日本図書館協会図書館の自由委員会「こらむ図書館の自由」もくじ>こらむ図書館の自由 101巻(2007)-106巻(2012)

「こらむ図書館の自由」101−106巻(2007−2012)


 
第106巻(2012年) 第105巻(2011年) 第104巻(2010年) 第103巻(2009年) 第102巻(2008年) 第101巻(2007年)

105巻(2012年)

Vol.106,No.12(2012.12)

「過ぎたことを今後のために」(福永正三)

 いま、図書館の自由委員会では『図書館の自由に関する全国公立図書館調査 2011年 付 図書館の自由に関する事例 2005〜2011年』を編纂中である。これは昨年行われたアンケートの集計と事例紹介とをセットにしたものであるが、この事例紹介の部分は2004年までの事例を扱った『図書館の自由に関する事例集』(2008年刊行)の、いわば追録版にあたる(以下、この事例紹介の部分を単に「事例集」という)
 ここに掲載される事例の多くは、唯々諾々と館外からの指示や要望にしたがっておれば迷わずに済むものを、まじめに向き合えば向き合うほど困惑を余儀なくされるようなケースである。
 例えば昨年のことだが、作家が自作の小説について図書館に対して貸出猶予を要望したことがあった。一方では、作家の経済的な事情を斟酌すれば、なんとか作家の要望を聞き入れてあげたいと思う。しかし他方、図書館が作家の要望をいちいち聞き入れるのはどうかと思うし、まして受け入れを拒んで臭い物にフタをしてしまえば困惑は避けられるが、これでは利用者不在ではないかと考えてしまう。措置に困って『図書館の自由に関する宣言』を読んでみても、ピッタリした答えを見出すことはできない。
 思うに、迷った時は「基本に帰れ」ということではなかろうか。ではこのケースでの基本は何か。それは、すべての資料を特別扱いせずに利用者に提供するということである。
  「事例集」では過去に生じた事例の事実関係とそれに関わる参考資料を紹介するにとどめ、採るべき対応を具体的に示唆しているわけではない。しかしこれらの事例を過ぎたこととして過去形で語るだけでなく、困惑するようなケースに出くわすかもしれない今後のために、それぞれの場合に基本に照らし合わせばどう措置すべきかを各自・各館で考えるきっかけに、この「事例集」を利用していただければと思っている。

(ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.106,No.11(2012.11)

「図書館のミッション」(山家篤夫)

 片山善博氏の講演「まちづくりと図書館−図書館の新しい役割」をネットで見ることができる注)。文科省主催の新任図書館長研修である。講演は「図書館のミッションは何だとお考えでしょう?」という問いかけから始まる。図書館を含め、自治体の各事業の評価、優先順位、予算配分の基準はそれぞれのミッションであって、明確かつ適正に確認されなければならないという。
 図書館の自由に関わる私としては、表現の自由(知る自由)が他の基本的人権に優越する理由である「自己実現」と「自己統治」が頭に浮かぶ。前者は人として希望する生き方ができていくことで、後者は主権者として民主主義社会に参加すること。この法律学での通説が図書館のミッションとも言えるのではないか。
 片山氏は「市民の自立支援」が図書館のミッションだと語られる。起業支援は市民の経済的自立支援、闘病記文庫は「生きる」自立支援、教養を高める生涯学習機能は人格形成支援。別の場で、氏は図書館のミッションとしてもうひとつ、「民主主義の砦」としてのはたらきをあげていられる(地方分権と図書館『ひらこう!学校図書館』14(2010.10))。例えば市町村合併を勧めるなどの政府言論に対抗して、住民自治に必要な資料・情報を提供できる場は図書館しかないのではないか、と。
 自治省の課長として政府の自治体行政を知悉され、県知事として図書館を支援・激励された片山氏のミッション論は具体事例に裏付けされて説得力がある。先の法律学の通説も、図書館については片山氏のような噛み砕いた言葉で説明すると、より腑に落ちるものになるのかなと考えさせられる。
 注)http://www.nier.go.jp/jissen/gakusyu/H19_tosyokan/contents05/index.htm  2012.10.19確認

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会,獨協大学)

もくじに戻る


Vol.106,No.10(2012.10)  休載


Vol.106,No.9(2012.09)

「図書館における読書と「読書権」」(佐藤眞一)

 4月から視覚障害者サービス担当となった。それなりに関心を持ってきたサービスであるが、担当になったのは初めてである。
 私が図書館員になった頃、公立図書館の録音図書作成には著作権の権利制限が認められていなかった。そのため、録音図書を作成する際に、まず著作権者の許諾を得ることが必要だった。もちろん快く許諾を得られる場合が多かったが、時には同一性保持権などを持ち出され、作成を拒否される場合もあった。この場合、当時から許諾が不要だった点字図書館等による作成を待つか、プライベート録音として作成し、リクエストした利用者の利用後は、お蔵入りにせざるを得なかった。
 著作権法は、障害者権利条約批准のための国内法整備の一環として、合理的配慮義務の観点で改正され、その内容は平成22年1月から施行されている。改正に合わせた政令により、公立図書館も許諾なしに録音図書を作成できる施設に指定された。自動公衆送信も認められ、利用者がサピエ(視覚障害者情報総合ネットワーク)等のサイトから直接、必要な録音図書等をダウンロードすることもできる。
 さて、読書や読み書きをする権利を「読書権」と呼び、その普及促進を図る動きがある。これまで、障害者サービスを支えてきた諸先輩たちも多く関わっている。普及促進活動の中心は、読み書き(代読・代筆)情報支援で、公立図書館は、拠点としてサービスの提供を求められている。
 これは、公立図書館では読書する権利は充分保障されているので、次は読み書き情報支援ということなのだろうか。そういう図書館が行うなら構わないのだが、公立図書館の音訳サービス等は、まだまだ充分ではないと感じている私にとって、その改善努力なしに、先に読み書き情報支援というのは違和感を感じる。

(さとう しんいち:東京都立多摩図書館,JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.106,No.8(2012.08)

「「たいしたことではない」の意識を持つな」(田中敦司)

 個人情報の漏洩に関して、自治体に厳しい眼が注がれている。
 図書館が保有する個人情報は多岐にわたるが、どんな本を読んだか、読んでいるかという事実は、個人の思想信条に関わることで、当市では「要注意情報」と呼んでいる。原則は取得禁止であるが、個人情報保護審議会の意見を聴いて必要不可欠として、認められたものである。それだけに、厳格に保護すべき情報であり、それが守れなければ、組織の存立を危うくしてしまう。しかし、私たちは日常的に個人情報を扱っているうちに、いつの間にか軽く見るようになっているのではないか。
 社会科学の本を借りているから、これは思想信条に関わる情報で、小説を借りている事実ならたいしたことではない。このような安易な意識になっていないだろうか。利用者にとって、何が思想信条に関わるのかは、本人でなければ判断できないものである。図書館側が勝手に判断できるものではない。
 過去には損害賠償請求がなされたこともある。1件について1万円から3万円を自治体に対して支払うよう、裁判所から命じられている。だが、損害賠償はお金の上での解決で、これで解決できているかというと本人にとってはそうではない。本当はお金では償えないものである。次善の策として金銭での償いにしているだけである。
 実は、上記の話は職場での会議の席上、上司が私たち分館長に対して話した事柄である。図書館以外の部署から異動されて3年目の館長であるが、図書館の本質を鋭く捉えている。年度の初めにトップからこのような発言があったことは、図書館での個人情報保護の大切さを、現場の長が図書館で働くものすべてに対して、伝えていくようにとのメッセージと受け止めている。

(たなか あつし・JLA図書館の自由委員会、名古屋市名東図書館)

もくじに戻る


Vol.106,No.7(2012.07)

「ポイントカードと履歴」(木村祐佳)

 一年ほど前にこんなテレビドラマを見た。ある警察関係者が、殺人事件の容疑者として逮捕された。彼の部屋からは事件を連想させるような猟奇的なDVDや本が見つかり、凶器となったものと同じ型の包丁を購入していたことも分かった。真犯人はオンラインショッピングのサイト運営会社の社員で、そのサイトでの購入履歴や、提携するクレジットカードの利用履歴をもとに、犯人の条件にあてはまる人物を選び、無実の罪を着せていたのだった。
 これはフィクションの世界のことで、ショッピングサイトやクレジットカードの履歴は実際には厳重に管理されていて、個人を特定するようなことは簡単にできないだろう。しかし、クレジットカード、電子マネー、ポイントカード、ネット通販など、私たちの購買履歴が莫大なマーケティングデータとして蓄積されているのは事実である。使う店舗は違っていても、カードのIDを結び付けることで、このIDの人は平日にはA市のコンビニで○○を買い、休日にはB市のスーパーを利用している、というような膨大な購買データが取得されている。
 ポイントカードを図書館の利用カードとして導入しよう、という武雄市立図書館の構想が議論を呼んでいる。図書館の利用履歴も、マーケティングの材料として使われるのではないか、という危惧はもっともである。履歴データの扱いも決めないまま、ポイントカードありきで構想を進めるこの案には、疑問を持たざるを得ない。

(きむら ゆか JLA図書館の自由委員会、国立国会図書館)

もくじに戻る


Vol.106,No.6(2012.06)

「まずは、足元を見直すことから」(河田 隆)

 今年の1月31日放送ということだから、半年ほど前の事例になるが、フジテレビのドラマ「ストロベリーナイト」において、図書館の自由に抵触する表現があった。捜査の過程で、殺された男が図書館でどんな本を借りていたか(検索していたか)の情報を図書館から得るという設定になっていたのだ。ドラマの中で利用記録のリストが示されるのだが、そこに一瞬、「中野区立新井図書館」という館名が読み取れる。「新井図書館」は架空の施設である。しかし自治体名は特定されている。
 同様のケースのテレビドラマ「相棒」第7話「夢を喰らう女」(2004.12.8放映)の場合、世田谷区の図書館員たちは”図書館員への区民の信頼を傷つけた”と制作者に抗議し、謝罪等を求めた。個々の図書館の現場で、何ができるかを考えてみたい。
 今回、このドラマを視ていた人は、図書館のことをどう受け止めただろう。何も疑問に思わず、「図書館は利用記録を見せるんだ」と思った人がほとんどかもしれない。しかし一方で、ドラマの設定に違和感を覚え、「図書館がそんな事をするはずがない」と思った人もかなりいるのではないだろうか。同じドラマを視ても、その人の図書館に対する理解度によって、受け止め方は変わってくる。
 私たちが現場でできるのは、「図書館がそんな事をするはずがない」と思ってくれる市民を、日常の図書館サービスを通して、少しずつでも増やして行くことだと思う。今回のようなテレビドラマをきっかけに、図書館報に記事を書いて、図書館の自由について改めてアピールするのもいいかもしれない。
 もちろん、その大前提となるのは、利用記録を捜査機関に提供しない等の対応を個々の図書館が取っていることである。現場での確かな実践があって始めて、社会に対するアピールが説得力を持ってくるのだ。
 まずは、足元を見直すことから始めたい。

(かわた たかし:JLA図書館の自由委員会、松原市民図書館)

もくじに戻る


Vol.106,No.5(2012.05)

 「子どもの「読む」楽しみ」 (井上靖代)

 5月5日は子どもの日。子どもに読む楽しみを発見してほしいと図書館員はあれこれと工夫をこらす。作家も工夫をこらす。最近、図書館ネタのライトノベルとかマンガが増えている。そんな本の1冊、「図書館の主」(篠原ウミハル、芳文社)を読んで考えた。
 そのマンガでは、少々子ども過保護の母親が小学1年生のわが子を守るため密着しすぎて図書館にクレームをつけるエピソードがでてくる。司書いわく、あなたは子どもがなぜ図書館にくるのか、どんな本を読んでいるか知っていますか。で、その子が読んだ本を示し、結果、母親自身に読書の楽しみを発見させる。その司書が示す本は小学1年生が読むレベルの本か?というつっこみはおいといて、疑問は母親に子どもが読んでいる本を教えるのか、である。このエピソードでは無理なく母親の気持ちを変えていく微笑ましいものになっている。現実ではどうだろう。もし、この小学1年生の子どもが読んでいる本が年齢にしてはかなり幼稚な内容の本だったら、この母親は逆にヒートアップしてくるだろう。なぜ、こんな本をうちの子に読むようにしむけているのよっ!となるかもしれない。
 昨年度、自由委員会では図書館の自由に関するアンケートを実施した。そのなかで、子どもの借りた本について保護者から問い合わせがあったら教えますか、というものがあった。いくらなんでも小学校高学年以上なら教えないだろうという予想はあっけなく裏切られた。中学生でも教えると答えた図書館が複数あった。選択肢に高校生はなかったのだが、未成年の場合保護者に教えると決めている図書館なら、もしかすると高校生でも教えると回答とした図書館があったのではないだろうか。
 図書館員は子どもにこんな本がおもしろいよ、あんな本がいいよ、と薦めて、子どもの地平線を広げていく。図書館員は子どもの人生のメンターだ。が、そのために何をしてもいいというものではないだろう。子どもの日に、子どもに対して図書館員はどのような使命を負っているのか考え直し、図書館の規則等を再検討してほしいものである。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会、獨協大学)

もくじに戻る


Vol.106,No.4(2012.04)

「私たちはひとりではない」(喜多由美子)

 一昨年の6月、勤務先図書館のカウンターで、「部落地名総鑑」の所蔵調査及び閲覧、相互貸借などを依頼された。対応に当たった私は資料の差別性を指摘し、人権侵害を目的とした資料の調査には一切応じないことを伝えるが、そのことを不服とした利用者が、八尾警察署に「図書館では私の問合せに一切答えてくれない。私は不当な人権侵害を受けた」と訴えるということがおこった。
  図書館の対応について何らかの説明が求められることはあるだろうと思っていた。しかし度重なる事実確認のための聴取や膨大な資料の作成など、それは予想をはるかに超えるものであった。特にきつかったのは、何度も同じことを説明しなければならなかったことである。「図書館に非はない。私は正しい。」と繰り返すたびに疲弊していった。
  図書館の自由に関わることでもあり、西地区委員に相談し助言を求めることができたことは心強かった。心配して電話をかけてくれる人もいた。心が折れそうだと愚痴ったとき、「バカ野郎」の一言はきつかったが、その人なりの私へのエールだったと思う。改めて私は独りではない、背中を押してくれる人がいる。そして、その人が言ってくれた「お前は正しい」の一言に迷いはなくなり、力がわい
てきた。
  何か自由の問題が起ると、県立図書館や図書館協会に対応についての問合せが全国から相次ぐと聞いたことがある。そのすべてが、お墨付きが欲しかったり、自分で判断できないから聞くというものばかりではないと思った。その人にとって初めての事例であると、不安がよぎるだろう。ましてや最終判断をしなければならない人ならば、なおさらである。他人に判断を仰いでいるのではなく、誰かにあなたは正しいと背中をたたいて欲しいからではなかろうか。妥協してしまうのは容易だが、多くのものを失う。そうならないために何かを求めてくる人がいるかもしれないことを私は身をもって知った。

(きた ゆみこ:JLA図書館の自由委員会,八尾市立山本図書館)

もくじに戻る


Vol.106,No.3(2012.03)

「地域図書館の本格的な復興を」(平形ひろみ)

 「テイカンツナミの本はありませんか?」電話の向こうで声がする。 今でこそ、「貞観津波(ジョウカンツナミ)」の事だとピンとくるが、地震後図書館がまだ復旧する前の問い合わせ、しかも北海道在住者からの電話だったため、「お近くの図書館か道立図書館へお問い合わせください。」と、つれなく電話を切った。
 5月、再開した日の最初のレファレンスは「仙台平野の津波について」だった。いくつかの資料を開くと、「 貞観津波」の記 載。記憶がフィードバックする。「ああ、それであの時、仙台の図書館へ問い
あわせてきたのだ。」と合点がいく。
 その後も、県内はもとより、県外からの支援者らしき人も含めて、しばらくの間、郷土・調査相談コーナーは、大勢の人で、賑わった。
 住宅地図、津波地域の震災地図、活断層地図、地盤図、航空写真、古地図、津波に関係ありそうな神社、和歌、昔話、生活保障や心のケアの事、震災関連のレファレンスは続く。もちろん、震災体験を語りだす人も少なくなかった。
 市町村史、郡史、県史をはじめ、地域の百科事典、地域出版物、自費出版、手作りの資料から、江戸時代の歴史資料まで、ありとあらゆる資料が活発に動きだす。図書館職員のサポートも欠かせない。
 一般的な出版物に書かれていない質問も多くあり、地域資料(郷土資料)でないと応えられないレファレンスも多い。 これらの人や資料の蓄積は、一朝一夕にできるものはない。その地域の図書館の長年の活動成果にほかならない。
 今回の震災で大きな被害を受けた図書館にも、こうした資料があった。そこには、当然資料に精通した職員の存在もあったはず。
 『図書館の自由宣言』には「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。」とある。
 地域の図書館を失うことは、その地域の歴史文化を知る自由を失うに等しい。地域を知るための人や資料は、その地域の図書館にとって、他に代えることのできないかけがえのないものだ。
 地域の図書館がその重要な役割を果たすためにも、人、資料、予算が揃った本格的な図書館の復興を強く望んでやまない。

(ひらかた ひろみ 仙台市民図書館、JLA図書館の自由委員会委員)

もくじに戻る


Vol.106,No.2(2012.02)

「「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」を再確認しよう」(熊野清子)

 ちかごろは図書館のサイトで蔵書検索をして予約をすることが当たり前になってきた。夜、テレビを見て気になった本を予約、週末には便利なサービスポイントで受け取ることができる。横断検索で周辺図書館にある本を探すと、多少時間がかかっても手にすることができる。図書館に限らずインターネットによってケータイから、タブレット端末から、通販やグルメ情報、お友達とのチャットまでなんでもござれの時代だ。ネットを使いこなして生活を楽しんでいる80歳や90歳の方もおられる。
 ネットの便利な世界の体験から、図書館でももっと踏み込んだサービスをしてはどうかとの意見が聞かれる。どんな属性の人がどんな本を借りたかを分析してお勧め本を紹介するいわゆるレコメンドサービスとか、連想検索に貸出履歴のデータを付加して豊富な関連資料を表示するなどである。一方では、貸出履歴を汚破損資料の追跡のために保存する館があって批判され、また、図書館へのアクセスがサイトへの攻撃と誤認された岡崎市立図書館の事件ではアクセスログの取扱いが問題となった。
 タイトルにあげた「基準」は1984年5月のJLA総会で議決されたものだ。利用者の秘密・読書の自由を守ることを基本とし、貸出に関する記録や登録者のデータは必要最小限にとどめて図書館の責任で管理すること、目的外流用や外部漏えいを防ぐため館内でのデータ処理、貸出記録の返却後すみやかな消去、他のファイルとの連結の禁止などを求めるものである。
 当時はネットでデータのやり取りなど想定されていなかったのでアクセスログの取扱いには触れていない。図書館を取り巻く情報環境が激変している今日、「基準」の解釈について、あるいは新たなガイドラインについて議論すべき時期に来ていると思う。コンピュータウイルスの危険性排除やデータの二重管理など、図書館の危機管理の面から避けて通れないこともあり、セキュリティの確保にはこれまで以上に真剣に取り組まねばならない。とりわけ、自由宣言「図書館は利用者の秘密を守る。」は根幹であって変わることはないことを再確認したい。

(くまの きよこ:JL#2012A図書館の自由委員会,兵庫県立図書館)

もくじに戻る


Vol.106,No.1(2012.01)

「自分たちで判断したい」(鈴木啓子)

 本校は、生徒図書委員会主催で、毎年「フリートーキング」という行事を行っている。「フリートーキング」とは1つのテーマを決めて、それに関して自由に討論する会である。
 実施の流れとしては、「図書委員の中の『フリートーキング』担当者たちで話し合ってテーマを決める。その後、司会の生徒とそのテーマについて、どのように話し合うか、どのような資料があれば話し合えるかなど図書部の司書・教員とで打ち合わせをする。」ということになる。
 昨年2月に実施した「フリートーキング」のテーマは、「世界に誇る日本の文化〜マンガ〜」であった。司会の生徒と打ち合わせをしている時、生徒の方から話し合う内容に、「『非実在青少年』についても…」と言われ、「えっ」と驚いた。「生徒は知っているのだ」と思った。「東京都青少年健全育成条例」が出てこないので、昨年6月に否決された改正案で問題になった「非実在青少年」を生徒は覚えているのである。そこで、最後に「東京都青少年健全育成条例」について意見を言ってもらうことにした。
 「東京都青少年健全育成条例」の改正については、参加したほとんどの生徒が知っていた。生徒たちの意見の中心は、「自分たちで判断したい」というものであった。本来そうあるべきであり、知的自由を保障するために、一方的に禁止するのではなく、一人ひとりが考えて判断できるようになることが必要なのではないだろうか。
 大人たちは、情報があふれる社会で子どもたちが有害情報に触れることに危機感を持っている。有害情報に触れないようにさせるといっても完全に規制することはできない。それよりも子どもたちが社会に参画して主体的に生きていく力、つまりメディアリテラシーを身につけることの方が重要である。子どもたちが自分たちで判断して、取捨選択できるようにすることが、社会に参画できる大人を育てることになると思う。
 規制するのではなく、子どもたちのメディアリテラシーを育て、自主性を尊重するという観点がまずなくてはならない。

(すずき けいこ:兵庫県立西宮今津高等学校図書館・JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


第105巻(2011年)

Vol.105,No.12(2011.12)

「大震災と原発事故から考えたこと」(三上 彰)

 未曾有の大震災に見舞われた2011年ももうすぐ終わろうとしている。今年は多くの日本人にとって、人と人とのつながりや絆の大切さをあらためて感じることが多かった年であろう。一方で、地震や自然災害等の脅威への備えを考え直したり、今まで享受してきた便利な生活を見直すきっかけにもなった年であろう。
 大地震とそれによって発生した津波、原発の事故等によって、それまでの生活を失ってしまった人々に、下手な言葉をかけることははばかられるが、東日本の多くの地域では、直接的に被災しなかった人も、地震発生直後の計画停電、夏の電力使用制限令による節電等で、不便を感じたことであろう。また、収束するまでに何十年もかかりそうな福島第一原発と、このような状況にも関わらず、定期点検で休止中の原発を再稼動させるために、自治体のトップがやらせメールのやり取りしていた、といったことから、数十年にわたって続いてきた原発推進政策や、民間企業と言いつつもほぼ独占状態にある大手電力会社の体質等に、疑問を感じた人は多いことであろう。
 数ヶ月前の本欄で、図書館では、原発のことに関しても、利用者のために等しく資料を提供することが使命であり、それらの資料をどのように読むか・どのように判断するかは、それぞれの利用者にゆだねられる、ということにふれられていた。3月の震災以降、毎日のように原発と放射能のことがニュース等で報道され、原発に関する書物が多く出版されるようになったことは、多くの人が感じていることであろう。ここで少し冷静に、震災が起こる前は原発のことはどのように扱われていたのであろうか、ということを考えてみたい。今となっては空々しく思えてしまうような、芸能人や著名人を起用した「原発は安全でクリーンなエネルギーです。」という主旨の広告は時折目にした記憶があるが、原発のことを詳しく解説した本や、その脆さ・危うさに警鐘を鳴らすような本を見たような記憶がほとんどない。あらためて国立情報学研究所(NII)のWebcat Plus等で検索をかけてみると、1990年代と2000年代のそれぞれの10年間に出版された原発に関する本の数は、今年の震災以降の半年程度の間に出版された本の数よりも少ない。チェルノブイリの原発事故があった1980年代は、1990年代と2000年代よりはやや多いが、それでも今年の震災以降の出版点数にはおよばない。出版された点数そのものが少なければ、提供することも難しいのだが、原発や放射能のことを多くの人がもっと知ることができるように、図書館としては、以前からこれらの資料も集めておくべきではなかったのか、ということを考えさせられた。
 原発事故が収束するまでに長い年月がかかるのであれば、放射能の飛散状況や人体・健康への影響に関する情報などについて、図書館としては今後も、本として出版されたものに限らず、行政機関の報告書やニュースレター等の資料、市民団体の独自調査による資料等も、広く収集して利用者へ提供し続けていく義務があるのではないだろうか。

(みかみ あきら:桜美林大学図書館・JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.105,No.11(2011.11)

「利用者の秘密と貸出記録」(高鍬裕樹)

 大学の授業で毎年「図書館の自由」について講義し、「図書館の自由に関する宣言」に触れている。そのなかで「図書館は利用者の秘密を守る」ことを述べ、貸出記録は返却時に消去することを伝えている。学生の反応はおおむね好意的なものであり、「利用の記録は当然残るものだと思っていたが、これからは認識を改める」など教え甲斐のあるコメントをくれることも多い。
 今年度、学生からのコメントに、ちょっと見慣れないものがあった。曰く、「私の近くの公共図書館で、少し前に借りた本をもう一度借りたとき、『これは以前に借りられたものですが大丈夫ですか』と言われたことがあった」。この学生は、自分は好きな本は何回も借りたいタイプであり、何回借りたかが残るのは少し嫌だと続けた。
 これまでにも同様のコメントが返ってきたことはあった。しかし多くの場合それはレンタルビデオ店などでの経験を図書館の原則と混同したものであり、その場合には顧客を選別しても許される私企業と、すべての利用者を排除してはならない公共施設の立場の違いを伝えた。まれに学校図書館で、自分が何を読んでいたか把握されていた経験を語るものもいたが、それにたいしては、学校図書館では教育的指導などの観点から貸出記録を残している場合もあること、それは図書館にかかわるものとしては残念なこと、を伝えた。今回のコメントは、貸出記録を本人の同意なく利用(少なくとも本人にたいしては)している公共図書館がある、またそもそも貸出記録を返却時に消去していない公共図書館がある、という事実を示している。
 もちろん学生のコメントを鵜呑みにすることはできない。ただの勘違いである可能性もあり、よしんば事実であったとしても、すでに過去のものである可能性もある。筆者としては、この学生の経験がそのどちらかであることを願う。しかしもし現在もなおこれが事実であるならば、その図書館には改善を要望したい。ちょっとした善意と考えているかもしれないが、貸出記録が利用されることで図書館を安心して利用できなくなる利用者もいるのである。

(たかくわ ひでき:大阪教育大学・JLA図書館の自由委員会) 

もくじに戻る


Vol.105,No.10(2011.10)

「他人に知られたくないという気持ち」(伊沢ユキエ)

 横浜では予約した本を受け取ることのできる行政サービスコーナーがある。交通の便の良い所が試行的にサービスポイントとなっている。先日、そのサービスポイントの利用者から「予約した本を渡される時に、こちらの本でよろしいですかと表紙を見せられるがやめて欲しい」という投書があった。「係員に意図が無いにしても他人に知られたくない内容の本であるかもしれない、居合わせた他の人にも見られプライバシーがないがしろにされている」といった内容である。
 今、図書館システム上では自分の貸出や予約情報を自分で管理することが可能になり、好きな時間にインターネットで予約し、行きやすい図書館やサービスポイントで受け取る利用が予約の大半を占めるようになってきた。図書館員を介さない予約が増える一方で、予約の本を話題に職員相手にカウンターでのお喋りを楽しむ人もいる。そんな日常の情報から選書等では「あの人が読みそうだ」と話題にのぼることもあるが、これら図書館員が記憶している利用履歴やプライバシーは、職業倫理により守られている。
 さて、近年話題になっている貸出履歴を利用したサービスの導入について、本誌7月号「北から南から」の投稿で、今まで図書館はプライバシー保護のため利用記録は即座に消去してきたが、これからは利用者の秘密を守りつつ、新たなサービスの可能性を持つ情報技術に対応する時期に来ているのではないかという問題提起があった。この提言を受け止め自由委員会では、「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」や図書館の自由に関する宣言の解説の該当部分の修正も視野に入れた検討を始める。
 10月の図書館大会の自由の分科会のテーマは、「図書館の自由の原則に立ち返る」である。図書館現場は、指定管理者による運営や専門業務の委託、直営でも専門職制の後退など、図書館の自由を考えるに厳しい状況が進んでいる。福島の原発事故のように「絶対に安全」はあり得ないことを教訓に、情報の管理においても想定外を封印することなく、冒頭の投書のように他人に知られたくないという気持の利用者が納得できる運用が図れるよう、忌憚のない意見を出し合い論議を深めていきたい。

(いざわ ゆきえ:横浜市磯子図書館・JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.105,No.9(2011.09)

「私にとって「図書館の自由」とは何なのか −原発災害から考えたこと」(西河内靖泰)

 東日本大震災からはや五ヵ月が過ぎた。だが、「想定外」の原発災害はいまだ収束せず、その被害と人びとの不安は拡大し続けている。
 今年の8月6日、広島の平和記念式典では、平和宣言や首相あいさつでも「核兵器廃絶」に加えて原発災害をとりあげ「脱原発」に触れている。母親が広島で被爆した被爆二世の立場から核兵器にも原発にも反対し続けてきた私は、式典の場で彼らの言葉を聞きながら、図書館のことを考えていた。
 震災以降、多くの図書館では震災・原発事故に関連した本や雑誌、新聞記事などで構成した特集コーナーをつくっている。新たに出版される本も多く、原発や放射能関係も増え、批判や問題点を指摘したものも目立ってきた。とはいえ、従来から原発の危険性・問題点を追及してきた『反原発新聞』や『原子力情報室通信』などをそのコーナーで見ることはまれだ。
 私はどうしても原発は肯定できない。とはいえ、「核の平和利用」との謳い文句に希望を持った被爆者たちを、頭から否定する気にはならなかった。だから、どの問題であれ、それを肯定する側反対する側のいずれにも寄らず資料を収集・提供することで、人びとの判断材料を提供する「図書館の自由」は、私が立つべき原則としては当然の想いだった。
 かつて「原発は安全」という電力会社の資料はあるのに、図書館が地域資料として地域の反原発運動のチラシやパンプを集めようとして圧力がかかったという話を聞いた。一見公正中立のように見えて、事故後も続いている推進側の「嘘」とプロパガンダに図書館は利用されていないのか、批判側の情報をチョイスしてしまっているのではないかという疑問を、この間私は少なくない人から投げかけられた。これらの問いかけに私が応えるとしたら、嘘・デマ・プロパガンダ・扇情的と思われる資料を含め、幅広く可能な限り網羅的に収集し提供していくことしかない。それを比較検討し批判的に読みとくことが利用者に委ねられる。原発を相容れないものと考えながら、扇情的な反対運動には一線を画し「正確かつ科学的な情報」を求めてきたひとりの被爆二世として、そう私は思っている。
 とはいえ、人類が滅んだ後の荒涼とした大地に蔵書のたっぷり詰まった図書館が残っているというSFの姿にだけはなってほしくない。

(にしごうち やすひろ:愛荘町立図書館,JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.105,No.8(2011.08)

「8月26日に「解禁」されるのは「受け入れ」か?」(南 亮一)

 もうすぐ8月25日がやってくる。この日は、小説『雑司ヶ谷R.I.P』(新潮社)の作者である樋口毅宏氏が公立図書館に対して「貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げ」ている最後の日である。
同書は今年の2月25日に発売されているので、つまりは刊行日から6か月間は公立図書館において貸出をしないようにしてほしいという要請である。その理由としては、図書館での貸出が書籍の売上げに及ぼす影響が挙げられている。
 このような論理は、樋口氏に限らず、従来から推理作家の団体や出版社の団体から出されていたもので特段目新しいものではなく、筆者としても樋口氏の心情も理解できないわけではない。ただ、2003年7月に日本書籍出版協会と日本図書館協会による調査の結果をまとめた「公立図書館貸出実態調査2003報告書」(2003報告書)の結果をみると、貸出を6か月猶予したとしても売上げがそんなに増えるとも思えないが…。
 この樋口氏による要請につき、高崎市立図書館は、自館ホームページにおいて「8月25日以降に同書を受け入れる予定」とする「見解」を公表し、話題となった。前述の2003年報告書にも、このような主張に賛同する図書館の存在が記されていたので、実際に行動に移したということなのであろう。
 このこととは別に、筆者が不思議に思ったことがある。それは、同館が行わなかったのは「貸出」だけではなく「受け入れ」もであったということである。また、その理由として同館が「購入してすぐ通常の小説と同じ棚に置いた場合、この問題を知らずに貸出を希望する利用者が現れるなど混乱を来す可能性があるため」としていることである。利用について一定の制限をするのであれば制限をする図書館が説明責任を果たせば済むことである。まして同館は樋口氏の要請を「尊重」することをホームページ上で宣言しているのではないか。同館が「尊重」しようとした小説の中身について同館が提供しないというのは、樋口氏が投げかけた問題について住民が検証しようとする機会を奪うことにならないか。
 筆者としてはむしろ「受け入れ」をしないことを問題としたいと考える。

(みなみ りょういち:JLA図書館の自由委員会、国立国会図書館関西館)

もくじに戻る


Vol.105,No.7(2011.07)

「市民とマスメディアのコンピュータ監視法案に対する反応」(渡辺真希子)

 コンピュータ監視法案とは、「情報処理の高度化等に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」のことであり、通信NGOのJCA-NET代表、小倉利丸氏によれば、「いまだ曖昧な部分もあり、コンピュータを利用するすべての利用者に対して、警察等捜査機関に著しく大きな監視と捜査の権限を与える可能性があり、その結果として、私たちの通信の秘密、思想信条の自由、表現の自由、プライバシーの権利など憲法が保障している諸権利を著しく侵害する恐れがある」と指摘されています。しかし、5月25日に衆議院法務委員会で審議に入り、31日に参考人の招致が決まっている案件です。
 5月23日、日本弁護士連合会の宇都宮健児氏が、会長声明文を提出し、同小倉利丸氏、ソフトバンク株式会社社長孫正義氏、ジャーナリストの上杉隆氏らも問題点を指摘しています。このような議論は、Twitter上で、熱心に取り交わされ、コンピュータ監視法で検索すると、1日あたり数百近いコメントがあり、関心の強さが分かります。Twitterをはじめとするウェブ・ソーシャルネットワークの拡大は、これまで以上に、知る権利や言論の自由を身近なものとしています。そして電子情報の進展、高度化は、市民自らが、知りたいことを知り、その情報を比較検討することで形成される見識に必要不可欠なことと言えます。このことは、今後も発展していくことはあっても、阻害されてはならいことだと思います。
 一方、マスメディアはこの問題に驚くほど関心が低く、「コンピュータ監視法 or コンピュータ監視法案」等をキーワードに、朝日、読売、毎日、日経各社の電子新聞を検索したところ(3〜5月の3か月間)、いずれも検索結果がヒットせずという状況でした。震災等の影響は否めませんが、このような状況で良いのでしょうか。市民の反応に比して、これまで市民の知る権利を保障してきた図書館、マスメディアといった既存メディアの関心の低さは、気になるところです。
 最後に、「国民の権利・利益を侵害することがないように、審議における質疑を通じて、この法案の規定内容をより明確にし、恣意的な運用がなされることがないように、慎重な審議がなされるよう求める」という宇都宮氏の声明文を引用して、今後の活発な議論を願います。

(わたなべ まきこ:JLA図書館の自由委員会、横浜市立大学医学情報センター)

もくじに戻る


Vol.105,No.6(2011.06)

「岡崎市立図書館事件の「これから」」(前川敦子)

 2010年5月、岡崎市立中央図書館のWebサイトをクローリング利用していた男性が業務妨害として逮捕された事件から1年が過ぎた(事件詳細は本誌前号に委員会報告あり)。この事件は自治体のIT調達方法・ベンダーとの関係・図書館員のICTスキルなどと合わせて、知的自由の面でも多くの課題を提示した。今頃ではあるけれど、思ったことを記したい。
 事件発覚直後からIT・情報セキュリティ関係者が活発な活動を行い、事件の真相究明に寄与した。これに比べて図書館関係者の動きは図問研など一部を除いて見えにくく、無関心・傍観者的に映ったように思う。ごく普通のアクセスによって利用者が逮捕され、身体の自由を奪われた事件に対するこうした態度は,利用者(Web利用者)や他業種関係者の図書館への信頼を失わせるものだったと自戒をこめ反省している。事件発覚後,怖くてクローリングを中止する事例が実際に起きている。見えてきた課題は多くの館に共通のものだ。今回の事件で、Web利用の委縮効果を招き信頼を失ったままにするのか。それとも図書館の自由−図書館が保障する市民の知的自由−をWebによる情報アクセスを含めた拡張したものにできるのか。これからの行動が問われている。
 捜査過程で図書館が一部の利用者情報とアクセスログを警察に提供したことや、二次的に発覚した同種の図書館システムからの利用者情報漏えいも、図書館の自由の面での大きな課題だ。被害届を出したなら捜査協力は不可避としてよいのか。アクセスログは個人情報とどう違うのか、違わないのか。図書館システムが持つ個人情報管理をどう徹底するのか。共通認識を作り、よりよい方法を見つける必要がある。
 個人や館・団体、それぞれの立場で行えることは多い。ひとつ感じているのは、図書館関係者だけで考えずに、IT関係者を含めた異業種との関わりを広げるべきだということ。たとえば情報セキュリティの問題では IPA(独立行政法人情報処理推進機構)やJPCERT/CCなどの専門組織が相談を受け付けている。さまざまな専門家と共同することで、市民の知的自由をより広く豊かに保障できるように思う。

(まえかわ あつこ:JLA図書館の自由委員会、奈良先端科学技術大学院大学図書館)

もくじに戻る


第105巻(2011年)

Vol.105,No.5(2011.05)

「学校図書館で育てたい「図書館の自由」」(松井正英)

 「同じできごとなのに、新聞によって書き方が違ってびっくりした。」新聞記事の読み比べの授業を図書館で行ったときの、生徒の感想だ。昨年、中国で広がった反日デモに関する記事を4紙で読み比べた。
 この感想からもわかるように、生徒は普段、複数の新聞を読み比べることをほとんどしていない。それどころか、新聞そのものを読まない生徒もたくさんいる。家庭での新聞購読状況はというと、日本新聞協会が2009年に実施した「全国メディア接触・評価調査」によれば、新聞購読者は約86%。700人の生徒がいれば、98人は家庭に新聞がないという計算になる。それなら学校図書館で読めばと言いたいところだが、実態はとても厳しい。同じく日本新聞協会が同年に、NIE実践指定校を対象に実施した調査では、新聞を図書館に配置している学校の割合は、小35%、中38%、高86%だった。
 図書館の自由宣言は、図書館は国民がさまざまな資料や情報にアクセスすることを保障すると表明している。学校図書館でも機会あるごとに、さまざまな資料にあたって真実に近づこうとすることの大切さを訴えているが、そうした姿勢や習慣を子どもたちの中にどれだけ育めているだろうか。少なくとも上述のような新聞配置状況では、子どもたちに複数の新聞を読む必要性を実感させることはむずかしい。課題は新聞だけにとどまらない。図書館で調べ学習をしている様子を見ていると、一冊の本だけで済ませてしまう生徒が多いのだ。テーマの設定の仕方や授業の組み立て方の問題もあるが、一つのウェブ・サイトからコピー&ペーストをしておしまい、という生徒もなかにはいる。
 「興味あることは、より多くの情報源から集めて、実態が見えるようにしたい。」読み比べの感想の一つだ。教育活動の展開に学校図書館も積極的にかかわりながら、こうした感想を持てる子どもたちを一人でも多く育てていきたい。そのためには、学校図書館の整備も必要である。

(まつい まさひで:JLA図書館の自由委員会、長野県下諏訪向陽高等学校図書館)

もくじに戻る


Vol.105,No.4(2011.04)

「公益と私益 − 公安情報流出本の出版等禁止の仮処分決定におもう」(福永正三)

 最近、非公開情報がネット上で暴露される事件が続発している。中国漁船衝突事件の映像流出、ウィキリークスを巡る騒動や公安関連情報の流出・出版などがその例である。かつて図書館に対応を迫ったプライバシーの暴露本はもっぱら私益に関わるものであったが、今回のこれらの事件は公益に関わる情報の暴露であることに特徴がある。
 今回問題になった『流出「公安テロ情報」全データ』(第三書館編集部編)については3次にわたる出版・販売の禁止を命じた東京地裁の仮処分決定とそれに対応して第3版までの出版という異例の事態となった。いずれの仮処分決定も同書に掲載された者のプライバシーの侵害が理由になっており、同書の個人情報の掲載には公益性も公益目的も認められないと判断されている。しかし同書のもつ公益性が全面的に否定されているわけではない。
 さて、かように公益性の認められる情報と公益性のない個人情報が混在する図書を図書館はどう取り扱うべきか。また、出版等の禁止を命ずる仮処分決定が出されたら図書館はそれにどう対応すべきか。プライバシーの侵害を理由に利用制限、ことに閲覧禁止にまで踏み込むには、国民の知る権利を損なってでも非公開にしなければならない程の深刻な被害を当事者にもたらし、かつ他の制限方法では被害を回避できる可能性がない場合にあたるかどうか、すでにネット上に私生活が流布されていても二次被害を食い止める必要性が大きい場合にあたるかどうか等の厳格な検証が求められるだろう。逆に公益性を理由に閲覧に供するためには、単に情報の内容が社会的な広がりをもつだけでなく、個人の利益を犠牲にすることを正当化できるだけの公益性が認められる必要があるとおもう。
 どちらを選択するにしても、図書館は裁判の結果に必ずしも従わなければならないわけではなかろう。被害者の保護の要否や公益性の捉え方についての裁判所の判断と国民の知る権利を保障することを第一と考える図書館の判断とは性格を異にするものだからである。
 ことに仮処分決定は対審構造をとる判決とは異なり簡単な手続きだけで下されるもので、文字通りとりあえず≠フ裁判である。したがって裁判の結果を尊重するにしても、仮処分決定に即応する必要はないのではなかろうか。

(ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.105,No.3(2011.03) 休載


Vol.105,No.2(2011.02)

「日常業務に「図書館の自由」を」(西村一夫)

「図書館の自由」という言葉から多くの図書館員が思い起こすのは、実名が報道された資料や差別表現が含まれるとした資料の取り扱いなどであろう。マスコミが取り上げたり、教育委員会からすぐに取り扱いの検討を求められたりするので、どうしてもこうしたことに思いがいくのは当然のことであり、また必要なことでもある。
 図書館の自由はこうしたやや事件性のあることが起こった時に考えることではない。むしろ日常業務として日々行っている業務の中にこそ図書館の自由を活かさなければならない。しかし、利用者を管理する意識が強いのか図書館の自由の考え方から見て問題があるのではないかなと思うことが少なからずある。
 例えば、予約リクエストカードの様式はどうなっているであろう。多くの図書館では一般的な様式として書誌情報、利用者情報、そして処理経過の項目が記されている。予約リクエストカードは資料提供が終われば利用者の項目は切り離され、書誌情報と処理経過の項目が統計処理に回される。となるはずだが、教育委員会規則で様式が定められ、その保存年限も決まっているために利用者情報が切り離せず、いたずらに利用記録が残されているということがある。こうした例は資料複写申込書や書庫内資料出納申込書などでもある。
 また、コンピュータが資料提供、資料検索に使われるようになり、図書館の自由の立場からより慎重な姿勢が必要となっているが、利便性が強調されて図書館の自由がおざなりになっていることも見受けられる。コンピュータの画面に利用者の名前と借りている本を同時に表示しないというのが図書館の自由の立場だが、作業上の便利さが優先されこうしたことが行われたりしている。図書館システムを作っているSEが、こうしたことは図書館側からの要望でシステムに取り入れていると以前に嘆いていたのを思い出す。
 日常業務の中に図書館の自由を活かすため、業務を見直してはいかがであろう。

(にしむら かずお:JLA図書館の自由委員会、三郷町立図書館)

もくじに戻る


Vol.105,No.1(2011.01)

「ゆとりある「図書館の自由」研修を」(山家篤夫)

 先日、神奈川県図書館協会主催の「図書館の自由」研修会に講師として招かれた。
 全体で3時間とゆとりある時間設定だったので、私の拙い講義だけでなく、図書館の自由に関する事例の参加者グループ討議を企画した。
事例は研修事務局のベテラン司書のみなさんに実際にあったことを基本として作成していただいた。次のようなものである。
“長期出張中のご主人の延滞図書について、督促の電話にでられた奥様から書名を聞かれたが・・・”
“○○という本の寄贈を断ったところ、その理由を厳しく訊かれた。どう説明したら・・・”
“家出したらしい成人男性の個人情報を、その男性の家族から求められたが・・・”
“以前借り出した本が何だったか知りたいと聞かれた。返却時に記録は消していると答えたら、記録を残すのもサービスではと言われた。どう対応したら・・・”
 各グループは異なる自治体・館種の参加者5・6人とし、討議は自己紹介に始まり和気あいあいと進められた。事例1件あたりの時間は8分位。発表の内容は様々だった。
 終了後、参加者の感想アンケートを送っていただいた。講義内容の理解が事例討議で進んだという感想とともに、他の自治体や館種の図書館の考え方や状況を聞くことができ、具体的な情報交換ができて良かったという感想が多かった。
 図書館の自由に関する事例への対応には、図書館運営の基本が反映する。業務の繁忙化や先行き不透明化がつづくが、図書館の自由に関わる問題を通して自館の基本を考える機会として、今回のようなゆとりある「図書館の自由」研修を各地・各館で行っていただきたい。
 自由委員会は、研修の相談や講師派遣依頼に積極的にお応えしている。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会委員長)

もくじに戻る


第104巻(2010年)

Vol.104,No.12(2010.12)

「資料提供方針策定はむずかしいのか」(田中敦司)

資料収集方針を策定し、明文化する図書館が増えている。さらに進んでインターネット上に公開する図書館もあり、こちらも増えている。しかし、資料提供方針については、あまり例を見ない。
「図書館の自由に関する宣言」(以下「自由宣言」)では、資料収集の自由とともに資料提供の自由を掲げている。図書館は資料を収集し、提供する施設なので、どちらも大切なことは言うまでもない。
 資料は提供するのが当然であり、なにをいまさらという意見もあろう。しかし、いくつかの理由で提供を制限せざるを得ない場合があり、自由宣言はその副文で「極力限定して適用」するとして3つの場合を列挙している。原則は提供であり、限定的に制限する場合であっても、恣意的でない手順によって、「より制限的でない方法」を採らなくてはならない。さらに、その制限も時間の経過などによって再検討が必要になる。こうしたことを考えるとき、明文化された規定が必要になる。それが資料提供方針であろう。
これまでに定められた資料の取扱いについての規定の中には、閲覧を制限するための方針に見えてしまうものがある。しかしながら、これは各図書館の自由委員会で検討していく中で克服できるものである。自由委員会の検討なく制限が行われるなら、どの条項も記せなくなってしまう。大前提として「図書館資料は自由な提供が原則」ということを打出した上で、止むを得ない措置としての制限する場合を掲げることは、必要なことではないか。さらに、その場合の手続きについても定めておく必要がある。そのために、各図書館における自由委員会の必要性が改めて問われることにもなる。
 こうした考え方にそって名古屋市立図書館では、館則施行要綱第2条に「資料の提供方針」を定めた。今年4月1日に施行し、館内では条例や規則同様に見ることができる。ただ、インターネット上にはまだ公開に至っていない。将来的には公開したいと思う。同時に、他の図書館にも同様の提供方針策定の動きが広がれば、と期待している。

(たなか あつし・JLA図書館の自由委員会、名古屋市名東図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.11(2010.11)

「図書館の風景…やさしい空間作りと図書館の自由」(巽 照子)

 夏にとってもうれしいことがあった。ある少年が、大阪に就職することになり、挨拶に来てくれた。「中学時代に永源寺に図書館ができ、学校の帰りに立ち寄り、ほっとする自由な空間があるここで過ごせた時間は、僕にとってなによりだった。本を紹介してもらったり、バイクでスピード出して警官に追っかけられたと話したらとっても心配して、職員の人とも親しくなれた。これは、ぼくの気持ちです」と菓子折りをもってきてくれた。お気持ちだけいただいておくと菓子折りをお返ししたが、「それでは僕の気持ちがおさまらない」と押し問答になり、結局いただいた。
 図書館は、市民のみなさんの読書の自由を保障する機関である。例えば、ゆったりと居心地のいい椅子にすわり雑誌を読むときに、また、自分が挑戦してみたいジャンルや抱えている課題を解決するための本を探したいとき、自由でありたいと思う。そんな一人ひとりの気持ちを大切にするには、どうしたらいいのか。一人ひとりとコミュニケーションをとれるように笑顔で迎え、カウンターやフロアーではゆったりといい時間が流れるように、出会いの場が広がるように気配りをしょうと職場で話し合っている。書店やデパートに出かけ、ショーウインドウや季節感のあるディスプレイを見てくる。一人ひとりが自由に利用できることで、もっと過ごしやすい場所になると考え、ある人は、野の花を届けてくれ、ある人は、熱帯魚のグッピーを水槽とともにもってきてくれた。小さな野の花を 1輪飾ることで、みんなの心も優しくなる。本も、机も椅子も書棚も持っている命を吹き返してくる。利用者の力とともにつくる空間づくりをしていきたい。
 「図書館の自由に関する宣言」では「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」とその目的をうたっている。資料や施設の提供が本当に一人ひとりの心の解放につながるために活かされていくことで宣言が生きてくると思っている。

(たつみ てるこ:JLA図書館の自由委員会、東近江市立図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.10(2010.10)

「なんでも読める・自由に読める −新展示パネルの活用を!−」(佐藤眞一)

 日本図書館協会図書館の自由委員会(以下、委員会という)では、図書館の自由に関わる様々な資料を視覚的に配置した展示パネル「なんでも読める・自由に読める」を改訂しました。委員会の重要な活動である図書館の自由に関する宣言の趣旨の普及につとめ、その維持発展をはかることを目的に、新たな事例により作成したものです。
 今回のパネルはB2判横置き12枚で、展示場所の限られた図書館でも、2枚を上下に配置することでB1判縦置き6枚分のスペースがあれば展示できるよう配慮しました。5月の総会に出席した方には、会場壁面に展示していたパネルを見ていただけたと思いますが、多くの会員に対しては、9月の全国図書館大会奈良大会がお披露目となりました。
 パネルの構成は、
1 何でも読める自由に読める(展示の趣旨・略年表)
2 日本図書館協会の普及活動(宣言ポスター・出版物の紹介)
3 戦前・戦中 検閲と思想善導
4 自主規制をのりこえるきっかけとなった事件
5〜7 資料提供の自由を守る
8 子どもたちの読書の自由
9 利用者の秘密を守る
10 フィクションの中で誤解される図書館像
11 公立図書館に対し公平で中立的なサービスを求める裁判
12 条例や規定に見る図書館の自由の精神
となっており、3〜11で図書館の自由に関する具体的な事例を紹介しています。
 パネルは無料で貸出しており(返送時は送料負担)、利用案内のチラシを奈良大会で配布しましたが、日本図書館協会ホームページの委員会ページ(http://www.k;a.or.jp/jiyu/index.html)でも利用申込み方法を案内しています。展示の際に配布できるよう、委員会で用意したリーフレット(A3判両面印刷二つ折り)もPDFファイルでダウンロードできるようになっています。
 引き合いが多ければ、展示の要望に応えられるよう、もう1セット作成することも考えているので、ぜひ多くの図書館で展示し、図書館の自由の趣旨を普及するためにご活用ください。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由委員会、東京都立中央図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.9(2010.09)

「「図書館手帳」のススメ?」(木村祐佳)

 近くの公共図書館で、「図書館手帳」を作りませんか?という掲示がされていた。借りた本の記録を、手帳につけませんか、というもので、どんなノートを使うのか、とか、どんな項目を書きこむのか、といった提案が、カラフルに掲示されていた。
 利用者からの「これまで何を借りたか知りたい」という要望がきっかけだったのだろうか。その図書館では、借りている本のタイトルがわかるようなレシートではなく、ただ日付がスタンプされた、返却期限のしおりが渡されるだけである。そんなことも関係しているのだろうか、などと考えてしまった。
 「図書館手帳」というのは初めて聞いたけれど、個人で読書の記録をつけている人も多いのだろう。市販の手帳にも、映画や本の感想を書き留めるスペースがあったりする。パソコンで記録を管理するソフトや、Web上で仮想の本棚を作れるサービスもある。
 図書館での貸出履歴の活用について、ここ数年様々な議論をしてきたけれど、自分が読んだ本を記録したいという要望、更にはその記録を公開・発信したい、という要望を聞くことも多かった。貸出履歴を残せる機能を図書館システムにも組み込んで欲しいとか、Web上のサービスを使うために、自分の貸出履歴をダウンロードしたい、というような要望も聞くことがあった。
 今回の「図書館手帳」の提案は、その名前とは反対に、図書館は個人の貸出の記録を持っていませんよ、という図書館のアピールのように思えた。

(きむら ゆか JLA図書館の自由委員会、国立国会図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.8(2010.08)

「公文書管理法と図書館の使命」(井上靖代)

 七夕の日、新聞報道によると「「安保」「沖縄」の文書公開=30年ルールの適用第1号-外務省」とあり、1960年の日米安全保障条約改定と1972年の沖縄返還に関連する文書ファイルを外交史料館で公開したとのこと。作成から30年以上経過した外交文書を公開するようになったからである。一方で、こういった文書は廃棄されてしまったものも多いらしい。こういった報道を図書館と関係ないと思われていないだろうか。
 2009年7月1日に成立した「公文書等の管理に関する法律」(法律第66号略称:公文書管理法)は2011年4月に施行予定である。ずさんな年金記録管理の反省から生まれたこの法律の第一条で、公文書等を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と規定している。そのため「行政文書等の適正な管理、歴史文書等の適切な保存及び利用等」を図ることを目的としている。
 図書館でもベストセラー本だけを収集して提供しているわけではない。「国民の知的資源」である情報資料を収集・保存・利用をおこなっている。
 ところが、JLAの調査によると、図書館法の規定による無料で寄贈を受けて収集すべき基本的な行政資料である政府刊行物を100%収集している図書館はそう多くないという。それどころか図書館内の記録文書ですら箱詰めにしてしまい、内容不明あるいは所在不明になっている図書館が多いのではないだろうか。例えば資料の収集・提供及び保存・廃棄等にかかる図書館内での審議といった会議議事録は公文書である。議事録作成・保存管理は行われているだろうか。上記の「公文書管理法」第34条で地方公共団体の文書管理についても規定している。県によっては条例化の検討が始まっているという。公立図書館もその対象となるだろう。
 図書館は公文書館ではないが、市民の知る自由・知る権利を保障する機関という面では同じである。市販図書や資料のみならず、入手しがたい行政資料を収集し公開することは図書館の使命ではないか。少なくとも自館資料としての公文書管理を実施して、情報公開するべきであろう。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会、獨協大学)

もくじに戻る


Vol.104,No.7(2010.07)

「図書館資料は住民のもの」(喜多由美子)

 私が非常勤嘱託として図書館の職場に初めて来た日に手渡されたのは、業務マニュアルではなく、『公立図書館の任務と目標』、『「図書館員の倫理綱領」解説』、『「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」解説』の3冊だった。とにかくしっかり読んでから、カウンターに立つようにと言われたような記憶がある。その後も図書館に入ってきたあらゆる職種の者にかならずこの3冊は手渡されてきた。
 ところが、組織が急激に大きくなり職員の入れ替わりが激しくなったこともあって、残念ながらこの習わしは消えてしまい、その代わり組織の中で規制や禁止事項がふえてしまった。それまで当たり前のことが当たり前でなくなってしまったからだ。
 その一例が私的理由による職員の予約を禁止したことである。これは書店から納入された入ったばかりの本に利用者より先に平気で予約をかける者が現れたことによるものだ。『自由宣言』には「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。」と謳われているし、私たちは住民に利用されるために資料を選んできた。それを疑わせるような行為をおこなってはならない。司書として資料を知ることは大切である。しかし一般の人よりも先に資料を取り込んでしまうことに後ろめたさも感じないのだろうか。図書館資料がそこで働く者の福利厚生になってはいけない。こんなことまで規制せざるを得なくなった。
 一冊の本に出会ったときの利用者のうれしそうな顔を思い浮かべよ。図書館資料はその人たちのためにある。高い志を持って奉仕せよ。誇りを持ってフロアに立とう。そのとき、図書館はもっと大きな感動を我々に与えてくれるはずだ。私はそう信じている。

(きた ゆみこ:JLA図書館の自由委員会、八尾市立山本図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.6(2010.06)

「守るべき法益は善良な風俗ではない」(河田 隆)

 先月のこのコラムでも取り上げられたように、3月に継続審議と決まった「東京都青少年条例改正案」が、6月の都議会で再び審議される。関連情報を収集していて、日本弁護士連合会が児童ポルノ禁止法について3月18日に意見書を出していることを知り、目を通してみた。その中に次のような一節があった。
  児童ポルノを規制することにより守るべき法益は、被写体となる児童の人権ないし権利(身体的自由、精神的自由、性的自由、性的自己決定権、プライバシー権、名誉権、成長発達権等)であって、善良な風俗ではない。
なんと明快な表現であろう。それまで「青少年性的視覚描写物」とか「非実在青少年」とか、一読しただけでは意味の通じない条文中の言葉に翻弄され、散々頭を悩ましてきただけに、まるで別世界の言葉を聞く趣があった。問題のポイントを、私なりにつかむことができた気がした。
 児童ポルノ禁止法が守るべき法益として考えているのは児童の人権、権利であって、善良な風俗ではないのである。しかるに、東京都の今回の条例案は、「児童ポルノの根絶に向けた気運の醸成及び環境の整備」と言いながら、児童ポルノ禁止法の精神を無視して、善良な風俗を守るために児童ポルノを規制しようとしている(本当に守ることになるのかどうかは大いに疑問だが)。「児童ポルノの根絶」を目的とするのなら、他にすることがあるだろう。まず、「被写体となる児童の人権ないし権利」を守ることを考えて欲しい。
 このように見てくると、今回の条例案で東京都が目指しているものが本当に「児童ポルノの根絶」なのか疑問に思えてくる。「児童ポルノの根絶」という反対のしようのないテーマを隠れ蓑に、表現の自由そのものを標的にしようとしているのではないか。しかし、こうしたことは何も今回に限ったことではなかった。権力の側からすれば、「自由」は常に脅威となるべきものであった。その意味で、今回の東京都の姿勢は「当たり前」ということになるのだろうか‥‥。
 それにしても、「非実在青少年」とは、何と言う表現であろうか。見方によっては、SF的でもあり、詩的でもある。いっそ、フィクションの世界でこの言葉に出会えていたら、違和感なく受け入れられただろうに‥‥。残念である。

(かわた たかし:JLA図書館の自由委員会、松原市民図書館)

もくじに戻る


Vol.104,No.5(2010.05)

「東京都青少年育成条例の改正をめぐって」(佐藤眞一)

 日本図書館協会は3月17日に、2月24日に東京都知事が都議会に提出した「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例案」(以下、「改正案」、また現条例を「青少年条例」という)について、塩見理事長名で都知事および都議会に対して慎重な審議を要請した(日本図書館協会ホームページ http://www.jla.or.jp/kenkai/index.html 参照)。 
今回の改正案では、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(以下、「児童ポルノ禁止法」という)との関連が特徴となっている。要請書でも、そこに重点を置いて、6項目の要請理由を挙げている。簡単に紹介すると、
1 児童ポルノ禁止法に屋上屋を重ねる過剰な規制となる危惧がある。
2 児童ポルノ禁止法の保護法益は、青少年条例による制約の目的とは馴染まない。
3 児童ポルノ禁止法の「児童ポルノ」の規定は主観的かつ曖昧である。
4 児童ポルノに該当しない「青少年を性的対象として扱う図書類」のまん延抑止義務は、青少年と性を扱う図書類一般を、公立図書館を含め社会から排除することになりかねない。
5 「児童ポルノ」の単純所持規制は過剰な規制、「非実在青少年」は児童ポルノ禁止法の保護法益とは無縁な規制で、改正案から削除するべき。
6 子どもの性に対する判断能力の形成は、親が一義的に責任をもつ。不健全図書の指定基準に新設した「青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく阻害するおそれ」は削除するべき。
 今回、特徴的だったのは、日本図書館協会に対して、要請に対する感謝がいくつか寄せられた点である。インターネット環境の整備などにより、個人が自分の意見を表明することへの敷居が低くなったという面もあるだろうが、社会情勢に対する危機意識の反映とすれば、あまり喜ばしいこととも言えない。
 改正案は、3月19日の都議会総務委員会で継続審議が決まり、審議の場は、とりあえず6月の都議会定例会に持ち越された(『新文化』2010年4月1日)。知る自由の保障という公立図書館の任務への影響が大きい改正であり、引き続き注視したい。

(さとう しんいち:東京都立中央図書館、JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.104,No.4(2010.04)

「減算の魅力と加算の魅力」(高鍬裕樹)

 自由委員会が終わったあとの雑談の中で、ディズニーランドの話題が出たことがある。ある委員は「大好きで、もう何度も行っている」と言い、別の委員は「行ってみたことはあるが、1度でいいかと思った」と言った。いろんな発言はあったが、ディズニーランド擁護派はその魅力を「夢の中の世界を体験できること」であると語った。
 夢の中の世界。一切の悩みや苦しみ、醜いものが存在せぬ世界。ディズニーランドはその世界を守るために涙ぐましい努力をしているであろう。わずかのチリも残さぬよう掃除され、わずかの諍いも感じさせぬよう演出された世界は、日々の憂いを忘れるにうってつけであり、確かにとても魅力的ではあろう。
 ひるがえって、図書館の魅力を考えてみる。図書館が人々にとって魅力的な場所でなければならないのは確かだが、ではディズニーランドのように魅力的であることが、図書館が目指すべき道なのだろうか。世の中のさまざまなことのうち、万人にとって魅力的な部分のみを取り出し、誰かにとって汚い、くさい、見たくないものを排除して、それで図書館は魅力的になったといえるのか。
 牛肉を食べるには、牛を殺さねばならない。子どもが生まれるには、秘め事が必要である。われわれが霞を食べて生きる仙人でない以上、社会にはどうしても、見たくない、見せたくない一面が存在する。人間によってつくられる社会は必然的に猥雑なものであり、その猥雑な社会を反映して図書館もまた存在するのだ。
 図書館は社会のすべてを包含しなければならない。ごく少数の人しか必要とせぬ情報、大多数の人が眉をひそめるような情報であったとしても、ひとりでもそれを必要とする人がいる、あるいは、将来のどこかで必要とする人がいる限り、切り捨てることなく提供していくのが図書館のあり方である。ディズニーランドの魅力を減算の魅力とするならば、図書館の魅力は加算の魅力であり、魅力的なものも魅力的でないものもすべてがそこにあってこそ図書館は魅力的になれる。
 魅力的にする努力で図書館がディズニーランドに遅れをとってはならないが、その努力の方向はディズニーランドのそれと同じであってはならないと、何気ない雑談から思った。

(たかくわ ひろき:JLA図書館の自由委員会、大阪教育大学)

もくじに戻る


Vol.104,No.3(2010.03)

「レファレンス 近頃気がかりなこと」(平形ひろみ)

 河北新報のマイクロリーダーを熱心に見入っている女性の「出てこない」と嘆く姿が気になり、声をかけてみる。亡き父のことが載った戦前の写真記事を探しているとのこと。幼少時に母親が大事にしていたその記事を何度も見せられていたから、どんな内容かだけは覚えていると言う。
 ひとまず、レファレンスカウンターでゆっくりお話を聞くことになった。 調査の手がかりとなりそうなキーワードを漢字で書いては確認し、おおよその時期や地域、絞り込めそうな手がかりをメモしながらも、会話の内容が周りに聞かれることについて最小限ですむようにとの配慮は欠かせない。
 図書館では、プライベートで、デリケートなレファレンスも、毎日のように寄せられる。「ねたみ」「そねみ」などのメモを見せて、これについて書かれたものは、どこにありますか?のような質問もしょっちゅうだ。うっかり、言葉を発して、せっかくの信頼を損ねるわけにはいかない。
 会話が、周りの人に聞こえるということへの配慮とともに気を使いたいことがある。レファレンス記録を公開することについてだ。
 公共図書館では、通常レファレンス記録を公開するときに、質問者名を公表することはない。ところが、質問回答が公開されるそのこと自体が不都合という場合がある。
 最近、ある利用者から、未発表の研究テーマを調査中だから、出版物が出るまでは、自分がこのテーマを研究していることを他の誰にも(同僚も含めて)言わないでもらいたいと頼まれた。
  これほど極端なケースでなくとも、本人が公表する前に、図書館が質問と回答を公開したら、研究者は、いい気分だろうか?図書館への信頼は保たれるだろうか?質問時期、図書館名と質問内容から、質問者が特定されてしまう恐れがないとはいえない。
 レファレンスの公開にあたっては、質問者が容易に推測される要素がないかについても、十分配慮すべきであると考える。

(ひらかた ひろみ 仙台市民図書館、JLA図書館の自由委員会委員)

もくじに戻る


Vol.104,No.2(2010.02)

「貸出冊数も厳密にいうと個人情報の一つか」(白根一夫)

 私が館長を勤めた斐川町立図書館において、読書普及や図書館活動のPRを目的に「図書館資料をたくさん借りた高齢者にエールを贈る」ことを、開館4周年目で実施したことがある。図書館システムの利用者画面にカウントされている貸出累計冊数を、60歳以上の条件でSEに利用者番号を抽出してもらった。その結果、1,000点以上を貸出利用した利用者番号の4人を表彰したのである。本人の了解を得て「名前」と「貸出冊数」、及び「写真」を町の広報やホームページで祝福させていただいた。この取組みは、当時の教育長から経費のかからない方法で図書館PRを求められたことが直接のきっかけであった。私にとってのきっかけは、15年前にJLA「司書の海外研修」で渡英したときであった。ノースヨークシャー州スカーバラの図書館長が、図書館を大いに利用する高齢者に花束を渡して祝福している写真を見て、「いつか私も本を読み続ける高齢者を祝福したい」と長年思ってきたのである。4人は大変喜んでいただいたのであるが、「読書という個人情報を保護する」観点にたてば問題ではないかと自由委員から次のような指摘をうけた。
 @ 60歳以上の利用者の貸し出し累計冊数を調査することが事前に知らされていないこと。事後の了解も該当者のみ。
 A 広報などでの公開を了解されたとはいえ名前と写真、特に冊数を公開したこと。
 書名ではなく冊数だからと安易に1冊の単位まで公開してしまったが、貸出冊数も個人情報の一つではないかという指摘であった。
 同町立図書館で最近つぎのような事例があったそうである。刑事訴訟法第507条に基づく照会で「当該本人と家族計2名のカード登録日と貸出累計冊数を地検と国税局に教えた」のである。その根拠として「法(国の刑訴法)と一団体(日本図書館協会の自由宣言)では法が優越する」ということであった。
 高齢者へのエールは本人の了解をとって貸出冊数を公開したが、後の事例では本人の了解なく、まして家族の分まで貸出冊数を教えたのである。冊数といえども嫌に感じる人がいることにも気づこう。

(しらね かずお:宮若市図書館準備室、JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.104,No.1(2010.01)

「学校図書館の貸出方式と読書の自由」(鈴木啓子)

 学校図書館問題研究会で学校図書館の貸出方式を研究したメンバーとして、研究会などで読書の自由の保障やプライバシー保護、個人情報の漏えいを防ぐために、不要な個人情報は、廃棄または消去することを説明している。
 公共図書館では消去が当然であるのに、学校図書館は、消去する説明をしなければならないのは、学校図書館の貸出方式の歴史と関わりがある。学校図書館では、当初、読書指導のために貸出記録が残るニューアーク方式が望ましいとされた。その後、研究者や学校図書館の研究団体などから、利用者の利便をはかることと「読む自由・知る自由」を保障することが求められ、貸出記録が残らないブラウン方式を採用する学校図書館が増えていった。
 しかし、最近では、学校図書館にコンピュータが導入され、「読む自由・知る自由」が保障されない事態が起きている。というのは、学校図書館用の蔵書管理ソフトの多くが、個人の貸出記録が残るように設定されているからである。貸出記録を残すシステムになったのは、貸出方式の経緯と学校側の要望もあるようで、読書の自由の保障が、まだまだ理解されていないのが現状である。システム業者にも個人情報保護の観点から、選択制だが消去できるシステムを開発しているところもあるが、公共図書館のように消去が前提のシステムが望ましい。
 読書活動は、個人の関心、思想、信条などに基づく内面性をもつものである。子どもの貸出記録を読書指導などに利用することは、子どもの読書の自由が保障されなくなることにつながる。「図書館の自由に関する宣言」の解説に「読者の人格の尊重と教育指導上の要請の兼ね合いは、教員と児童・生徒の信頼関係と、読書の自由に関する教員の深い理解に立って解決されなければなるまい。」とある。教員が子どもたちと接する時間が昔に比べて減ったといわれる多忙な状況だが、貸出記録の書名や冊数から子どもの興味関心を知るのではなく、日常の会話や子どもを見守る中で知り、本の話題につながるような教育に取り組んでもらいたい。

(すずき けいこ:JLA図書館の自由委員会、兵庫県立西宮今津高等学校図書館)

もくじに戻る


第103巻(2009年)

Vol.103,No.12(2009.12)

「「日米地位協定の「合意事項」」(三上 彰)

 沖縄国際大学のキャンパスに米軍機が墜落、という衝撃的な事故が起こったのは2004年8月のことで、それからもう5年が過ぎています。幸いにも事故が起こったのが夏休み期間中であったため、学生や教職員の命が奪われるという最悪の事態には至りませんでしたが、このとき、米軍は大学構内に無断で立ち入った上に、事故現場一帯を封鎖し、キャンパス内には、沖縄国際大学の関係者や沖縄県警さえ立ち入ることができませんでした。なぜこのようなことが起こったのでしょうか? これは、日米地位協定17条の実施細目として合意された50項目以上にわたる「合意事項」が口実になっているようです。
 ところで、この口実となっている「合意事項」の要旨では、米軍が事故現場である私有地や公有地に無断で立ち入ることができるのは、「(日本側の)事前の承認を受ける暇がないとき」となっています。一方、公開されていないその全文や関係通達では、「事前の承認なくして立ち入ることができる」と明記されているようです。そして、この公開されていない全文や通達などの資料というのが、国立国会図書館で閲覧制限を受けている資料なのです。この関連資料は、1990年から2008年6月までは、すべてを閲覧することができました。しかし、法務省が圧力をかけたことにより、一般の閲覧ができなくなり、国会図書館のOPACでもその存在が非公開となりました。同年11月に条件付利用に変更されましたが、肝心の部分は黒塗りにされているようです。黒塗りにされている部分には、米兵が日本で犯罪を犯した場合に、日本が第一次裁判権を持たない「公務中の事件」の「公務」の範囲を示すものなども含まれています。例えば、飲酒運転での事故であっても、「公の催事」での飲酒であれば「公務中の事故」とされるとした日米合意などの記述です。このように、ともすると、私たちの生命や生活をおびやかすことになりかねない重要な部分が公開されていない、ということは、知る権利を奪われている、と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 この件については、斉藤貴男氏が閲覧禁止処分取消請求の訴訟を起こしていますが、衆議院外務委員会においても、「合意事項」(2005年4月1日の日米合同委員会で合意されたガイドラインに含まれているもの)、「公務」の範囲に関しての黒塗りにされた資料ともに、追求されています。訴訟の裁判の結果を待つのではなく、国会図書館自身が「真理がわれらを自由にする・・・」の本来の理念にたちかえって閲覧制限を解除し、誰でも何の制限も受けることなく資料を閲覧できるようになることを願ってやみません。

(みかみ あきら:桜美林大学図書館、 JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.103,No.11(2009.11)

「裁判員制度広報映画「審理」に思う」(熊野清子)

 8月3日に夫が逮捕された後行方不明になっていた女性タレントに、覚せい剤所持の疑いで逮捕状が出た8月7日、最高裁判所が同容疑者の主演した裁判員制度広報用映画「審理」を使った広報活動の自粛を決めたと報道された(朝日新聞2009.8.7ほか)。全国初の裁判員裁判が8月3日から6日に開かれて話題を集めていたさなかである。「審理」は最高裁のサイトから動画が無料で配信され、ビデオとDVD約19万1千本が各地裁や法務省に配布されるほか、全国の図書館や学校などにも配布されて館内視聴や貸出などで利用されている。さすがに最高裁はいったん配布した資料の回収や使用中止の要請をしなかったそうである。しかし自粛の報道だけで貸出や視聴の中止を検討した図書館があったという。
 これを聞いて二つのことを思った。ひとつは映画の中でも再三繰り返される”推定無罪”の原則に立つ裁判所が、容疑の段階で自粛というのは自己矛盾ではないかということ。もうひとつは作品と作者あるいは出演者の関係で、たとえ犯罪者や容疑者が主演していようと作品として独立して評価すべきではないかということである。
 平成ウルトラシリーズの監督としても愛された映画監督・原田昌樹氏の遺作となったこの作品は「事件は裁いても人は裁かない」をモットーに演出されている。評論家の切通理作氏は”地下鉄で起きたある殺人事件を多角的に見つめる現代版羅生門ともいえる内容となった”と評価し、「裁判員制度広報用映画『審理』再公開及び作品保存を求める署名」を展開している(共同通信2009.9.1ほか)。
 裁判員裁判が全国各地で始まり、あなたや私や家族が裁判員として法廷に参加するのは明日かもしれない。制度への賛否はいろいろあるだろうがまず知ってから判断することが大切である。私は「審理」をあらためて視聴して、被告の妻とまだ生まれぬ子の生活の困難さと、被害者の母親の処罰感情の強さの間で揺れ動く裁判員の姿を我がことのように感じた。多くの人に見て、そして考えてほしい映画だと思う。

(くまの きよこ:JLA図書館の自由委員会、兵庫県立図書館)

もくじに戻る


Vol.103,No.10(2009.10)

「障害者の情報アクセス保障の進展、待ったなし―障害者サービス関連の著作権法改正を受けて」(南 亮一)

 文字や音声を通じた情報の伝達が大多数を占める中、これらの知覚が困難となっている障害者は、情報アクセスが困難な状態に置かれている。このような障害者の情報アクセスを保障するため、文字を音声に、または音声を文字や手話に置き換えるサービスが行われてきたところである。しかし、公共図書館等では、原則として著作権者の許諾が必要なこともあって、これらのサービスがあまり広がっていない状況であった。
 このような状況を改善すべく、障害者団体とともに日本図書館協会でも長年にわたって著作権法の関連規定の改正を求めてきた。本誌でも既に取り上げられたとおり(2009年5月号から7月号までの「News欄」)、障害者サービスの円滑化を内容に含む著作権法の一部改正法案が、この前の通常国会で成立した。これにより、改正法の施行日である来年1月1日から、特定の施設において、それぞれの障害者の障害の度合に応じた音声資料や拡大図書、デジタルデータなどの作成、貸出、譲渡、ネット配信などを、著作権者の許諾なしで自由に行うことができるようになる。なお、この「特定の施設」の範囲は現在政令で定められているが、この法改正を受け、障害者福祉関係の施設に限定されていたのを、公共図書館等にまで拡大する改正が年内に予定されている。
 この改正により、公共図書館等の障害者サービスの大きな「障壁」となっていた著作権処理が不要となるため、公共図書館等においても、積極的に障害者サービスを展開することが可能となった。著作権処理の困難さから障害者サービスに二の足を踏んでいた公共図書館等も、これからは「著作権」を理由として消極的な態度を採ることは許されなくなる。
 この法改正は、障害者権利条約の批准が動機のひとつとなって行われたものである。この条約の精神に則り、すべての公共図書館が、積極的に障害者サービスをより拡大する方向に動き出してほしい。

(みなみ りょういち 国立国会図書館、JLA図書館の自由委員会委員)

もくじに戻る


Vol.103,No.9(2009.09)

「Web2.0時代における図書館の自由・その後」(前川敦子)

 昨年度の全国図書館大会・図書館の自由分科会を「Web2.0時代における図書館の自由」をテーマに行い約1年がたつ。最近、米国で出されたこのテーマに関連する2つの文書に接した。
 1つは「米国の人権協会等、Google社にGoogleブック検索でのプライバシー保護を要請」(カレントアウェアネス・ポータル2009/7/24付)。米国自由人権協会(ACLU)や電子フロンティア財団等がGoogle社に対し、本人に無断での検索ログの第三者への譲渡禁止やログ保持期間の限定など、プライバシー保護に関する具体的な要請を書簡で送ったもの。もう1つは2009年7月のALA年次大会で新規採択された「図書館の権利宣言」の解説文「Minors and Internet Interactivity(未成年者とインターネットの双方向性)」。SNSなどウェブ上のインタラクティブなサイトのプライバシー面での脆弱性に関して、未成年者がこれらのサービスを利用することを規制するのではなく、安全・効果的に活用する方法を学ぶ/教えるべきだとし、図書館での利用を規制する動きを否定したものである。
 こうした動きに接して常々感じるのは、これらが決して新たなwebサービス自体を否定・制限せず活用を前提とし、かつこれまでの原則に基づいてプライバシー上の問題を克服する方法を具体的に論じている点だ。一方、昨年度の分科会での論議は、その前提条件としての知識交換に留まっており、それ以後もそこから踏み出してはいないように感じられる。
 双方向性・集合知・ユーザ参加型と呼ばれるweb2.0の特性の中での利用者のプライバシーは、「個人の私的な営みとしての読書」という従来の枠組みの中のものとは異なる面がある。対象となるLibrary recordの内容も貸出履歴だけでなく検索ログ、ILL・リファレンス履歴など多岐にわたる。何より利用者自身がこうしたサービスに対して一様ではない考え方を持っている。これらの新たな側面をふまえつつ「利用者の秘密を守る」ことは重要であり、拙速な変化は禁物だ。一方で従来とは異なるプライバシーの扱いを理由に、新たなサービスを消極的に傍観することがあるなら、利用者の不利益を生み、図書館自体の衰退、ひいては図書館が保障すべき知的自由の衰退を招くのではないか。
 利用者の秘密を守り、かつ、新たなサービスを進展させる方策はあるはずだ。より具体的な検討や実証・実践を進めることが、長い目で見て図書館サービスの中に「利用者の秘密を守る」ことを根付かせることになるのではと考える。

(まえかわ あつこ:大阪教育大学附属図書館、 JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.103,No.8(2009.08)

二つのリーフレットから感じたこと(西河内 靖泰)

 私の目の前に赤茶色のリーフレットがある。「図書館を愛するみなさまへお願い」と題され、「図書館マナーブック」との副題がついている。このリーフレットには、禁止を意味する斜線が引かれたイラストと共に禁止事項が書かれており、ながめていくうちに次のような文章があった。「不衛生な状態で入館する 図書館の環境をみだす衛生状態や服装での入館はお断りすることがあります。」
 この文章に「ホームレス」とは直接書かれていないが、その示す意味は「ホームレスは図書館に来るな」であることは誰でもわかる。図書館でのホームレス問題について「すべての人に開かれている図書館が、一方的にレッテルを貼って排除するのはおかしい。現場で困っているなら真剣に論議しよう」と何度も提起し続けてきたのは何だったのかと、そう思いかけた。
 そんな時、ある図書館友の会のリーフレットに出会った。「マナーアップでステップアップ♪♪ かいてきとしょかん」というタイトルのリーフレットには、「としょかんは公共施設デス。老若男女 けんこうな人も 病気の人も お金もちサンも つつましいくらしぶりの人も 全ての人が同じように利用でき 情報や知識や感動を得ることができます。」とあり、「(○○図書館は)私たち市民のじまんのとしょかんです。でも、悲しいコトにマナーいはんに気がついていない人がいらっしゃいます…」と、図書館でマナーを守ることの大切さが書かれている。この手作りの素敵なリーフレットに私は、人びとへの愛情が満ち溢れているのを感じていた。
 「マナーいはんは スピードいはんじゃないので 警察につかまることはありません!! でも周りに“ふゆかい”な思いを与えてしまうのは つみなコトです。 大切なのはちょっとした心くばり」「みんなが気持ちよく利用できる 本とうにすてきな図書館になるといいネ♪」「みんなでつくるわたしたちのとしょかん」。
 まだ、この国の図書館を支えようとしてくれる市民には、希望があると感じている。

(にしごうち やすひろ:滋賀県愛荘町立図書館, JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.103,No.7(2009.07)

利用者の秘密を守ることを宣言した会津若松市の図書館のこと(伊沢 ユキエ)

 「この本を閲覧した人をデータベースで検索しましょう。」鶴ヶ城近くの図書館の郷土史に詳しい司書が、事件を追って調査にきた記者に向かって言う。相場英雄著『奥会津三泣き 因習の殺意』(小学館文庫 2009年3月)のシーンである。
 4月3日の会津若松市長のブログには、著者から直接寄贈を受け懇談し、地元が舞台となったことを大変喜び、是非読んでみたいと掲載されている。その後、上記の内容が発覚して市は小学館に申し入れ、同社は市に謝罪、重版時に訂正することを約束したという。会津若松市立会津図書館のホームページにも、この小説はフィクションであるとしながらも、利用者に誤解を与える記述がある事実を伝え、図書館の自由に関する宣言を紹介して全国の図書館においても貸出履歴や閲覧履歴等の個人情報を第三者に知らせることは絶対に行なっていないと即座に掲載した。見事、素早い対応だった。
 旅先でも、出張先でも便利に使えるというイメージが定着してきた図書館だが、利用者の秘密を守るという信頼性についてはまだ市民権を得ていないようだ。図書館が、また抗議する立場に置かれてしまったことは残念だ。特に、この小説、その前の章では、著述家である叔父が、事件について相談する記者に、地元のことは図書館でまず調べるのが鉄則といった意味の指示を与えているからなおさらである。
 どこの自治体でも個人情報やプライバシーの管理に注意している時代である。これまで、この類の事件が起こるたびに、図書館界では声を大きくして著者や出版社に、自由宣言についての理解を求めてきた。読書記録を開示するような光景が小説に書かれたとしても、今どきの図書館では貸し出し記録は利用が済めば消している、他者に見せることなどあるわけないと世間が笑い飛ばしてくれる日は近いと思っていた。いや、しかし、一方で、読書記録をシステムに残すという“サービス?”が出てきている実態もある。利用記録は第三者には提供しない、利用の秘密は守るということを、市民にもっと知らせなければいけない時代になっているのではないだろうか。

(いざわ ゆきえ:JLA図書館の自由委員会、横浜市磯子図書館)

もくじに戻る


Vol.103,No.6(2009.06)

一枚の紙片、その後(田中 敦司)

 多くの公共図書館では、返却期限を表示した紙片(以下「貸出票」)を利用者に手渡していることと思う。この貸出票には、返却期限とともに利用者の貸出券番号、借りた資料名などが表示されていることが多い。返却期限は当然だが、利用者にとっては、どのカードで何を借りているかがわかる貸出票は、便利なものである。けれども、利用者番号と資料名が同時に表示されるということは、番号から氏名を確定すれば、誰が何を借りているかが、他人にもわかる読書記録となってしまう。本人にとっては便利なものであるが、反面危険なものとも言える。
 図書館の利用者に関する情報について、刑事訴訟法197条2項による警察署からの照会が、図書館に対してなされることがある。この照会に対して回答しないという態度を、図書館では長い間続けており、定着しかけている。
 窃盗事件の現場に貸出票が落ちていたとして、該当の図書館に対して警察署から照会がされたという事例があった。この例では、貸出券番号と借りた資料名が表示されており、利用者名を教えてほしいという内容であった。この図書館では、日本図書館協会にも情報を提供しつつ館内で議論を重ね、文書によってお断りしたという。
 私の勤務する図書館でも、貸出票には返却期限とともに利用者の貸出券番号、借りた資料名が表示されている。しかし、貸出券番号については10桁のうち下4桁のみ表示し、あとは*(アスタリスク)つまり伏字としている。また、資料名も文字数に制限があって、前半数文字の表示となっている。これにより、カードを所持している本人は、何を借りているかがわかるが、貸出票だけでは他人はもとより図書館でさえ、それが誰の貸出票であるかが特定できない。すなわち、貸出票が落ちていたとしても、それは利用者を特定する手がかりとなりえないのである。
 家族何人分かのカードを使いまわすという利用者からすれば、誰がどの本を借りているかがわかったほうが便利である。しかし、不用意に貸出票を落としたら・・・と考えると利用者番号はないほうがいい。両立するにはどうしたらいいかを考えて出した結論である。
 図書館システムパッケージでは、利用者番号をすべて表示することが標準であったであろう。しかし、それをこのような形にカスタマイズしたところに、システム担当者の司書としての矜持を感じている。もちろん、これには全国一厳しいといわれる名古屋市情報あんしん条例や名古屋市個人情報保護条例の効果も大きい。全市のシステムを審査する委員会を通過するには、相当厳しい条件が示されたと聞いている。
 図書館システムをどのように使うか、どのように活かすかは、図書館職員の意識にかかっている。利用者にとっての利便性と、図書館の自由に関わる利用者の秘密を守ることは、しばしばぶつかることがある。両立のむつかしいことではあるが、工夫によってできるだけ両立をはかりたいと願っている。このような方法もあるということをお知らせすべく、紹介する次第である。なお、当市ではこの貸出票にあたるもの、返納期限票が正式名称である。コンピュータによる貸出を開始したときに貸出票による貸出は原則なくなっており、利用者にお渡しする返納期限票に書名などが記載されているという理解である。

(たなか あつし:JLA図書館の自由委員会、名古屋市名東図書館)

もくじに戻る


Vol.103,No.5(2009.05)

子どもたちの「読みたい」気持ちを大切に(松井 正英)

 先日、卒業生が学校を訪れて、「高校の頃は好きな本が読みたいだけ読めてよかったなぁ」と漏らしていた。彼はライトノベルが好きで、高校生のときは月に何十冊も学校図書館から借りて読んでいた。それが今は、大学図書館には当然ながらライトノベルは置いていないし、公共図書館に寄るのもちょっと面倒だし、かと言って自分で全部買って読むほどの金銭的余裕もない、ということだった。
 この話を聞いて、あらためて学校図書館の役割について考えさせられた。一日のうちの大半を学校で過ごす児童や生徒にとって、学校図書館というのは気軽に立ち寄ることができて、読みたい本を手に入れるのにもっとも身近な存在である。学校図書館の目的の一つに、授業などの教育活動の展開に寄与することがあるが、それと同じように、子どもたちの「読みたい」気持ちに応えることもないがしろにしてはいけない。
 それでは、学校図書館はそうした役割を十分に果たせているだろうか。愛知県のいわゆる「禁書リスト」は極端な例だとしても、ティーンズ向け文庫やコミックは、学校図書館の蔵書としてなかなか受け入れられてこなかった歴史をもっている。最近では、ケータイ小説がそうである。また、子どもたちに大人気の「かいけつゾロリ」や「ハリー・ポッター」にも、主人公が成長しないから学校図書館には好ましくないという声を聞く。
 けれども、本のどんなところが印象に残るか、どのように感じるかは、読む人の自由のはずだ。それにそもそも、いつも読書に読む人の成長を求める必要があるのだろうか。子どもたちは学校でも家庭でも、ただでさえ成長することを求められている。そんな中で、ほっと一息つきたい、ちょっと立ち止まっていたい、と思うことだってあるだろう。
 子どもたちはさまざまな思いをもって本を手にとる。学校図書館がしなければならないのは、そうした思いの中身を云々することではなくて、一つ一つの思いを尊重し、子どもたちの「読みたい」気持ちにきちんと応えて資料を提供していくことではないだろうか。

(まつい まさひで: JLA図書館の自由委員会、長野県下諏訪向陽高等学校図書館

もくじに戻る


Vol.103,No.4(2009.04)

今だからこそ!さらに!「図書館の自由に関する宣言」ポスターを玄関に(巽 照子)

 図書館見学に各地の議員、市民の方々が来られたときに玄関に掲示されている宣言のポスターを目ざとく見つけてくれる。館内案内は、玄関からするので目に付くのであるが。図書館としてなにを大切にしているかを説明しながら、宣言に気づいてくれることを期待している。図書館の運営での説明をするときの基本になるからだ。ポスターの前ではいろいろコミュニケーションが生まれる。一番多いのが「うちとこの図書館に貼っていたかな」ということ。
 先月地元の地域医療を考える懇話会で住民と病院(医師)が協力し合って、小児科の存続を守った篠山市の兵庫県立柏原病院を視察にいった。玄関に病院の精神をうたうポスターが良く見えるように掲示されていた。参加者から「さすがだ」と声がでた。「私たちは、医の倫理にもとづき、地域住民の健康に奉仕します」と基本理念をうたい、5つの基本方針を掲げている。その中のひとつに「職員一人ひとりが心と技の自己研鑽に努め、明日の地域医療を拓きます」と言っている。信頼を寄せ、安心して医療を受けられるとの思いを強くした。医療機関も同じように大切にしたいことを宣言しているのである。
 図書館は、住民の読書の自由を保障する機関である。例えば、ゆったりとすわり心地のよい椅子に座って雑誌を読むとき。また、自分が挑戦してみたいジャンルや抱えている課題を解決するための本を探したいとき、自由でありたいと思う。一人ひとりが自由に利用できることで、もっと過ごしやすい場所になるようにと、野の花を届けてくれる利用者もいる。小さな野の花を一輪飾ることで、みんなの心も優しくなる。本も書架も椅子も、もっている命を吹き返してくる。
 これらの風景が作り出されるもととなる図書館の自由をうたうポスターが、常に市民の目に付き、宣言の精神が共有され、自由と安心を感じつつ、サービスの深化が図られていくことがとても大切だと思う。まだ貼っていない館は、さっそく自由に関する宣言ポスターを玄関に貼ってみませんか。

(たつみ てるこ:JLA図書館の自由委員会、東近江市立八日市・永源寺・五箇荘・愛東・湖東・能登川・蒲生図書館館長)

もくじに戻る


Vol.103,No.3(2009.03)

図書館と図書館員を守る資料選択の方針 −あるディベートを通して(渡辺真希子)

 図書館の自由を考えるきっかけとなった、あるディベートを紹介します。このディベートは、ある授業で、学校図書館が収集する資料に対して、差別的な表現あるなどの理由から、「児童が読むことは不適切だ」と、保護者からクレームが入り、図書館員と保護者の代表が話し合いを持つ、という設定でした。
 ディベートの間、図書館員は、子ども達が広く資料に接する権利を主張します。一方の保護者の代表は、当該の資料が、いかに子ども達にとって弊害、悪影響が大きいかを切々と訴え、反論します。ディベートでは、実際の個人の考えは別として、忠実にその役割に徹するため、両者の意見は次第に対立します。やがて、最終の局面を迎えますが、保護者役は、あくまで資料を置くことに反対を唱えます。しかし、一人の図書館員役が、「私達の図書館は、子ども達が、様々な本を読む自由を保障するための方針を作っています。本はそれに基づいて選んでいるのです」との発言を境に、図書館側は、方針の説明を加えつつ、説得に成功していきます。
 このディベートを通して、参加者は、方針を作り、明示することが、差別的、あるいは恣意的な理由から、図書館の収集を守ることを理解します。何より図書館が、盾となる合理性のある理由を持つことの大切さを実感します。また、ディベートの後のディスカッションでは、教員から、初期の対応として、「なぜ資料を閲覧禁止や回収しなくてはならないと思うのか?」と、その理由を文書で受け付けることの重要性が提案されました。そして、実際の話し合いでは、図書館員は、苦情者が、何に対して納得ができないのかを丁寧に聞き取ることで、相手側の心情、その背景に耳を傾ける重要性を学びます。
 今、図書館は、資料選択の方針について、同じ館種や地域が協力し、整備できるよう力を合わせて取り組むことが、求められています。資料選択の方針を作り、それを開示し、職員が共有することは、利用者との信頼関係を築き、図書館の活動を支える礎になると思います。

(わたなべ まきこ: JLA図書館の自由委員会、横浜市立大学医学情報センター)

もくじに戻る


Vol.103,No.2(2009.02)

マル秘マークと図書館(福永正三)

 過日、マル秘マークの付いた在日米兵犯罪の裁判権に関する資料について、法務省からの要請に応えた国立国会図書館の閲覧禁止措置の是非が問題になった。
 これと同質の問題は、どこの図書館でもおこり得ることだろう。考えられる一例としては、寄贈や寄託された資料の中に非公開扱いの行政文書が混在していたようなケースだが、それが偶然、しかるべき行政機関の目に留まって閲覧禁止の要請がきたとしたら、どう対応すべきだろうか。
 まず最初に、このケースが図書館の自由に関する問題だと気づくことが大切なのだが、具体的な対応としては、(イ)ただちに閲覧を禁止する、(ロ)いっそのこと廃棄してしまう、(ハ)とりあえず、『図書館の自由に関する宣言(1979年改訂)』(以下、「宣言」という。)を読んでみて措置を決める、のどれが正解か。
 (ロ)は論外、実際的には(イ)の場合が多いと予想されるが、ごく例外的な場合を除いて正しい対応とはいえない。そこで、(ハ)が正解といいたいところだが、「宣言」はぴったりした答えを用意してくれてはいない。
 ここからは「宣言」の応用問題である。まず、図書館は国民の知る自由に奉仕する社会的装置だということが出発点であり(前文の1)、したがって閲覧禁止はごく例外的な措置でなければならない(第2の1、本文)。そうなると閲覧禁止が許されるのは、個人の名誉やプライバシーを侵害する資料(第2の1、(1))はもとより、これと同一視できる個人や団体の評価や査定に関わる資料であるとか、寄贈者または寄託者が公開を否とした非公刊資料(第2の1、(3))に準じて考えられる委員会の内部資料のようなものの中で、非公開にすべき合理性が認められるものに限られるだろう。ひとたび図書館に所蔵された後は、マル秘マークが付いているかどうかは絶対的な判断基準にはならない。また、発刊後かなりの時間が経過していたり、他の方法で容易に内容を知ることができる資料については、いまさら閲覧禁止の措置は無意味であろう。
 いずれにしても、閲覧禁止の要請がきたときは、ちょっと立ち止まって考えてみることが必要ではないだろうか。

(ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会) 

もくじに戻る


Vol.103,No.1(2009.01)

犯罪防止の責任・能力は警察に 元厚生事務次官ら殺傷事件に係る住所録類閲覧制限(山家篤夫)

 ヴォルテールが図書館員だったらこう言っただろう。「私はこの本の思想に賛成も反対もしない。そしてあなたがこの本を読む自由を命を懸けて守る」。そして差別的表現や最近では「BL本」まで、非難された資料への対応は大方この立場で大丈夫だ。
 だが、本件のような場合は、「“危険発生の具体的予見”がある時は表現の自由を制限してもやむを得ないという法理論の考え方を、図書館も資料提供にあたって考慮すべきだ」という話が前面にでてくる。
 例えば、田島泰彦・上智大教授は、「公務員にかかわる情報は本来はオープンにされるべきだ。しかし、個人に危害が生じる恐れがあるような場合については配慮が必要」(共同 11月25日)とコメントされ、堀部政男・一橋大名誉教授は「職員録はいつ、だれが政策決定にかかわったかの記録でもあり、原則公開すべきだ。ただ、知る権利とプライバシー保護のバランスのとり方がますます難しくなっている。今回の事態を踏まえ、図書館界で議論を深めてほしい。」(asahi.com 11月26日)と提起されている。
 このことを考慮するとしても、本件のような凶行を予見・防止する責務と実効的対応能力を持つのは 警察である、ということが議論の前提だ。
 11月18日の朝と夕方、相次いで元厚生省次官と家族の殺傷事件が確認された。その日のうちに、「警察庁は、厚生労働省から名簿の提出を受け、10都府県の警察本部に警備強化を指示した。対象となるのは、事務次官や社会保険庁長官経験者に加え、年金局長など年金関係の幹部・元幹部約20人」(毎日jp 11月18日 21:41)。
 20日に出頭した小泉容疑者は、「第三の襲撃は警備が厳重なため断念した」と供述している(25日の各紙による)。
 図書館に厚生省幹部らの住所録の提供制限を求める合理的な根拠(実効性)は、11月25日のこの時点で消えた。警察は第三の凶行を防止した上、その責務にもとづいて必要な警備を維持しているはずである。
 『職員録』は明治19年、『人事興信録』は同36年創刊。現在も私達の座右の参考図書である。一人の特異な凶行で命を絶たれては堪らない。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会委員長)

もくじに戻る


第102巻(2008年)

Vol.102,No.12(2008.12)

中学生の体験学習で「利用者の秘密」をどう伝えるか(喜多由美子)

 私の勤める図書館では、毎年11月になると連日2〜4名程度の中学2年生たちが体験学習にやってくる。彼らの仕事には本の整理や修理、利用案内等の訂正シール貼りや図書の検品・受け入れなど比較的単純な作業もあるが、必ず経験してもらうのがカウンターでの仕事である。図書館で一番よく見える仕事であり、図書館が最も大切にしてきた仕事である。また、図書館を体験学習先に選択した生徒たちは、それを少しは期待してきているだろう。
  カウンターに立たせるかどうかについては、本市でも随分議論になった。利用者に迷惑をかけるのではないかという意見、カウンターでは利用者のプライバシーと接するのでいかがなものかという意見、あるいは、彼らは緊張のあまり何も覚えていないだろうから気にすることはないという意見もあった。論議の末、「図書館の仕事をしたい」と希望して来てくれたのだから、しっかり図書館の仕事とその精神を伝えていこうと落ち着いた。そして、守秘義務についての説明を必ず行うという条件でカウンターで利用者と応対してもらうことになった。
  当初は、事前に「自由宣言」や「倫理綱領」を手元に置いて説明したが、結果はむなしく、ほとんど反応は返って来なかった。しばらくして気づいたのは、頭で理解させようとしても無駄だということである。感じるそして考えるというプロセスが抜けていたのである。試行錯誤の結果、体験学習の最後に守秘義務について話すことにした。まず、彼らと一緒にカウンターに立つときに、簡単な機器操作の説明を行うが、接客については、あなたが一番して欲しい対応をして欲しい、どうすればいいかは自分で考えて行動するように、とだけ伝えるようにした。それ以上は何も話さない。これは大変重要なことで、生徒たちは、形ばかりの接客ではなく一生懸命にその人のことを考えようと努力してくれる。
 最後に守秘義務の説明をするときは、その日出会ったエピソードを混ぜながら、「本って日記みたいなものでその人の心の一番柔らかい部分とつきあっているんだよ。誰にも知られたくないでしょ。だから、大切にしなくてはいけないんだよ。」と、できるだけ自分に置き換えて感じられる表現を使うように心がけている。
  ある生徒の体験学習の感想文に、「図書館はひとりひとりを大切にするところだと思いました。」という文字を見つけた。なんとシンプルな表現だろう。それでいて、奥が深い。自由宣言の本質を突いているではないか。中学生から教えられたことである。

(きた ゆみこ:JLA図書館の自由委員会、八尾市立八尾図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.11(2008.11)

施設と資料を提供する(井上靖代)

 「図書館の自由に関する宣言」には図書館の使命が簡潔に述べられている。「資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする」というのがそれである。人が介在して、資料と人とのコミュニケーションをはかる施設が「場」である。
 では図書館という「場」はどのような役割を果たすのだろうか。
 さまざまな人とのコミュニケーションや思いがけない本や資料との出合いなどの「場」が図書館である。利用者が自分なりの時間を楽しめる空間を提供できる「場」が図書館である。
 インターネットが日常生活のものとなるにしたがい、調査利用だけでなく電子図書も急速に増加している。図書館を利用しなくてもネットで充分と断言されてしまえば、図書館の存在意義はなくなってしまう。ネットにない「場」も提供できるのが図書館というものである。
 だが、特定集団を対象として図書館利用を阻害する動きがある。なかには条例で排除しようとしている。集団のみならず、あらゆる理由をつけて、人々の図書館利用を排除しようとしている。最近の事例では暴力団排除がある。ちょっと聞くと妥当に思えるが、よく考えて欲しい。集会室の利用なら図書館活動に関連するという規定があれば、それで済む話である。それなのに、条例によって、図書館のあらゆる場所で、暴力団関係者の利用禁止などを規定するとは図書館の任務に対する冒とくではないか。
 携帯経由などネットでの情報入手が容易になるにつれ、公共の「場」としての図書館の任務を考え、積極的な活動をすすめていくことがいま求められている。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会、獨協大学)

もくじに戻る


Vol.102,No.10(2008.10)

「耳をすませば」は「図書館の自由」の教材にならなかった(三苫正勝)

 以前、短大の授業で、アニメ「耳をすませば」を図書館の自由の教材に取り上げたことがある。司書課程の授業ではなく、教養科目なので図書館学を学んでいない学生がほとんどである。図書館学とは縁のない学生に、図書館の自由について知ってもらう格好の題材であろうと、勇んで授業に臨んだのであった。
 周知のように、ファンタジーに夢中の中学生の少女が、学校図書館で借りようとするファンタジーが、ことごとくある男の子に先に読まれていることを、その記名式のブックカードによって知る。気になるうちに、顔も知らないその子に惹かれていくという話である。もちろんハッピーエンド。貸出方式はニュアーク式。
 はじめに図書館の自由についての考え方と簡単な歴史を説明した上で、アニメを上映した。当然、学生は興味を持ってこの作品に見入っていた。上映が終って、図書館における図書の貸出方式の変遷も説明した上で、この作品の感想を書いてもらった。ところが予想をはるかに上回って、この記名式の貸出方式がいいと書いた学生が多かったのである。
 図書館の自由を力説したにもかかわらず、その大切さが理解されなかったことが残念であった。というだけの話であるが、教師の一場の演説ぐらいでは、自分の正直な感想を曲げなかった学生の主体性を称揚すべきか。
 図書館員のあいだではかなり図書館の自由は常識の域に達していると思っていたが、それもひょっとしたら錯覚なのかもしれない。などと忸怩たる思いをしていると、また新たに問題が提起されている。
 Amazonなどで本を購入したことのある人には周知のことだが、個人の購買記録ばかりか検索記録までが蓄積されて示される。そして、それが図書館においても有用ではないかという考え方が出てきたのだ。もちろん特定個人を消去できる方法が模索されてはいるが。
 この議論、練馬図書館で実行した、資料の汚破損対策のための貸出記録保存よりは、根が深い。
 9月の全国図書館大会の第7分科会(図書館の自由)の中心議題であるが、今後の議論の展開が興味津々である。

(みとま まさかつ:JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.102,No.9(2008.09)

児童生徒の作文集は図書館が保護すべき個人情報か(佐藤眞一)

 毎日新聞7月5日付朝刊に、「文集は個人情報?」という見出しの記事が掲載された。茨城県土浦市立図書館所蔵の文集を、市教委が回収指示したことを疑問視する記事であった。問題となった文集『つちうら』は、市内の児童生徒が書いた作文の中から優秀作を選び、教員などでつくる市教育研究会が毎年発行しているもので、校名、学年、氏名も掲載されていると記事は伝える。このような文集に掲載されることは、選ばれた児童生徒にとって、大変誇らしいものであろう。
 今回の騒動は、毎日新聞が取材のため、図書館未所蔵の年の文集の開示を市教委に求めたところ、「個人情報に当たる」として拒否したことが発端である。その後、市教委は図書館に所蔵文集の撤去を求め、図書館は市教委の意向に従った。
 情報公開請求は公開が原則であり、不開示は限定的でなければならない。個人情報保護法制でも、個人情報であることと、「保護すべき」個人情報とは明確に区別されている。作品掲載に原則保護者の同意を取っており、希望者には販売もしているという報道が正確なら、「内容は思想信条に値し、図書館に置くべきではなかった」という市教委の判断は、過剰保護と言われても仕方がない。また、館長が市教委の意向に従ったことは、社会教育施設の長として、独立した判断を放棄したのではないかとの疑問が残る。
 行政が、個人情報の取扱いに敏感になることは歓迎すべきだが、ことなかれ主義の過剰制限とは一線を画すものであることは言うまでもない。犯罪への悪用、少年犯罪加害者への不必要なプライバシー暴露報道など、憂慮すべき危惧があるとしても、住民の知る権利を保障する機関である図書館がその機能を放棄するべきではない。しんぶん赤旗7月21日付「朝の風」欄の国立国会図書館「日米合同委員会議事録」不開示報道にも、忸怩たる思いを抱く図書館員は、私だけでないと思う。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由委員会、東京都立多摩図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.8(2008.08)

図書館の自由分科会・若手図書館員の参加を!(木村祐佳)

 神戸で行われる全国図書館大会が近づいてきた。私が図書館の自由委員会に参加してから、3度目の大会となる。図書館の自由委員会では「「Web2.0時代」における図書館の自由」と題した分科会を開催する予定である。詳しい内容は「全国図書館大会への招待」(p.516)の記事を参照いただきたい。
 「図書館の自由」と聞くと、閲覧制限や検閲などといったイメージをもたれる方もいるかもしれない。もちろんそうした話題は今でも重要な問題ではあるのだが、今回は少し視点を変えて、「Web2.0」時代における、貸出履歴についてさまざまな立場の方からお話をうかがう。
 「Web2.0」のサービスとしては、動画共有サイト、ソーシャルネットワーキングサービス、ブログ、オンライン書店のレビュー機能などが代表的である。これらのサービスは、ここ数年で拡大し、広く世間に浸透するようになった。こうした「Web2.0」のサービスを実際に使いこなしている人も、そうでない人も、ぜひ今回の分科会に参加していただきたい。
 特に、これらのサービスをより身近に感じているだろう若手図書館員の皆さんにも、ぜひ積極的に参加していただきたいと、自由委員会「若手」委員の私は考えている。「Library2.0」を提供していく図書館員の立場として、また「Web2.0」を使っている利用者としての立場として、色々な意見交換ができることを期待している。
 先月号のこらむでは、「図書館戦争」のアニメ化についてご紹介したが、「図書館の自由」はいま、旬の話題と言えるのではないだろうか。しかし、毎日「図書館の自由に関する宣言」のポスターは目にしていても、日々の業務に追われてなかなか「図書館の自由」とは、と思うことはないかもしれない。今回の分科会が少しでも「図書館の自由」について考える機会になればと思う。

(きむら ゆか:JLA図書館の自由委員会、国立国会図書館関西館)

もくじに戻る


Vol.102,No.7(2008.07)

「図書館戦争」再考(藤倉恵一)

 最初に『図書館戦争』(有川浩著)が刊行されたのはちょうど自由委員会東地区の月例会議直前だった。出席した委員が一様に驚きを隠せなかった光景はよく覚えている。
 それから2年、シリーズ4冊は完結し、完結編『図書館革命』の刊行に前後してアニメ化が発表された。このこらむが掲載されるのはちょうどアニメ最終回が放映された直後だろう。そしてアニメと時期を合わせるようにコミック2作品と、原作別冊2巻の刊行が相次ぎ、8月からはDVDが毎月発売される予定である。もともと若年層に人気の高かった著者だが、本作、さらにコミックやアニメを経て新たな読者も獲得できたのではないだろうか。
 公序良俗に反するという理由から言葉狩りや検閲が横行し、それを執行する「メディア良化特務機関」の存在と、それに対抗し、表現・出版の自由を守るため図書館に組織された武装機構「図書特殊部隊」との武力衝突が日常化した架空の近現代。もちろん現実にはありえないその背景世界の設定は荒唐無稽きわまるが、展開されるストーリーはアクションの合間にラブストーリーあり、ヒロインの成長あり、陰謀劇もあり、と、一流のエンターテイメントと言ってよい。図書館描写の考証には図書館員の目から見れば不完全なところも多々あるが、これまで多くのフィクションの中で取り上げられた図書館と比較しても上々、といってよいだろう。
 そしてこの設定の画期的なところは、自由宣言が「図書館の自由法」という通称で改正図書館法の一部として組み込まれているという点にあるのだが、アニメやコミックでは残念なことに、自由宣言が背景世界に埋没し、原作を読まない層には宣言の主旨や検閲に対しなぜ図書館が武装してまで資料を守るのかが伝わりにくくなってしまっている。これは活字の表現力と情報量のほうが勝るということだろうか。
 原作には「図書館が言いたいこと」「作家が言いたいこと」そして「読者(市民)が言いたいこと」が手を変え品を変え、たくみに織り込まれている。さらには検閲のこと、利用者の秘密のこと、障害者と図書館サービスのこと、言葉狩りのこと、その他数多くの「実は自由委員会が図書館に言いたいこと」さえも含まれていた。
 アニメやコミックがまだ見ぬ最終回までどこまで原作のもつ「ひそかな主張」を表現できるかはわからないが、「荒唐無稽だ」「図書館と戦争は無縁のはずだ」と無関心でいた方、見向きもしなかった方は、少しこのファンタジーの世界に踏み込んでみてはいかがだろうか。
 もちろん、本作が理屈抜きで楽しめるエンターテイメント作品だというのは先にも述べたとおりである。まだ見ぬアニメやコミックの今後の展開に期待したい。

(ふじくら けいいち : JLA図書館の自由委員会、文教大学越谷図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.6(2008.06)

「図書館の自由に関する事例集」まもなく完成(西村一夫)

 図書館の自由の問題に直面した時にまず読みなおすのは「図書館の自由に関する宣言」であり、さらには『「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」解説』であろう。宣言に立ち戻り、解説を参考にして、直面した課題にどう対処するかを考える。しかし、自由の問題はさまざまであり、「宣言」やその解説を読むだけでは現実の解決策が必ずしも見つかるわけではない。そうしたときにさらに役に立つのが実際の事例についての事実経過や解説が書かれたものであろう。
 図書館の自由に関する調査委員会(当時、現在は「図書館の自由委員会」)では各種の事例をまとめて参照しやすいようにと『図書館の自由に関する事例33選』(図書館と自由第14集)を1997年に刊行した。自由宣言の主文毎に事例を分けて、1991年までの出来事のうちから33の事例について事実の概要や解説などを付して構成されている。同様の問題が起こったときには大変参考になり重宝している。
 「33選」刊行から10年以上がたち、この間にも多くの事件が起こった。『図書館雑誌』に掲載されたりしているが、やはりまとまったものの必要性が言われるようになってきた。そこで自由委員会では1992年以降の自由についての事例をあつめて刊行すべく準備を進めてきた。今回の事例集は、@「33選」以降の主要な事例を解説する、A原則として「33選」を踏襲して、宣言の区分に従って事例を解説する、B「33選」に入らなかった事例からも、今回必要と認められれば取り上げる、C自由宣言の区分に収まらない事例や理念的、総括的な問題等も取り上げる、D図書館に直接関わる事例を取り上げる、E自由宣言に直接関係ある事例を取り上げるとの方針のもと、32の事例を取り上げた。この間の主要な事例はすべて取り上げており、すでに編集は最終段階に入って9月の全国図書館大会での販売を予定している。図書館の自由の事例研究にも、具体的な問題解決の参考資料としても役立つことを期待し、多くの方にお読みいただきたいと思う。

(にしむら かずお:JLA図書館の自由委員会、松原市民図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.5(2008.05)

読書の自由をすべての人へ(平形ひろみ)

 図書館で、布や紙で作られた「さわる絵本」の展示を行ったときのこと。目の不自由な5歳児の手をとり、それに触れてもらいながら読んでみたが、興味を示さない。たまたまその展示机の隣に絵本棚があった。それは、何?と聞かれたので、ちいさな赤い本をその手のひらに置いた。『○○○がぽとん』と読みあげると、くすっと笑う。何度もせがまれ、くり返し読んだ。けらけらと笑顔はじける姿に、絵が見えない子にも楽しめる絵本があることを実感した瞬間だった。
 一部の公共図書館では、こうした特別なニーズをもつ子どもたち向けに布絵本の製作やおもちゃの貸出が行われている。そんな図書館には、子どもや家族との会話もあり、朗読や録音依頼へと図書館への期待も発展していくのだろう。
 多くの図書館には大活字本や朗読テープ、CDはあっても小さな子ども向けのバリアーフリー資料は少ない。例えば、仙台の場合なら心身にハンディのある子どもたちのための「森のおもちゃ図書館」や触察絵本の会「わか草」といった自主ボランティアグループが20年以上活動を続けている。乳幼児期からの全ての子どもの読書を育む土壌づくりのため、図書館がこうした地域の関連団体と連携すれば、必要な時期に必要とする子どもの手に資料が届くのではないだろうか。
 昨年、フィンランドを訪れる機会があった。視覚障害者のための専門図書館であるCeliaには、さわる絵本や触察地図があり、教科書、文学をはじめとするDAISY(国際標準規格のデジタル録音図書)が日夜休まずプレスされ、全国に無償で送付されている。更に、機械操作などをそれぞれの地域で教えるケアグループも存在しているとのこと。こうした専門図書館の充実があって、なおかつ地域の図書館や分館、移動図書館にも大活字本、やさしい言葉の本、トーキングブック、DVD、音楽CD、漫画といった資料が必ずといっていいほどある。しかも、これらが、視覚障害者以外の学習障害者、知的障害者等のためにも必要な資料であることをこの国の図書館員たちは常に意識し、収集提供しているようだ。国は違っても、資料の架け橋としての図書館員の役割が異なるわけではない。
 私にそれを最初に教えてくれた小さなお客さまとの出会いから10年以上が経つ。日本では、公共図書館にはさまざまな種類の資料を置くことが必要という認識すらまだ一般化してはいない。図書館は、赤ちゃんから高齢者まで、図書館利用に障害のある人ひとりひとりの読書の自由を広げていく存在でありたい。

(ひらかた ひろみ:JLA図書館の自由委員会、仙台市民図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.4(2008.04)

汚破損抑止のための貸出記録の利用(山家篤夫)

 練馬区立図書館が、蔵書の貸出履歴を一定期間保存するとしたことが朝日新聞1月11日朝刊で報じられた。
 汚破損抑止が目的で、各館職員で構成するシステム改善検討会が発案、貸出履歴の保存期間は貸出日から13週間または返却後に2回の貸出しがあった時までというものである。
 3月初め、自由委員会は、練馬区の中央館である光が丘図書館を訪問し、館長からお話を伺った。以下に、館長発言の要点を記す。

【導入の事情】貸出資料の汚破損被害は、とりわけCD資料で甚だしく、CD表面のラベルを剥がしてデータを破壊する、本体を入れ替える、歌詞カードに異物を貼付する等の悪質な事例が増加している。数千円のCDが新着4週間で壊されたこともあった。返却時のチェックが困難で、弁償を求めてトラブルになるケースもあり、職員は深刻に受け止めている。導入は職員の総意。しかし、検討に際し、CD類の被害抑止の方策と図書資料のマナー向上方策とを切分けなかったことは思慮が至らなかったと考えている。
【貸出履歴の性格】本件システムは、汚破損された資料について、その借り手が誰だったかを特定するものであり、ある利用者が何を借りたかを特定するものでない。個人情報からはアクセスできない。従って、保存される履歴情報は、思想・信条に関わる個人情報とは言えず、図書館の自由に関する宣言や練馬区個人情報保護条例に触れていない。
【今後の対応】CD資料と図書資料との切分けはじめ、実効性ある対応をしていきたい。ただ、今回のシステム・バージョンアップは教育委員会の了承を得て行ったものであり、その修正については、検証の時間をいただきたい。

 訪問した自由委員会委員からは、「この本を誰が読んだか」は「この人が何を読んだか」と同様にプライバシー情報である。練馬区個人情報保護条例においても思想・信条・宗教に関する個人情報を原則収集禁止する「要注意情報」としている。ことを指摘した。委員との懇談の中で、この点、館長のご納得をいただいた。
 個人情報は、本人にとっても社会にとっても有用である。そして国家(政府、自治体等)にとっても、である。「図書館は利用者の秘密を守る」という国民への約束を反故にしてはならない。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会委員長)

もくじに戻る


Vol.102,No.3(2008.03)

利用者用インターネット端末 (田中敦司)

 図書館の資料が犯罪に利用されるという危険性が指摘されることがある。紳士録などから住所・氏名を調査して、忍び込もうというようなものである。この場合、当該の紳士録を持っていた図書館が罪に問われるわけではない。資料を悪用したものが罪に問われるのである。
 利用者が使うことのできるインターネット端末を設置する図書館が増えている。インターネット上には、有益な情報が数限りなくある。しかし、悪用すれば犯罪につながるような情報があることも否めない。図書館内のインターネット端末で検索した情報を悪用して犯罪が起きたらどうなるのか。結論から言えば、図書館資料の場合と同様に、悪用したものが罪に問われることになるであろう。
 「図書館の自由に関する宣言」は、その副文において、「図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない」と明示している。これは、図書館資料をどのように使うかは、利用者にかかっているとも言い換えられよう。
 図書館が提供する資料の範囲は、活字情報だけの時代からは考えられないくらい多様になっている。しかし、種類が多様になっても、図書館の役割や立場が変わるわけではない。図書館法第一条は法律の目的として「国民の教育と文化の発展に寄与すること」を掲げている。図書館資料の悪用は図書館法の目的からの逸脱になる。結局のところ、利用者の見識と言える。図書館としては、利用者を信頼して提供し続けていくということに変わりはない。
 名古屋市図書館でも利用者用のインターネット端末が設置されることになった。再度スタンスを確認する機会が到来したものと捉えている。利用申込の受付をどうするかなど、課題はいくつかある。複写申込書を必要最小限しか保存しないのと同じように、申込書があったとしても必要最小限で廃棄するとか、利用者氏名をだれもが見える状態で置いておかないとかの初歩的なことから確認していかなければならないだろう。必要以上の個人情報は持たないことが、利用者を信頼し、また利用者から信頼されることにつながるものと思う。

(たなか あつし:JLA図書館の自由委員会、名古屋市緑図書館)

もくじに戻る


Vol.102,No.2(2008.02)

メディアの影響力と図書館(高鍬裕樹)

 総務省の研究会がまとめた通信・放送の包括規制案で、規制の根拠の比重を「電波の希少性」から「社会的影響力」に移したと12月7日の朝日新聞が報じている。特定の相手との通信を除き通信・放送の内容に広く規制をかけ、社会的影響力が大きいほど規制も強めることが提言されているとのことである。影響力は、視聴者数の多寡のほか、「映像は音声・データより影響力が強い」などの基準で判断するとされている。
 この規制は通信および放送にたいする規制であるため、直接図書館に関係するとはいえない。しかしながら、政府がメディアを規制できることの根拠が社会的影響力に求められるとすれば、図書館の自由にも大きな打撃を与えるだろう。
 歴史をひもとくと、ルターの「95箇条の提題」やトマス・ペインの「コモン・センス」など、社会に大きな影響を与えた印刷物は決して少なくない。近年においても、韓国では、映画『猟奇的な彼女』の公開以降、「猟奇的」という言葉の意味が変わったという。ベストセラー『国家の品格』を読み、日本の「伝統的な価値観」として「品格」を重んじるようになった人も少なくなかろう。『ハリー・ポッター』シリーズが相次いで出版された2002年には、子どもの読書量が伸び、一年間にまったく本を読まない不読者の子どもも減少したと毎日新聞が報じている。
 これらの図書がどれほどの社会的な影響力を持っているのか測ることは容易ではないが、影響力の強いメディアが政府によって規制されることがあるのであれば、図書館で扱う資料が常にその埒外にあると考えるのはあまりにも楽観的にすぎるであろう。朝日新聞は先の記事において、「この方法では、インターネットテレビの影響力が一定基準を超えたとして、ある日突然、『正確な報道の義務』といった規制を受けるようになる可能性もある」としている。図書館資料がある日突然このような規制の対象になることはないと、誰が断言できるのか。
 メディアはすべて同じ特徴を持つわけではない。メディアの特徴にしたがって、規制が必要な場合もあろう。しかし、政府がメディアにたいして何らかの規制を行おうとする場合、図書館はその動きを注視し、メディア規制の理由が適切であるかどうか問うてゆかねばならない。

(たかくわ ひろき:JLA図書館の自由委員会、大阪教育大学)

もくじに戻る


Vol.102,No.1(2008.01)

遺失物法の改正(伊沢ユキエ)

 約50年ぶりに改正された遺失物法が、2007年12月10日に施行された。落とし物を全国的にデータで検索できる、個人情報の入った物件は拾得者が所有権を主張できないなどが主に宣伝されているが、一方で、図書館に大きく関わることもある。第12条で警察署長は拾得物を遺失者に返還するため必要のあるときは、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができることが明確になった点、第13条での不特定かつ多数のものが利用する公共機関では、特例施設占有者制度(施設の申請により特例施設と認定される)により拾得物を自分の施設で管理できるようになる点である。
 図書館は利用者が多く、拾得物や遺失物も多いので、第12条が気になった。「カードを拾ったので連絡先を教えて欲しい」、「本を拾ったので借りている人の連絡先を教えて欲しい」、という問い合わせに対し、図書館では直接拾得者に答えるのではなく、まず、本人に連絡して取りに行っていただいたりしている。
しかし、今回の遺失物法の改正では警察からの個人情報の問い合わせが可能で、キャッシュカードや携帯電話などの落し物については警察が落とし主の連絡先を銀行などに照会できるようになった。警察庁のホームページには「遺失物法等の解釈運用規準について(通達)」(警察庁丙地発第22号 平成19年8月10日付け 警察庁生活安全局長)が公開されている。落とし主の連絡先を照会するには警察署長の「拾得物件関係事項照会書」を必要とするが、照会先が口頭で応じる場合は不要としている。
 では、拾得された図書カードの住所を問われたら図書館は提供をしなくてはならないのだろうか。警察庁では問合せに対する回答は個人情報保護法第23条第1項第1号の「法令に基づく場合」に相当すると説明している。
 バックに入った本だったらどうだろう。本だけなら所有者が図書館であることが明白なので、誰が借りたかを知らせることまでは照会の対象にならないと思うが、バックの持ち主を探している場合は微妙である。どうしてもということになれば、照会書を求めることが必要になろうが、上記の運用基準では、照会にあたっての留意事項の中で遺失物の早期の返還という改正の趣旨から、警察も複雑な手続きを取らないことにしている。
 いずれのケースも、個人情報保護や図書館の自由の観点からも、当然その取扱いは今までと変わらず、図書館から利用者に連絡するこれまでのやりかたを改める必要はない。

(いざわ ゆきえ:JLA図書館の自由委員会、横浜市中央図書館)

もくじに戻る


第101巻(2007年)

Vol.101,No.12(2007.12)

学校図書館とメディア・リテラシー(鈴木啓子)

 現在、インターネットや携帯電話などの普及に伴い、情報社会の中で子どもたちは生きている。子どもたちが社会の変化に対応できる力を身につけることは、学校教育に求められている課題である。そこで、文部科学省は、「生きる力」を育むこれからの教育に重要な役割を担っているとして、情報教育の推進を図っている。同省は、その中で特に情報教育の目的である情報活用能力を育成することに力を置いている。
 情報・資料を選択し、批判し、活用する能力が身につくような教育、つまりメディア・リテラシー教育が必要であるということが言える。では、情報・資料を選択し、批判し、活用する能力を身につけるには、どのようなことが重要であるのか。まず、多様な情報や資料が揃っていなければ、それらを選択することができないし、批判することもできない。情報を読み解き、活用するには、読解力はもちろん、論理力、創造力、洞察力、判断力なども求められる。このような力は、多様な情報や資料がある中で育つものである。このことから、多様な情報や資料を提供する学校図書館がメディア・リテラシー教育に重要であることがわかる。
 多様な情報や資料を活用することは、教育に広がりができ、子どもたちの自発的な学習や自由な読書を支えることにつながる。昨今、子どもたちの学ぶ意欲の低下が指摘されている。学校図書館の多様な情報や資料を活用する教育は、子どもたちの学習への意欲を喚起し、子どもたちが学ぶ楽しさを感じ、達成感を持ち、子どもたちの自信へとつながる。また、このような教育は、子どもたちが読書の楽しみを味わえ、子どもたちの読書に広がりを与える。
 学校図書館が多様な情報や資料を揃えるのは、知る自由・読む自由を保障するためである。それは、多様な価値観を保障することにつながる。つまり多様な価値観があってこそ、メディア・リテラシーが身につくということである。子どもたちは、多様な価値観があることを知って、自分と異なった意見や考えを認めることができるようになるのではないだろうか。学校図書館は、子どもたちが情報を見抜く目を持ち、活用する力をもった大人となるために教育を支えるところである。

(すずき けいこ:JLA図書館の自由委員会、兵庫県立西宮今津高等学校図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.11(2007.11)

草薙厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』をめぐって (南亮一)

 2007年5月に出版された草薙厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』は、2000年6月に起きた少年による放火殺人事件における非公開の少年審判や供述調書の内容を詳細に引用した書籍である。2007年7月12日、東京法務局は、この書籍につき、「プライバシーを侵害し、少年法の趣旨に反する」として再発防止を求める勧告を著者の草薙氏と発行元の講談社に出した。また、同年10月14日には、供述調書等を漏洩したとして鑑定担当医師が逮捕されるに至った。
 この書籍につき、一部の図書館が閲覧等の制限を行っているという報道(「少年調書の引用本、公立図書館で閲覧中止の動き」読売新聞2007年9月14日ほか)があった。勧告の趣旨を踏まえての判断、取材の違法性などが理由とされている。だが、このような理由だけで閲覧等の制限を行うことは妥当なのだろうか。
 言うまでもなく、「図書館の自由宣言 1979年改訂」の主文2は、「図書館は資料提供の自由を有する」とし、副文において「図書館は、正当な理由がないかぎり、・・・書架から撤去したり、廃棄したりしない」と定める。すなわち、閲覧等の制限を図書館が行えるのは、「正当な理由」がある場合に限定されているのである。それでは、先に述べた勧告が出されたという事実は、「正当な理由」に該当するのであろうか。
 昨年10月27日に図書館の自由委員会が作成した「加害少年推知報道の扱い(提供)について」でも触れられているが、1998年2月13日付の「『文藝春秋』(1998年3月号)の記事について<参考意見>」において、同誌1998年1月号掲載の少年事件に係る検事調書の掲載の件につき、「開示した側の責任に帰せられるべきであり、これを報道・提供する側には法的規制はない」ことがすでに示されている。すなわち、この書籍が検事調書を掲載したという事実をもって、閲覧等の制限を行うための「正当な理由」にはならない、ということである。
 各図書館においても、以上の点を踏まえ、各図書館において自主的に検討を行っていただくようお願いしたい。

(みなみ りょういち:JLA図書館の自由委員会、国立国会図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.10(2007.10)

リライトカードでどのように利用者のプライバシーを守るか(白根一夫)

 利用者から電話やカウンターで「今借りている書名や冊数」を尋ねられることがよくあります。館内OPACやインターネットで利用者自身の貸出状況・予約状況を照会できる館も増えていますが、パスワードの管理などややこしそうだと敬遠して利用しない人もあるようです。レシートプリンターで貸出状況をプリントしたレシートを渡す館もあります。斐川町立図書館では、職員が貸出処理を行う場合は返却日付印を一冊ごとに押しますが、自動貸出機による貸出では現時点での貸出状況レシートがプリントされることになっています。当館で自動貸出機の利用が多いというのは、自分で貸出処理をしたいことのほかにレシートで確認したいことも大きな要因のようです。
 レシートの紙代が節減できることや、電話やカウンターでの問合せから少し解放されることなどいろいろな要因から「繰り返し表示と消去のできるリライトカード」を貸出カードとして導入する館がでてきました。市町村合併によって図書館システムを変更するなどコンピュータ更新時に導入を検討されているようです。
 佐賀市立図書館では昨年秋コンピュータ更新の際にリライトカードに変更しました。カードには、氏名、利用者番号と借りている書名、返却予定日、合計冊数が表示され、次に借りるとリライトされていくものです。佐賀市立図書館の利用者から「貸出券がリライトカードに替わることに危惧している」という意見を聞きました。「借りている書名が印字されているので、落とした場合拾った人に分ってしまう、家族の中でも知られてしまうことが考えられるが、図書館はそのことをどう考えているのでしょうか」という意見でした。佐賀市立図書館の司書にその後の様子を聞いたところ、読書のプライバシーを配慮して「名前を書く書かないは本人に任せる」また書く場合「イニシャルとか絵文字、顔文字でも構わない」としているそうです。
 出雲市立図書館は2市4町合併してオンラインがスタートした機会にリライト貸出券に替わりました。ここでは油性のペンで名前を記入し、借りている書名と返却予定日と合計冊数のほかに利用した日時もリライトされるようになっています。別の自治体では氏名でなく利用者番号のみにしている館や、氏名は書くが借りている書名でなく資料ID(バーコード番号)だけを表示する館など様々な形態があるようです。
 返却した資料名やIDは次に借りるとリライトされて消えますが、返却しただけでは消えずに残ってしまいます。佐賀市立図書館ではカウンターで申し出れば消去しているそうですが、銀行のキャッシュコーナーで記帳できるのと同じように、開架の一角に利用者自身でリライトできる「リーダーライター」の設置が必要ではないでしょうか。
 業者からいろいろ便利そうな機能の説明があっても、表示項目の設定や運用において図書館がいかに主体的に「利用者のプライバシー」を守っていくか、という点が大切だと思います。

(しらね かずお:JLA図書館の自由委員会、斐川町立図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.9(2007.09)

ホームレスと「無料原則」見直しの議論(西河内靖泰)

 このコラムで、何度かホームレスと図書館利用の自由について、取り上げてきた。またかと思われるだろうが、今回もこの話題に触れてみたい。
 8月はじめ、東京・北区で、公園のベンチで酔って寝ていた男性に火をつけ焼き殺そうとした少年たちが逮捕された。この男性はホームレスではなかったが、報道によるとこの少年たちは5月の半ばごろホームレスの襲撃を繰り返しており、「ホームレスはごみ。犬や猫と一緒。いきていようが、死んでしまおうが気にしない」と主犯格の少年は供述しているという。このニュースを聞いて、以前図書館で注意されたことを逆恨みしてホームレスの男性を襲撃して殺害した少年たちの事件を思い出していた。その時のネット上でのホームレスの人権を否定し、さらには少年たちを英雄視する書き込みの多さに驚愕したことを。
 今回もネットを検索してみると、読むに耐えない人権侵害の言葉が羅列された書き込みに腹立たしくなってくる。図書館からホームレスを排除しろというものも相変わらず多い。いつもならそのまま読み飛ばしてしまうのだが、少し気になったのでじっくりみてみると、ホームレスを図書館に来させない方法として、入館料をとれという意見が多いことに気づく。それもヒステリックではなく、比較的冷静な意見として。もちろん、この意見に対し、図書館法の無料原則を示しての反論はあるから、議論はそれ以上広がらないのだが。
 図書館法の無料原則を見直して、利用に際して利用者から何らかの金銭負担をさせようという意見が、自治体財政の厳しさを理由にした図書館予算の削減という現状を背景にでてきているが、この意見に私自身は首肯しないが、図書館の現状をそれなりに憂慮する立場からのものだと思っていた。だが、ネット上での入館料をとれという意見の中に、どうみても、図書館関係者と思われる書き込みがかなりの頻度でみられることで、ここのところの無料原則の見直しの本音は、ここにあったかということに気づかされた。
 このコラムで、図書館とホームレスとのあり方を真剣に現場で論議してほしいと、たびたび提起してきた私の努力は、なんだったのか。ネットの画面を前に、私は考えこんでしまった。

(にしごうち やすひろ:荒川区役所, JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.101,No.8(2007.08)

自由宣言について考える行事を実施しよう(熊野清子)

 図書館が暮らしに身近なものとなり、マスコミへの登場頻度もあがっている。NHKラジオ2007年4月2日夜放送の「おしゃべりクイズ疑問の館−図書館へ行こう」で、4月2日を図書館記念日と紹介して図書館界では話題になった。4月30日を図書館記念日とすることは、1950年4月30日の図書館法施行を記念して1971年11月に図書館大会で決議された。これは戦前の記念日4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日―との決別も意図しているそうだ。それに続く5月は図書館振興の月としてJLAでは毎年ポスターを作製し、各地で行事も開催されている。
 さて、1954年5月28日に「図書館の自由に関する宣言」主文が日本図書館協会総会で採択され、1979年5月30日には1979年改訂と副文が総会決議された。「自由宣言記念日」でも新設したいところだが、記念日ばかりで内実が伴わなければ意味がない。そこで、図書館振興の月を締めくくる5月末には、宣言採択の原点を振りかえり、あらためて自由宣言について考える行事を実施してはどうだろうか。
 たとえば、自由宣言の理解を助けるパネルや問題となった資料の展示、自由宣言採択のころのこと、1979年改訂に至った経過や最近の動向を解説する講演会や学習会の開催など。図書館員自身が宣言について深く知ることは当然だが、私たちがこんな歴史を乗り越えてサービスをしていることを利用者に知ってもらうことも必要ではないだろうか。
 すでに教育基本法が改正され、憲法改正の手続きを定める国民投票法が成立したが、ユネスコ公共図書館宣言や世界人権宣言の精神に支えられた図書館サービスの基本理念は普遍のものである。理念を具体化し知的自由を保障する役割を果たす機関としての図書館を進めていくよりどころとして、「図書館の自由」の概念への理解を深めることがますます重要になると思う。
 時期はずれの提案と思われる向きもあるだろうが、是非来年に向けて行事の実施に取り組んでほしい。企画や講師については遠慮なく自由委員会にご相談ください。

(くまの きよこ:JLA図書館の自由委員会,兵庫県立図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.7(2007.07)

学校図書館では利用者のプライバシーを守れているのか? (松井正英)

 先日、知人が「子どもの小学校の図書館は、コンピュータ貸出と代本板の併用なんだよ」と話してくれた。少し不安に思って自分の子どもに尋ねたら、同じ答えが返ってきた。代本板は本を元に戻すための教育の一環なのだろうが、子どものプライバシーよりも優先することなのだろうか?
 沖縄国際大学の山口真也氏によると、沖縄県の学校図書館員140名にインタビュー調査したところ、返却後に記録が残らない貸出方式を採用している学校は、カード式では1校のみ、コンピュータ式では1校もなかったという。これは沖縄に限ったことでなく、全国的にも似たような状況があると思われる。
 コンピュータの導入が進んで、貸出記録が容易に第三者の目に触れることがなくなり、プライバシー保護の問題は表面上はクリアされているように見える。しかし、学校図書館向け管理ソフトの多くは、むしろ「貸出記録が残り、活用できる」ことを、メリットとして謳っている。そして、これは現場からの要求を反映したものだという。
 学校では、貸出記録を教育に利用することは当然だとする考えが根強くある。もちろん、そう主張する人々も、プライバシー保護は必要ないと言っているわけではない。つまり、教員は「内部」の人間であり、教育への利用は貸出記録の「目的内」であると考えられているのだ。
 けれども、ここで言われている「内部」も「目的」も、学校あるいは教職員の視点からとらえたものである。図書館でプライバシーを守るとはどういうことか、という問題意識が希薄だと言わざるを得ない。子どもが図書館を利用するとき、とりわけ授業とは関係なく個人的に利用するとき、果たして、彼らはどの範囲を図書館の「内部」と意識し、安心して利用するために何を守ってほしいと考えているのだろうか。
 学校図書館が守るべき利用者のプライバシーとは何か。真剣に議論していく必要がある。

(まつい まさひで:JLA図書館の自由委員会,長野県下諏訪向陽高等学校)

もくじに戻る


Vol.101,No.6(2007.06)

自由宣言ももっと身近に暮らしのなかに(井上淳子)

 今年の図書館記念日ポスターはおなじみの「図書館をもっと身近に暮らしのなかに」のフレーズが荒井良二氏の明るい黄色基調としたデザインに書かれている。この図書館記念日のポスターは毎年新しいデザインで作成、全国の関係機関に配布、図書館などで掲示されている。
 一方、「図書館の自由に関する宣言」(以下自由宣言)のポスターは開館時に掲示されて、それからずっと同じものが同じ場所にという図書館もあるだろう。
うちの図書館では、2年前の開館時に貼ろうと場所をさがしていて、それっきりになっていた。この機会に開架室の中央に貼った。
 この自由宣言、あるというだけでなく、どんなものなのか知っているという利用者はどれくらいいるだろう。
 最近、自由宣言をモチーフに使った『図書館戦争』という文芸作品が発表された。それを読んで自分の行く図書館の館内を見回してポスターを見つけ、初めてじっくり読んでみたという利用者もいるときく。
 また、昨年夏、IFLAソウル大会を記念し『図書館の自由に関する宣言1979年改訂−日韓中英』が刊行された。訳文は日本図書館協会の図書館の自由委員会のページ(http://www.jla.or.jp/jiyu/index.html)でも公開している。 見慣れた自由宣言も言葉が変わると新鮮に映る。
 新しいものを追い求める必要はないが、図書館に働く一人一人が自由宣言を大切にしていくと同時に、利用者にその存在を知ってもらい身近に感じてもらうための努力をこれからも続けていかねばならない。

(いのうえ じゅんこ:JLA図書館の自由委員会,枚方市立中央図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.5(2007.05)

件名標目の意義とは(木村祐佳)

 2月1日,厚生労働省健康局から「公共機関,関係団体等における「ハンセン病」の語の取扱いについて」という文書が出された(協会の見解については図書館雑誌3月号p.138を参照)。1月の西日本新聞による「癩(らい)」という件名標目の修正に関する報道や,こういった文書などの流れを受け,民間MARC作成会社ではデータの修正がなされ,各図書館でも「癩」という件名標目を「ハンセン病」に切り替えた館が多いようである。
 今回問題となった「癩」と「ハンセン病」の他にも,「認知症」や「色覚障害」など病名が見直された例は多数ある。病名以外でも動物の名前,植物の名前,様々な名称が時代とともに変わっている。カタカナの外来語を日本語に言い換えたり,最近では魚の和名を改定するという発表もされている。
 それでは新しい名前を知らなかったら,どうやって資料を調べたらいいだろう?逆に古い名前を知らなかったらどうしたらいいだろう? タイトルやキーワードで調べてみても,知っている言葉が含まれているものしか検索されないため,たくさんの資料の中から探しているものを手にすることが出来るとはかぎらない。
 件名標目を付与する意味をもう一度考えてみよう。キーワード検索との違いを考え直してほしい。件名を単純に新しい言葉に置き換えるだけでは,新しい件名を知らなくては資料にたどりつくことができなくなってしまう。今回の「癩」から「ハンセン病」への切り替えも,参照などの検索システム整備がなされないまま行われてしまい,「癩」で検索すると1件も資料がヒットしないという問題が起こっているのではないか。
 知的自由を保障するために,図書館自らが資料へのアクセスの可能性を狭めてはならない。

(きむら ゆか:JLA図書館の自由委員会,国立国会図書館関西館)

もくじに戻る


Vol.101,No.4(2007.04)

学校図書館における図書館の自由実現への努力 (三苫正勝)

 2006年度の図書館大会(岡山)第7分科会におけるパネルディスカッションは、「今こそ図書館の自由を」と題して四人のパネリストに発言いただいた。その一人、岡山市立岡北中学校の学校司書加藤容子さんの発言は多くの人に感銘を与え、パネリストの一人佐々木順二さんは「目からうろこ」とまで賛辞を表した。岡山市は市立の小中高すべての学校図書館に司書を配置して、学校図書館に司書がいることの大きな効果を実証している。加藤さんは図書館運営にあたって館報に「三つのちかい」を掲載し、次のことを約束した。
 1.みなさんが読みたい本を読むことができるように準備します。2.みなさんが調べたいことを、本やその他の資料で徹底的に応援します。3.図書館は、だれがどんな本を借りているか、本人以外には話しません。読書の秘密を守ります。
 1954年、自由宣言が採択されようとした時、当時日図協事務局長であった有山ッさんは、宣言を主張し実践することは生易しいことではないと本誌誌上に書き、「時勢の偏向」につれてそれを守り通すことの困難さを説いて、図書館員に覚悟を求めた。
 学校は、伝統の教育観と信念にあふれた教育者の世界である。たとえば、教育指導上児童生徒の読書傾向を知る必要があるから読書記録は欠かせないとか、「悪い影響」を与える本は読ませてはならないといった主張である。それは自由宣言の理念とは反する面である。世間もそれに同調する場合が多い。しかも学校図書館はほとんど司書一人である。そのなかで加藤さんは宣言を実践しようとしてきた。司書同士で連携し、学校の中で粘り強く教員に問題提起し、職員会議で話し合い、納得づくで教員の理解を得る努力を重ねてきた。そして着実に理解されてきている。それは学校図書館司書に共通の努力である。そこには黎明期のひたむきな真摯さが感じられる。
 ひるがえって公共図書館ではどうかと考えると、司書としては多少うしろめたい思いに駆られてしまう。組織の中に安住していないであろうか。自分で考え、宣言の理念を実践することに努力しているであろうか。有山さんの「時勢の偏向」に流されていないであろうか。宣言を採択し、改訂した時の熱気、初心を今一度思い返してみたい。

(みとま まさかつ:JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.101,No.3(2007.03)

「障害者の権利条約」と図書館サービス(佐藤眞一)

 「障害者の権利条約」決議案が昨年12月13日、第56回国連総会において全会一致で採択された。障害者は保護されるのみの弱い存在ではなく、健常者と同程度まで、すべての権利を平等に享受できることを確認した画期的な内容である(毎日新聞 2007年2月3日付朝刊などで報道)。
 日本では長い間、障害児を盲ろう養護学校や障害児学級に集め、分離して教育してきた。しかし、条約では障害の有無で学ぶ場を分けないインクルーシブ教育を原則とするよう求めている。日本の障害児教育が、特別支援教育へと大きく舵を切ったのも、条約締結を見据えてのことである。また、多くの会社の就業規則には、労働者が心身の故障により職務に耐えられなくなった場合に解雇できる規定があるが、条約では必要な配慮を行い、働き続けられるようにすることを求めている。そして、無知や偏見による無意識のものでも、合理的配慮がないことも全て差別であると明記されたことは大変重要である。
 さて、それでは図書館サービスは変化しなくていいのだろうか。例えば、県立図書館や政令指定都市の図書館ならば、開館時間の全てに亘って、手話のできる職員を配置することや、予約なしに朗読サービスができるよう準備することが求められるのではないか。小規模な講習会であっても、障害者が参加できるよう、常に手話通訳の配置などを求められるようになるのではないか。
 日本政府は、条約採択後に発言し、署名、批准のために最善の努力を行うとしている。子どもの権利条約のように、国内法制をほとんど整備せずに批准させないよう、図書館からも発言していくべきであろう。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由委員会、東京都立多摩図書館)

もくじに戻る


Vol.101,No.2(2007.02)

犯罪少年の推知記事と「自主的判断」  (福永正三)

 つい最近の話だが、犯罪を犯したとされる少年の実名と顔写真を掲載した新聞や雑誌の図書館での提供のあり方が問題になった。
 今回も各図書館を大いに悩ませたようだが、どういう考え方で対応べきかは詳しくは本誌の昨年12月号に掲載されたJLA図書館の自由委員会の意見(以下、単に「意見」という)を読んでいただくとして、ここでは個人の立場で「意見」を敷衍してみようと思う。
 上の「意見」では、「犯罪少年の推知報道については提供することを原則とする」とし、原則としたのは各図書館の自主的判断を尊重するからだと説明されている。原則というからには例外が存在することになる。
 ところで「意見」によれば、例外的に提供制限が許されるためには名誉・プライバシー侵害記事と同様に頒布禁止の司法判断が存在することが必要だとされている。しかし今日の判例の趨勢から云って、推知記事に頒布禁止の司法判断が下されるとはちょっと考えにくい。新聞記事についてはなおさらである。そうだとすれば、「意見」の立場では例外に該当するケースはほとんど考えられないことになる。かように割り切ることができれば事は簡単なのだが、きっと異論が出てくることが予想される。いったいどんな異論、つまりどんな例外がありうるのだろうか。
 少年法61条の精神からすれば犯罪少年の推知報道が決して好ましいことでないことは云うまでもない。しかし報道に対する国民の知る権利に奉仕すべき図書館の責務を考えて強いて例外をあげれば、一つは図書館側の事情、例えば少年の居住地にある図書館で例外を認めなければ少年に及ぼす影響がきわめて大きいと思われる場合、二つには記事の内容、例えば報道の域をはるかに越えて興味本位の読み物になっている場合ぐらいだろうか。もっと広く例外を認めなければ自主的判断を尊重するとした意味がないとする異論が聞こえてきそうだが、私はこの程度のケースですら司法判断の有無を抜きにして例外を認めることには反対である。
 さて、皆さんはどうお考えになりますか。

(ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会)

もくじに戻る


Vol.101,No.1(2007.01)

図書館の個人情報保護は変わったか/変われるか(藤倉恵一)

 この春で、個人情報保護法全面施行からまる2年を迎える。思えばあの頃は「利用者情報の管理をどうしよう」「名簿の提供ができなくなるんじゃないか」などと、図書館界はずいぶんうろたえていたものだ。さすがに社会全体は当時に比べ落ち着いたような気もするが、図書館での混乱は果たして収束したのだろうか。
 確かに、一時期に比べて「個人情報を集積した資料」の提供制限が騒がれることはなくなった。しかしそれは、単に「この話題は終わった」だけなのではないか。いまでも名簿やアルバムの提供制限を続けている館は多いのではないか。あるいは、提供しつつも漠然とした不安を抱いている館も少なくないのではないか……。
 昨年9月、国民生活審議会個人情報保護部会が検討する「個人情報保護に関する主な検討課題」に関して内閣府が意見を募集した。それに対し、自由委員会は著作権委員会と合同で意見案を作成し、10月に日本図書館協会の名で提出した(本文は協会ホームページで閲覧できる)。その意見の中で強く意識したのは、図書館が提供を目的として収集・保有する資料に掲載された個人情報については法令の適用除外とすることを、館種を問わず明確にして欲しいということであった。つまり、現在でも条文から読み取ることが難しいだけの問題なのであり、自由宣言の「資料提供の自由」に基づいて公開・提供することにこそ図書館の責務がある。
 内閣府に寄せられた意見は集約され、現在検討が開始されているようである。われわれの意見がどう法令に反映されるかはまだわからないが、それを待つことなく、館内にあるかもしれない「過保護」を見直してみてはいかがだろうか。

(ふじくら けいいち:JLA図書館の自由委員会,文教大学越谷図書館)

もくじに戻る