫波町の「紫波マルシェ」があげられる。ここは補助金に頼らず,市中銀行からの借り入れで施設を整備し,農産物を卸してくれる農家を事前に募集し,出店料により運営している。全体の事業計画から逆算して,低い建築費に抑えたことや,テナント収入が安定して見込めるため,立派に黒字運営されている。
 地域の活性化は「おカネがないからできない」のではなく,「知恵がないからできない」のである。
 「紫波マルシェ」が入っている官民複合施設「オガールプラザ」には,ユニークな運営で知られる紫波町図書館も併設されているので,ぜひ一度足を運んでいただきたい。
 『町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト』(猪谷千香著 幻冬舎 2016)と合わせて読むことをおすすめしたい。

(砂生絵里奈:鶴ヶ島市教育委員会,日本図書館協会認定司書第1060号)

移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

高野秀行著 講談社 2012 ¥1,600(税別)

 日本のはずなのに,「『どこでもドア』のように,一瞬で外国に行ってしまう」(p.19)ように思える,国内のさまざまな外国人コミュニティ。文化,人生観,人々のつながりなど,異文化に触れる見聞記は面白い。
 200万人にも及ぶ,日本に移り住んできた外国人について,「私たち一般の日本人は,意外なほどそういう外国人の『ふつうの姿』を知らない」(p.19)と述べる著者は,飲食を媒介として,外国人個人と,その人が属するコミュニティの姿を,かた苦しくなく探る。アジア,アフリカを多く旅し,ユニークな視点でルポを残す著者だが,それでも取材ではさまざまな発見もある。
 本書では,タイ,イラン,フィリピン,フランス,中国,ブラジル,ロシア,スーダンの人々・コミュニティが登場する。「寒くて,気持ちいいです」(p.42)と発言するタイ人。大地震被災時でさえも「明るくしていなければかっこうわるい」(p.123)と思う(?)フィリピン女性。そんな人々のふるまい,日本への反応が,豊富につづられる。
 おりしも雑誌連載時に3.11(東日本大震災)に見舞われ,今度は外国人たちが,どんな被災生活を送ったのかの取材に変わる。取材相手をみつけ,支援を兼ねて食材も持ち各所を訪問していく中で,「炊出しをおこなう外国人に圧倒的に南アジアの人が多いのはカレーと関係があるのではないか」(p.93)という食文化上の想像も働かせる。
 長く高校勤めをしてきた私だが,図書館を通してでも,以前に比べ外国につながる生徒との接点が増えたと感じる。価値観や文化の違いに直面する機会もあった。個人との日常のやりとりだけではわからない,彼らの背景を多少なりとも知ることができればと思ったときに出会った1冊である。

(宮﨑 聡:神奈川県立横須賀明光高等学校図書館)

生物に学ぶイノベーション 進化38億年の超技術

赤池学著 NHK出版(NHK出版新書) 2014 ¥740(税別)

 38億年にわたる進化の中で,生物たちは生き延びるためそれぞれに技術を身につけている。
 生物模倣技術ならびに生物規範工学という学問は,人間が築き上げてきたのとは成り立ちの違う技術,生物たちの超技術を学ぶことで新たなイノベーションを起こすものである。この本では,この生物から着想を得たさまざまな研究・技術が紹介されている。
 「生物の形をまねる」,「生物の仕組みを利用する」,「生物がつくったものを活用する」,「生物そのものを扱う」,「生態系に寄り添う」という五つのカテゴリーで章立てがされている。この章立てにより,生物規範工学が,サメ肌水着やヘビの動きをヒントにした災害時用ロボットなどの形状・機能の模倣だけでなく,ガの生態的特徴から学んだ制がん剤や,シロアリやミドリムシから新たなエネルギーを生み出す研究へと広がり,最後には生態系にまで及ぶ分野であることがわかる。
 この生態系の話では「バイオスフィア2」という箱庭のような人工生態系計画の失敗にも触れている。その中では今後の科学技術が技術革新についてだけでなく,循環や共生といった自然がもともと持っている調和にも目を向ける必要があることまで書かれている。新たな技術への期待と近代科学への警鐘の双方が書かれていることが興味深い。また,実用段階に届いていない研究も紹介されており,人間の技術がまだ追いつかないこの分野の深さも感じられる。
 生物たちを見ることでこれまで気が付かなかった新しい技術につながる様子が書かれており,さまざまな問題に対する新たな着想も多数示されている。生物学分野に興味のない方にも,物事を解決する際に,見る角度を変えることや他の分野を知ることの重要性を確認させてくれる1冊である。

(岸 広至:飯能市教育委員会)
 

竹島水族館の本

蒲郡市竹島水族館著 風媒社 2016 ¥1,300(税別)

 数年前,小さなライブ会場で,あるミュージシャンが愛知県蒲郡市にある竹島水族館のホームページを絶賛していた。帰宅してホームページを見てみると,弱小貧乏水族館であることを半ば自虐的にアピールしていたり,スタッフがあれやこれやとチャレンジするコーナーがあったりで,笑ってしまうのと同時に,努力や工夫に感心させられた(当時のホームページは現在より手作り感のあるデザインだった記憶がある)。
 その竹島水族館の本が出た。詳しく知りたくなり手に取った。本の前半は「竹島水族館 深海生物図鑑」,後半はスタッフの活動の記録という構成だ。私は後半に興味があったのだが,日本一の展示種数を誇るという深海生物の図鑑は,竹島水族館流の小ネタが満載で,本書を見ながら実際に観察してみたくなるものだった。
 後半は密度が濃い。ユーモアにあふれた「伝統引き継ぐアシカショー」,運営や日常の仕事を伝える「人気の秘密ここにあり!」,催事や企画を紹介した「こんな楽しみ方はいかが?」の各章,そして多数のコラムが載っている。
 例えば,水族館の「バックヤードツアー」は,当日の朝,くじで担当者を決めているそうだ。それぞれ得意分野も興味も違うので,話す内容はまちまちになる。他のスタッフに負けまいと,ネタを仕込んだり,知識をつけなくてはならない。結果「全員分を聞き比べるのがオススメ」となる。
 また,スタッフには「お小遣い制度」もある。ベテランも若手も一定のお小遣いを与えられ,使い道は自由だそうだ。多数の魚を買っても,高級魚を1匹だけ買っても,ある季節に集中的に使うこともできる。この方法,図書館で選書の一部として導入してみても面白いかもしれない。
 他分野の本を読んで,図書館の業務のヒントを見つけていくのは楽しい。

(高田高史:神奈川県立川崎図書館)

秘島図鑑

清水浩史著 河出書房新社 2015 ¥1,600(税別)

 この本の帯には「本邦初の“行けない島”ガイドブック」とある。
 目次を見ると,これまで『Shimadas 日本の島ガイド 第2版』(日本離島センター編 日本離島センター 2004)など日本の島について書かれた本の中でもそれほど詳細に表記されてこなかった無人島などが紹介されている。
 島国である日本には,6,800もの島々がある。この本には,一般の公共交通機関がなかったり,住民がいない“秘島”について,面積等のデータだけでなくアクセス方法,島の歴史,写真,地図まで書かれている。さらに,島の説明だけではなく,どうしたら“秘島”を身近に感じることができるか実践編まで書いてある。
 東京都の硫黄島(p.58)は,太平洋戦争末期に住民が強制疎開させられ,映画『硫黄島からの手紙』で多くの人が知ることとなった島である。激戦の地となったこの島にはいまだに元住民は帰島できないが,自衛隊や施設工事関係者など400人も駐在していることは知られていないだろう。
 行けない島のことを知って何になるんだと思う方もいるかもしれない。しかし,絶海の孤島は,気象観測地でもあり,国境,軍事面での要所なのだ。硫黄島のように戦争の惨禍に見舞われた島,西之島(p.54)のように現在も度重なる噴火活動で拡大し続け,地球が生きていることを実感させる島,臥蛇島(p.74)や八丈小島(p.78)など高度経済成長に取り残され,過疎化が進み無人にならざるを得なかった島々の現実を知ることは重要である。
 四方を海に囲まれている島国ならではの,日本が抱えているさまざまな問題について,考えさせられる1冊である。

(松本和代:菊陽町図書館,日本図書館協会認定司書第1088号)

コバルト文庫で辿る少女小説変遷史

嵯峨景子著 彩流社 2016 ¥1,800(税別)

 人はいつ,少女ではなくなるのだろうか。
 少女小説と呼ばれるジャンルの歴史は古く,明治期までさかのぼる。アカデミズムの世界では周縁的な小説群とされがちだが,近年も研究書が刊行されるなど,少女小説研究は定着しつつある。
 集英社のコバルト文庫を中心に戦後半世紀を総括する本書は,雑誌,文庫,現在のソーシャルメディアに至るまで,異なる発表媒体を網羅しながら個々の作品に触れ,読者共同体の変容にまで言及している点が新しい。
 本書の出版後,著者あてにかつて少女小説を愛読していた読者たちからの熱意あふれる感想が寄せられたという。私自身もまた本書を読みながら,思春期に寝食を忘れて読みふけった少女小説の記憶が懐かしさとともに細部までよみがえった。少女期に愛し,成長の過程とともに自然と遠ざかりながらも,私もまたあのころのみずみずしい感性を忘れていなかったのだと思い知った。
 時代の空気を敏感に察知しながら,目まぐるしくうつろう少女小説の変遷を一歩ずつたどりながら,著者は少女小説を貫くものを「居場所」と位置づける。現実の困難を乗り切るためにそこにあり続けてきた,切実かつ親密な居場所は,少女が少女でなくなったとしても,読者の心にあり続ける。
 かように少女小説とは,児童サービス,YAサービスの観点からも重要でありながら,読者にとって旬が短く新作が次々と刊行されるなど評価が定まりにくいことなどから,図書館員にとっては悩ましい作品群であると言える。戦後少女小説の通史を概観し,作品名とその評価を把握できる点でも,ありがたい労作である。

(三富清香:新潟県立図書館)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち

上間陽子著 太田出版 2017 ¥1,700(税別)
 
 「15歳のときに,地元を捨てた」著者が沖縄に戻り,「今度こそここに立って,女の子たちのことを書き記したい」という思いで,6人の少女の人生を書いた1冊。
 私が特に印象に残ったのは,「カバンにドレスをつめこんで」である。これは,鈴乃という名前の女性が高校の定時制課程に入り直し,夕方になるとカバンにドレスをつめこんで学校に行き,学校が終わったらそのまま,キャバクラに出勤していたことからとったものだ。
 取材時,彼女は日中,看護専門学校に通い,夜はキャバクラで働きながら重い脳性まひの子どもをひとりで育てていた。彼女は16歳で子どもを産むが,恋人から暴力を受け続け,傷跡をメイクで隠して入院中の子どもを見舞う生活をしていた。その時,彼女を気遣ってくれた看護師がいたことから「看護師になりたい」という夢を抱き,奮闘していた。彼女の意志や努力には頭が下がる。しかしそれ以上に,著者の「それにしても,鈴乃はなぜこんなにもがんばり続けないといけないのだろうか。」という一文がとても心に沁みた。
 家族や周囲から支援を得られない少女たちは時に,着のみ着のままの裸足状態で逃げなければならない状況にさらされる。これを自己責任とするのは間違っているし,精神的・経済的に頼れる存在がいる人とはスタートライン自体が違うので,安易な比較など許されないだろう。
 私は沖縄を訪れた経験もなく,この本に書かれていることが地域に限ったことなのか判断できない。しかし,6人の人生と,それを書き記さなければならないと決意した著者の心から目を背けてはならないと強く感じるのだ。

(川﨑彩子:飯能市立図書館,日本図書館協会認定司書第1132号)

むし学

青木淳一著 東海大学出版会 2011 ¥2,800(税別)
 
 ジャポニカ学習帳の表紙から虫が消えた。虫は不潔で気持ち悪い,昆虫採集は環境破壊だ,反対だという意見もあるそうだ。そんななか「なんといわれようと,私は昆虫採集を子供にも,大人にも勧める」(p.74)と言い切る,ダニ研究の第一人者が著した「むし学」への愛とユーモア溢れる1冊を紹介する。
 本書は,虫の研究に興味のある人に向けた「むし学」入門書である。虫とは何かを漢字を絡めてわかりやすく説明することに始まり,虫の生態,人間と虫の関わりなど,広い視点で,昆虫以外も含めた「虫」について説明している。新種の和名に命名者の名を付けると顰蹙を買うので,恩師の名前から「ヤマサキオニダニ」と付けたら鬼とは何かとこれまた顰蹙だった,などという虫嫌いにも面白い話題が満載だ。また実用に際した知識が多く,昆虫採集時の持ち物や方法についても詳しく説明している。失敗を織り交ぜて語る経験談は,直接教えを受けているようで親しみやすい。
 本書からは,虫を愛し研究を楽しむ著者の熱意と活力が伝わってくる。「○○学部に入って,○○をテーマにしたほうが,将来良い職業にありつけ,楽ができるだろうなどという考えは捨てたまえ。どんなに良い境遇にあっても,仕事を嫌々やっていたのでは,芽が出るはずがない。」(p.112-113)人生は一度きり,やりたいことをやるべきだ,というありふれた言葉も,言行一致の著者が言うからこそ素直に受け止められる。
 表紙は明るい黄色一色の地に,「むし学」とタイトルがあるのみ。シンプルな表装は,虫に興味がない方も気軽に手に取りやすいはず。読めば思わずクスリとしてしまうこと請け合いだ。

(山本輝子:埼玉県立久喜図書館)

「表現の自由」の守り方

山田太郎著 星海社発行 講談社発売 2016 ¥840(税別)
 
 まず表題が目にとまった。
 「表現の自由」は知る権利と一体のものと言うけれど,自由を守らなければならない「表現」とは何か,あまり考えたことがなかった。図書館に勤める者としては知っておくべき?と思ったのだ。
 本書の第一章で取り上げられているのは,児童ポルノ禁止法(児童買春,児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律)とアニメ・マンガ・ゲームの規制。以下,TPP(環太平洋パートナーシップ)協定と著作権,有害図書と軽減税率などが話題となっている。
 もちろん,どのような表現が規制の対象とされようとしているのかという部分も勉強になったが,国会でどのようにやり取りして法律の条文を決めていくのかという過程も,とても興味深かった。
 ところで,「表現の自由/知る権利」を守ろうとする物語としてすぐに思い浮かぶのは,『図書館戦争』(有川浩著 メディアワークス 2006)ではないだろうか。知る権利を保障する“図書館の自由”を守るために,実力行使も辞さない世界の話だ。本書にはほかに,『有害都市』(上・下 筒井哲也著 集英社 2015)と『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(全11巻 赤城大空著 小学館 2012~2016)も,同テーマの作品として紹介されていた。
 『図書館戦争』と「下ネタ」なんて言葉がつく作品が同列?と思うかもしれない。だが『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』という作品も,思ったことや感じたことを自由に表現することが,いかにその人の生きる根幹にかかわっているかを描いたものであり,「表現の自由/知る権利」のために戦うという点では前者と変わりない。――はずなのだが,わたしの身近な図書館はどこも後者を所蔵していなかった。いろいろなことを考えることになった。

(小野 桂:神奈川県立川崎図書館)

イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑

澤宮優著 平野恵理子イラスト 原書房 2016 ¥2,200(税別)
 
 ノスタルジックな仕事のイラストが,表紙に多数描かれている。電話交換手や氷屋などはすぐに見当がつくが,精かんな顔立ちに見える鳩は,どのような職種に携わっていたのだろうか。
 鳩のたたずまいに心惹かれ,ページをめくると「情報通信」の項に新聞社伝書鳩係の記述を見つけた。関東大震災をきっかけに,各新聞社は独自に伝書鳩を飼育し,地方からの記事を集めた。仙台―東京間の場合,約300kmを4時間40分で戻り,重大スクープを運んだ鳩には,社長賞が授与されたという。電送などの通信手段の発達によって,昭和30年代半ばには出番がなくなり,電波が飛び交うように行き交っていた伝書鳩たちも,技術の発展に伴い徐々に仕事を失っていった。
 私が子どものころは,近所に養鶏場や牛舎があって温かな卵のぬくもりを感じ,搾りたての牛乳を飲ませてもらっていたが,生業のパートナーとしての動物たちは,都市部から放逐されつつある。動物と人間の関係性についても考えさせられた。
 本書は,産業分類ごとに115種類もの仕事が図鑑形式でまとめられている。バスガール,文選工,毒消し売り,活動弁士,紙芝居屋,のぞきからくり,幇間,代書屋など見開きの解説とイラストは仕事の内容を理解するうえでとてもわかりやすい。ここに紹介されている失われた仕事に就いていた人たちは,みんな懸命に働いていた。今日を生きるため,とにかく働く。読んでいるうちに,職業紹介にとどまる内容ではないことが伝わってきた。昭和という時代,高度経済成長,人々の活力,過去から現在,未来へと考えが及ぶ。はたして今日ある仕事は,いかなる変遷をたどるのであろうか。
 同著者の『昭和の仕事』(弦書房 2010)は,ある放浪詩人の職業遍歴など約140種類の仕事を紹介しており,こちらもあわせておすすめしたい。

(横山みどり:越谷市立図書館)

弱いつながり 検索ワードを探す旅

東浩紀著 幻冬舎(幻冬舎文庫) 2016 ¥540(税別)
 
 著者は近年注目の現代思想研究家であるが,本書は「ネットは階級を固定する道具です。」という挑発的な一文から始まる。そして「『かけがえのない個人』などというものは存在しません。ぼくたちが考えること,思いつくこと,欲望することは,たいてい環境から予測可能」(p.13)だとネット社会を分析する。だからこそ「環境を意図的に変え」「グーグルが与えた検索ワードを意図的に裏切ること」(p.14)で,環境がはめ込もうとする姿を自らの手に取り戻すことを提案する。そしてその具体的な方法や意味を著者のさまざまな体験をもとに述べている。
 またネットには無限の情報が溢れていると思われがちだが「だれかがアップロードしようとしたもの以外は転がっていない」(p.65)ことを強調する。その上で「言葉にならないものを言葉にしようと努力すること」(p.65)が重要だと言う。そのためには弱いつながりの関係性を保ちながら,「観光客」の視点でリアルに「旅」をする必要性を訴える。
 私事で恐縮だが,自宅から職場までに書店が1軒もない地域に住んでいると,ネット書店のお世話になることが多い。ご存知のとおりネット書店は,前回検索した本をもとに趣向にあった本を提示してくれるため,探す手間が省けて便利である。ただそれを繰り返していると,何やら不安な気分になってくる。この感覚はネットによって自分の環境を固められてしまうことに対する,まさに本能的な拒否感覚ではないだろうか。リアルな身体感覚による移動,つまり書店に出向いて本を探す作業――本書で言うところの「ノイズ」を入れること――は,やはり大切なのだ。
 本書は「哲学とか批評とかに基本的に興味がない読者を想定」(p.18)とある。SNSにどっぷり浸かっている若者にこそ読んでほしい1冊である。

(亀田純子:神奈川県立津久井浜高等学校図書館)

プーチン 人間的考察

木村汎著 藤原書店 2015 ¥5,500(税別)
 
 2016年は,国際政治においてまさに激変といえる年であった。英国が国民投票でEU離脱を決め,米国の大統領選挙では過激な発言の数々で有名なトランプ氏が当選した。フィリピンでもドゥテルテ大統領が誕生し,行き過ぎた麻薬取締による人権軽視に批判が集まったことが記憶に新しい。さて,似たようなタイプの政治家が従前より活躍していた国があるのはご存知だろうか。そう,ロシアのプーチン大統領である。彼もまた「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる」などと,時に人権を軽視した,あるいは品のない発言が話題となる,強権的とされる人物だ。
 「プーチンが大統領に就きさえすれば,ロシアでは万事が一挙に好転するのではないか。このように自分勝手な想像で,有権者たちはプーチンにたいする期待感をふくらませはじめた。」(p.64)
 この光景,どこかで見覚えはないだろうか。
 本書は,ロシアの政治がプーチン氏個人にかなりの程度依存していることを指摘している。それとともに,彼の力の源泉は何なのか,また民衆のどのような欲求が彼に票を与えているのかを,彼の幼少期の経験まで遡り,緻密に積み上げて検証するものだ。
 これが現在のロシアを考えるのに必要不可欠であることは言うまでもないが,それに加えて,私は先に挙げたような「激変」が何故起こったのか,何が人々の望みであったのか,そういうことを考えるうえでも,有益な示唆を与えてくれるものだと考えている。
 プーチン氏を通して,政治におけるリーダーシップの役割や,それを制約する環境との関係など,政治理論一般にまで敷衍して説明している。彼のやり方を通して,民主主義というものの課題やそれとどう向き合っていくべきかなど,そこまで考えさせられる力がこの本には秘められている。

(前田真樹:飯能市立図書館)

世界のエリートが学んでいる教養としての哲学

小川仁志著 PHP研究所 2015 ¥1,400(税別)
 
 「哲学」という世界を覗いてみようとしたとき,果たして途方にくれてしまった。著名な哲学者の書を読むほどに自分が哲学の世界のどこを歩いているのかわからなくなっていった。そしてたどり着いたのは,「そうだ,教科書を読もう!」。
 学生ではない大人に教科書の需要があるのは,効率的に公平に世界を理解できる本として認識されているからだろう。教科書そのものではないが,そうした役割を果たしてくれるのが本書である。「グローバルビジネスに必須と思われる哲学の教養を,ビジネスのためのツールとして位置付け,紹介していきます。」(p.9)と目的を説明しているが,世界で活躍する予定がなくても,哲学の道を歩く前に入り口で迷った人を救う教科書として活用することができる。
 哲学という分野を歴史,思考,古典,名言,関連知識,人物,用語,という複数の視点から見ることにより全体像を俯瞰してとらえられるように構成されており,これから読むべき哲学書を選択する際の参考にもなる。関連知識として,宗教,倫理,日本の思想についてもふれており,多文化を理解する上で必要な知識も得ることができる。
 第一章にあたる「ツール1歴史」の冒頭には「大づかみでわかる哲学史」という図が登場する。古代ギリシア,中世,近代,現代の哲学の流れが一目でわかるように整理されており,この図を頭に入れて読み進める感覚は,地図を持って道を歩くのに似ている。哲学の道のどこを歩いているのかを意識しながらの読書は知識や自分の考えの整理もしやすい。
 本書のタイトルには「教養」という言葉が含まれているが,教科書で得た知識を教養に育て自分のものとするのは,自ら選んだ本のその後の読書だろう。

(山下樹子:神奈川県立図書館)

中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義

中島岳志著 白水社 2005 ¥2,200(税別)
 
 インドカリーで有名な新宿中村屋は新宿駅近くで存在感を示している。カリーの由来は1915年(大正4年)に来日した1人のインド人に遡る。
 インド独立運動のリーダーといえばチャンドラ・ボースを思い浮かべるものの,ここでは先輩格のラース・ビハーリー・ボース(以下R.B.ボース)が主人公である。英国からの独立闘争の指導者であり,インド総督爆殺未遂事件の首謀者として英国官憲に追われる身となる。ノーベル賞作家タゴールの身内を装い日本に逃れるも,探索は身辺に迫る。その危機を救い匿ったのは中村屋の主人相馬愛蔵であった。まさに侠気である。まるで冒険小説のような逃避行を経て,ここから中村屋との深い縁が生じ,やがて娘の俊子と結婚して日本国籍を取得する。中村屋には本場のインドカリーを伝授する。
 R. B. ボースを取り巻く人脈は多彩で,頭山満,内田良平などの右翼団体玄洋社・黒竜会系の人士をはじめ,大川周明,安岡正篤,犬養毅などがいて,一方では孫文とも交流があった。R.B.ボースは日本の力で英国を駆逐しインド解放を目指し,日本側はアジア進出の橋頭堡と現地の親日勢力確保に利用しようとしていた。やがて大東亜共栄圏構想に取り込まれ軍部に同調する彼への同志たちの不信は募り,病魔にも侵され,チャンドラ・ボースにその地位を譲ることになる。
 気鋭の政治学者として注目されている著者らしさが随所に見られる。例えばR.B.ボースを庇護した玄洋社・黒竜会系には思想があるわけではない,心情的アジア主義者であって「重要なのは,思想やイデオロギー,知識の量などではなく,人間的力量やその人の精神性・行動力にこそあった。」(p.129)と評している。著者と島薗進の対談『愛国と信仰の構造』(集英社 2016)もあわせて読むことを薦めたい。

(若園義彦:元鶴ヶ島市立図書館)

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

開沼博著 青土社 2011 ¥2,200(税別)
 
 福島第一原子力発電所事故の直後に行われた4月統一地方選挙では原発立地の自治体で安全対策の是非が争点となったが,原発反対派の目立った伸長はみられなかった。反原発運動の高揚もあったが,原発の再稼働の動きも止まらない。あれだけの過酷事故が起きたにもかかわらず,この国は,なぜ脱原発へと舵が切れないのかという疑問を抱え続けていた時に出会ったのが本書だった。
 著者は福島県いわき市出身。3.11(東日本大震災)以前に書いた修士論文をもとに構成されている。主題は「フクシマ」が原子力を受け入れて現在までを「中央と地方」「戦後成長」などをキーワードにして研究したもの。学術論文という地味本ながら,3.11原発事故によって注目を集めた。
 「地方は原子力を通して自動的かつ自発的な服従を見せ,今日に至っている」(p.358)という言葉に私の疑問解決のカギがあった。原発を受け入れたムラは,出稼ぎがなくなり,さまざまな商店ができ,都会をムラに現出させることによって原発は「信心」となっていく。スリーマイル,チェルノブイリ,東海村JCO臨界事故が起きても「出稼ぎ行って,家族ともはなれて危ないとこ行かされるのなんかよりよっぽどいいんじゃないか」(p.112)と「ムラ」の安全を信じてしまう意識構造が原発の維持を支えている。
 地方行政でも,元知事佐藤栄佐久の「原発・プルサーマルの凍結,見直し」に対し,中央からの推進圧力とともに県会議員や原発立地自治体から凍結反対の声が上がる。こうして中央と共鳴しながら自ら持続的に原子力を求めるシステムが強固に構築されていく。
 3.11以降も「原発には動いてもらわないと困るんです」(p.372)と,ある原発労働者は生活の糧としての原発の存続を願う。原発を「抱擁」し続けるこの国の在り様が,若手社会学者によってまざまざと描き出された一冊である。

(秋本 敏:長野県短期大学)
 

破綻からの奇蹟 いま夕張市民から学ぶこと

森田洋之著 南日本ヘルスリサーチラボ 2015 ¥1,200(税別)
 
 先日関西の館長クラスが集まった雑談の席で,いまも公共図書館が未設置の市の話題になった。その一つである北海道夕張市は,2007年に約353億円の赤字を抱えて財政破綻した自治体である。このニュースは,自治体も倒産するのだという衝撃とともに,炭鉱と特産のメロンで全国的に名の知られた町がダメになってしまうのかという悲哀感と,自分の住む町も同じようなことになるかもしれないという不安感を日本中に抱かせたと思う。
 夕張市の人口は1万人,全国の市の中で高齢化率が47%と日本一である。財政破綻の影響で,さまざまな行政サービス,公共サービスが停止した。
 市内唯一の総合病院の閉鎖もその一つである。CTやMRIなどの検査機器も,救急病院もなくなり,住民は十分な医療を受ける手立てを失った。では,住民は安心して夕張で暮らすことができなくなってしまったのだろうか。
 2009年当時,南国宮崎県の大きな急性期病院の研修医であった著者は,豪雪の夕張に家族とともに転居し,今までとは180度違う医療現場に携わった医師であるが,上記の問いに対し明確に「否」と答えている。大きな理由は,住民の終末期医療に対する意識が変わったことだそうだ。これを受け,今後の医療の役割についての著者の真摯な考えも示されている。
 こう書くと,難解な内容かと読むのを躊躇されるかもしれないが,3人の登場人物が軽妙に対話をしながらわかりやすく医療現場のキーワードを伝えてくれる内容で,住民の日々の生活もいきいきと描かれている。
 2060年には高齢化率が40%を超え,日本全体が夕張市と同じ状況を迎えるという。「大きな病院で診察してもらえば安心だ」という「なんとなくの当たり前」を見直し,自分が受ける医療を身近な問題としてとらえることができる一冊である。

(岩本高幸:桜井市立図書館)

日本語の科学が世界を変える

松尾義之著 筑摩書房 2015 ¥1,500(税別)
 
 話題提供の意図もあり,遠出した折には私はあえて関西弁で話すことにしている。「関西弁ってあったかいですよね」,こう話される方の地域の言葉にこそ,私は温かみを感じる。
 方言に親近感を抱く以上に,日本語を母語とする我々は英語に対して強い憧れを抱く。世界の共通語が英語だということがその理由だろう。他方,この影響が顕著に現れるはずの科学の世界において,日本語で考えることの有効さとその重要さが,本著で述べられている。
 科学の世界になじみがなくても,「陽子」にプラス電荷を帯びていることや「葉酸」が植物の葉に含まれることは推測できる。「分光学」と聞いて「光を分ける」ことと何らかの関係があることも想像できる。どうやら,英語ではこううまくはいかないらしい。
 これらは訳語の力である。普段我々が使う概念を表す言葉の多くは,外国から持ち込まれ,明治期に翻訳されたものであり,「科学」もその一つである。つまり,科学を「科学」と呼んだ時点で,我々は「日本語で」科学をとらえているわけである。
 著者は,科学雑誌の編集者として,またジャーナリストとして,日本語の話者にも英語の話者にも理解を得られるよう工夫を織り込みながら,翻訳を繰り返してこられた。この経験に基づいた解説や主張には非常に説得力があり,専門家と一般読者の間を取り持つこの著者もまた,他の研究者と同じく世界の科学に貢献している存在であるといえる。
 ところで,本著での主張を曲解して冒頭の話に当てはめると,旅先でも関西弁で考え行動することを勧められるわけである。が,仮にこれを実行した場合,周囲の人々が多大な迷惑を被ることは避けられず,こればかりは慎まなければならぬと強く決心した私である。

(栗生育美:吹田市立中央図書館)

オオカミの護符

小倉美惠子著 新潮社 2011 ¥1,500(税別)
 
 神奈川県川崎市宮前区土橋。私の地元から少し離れた,都会的で洗練された街というイメージを抱いていた。
 川崎市内の職場に勤務していた時,先輩職員が勧めてくれたのが『オオカミの護符』であった。読み進むにつれ,地域には太古から息づく文化が現代にも脈々と伝わっており,土橋地区の「もう一つの顔」をこの本から垣間見た思いがした。
 著者・小倉美惠子氏の生家にある土蔵の扉に貼られた「護符」。幅10cm,長さ30cmほどの細長い紙には,鋭い牙を持つ「黒い獣」が描かれていた。「護符」は何度も張り替えられ,土橋地区の農家の戸口や台所,畑などに掲げられていたそうだ。しかし,昭和47(1972)年頃から急速な人口の増加,街並みの整備に伴い,「護符」を見かけることも,その存在を知る人も少なくなってしまったそうである。著者自身,「護符」はどのように入手しているのか疑問に思っていた矢先,「土橋御嶽講」の存在を知ったそうだ。
 「土橋御嶽講」とは,農繁期が始まる前に,作業の無事と豊作を願って「講」を組んで青梅市の武蔵御嶽神社にお参りに行き,「護符」をいただいてくる行事である。「護符」に書かれている言葉の意味,描かれた「黒い獣」の正体を追って,青梅市から調布市,埼玉県三芳町,秩父市,山梨県・・・と,関東一円に舞台は広がっていく。各地で継承されている神事,風俗には現代の暮らしの礎になっているものも少なくない。
 一枚の「護符」がもたらしたもの。それは,地域に息づく先人たちの「声」を私たちに届けてくれる,時空を超えた旅であった。変化の激しい社会の中で,手間をかけ,風習を守り伝えることは生易しいことではない。しかし,郷土を大切に思う人びとの気概を胸に刻み,未来の世代へ伝えていきたい,その思いを新たにした1冊である。

(山成亜樹子:神奈川県立図書館)

断片的なものの社会学

岸政彦著 朝日出版社 2015 ¥1,560(税別)
 
 いじめられた,というほどはっきりした体験でなくとも,何となく仲間外れのような感じ,誰ともなじめない気持ちが持続してしまう時期があったことはないだろうか。どうにかそこを生きのびた後で,あの頃の自分や,今それと同じような状況にいる人に送りたくなるような一言――なかなか言語化できなかったそういうようなことを言い当ててくれたようなところが,この本にはあると思う。
 たとえば,「ある人が良いと思っていることが,また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜか」(p.111)。それは,それが「個人的に良いもの」ではなく,「一般的に良いもの」という語りになってしまったときに,そこ(一般)に含まれる人と含まれない人の区別を作りだしてしまうから。「子どもを持つのが幸せ」という言説は,さまざまな事情で子どもがいない人をつらい思いに追い込む。けれどもその言説に合致する人にとっては,逆に肯定感が増して生きやすくなったりもする。だからどうだということは,ここでは言われない。ただ,そういう仕組みがあることをわかったほうが,たぶん気が楽になる。
 また,「誰にでも,思わぬところに“外にむかって開いている窓”があるのだ。私の場合は本だった。(中略)彼女にとっては,夜の仕事が外へ開いた窓になった」(p.82-83)。いつもいる場所とは違う世界が“ある”ことを知らなければ,その世界で何かまずいことが起こったときに破たんまでつきすすんでしまいかねない。けれど,世界はそこしかないわけではないよ――と,そのことを知っているだけで,だいぶ違う道が開けることもある,ということが大切なのだと気づかせてくれる。
 いろいろな聞き取りをしてきた社会学者のエッセイである。各章の冒頭に掲げられている写真もいい。

(小野 桂:神奈川県立図書館)

翻訳できない世界のことば

エラ・フランシス・サンダース著 前田まゆみ訳 創元社 2016 ¥1,600(税別)
 
 学校図書館は限られた年齢の子どもたちを対象にサービスを行う図書館。一口に学校図書館と言っても集まってくる生徒が求めるニーズは学校によってさまざまで,収集する本は学校の教育課程の内容により,特徴が変わる。
 私の勤務している高校は,普通科と外国語科の2学科がある女子伝統校。女子校ということもあり,生徒たちはかわいい本が大好きだ。
 先日,本校外国語科の講演会で,翻訳家の金原瑞人さんのお話を聞く機会があった。印象に残ったのが,「I」という一人称も「You」という二人称も,日本語では100通り以上の言い表し方があるけれど,日本語の「私」も「僕」も「俺」も全部,英語に訳すと「I」になるという話だった。
 この本には翻訳できない世界の言葉が52載っている。見開き1ページで単語を紹介し,その単語にぴったりのイラストと解説が添えてある。たとえば,ドイツ語の「Drachenfutter」(ドラッヘンフッター)という単語は,直訳すると『龍のえさ』。夫が悪いふるまいを妻に許してもらうためのプレゼントを表す名詞だそうだ。『龍のえさ』という名詞に,そんな深い意味があるなんて!
 SNSなど情報伝達手段が発達し,世界中の人とのコミュニケーションができるようになった。それでも,言葉の解釈やそこにこめられた感情や要望など,理解のギャップを埋めることは,そう簡単にはできない。この本は言葉を通して人とつながることの意味を考えさせてくれる。
 52の言葉の中には,日本語が四つ入っている。「ボケっと」「ワビサビ」「ツンドク」「木漏れ日」。私は「木漏れ日」の解説が好き。【木々の葉のすきまから射す日の光のことで,まばゆくて目を閉じてしまうほどに美しいもの。緑の葉のあいだをすりぬけた光は,魔法のように心をゆさぶるでしょう。】言葉が響いてくる本だ。

(木下通子:埼玉県立春日部女子高等学校図書館)

ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質 上・下

ナシーム・ニコラス・タレブ著 望月衛訳 ダイヤモンド社 2009 各¥1,800(税別)
 
 大きな地震とともに“想定外”と称された歴史的な事故が日本で起こってから,はや6年がたとうとしている。この6年の月日は被災地に生活の足音と,別の土地にまた新しい災害を無表情に運んできた。規模の大小を問わず,まだ見ぬリスクに対して人々は知識とデータを根拠に予測を試み,未来を想定し,対策を考えている。一度切ってしまった“想定外”というカードを使うことは,もう許してもらえない。
 本書中では,現実的に起こる確率の低い,しかし起こってしまえばとてつもない衝撃を与え,なおかつ想定することが困難な事象を「黒い白鳥」と呼び,いろいろな角度から考えを深めていく。浮き上がってくるテーマは「未知の未知」や「予測の限界」等。私たちが未来の黒い白鳥に対してどう準備すべきかのヒントがあちこちに散りばめられている。ただし,そのヒントはもしかするとわかりづらいかもしれない。地図はあってもナビゲートまではしてくれない。本書においてはそのこと自体にもきちんと意味を持たせている。大災害やテロに限らず,身近なところで私たちの今の環境を大きく変えてしまう事象に,どう向き合っていくのか。拾ったヒントをパズルのように組み合わせていく体験こそが本書の醍醐味である。
 リスクに対する準備というテーマを扱った類書に『最悪のシナリオ 巨大リスクにどこまで備えるのか』(キャス・サンスティーン著 田沢恭子訳 みすず書房 2012)がある。こちらは「1パーセント・ドクトリン」の概念を採用し,主に費用対効果の面からページを進めていくが,2冊を並べることで「ブラック・スワン理論」の輪郭がよりはっきりと浮かび上がる。より多くのヒントを手元に置くために,こちらの本も(少し専門的ではあるが)ぜひお薦めしたい。

(髙橋将人:南相馬市立中央図書館)

本の声を聴け ブックディレクター幅允孝の仕事

高瀬毅著 文藝春秋 2013 ¥1,850(税別)

 書籍の売り上げが落ちる中,インテリアとしての本に注目が集まっている。「ブックディレクター」幅允孝(はば・よしたか)の元には,病院,レストランなどのほか,本の多彩な魅力に引き付けられたさまざまな企業から依頼が殺到する。
 幅は依頼主の意向に耳を傾けながら,本棚づくりの大体のイメージを練る。その際,書店の一般的なジャンル分けや図書館分類とは異なる視点で「セグメント」化を行う。福岡の美容室を例に挙げると,「装い」「スタイル」「食も大事」「子どもたちへ」「すてきな生き方」などである。そして,一見つながりの薄い本を配置する。
 「ベストセラーも,そうでない本もさりげなく“共存している”」(p.70)棚には押し付けがなく,「本好きが往々にして陥りやすい偏った選書ではなく,多くの人がさまざまなテーマに関心を持てるようなポピュラリティーを持った水準で,専門書からコミックまで集め,それぞれの棚で一つの世界観を作っていく」(p.91)。
 こうした棚づくりの根底にあるのは,どんなものでも等価値とみなす考え方である。幅は上から目線を極力排除しようとしているのである。
 棚づくりの発想そのものはこれまでにもあった。1980年代に一世を風靡した池袋リブロの「今泉棚」や,本文中で紹介されている編集工学者松岡正剛の「松丸本舗」もまた,独自の思想に基づく棚づくりだった。
 出来上がった本棚は三者三様だが,共通点が一つある。三人とも大変な読書家だということである。幅は精読する本だけで,年間300冊におよぶという。広範な読書に支えられなければ,多くの人の共感を呼ぶ棚づくりは不可能なのだろう。
 『リブロが本屋であったころ』(論創社 2011),『松丸本舗主義』(青幻舎 2012)と併せ読むことで,いくつもの貴重なヒントが得られるはずだ。

(乙骨敏夫:前埼玉県立熊谷図書館長)
 

研究不正 科学者の捏造,改竄,盗用

黒木登志夫著 中央公論新社(中公新書) 2016 ¥880(税別)

 人は何故,不正に手を染めてしまうのだろう。また,不正が後をたたないのは何故か。
 STAP細胞事件は皆の記憶に新しい。あの事件では遂に自殺者まで出してしまった。自殺した笹井氏は,優秀な研究者で世界にとって貴重な人材だった。
 この本は研究不正に関する古典的名著『背信の科学者たち』(ウィリアム・ブロード他著 講談社 2014)を受け継ぐ形で書かれた。研究不正について42もの事例を挙げ,不正が何故起こるのかを不正をする人の心理まで掘り下げ,また不正の結果の虚しさを訴え,不正を無くすためにはどうすれば良いかが書かれている。
 著者自身が研究者として身近に見ている事例が多いだけに,その訴えは切実である。
 本文中,夏目漱石の『虞美人草』から引用している「嘘は河豚汁である。その場限りで祟りがなければこれほど旨いものはない。しかし中毒たが最後,苦しい血も吐かねばならぬ。」という一文は,研究不正の実態や,その結果どんな結末が待ち受けているのかをよく言い表している。
 また,不正が発生する一因として,研究資金の不足も言われている。
 国立大学や研究機関の法人化で,運営費は著しく減額されている。研究しようと思えば,外部資金獲得競争に勝たなければならず,そこに研究不正が生まれる素地ができてくる。さらに,資金を獲得できたとしても,直ちに見える成果を出さなければ,途中で打ち切られるかもしれず,こういった社会的背景も不正を増やす要因となっている。
 よく公共図書館員は文系が多く,科学が苦手と言われるが,もっと科学と向き合うべきである。誤った情報に気づかずにいるのは,司書として恥ずべきことである。もしかすると,捏造された情報が堂々と書架に並んでいるかもしれないのだから。

(砂生絵里奈:鶴ヶ島市教育委員会)

カラスと京都

松原始著 植木ななせ・松原始イラスト 旅するミシン店 2016 ¥1,500(税別)
 
 多くの研究者が,どのように学問の道を選んできたのかを,我々は知らない。ノーベル賞受賞者の若き日のエピソードが報道されることはあるが,それは等身大のものとは受け取りにくい。
 本書は,カラスの研究者として知られる松原始氏が京都大学(おもに学部)で過ごした日々を記したものである。松原氏の著書『カラスの教科書』(雷鳥社 2013)や『カラスの補習授業』(同 2015)を読んだ方はわかると思うが,遊び心を交えた文章を書ける方なので,あまり難しく考えずに手にとってかまわない。
 おもな内容は,授業とフィールドワーク,部活(野生生物研究会),カラスの観察,菓子パン程度の食生活と酒などである。色恋はまったく触れられていないが,カラスとの出会いと,その後の片想い(両想い?)は記されている。学部生の時期なので研究の成果は本書の範疇ではない。「途中下車の旅 鹿児島→山口」という紀行文も私は好きだが,あくまでフィールドワークの復路である。
 ほかにも,京都大学のキャンパス,出町柳,下鴨神社周辺に限定した観光客には役に立たない京都情報も得られる。下鴨神社の境内で,カラスの写真を楽しそうに撮っている観光客がいたら「松原先生の本を読まれたのですか」と声をかけても笑ってくれる可能性は七割くらいありそうだ。ただし,人見知りの方も多い気がするので,そそくさと逃げられるかもしれない。
 本書のあとがきで松原氏は「そして,何よりも大学でよく見かけた学者という生き物の姿が,大学で得た一番大きな経験だと思うのだ。」と記しているが,その学者がどうやって生まれていくのかというひとつのケースを,本書を通して知ることができる。大学の4年間を本にまとめられたのは,密度の濃い時間を過ごせたからであろう。その4年間をうらやましく,すこしまぶしく感じながら読み終えた。

(高田高史:神奈川県立川崎図書館)

認知症になった私が伝えたいこと

佐藤雅彦著 大月出版 2014 ¥1,600(税別)
 
 認知症に対する認識を改めた一冊である。
 著者が認知症の当事者であるが故,文章の一文字ごとに重みを感じる。今までいつもと変わりない日常生活の中,ある時に小さな異変に気付き検査。51歳で認知症と診断され,仕事は退職することとなる。自分で認知症について調べたが,知れば知るほど生きることに失望を感じるようになる。
 さらに,若年性認知症に対する偏った情報,誤った見方は一般市民と当事者本人が信じてしまうという二重の偏見が生まれてしまうことを知る。人間の価値を「できること」・「できないこと」により語るべきではなく,一人の人間として生きることの判断を自ら意思決定するのだと強く文中に表されている。
 認知症でも自分らしく生活する術のさまざまな工夫を丁寧に説明している。個性を大切にし,人からの支援や機械を駆使しながら,家から外へ出てできるボランティアなどを行う。そこで世の中に役立つことが自分の自信と生きがいを感じると説いている。また,認知症の偏見をなくすため,著者が講演を行い社会へその声を届け,後に行政へ認知症施策について提案する団体を設立し活動を始めるのである。しかし世間からは「認知症らしくない」や「売名行為はやめなさい」とまで言われた。一生懸命生きようとするが一部では冷ややかな視線を浴びる場面もあった。
 最後の章では著者から私たちへのメッセージが綴られている。その中で「認知症になっても幸せに暮らせる社会を一緒に作っていこうではありませんか。」という一文に心が揺さぶられた。さらに「何もできなくても,尊い存在なのです。」というメッセージには当事者の想いがすべて込められていると感じた。
 認知症の理解を深める際に,当事者の声に勝るものはないことがわかった。

(舟田 彰:川崎市立宮前図書館)

日本の森列伝 自然と人が織りなす物語

米倉久邦著 山と溪谷社 2015 ¥880(税別)

 都会に暮らしているとつい忘れがちになるのだが,「日本の国土は約7割が森林に覆われている」(まえがき)と改めて聞くと「そうだったな」という思いがわく。日本の森林は,北海道の亜寒帯から始まり,冷温帯から暖温帯,そして沖縄は亜熱帯と南北約3,000kmにも連なっている。これによる気候の違いは生育する森林の違いを生み出し,多様な個性あふれる森林を育んでいる。
 そうした森林の中から,「列伝」のタイトル通り北海道北限のブナの森,山形県庄内海岸防砂林,滋賀県比叡山延暦寺の森,沖縄西表島マングローブの森等々と12か所の森林を訪ね,紹介するルポルタージュとなっている。著者は,現在森林インストラクター。そしてフリージャーナリストでもある。森林を訪ねるときの重要な視点として,人と森林との関わりをあげたところにも,この本の大きな特徴がある。
 ジャーナリストの眼を持って森林を歩き,森林に関わった人の話を丁寧に聞き,これまでの歴史的な経緯をも丹念に調べて,読者に考える材料を提供している。例えば,南限とされているトウヒ(北海道のエゾマツとほぼ同じ種)の森が枯れ,白骨林状態になってしまっていることをどうすれば良いかという問題がある。紀伊半島大台ケ原の森林のことだ。ここでは,自然保護団体と環境省との間に,自然観について意見の違いが出ている。著者はこう書いている。「人がどこまで,自然に関与し管理するべきなのか。根本の課題に対する“解”は,これから大台ケ原がたどる歴史がだしてくれるかもしれない。」(p.330)あくまで,読者に考える材料を提供し,一緒に考えようという姿勢を崩さずにいる点に敬意を表したい。
 「ヤマケイ新書」として気軽に手にすることができるが,読み進むうちに重い内容を含んでいることに気づく。日本の森林の今を知ることのできる好著である。

(大塚敏高:元神奈川県立図書館)
 

ブライアン・ウィルソン&ザ・ビーチ・ボーイズ

ポール・ウィリアムズ著 五十嵐正訳 シンコーミュージック 2016 ¥2,300(税別)

 ザ・ビーチ・ボーイズの芸術的成功の頂点とされるアルバムは『ペット・サウンズ』である。それまでの彼らの作品に比べ内省的で,革新的だったそのアルバムは(少なくとも発売当時としては)決して商業的に大成功したとは言えないが,ロックの歴史に彼らの名前を刻むことになった。
 その名盤『ペット・サウンズ』の次に来るべきアルバムが『スマイル』だった。本書はザ・ビーチ・ボーイズの作品としては未完となった『スマイル』がいかにして失われ,そして違う形で再び光を浴びたかを,約40年にわたって追い続けたロック評論家の物語である。
 幻の傑作の断片に出会った評論家は,その断片の周りを回り続け,併走し続ける。その振る舞いを読み進むうちに読者は,ビーチ・ボーイズの中心人物であるブライアン・ウィルソンという人間とともに,著者のポール・ウィリアムズに関心を向け始める。いったいこの男はなぜこんなに『スマイル』にこだわり続けるのか,と。そしてその疑問は次の疑問へと連なる。それほどまでにこの男を執着させる『スマイル』とはどんな著作物だったのか,と。
 著作物が生み出され,受け手に届くまでの流れの中に評論家の仕事はある。図書館員の仕事(の一部)も同様である。生成から評価まで,時として想像を絶する時間を必要とするその流れの中で,どうしたら本当に著作物を「届ける」ことができるのか。
 「ザ・ビーチ・ボーイズについての本はありますか」と問われたら,検索して手渡すことは容易である。ただその本を本当に必要とする人に「届ける」ためには,どれだけの知恵と工夫,そして情熱(もしかしたら執念)が必要になるのだろう,と考えさせられてしまう一冊である。

(大林正智:田原市図書館)

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