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窓 「こらむ図書館の自由」85-89巻(1991-1995)

第89巻(1995年) 第88巻(1994年) 第87巻(1993年) 第86巻(1992年) 第85巻(1991年)


第89巻(1995年)


Vol.89,No.12 (1995.12)

蔑ろにされる「言論の自由」 (馬場俊明)

 フリー・ジャーナリストの横間恭子さんがNYリサーチ図書館を取材した「図書館は純粋に民主的なメディア」というレポート(総合ジャーナリズム研究 No。154)によると,館内には高い天井から吊り下げられた大きなスクリーンに,現役知識人が語る「言論の自由」についてのビデオが放映されているという。
 その「言論の自由」であるが,戦後50年の今年ほど,日本の図書館界において,蔑ろにされた年はない。オウム捜査にかかわる国立国会図書館利用者記録押収事件,富山県立図書館「図録」所有権放棄,ヘア・ヌード掲載雑誌排除の陳情などに至る問題は,いずれも,利用者の「知る自由」の保障をもっとも重要な任務としている図書館界の根底を,大
きく揺さぶるものであった。
 自由委員会では,それぞれ直面した事件について,図書館の責務を痛感し,事実の調査と解決への方向の検討に力を尽くしているが,そこから見えてくるものは,資料提供施設としての図書館の役割が等閑にされ,「言論の自由」の重さが軽んじられていることである。
 とくに,昭和天皇の肖像画を用いた大浦信行氏のコラージュ作品が掲載された図録『86富山の美術』を県内の神職が破り捨てた事件で,神職の有罪判決が確定したにもかかわらず,富山県立図書館が裁判所に証拠品として提出していた所蔵図録の所有権を放棄したことは,きわめて遺憾であり,到底,認められるものではない。
10月24日,自由委員会は,事実を調査するため,中野義之館長宛に,「質問と要望」書を提出し,前館長の「返却されしだい修復して公開する」方針の発言について,「変更ではないか」と質したが,前館長は,「聞いていない」と回答した。さらに,「図録」受け取り拒否の理由については,「修復する価値がない」ことと,公開の是非をめぐる破損事件の発生なども考慮し,「図書館の正常な利用環境を確保するため」,館長の「責任と権限」で決めたという。
 これは,館長が「自主規制」という名の「検閲」によって,「言論の自由」を抑圧し,利用者の「知る自由」を侵害し,唯一の資料としての保存を拒否した事例として,史上 永く記憶にとどめられるべきである。
 日本の図書館界で,NYリサーチ図書館のように,「言論の自由」のビデオが放映されるのは,いったい,いつの日のことだろうか。   

 (ばんば としあき:堺女子短期大学)

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Vol.89,No.11 (1995.11)

学校図書館で考えると… (鈴木昌子)

 東京都では,学校図書館の貸出し方式が,今年度より「業務監査」の検査事項になった。2〜3年来,東京都教育委員会のなかでいろいろな動きがあり,高等学校図書館研究会や都立高校学校司書会に問い合わせもあったと聞く。都立高校では,神奈川県に続き「都」の個人情報保護条例ができる以前よりいわゆる「個人貸出カード」の廃止等なんらかの工夫をしているところもあり,徐々にではあるがプライバシーを守る方向にある。しかし,貸出しベストテンなどに代表される数々の統計や,卒業時に生徒に個人カードを3年間の読書の記録として返すなど…また,図書委員の反対にあって貸出方式を変更できない学校もあり,その背景は複雑である。
 学校図書館では,その他,図書委員のカウンター当番の問題,卒業アルバムの生徒名簿閲覧の問題などがあり,その都度生徒にその話をしても,びっくりしたような顔で「プライバシーつて何」というまことにたよりない反応にあうこととなる。
 昨年中に「自由の委員会」で取り上げられた問題のうち,NHK朝の連続テレビ小説“ぴあの”の件,夏休みの公共図書館でのカウンターでの貸出しのお手伝いの件などなど学校図書館に直接・間接に関わる問題があった。特に“ぴあの”では,「学校図書館のイメージで」との発言があったとか…制作関係者がしっかり学校図書館を利用されていたらしいのは有り難いことではあるが,番組を作成する準備としてせめて現状認識くらいはしてほしい。
 このところ新入生に対して図書館オリエンテーション(ガイダンス)で「図書館の自由」について話をするところが多くなったことは,とても嬉しいことである。

 (すずき まさこ:都立羽田高校)

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Vo1.89,No.10 (1995.10)

館内職員研修に図書舘の自由を (白根一夫)

 私は,仕事がら連絡車で県内の公共図書館を巡回する。活き活きしている図書館もあれは,半ば眠っているような図書館もある。眠りから起こしたり,また逆に私たちが起こされたりするのが連絡車の仕事でもあると考えている。
 ある市立図書館に連絡車で立ち寄った時のことである。玄関に入るとつぎのような映画会のお知らせが目に入ってきた。こどもお楽しみアニメーション映画「ちびくろサンボ」。
 7年前の1988年から1989年にかけて,ワシントン・ポスト紙が「サンリオの人形が人種差別的だ」と非難したのをきっかけに,雑誌・新聞・放送で多くの報道がなされ,いろんな人たちの論争を呼び起こし,「ちびくろサンボ」の翻訳をだしていた各出版社が絶版という措置を選択したこと,その後この絶版に反対の立場をとるグループが「ブラック・サンボくん」というタイトルで新たな判型・翻訳で復刊したこと,この一連の経過の中で,知る自由をもつ国民に,資料と施設を提供する公共図書館としての各種のシンポジウムの開催・協会や研究会等の機関誌に論文寄稿,論争の提起を行ってきた経緯についてかいつまんで話した。
 ほとんどの職員はそのことについて知らず,単純に子どもが楽しめるアニメーション映画の発想でしかなかった。ただ若い職員一人が「あ〜,そういえばそういうことがありましたですね。うっかりしていました。」彼は早速地区視聴覚ライブラリーに連絡をし,その後別のフィルムと交換して映画会を開催した。しかし,別のものと交換すればよいということだけでよいのだろうか。「なぜ知らなかったのか。なぜ気がつかなかったのか」を含めて職員集団にはその映画を見てほしいと思う。ほとんどの図書館が人事異動や世代交代で若い職員が増えていくのであるから,図書館サービスの基本になるものは毎年研修すべきであろう。
 組織が大きい政令市・都道府県立の図書館では,課別ではなく全員での研修の機会をぜひ考えてほしい。土・日は日頃カウンターに立たないものもローテーションで利用者と接すると思う。「図書館の自由」はカウンターで試されることが多いからである。

 (しらね かずお:福岡県立図書館)

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Vol.89,No.9 (1995.9)

『アミューズ』の特集記事で思ったこと (西河内靖泰)

 先日,協会の図書館の自由に関する調査委員会の関東地区小委員会は,東京・杉並区立図書館の自由委員会と交流の機会を持った。もう少し時間があればと思ったが,それでも率直な意見交換ができた。杉並のように現場に即した委員会のメンバーと話しあうことができたのは大変有意義であった。もっと他のところでも杉並のような組織ができればと思う。
 さて,この会合では,『アミューズ』7月26日号(毎日新聞社発行)の「図書館を『私』する」という特集中の「図書館の怪人,今日も行く」という記事が話題になった。この記事でとりあげられている能本功生さんは杉並区立図書館の利用者で,他人名義の貸出カードも利用して借りていく図書館利用術が紹介されているのだが,これは少し困ったことだぞというのが話題の中心だった。他人名義のカードの使用は,たとえ家族のものでも好ましくはない。督促などにからんでトラブルがおきることもあるからだ。このことは,「読書の秘密」プライバシーという「図書館の自由」に関わる重大な問題でもあるのだ。
 能本さんの主張ば,貸出冊数制限撤廃であって,家族や友人名義のカード利用は職業上の必要からとっている手段であることは,93年の「図書館をしゃぶりつくせ!」(別冊宝島EX)という図書館員にとっては少々ヤッカイな「図書館の徹底利用術」(能本さんが編者)の本で展開されている。この本では,プライバシーの尊重や図書館とはトラブルをおこさないことの注意が述べられている。とはいえ友人とはいっても全くの他人名義のカードを使用することをすすめるのは,やはり問題だ。『アミューズ』の記事は,プライバシー尊重などに触れずに,ただ他人名義のカード使用のやり方を紹介しているから,能本さんの本来の主張が伝わっていない。こんなことでは困る。やはり他人名義のカードは使ってほしくない。とはいっても,貸出冊数の制限があるかぎり使う人はいる。冊数制限のない図書館は増えてきたし,杉並区でも制限撤廃が現場の声として出ているという。荒川区では5年以上前から冊数制限はない。
 困ったことだというよりも,利用者に余計な苦労がないようにと考えるほうがよい。たくさんの人に利用してもらうのが図書館なのだから。

(にしごうち やすひろ:荒川区立日暮里図書館)

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Vol.89,No.8 (1995.8)

蔵書に対する異議申立書 (伊藤昭治)

 オウム真理教関係の図書を書店の店頭から撤去する動きがではじめているという。図書館でも動揺して別置などしないだろうかという不安が過る。
 新聞には「犯罪の疑いのある教団の本をなぜ置くのか」といった抗議があいついだためということだが,以前犯罪者だからといってニセー万円札事件の武井遵の本を別置した館があっただけに心配になる。
 テレビなどでその筋の評論家が麻原彰晃の本を取り上げ論評していると,私など,どんな本か見てみたいと思う。
 書店にないとなれば,図書館が残った砦である。図書館にも書店のそれと同様,市民の思いつきの指摘や干渉・抗議があることだろうが,廃棄や別置したりしないでほしい。
 市民の蔵書に対する抗議を受けつけないというのではない。面と向かって対応してほしいということだ。
 アメリカの公共図書館には市民の蔵書に対する異議申立書が置かれているが,抗議を正面から受け止めるために,こうした書式を置くべきだと主張したい。「あなたの抗議は個人としてですか,団体としての申立ですか」「全体を通して読まれましたか,もしそうでなければ読んだのはどの部分ですか」「この資料のなかのどの点に異議がありますか」「この資料になにかよい点があると思いますか」「これにかわる資料があれば推せんしてください」など詳しく問いたい。
 図書館員も図書館の役割を話し,理解を求めることもできよう。なかには教わることも多くあろう。いいかげんな抗議には説得もできよう。こうした対応が専門職としての信頼を得ることになるのではなかろうか。
 抗議をおそれて問題になりそうな図書を避けて通ったり,蔵書にしないという風潮が図書館界にはびこるのをおそれる。
 蔵書に対する異議申立を制度として取り入れ,市民と対等に話し,紛糾をおそれて自己規制したりしないように力をつけたい。

(いとう しょうじ:阪南大学)

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Vol.89,No.7 (1995.7)

人事異動の春が過ぎて思うこと (奥角文子)

 毎年のことながら,春の嵐の如くやって来る「人事の嵐」は,備えの拙さと,図書館サービスの基盤の危うさを実感させられる。
 『「図書館の倫理綱領」解説』(図書館員の問題調査研究委員会編1981年)の中で「ある笑い話」として紹介されている東京23区の機械的な人事異動は,15年経った現在も相変わらずの状態である。加えて新館建設のたびに各館の人的層は薄まる一方で,4〜5年サイクルで刷新する職員体制をどう有機的に組織しサービスを維持するかという難問を絶えず抱えて歩んでいる。
 そんな悩みに組織的に取り組み,新任職員の心理的負担も軽くして図書館業務に力を発揮してもらうためにと,当区でも9年前に新任研修を始めた。「公共図書館の歩み」の中でふれてきた「図書館の日由」が独立したカリキュラムになったのは4年前,“ちびくろさんぽ”問題を契機にである。2日間の日程で外部講師に頼らず,それぞれが1時間半程度の中で何が伝えられるか苦しいところだが,歴史的に継承してきた図書館業務のあれこれも,新たに戦力となってくれる人たちをまえに語りなおされることを通して,検証される良い機会になっている。特に「図書館の自由に関する宣言」に至る戦後の図書館(員)の歩みや幾つかの事例を通してひろがるものは,一様に新鮮な驚きとともに受け取られるようである。国民の知る権利を保障する社会教育機関としての図書館に働く者として,問題意識が共有できたらとおもう。昨年度,東京都公立図書館貸出部会で行った「図書館員の構成と職務内容に関する調査」報告を見ると,正規職員の問題に加え,非正規職員の比率の増加,組織上の問題解決窓口としての各中央館長の在職年数など,読み取る限りでは人の問題はさらに重い。「図書館は運動体だ」とはともに働く職員の言葉だが,その歴史が教えるように,前向きに組織的に粘り強く取り組む以外ないようだ。        

 (おくずみ ふみこ:江東区立東大島図書館)

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Vol.89,No.6 (1995.6)

被災地での資料保存について (田中 力)

 阪神大震災の数日後,大学の近くに住むある教授の家が全壊し,老夫婦が命からがら脱出されたあと,見るにみかねた近所の人が危険な家の中から本やノート類をとりあえず庭に放り出したので,なんとか引き取ってもらえないかと連絡を受けた。老教授は本も資料も家をとり壊す際に一緒に捨ててもらっていいということだったという。無造作に庭に積み上げられて青いビニールシートを掛けられ,雨に濡れている資料の山は,焼け跡のぼろ屑のように見る影もなかった。資料は学生ボランティアの協力を得て2日がかりでダンボール箱に詰め,大学に搬送した。
 震災で博物館や美術館も被害を受け,とくに個人が所有する歴史資料は,おおくの家屋の全半壊でその被害状況すら十分把握されていないのが現状である。大阪歴史科学協議会等四団体合同で開設された「歴史資料保全情報ネットワーク」では,ボランティアを組織して文化庁や自治体と連携しながら被害建物からの資料搬出,一時的な保管場所の紹介,情報の集約などにあたっている。尼崎では地域社会の成り立ちを示す歴史資料や,尼崎公害患者家族の会の大気汚染測定記録,また西宮市でも解体直前の家の中から江戸時代の共同体の水利に関する文書など,地域社会を解明するための貴重な史料が救出されている。ボランティアの人たちは最初資料を運び出すだけと思っていたのが,被災の状況に直面するうちに家財道具の片づけも手伝うことになってしまったという。
 「自由宣言」では,「図書館は,将来にわたる利用に備えるため,資料を保存する責任を負う」といっているが,その保存の責任の範囲には公共の施設に保有されるものだけではなく,個人所有になる貴重な資料も含まれると思う。なぜなら,災害時には当然のこととして人命の救助が優先され,また救出はまず公共施設のものが優先されるだろうから,個人所蔵のものは誰かが意識的に救助しない限り,自然消滅させられる運命にある。そういった意味で,今回のような「情報ネットワーク」のような活動が,貴重な資料の保全に果たす役割は大きい。
 災害地域の文化遺産をどのように守っていくか,今回の震災は新たな課題を投げかけたのではないか。

 (たなか つとむ:関西学院大学産業研究所)

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Vol.89,No.5 (1995.5)

ヘアヌード掲載週刊誌を公共施設に置かないようにとの陳情が自治体の長や議会に相次いでいる  (」JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会)

 日図協が3月までに把握しただけでも10を超える自治体に標記の趣旨の陳情が寄せられている。「公共施設」には病院なども含まれるが陳情がポイントとしているのは図書館である。提起された陳情を深く検討した形跡もなく会期末に採択した議会もあるらしい.陳情に応じて利用制限をした図書館があるとはさすがに聞かないが,悩んでいる図書館員がいるかもしれない。その図書館が児童室を持つかどうかなど個別的状況により反応も異なるであろうが,これまでの図書館界の蓄積からは次のように言えるのではないか。
(1)社会的に議論の対象になっている問題についてはそれに関する資料(原資料も賛成意見も反対意見も)を積極的に提供することによって住民の知る自由に応えるのが図書館の社会的役割である,との基本姿勢を堅持する限りこの場合利用制限は問題を隠蔽するものであり採用できない。
(2)図書館にある資料は図書館公認の資料だと考えられてしまうことがしばしばある。しかし,図書館は,住民の知る自由を保障する立場で,資料全体の価値やニーズなど多面的な考慮に基づいて資料を収集している。収集する個々の資料の内容について図書館が支持したり反対したりすることはない。
(3)陳情の立論は,ヘアヌードが刑法第175条および青少年保護条例に反するということを根拠とするが,いずれも法律的にも社会的にもさまざまな考え方のある分野に関する一方的な主張であり図書館がこれを採用すれば大きな問題となる(図書館の自由に関する宣言第2(1)).
(4)陳情を行うのは自由であるし議論はさまざまな場で広く展開されるべきだが,行政ルートで陳情採択の通知を受けても,生涯教育を保障する教育機関である図書館としては,陳情の趣旨と議会等における議論の内容をよく承知した上で,図書館の立場を堅持すべきであることにかわりはない。
(5)利用制限の陳情の背景に,ある出版社と団体との関係があるといわれているが,この種のその時々の個別的事情をめぐって資料に対する図書館の判断が左右されることはない。

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Vol.89,No.4 (1995.4)

<守り>より<攻め>を (井上靖代)

 「図書館の自由に関する宣言」40周年ということで,図書館の自由に関する調査委員会では,関東地区小委員会がシンポジウムを,近畿地区小委員会がパネルによる移動展示を企画・実行した。この移動展示については5月号で詳しく報告する予定である。
 それにしても1994年はまさに節目の年であった。1994年4月に刊行した「子どもの権利と読む自由」(図書館と自由第13集)の直後,やっとのことで“子どもの権利条約”が5月20日に発効,図書館現場での子どもの権利とのかかわり合いに実際に取り組まねばならない年ともなったのである。
 「自由宣言」から40年たっても,さまざまな図書館の自由に関わる出来事が起こった。3月に『アイヌの学校』絶版・回収事件,4月にNHK「ぴあの」事件,5月に福島市立図書館「寄贈図書廃棄」事件,そして夏には「サリン」事件に関わって松本市立図書館での問題と,賑やかな1年であった。これは「図書館の自由」について,図書館員自身や社会が強く認識してきたことへの表れともいえよう。
 しかし,何かが起こってから,そのたびに<守り>の態勢をとってばかりでは進歩がない。似たようなケースはあっても,まったく同じことが同じ図書館で繰り返されるはずはないからである。起こってもらっては困る。
 日常業務の中で「図書館の自由」を位置づけ,利用者に対しても普段から認識しておいてもらう<攻め>が必要なのではなかろうか。子どもの権利としての「知る自由」を認めてもらうために,厚木市立図書館が発行した若者向けの広報「若鮎」もそうだろうし,パネルによる展示もそうである。図書館内で,恒常的に「図書館の自由」を考える検討委員会の常設も,また,<攻め>なのである。
「図書館の自由」宣言41周年に向けて,各館や各人で,「図書館の自由」に関して<攻め>を実行してほしいと願う。

 (いのうえ やすよ:京都外国語大学)

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Vol.89,No.3 (1995.3)

サリン事件と『みどりの刺青』をめぐって (野瀬里久子)

 昨年6月,松本市の住宅街で有毒ガスによって7人の死亡者が出た事件はまだ記憶に新しいことと思う。その毒ガスがサリンと推定されたことから『みどりの刺青』(ジョン・アポッ卜者 福武書店1994.4)が注目されることとなった。この小説は暗殺者がサリンを自作し,大統領の暗殺をはかるという筋書きで,作者はあとがきでサリンの原材料となる3種類の薬品が簡単に入手できたと書いている。
『みどりの刺青』が新聞に紹介された直後,松本市中央図書館に捜査員が来館し,化学関係資料の所蔵の有無と『みどりの刺青』の貸出などについて照会があった。報道関係者からも同様な照会が相次いだ。これに対し図書館は,本の所蔵の有無以外一切回答していない。
 松本市図書館では3館が同書を所蔵しており,図書館の自由に関する宣言に照らし合わせた見解が出せるよう,職員がまず読んでみようということになった。そして貸出された図書が返却された後,書架からひきあげて職員が読んでいた時点で新聞紙上に「図書館が過剰反応?貸出停止」という記事が載った。
 さて,その後の対応だが,松本市図書館では貸出を再開するとともに「『みどりの刺青』と図書館の自由についてー経過・反省・方針−」という文書をまとめ,掲示や印刷物とし,また利用者懇談会を開催して利用者の意見を聞く場を持った。これらすべての記録が資料として刊行されたが,とくに懇談会での一間一答は図書館側の「全職員がこの問題を考えるきっかけとしたいという観点から職員の検討を優先させて一定の期間利用に供さなかったことが安易だった,結果として自己規制につながる印象を市民に抱かせてしまった」という反省と,利用者からの「職員が読んでみるのはいいが読んだ上でどうしようかというのは問題が違うのではないか」「資料収集の問題ではなく資料提供の問題」という指摘とのくい違いが如実に出ていてたいへん興味深い。
 過ちを率直に認め,利用者との対話の中で問題を解決していこうとする図書館の前向きな姿勢を評価するとともに,市民の図書館に寄せる強い期待こそ図書館の自由を守るものだということを実感した。

 (のせ りくこ:品川区立荏原図書館)

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Vol.89,No.2 (1995.2)

出版者の「自主規制」と図書館 (佐藤毅彦)

 日本図書館協会は昨年12月3日,「自由宣言」採択40周年を記念して「表現の自由から図書館を考える」と題するシンポジウムを開催した。パネリストは浸画家の里中満智子,雑誌『創』編集長の篠田博之,荒川区立日暮里図書館の西河内靖泰の三氏にお願いした。
 シンポジウムの記録は近く刊行する予定なので,詳細はそれを読んでいただきたい。が,内容をほんの少し紹介してみると,たとえば里中氏の『女帝の手記』の中の「藤原の意識にめざめた」という部分は,当初の「藤原の血にめざめた」を変更したものだった。そのいきさつが,里中氏によって具体的に語られ,編集者の立場から篠田氏がそれについてコメントを加えている。個々の表現をめぐる著者と編集者の「攻防」が,いくつか紹介され,興味深かった。
 上に掲げた例が該当するかどうかば別途検討する必要があるが,問題になりそうな表現を片っ端からリストアップして,とにかく差し障りのない表現だけで文字を埋めようという,いわゆる「自主規制」が羽振りをきかせているらしい。「自主規制によって問題をうやむやにしていることこそが差別である。」西河内氏は断言した。ではどうするか。篠田氏は表現者,出版者,利害関係者の問で話し合いの場をもつことによって,ひとつひとつ問題を解決の方向に持っていこうと地道な活動を行っている。
 図書館にとって,出版されないという事態は死活問題である。出版されていれば,表現が問題になった場合,収集して,何が問題なのか検証・議論する機会を市民に提供できる(プライバシーの問題は別途考慮する必要がある)。表現上の問題で絶版にするような動きがあれば,組織的に異議を唱えることはするべきである。
「自主規制」は図書館にとって大きな利害を持つ問題である。しかし,このような表面に出ない事柄に,図書館はどう関わっていけるものだろうか。里中氏や篠田氏が参画している「コミック表現の自由を守る会」のような組織と連携していくことができれば,その中から図書館としてできることも見えてくるかもしれない。

 (さとう たけひこ:国立国会図書館)

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Vol.89,No.1 (1995.1)

「有害」図書規制と資料提供 (和田匡弘)

 「有害」図書規制をめぐり「表現の自由」か「青少年の健全育成」かを争点に,1991〜92年にかけて論議が闘わされたことは記憶に新しいところである。最近では業界の自己規制もあり問題は沈静化したといわれるが,千葉県では青少年健全育成条例が改定され(94.3),9月には「摘発恐れ『コミケ』中止」(毎日新聞9.25)という報道にみられるようにコミック同人誌の即売会が中止されるということがあった。この間題は表面的に沈静化しているとはいえ,解決した問題ではないのでふたたび取り上げてみる。(「有害」図書規制の規制を 図書館雑誌1994.1)
 1992年愛知県で開催された第78回全国図書館大会の図書館の自由分科会ではこの問題がシンポジウムのテーマとして討議された。
 討議のなかで,「有害」と指定された図書について,その有害性についての科学的な説明がなく,果たして「有害」であったかどうか市民は確かめることができない。むしろ図書館は問題とされているコミックをこそ収集し提供していくべきではないかとの意見があった。
「有害」というレッテルを貼られて市民の眼から遠ざけられる事態に対して,事の是非を判断するための資料(コミック)を図書館として提供していくことは最も重要な役割の一つである。しかし,個々の図書館がマンガ・コミックを所蔵し,提供している事例は多いだろうが,「有害」と指定されたものまでを含めて提供できる体制を整えている館があるという話は寡聞にして知らない。単独館としての努力も必要であろうが現状では手にあまることも事実である。図書館界として何ができるかを考えてみることも必要ではなかろうか。
 行政担当部局の責任において指定した資料の公開を求めていくのも一つの方法である。しかし,例えば各地域の拠点館(県立図書館等)が行政担当部局と連携をとり資料の提供を受け,整理・公開することにより,図書館がその機能を生かし積極的に市民の判断の場を提供していくことは可能ではないだろうか。
 このことは「自由宣言」の解説にいう「図書館の自由の理念を拡大し,そのなかに国民の請求権的要素を認めていく」ひとつの実践となるだろう。

 (わだ まさひろ:名古屋市熱田図書館)

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第88巻(1994年)


Vol.88,No.12 (1994.12)

「図書館の自由」を支えるもの (竹島昭雄)

 第80回全国図書館大会が鳥取県で開催された。今年は「図書館の自由に関する宣言」40周年ということもあって,「図書館の自由」の分科会に参加した。
 分科会では,基調報告として「図書館の自由宣言」採択から今日までの経過が,重要な事件を交えて生々しく語られるとともに,基本的理念が明快に紹介されて感動的であった。また,現場の取り組みを紹介した事例報告は,身近な実践としてその時々の思いや困難さが理解できるとともに,やればできるという自信を与えるものであった。4本の事例報告発表後に各発表者への質問時間が設けられた。
 残念だったのは,質問時間があまりにも短いため,質問者の思いや発表者の意図が十分紹介されなかったことである。質問する者には,それぞれ相当の問題意識とこの分科会への願いがあるはずだから,出された質問は必ず紹介し,その内容を確認することが最低限求められるべきことであろう。
 紹介されなかった質問の中で気になることがあったので,後で司会者にその内容を尋ねてみた。それはおおよそ「自由の問題で論議しても臨時職員という身分から,職を失いかねない状況にある」という内容だったように思う。そしてこの分科会に,そうした状況を何とかしてほしいと訴えるものでもあった。
 自由の問題の分科会は,昨年まで多くの場合,職員問題と合同の分科会だった。それだけ職員の意識や専門職制度と深い関わりのある問題だからである。「図書館の自由」は,図書館が存立するための最も重要な柱であり,不断の努力とともに場合によっては自分の司書生命をかけることも辞さない強さが求められる。
 この質問者は,詳しいことはわからないが,そうした事態に追い込まれ,いま戦わなければ図書館の存在そのものが成り立たない危機にさらされているのかもしれない。私たちは,こうした個々の現場で奮闘する職員を見放してはならない。
 質問にしっかり応え,問題に立ち向かう勇気と希望を持ち帰ってもらうことこそこの分科会の役割でなければならない。なぜなら「図書館の自由」を守れるのは現場の職員であり,この職員を支える精神的拠り所が全国の図書館仲間であり,その組織である図書館協会だからである。

(たけしま あきお:栗東町立図書館)

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Vol.88,No.11 (1994.11)

記銘とラベリング(佐藤眞一)

 みなさんは,『報道写真家』という岩波新書をご記憶だろうか。1989年11月8日付の朝日新聞(朝刊)に「差別表現で岩波新書回収へ一新刊の3万6千部 『弁明の余地なし』」と報じられた図書である。
 同記事によれば,「第1刷三万六千二百部を回収処分にするとともに,八日付の主要新聞に『おわびとお知らせ』を載せ,既に購入した読者には訂正・新版と無料取り換えをする措置をとることにした。」と,岩波書店側の対応が書かれている。
 ところで,わが図書館の対応であるが,このような事例の場合,
 @回収には応じない。
 A新版を購入する。
 B新版を開架に出し,旧版は書庫に入れる(通常の処理)。
 C取り立てて注意を喚起したり,利用を制限することはしない。
というのが,基本的立場である。
 したがって,『報道写真家』についても,そのように処理されている…はずだった。ところが,実際には旧版が開架に出ており,新版が書庫に入っていたのである。
 これは,岩波書店が訂正版を旧版と全く同じ1989年9月20日第1刷発行として出版したために,差別表現で問題となった図書であることを知らなければ,外見上見分けがつかなかったことが第一の原因であった。
 岩波書店の対応の是非はともかく,気付かずに旧版を開架に出していたという点については,職員として反省する次第である。
 それでは,同様のことが発生しないよう,対策を…となると,これがなかなか難しい。大規模図書館ゆえの,収集部門と奉仕部門間の情報交換不足も原因のひとつだったと思うが,資料が特定されていたとして,ラベリングはしたくないし,「差別表現」図書所蔵リストもあまり作りたくない。かといって,対象資料は増えこそすれ減ることはないのである。
 司書として記銘の必要性を切実に感じるものの,メモリーがパンクしそうなこの頃なのである。

 (さとう しんいち:東京都立中央図書館)

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Vol,88,No.10 (1994.10)

県協会・県立図書館の重要性 (白根一夫)

 個人的な話で恐縮だが,私は3年半県内O市立図書館の草創期に出向したことがある。私が着任する前に,公民館図書室の蔵書に差別的な落書きをされるという事件が起きた。当時,公民館図書室では,利用統計をとるという目的で,ノートに図書を借りる人や席のみを使って勉強する人の住所・氏名を書かせていた。それも事務室の受付カウンターに置いて誰でも見られる状態で行っていたのである。いわば,公民館が施設利用のプライバシーを安易に漏らしていた状況の中で起きた事件であった。さすがに,その利用統計はすぐに中止になった。しかし,それだけで差別事象がなくなるわけではなく,教育委員会の職員自身が人権意識に目覚めなければならないということになり,係長以上の合同研修会と課内職員研修会が交互に月1回開催されることになった。私は合同研修会に図書館として何をテーマとし,どのような報告をしたらよいかいろいろと考えた。「図書館は,基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に,資料と施設を提供することを,もっとも重要な任務とする」機関であることを,公立図書館サービスを始めたO市教育委員会(職員)にまず理解していただくことが,今後の図書館運営を左右する鍵であると考え,「図書館の自由に関する宣言」を研修テーマとした。その後も「ピノキオ問題」「ちびくろサンボ」を取り上げ,また資料展示やポスターの掲示等つとめて「図書館の自由」に関して行政機関や市民向けにPRしていった。この研修会は現在も続いており,後任者も図書館サービスの姿勢を行政機関の中で理解を広めるという観点で報告しているようである。
 全国で現在,宣言採択40周年の記念ポスターが,県協会・県立図書館を通じて配布されていると思う。このポスターを一方的に郵送するのではなく,できたら直接手渡して,その時少しでも「図書館の自由に関する宣言」の制定の趣旨や制定までの経過等について説明をして配布するようにしなければならない。特に初めて図書館サービスをスタートさせた自治体や担当職員の方に対しては。その点,県協会・県立図書館の役割は重要である。

(しらね かずお:福岡県立図書館)

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Vol.88,No.9 (1994.9)

行政資料と図書館員 (荒木英夫)

 ある朝,農家の老主婦が「土地収用法」を読みたいと来館した。開発で先祖代々の土地を収用されることがどうしても納得できないという。だが,法律の文体は一般の人々には難解なもので,結局諦めて帰っていった。彼女には多分生涯一回の図書館利用だったのかもしれないのに。
 その時,公立図書館とは住民が本当に知りたいことに応じているのだろうかと反省したものであった。
 これは十数年前のことだが,今もそう事態は変わっていないようだし,あるいはむしろ後退しているかもしれない。社会の情況変化の中で,主権者である国民(住民)が自分の進路を選択するため知りたい情報に,図書館はどれだけ応じられるのであろうか。
 たとえば,自治体の議会記録はその公立図書館で公開されるべきものだが,そのことさえ議員から異議が出た話を耳にしたことがあった。
 ある館長研修会で,行政出身の館長たちから図書館の専門職員に行政知識が乏しいとの意見が出て,賛意を表する館長も多かった。行政にパイプを持つ館長たちが自治体の行政資料を収集することに努力し,住民に対する情報提供を行うことにより職員も行政の学習になるのではないかと発言したが,それは行政側と住民側の間で困難な立場になる危険があるから避けたはうがよいとの意見だった。
 公共図書館員は当然公務員である。公務員は全体の奉仕者と言われるが,地方権力の末端の一面も持っている。もし住民は知りたい,行政側は公開したくないという情報を提供する立場となった時,どちらを選ぶのか。その苦悩と心構えは,図書館員が常に考えていなければならないテーマではないのか。
 今の図書館にその力があるかと危ぶむ人もあろう。確かに困難なことであろう。だから「図書館の自由」はたとえそれが小さなことであっても現場の業務の中で一つ一つ押さえていくことが,砦を作ることになるのではないだろうか。

 (あらき ひでお:前気仙沼市図書館長)

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Vol.88,No.8 (1994.8)

主語と主体 (石塚栄二)

 「自由宣言1979年改訂」は,「図書館は」という語で始まり,終始文章の主語は「図書館」になっている。1954年に採択された旧宣言が「我々図書館人は」として,図書館員を主語としていたのとは異なる。これは,79年宣言の主要な改訂点のひとつである。
 それを宣言の発展とみるか,後退とみるかについては,館界のなかに意見の相違がある。発展と考える人々は,図書館は機関として国民に奉仕するのであるから,機関の姿勢を示す文書としての自由宣言は,当然図書館が主語であるべきだと考える。一方,図書館員こそが主語になるべきだと主張する人々は,現実の態勢のなかでは,図書館の自由を真に理解している図書館員(それが少数であれ,多数であれ)が組織内で強力に主張し,実践しなければ,図書館の自由の発展はありえないと強調する。主語は実践主体であるべきと把握する点では共通しているが,実践主体の捉え方で意見を異にする。理念派と現実派の対立ともいえようか。
 この二つの意見を止揚するには,それぞれの図書館において管理職を含む全図書館員が自由宣言を学習し,宣言の主語を真の実践主体に変えていく努力を重ねるしかないであろう。突発的に発生する事態に誤りなく対処するには,日頃の全職員の意見交換と意思統一が欠かせないし,日常の業務を自由宣言の観点から見直すことも,現場の職員の意識改革なしには行えない。また,図書館の設立主体を含む管理者や外部からの圧力や干渉に対応するのは主として館長を始めとする管理職の方々であろうが,日頃なにかと協力や援助を仰いでいる人々に,反論し抵抗するためには,つねづね図書館の自由についての理解を求めておく事前の行動が必要であろう。管理職の方々の学習が,特に必要とされる所以である。
 現実派の皆さんに希望したいことは,全国大会や地域の図書館員の集まりでよりも,職場のなかで図書館の自由についての学習活動を展開することに努めていただきたいことである。つまり,図書館の自由の実践主体を図書館全体に拡大することを目標にしていただきたいと考える。
 理念派の方々は,社会の新しい動きのなかで自由宣言の理念をいかに捉え直すかを明確にする努力をしていただきたい。例えば,最近地方自治体に個人情報保護条例制定の動きが高まっているが,それと自由宣言のなかのプライバシー保護条項との関係は,どう考えるべきなのか。
 学習の積み重ねのなかで自由宣言の主語が,ほんとうに自由宣言の実践主体として育っていくことを期待したい。 

 (いしづか えいじ:帝塚山大学)

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Vol.88,No.7 (1994.7)

マスコミ・利用者・図書館像 (藤原明彦)

 最近,テレビ等で図書館が登場する場面がたまにある。とはいっても,残念ながらあまりいい取り上げられ方ではなく,むしろ眉をひそめたくなるような場合が多いようだ。自由委員会でも,ここ数か月でそうした事例を2件ばかり扱ったことがある。テレビ朝日『さすらい刑事 旅情編Y』における「本を読む女」で,撮影を申し込まれた朝霞市立図書館がシナリオにおける問題点を指摘して撮影を断ったという事例(昨年11月)と,NHKの連続テレビ小説『ぴあの』において,図書館が個人情報を漏らしたように受け取られるシーンが放映されて問題となり,NHKから謝罪文が寄せられたという事例(本年4月)である。
 このような事例では,図書館が利用者のプライバシーに触れる対応をする(もしくはしたらしい)という筋書が問題となる。現在の対応としては,こうした筋書のドラマ等が撮影されることになった場合,図書館側はシナリオの段階で修正を要求し,あるいはもう放映された場合には謝罪および事情説明を求めるという形が一般化しつつあるように思う。
 しかし,現在行われているこうした対応には,個人的には疑問に思う点がないわけでもない。何よりもまず,こうした形で図書館が登場する話は,基本的にフィクションであるということを忘れるべきではない。図書館の実名が明らかに出されている場合ならばともかく,一般的な某図書館として描かれた場合,そうした図書館が100%現実にあり得ないと言い切ることは,現在の我々にはできないのである。
 図書館の理念としてプライバシー保護を定着させようと努力している図書館界にとっては,確かにこうした設定は「誤った」図書館像を広めてしまう可能性を持ったものではある。しかし,フィクションという分野が現実にあり得そうな虚構を描くものである以上,それを「描いてはならない」と決めつけてしまう権限までは,我々にはないことを自覚すべきではないだろうか。こうした場合,我々にできることば,「抗議」−あるいは「謝罪要求」「責任追求」などではなく,あくまで「理解を求める」ところまでであると思う。

 (ふじはら あきひこ:埼玉県立熊谷図書館)

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Vol.88,No.6 (1994.6)

学校図書館とプライバシー (飯田寿美)

 学校図書館にも次々にコンピュータが導入されてきている。図書館側が要求した場合もあるし,校長や教育委員会の意向でという場合もあるが,とにかく,加速度的に増えているように思われる。
 私の勤める学校図書館も,機械化して5年が過ぎた。導入の目的は,事務を合理化して司書本来の仕事をする時間を生み出す,とか,カウンターの混雑を解消して利用しやすくする,とか,いろいろあったが,利用者のプライバシーを守るというのも大きな目的の一つであった。中高併設の私学であるから,「まるで小学生」から,「ほとんど大人」までを利用者としている。「こんな本を借りたら恥ずかしいかな」「幼稚って思われる」と,せっかく手に取った本を書架に返す姿をたくさん見てきて,そんなことに心を悩ませず,自由にのびのびと必要な本を借りてもらえるようにしたいと思い続けていた。いつ誰が,何を借りたかといった個人のデータは一切残らない貸出方式で,しかも予約や督促に対応できるのはこれしかないと,コンピュータを選んだのだ。
 ところが,同じ機械化をしている学校図書館でも,プライバシーについて無頓着なところが意外に多いことを知った。そもそも市販のソフトには「貸出日報」なるものが出るようになっているものが多い。それを無批判に使って毎日の記録を残したり,読書記録を生徒が欲しがるからと,個人別の記録を機械の中に蓄めたりしている。外部に漏らさない工夫が,厳重になされているのだろうか。生徒指導に必要だからと記録提出を求められたら,どう対応するのだろうか。
 本校でも,本の題名を出さない督促状や予約連絡票を持ってきて,何の本かわからなくて不便だと言う生徒が結構いる。待ってましたとばかりに「図書館は利用者のプライバシーを守らなくちゃいけないからね」と説明する。そんな大げさなといった顔で聞いているが,次に別の生徒に説明している横から,「プライバシーの問題なのよね,センセ」などと言ってくれると嬉しい。人権は,守られた経験があってこそ,それが無視された状態に置かれたときに,これはおかしいと気づくのではないだろうか。とかく生徒指導が優先してしまいがちな学校というところで,その経験をさせてあげるのは,学校図書館の責任だと思っている。

(いいだ すみ:小林聖心女子学院)

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Vol.88.No.5 (1994.5)

図書館と個人情報保護 (山根義雄)

 先日,都内の図書館で,ある事件に関係する容疑者が利用した図書資料の利用状況についての警察捜査に関する話題を耳にした。
 容疑者がその図書館のある資料によって犯罪に関わる内容の調査・研究をしていたというものである。警察としては,容疑者が図書館のどんな図書資料によって犯罪に関わる知識を得たのか,その人物の図書館における閲覧に関する資料の開示を求めたものであると思われる。警察捜査では,容疑者に関わるさまざまな場所において事情聴取をすることが考えられ,図書館という場もその例外ではないと思う。そしてそのような状況においてこそ,図書館員として確固たる対応を示すことが必要になるといえる。
 この図書館では,捜査段階での開示はしなかったようだが,雰囲気としては,協力しても良いのではないか,という空気もあったとのことである。再度の捜査は実際にはなかったようだが,個人情報保護の問題としても少し気になる話題であった。
 私たちが社会に生活していくうえで必要ないろいろな情報は,積極的かつタイムリーに公開されてしかるべきものであり,国民の知る自由が保障されなければならない。しかし一方で,個人に関わる情報でしかも個人が社会において不利益を被る情報があることも注意しておかなければならない。
 「図書館の自由に関する宣言」は,第3点目として利用者の秘密を守ることを謳い,憲法第35条における捜査令状の提示以外は,利用者の読書事実,利用事実について,図書館活動に従事している人々が秘密を守るべきことを示している。また,「図書館員の倫理綱領」でも,第3点目として利用者のプライバシーを侵す行為をしないことを図書館活動に
従事している人々の責務として示している。
 個人情報保護の視点は,図書館活動に従事している人はもちろんながら,その関係以外の人々にも,常識的感覚として備えておいてほしいと思う。
 はからずも今回耳にした話題から改めてプライバシーの問題を思い起すこととなった。              

 (やまね よしお:法政大学第二中・高等学校)

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Vol.88,No.4 (1994.4)

近畿地区小委員会20年 (若井 勉)

 近畿地区小委員会とは正式には「日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会」(全国委員会)の下にある小委員会のことであり,全国委員会の下に同じく「関東地区小委員会」があり,東西で調査・研究を分担し,運営されている。
 この近畿地区小委員会(略称「近畿自由委員会」)は1975年3月発足以来,この3月で211回を数え,月1回の定例で20年間よく続いたものだと感心している。委員は発足からの委員の石塚栄二,塩見昇先生をはじめ,委員は特別な事情のないかぎり継続しているため,比較的ベテランが多い。近畿地区を中心に西日本の館界の事情が把握しやすいように,公共,学校,大学の各館種からと図書館学担当の委員から構成され,地域的にも大阪,兵庫,京都,奈良,滋賀の各府県から選出するように工夫されてきた。運営のパターンは最初,前回以降の館界の動向とりわけ図書館の自由に係る動きなどの情報交換から始まる。各委員が各々の日と立場から知りえた情報を集約し,問題の論点を整理し,課題としていくのである。場合によっては,各委員の所属している図書館や研究会,委員会,協会の図書館の自由とは直接関係のない課題が持ち込まれ,議論することもしばしばである。しかし,小生も15年余り,委員の末席を汚しているが,これが館種を越えた図書館の諸課題を総合的に理解するのに役だっている。さりげなく自館の悩みが含まれていたりで内心「儲けた」と多くのことを学ばせてもらっている。次に予め委員長が予定した本題に入り,JLAおよび全国委員会の課題の報告,通年の課題,事例研究,今後の課題などを討議し,整理し進めている。論点の残るものや個別に調整する課題は場を変えた引き続く2次会で論議され,委員の時間の許す限り続くのが慣行となっており,これもまた楽しからずやである。この委員会が「天満学校」「森学校」「酒井学校」などと時の委員長の名前を冠して呼ばれていたのも,この委員会がさしずめ,大学のゼミナールのような厳しく和やかな雰囲気を持っているからであろう。今後ともこの雰囲気を大切に「継続は力なり」で粘り強く委員会を進めてほしいと考えている。

(わかい つとむ:立命館大学)

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Vol.88,No.3 (1994.3)

学校図書館とマンガ (細川直美)

 文部省は「児童生徒の読書に関する調査研究協力者会議」で学校図書館の活性化についても検討をはじめたが,そのひとつの手段としてマンガを利用することも考えるとしている。学校図書館とマンガと言えば10年ほど前はマンガの是非を問うものであり,数年前にはマンガの選定基準はというような論議をしたが,またあらためて話題になっている。
 東京の高校図書館研究会が6年前に調査したときにすでに回答校の80%がマンガをおいていると答えた。ちなみにその時のベスト5は@はだしのゲンAアドルフに告ぐB学習まんが少年少女日本の歴史B火の烏C世界の歴史CFOR BEGINNERSシリーズDカムイ伝である。総数255種の中には娯楽性の強いマンガから,学習マンガ,実用マンガ,ストーリーマンガまで含まれていた。学校図書館が受け入れているものであるので,教科に関連した学習マンガの類が多かったし,ストーリーマンガがカウンター内や鍵付き書棚に別置されていることもあるのに対して一般図書として普通に配架されていた。いわゆる学習マンガは難解な事柄をマンガで表現することで理解の助けとしようとするものであるから,子どもたちの切実なニーズもある。マンガの洗礼を受けて育ってきた教員たちにはマンガに対する抵抗感はなく,むしろ積極的にリクエストされることもある。学習マンガはかなり浸透しているのではないかと思うが,問題はストーリーマンガである。学校内ですんなりと受け入れられるにはまだまだという雰囲気だった。(学校にマンガを持って釆てはい
けない,という校則のあるところだってある。)
 ところがである。まさかいっぺんに「文部省選定マンガ」でもあるまいが,今までマンガの受け入れに関して干渉されたり,そうではないとしても無用な摩擦を恐れて自己規制していた学校図書館にとっては,文部省がマンガを認めるような発言をしてくれたことはちょっぴりうれしい話。気になるのは読書の契機をマンガに求めるような発言があったことだが,これで学校図書館でもマンガか活字かという形にとらわれずに良いものは良いという自由な選書ができるようになるだろうか。

(ほそかわ なおみ:東京都立八潮高等学校)

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Vol.88,No.2 (1994.2)

自由宣言40年を契機として (塩見 昇)

 今年は「図書館の自由に関する宣言」が制定されて40年になる。それは1954年5月の全国図書館大会/目図協定期総会においてであった。現在の改訂宣言は79年の総会で承認され,それからでも既に10数年を経過する。図書館の理念と社会への誓約を公表した文書として,社会的にも相応の評価を得ているのは確かだが,図書館活動の現場での日常化,一般の利用者の方々の意識への定着の程はいかがなものだろうか。
 そこで40年という機会を生かして,宣言の一層の普及を図るために自由委員会では幾っかの企画を考えている。その一つに,宣言の移動展示がある。この構想のヒントは,New York Public Libraryが1984年に開催し,その後の全国巡回で好評を得た展示「検閲」である。オーウェルの1984年を意識した企画で,“Censorship:500Years of Conaict”という立派な刊行物も作られている。
 それほど大きなことはできないだろうが,宣言の40年に重ね合わせながら,図書館の自由に関する主要なトピックや「禁書」の事例の幾つか,関係年表などをパネルにし,図書館のロビー等で展示をしてもらい,それに併せて講演会,パネルディスカッションなどを随時開催し,一般の方にこのテーマへの関心を呼びかけては,というものである。展示物は希望に応じて全国の図書館を巡回するようにし,各地の独自なアイディアも加味して実施できるようにすればと考えている。研究大会の会場で活用していただくのもよいだろう,皆さんのご協力をいただきたい。   

(しおみ のぼる:大阪教育大学)

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Vol.88,No.1 (1994.1)

「有害」図書規制の規制を(山家篤夫)

 1990年から1992年暮まで吹き荒れた「ポルノコミック」「青少年有害図書」規制運動とその対抗運動をフォローしてきた創出版が「『有害』コミック問題を考える」(’91.8)の続編「誌外戦」を昨年9月に刊行し,出版社の自主規制の現状と,多くの漫画家の発言を紹介している。取次が配本をコントロールするまでになった業界の「有害」指定件数は,対前年比37%も減っているという。
 青少年条例の規制強化を審議した各県議会推進派が決まってもち出したのが,緊急指定と包括指定をもつ岐阜県青少年条例の最高裁合憲判決(89.9.19)だった。だが,例えば東京都議会の議事録を通読しても,この判決が,大人は別ルートで資料を買えるのだから雑誌の自動販売機規制は検閲とはいえないと,自販機規制に的を絞ったものであることを明確にした討論は見当たらない。
 清水英夫神奈川大教授は,「裁判所に対して,判例の拡大解釈の可能性を十分考慮した書き方をするよう求めたい」(「青少年条例」三省堂1992 46頁)と述べているが,事の渦中にいられた出版倫理協議会議長としての切実な発言だろう.大阪弁護士会(91.12.3),東京弁護士会(92.2.16)が表現の自由を侵す規制強化に反対声明を出したのも当然だ。
 一方,図書館界は特に意思表示をしなかった。総務庁や一部政党は「全部斉一」の規制と立法化をめざす姿勢に変わりはない.このような波は4・5年周期で起こるというから,私たちもこれに備えて研究しておくことが必要だろう。
 そこで提案だが,この運用の民主的歯止めとして,行政担当部局の責任で指定した資料を整理し公開することを制度の一環として条例に盛り込むことを,図書館界から要求したらどうだろう。
 現在は東京都の指定だけでなく,各県の指定が業界の自主規制に反映するようになっており,現在進行中の新しい資料も住民がチェックできることが必要なことは明らかだから,世論の指示も得られよう,違憲まがいの制度をつくった責任はきちんととってもらう意味ももちろんある。
 「子どもに表現の自由なんてものはない」と言い切った「一部政党」の都議会議員の議会発言をしっかり頭において,みんなで知恵を出し合おうではありませんか。

(やんべ あつお:東京都立中央図書館)

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第87巻(1993年)


Vol.87,No.12 (1993.12)

学校図書館の「自由」は「人」の配置から! (土居陽子)

 今,学校図書館を充実させる運動が,全国的に高まっている.文部省が発表した「学校図書館整備新5カ年計画」「第6次公立義務教育諸学校数職員配置改善計画」がその要因といえるが,こうした施策は各地の住民の学校図書館運動に刺激された結果であることは見逃せない.これらの住民運動で一番強く要求されているのは「人」である.
 すべての図書館活動は「人」から始まるのであり,「人」のいない学校図書館で,生徒や教師の「知る自由」が保障され,プライバシーが守られるはずはない.例えば,「人」のいない学校図書館では図書の購入が年に数回というところが多いときくが,それでは日常的な資料要求に応えることは無理である.ましてその資料選択が業者任せになっているとしたら,「資料収集の自由」を放棄しているようなものである.以前に予約制度に関するアンケートを取った時,司書のいない学校からの回答に「それどころではない!」と赤でなぐり書きしたものがあり,厳しさを実感した経験もある.本校の場合,生徒は初めて司書のいる学校図書館に出会うわけで,入学時早々のオリエンテーションで「図書館はあなたのプライバシーを守ります」というと,狐につままれたようにきょとんとしている.読書の秘密を守るのだと説明しても,「そんな必要はない」と否定する.人にはプライバシーがあって,それは守られる権利があるのだということから伝えるのが例年の習わしである.
 このたびの「職員配置改善計画」は「専門」の条件を欠くとはいえ,文部省が学校図書館に「人」の必要性を再認識した点で,職員配置の大きなチャンスだと思う.施策の不十分な点(専門性,全校配置)については自治体独自で補うことも併せて,この計画を生かすことを各地で要求していきたいものである.その趣旨で協会のパンフも発行されたのであろうし,大いに活用したい.ただ,この「計画」による事務職員の配置が,現在勤務中の身分不安定な学校司書の解雇につながる危険性もあろう.そのあたりは十分な配慮が必要であるが,むしろこのチャンスに地域住民と学校司書がつながり,運動を強化するなかで,正規職員への道をひらくことはできないものであろうか.

(どい ようこ:西宮市立西宮東高等学校)

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Vol.87,No.11 (1993.11)

断筆宣言の波紋 (亀田俊一)

 筒井康隆が断筆するという.ことのおこりは角川書店発行の高校国語教科書に収められた筒井氏作の「無人警察」中に,「てんかん」に対する差別を助長する表現があるとして日本てんかん協会が,教科書からの削除と本の回収,書きなおしを要求したものだが,氏の怒りはこのことに対するジャーナリズムの対応にあるという.氏に取材が殺到したが,新聞には一行ものらないような事態に絶望して「プッツンします」ということになったらしい.
 しかし,この「プッツン宣言」は新聞にのった.筆者のみたかぎりでも,東京新聞,朝日新聞,産経新聞の各紙がとりあげ,差別問題と表現の自由,ジャーナリズムの自主規制,「ことば狩り」について,各紙が記事にしていた.
 結果的に,筒井氏は自分自身をだすことにより,マスコミが対応せざるを得ないような状況を作ったわけであり,表現の自由について話題にさせたという意味では,大勝利だったのではなかろうか.これはジャーナリズム全体にとってもよいことであり大いに喜びたい.
 氏のような高等戦術を駆使できるかどうかはともかく,話題を作って,図書館の自由に関わることが何かできないかを,いま,考えているところである.(集英社前でストリーキングをして「誰だハックにいちゃもんをつけるのは」の再版を要求するとか…….チョッと古いか)

 (かめだ しゅんいち:和光大学附属梅根記念図書館)

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Vol.87,No.10 (1993.10)

「子どもの権利条約」 の早期批准を望む (向井克明)

 6月の衆議院の解散により,「子どもの権利条約」が批准寸前で廃案になってしまい残念で仕方がない.しかし,国会審議の過程で,条約批准にあたって国内法の改正も予算処置も必要ないとか,訳語の問題として「child」を「子ども」ではなく,あくまでも現行の法体制との整合性から「児童」とするという問題も明らかになってきている.
 ここ数年来図書館界では,「子どもの権利条約」に関係する数多くの集会が開かれたり,多くの論文が発表されたりし関心を集めている.関連する書物も数多く出されている.しかし「子どもの権利条約」が図書館に与える影響については実のところ良くわかっていない.現実に各館の図書館利用規則などを見ると,子どもを大人と差別するような規則が残っている自治体がまだある.冊数制限の問題(大人と差がある),予約の問題(子どもにだけ予約に制限がある),利用時間の問題(子どものみ利用時問が短い)など数多く見られる.もちろんここ10年くらいの期間でわかる範囲の自治体を調べてみると子どもに対する制限は確かに著しく減っている.でもいまだに根強く残っていることも事実である.これらの問題をどこでどうクリヤーするかが課題である.また,これまでの利用規則などを条約に照らし合わせて検証することも大切であろう.
 また,規則面では大人と同等であっても,資料費,図書館のスペースなど物理的な問題も残っている.さらに図書館員の問題がある.つまり公共図書館においては,子ども専任の司書が少ない.学校図書館においては,専任の職員が小・中学校でほとんど配置されていないという問題がある.
 図書館そのものが設置されていない自治体も数多く残っている.
 このように考えていくと,「子どもの権利条約」が図書館界に与える影響は大きい.大きいからこそ私たち図書館員はこの「子どもの権利条約」を有効に使い,図書館が利用者にとってより良いものとするために努力をしたい.前国会では批准そのものには与野党に異論はなかったはずだ.今回は与野党が逆転したが,なんら問題はないように思う.できるだけ早く法案を再提出し,批准をお願いしたい.

(むかい かつあき:神戸市立三宮図書館

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Vol.87,No.9 (1993.9)

学校図書館と寄贈図書 (小山雪子)

 ある都立高校でのことである.卒業50年を記念して図書を寄贈したいとの話が卒業生からきた.それでは図書館にというわけで,図書館と各教科代表の教師とで話し合った結果,希望図書のリストを作成し,提出した.しかし卒業生の方でも寄贈したい図書があるとのことで,学校側の希望はほとんど入れられなかった.さらに贈呈式当日のリストには個人の寄贈として,ある宗教関係の図書が相当数追加されていた.これに対して司書や図書部では,公立学校の図書館という性格上,特定の宗教関係の図書のみを大量に受け入れることはできないとして,職員会議で討議した結果,その個人の寄贈についてはすべてお返しするということで決着した.
 この例では@学校側の希望がほとんど入れられなかったことA特定の宗教関係の図書が入っていたことの2点で,資料収集の自由の問題に関わっているが,Aの点はさておき,@の点が気になる.学校図書館としても選書基準を持ち,それによって寄贈図書の受け入れをと思っても,この例のような場合は難しいものがある.寄贈する側としても世間一般としても,母校のためにこれだけの図書を寄贈するのだから感謝して受け取るのが当然という考え方が根づよい.しかし受け取る側としては、それ程スペースに余裕はない,希望の図書をもらうわけでもない,大量に寄贈されれば,ただでさえ人手のない学校図書館としては整理が大変,さりとて断るのも難しいという複雑な立場に立たされる.よって,場所の提供だけという図書館も中にはある.
 母校の後輩に先輩の選んだ図書をという卒業生諸氏の思い入れはわからないではないが,そんなこんなでせっかくの寄贈が図書館側にとって,あまり歓迎できないものになってしまったのは残念である.こんな時のためにも選書基準を明文化し,司書だけでなく,教師も含めた選書のための組織を定着させて,風通しのいい図書館をつくっておくことが大切であろう.

 (こやま ゆきこ:東京都立千歳高等学校)

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Vol.87,No.8 (1993.8)

名簿をどうしていますか (三苫正勝)

 前から気になっていたことに,名簿の公開とプライバシ−の保護の問題がある.おそらく図書館員ならだれでも,各種の名簿を提供しながら,一種うしろめたい思いを禁じ得ないことと推察する.一方では,名簿図書館といったものがあって,公開非公開のあらゆる名簿を収集して,繁盛していると聞く.
 勤務先,住所,電話番号のみならず,生年月日,出身校,経歴,果ては趣味や血液型,家族構成に至るまで掲載している名簿がある.歴史上の人物事典の類は除いて,いくつかに分類すると,@紳士録の類,A分野別の名簿,B再編集された名簿,C組織・団体の名簿.
 このうち紳士録の類は,掲載料を取っているようなので,本人の了解を得ているとみなしてもいいのであろう.次の分野別の名簿は,たとえば『図書館関係専門家事典』(日外アソシエーツ1984)は,本人に照会して,了承を取り付けたものには,*印をつけている.了承を得られなかった人については,著書などから知り得た範囲のことがらが記載さ
れているので,まず良心的といっていいであろう.
 再編集された名簿は,いろいろ考えられようが,一例として『現代日本人名録』(日外アソシエーツ1990)などはそれまでに編集した分野別名簿の,いわば総集編であるが,これに収録するかどうかについては,いちいち了解は取られていない.一度公表されれば,それはどのように料理しようと勝手だといいきれるのかどうか.電話番号簿をコンピュータにうちこんで,目的に応じた名簿を作りだす商売もある.
 ここまでは,まがりなりにも公表された情報をもとに編集された名簿である.疑問は残るが,一応黙認されているのが日本の現状である.
 問題が大きいのは,組織・団体の出す名簿である.多くはその所属員に渡すために発行されている.公刊されているものから,部外秘に至るまで,さまざまである.伝統のある大学の同窓会名簿などは,公立図書館でも結構収集しており,一般に利用されているのではなかろうか.自治体の職員名簿は,かつてはどこでも職員用に印刷していたものだが,いまでは見られなくなってきた.プライバシーの認識がすすんできたためである.
 この4番目のケースが最も迷うところで,図書館における収集提供に関してなんらかのガイドラインが出せないものであろうか.
 アメリカの状況に詳しい人の話によると,プライバシーは自分で守るものであるから,ひとに知られたくないプライバシーが表に出ても,それは本人の責任に帰せられるのだそうだ.いまさら名簿の提供の是非が図書館で問題になることはないという.

(みとま まさかつ:枚方市立枚方図書館)

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Vol.87,No.7 (1993.7)

「館長は…禁止し退館 させることができる」 (小川 徹)

 生活の都市化・国際化がどんどん進み,図書館もその彼のなかで新しい問題に次々直面している.利用の多様化も頑が痛いことのひとっである.図書館運営規則あるいはこれに準じた規則を拠り所に利用を断(りたくな)ることもしばしばある.その規則のことだが,日頃は規則を真正面から振りかざして,ということがそうあるわけではないし,規則自体建物管理者が住民に利用させてやる(図書館の目的を達成するために一般の利用を認める)式のものはほとんど姿を消しているので,その内容が問題にされることは今日まずないようだ.しかしなかには気になる表現が散見される.
 首都圏のある地域のいくつかの図書館の規則をみてみる.どの規則にも利用を制限する条項がある.その多くは「この規則または館長の指示に従わないものに対して,館長は,利用を禁止し退館させることができる.」といった内容のものである.これは平均的表現なのであろう.しかしなかには,建物または付属物を損傷するおそれがあるばあい,秩序を乱すおそれがある者,風紀を害するおそれのある者の利用を制限するとするものがある.「おそれがある」というのは大変あいまいな言い方であり,市民に圧迫感を与えるおそれのある文言であり,一考を要するのではないか.
 また「伝染性の疾患のある者」あるいは「精神病者,伝染病者,めいてい者」の利用を制限するとしている例がある.「めいてい者」の利用を断ることに異存はあるまい,しかし「伝染性の疾患のある者」という表現,なにより「精神病者」と言っているのはいかがなものであろう.問題があるのではあるまいか.文言の変更を促したい.さらにこれらの条項は普通「利用の制限」と呼ばれているが,「入館拒否」という例がある.これなども利用者のための,あるいは利用者が主人公であるはずの図書館にあってよい言い方ではあるまい.こうした条項の表現は「すべての国民は,図書館利用に公平な権利をもっており,[中略]外国人にも,その権利は保証される」という「宣言」の原則をも踏まえ,ひと工夫もふた工夫もあっていいのではないか.       

(おがわ とおる:法政大学)

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Vol.87,No.6 (1993.6) 

「図書館の自由」は司書の常識ですらない? (鍵本芳雄)

 昨春大学図書館を定年退職し,縁あってさる大学の司書課程のお手伝いをしている.担当の分類演習でわざと脱線して,「自由宣言」を他の先生の講義で聴いたか?と尋ねたら,受講途中や未受講科目も多い受講生とはいえ9割が知らない,僅か1割が偉友H氏の通論か資料論で聞いたと.慌てて次の時間に宣言や倫理綱領の抄録をランガナタンの五法則などと共にプリントして配り,簡単な解説と全文の入手方法を話した.
 本誌の今年3月号のこの欄で,山田浩二氏が「図書館の自由」は世間の常識ではないと,図書館の普及に比例して小説映画テレビの題材に多くなりだしたが,「図書館の自由感覚」普及は遅れている,館の姿勢の確立と継続を,と説いておられたが,その館を支える司書の相当数が養成時に「自由宣言」「倫理綱領」を知らぬまま資格を取得するなら,この道はさらに遥かの彼方….図書館ハンドブック第5版303頁によれば,今や全国で毎年約1万名司書有資格者が誕生,うち5〜6%が図書館に就職…と.さすれば残り94〜95%の人たちは,本来ならば「図書館の自由」普及にとっての得難い戦力として市民の中で働き得るはず.
 もっとも,1968年以来25年間改訂されていない現行の13科目19単位のカリキュラム内容には,図書館の自由やプライバシー保護などは入っていないが,現実には公立館の採用試験問題に出題され(柴田正美氏「図書館界」44(3)1992。9 140p.による),また塩見昇氏の図書館情報学概論15回の授業中3回を図書館と知的自由に当て1回を倫理綱領にもふれたとの授業実践の報告もあり(前掲誌41(6)1990。3 310p.),図書館の自由の現実の発展は司書養成や採用試験に反映されつつある.
 今問題になっている司書養成カリキュラムの改訂で,伝えられる方向にはこのような図書館の現実の発展の反映をさらに難しくするおそれが感じられる.悪名高き学習指導要領のような「縛り」で自由宣言教育を強要するつもりは毛頭ないが,司書養成担当の先生がたに,少なくとも司書は自由宣言を知っている状態の現出をと,ご一考をお願いしたい.

(かぎもと よしお:神戸市在住)

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Vol.87,No.5 (1993.5)

検閲者がやってくる前に (野瀬里久子)

 アメリカ図書館協会知的自由部編纂の「図書館における知的自由マニュアル 第3版」が川崎良孝,川崎佳代子氏の翻訳によって「図書館と自由・第12集 図書館の原則」として1991年に出版された.
 わが自由委員会にとってはたいへん参考となる資料であるが,そのなかでとくべつ私の関心をひいた見出しがあった.「検閲者がやってくる前に;準備にかかせないもの」という項目である.詳細は12集を読んでいただきたいが,そこでは三つの成文化された手続き−資料選択プログラム,苦情取扱い手続き,広報活動プログラムの作成−を実務上の指針として実に具体的に示している.
 自由委員会では現在「事例集」を作成中であるが,あらためて整理してみると,問題そのものが論点も明確にされないまま隠微に処理されてしまう事例が多いことに気づく.私の所属する図書館でも以前,検閲論争にまきこまれたことがあったが,その時には成文化した資料収集方針を持つことの意義を学んだ.また同時に苦情申立ての当事者と面談しその意見をきく機会をもったが,いわゆる「苦情申立者」の立場についても理解することができた.最近でもとりとめのない苦情者の出現に図書館側が混乱した経験があり,マニュアルの必要性を感じている.
 ALAのマニュアル「苦情取扱い手続き」には苦情についての公式な手続き(書式)を用意することを提言し,その利点として図書館員の動揺を軽減することができること,また苦情者に自分の反対を論理的,冷静に表明することを求めるため,図書館員は反対の理非を評価できること,そして苦情者にとっても反対を申し出るについて所定の手続きに従うことによって自分の主張が真面目に傾聴され,検討されると確信するという意味で役立つと述べている,
 さらに苦情に関する公聴会の開催,そのためのさまざまな方法,そしてさらに図書館の支持基盤を強めるため日常の広報活動プログラムへと言及しているわけだが,日本の場合そこまでは到達できないとしても「苦情の書式」を用意することはできないだろうか.もちろん「収集方針」にしても「苦情申立書」にしても形式のみが先行していても困るが,「検閲者」と冷静に建設的な対話をすることを提唱したい.

(のせ りくこ:品川区立荏原図書館)

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Vol.87,No.3 (1993.3) 

「図書館の自由」は世間の常識ではない (山田浩二)

 ミステリー短編集「法月給太郎の冒険」(法月給太郎・著 講談社1992年)の中の一編『切り裂き魔』は,東京のある区立図書館の推理小説の最初の標題紙ばかりが切りとりにあうという奇妙な事件を,図書館長に頼まれた探偵が解決するというものだ.
 その中に,主人公の探偵がコンピュータ上の貸出記録を職員と一緒にたどりながら犯人をあぶりだす,というくだりがある.「練馬のテレビ事件」から,「凶水系」「土壇場でハリーライム」と,図書館の利用者のプライバシーの扱いについての「誤解」がなかなかに後を絶たない一例というところか.
 もっとも,私はそれについて「作者が図書館に理解がない」とか「図書館がそう書かれたことで信用を落とすのでは」といった指摘をするつもりはない.自治体名とか館名が実名で使われたら,当事者である館は抗議をしたいかもしれないが.
 思うに,これは「図書館の自由」というものの存在感の問題なのだろう.「図書館の自由」が図書館のありかたとして世間的に常識になっていれば,それを設定に組み込もうと思う作家もたまには出ようというものだ.
 だが,今の現状では作家が実感できる程度まで常識になっていないのではないか.例えば,貸出記録を部外者に(探偵に)見せる見せないのエピソードで職員が言いそうなことと言えば「これは規則で見せられません」という程度の想像しかできないに違いない.
 図書館が増えて身近な存在になればなるほど,作品の舞台として取り上げられることば小説やテレビ,映画など,どのジャンルでも増えていく.「図書館の自由」感覚もそれに比例してあたりまえの図書館の雰囲気として,一緒に一般に広まってくれるようになってはしいが,図書館の姿勢というものが確立されて,その反映として,世間の常識がまた遅れてついてくるものだろう.じっくり続けるよりほかはない.

(やまだ こうじ:大田区立大森南図書館)

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Vol.87,No.2 (1993.2)

選択基準のみなおしを (伊藤昭治)

 図書館間の相互賃借が活発になってきている.それはそれとして喜ばしいことだが,なかには困った依頼もある.自館の選択基準で除外しているから,他館から借りるというのだ.それが外国文献などその館では手に余る資料の場合は納得できるが,新書版の小説とか,写真集といったものがある.もちろん書店で購入できるし,どの館でも利用の多い資料である.
 図書費が少ないからというのなら,府県立図書館に依頼すべきであろう.資料要求が多くない,積極的に置きたくない資料の予約ならば,府県立図書館にその資料を引き受けてもらうのもひとっの方法と思うが,同レベルの自治体への依頼は素直に喜べないものがある.こうした資料の予約を受け付けるならば,まずは頑なに選択基準に固執せず変更すべきでなかろうか.それがいちばん早い解決法である.
 図書の選択ほど図書館思想に直接結びつくものはない.だから選択論の違いは図書館思想の違いである.公立図書館が教育的意図をあらわにして,具体的な個々の利用者の要求が疎かになるような姿勢には私は警戒したい.
 利用者の要求に一館の資料では応えきれない,そのために各館が相互協力し相互貸借を実現してきた.その方向はこれからも進めなければならないが,基本に利用者の要求無視選択論があってはならない.資料購入ができないのならば,選択基準を公表し利用者に納得させねばなるまい.選択基準ではどんな字句で除外しているのであろう.興味のあるところである.
 宮沢りえ,マドンナと話題の多いこの頃である.新聞にもどの館は置き,どの館は置いていないと書く.その筆致は非難がましい.これだけ話題になるのだから見たい人も多いだろう.書店では内容が見られないし簡単に誰もが買える金額でない.いずれにせよ見たいと思っても図書館の蔵書になければ見られない資料のひとつではなかろうか.それだけに図書館に確保したいと私は思う.

(いとう しょうじ:茨木市立中央図書館)

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Vol.87,No.1 (1993.1)

「照会書」や「令状」に出会ったら(5/終) (吉本 紀)

4.「令状」とはこんなもの
(1)令状といっても具体的には数種あるが図書館が利用者情報について関係するのは殆ど「捜索差押許可状」である.これが正当に提示されれば,図書館が管理する利用者情報を捜査機関に示すことも止むを得ない(目的外使用の理由として利用者に説明できる)というのが現在の自由宣言の考え方である.
(2)しかし,「令状があればみせてもいい」という○×式理解に止まると現実の複雑さを過度に単純化した短絡に陥る虞れがある.常に原理に立ち戻って自分が納得できる結論かどうかを再考して,実践に役立つように論理を鍛える必要がある.
(3)それでも具体的に令状に出会ったときには原理をじっと考えるヒマはないから,基本的な促成技術的チェックポイントを3つだけ例示しよう.(公表されているリーディングケースは国立国会図書館の深川幼児誘拐事件(図書館雑誌1986。10に紹介)).
 @持参した人が権限ある人か? A令状は裁判所が正当に発行した不備のないものか?(ここは記載事項についてだけでも判例がたくさんあるところだが,対象範囲を具体的に書いてあるかが1つのポイント.図書館側としてはコピーしたいところだがさせないことが多いようだ.メモはできるので書き取っておくことが重要.) B多くの場合対象物を示すのは図書館側が行い,執行中も図書館側が立ち会う.これは,手続の適正の担保と,執行を受ける者の利益保護のためであり,法律に明示された義務である.
(4)他方,実際の捜索実務に対しては,令状の安易な発付やプライバシーの軽視の傾向が指摘されることがある.直ちに結論づけるのは難しいが,どんな事態にも常に目的外利用に対する慎重な態度を堅持して,捜査機関にも理解を求めることが要諦である.

(よしもと おさむ:国立国会図書館)

捜 索 差 押 許 可 状
被疑者氏名 ○○ 請求者の官公職氏名 ○○警察署
司法警察員警部補○○
右の者に対する ○○ 披疑事件について、左記の通り
捜索及び差押えすることを許可する。
捜索すべき場所、身体又は物
有効期間  平成○年○月○まで
右の期間経過後は、この令状により捜索又は差押に
着手することが出来ない。この場合には、これを裁判
所に返還しなければならない。右の期間内であつても
捜索又は差押の必要がなくなったときは、直ちにこれを
当扱判所に返還しなければならない。
差し押えるベき物
平成○年○月○日  
○ 裁判所
    裁判官 ○  印

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第86巻 (1992年)


Vol.86,No.12 (1992.12)

森耕一先生とランガナタン (馬場俊明)

 ことしは,インドの図書館学者ランガナタン(S.R.Ranganathan)の生誕百年である.わが国では,『図書館学の5法則』やコロン分類表の考案者として,広く知られている.とくに,ランガナタンの5法則は,図書館の本質的機能を体現しているものとして,しばしば,言及されているが,その著書を翻訳紹介されたのは,この秋,急逝された森耕一先生である.
 何か不思議な巡りあわせを感じる.森先生は,日本図書館協会「図書館の自由に関する調査委員会」の初代の委員長であり,地区小委員会における毎月の例会は,森学校と呼ばれ,相当数の事例研究が積み重ねられている.
 改訂『図書館の自由に関する宣言』(以下『宣言』)は,その成果のひとつの現われである.1979年3月,森委員長は,改訂案の総括説明にあたって,『宣言』は,「日本図書館協会に結集する図書館および図書館員が,図書館の利用者である国民に対して,図書館はこういう考えで運営しますと,態度表明することである」と述べておられるが,その理念と精神は,いまも受け継がれている.来春には,その集大成としての「図書館と自由 第13集『宣言』」を刊行の予定である.
 このように,『宣言』は,日常的図書館活動を支える精神的支柱として,きわめて大きな意義をもつようになっている.ランガナタンの5法則が,インフォメーション・テクノロジー時代においても,いまなお,インパクトをもっているように,『宣言』の理念も,永遠である.
 因に,ランガナタンの第1法則は「本は利用するためのものである」であり,第2法則は「すべての読者にその人の本を」である.この法則には,「図書館の自由」ということばこそみられないが,あらゆる人々の「読む自由」の保障が,明快に語られている.まさに『宣言』そのものである.
 現在,図書館員の個としての自覚が問われているが,忘れてならないことは,この森先生が指し示していた『宣言』の態度表明とランガナタンの5法則の図書館観を,ひとりでも多くの図書館員と共有していくことができるかということである.森先生のご冥福を祈って,合掌.

(ばんば としあき:京都産業大学図書館)

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Vol.86,No.11 (1992.11)

図書館は無料休憩所? −山谷と図書館利用の自由− (西河内靖泰)

 荒川区立南千住図書館は山谷地区に隣接している.ご存知のとおり,「山谷」は日雇い労働者の街である.台東・荒川・足立(河原町職安の関連)区の日雇い労働者は推定1万人以上.彼らの多くは「簡易宿泊所」通称「ドヤ」)に居住しているが生活は不安定で不景気や梅雨・年末年始など仕事がなくなるとドヤから野宿に「移行」する.山谷は今この4〜5年のドヤの改築によりドヤ代が上昇,そのうえ90年時と比べ7割も仕事は減っている.職安で支給される失業保障(「アプレ手当て」)はカットされ(90年以来5割の人がカットされた),高齢化がすすみ,さらに60歳以上の大部分の労働者が仕事の場を失っている.そのため昨年の倍の野宿者が街にあふれている.「山谷」および上野・浅草地区には常態として不就労・野宿し続けている人々が数百人もいるといわれる.
 彼らにとって,1日中無料で居続けることができるのは東京都城北福祉センター娯楽室(手狭で余り人が入らない)と図書館である.南千住図書館では1日延2百〜3百人が閲覧室に籠りきりである.これだけいると酒がまじった独特な臭いが充満する.問題は悪臭だけではない.飲酒,睡眠,わめき声,乱暴等,さまざまなトラブルを図書館側と起こす.こういう層が増えると途端に利用者が減り貸出が減少する.一般区民などから彼らを排除しろという意見もでる.アメリカでは他の迷惑になる「ホームレス」の人を排除するのは正当だとの裁判所の判決がでたという.一方でまた迷惑になるからといって「ホームレス」を排除するのは不当だとの判決もでたそうだ.
 他の公共施設と異なり図書館は不特定多数の利用者が誰でも自由に利用できる.資料を借りるだけでなく,くつろいだり席を利用する機能もある.「図書館の自由」とは資料提供の自由だけではない.図書館利用そのものの自由でもある.だから図書館は利用の権利は守り続ける.私たちは排除は認めない.しかし図書館としては正直なところ困っている.
「無料休憩所」のままでいいのか.皆さんと一緒に考えたいと思っている.図書館のあり方を含めて.

(にしごうち やすひろ:荒川区立日暮里図書館)

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Vol.86,No.10 (1992.10)

大学生とプライバシー (田中 力)

 以前,学生に対して図書館利用者のプライバシー保護についてのアンケート調査をしたことがあった(*). ある小説のなかで図書館が外部からの問い合わせで特定の利用者がどんな本を借りているか等を教えるくだりがあるのに対して,図書館側が作者に抗議し作品の訂正を申し入れた事件を紹介し,大学図書館でもこのようなプライバシー保護は必要と思うかとの質問だった.全体としては,必要と思う:67%,必要と思わない:33%だったが,その理由の主なものを拾ってみると次のようである.まず必要と思わない理由としては「知られても別に何も困ることないもん」「別に悪用されることもないんとちゃうか」という善良・素朴派と「自分の尊敬する人,関心を抱いている人がどんな本を読んでるか知りたいやんか」という教養派と「プライバシー守ってほしいんやったら,自分で本員えや」という現実派があった.
 では67%の方はどう書いていたか.「図書館で第三者に利用事実を教えるのは,病院で他人にカルテを見せるのと同じやで」というのは鋭い.「高校の図書室にはその手の本はあまりないけど,大学生ともなればある程度思想みたいなものがあるから,やっぱりプライバシーは必要と思う」は図書館利用の高校での読書指導的なありかたとの違いを自覚している.「誰が何を読もうとかってじゃないか」ごもっとも.「別に人の読んだ本を知ろうとは思わないが,逆に人にひそかに知られるのは嫌だから」「図書館で本を借りるということは,個人生活の中での自由の一部であり,プライバシー保護をしないということは,その自由の侵害だと思う」との指摘は的確である.「企業が就職の際参考にしたり,ダイレクトメールに使われるおそれがある」は個人情報がコンピュータを通して濫用される危険性を指摘しており,学生のプライバシー感覚の一面をあらわしているといえよう.
 大学図書館での「図書館の自由」に対する問題意識は,公共図書館などと較べて概して薄いといわれている.しかし学生のプライバシー感覚は確かなものである.要は図書館員自身の,日常業務の中での「図書館の自由」感覚の問題ではないだろうか.
(*『図書館と自由 第9集 図書館は利用者の秘密を守る』1988)

 (たなか つとむ:関西学院大学産業研究所)

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Vol.86,No.9 (1992.9)

「照会書」や「令状」に出会ったら(4) (吉本 紀)

(1)「令状」ではない
 右の書式が「照会書」で司法警察職員捜査書類基本書式例の様式第49号にある.これはいわゆる「令状」とは全く異なる.当然のことのようだがパッとみせられたときに全く経験がないと何だかわからないものだ.それに,場合によってはチラと見せるだけというようなこともあるようだ.法的な意味も体裁も提示された側の義務も何もかも違う.専門書や福地明人「刑事訴訟法197条2項をめぐって」(『現代の図書館』13(4)1975),『図書館と自由9 図書館は利用者の秘密を守る』(日図協1988)所収の論文などを参照.
(2)あわてない 
 照会事項の欄には,単に所蔵資料の複写依頼が書かれたりもするが,注意を要するのはいうまでもなく犯罪等に関連する利用者(被疑者・被害者・それ以外の人などいろいろある)情報の照会である.「あわてぬよう 1,2」で書いたように,まず図書館側の基本的スタンスを説明し,照会書を受け取り,上司に報告してみんなで検討する.
(3)よく説明する
  照会書に形式や内容上の不備がなければ報告義務があるというのが一般的な捜査実務であるようなので,図書館側のスタンスを説明してもすぐには理解されないことも多い.重大・緊急の事件であったりすると余計にそうだ.だから,図書館側も意を尽くして説明しなければならない.電話で済まそうと考えない方がよい.公文書形式で十分に理由を疎明して拒否する場合もある.
       (上図中の照会事項欄の文は数種の実例を参考に筆者が作成した)

 (公文書番号)    (照会庁所在地名)

捜査関係事項照会書
捜査のため必要があるので、左記事項
につき至急回答されたく、刑事訴訟法第
百九十七条第二項によって照会します。
平成 年 月 日
   (照会者氏名・所属庁部署・公印)
○○○○ 殿
照会事項
当署において取調べ中の被疑者の所持
品中に左記番号の貴図書館利用券があっ
たので、登録者の住所及び電話番号につ
いて回答願いたい。

 (よしもと おさむ:国立国会図書館)

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Vol,86,No.8 (1992.8)

「選ぶ自由」と「選ぶ力」 (竹島昭雄)

 平成4年6月22日の朝日新聞朝刊「聞いて!言わせて!」欄に,「自由奪う課題図書」と題する投書が寄せられている.投書は,課題図書と読書感想文に縛られた子供の読書状況を,「選ぶ自由」を奪われた子供たちの不自由な読書生活と嘆いている.
 毎年この時期になると,子供たちは課題図書や学校で配られたリストを持って,どれでもよいから借りたいと言い,なければ片っ端から予約していく.期間中に読めればまだしも,とうてい間に合わない場合でも,とにかく予約していく.そんな,夏休みの子供の図書館利用になんとかならないかと思っていたところ,最近二つの小学校の教師と,子供の読書について話し合う機会があった.
 ひとつの小学校は,夏休み前に教師が各学年に20冊の図書を紹介して,その中から感想文を書かせる宿題を課していた.紹介された図書は必読書ではないが,生徒にすれば読まなければならない図書として,図書館に来ては前述のような状態を繰り返していた.
 もうひとつの小学校では,昨年から学校の教育方針に子供の読書を取り上げ,公立図書館との連携が求められた.連携の前に学校図書室の問題もあろうが,すぐに改善できる状況になく,子供の読書環境を教師の力でなんとかよくしたいということだった.そこで,子供に「本を選ぶ力」をつけさせることを目標に,教師が毎月一年生全員を図書館に連れて来て,職員によるお話し会の後,生徒一人ひとりが開架室で本を選んで借りていくことになった.
 両校とも,子供に読書力をっけさせるという目的は同じだが,方法の違いが,子供に全く違う読書生活をもたらす.事実,後者の学校教師から「図書館に連れてきた子供たちの,本に対する好奇心や関心が他の学年とずいぶん違う」と聞いた.そして,何度も「本を選ぶ力は,たくさんの本の中から楽しく自由に選ぶ体験を積むことですね」と話された.
 「選ぶ力」をつけた子供は,自分の楽しめる本を知っているから,よく読み,自然に読書力が身につく.「選ぶ力」は,「選ぶ自由」が育てるのであろうし,「選ぶ自由」を提供するのは大人の責任であると痛感させられるのである.

(たけしま あきお:滋賀県栗東町立図書館)

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Vol.86,No.7 (1992.7)

なまえのない図書館員 (佐藤眞一)

 私の勤務する都立中央図書館では,電話レファレンスの場合,通常は1時間の調査時間をとって調査を行う.利用者には調査の終了時刻以降に再度電話をするように告げ,内線番号を伝える.
 その時,担当者の氏名を尋ねてくる場合があるが,ほとんどは,再度電話をしたときに,きちんとした回答が用意されているかどうかという不安(いわゆる「たらい回し」をされる不安)からのものである.ちなみに,標準的な応対は「担当者はローテーションによって交替します.お伝えした内線番号におかけになり,ご質問の内容をおっしゃっていただけば,その時の担当者がお答えいたします.」というものである.
 しかし,ごくまれにそれでは納得しない人がいる.その場合は,「図書館では,担当者が交替してもきちんと引き継ぎをして,回答できるような体制をとっております.特定の担当者が抱え込むより,均質なサービスを提供できるので,結果として利用者の方にとっても有利な方法であると考えておりますが…」などと続ける.
 それでも,なお納得しない人もいる.以前の例だが,自分が名乗っているのに名乗らないとはけしからんという人がいた.実はこのときの相手は都の職員だったので,「同じ都の職員のくせに融通がきかない.」と続いた.相手が誰であっても(都の職員であっても,一般の都民であっても)等しくサービスするため,そして,プライバシー保護という立場から,図書館では質問とは関係のない,利用者の氏名を聞くことはしていないという説明は,残念ながら理解してはもらえなかったようだ.
 図書館の仕事は,利用者一人一人のニーズに答えていく,パーソナルなサービスである.いわば,氏名を表示して仕事をするのが一般的なサービス業の分野で,無記名でする仕事の信頼を得ていこうというのだから,まだまだ地道な積み重ねが必要なようである.

(さとう しんいち:東京都立中央図書館)

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Vol.86,No.6 (1992.6)

「自由」が学校に根づくには −いい利用経験に助けられる− (土居陽子)

 「生徒が読みたがる本(例えばコバルトや]文庫など)がなかなか購入できない」「予約制度が取り入れられない」「貸出方式が(プライバシーを守るように)変えられない」
 これらは,学校図書館を活性化しようと前向きに努力している学校司書の多くが持つ悩みである.学校図書館も図書館であるし,「図書館の自由」はすべての図書館に基本的に妥当すると宣言にもある.したがって,生徒の知る自由・読む自由を保障するのは当然だと私たちは考えたり言ったりするのだが,先生方にそれを理解してもらうのはなかなかむずかしい.図書部(係)の部長や係の先生でさえわかってくれないことも多い.
 しかし,公共図書館をよく利用していたり,そこでいいサービスを受けたことのある先生は,予約制度もプライバシーを守ることにも理解が早い.例えば,M先生は日曜日ごとに家族で近くの公共図書館へ行かれるとのことで,推理小説を次々に楽しんでおられ,時には予約もされるとか.部会に予約制度を取り入れたいと提案した時,事もなげに「そら,よろしいわ」と賛成してくださった.また,T先生の娘さんは小学生の頃,公共図書館に入り浸りだったそうだ.ある時「どんな本を読んでますか」と職員にたずねたら,「それはプライバシーに関することなので,直接お嬢さんにお聞きください」といわれて感動されたという.彼は生徒に向かって「うちの図書館はプライバシーを守るいい図書館です」と宣伝してくださる.
 こんな経験をする時,学校司書は公共図書館の偉大さとありがたさを実感する.そしてすべての先生が公共図書館の利用者であり,いいサービスに触れて「図書館の機能」を体験していてくれたらどんなに助かるだろうか(そのためには,公共図書館の振興が必要)と思う.そして,学校図書館においても,ひとりでも多くの先生や生徒に「いい利用経験」をしてもらうために頑張ろうと思うのである.

(どい ようこ:西宮市立西宮東高校)

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Vol.86,No.5 (1992.5)

「照会書」や「令状」に出会ったら(3) (吉本 紀)

2.一人で悩まぬよう,閉鎖的にならぬよう一組織的心構え
(1)自分一人でひっそりと片付けようと思わないことにしよう.誰かに任せてしまおうと思わないことにしよう.組織としては最終的には管理職者が責任をもって対処すべきであるが,任せてしまうのではなく明るく組織内の議論をすることが大切だ.この種の問題は一人の天才が万古不易の真理を見出すというのではなく衆智の中からその時点での到達点を考えるものだからである.必要であれば図書館だけでなく自治体などの上部機関をも巻き込む.その場合考えが食い違うことがあっても,努めてケンカ腰にならぬよう抑制をきかせ,粘り強く丁寧に基本的スタンスからの思考に基づいて議論しよう.幸い自治体ではプライバシー保護に関する行政経験が豊富に蓄積されつつあるから,図書館側も経験をより普遍的にする機会になる.
(2)自由委員会も力になりたいと思う.残念ながら今のところJLAにはこの問題の専任者を置く基礎がないし,相談に応じる態勢も万全ではないのが現状なので,相談を持ちかけても隔靴掻梓の感を持たれるかもしれないが,2月号に書いたようにこれまでの経験を積んできている.ただ,この種の問題を抱えている方々は往々にして参考事例を求めるには急だが自らの問題を事例として提供することには非常に慎重である.お気持ちはとてもよくわかるがこれでは蓄積が難しい.行政との関係で味わう苦労などは特にそうだ.秘密を守ることはもちろんなので館界の発展のためにも経験の共有ということにご理解をいただきたいと思う.
(3)より長期的には,考え方や対処について方針を作成し,さらには条例や諸規則などの法的根拠を設ければ,行為規範にもなるし,人によって対応が異なるという不安定性も消える.また,利用者に対する態度表明にもなって対外的な信頼が深まることになる.

(よしもと おさむ:国立国会図書館)

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Vol.86,No.4 (1992.4)

「見る自由」とビデオソフト貸出 (井上靖代)

 「スターウオーズ」はPG映画である.アメリカ映画を見ていると,最初のクレジットのところにこのPGとか]とかいった記号がでてくる.アメリカの<映倫>(MPAA)が決めたランクである.日本の映倫が決めた<一般映画><成人映画>(18歳末満おことわり)<一般映画制限付き(R)>(中学3年生未満おことわり)といったのとよく似ている.日本のものが性描写を中心としているのに比べ,アメリカのそれは性描写のみならず暴力描写やオカルト,言語表現などについても厳しいチェックを行っている.暴力描写の多い映画は一般映画館にははとんどかからない.
 映画館側の対応は,だいたい年齢によって分けられている.未成年に対しては,Rあるいは]ランクがつけられた映画については見ることばできない.PG となると親同伴でないと映画館に入れないとか,16(あるいは12)歳以上なら親がサインした許可書があればよいといった対応がなされている.PGというのはParent(s)Guided,つまり親が子どもに見せてもいいと判断し,後で親が責任をもって,<指導>できるなら見られますという映画です,という<証明>なのである.「スターウオーズ」を見て隣りのケンカ友だちを撃ち殺されては困るからということなのか.実際,子どもが親の銃を持ち出して友だちを撃ち殺したという事件はアメリカ社会では頻発している.「スターウオーズ」とは関係なく.
 ところで,このランクづけされている映画がビデオになった場合どうするのか.映画館なら入場を断わることもできるが,ビデオソフトとなるとそうもいかない.そしてそのビデオを図書館が貸し出すならどうするのか.ALAの「図書館の原則」ではこのランクわけは何ら法的拘束力をもたないことを明確にしている.しかし実際には図書館としては子ども向けとか,成人向けとか,<分類>しておきたいものである.図書でも同じことが言えるのだろうが,ビデオソフトを評価し分壊することは難しい.ついつい,このMPAAのランクを利用させてもらうということになってしまう.また親たちもそのランクを信頼している.図書館員の専門職としてのビデオソフトの評価は,いったいどうなっているんだ.子どもたちが見たいという要求を,見る自由を図書館員自身が妨げているのではないかといった論議がいまアメリカの公共図書館界では盛んである.
 ひるがえって日本の図書館ではどうだろう.公共図書館では関東地方を中心として,ビデオソフトを貸し出すところが増えつつある.ランクわけをしている館は少なかろうが,中学生以下には貸し出さないという館はよく聞く.理由の多くは,中学生以下では「高価な」ビデオソフトの扱いが雑だとか,なくされたり傷つけられたりすると弁償してもらえないとか,といったものではないだろうか.昔の図書館で図書の貸出の際,年齢制限をしたという状況と同じではないだろうか.
 ビデオ機器が各家庭に普及してきたのは最近の話である.生まれた時からビデオが周囲に空気のように存在している子どもたちと,操作方法のカタカナの意味がわからなくてうろたえている親たちと扱いにそんなに違いがあるのだろうか.アメリカとは別の意味で子どもたちの「見る自由」を阻害してはいないだろうか.

 (いのうえ やすよ:京都外国語大学)

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Vol.86,No.3 (1992.3)

「照会書」や「令状」 に出会ったら(2) (吉本 紀)

1.あわてる必要はさらさらない−初期対応
(1)まず,落ち着いて・丁寧に・機嫌よく・威厳をもって係官の話を聞いてみよう、係官の立場に立って事実と状況を把握するのだ.そうす
ると,係官が私たちに求めている問題の深刻度や緊急度,あるいは図書館がどのように関わってきそうかということが見えてくる.借り出された本が単に落とし物として届けられた場合と何らかの事件の容疑者が借り出したかもしれない場合とでは,対応についての基本的考え方に影響はないにしても緊急度も深刻度も異なるからだ。さらにもっとよく聞けば,図書館の利用事実がその事件にとって本質的に重要か参考程度のものかも推測がっいてくることがある.
(2)次に,図書館は利用者情報の目的外使用をしない,そうでないと図書館が資料等の管理の必要上利用者情報を持っていることの正当性が失われ,存立基盤が揺らぐことになる,という基本的スタンスと突き合わせて最も相応しい解決方法を考えてみよう.必要があれば係官にもこれを話して理解を求める.機会あるごとにこうした対話を繰り返し理解を深めてもらうと意外なときに大きな味方になることがある.マスコミもそうだ.
(3)その上で,即決が難しそうであれば対処方を検討するために,ひとまずお引取り願っても大抵の場合かまわない.慎重を期すに如くはない.もっともこれも事件の緊急度などによってさまざまなケースがありうるが,とにかくバタバタせずにステップを踏むことが肝心だ.(つづく)

 (よしもと おさむ:国立国会図書館)

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Vol.86,No.2 (1992.2)

「照会書」や「令状」 に出会ったら(1) (吉本 紀)

 図書館学を教えている先生がある県の市立図書館を訪ねた際のこと.若い女性の職員と訪問者らしい男性とのカウンターでの会話を耳にした.男性の声はくぐもっていてよく聞えないが,職員の「それは利用者の秘密として守らねばなりませんので申し上げることができません」という言葉が聞えた.後に聞いたところによると男性は警察関係者で,口頭で利用者情報を得ようとしていたところだった.その後それ以上の問い合わせなどはなく沙汰止みになったので,どういう事情で情報を得ようとしていたのかは分からない.
 この種の出来事で図書館が対応に苦慮していることが明らかになってもう20年近くになる.警察側の態度(強硬さの程度や図書館の立場に対する理解度)はまちまちであり,図書館側の対応ぶりも区々であった.この間,図書館は公的機関として法的にも的確な対応が求められていたから,自由委員会としても法律の専門家の協力を得ながら理論の構築をし,経験を積み,『自由宣言』に取り入れ,『図書館と自由』シリーズ第9集「図書館は利用者の秘密を守る」でこれまでの事例を組み込んで研究を集成し,全国の図書館員の経験の蓄積と理論的研究の成果を共有しようとしてきた.
 しかし,それでもいざ目の前に警察の係官が現われれば,余程の経験と確信がなければ不安になるのが普通だ.まして,差し迫った重大事件に関わりがあったりすればなおさらだ.それに,ことば刑事手続と個人のプライバシー保護との衝突という緊張関係のあり様にかかわるものだから「裁判所の発行する令状があれば」という結果のみの理解では的確な対応はおぼつかない.事例に即して柔らか頭で「冷静に・威厳をもって・丁重に・機嫌よく」対応しなければならない.
 そこで,こういう事態に対面したときに「柔らか頭」を保っための手続準則をお題目ふうにいくつか列挙することにした.まず「その1 あわてる必要はさらさらない」から始めることにしよう. (つづく)

(よしもと おさむ:国立国会図書館)

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Vol.86,No.1 (1992.1)

大学の自治と図書館の自由 (若井 勉)

 大学の国際化,情報化,開放化のなかで,大学図書館はその置かれてきた社会的基盤の変化に伴い,程度の差はあれ,利用対象者は留学生をはじめ,一般市民の利用へと急激に拡大・変化してきている.相互利用など利用形態においても館種を超えた,また,国際的な広がりへと変化してきている.加えて電算化の進行により,書誌的情報や利用者情報などプライバシーを含んだ諸情報が蓄えられ,ますます容易にそれが作用できる状況になってきている.大学における図書館の自由ということをこのような今日的状況のなかで捉え直す必要があるのではなかろうか.
これまで,大学図書館においては「大学の自治」を「防波堤」として公共図書館とは異なり,教育機関であり,利用者が特定されているとして,あまり考えられてこなかったといっても過言ではなかろう.そのためか,理念的な理解に留っている場合が多く,どちらかといえば,受身的であったといえる.
 また,大学自治の概念が伝統的な「教授会自治」や古典的な「権力からの自由」だけからのカテゴリーで政治的な性格を有したものとして理解され敬遠さえする向きもある.もっとも「天皇機関説事件」,「沢柳事件」,「京大事件」など思想・信条,学問の自由を守るため,私どもの先達は生命がけでその大切さを後世に知らしめてきたことに目を背けてはならないが.しかし,大学自治もまた,社会的存在であり,今日の状況なかで考えていかねばならない.文字どおり,国民から付託されたその自治もひとり大学人の占有物ではないのであることはいうまでもなかろう,全構成員自治から社会的なコンセンサスをもったものにしていかねば,それは陳腐化するであろう.図書館の自由も古典的な理解から市民的自由を積極的に打ち出したものとして考えていく必要があろう.大学図書館における図書館の自由を以上述べた二つの側面から今一度考えて見ることが大切ではないだろうか.何よりも利用者が便利で安心して使える図書館とするために.

 (わかい つとむ:立命館大学)

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第85巻 (1991年)


Vol.85,No.12 (1991.12.)

入れるな的要求と入れろ的要求 (藤原明彦)

 先日友人から,ちょっと気になる情報がパソコン通信で入ってきた.最近話題になったある宗教団体が,各地の図書館に教祖の本を購入させようと働きかけているらしいという内容である.おそらく,大部分の図書館は購入を断ったことであろうが,これを見て僕はしばらく考え込んでしまった.本当にそれでいいのだろうか?
 図書館には,利用者が読みたいと思う図書の入手に関して,リクエストという制度が確立されている.ただ,これは本来,あくまでも「利用者が読みたい」図書に閲し,その利用者にその図書を提供することが目的であって,利用者の購入希望とか,利用者の「他の人に読ませたい」図書を蔵書に加えてほしいという希望にもこの制度が適用されるわけでは(少なくともこの制度の本来の主旨から言えば)ない.
 が,利用者(個人のみならず,お話グループ等の団体もあるだろう)から「これをぜひ購入して図書館においてほしい」といった希望が出される場合は少なくない.こうした場合には,リクエスト制度を利用して購入している場合が多いだろうが,こうした場合と,最初に触れた宗教団体からの要求を区別することはできるのだろうか.自分が感動した図書を人にも読んでほしいと考えての要求ならば,児童書も宗教書も区別されるべきではないとは言えないだろうか.
 現在の図書館は,「〜を入れるな」的要求にはかなり強く反発するが,「〜を入れろ」的要求には,対応が定まっていないように思う.図書の購入に関する要求は,普通に活動している図書館では当たり前に起こり得ることである.「国民のあらゆる資料要求にこたえ」るべき図書館としては,利用者の要求と資料収集.蔵書構成との関係について,ここらでじっくり考えてみた方がよくはないだろうか.

 (ふじはら あきひこ:図書館情報大学大学院)

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Vol.85,No.11 (1991.11)

図書館の自由と情報公開制度に共通するもの (石塚栄二)

 図書館の自由に関する宣言は,知る自由の理念を高く掲げている.
 知る自由は,人間が本来的に持っ知的探求の自由の欲求という自然権にねざすものであり,そのなかには人類共有の財産である知識を求める権利とともに,社会形成に参加するために必要とする社会的,政治的情報を入手する権利を含んでいる.
 この権利は,情報入手をその保有者に請求することのできる権利(請求権)であるとともに,情報入手の行動を他者によって妨げられないという介入排除権をあわせもっ複合的権利であって,情報社会における基本的人権のひとつであるということができる.これを私は情報享受権と呼んでいる.
 情報享受権には,出版物閲読の権利,公的機関の情報公開を求める権利,各種のメディアに接触する権利,公表された情報に反論する権利,誤った情報の訂正を求める権利などが含まれる.
 図書館の自由は,この情報享受権が図書館という場で発現する形態であって,具体的には図書館資料請求権および図書館利用への介入排除権というかたちをとることになる.自由宣言は,このふたつをその柱としていることはいうまでもない.
 このように考えるならば,情報公開制度と図書館の自由は,情報享受権という共通の基本的人権に基づいた社会的システムであるということができる.しかも,いずれもが資料・文書に記録された情報を求めているということ,公立図書館の場合は設置母体が同一であるというふたつの共通した性格をもっものであることからして,図書館の自由を追求している私たちとしては,情報公開制度の実現とその実効ある運用にも関心を持たざるをえないということができよう.

 (いしづか えいじ:帝塚山大学)

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Vol.85.No.10 (1991.10)

いわゆるコミック規制と図書館 (佐藤毅彦)

 「表紙やタイトルは一般的少年少女向け漫画と同様だが,内容に露骨な性描写や学校等での暴行シーンが豊富に盛り込まれている」ため,青少年の育成に有害であるとして一部の漫画が社会問題になっている。(いわゆるコミック規制問題.)
 全国の青少年条例によるコミックの有害図書指定状況は,昨年1〜10月が延べ383冊だったのに,11月〜12月の2か月で延べ930冊と急増してる.青少年条例で有害指定された出版物は,書店が扱わなくなる結果その自治体では事実上の販売禁止状態になることもある.同条例は長野県以外の都道府県にあり,ほとんどが有害指定条項を持っている.しかも有害指定の基準は明確でない.
 他にもコミック規制の動きは至るところで見られる.住民運動から始まったこの動きは,一気に法律制定へと進みかねない雲行きである.
 青少年条例に代表されるこれらのコミック規制の実状は,それゆえ,図書館の自由の理念をないがしろにする危険をはらんでいることがわかる.
 確かに,コミック規制だけなら,図書館には直接的な影響はないだろう.しかし例えば,有害指定が拡大されれば,「成人には何ら問題のない資料」であっても入手困難になりうる.それに,そもそも自由への問題意識は規制の対象で限定されるべきではない.規制されているという事実が重要だ.
 特に気になるのは,有害図書を検討する場に「青少年」が主体的に参加している様子が見えないことだ.知る権利は,程度の違いはあってもすべての国民に保障されている.図書館は,この権利が有害図書指定の場でー方的に規定されていないか,注意してみる必要があると思う.
 青少年条例にすら危機的兆候が見える.ましてや法律制定となったら,「青少年」の顔がますますわからなくなりそうで,とても怖い.

 (さとう たけひこ:国立国会図書館)


 「こらむ図書館の自由」連載にあたって

 図書館の自由に関する調査委員会では,図書館の自由に関連する身近な話題をはじめ事例等をトピック的に図書館界に提供し,読者のみなさんといっしょに考えていきたいと企画しました.毎回半ページに収め,委員会のコメントも付したいと考えています.情報,ご意見などお寄せいただければ,よりよい誌面ができるのではと期待しています.

 (JLA図書館の自由に関する調査委員会)

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