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平成23年度(第97回)全国図書館大会多摩大会・第9分科会/図書館の自由は大会2日目の2011年10月14日、調布市市民プラザのあくろすホールで開催しました。
参加者は午前の部 45人、午後の部 40人、のべ47人でした。公式記録は大会事務局より2012年3月に刊行されました。
図書館の自由に関する宣言が最初に日本図書館協会総会で決議されてから50年以上が経過しました。宣言は、図書館が市民の知る自由、読む権利を保障するということを表明したものです。しかし日々の図書館活動において、宣言がめざしたもの、図書館の自由の原則が職員の意識の中で希薄になっていないでしょうか。図書館サービスを担う半数以上が非正規雇用の職員となっている現在、すべての職員に対して図書館の自由についての研修が行われているでしょうか。
本分科会ではこの1年間の関連事例を概観するとともに、図書館の自由の原則をその原点に立ち返って考えてみることを提起します。さまざまな事例への対応なども含めて報告及び討論することにより、自由宣言の普及と深化をめざします。
□基調報告1「図書館の自由・この1年」 山家篤夫(JLA図書館の自由委員会東地区委員長)
この1年間の図書館の自由に関する事例をふりかえり、委員会の論議と対応を報告します。
主な報告事例
・岡崎市立図書館システムをめぐる事件
・国立国会図書館の元専門調査員による国会レファレンス情報の漏えい
・図書館の自主規制、雑誌の袋綴じ
・利用者のプライバシー保護
・非難された出版物『老いの超え方』『流出「公安テロ情報」全データ』ほか
・「情報処理の高度化等に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」(コンピュータ監視法案)
□基調講演報告2「図書館の自由の原点に立ち返る」 三苫正勝(JLA図書館の自由委員会元委員長)
図書館の自由の原則について『図書館の自由に関する宣言1979年改定」解説 第2版』(2004.3)において端的に解説しました。具体的に資料の収集や蔵書の提供について判断するときなど、この解説に即して、また、これまでの事例に学んで適切な対応を取っていただきたいと委員会では願っています。1979年に図書館の自由委員会が発足して以来、2009年 5月まで委員及び委員長を務めた三苫氏に、その原点に立ち返る大切さをお話しいただきます。
□報告@「クラウド時代の図書館の自由−自由宣言への提言−」 米田渉(成田市立図書館)
2010年兵庫大会でも論議したように、図書館を取り巻く情報環境と技術は大きく変化しています。求められる新たなサービスと利用者の秘密を守ることとの関係、「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」についての考え方など、自由宣言の今日的あり方についての提言をいただきます。 ※参照:米田渉「「図書館の自由に関する宣言」についての提言」『図書館雑誌』vol.105,no.7(2011.7) p.466~468
□報告A「青少年条例のその後を追う」 昼間たかし(フリージャーナリスト)
東京都青少年健全育成条例改定条例は2010年12月議会でついに可決されました。不健全図書規制の対象に創作物を加え、マンガ・アニメーションの「表現規制」が強化されます。児童買春・児童ポルノ禁止法の改正論議なども含め、幅広く「表現の自由」について探ります。
□図書館の自由展示パネル「なんでも読める 自由に読める」
新しい事例を加えて昨年改訂したパネルを展示します。このパネル(B2横サイズ・12枚)は各地で利用していただけます。利用は無料で送料片道負担となります。関連資料とともに図書館での展示や職員研修にご活用ください。また、分科会会場ではA3サイズのパネルをご覧いただけます。
(熊野清子:兵庫県立図書館)
[特集]平成23年度(第97回)全国図書館大会ハイライト
「自由宣言」が採択されて50年以上が経過した。しかし「自由宣言」の思想は、未だに図書館に定着していないのではないか、むしろ職員の意識の中で希薄になっているのではないかとの問題意識から、今回のテーマ設定となった。
まず基調報告として、山家篤夫氏が一年間の事例を振り返った。多くの問題があったが、中でも第三書館の『流出「公安テロ情報」全データ』に関しては、公安による違法なプライバシー捜査が行われていたという点に関心が向く。訴状には「基本的人権尊重を最高の理念とする日本国憲法下に」という表現が見えるが、まさにそのような日本において基本的人権を無視した監視、捜査が行われていたのであり、対象となったイスラム教徒だけの問題ではなく、図書館の自由という観点からも重大な問題であると言わざるを得ない。
続いて三苫正勝氏の基調講演があった。自由宣言が採択された1954年当時の時代背景、図書館界の状況から始まり、その後の自由宣言の変遷の跡を辿る内容だった。「破防法」「有山ッ」「ピノキオ問題」等の言葉を久しぶりに聞き、「図書館の自由の原点」に触れる思いをした。話は中小レポート、日野市立図書館、『市民の図書館』にも及び、図書館の自由の問題に留まらず、日本の公共図書館の発展全体を視野に入れたものとなった。
報告は二本。まず、成田市立図書館の米田渉氏が、自由宣言に関わる提言を行った。内容は氏が図書館雑誌に発表したものと、ほぼ同じである。具体的には1984年に日図協で採択された「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」に対して検討を求めるものである。1984年当時とはコンピュータをめぐる状況は大きく変化しており、それに応じた新たな基準作りが必要であろうとの指摘である。その際、考慮すべき論点として、「館種を超えた議論」「履歴データの扱い」「アクセスログの取り扱い方針」の3点が挙げられた。この提言に対しては、自由委員会から「84年基準ではカバーできない課題に対応するため、新たなガイドラインを作る方向で作業を進めたい。そのためにワーキンググループで課題の整理、学習会等を行いたい。」との発言があった。
もう一つの報告は、フリージャーナリストの昼間たかし氏の「青少年条例のその後を追う」である。東京都青少年健全育成条例改訂案は、2010年の6月議会で一度は廃案となったが、同年11月に再度上程、12月都議会で民主党が賛成に回り可決された。2011年7月の全面施行以降、今のところ目立った規制強化の動きは見えていないが、出版業界の自主規制は進んでいる。また規制の基準が曖昧なことから、今後どのような形で不健全図書の指定が行われるか未知数である。
以上の報告を受けて質疑応答を行った。内容は大きく二つに分かれる。一つは、参加者の館で遭遇した様々なケースに対してアドバイスを求めるもの。もう一つは報告の内容に関する質問である。後者は、ほとんど米田氏の報告に集中した。成田市立図書館での実践や貸出履歴をめぐる論議であり、この問題に対する関心の高さを窺わせた。
(河田 隆:松原市民図書館)
○基調講演「図書館の自由の原点に立ち返る」
三苫正勝(JLA図書館の自由委員会 元委員長)
こんにちは三苫です。はじめにお断りしておきますが、これは2005年5月29日に日本図書館研究会の特別研究例会でお話しした内容と全くいっしょです。すでに『図書館界』の誌上 でその記録を読まれたかたもあるだろうしそれを承知して下さい。「図書館の自由」については京大の川崎氏がもっぱらアメリカの図書館の自由を研究されており、そういう立場から日本の自由についてもお話いただけないかと自由委員会では考えられていたようですが、あの人は日本の自由の状況については触れないという信条があるのかどうか、応じて下さらないということで私にお鉢が回ってきた。いまさら原点をあらためて新しく考え直すという力は私にはありません。それで日本図書館研究会で報告した内容をもう一度お話しします。
「自由宣言」が採択された前後の経過、図書館の人たちがどれだけ苦労して自由宣言を採択してきたかということを改めて考え直してみたいと思います。自由宣言の条文は一応理念として受け入れられている。その概念的な理念ということであれば表だって反対するという人はいないでしょう。ただ、細かくなればいろいろ問題があります。条文ということになれば好きな解釈もできるし、いろんなその状況のなかで自分に都合の良い取り上げ方、解釈の仕方をして対応しようとするケースもあります。それが問題となって、今、山家さんが報告したいろいろな事例の中にも出てきていると思います。
そういうことを考えると、血を流すような思いで論議をして採択した時代というものをもう一度重く受けとめてみたいと思っています。同じことを繰り返すようですが、あらためてお話しする価値もあるのではと考えています。
自由宣言がどうして採択されなければいけなかったということを考えるには、当時の日本の状況を考えてみる必要があると思います。1950年に図書館法が公布され、その翌月に朝鮮戦争が起こっているわけです。いろんな事件があっても記憶は薄らいでいきます。10年もすれば新聞からも消えていくし、みんな忘れられていくと言われていますが、まさに朝鮮戦争というのもその部類に入るのではないかと思います。日本にとっては非常に重要な関わりのある事件であったと思います。
朝鮮半島が、今は北朝鮮と南朝鮮に分かれていますが、当時、北の方を共産圏が支配し、南の方は自由主義圏というのか資本主義圏という圏内に入っていました。ソ連とアメリカが激しく対立してくるわけで、一触即発という事態が出てきました。その中で南北が戦火を交え、一時は北朝鮮は中国の支援を得てほとんど朝鮮半島の南の端まで攻め込んできた。それに対してアメリカ軍が―これは連合軍ということになるんですが―反撃を加えて仁川に上陸して、そこから北に押し返していった。その結果1953年に一応休戦になりました。38度線で二国に分断されたわけです。
朝鮮というのは日本に一番近い国ですから、当時、日本を統治していたマッカーサーが警察予備隊を日本に組織した。警察予備隊というのはアメリカ基地および家族を守るために警察的な組織として設立したんです。名前は警察ですがアメリカでは再軍備を前提とした組織として作っています。従って、数年の間に保安隊という名前に代わり、1953年に自衛隊と変わってしまいます。その自衛隊が現在までずっと続いてきています。つまり、軍隊がそのときできたわけです。
1951年にはサンフランシスコ講和条約を結び、日本が独立することになるわけです。独立といっても全世界が講和に参加したわけではなく、アメリカ主導で連合軍側の国々がそれに調印し、共産圏は調印しませんでした。その論議のさなかで日本の国内で非常に大きな運動が生じました。講和条約を全世界と結ぶか、結びやすい自由主義圏―アメリカを中心とした国々と結ぶべきか、単独講和か全面講和かという論議がおこりました。結果として共産圏は加わらなかったんですが、日本はそれで独立することができたと言えると思います。それが、1951年サンフランシスコ講和条約であって、同時に日米安全保障条約も調印されているわけです。その条約の中で日本は完全にアメリカを中心とした側に組み込まれていました。朝鮮で南北が火花を散らした戦争があり、それ以後は冷戦という形でせめぎ合うことになるわけですが、日本がその中にアメリカ側として組み入れられていったわけですね。
日本が独立したら、それまでは政令で占領軍が日本を統治していたのが、日本で独自に法律によって統治することが必要になってくるわけです。そこで出てきたのが破壊活動防止法という法律案です。破防法と呼ばれていますが、これが1952年に国会に提出されて論議を呼ぶわけです。破防法というのは非常に問題の多い法律です。戦前に治安維持法というのがあってこれは戦後もしばらく続いたわけですが、活動家を逮捕して、有名な人も獄中で亡くなりました。これが破防法の中に生きていたわけです。勝手に団体活動をしていたら拘束することができるとか、あるいは個人でも恣意的な解釈でもって逮捕できるという法律であった。そこでこの破防法に対して非常に広範な反対運動がおこったわけです。「進歩的文化人」という人たちだけではなくて、むしろ保守的とみられた知識人も含めて、労働組合、学生たちが一緒になって反対運動を繰り返したわけです。
そんな中で、戦後初めてのメーデーが1952年5月1日に開かれました。神宮外苑で開かれてデモに移ったときにデモが皇居前広場になだれ込んで、それに対して警察が弾圧を加え、死者も出ました。1000人をこえる逮捕者がありました。そのときの中央メーデーのことを「血のメーデー」と後に言っていますが、今ではあまり覚えている人も少ないだろうと思います。
そういう騒然たる世の中で、1952年、全国図書館大会が福岡で開かれています。ところが福岡の図書館大会ではこの問題が発言の中で全く触れられなかった。それに対して、再軍備問題とか破防法問題が重要な問題であるにもかかわらず図書館大会で論議されなかったのはなぜか、と図書館雑誌に投稿した人がいます。図書館人としてそういう重要な問題に対して態度を表明しなければいけないのではないかという意見です。それに対して、当時の日本図書館協会の事務局長で後に日野市の市長になられた有山ッさんが、『図書館雑誌』 に意見を述べています。
そこを読んでいただいたら、有山さんの立場というのが非常にはっきりするわけですね。
「破防法」は政治問題である。しかも思想問題にからむ。・・・(中略)・・・図書館界が「破防法」について直接発言することは、厳々戒むべきことであると信ずる。図書館が本当にinformation center として、客観的に資料を提供することを以つてその本質とするならば、図書館は一切の政治や思想から中立であるべきである。」
そのときの事情からすればそれに対して態度を表明したくなるのはわかるけれども、図書館として考えたらどうなのかということです。今からみたら皆さんはそうだと思われるでしょう。ところが、当時の社会情勢からすれば理解しがたい人もあったと思います。当時、これだけはっきりと図書館はこういうものであると述べている有山さんは先見の明があるのだと思います。今年の11月に有山さんに関してシンポジウムが日野 であるようですが、ぜひ近くの方は参加されたらいいかと思います。
そういう中で具体的な事件がおこってきます。1952年2月7日に埼玉県秩父市立図書館で中島健蔵氏の座談会が企画されました。中島健蔵氏というのは今ではほとんど忘れ去られているかもしれませんが、フランス文学者で評論家、いわゆる進歩的文化人といわれた方です。その座談会の数日前に警察が担当司書の机の中を勝手に調べるということがおこった。今では考えられませんがまだ戦時中の雰囲気が残っているんですね。
それが埼玉県の図書館大会(1952年11月30日)で論議され、「日本図書館憲章」(仮称)を制定するように日本図書館協会に申し入れるという決議を行いました。日本図書館協会ではその件が1953年6月の総会で論議され可決されました。可決されるわけですが、賛成が92、反対が52という、まだかなり抵抗のある時代でありました。図書館憲章というのはアメリカの図書館憲章を念頭に置いた考えです。
1954年5月に東京で開かれた全国図書館大会で、協会が「図書館の自由に関する宣言」を提案しました。主文と副文が提案されたんですが、結果的には副文は採択されませんでした。副文は誰かが勝手に作ったのだと言われたり、あまり論議されつくしていないと言われたりして、主文にかぎって採択されました。主文は現在では4項目ですが、当時は「利用者の秘密を守る」が入っていなかった。これは実は用意された副文(検閲の条の副文の一項として)のなかに入っていましたが、副文が採択されなかったので自由宣言の中には入らなかったのです。
自由宣言の成立過程で論議されたことは、当時の記録としては『図書館と自由 第1集』に詳しく出ています。図書館大会の論議で一番紛糾したのが「抵抗する」という文言が入っていることでした。「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して関係諸方面との協力のもとに抵抗する」という文言が最初の案の中にあった。この「抵抗」というのは非常にいろんな人からの反論がありました。「抵抗」という一語がどんな影響を及ぼすかといえば、各自治体の理事者にその言葉を見られればつくはずの予算もつかなくなるのではないか、というような状況でしたから。
その当時は朝鮮戦争で景気が回復したにもかかわらず、今度は再軍備に予算が回ってしまいその他の予算は非常に削られていた。図書館の予算なんかゼロというのもあったわけです。そういう情勢の中で「抵抗する」というようなことを言うのはとんでもないことだ、と地方の人たちが反論をしたわけです。その中で徳島県立図書館長の蒲池正夫さんからは「キジも鳴かずば打たれまい」という名文句もとびだしました。要するに、あまり角の立つことを言ったらそれが標的にされてしまい、黙って頭を下げて通ったら通れるものが通れなくなってしまうのではないか、と言われた。そしてもうひとつは、こういう準備されたものは大体が東京を中心にしていつも準備されてしまう。この副文案もそうですが、東京を中心にして準備されてしまって、中央ではいい案だと思っているかもしれないが、地方にとってはなかなか受け入れられにくいのだぞ、というようなことを論議されてきた。そのあたりは東京の人は最近は自覚して考えられていると思うんですが、まだ、この当時はそうはいかなかったということですね。
結果的に、資料収集の自由、提供の自由、不当な検閲に反対する、の3条が採択されました。いちおう採択されましたが、実際には図書館の自由宣言は効力を発揮しないというか、発揮する場がなかったのです。
そもそも図書館数がほとんどなかった時代です。東京都の図書館政策が出てくるまでは、東京でも区部にはあったけれど市部にはほとんどなかった。中央に近い市にはいくつかあっても西北にかけてのあたりには全然図書館はなかった。大阪でも中心に近いところにしかなかったし、阪急沿線、京阪沿線なんかはほとんどなかった。1970年になってやっとできだしたという時代です。その他の地方に行けばときどきは非常にユニークな図書館がありましたが、ほとんど存在しなかったといってもいいぐらいでした。
そういう中で図書館の自由の問題が起こるはずがない。演劇の場合は舞台がなくてもできるかもしれませんが、図書館の場合は舞台どころか役者もいなかったんでしょうね。宣言が登場する機会がなかった。その時期がかなり続きました。1970年代までぐらいですからかなり長いですね。20年間ほどほとんど休眠状態があったわけです。その間にも若干、図書館の自由、自由宣言に関して論議されたことがなきにしもあらずですが、あくまでも図書館を舞台にした問題ではなくて、時の文部行政にかかわった問題で出てきたに過ぎなかった。
そこに「中小レポート」(『中小都市における公共図書館の運営』1963)がでました。これは非常に画期的な報告です。
私は当時大阪市の図書館に勤めていましたけれども、当時のちょっと大きな図書館というのは学生の勉強の場になっており、資料提供というようなことは業務として入ってこない。押し寄せる学生をさばくのに精いっぱいの時代であったわけです。図書館に勤めたつもりですが、これが本当に図書館業務だろうかというような疑問を感じながら鬱々としていた時代があったわけです。
そのときに、「中小レポート」が出てきて、中小図書館こそ公共図書館であると宣言したのです。そして、資料を提供することが図書館の役割だと書いてある。さらにもうひとつ、今では少し薄れていますけれども、図書館の役割としては、資料を利用するということを一般の人たちに広めなければならないとも書いてある。運動としての公共図書館活動というのがあげられていたわけですね。それを読んだとき目が開かれる思いで、各地でも図書館員が読書会をやって、公共図書館とはどういうものかと改めて考え直す機運が出てきた。
そして1965年に日野市立図書館が開設されました。当時図書館協会が毎年アメリカやヨーロッパに視察のために図書館員を派遣していました。日野市立図書館は、イギリスの図書館をつぶさに見てきて図書館というのはこういうものだということをつかんできた前川恒雄さんが、日本ではどうすべきかを考えながら準備した図書館です。実は日野市は前年に有山事務局長が市長になっていて、前川さんに図書館の準備を依頼した。前川さんは「中小レポート」を作るための事務局を担当した人です。
前川さんはまず何をすべきかいろいろと考えた末、まず移動図書館で市内各地に本を持って行って貸出をしました。ここで初めて個人貸出が実施されたのです。実は、中小レポートの中では団体貸出が正面に出ていて、個人貸出はむしろ二次的だった。どこの図書館でも移動図書館をやるという場合は、団体貸出で地域の世話人にまとめて貸出して、それを地域の人がまた借りて読むということをやっていた。そういう時代に、個人貸出を始めたわけです。これは非常に重要なことです。
中小レポートを見ると、図書館の役割や目標が明確に提言されていますが、さて目の前で具体的にどうしたらいいかということが分らなかった。これを具体的に見せてくれた、こうすれば市民は本当に本が読みたくて、提供すればどんどん借りてくれると分ったのが日野市立図書館の実践なんですね。
さらにそれに加えて、図書館問題研究会(図問研)が1967年の大会でひとつの方針を出しています。図問研は単なる研究会ではなくて運動を伴う研究会ですから、綱領も持っているし方針を決めて各地で実践していくということをやったわけです。具体的に何に取り組むかを論議して、貸出をするにしても市民が利用できない状況を生み出しているのは何かを具体的に研究していこうじゃないか、会員―若手の図書館員が多かったんですが―が、各地で自分の図書館で住民の利用を阻害している要因は何かを考えていったわけですね。
そうするといろんなことが出てきます。当時は入館票があっていろんなことを記入しなければならなかった。職業や年齢まで記入するというようなことをやっていたわけです。そういうことが利用の妨げになっているのではないか、いらないものは廃止していこうと話し合いました。そしてやがて現在のように入館手続きはいらない、証明書があればすぐに貸出票を作ってもらえるようになるわけです。一例を言いますと、私が大阪市に勤めていたころに個人貸出を始めたんですが、図書館に三度は来なければ貸出ができませんでした。まず最初に申込書を受け取る。それを持って帰って記入し保証人の判子をもらう。それから、役所に行って住民票(有料です!)をもらってきて、ハガキをつけて図書館に提出する。そうすると課長あたりまで決裁がまわって承認されればそのハガキを保証人宛に送ります。つまり保証人を確認するんですね。そのハガキを保証人から本人が受け取って図書館に持参してはじめて貸出を受けることができる。来館三度目にしてやっと貸出を受けるわけですね。今だったら想像もつかないと思いますが、ややこしい。だから、きょうは貸出しが10件もあって忙しかったというような話になるわけです。
図問研の運動方針によって、貸出、利用を阻害するものを全部洗い出して除いていこうということを取り組んできた、その結果としていまのような図書館利用状況になってきました。利用方法にしても貸出の履歴が残らないように貸出方式を研究してきました。現在はコンピュータになっていますが、これはこれで個人情報が漏れるというようなことが新たに生じてきていますけれども。
自由宣言を採択するとき、実際の問題としていろいろ論議をする、普及も必要である、そういうために図書館の自由に関する委員会を作らなければと協会内では論議されたんですが、当時の状況の中ではできなかった。ところが、ある事件を契機にして図書館の自由に関する調査委員会が発足することになります。
1970年代に入る前にいくつかの自由に関する事件―具体的に図書館にかかわる事件―があります。図書館を変えた重要な事件のひとつとして「練馬図書館テレビドラマ事件」(1967年)があげられます。テレビドラマですから実際に図書館で起きた事件ではなくてフィクションです。図書館の貸出記録が犯罪捜査に利用される、そういうシナリオがあったわけです。それを割と早くというか偶然もあったんでしょうが、察知してシナリオを見せてもらって、その項については図書館の自由宣言にもとるということで、練馬の図書館の感覚も鋭敏だったんですが、日本図書館協会もそれに応じて、一緒になってテレビ局に申し入れをしました。シナリオのなかである程度それは修正されるんです。このようにうまく修正されたのはよかったと思うんですが、類似した事件はその後も何度も出てきます。テレビドラマなんかでいまだによく使われる設定ですが、これが最初のケースです。
その後70年代に入って、1973年に山口県立図書館事件が起こります。その後の図書館の自由に関して大きな影響を及ぼした事件です。山口県立図書館が新館建築の際に、いろんな要人が来る、国会議員も来るんでしょうね。そういう人たちが来るので、見られたら困る資料は隠そうではないかと思った人が図書館の中にいた。住民運動だとか反体制的な資料について箱詰めにして隠したわけです。これはかなり個人的な感覚でやったみたいです。ところが、ある人権活動家の牧師さんがいつもみていた資料をもう一度みたいと思ってきてみたらその資料がない。さらに、関連した資料が全部なくなっている。これはおかしいのではないかと毎日新聞にしらせた。毎日新聞が図書館に取材に来たとき、開架室で図書館員が隠されていた資料を書架に戻しているのを牧師さんが目撃した。新聞がすでに取材していますし、図書館関係でも告発する人がいて非常に多くの場で取り上げられた。図書館協会でも大変なことであるということで、懸案の委員会を発足させることになったわけです。
1975年に発足しますが、当時は「図書館の自由に関する調査委員会」という非常に長ったらしい名称です。「調査委員会」というのは、問題があるから告発したり咎めたりというのではない、調査して情報を提供するための委員会であるというわけです。委員会は調査して情報を提供することと、図書館の自由宣言を普及するという目的があるのですが、全国のいろいろな意見をきいているなかで、宣言そのものを改定する必要があるという声が出てきました。その結果、条文に「図書館は利用者の秘密を守る」条項を加えて4項にしました。これは明らかに練馬事件が契機になりました。そして副文案も改訂して採択した。これは森耕一さんが委員長の時代ですが、全国からいろんな意見を聴取して79年に改訂を実行したわけです。
その後の事件でいくつか非常に頭にのこるものがありますが、ひとつは名古屋市の「ピノキオ問題」です。これも最近は記憶から薄れていく可能性があるんですが、「ピノキオ」の中に障害者を差別する場面があって、「びっこのきつねとめくらのねこ」という表現がでてきます。びっこのまねをするきつねとめくらのまねをするねこが組んでピノキオをだます、という場面が障害者に対する差別であると当時の市民から糾弾をされ、名古屋市が3年にわたって議論をするわけです。その結果、名古屋市は、とにかく当事者の話をきくべきだ、それから市民の意見を広く聞くべきだ、内部で十分に話しあった上で解決方法を見いだしていくべきだ、ということを打ち出してきたわけです。それ以後、自由の問題を考えるとき、障害者問題とか差別問題を考えるとき、必ず当事者、市民、それから職員全体をひっくるめて論議をしてどうすべきか決めていかなければいけないというルールができたんです。が、この認識が今図書館に残っているかどうかちょっとあやふやな気がしないでもない。このとき論議した資料が名古屋市の図書館には全部つづられて置いてあります。名古屋に行かれたときにはご覧になったらいいと思います。それ以後も、そこに書いているようにいろんな問題が生じていますが、このあたりになると皆さんもある程度ご存じだと思いますが、そういうものを経て、図書館の自由についてはいろいろ論議を重ねて今まで来ているわけです。
最近では、コンピュータの問題、貸出の問題で制御しがたいいろいろな問題が出てきています。例えば、貸出記録の中から何が一番読みたい本かわかるようにしたらいいのではないかという問題。これなんかは明らかに今のコンピュータ時代のひとつの大きな問題だと思いますが、2008年の自由の分科会でも論議をしています。その他にもコンピュータのせいで個人情報が漏洩しているというのもあります。ニューズレター『図書館の自由』を見ると最近は非常に多いですね。問題としては非常に複雑になっていますが、基本は何なのかきっちりと考えたうえで、図書館の自由を改めて考えてみなければなりません。基本を忘れるとものごとは複雑になる。最初にどういうことがあったかを非常に重要なことだと思うのでそのあたりを今日はお話しました。
ひとつ別の話ですが、例えば、貸出を柱にして公共図書館を運営するということを図問研が強く主唱してやったわけですが、図書館が非常に貧しかった時代に図書館を発展させるためにはどうしたらいいかという運動論を含んだ理論なんですね。貸出を中心にしたらそれに付随していろんなことが発展してくる。今、レファレンス、レファレンスと言われます。神戸市立図書館がレファレンスを中心に置きましたが、非常に有名ではあるけれども、それが図書館の発展に貢献したかというとそうでもないんですね。貸出を中心にして図書館運営をやったために疾風怒濤のような図書館の発展につながったのですが、ある程度発展したあとでその発展を評価しない人たちが出てきた。ある発展段階に到達した時点を平面的に見る人たちです。貸出を低く見て、図書館はレファレンスを第一にすべきだとか、ベストセラーや文庫本は自分で買うべきだとか、あっさり切り捨てようとするのです。貸出を中心に図書館活動をすすめ、図書館が市民に利用されるようになると、多様な機能が発達し、その中にレファレンス機能も含まれるのは現実の図書館活動の発展を見れば明らかです。そのためにもあらゆる人々が本を読めるという状況を作っていかなければいけない。貸出を中心にするという運動論の状況はまだ続いていると考えます。おそらく日本ではまだ完全に図書館が発展したとは言い切れないですね。後退しているような面もなきにしもあらずです。そのようなことがあるので、基本的に、いちばん最初にどういう状況があったかということを理解しておくと後が組み立てやすくなると考えているわけです。
そういう結論でもって今日はこれで終わります。