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窓 「こらむ図書館の自由」90-94巻(1996-2000)

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第94巻(2000年)


Vol.94,No.12 (2000.12)

図書館の自由について利用者にPRしよう (白根一夫)

 今年の4月から島根県斐川町で図書館をはじめる仕事をしています。公民館図書室の管理運営もあわせて担当していますが,貸出・返却が利用者を特定する大変複雑な方法で,その結果督促が効率よくできず,未返却や不明本が多くなっていました。
 急遽臨時職員を入れ「書名と図書番号」をカードとポケットに記入,MARC会社装備の本は基本カードを活用し,2週間でブラウン方式に変更しました。予約等を確認するには“正統”ブラウンが良いことは分かっていますが,図書館オープンまでの2年半の経過措置ですので貸出カードもそのまま使うことにし一括ブラウンにしました。
 利用者が特定される貸出方法から,返却されたら貸出記録が消える方法に変更したことにより,「図書館は利用者の秘密を守る」ことにつながります,と機会あるごとに説明しています。
 また,読書週間に一つの中学校で「図書館をはじめる」ことについて話をする機会を与えていただきました。中学生が興味を持ってくれるように,「耳をすませば」について原作(浸画)と映画(アニメ)の違いや利用者名を記入するニューアーク式では読書の秘密は守れないが,みなさんどう思いますかとなげかけてみました。
 2人の男子中学生が興味を持ち,文化祭発表のため私にインタビューを行ってくれました。私は「町民の多くが利用する開かれた図書館をはじめたい」と説明しました。ほかにも総合学習の取り組みの一環で数名の小(5年生)・中学生が体験学習で図書室に来てくれました。
 図書館は利用者の秘密を守らなければならないことを説明する貴重な機会を得ることができ,またこれからの準備室職員と児童生徒とのふれあいのきっかけになりました。
 ほかにも「図書館の自由に関する宣言」のポスターを小・中学校図書室で掲示いただくように校長会議で説明と配布を行いました。みなさんのところでも行ってみてはいかがでしょうか。

(しらね かずお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,斐川町図書館準備室)

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Vol.94,No.11 (2000.11)

だって,だって,お客様のプライバシーは… (石谷エリ子)

 休日のTVのCM(特に若い人たちがよく見そうな番組の)は,いわゆる消費者金融ものの連打。これじゃ無意識に刷りこまれそうだ。みんな気をつけてよー。さてそのCMの中でもどんな方法でお金を「キャッシング」するか−窓口を選ぶか,機械を選ぶか−は「お客様の自由です!」とPRしている。考えてみれば電算化の進展にともない,銀行など金融機関でも窓口業務(預入・引出・払込・送金など)を自動化することがあたりまえとなった(確かに便利だ)。そのメリットとは?「お客様」にとっては,延々と列を作って待つことが多少時間短縮され,また「窓口」が閉まって無人状態でもお金が下ろせる。会社にとっては窓口業務の多大な省力化を生んだ(実際手数料の違いを見よ!)。「お客様」の財産の取り扱いを機械に委ねるにあたり,横からあるいは背後から画面や手元が覗かれるのを防ぐために衝立やロープ,順番を待つ人の立っ位置の指示など,金融機関がそれなりの配慮をしていることは,読者の皆様も実感されているはず。
 翻って図書館の中枢機関ともいうべきお客様の読書のプライバシーをあずかる貸出業務を自動化する動きが出ている。本誌上でも何度か論議が交わされてはいるが,現実の自動貸出機の導入の現場でお客様のプライバシーを守るためにどれほどの配慮がなされているのだろうか?衝立は?横から丸見えでは?「自動貸出機だからプライバシーが守られます」なんていうことを一番のうたい文句にしている図書館も見受けられる。カウンターの混雑緩和・人手不足の解消・人件費の削減など本当の導入の理由をお客様にきちんと説明しているのだろうか?
 別に自動貸出機を全面否定しているわけではないが,導入にあたってはよくよく考える必要があるのではないか?というのが筆者の素朴な疑問。

(いしたに えりこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会,和光大学附属梅根記念図書館)

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Vol.94,No.10 (2000.10)

有山さんの「火中の栗」 (三苫正勝)

 「図書館の自由」をめぐる状況は年とともに切実さを加えている。しかしそれを確保する図書館員と図書館の有り様はどうであろうか。
 思い立って自由宣言成立前後の記録を読みかえしてみた。
 1952年,占領法規に代わる治安立法である破壊活動防止法案が国会に提出されたが,表現の自由を制限する恐れありとして,国民の広範な反対運動が起きた。図書館界でも反対の意思を表明しようという動きがあったが,日図協事務局長であった有山積さんは,図書館が客観的に資料を提供することをその本質とするなら,直接政治や思想について意見表明することは図書館の中立性の自己侵犯で自殺行為であると戒めた。
 その前後,1950年における朝鮮戦争の勃発や日本共産党幹部の追放などに表面化したような緊迫した国際情勢の中で,ある図書館では,進歩的文化人といわれた中島健蔵の座談会の担当者の机の中を警官が勝手に入りこんで調べたとか,書店で左翼的な雑誌の購読者を調査していったなどという状況の中にあって,1952年「図書館憲章」(後に「図書館の自由に関する宣言」)の制定が提起されたのである。
 翌年10月,図書館憲章拡大委員会から憲章案が発表され,その制定が日程にあがってきた時,有山事務局長はその採択に伴う厳しい現実の認識と図書館員の覚悟の程を促している。少し長くなるが引用しよう。
 「雨にも風にもいかなる時でも,資料の収集と提供の自由を主張することは,大見識であって,よほどの図書館に対する自覚と忠誠心がない限り,そして職域としての組織と力がない限り,到底実行不可能であろう。もし疑う人があるなら,君が君の館において資料の収集と提供の自由を忠実に実践し続けて見給え,そうすれば時代が偏向するにつれてそのことがいかに大変なことであるか体験するであろう」(「火中の栗をいかにすべきか」本誌48巻5号)。そして図書館を押し流そうとする勢力は,マスコミの力で民衆を味方にして「無理の勢い」となると,図書館の抵抗は一種の秩序破壊行為と見なされ,図書館人の首の座も風前の灯であると警告した有山さんの言葉は,今まさに現実に進行している。
 ある種の出版物等に対する社会的指弾は強まり,それに対する図書館の対応には疑問が多い。外部的には青少年保護条例の強化,さらに国による法的規制への拡大等,内部的には外からの批判逃れの資料提供制限規定,図書館員の道徳観による自己規制等。そして「図書館の自由」を貫こうとした図書館員が図書館を追われるという事態も起こっている。
 いま自由宣言を否定する人はほとんどいないが,紛糾しながら自由宣言を採択した当時に比べて,図書館員の見識において果たして前進しているのであろうか。

(みとま まさかつ:JLA図書館の自由に関する調査委員会全国委員長,夙川学院短期大学)

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Vol.94,No,9 (2000.9)

図書館の自由の境界 (和田匡弘)

 昨年11月,白昼主婦殺人事件があった。犯人は逃走しており,現在も逮捕されたという報に接していない状況である。
 事件当日の午後,ブルーの捜査服を着たままの警察官が2名,地域の図書館に来館した。被害者の当日午前の行動を調べている過程で「今日は図書館へ本を返しに行く」と近所の主婦に話していることが判明したからである。緊急の場合で捜査関係事項照会書すら持参していない。被害者の本日午前中の来館事実および貸出記録の有無を知りたいとのことである。
 調べてみたところ,貸出記録には貸出中の記録はあったが当日の貸出はなかった。そこで,来館事実は不明,返却は返却された時点で記録は消されるので不明であること,本日の貸出事実はないと回答した。
 翌日,中央館へ捜査関係事項照会書を持参して別の捜査員が訪れ,被害者の貸出事実の確認とバックアップデータがあるはずだから,そこから被害者の返却記録を探してほしいとの要請である。
 結果は,バックアップデータとして返却記録は存在しないシステムなので,その旨回答したが,問題はバックアップデータにまで踏み込んだ捜査がなされた点にある。今後は犯罪捜査に関連してしっかりしたシステム管理が求められる時代になりつつあるようである。
 図書館の自由の目的は,利用者の図書館利用に関する利益の保護にあると言える。この事例の場合,捜査令状どころか捜査関係事項照会書すらないのに,貸出事実がないことを回答しているが,図書館の自由は侵されたと考えるべきなのだろうか。確かに一般論では,利用事実や貸出事実は有るとも無いとも回答すべきではないことは自明である。しかし,プライバシーを守るべき利用者は殺害され,事件は現在進行形である。即座の判断として,利用者(被害者)有利の判断を私は肯定しますが,みなさんはどう対応しますか。これは,図書館の自由を考える上での解答のないグレイゾーンではないだろうか。

(わだ まさひろ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,名古屋市緑図書館)

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Vol.94,No.8 (2000.8)

大学図書館での収書方針をめぐって (前川敦子)

 本学でも新入生対象の図書館ツアーが一段落しました。終了後アンケートをとると,さまざまな感想の中に「専門書だけでなく,読みやすい文芸書をおいてほしい」「気軽に読める本が少ない」といった意見がでてきます。学生が気軽に楽しめるようなフィクション・エッセイもある程度購入しているのですが,新入生のもっ「図書館」のイメージに比べると読みたい本が少ないように見えるのでしょう。購入希望図書制度(いわゆるリクエスト制度)を紹介したばかりなので,さっそく記入してくる学生もいます。
 購入希望はどういう資料が不足しているのかを示すデータですから,可能な限りすぐに応える方針にしています。ただ,こうしたポピュラーな小説やエッセイ類の選択に関しては意見が分かれることがあります。「積極的に収集する」「公共図書館の利用も勧めてみる」「予算の粋があるのだから学習・研究に関する資料を優先するべき」等々。「なぜこの本いれたの?」という意見がでることもあります。そんなときは館の「資料収集計画」の「学習・研究に必要な資料・情報に加えて,その周辺のより幅広い教養書・読書資料も収集対象とする」ことを踏まえて,相談や説明をしています。
 収書方針の根本にはその館の目標やサービス範囲が,さらに前提には「利用者のニーズに最もよく応えるには何が必要か」という判断があると思います。大学図書館でも目標やサービス範囲はさまざまです。自館の目標・サービス方針,予算の制約から判断して「小説類は収香しない」とする館があってもそれは一つの見識だと思いますが,収書方針や
選書基準を明示し,なぜかを利用者に説明する必要はあると思います。少なくとも最初から「大学図書館に小説をリクエストするのは筋違い」というような説明では不十分だし,「大学図書館にふさわしい図書」のイメージにとらわれた一種の自主規制だと思いますがどうでしょうか。
 インターネットの急速な普及や「学生の読書離れ」など,学生の読書を巡る環境は変化しています。収書方針や選書基準は資料提供を保証し利用者サービスをより向上させるためのものですから,メディアの変化や利用者のニーズに応じて検討し変化させていかなくてはならないとも思います。

(まえかわ あつこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会,大阪教育大学附属図書館)

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Vol.94,No.7 (2000.7)

再認識した「資料提供」の重要性 −第三国人発言関連記事を読んで (佐藤眞一)

 石原東京都知事の第三国人発言に絡んで,「10年前には広報紙回収都庁」とする新聞記事があった(朝日4月12日夕刊)。大阪版では「傷つく人いるのに 関西でも不信感増す 石原知事三国人発言」という記事中に,識者の談話等とともに「10年前の都広報『第三国人』おわび」という同様の記述がある。両版の記事の分量や扱いには違いがあり,都知事の発言にもかかわらず,大阪版の方がいわゆる「差別語」に強く反応しているようだ。地域差というものだろうか。
 ところで,この記事は『週刊とちょう』1024号(1990年1月25日)の回収に言及したものだが,両版とも回収の原因となった投稿の内容そのものには一言も触れていない。大阪版には縮刷版刊行時にこの号が削除されたことや,次号に掲載されたおわびも引用されているだけに違和感を感じる。回収の事実関係を正確に報道するためには,実際の記事に当たるのは鉄則だと思うのだが,その形跡は感じられない。おそらく縮刷版しか手に入らず,入手できた情報のみで記事を書いた(書かざるを得なかった?)ということだろう。また批判された立場の都でも,10年前の記事ともなれば,自ら回収した広報紙を入手すべく探したであろうことは想像に難くない。
 問題とされた投稿は,過去に掲載された投稿に対する反論への返答で,「池袋西口のスナックバー経営の第三国人ママはしたたかで抜け目がない」旨の記述中に1か所だけ使われた「第三国人」という言葉が「差別語」として問題になったのだが,不法滞在外国人への治安出動に踏み込んだ都知事発言とは,かなり問題の様相を異にする。もし記者が投稿記事を読んでいたとしたら,もう少し違った記事になったのではないか。
 「図書館の自由に関する宣言」の副文では,図書館での提供制限がありうる場合として「人権またはプライバシーを侵害する可能性のある資料」を掲げているが,これは個人に対する不法行為または具体的なプライバシー侵害を想定したもので,「差別語」が含まれるのみで提供制限することを認めていない。今回は資料が新聞であり,公共図書館では保存スペースの関係から縮刷版受入後に原紙を破棄することが一般的に行われているため,資料提供という図書館の重要な機能を記者が享受できなかった残念な事例かとも思うが,資料の保存と提供の重要性を再認識させられた記事であった。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立多摩図書館)

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Vol.94,No.6 (2000.6)

「図書館の自由」についての一考察 (棚橋満雄)

 私は本誌4月号に「地方分権一括法と図書館条例」と超する一文を書いた。この文を書くにあたって頭を悩ませたのは,現在進められている地方分権をどう見るかということであった。私がこれをどう見たかということは私の文を読んでいただいて判断していただくしかないのだが,十分この問題を把握していないのはお読みいただければすぐ分かることである。
 こういう問題を考える場合には政府の提案に批判的な文献に目を通さなければならない。そういう文献を探したが,私の住んでいる街の市立,県立図書館では共産党の発行する『前衛』がこれに関する論文を一つ載せているだけであった。自治体間題研究所の『住民と自治』を見ればこの問題についての論文があるだろうとは予想できたが,残念なことに香川県内の図書館にはないようであった。徳島県立図書館に行けば『住民と自治』があることは知っていたが,徳島まで行く時間がとれなかった。
「図書館の自由に関する宣言」は「多様な,対立する意見のある問題については,それぞれの観点に立っ資料を幅広く収集する」と述べている。それは本だけではなく,雑誌,新聞についても言えることであり,ある意味でその方が大事だと言わなければならないだろう。新聞については『赤旗』を含めて政党の新聞を揃えている図書館がだいぶ増えてきたように思うが,そうでない図書館もまだ多い。公共図書館であれば政党紙を置くのは当然であり,政党紙も置いていないような図書館は知的自由に対する見解が問われるのではないだろうか。
 雑誌についても同様であり,各分野の雑誌についてそれぞれの立場に立った雑誌を置かなければならない。つい最近,部落問題研究所の刊行物を書庫に入れたという図書館の話を聞いたことがあるが,情けない話である。部落問題ならば『部落』と『部落解放』を揃えるのは当然であるが,それぞれの分野について知的自由を保障するということは『住民と自治』の例を見ても分かるように容易なことではない。図書館の自由はこの面からも考えなければならないと思っているところである。

(たなはし みつお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,高松市在住)

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Vol.94,No.5 (2000.5)

性表現とのつきあい方 −他者不快回避と青少年保護 (山家篤夫)

 わいせつ表現が性犯罪を引き起こすとはいえないという調査研究報告をまとめた英国の「わいせつ性及び映画検閲制に関する政府委員会」(1979年)は,併せて重要な勧告をした。性的文字文書(例えば『チャタレイ夫人の恋人』)を完全に自由化すること。映像表現の法的規制は,他者不快回避と青少年保護のため,陳列や頒布を場所的に制限することに限定すること…この2つである。この勧告は「わいせつ」の定義に悩む裁判所を救い,欧米社会の性表現とのつきあい方を,法による「禁止」からゾーニングとか棲み分けとかいう場所的制限に導いた。
 このところ,図書館でこれ見よがしにヌード写真を見る人がいていたたまれない,行きたくなくなる,子どもへの影響が懸念されるというような手紙が首長や教育長に寄せられ,議会でも撤去が求められ,「嫌ポルノ権」の確立が主張されている。閉ざされた公共の空間で相手の意に反して性的表現を見せるという行為は,セクシュアル・ハラスメントの環境型という範疇に属する。このような場合,従来のわいせつ裁判で中心的論点だった表現の「わいせつ性」の問題は後景に下がる。ハードコアポルノどころか,ヘア無しでもいたずら書きでさえも要件を満たす。資料の内容よりも,「見せつける」行為が告発の対象である。
 だから,収集停止は的確な対応ではない。あるべき対応はこのような行為の停止であり,環境型セクハラには,損害賠償請求の対象になる地位利用型・代償型セクハラより多分に個人モラルを喚起するレベルでの対処がなじむ。図書館員は「ほかの方が不快です」と言うべきだ。そして中学生たちがわいわいやっているなら,「静かに」と言うべきだ。さらにこう言っては顰蹙をかうだろうか。「そういうものは一人でそっと読め」。
 大宅壮一文庫雑誌記事索引をレファレンスの心強い助っ人とする私は,週刊現代やポストがこの索引から除外されたり,蔵書から排除されては,とても困るのである。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会委員長,東京都立日比谷図書館)

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Vol.94,No.4 (2000.4)

「図書館の自由」とは「図書館における知的自由」のことである (馬場俊明)

 本欄1月号の記事に対し,多くの読者から委員会に意見が寄せられた。誤解と不信を招いたので,自戒をこめて,あらためて「図書館の自由」について確認しておきたい。
 この用語は,「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)の草案が作成されたとき,戦前の図書館が思想善導の機関として役割を果たした苦い体験を踏まえて構想されている。したがって,「図書館の自由」の領域は,貸出記録や非難された資料などについての「権力からの自由」論議が中心であると考えられてきた。
 しかし,現在,「図書館の自由」は,社会状況の変化,図書館サービスの多様化,実践活動によって,その領域を拡大あるいは追加,修正し,あらゆる見解を提供する「情報や思想の広場」としての図書館の基本的目的を規定する包括的概念に変化している。
 つまり,「図書館の自由」とは,憲法第21条の「表現の自由」,同2項の「検閲はこれをしてはならない」を最大限に尊重し,それを保障することにかかわるすべての図書館業務を基礎づける「知的自由」のことである。
 近年,資料提供における閲覧規制の事例が増えているが,個別の事例の対応ばかりにとらわれすぎていると,もっとも本質的な「表現の自由」という基本的な権利の擁護を見失いかねない。肝に銘じることは,「図書館の自由」が民主主義の象徴としての「知的自由」であることを認識することである。
 これまで,館界は,歴史的に唱導性と中立性との間に揺れ動いていて,「図書館の自由」に関しても,必ずしもその対応に合意が形成されているとはいえないが,だからといって,図書館が真理の決定機関になったり,ましてや,図書館員が裁判官になってしまうのは,きわめて危険なことと言わざるをえない。
 それゆえ,基本的人権のひとつである「表現の自由」に立脚した「宣言」を,館界の意思統一と実践にもとづいて,一目も早く慣習法として成立させることが重要であろう。

(ばんば としあき:JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会委員長,甲南大学)

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Vol.94,No.3 (2000.3)

自主規制 (内尾泰子)

 「本,買ってほしいんだけど。」
 そう言いながら生徒が図書館に入ってきました。「はい,リクエスト用紙に書いてね」と言って用紙を渡すと,携帯電話にメモしてきたものを見ながら書き始めました。そこには『詐欺師入門』の書名が…。
 「詐欺師」という言葉が私の頭の中でひっかかりました。思わず「詐欺師‥・」とつぶやくと,生徒は「だいじょうぶ,だいじょうぶ。悪用しないから」と笑っています。記憶の糸をたどっていくと,この本は新聞広告で気になって,本屋で見たことを思い出しました。アメリカの20世紀前半の詐欺師を何人か取り上げ,その手口を書いた本で,映画『スティング』はこの本に触発されて制作されたとあとがきに書いてありました。
 「じゃあ,発注しておくから。入ったら連絡するね」と生徒にこたえました。
 昨年の4月に大規模な普通科高校から小規模の職業科高校へと異動しました。学校内における図書館運営の体制がかなり違うので,毎日が試行錯誤の連続です。特に選書には気をつかいます。学校図書館は予算がかなり厳しいこともあり,生徒のリクエストにすべて応えることは難しいのですが,私としては生徒が希望した資料はできるだけ選書するように心がけているつもりでした。でも,異動して今まで4人で行っていた選書を学校司書1人で行う状況になり,知らず知らずのうちに,私自身も自主規制してしまったのです。
 職場の異動と同時に,日本図書館協会の自由委員会に参加していますが,その中でも,各地で有害図書に指定される資料や閲覧制限される資料が増えており,図書館内でも自主規制をしてしまうところがあるという話が取り上げられています。『詐欺師入門』のリクエストは,自分の中の「図書館の自由」を考えさせられる出来事でした。

(うちお やすこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会,東京都立赤坂高等学校図書館)

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Vol.94,No.2 (2000.2)

学校図書館へのコンピュータ導入とプライバシー保護 (土居陽子)

 近年,学校図書館にコンピュータが導入される機会が増えてきた。私の住む自治体も1998年に「学校図書館情報化・活性化推進モデル地域」の指定をうけて,市内の全小・中学校にそれぞれ複数台のパソコンが配備された。自館の蔵書の検索も,貸し出し返却の作業も,インターネットも可能ということで,今後の利用がおおいに楽しみである。
 ただ,コンピュータを入れる際にプライバシーの保護についての配慮がなされていないのは問題である。返却後も記録が残るし,特にガードもされていない。納入業者と話す機会がありその件をただしたところ,「1館1館と契約する場合には現場としっかり話し合いをして,プライバシーを守るシステムを希望されればそのように設定しますが,今回はとにかく納期に間に合わせることが先決で,教育委員会とそうした話し合いができていないのです」とのことであった。現場では,いままで使っていた代本板をやめる学校も出てくるなど,プライバシーへの関心が広まりつつあると聞いているが,そうした現場の意識や要望が教育委員会に届いていないのではないだろうか。
 一般的に,学校図書館(特に小・中学校)でプライバシーを守るのはなかなかむずかしい。その理由としては,読書の記録を教員が知ることがプライバシーに関わるとは考えられない風潮があること,「図書館の自由」を意識する職員(学校司書)の不在,よしんばそういう職員がいても身分的な不平等でその意見が取り入れられない場合もあること,司書教諭の養成段階で「図書館の自由」を学ぶ可能性が低いこと,ボランティアの導入でプライバシーの保護が徹底しにくいことなどがあげられる。しかし,自治体単位でコンピュータを導入する場合にはそれらをクリアーしたとしても,教育委員会の図書館担当者に図書館の理念やあり方についての基本的な認識が欠かせない。平素から,学校図書館だけでなく公立図書館の側からも,機会あるごとに行政当局にそのことを伝える努力と,現場の声が届くしくみが必要だと思う。

(どい ようこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会,西宮市立西宮東高校)

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Vol.94,No.1 (2000.1

公共図書館での一光景 (林 美里)

 先日,私が時々利用する公共図書館で雑誌のページをめくっていると,小学3,4年生ぐらいであろうか,男の子が4人,頭を押し付けあって何かを覗き込んでいた。こそこそ楽しそうな声が聞こえるので何を見ているのか気になっていたのだが,しばらくしてそれが女性のヌードらしい写真を掲載した成人男性向け雑誌であることがわかった。
 「図書館の自由に関する宣言」に謳われているように,図書館は基本的人権のひとつとして,知る自由を持つ国民に資料と施設を提供することをもっとも重要な任務としている。当然,国民のひとりである子どもにも資料を提供しなければならないので,小学生の子どもであっても成人向け雑誌を閲覧することはできる。
 しかし,子どもが読む読み物として不適切,あるいは悪影響を及ぼすと考えられる資料に関してはある程度制限を設けてもよいように思われるし,実際それを実践している図書館もある。たとえば,大手出版社が発行している成人男性向け雑誌によく見られる袋とじに関しては,図書館においてさまざまに対処されている。袋とじそのものを破棄するところもあれば,破らずにそのまま配架する,あるいは袋とじだけ別に保管しカウンターで貸し出す,という図書館もある。
 だが,雑誌の内容に関してはあまり注意が払われていないように感じられる。特に継続的に受け入れられている雑誌に関しては閲覧規制を設けるのは難しく,規制がほとんど設けられていないのが現状のようである。
 公共図書館において受け入れられているタイトル数の規模にもよるが,受け入れの段階で1冊1冊雑誌の写真や記事をチェックするのは困難であろう。しかし,子どもたちが成人男性向け雑誌に掲載された女性のヌード写真に群がる桟で図書館員がもくもくと書架を整理する光景を見て,継続的に受け入れている雑誌の中身に関しても少し注意を払ってほしい,あるいは今後の検討課題に加えてほしいと私は思った。

(はやし みさと:JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会,横浜創英短期大学講師)

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第93巻(1999年)


Vol.93,No.12 (1999.12)

再び『自動貸出機』を考える (竹島昭雄)

 本誌11月号の小特集「利用者のプライバシー保護を検証する」の中で,「自動貸出機の導入をめぐって」と題して八ヶ岳大泉図書館の自動貸出機が再び取り上げられている。そこでは,「自動貸出機が図書館の自由の面から有効かどうかということではなく,利用者の心理的な抵抗感をどう認識し,それをなくしてあげるにはどんな方法があるかというような角度からの論議が必要だと思う」と結論づけられている。
 私も自動貸出機がプライバシー保護に役立つとは思えないし,それ以上にその意味を取り違えているように思えてならないだけに,「図書館の自由」からその有効性を考えるべきではないと思う。同時に,「心理的な抵抗感をなくすることに有効かどうか」という視点からの議論は不毛のように思えてならない。
 そもそもプライバシー保護は,図書館サービスを進める中で必然的に職員が知り得る利用者の「読書の秘密」を護ることから生まれたものである。特に,貸出しサービスはその手続きとともに,利用者の読書傾向や利用事実を日常的に職員が知ることを含んでいる。しかも,私たちの仕事はこの「読書の秘密」をどれだけ利用者から引き出せるかで,その質が決まるといっても過言ではない。
 自動貸出機は,「利用者の心理的な抵抗感をなくする」という名のもとに,私たちが最も大切にすべき「読書の秘密」を知るという機会を根元から断ち切るものであるし,必然的にプライバシー保護の意義も薄れさせることになろう。なぜなら,利用者の心を聞かせるはど知り得る「読書の秘密」だからこそ,プライバシー保護は,自ら律するべきこととして,私たちにしっかり根づかせるものだからである。
 導入の是非は,こうした図書館のあり方そのものを問うことから論議すべきであり,利用者の心理的抵抗感をなくするかどうかということに矮小化してはならないと思うのである。

(たけしま あきお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,栗東町立図書館)

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Vol.93,No.11 (1999.11)

図書館と“表現の自由” (山本順一)

 都内のある図書館におけるささやかな事件である。開架書架上の内科学の図書のなかに“アトピーでお悩みの方に温泉水をさしあげます”というチラシが挟み込まれていた。その事件が起きた自治体は,すぐさま管内のすべての図書館に対して,中央図書館長名義の通達を出した。 「至急資料の点検を行い,チラシが挟み込まれているようでしたら,すみやかに取り除くようお願いいたします」と。
 図書館がその温泉水の販売に加担しているかのような印象を利用者にもたれることを恐れたのである。チラシ発行の主体が“温泉××協会”と名乗り,公益法人であるかのような外観をもつことも考慮したかもしれない。
 もし,その“温泉××協会”が定価のついた小冊子を図書館に寄贈したら,図書館はどうするのだろう。内容を吟味し,“選書基準”をあてはめて,資料コレクションに加えるかもしれない。図書館は,憲法21条の裏側にある市民の知る権利を保障するとともに,その表の表現の自由にも無頓着ではいられない。最近,資力のない市民や組織はインターネット上で声をあげている。従来,メディアを動かせない無産市民たちは,駅頭でマイクにがなるか,街頭デモをするか,電柱に無断で貼り紙をするしか手がなかった。パブリック・フォーラムという法理がそれらの行為を適法なものとする。公共図書館は,社会的弱者のためのスプリングボードでもある。知る権利とともに表現の自由についても,考えておく必要がある。
 都内のささやかな事件が,私にこのようなことを考えさせた。

(やまもとじゅんいち:JLA図書館の自由に関する調査委員会・図書館情報大学)

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Vol.93,No.10 (1999.10)

“格子”なき図書館 (塩見 昇)

 今からちょうど半世紀前,占領下で日本の戦後教育改革が進行するなか,その一環として図書館制度の改善を期待する総司令部民間情報教育局(CIE)の手でつくられ,各地で巡回映写された1本のフイルムがあった。『格子なき図書館(Libraries without Bars.)』である。書庫の中に排された蔵書を手にするため,ひたすら目録をくり,出納台で待っしかなかった閉架式の図書館を「格子」の向こうにある図書館として描き,それに開架(とは言っても“安全開架”)で,多様な文化活動に取り組む図書館を対置することで,開かれた図書館像をアピールしようとした啓蒙映画である。1950年に制定された図書館法第3条「図書館奉仕」の内容を絵解きしたものといってもよい。
 いま,いろんな分野で「バリアフリー」という言葉が目につく。住まいや公共施設における障害者にやさしい設計をはじめ,いろんなハンディをもつ人たちにとって,あらゆる種類の「障壁」をなくす配慮の徹底を意味している。図書館の分野におけるバリアフリー宣言の最初が『格子なき図書館』であったし,この半世紀の図書館運動は,図書館における「格子」をなくすことへの絶えざる挑戦であったと言えよう。
 図書館法の策定にかかわった西崎恵は,解説書『図書館法』において,第3条に列挙する多様な活動に加えて,時代の動きが求める新たな活動を「奉仕」の視点で多彩に展開する課題に言及している。図書館をめぐる昨今の状況は,急激な社会変化の下でのニーズの多様化をはじめ,情報メディアや情報通信環境の変化など,かってない変化に直面しており,図書館活動の豊かな展開が求められている。同時にそこには,情報弱者の存在や利用者のプライバシーへの踏み込み,受益者負担論の提唱など,新たな「格子」の出現にも注意を払う必要が増している。
 図書館法50年を迎えるにあたって,図書館利用者の「知る自由を守り,ひろげていく」課題を,新たな格子=バリアを許さない実践としてとらえ直し,一層の徹底を図ることが重要である。

(しおみ のぼる:大阪教育大学,JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会)

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Vol.93,No.9 (1999.9)

『ちびくろサンボ』復刊が提起するもの (奥角文子)

 径書房から,100年前のヘレン・バナーマンの原著に基づいた『ちびくろさんぼのおはなし』が刊行された。NHKの報道番組「クローズアップ現代」(6月17日放送「絵本・ちびくろサンボ論争−人種差別と児童文学−」)でも取り上げられたのでご覧になった方も多かったに違いない。
 番組は,同時に出版された『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』の著者,灘本昌久氏が激しい論争の舞台となったアメリカ国内で行った,精力的な調査・研究の成果を現地取材した興味深い内容だった。“さんぼ’への攻撃が,その時代的背景を反映して内容も変遷しながら政治的に組織されていった経過を語る多くの資料。そして再評価の動き。厳しい状況下でも出版の自由は国内法で守られ,書店の棚から消えることはなかったと語る関係者。特に印象的だったのは,幼い時から愛してきた“さんぼ”の話を一時期,語れなくなるほど複雑な思いに苦しんだと語る黒人の女性ストーリーテラーが,マイノリティのたくさんの子どもたちに,この絵本がたどってきた歴史もー緒に語りながら読み聞かせている姿だった。それぞれの原則的立場を貫き,論議を見守る姿は,1通の内容証明付郵便の抗議文で“さんぼの歴史的役割は終わった”と片を付けた日本の状況とは対照的である。
 ニューヨーク公共図書館の司書は,一般開架とは別に保存していて利用者の要求があれば提供すると説明する。提供方法は個々の図書館の判断に任されている。絶版騒ぎの10年前,日本の公共図書館は,他の図書館での取り扱いを極端なまでに気にし追随しようと気を揉んだ。「所蔵の開架提供が28.8%,閉架が33.6%,廃棄が1%」のデータは自由委員会が5年前に行った全国調査の結果である。県立の所蔵はわずか3割だった。
 出版流通専門紙『新文化』で「『ちびくろサンボ』は差別図書ではない」と出倉純径書房社長は言い切る。今回の出版は,原点に戻って“さんぼ”と“差別”の問題に向き合おうとの呼びかけと受け止めたい。 

(おくずみ ふみこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会,江東区立亀戸図書館)

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Vol.93,No.8 (1999.8)

「図書館の自由に関する宣言」をもう一度読み直そう (佐藤眞一)

 このところ,資料の閲覧制限をする図書館が後を絶たない。その際に,制限の根拠として「図書館の自由に関する宣言」(以下「宣言」)を掲げたり,直接明示していなくても「宣言」の副文をなぞった,と思われる事例が増えてきている。「宣言」を意識しているという点では良いほうだ,という見方もできようが,その引用のされ方には,首を傾げたくなる。
「宣言」は,「第2 図書館は資料提供の自由を有する。」の副文1のなかで,「提供の自由は,次の場合にかぎって制限されることがある」として,「(1)人権またはプライバシーを侵害するもの」はか2つのケースを挙げている。これを「提供制限の根拠となる法規及び理由は,「宣言」第2−1−(1)による」のように引用するのである。
 もう一度,「宣言」を読み直してほしい。「宣言」はまず,「日本国憲法」や「教育基本法」のように,格調高い前文を持っている。「図書館は,基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に,資料と施設を提供することを,もっとも重要な任務とする。この任務を果たすため,図書館は次のことを確認し実践する」。
 ここに引用したのは主文のみであるが,この前文こそが,「図書館の自由」の本質を的確に表現している。昨今の提供制限の流れは,この図書館の最も重要な任務「資料提供」を軽んじてはいないだろうか?「図書館の自由が侵されるとき,われわれは団結して,あくまで自由を守る」。この「宣言」後文が掲げる先輩たちの高い志を,すべての図書館員に,もう一度思い起こしてほしい。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立保健科学大学附属図書館)

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Vol.93,No.7 (1999.7)

国立国会図書館の電子図書館サービスに向けて (佐藤毅彦)

 国立国会図書館の電子図書館システムは,2002年の関西館(仮称)開館に合わせて本格的サービスを開始するべく開発・整備作業が進められている。それに先立って,2000年に一部開館予定の国際子ども図書館では,児童書関連資料について書誌・所在情報,電子化一次資料などをネットワークを通じて利用提供したり,動画・静止画を電子空間の中に展示するなどのサービスを提供する予定であるし,今の時点でも,インターネットの国立国会図書館のホームページでは,国会会議録を,未だ全部ではないが公開している。
 知る自由が,居る場所によって制約されない。…このことは,郷里の自治体に公共図書館を持たない私にとっては,素直に嬉しい。
 電子図書館サービスの本格稼働までには,電子出版物に関する著作権処理の方法や納本制度の内容,資料の中身を電子情報として提供する「1次情報コンテンツサービス」の対象となる資料の基準(いよいよ国会図書館も選書方針を明らかにする時がきたのか),などが示されることになるだろう。
 ところで,今国会では情報に関わる重要法案がいくつか審議されている。「住民基本台帳法一部改正法案」,「通信傍受法案」,「情報公開法案」といったところである。国の情報関連政策が大きな動きを見せている中で,電子図書館システムが立ち上がることになる。国会図書館としても,情報の電子化と個人情報の保護・公的機関の情報公開について,この際あらためて整理し,知る権利の内容を再確認しなければならない。
 図書館の利用者情報を行政機関の住民情報とリンクさせて,利用者のプライバシーを侵害したり,公的機関が,電子化された情報と紙媒体の情報とを使い分けるなどして,公開する情報そのものを骨抜きにするようなことが,電子図書館の普及に乗じて行われることがあってはならない。

(さとう たけひこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,国立国会図書館)

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Vol.93.No.6 (1999.6)

IFLA「図書館と知的自由についての声明」  −Statement on Libraries and intellectual Freedom− (井上晴代)

 インターネットが広まるにつれ,国境なき図書館の世界はますます拡大している。国際的な図書館界での共通認識の一つとして,1999年3月25日IFLA理事会は「表現の自由と情報への自由なアクセスに関する委員会」(FAIFE)が作成した「図書館と知的自由についての声明」を承認した。
 1998年は世界人権宣言50周年にあたったが,米国でのインターネットと図書館の自由に関わる裁判の続出や,フランスをはじめとする欧州での宗教原理主義や人種民族差別主義などによる表現の自由への圧迫など,図書館と表現の自由をめぐる事例は増加の一途である。このIFLA「図書館と知的自由についての声明」では,再びIFLAが国際人権規約B規約に基づく知的自由を支持し,保護し,推進していることを明確化したものである。知る権利と表現の自由は表裏一体であり,思想の自由と表現の自由は情報への自由なアクセスの必須条件であるとしている。そのうえで,図書館と図書館員の果たすべき役割と責任を主張している。その内容は日本の「図書館の自由に関する宣言」とほぼ同様であるが,さらに“図書館員は雇用者と利用者の双方に責任をもたなければならないが,この間で問題が生じた場合,利用者に対する義務が優先される”と明言しているあたりは,日本でも再確認しておくべきところであろう。
 なお,この声明は,http://www.faife.dkで全文が掲載されている。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会,京都外国語大学)

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Vol.93,No.5 (1999.5)

「自動貸出機」の波紋 (藤原明彦)

 昨年の全国図書館大会で事例発表されたこともあってか,自動貸出機に関する話題を自分の周りで最近よく耳にする。
 カウンターでの貸出返却業務が専門性に関わるものかどうかとか,それと自動貸出機との関係がどうなるかということももちろん気にはなるが,それ以上に気になるのが,「自動貸出機は利用者のプライバシーを保護するものである」といううたい文句だ。図書館大会の記録によると,大会での発表者の発言には,自由宣言の第3に該当するものとして,「利用者の読書事実や利用事実の秘密を守るということに自動貸出はまさに当てはまる」というものがあったという。
 「勘弁してくれよ」と思う。自動貸出機が利用者のプライバシー上優位にあるのは,利用者が直接図書館職員と顔を合わせずに貸出ができるという点でしかない。図書館が資料管理を行う場である以上,実際にはお客さんが何を借りたかというプライバシーは少なくとも職員にはデータ上筒抜けなのであって,実際にプライバシー保護になるわけではない。その場では職員にわからないというだけの話なのである。自動貸出機の採用館は,この事実をお客さんにしっかり伝えているのだろうか。
 この発想で最も気に入らない点は,「利用者のプライバシーを守ることができる」という主張の真に,「図書館員はプライバシーを侵害する」という前提が見え隠れすることだ。自動貸出機を導入する館には人的制約等,その館なりの事情があり,一概にその是非を判断することはできないと思う。しかし,業務を処理するのが人ならばプライバシーが侵害されるが,機械ならばされないという発想は明らかに誤りである。現場でプロ意識を持って直接サービスに従事する職員ならば,これは非常に侮辱的な発想だと反発すべきではないのだろうか(まあ,反発する資格もないような情けない図書館も実際には存在しているのだけれど)。
 「図書館の自由」を守る誇りを持っている図書館員のプライドを踏みにじるような理由をつけて,自動貸出機の導入を進めてはしくはない。また,こんな簡単な言葉のトリックに引っかかって,「自動貸出機は図書館の自由の面から有効である」などという安易な発想が生まれたりしないことを祈っている。…が,きっと引っかかる人が結構いるんだろうなぁ,今のままでは。

(ふじはら あきひこ:埼玉県立久喜図書館)

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Vol.93,No.4 (1999.4)

あなたならどう答えますか (伊藤昭治)

「図書館の自由に関する宣言は建前にすぎない。実務に結びつけて考える必要はない」
「日本図書館協会のつくった宣言には拘束力がないのだから,これに従う必要はない。図書館の自由に関する宣言のポスターを掲示から外せ」
「図書館は,提供した資料が利用者にどんな影響を与えたか,良い環境を与えたかどうか,どれくらい満足されたか,悪い影響はなかったということに責任を持たねばならない。『知る自由』を盾に責任のがれができるものではない」
「延滞者のプライバシーを守る必要はない。貸出規則に違反しているのだから,氏名を公表し反省させよ。それに借りている本も忘れていることがあるから,書名も併記したほうがよい」
「子どものプライバシーは,親に対しては考えなくてもよい。子どもの読書に責任を持つのは親だから」
「利用者登録を住民基本台帳にリンクさせたい。何が問題なのか」
 などなど,こういったことを図書館の管理職に言われたことはありませんか。こう言われたときに,あなたはきちっと説明できますか。相手を納得させるにはどういう言い方をすれば効果があるか考えてみたことがありますか。
 最近,館長など管理職に司書資格を持たない人が増えてきました。それだけにこれまで館界で通っていた常識が無条件には通らなくなってきています。
 ただこうした場合,管理職の無知を責めるのではなく,管理職を納得させる専門職としての司書の力量が必要です。説得できれば図書館界の常識が広がることになるからです。
 このような問題は,よくきく事例です。それだけにこうした疑問にどう答えるか日頃から考えておかねばならないことでほないでしょうか。答えの仕方であなたの力量が問われます。
 あなたならどう答えますか。

(いとう しょうじ:阪南大学流通学部)

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Vol.93,No.3 (1999.3)

ホームレスと図書館利用 −ある新聞記事から (西河内靖泰)

 「ホームレス図書館“占拠”曖かい,タダ,時間もつぶせて居心地い〜い」。これは,2月上旬の某スポーツ紙に掲載された,いささか刺激的な見出しである。
 記事は,都内の二つの図書館でのトムレスの利用実態を取り上げたもので,見出しで受ける印象とは違い,実態を比較的冷静に報告した内容となっている。まず,ホームレスが全利用者の1割を占める図書館の,開館と同時に閲覧席を占拠し,大きな荷物を持ち込み,うたた寝をする状況,そして,酔っぱらって大声を出したり,トイレで洗濯・ひげそり・体拭きをするなど迷惑行為の様子も報告されている。また,別の図書館では「異臭を放つ方お断り」の看板を設置し,繁備員が館内を巡回,長時間の居眠りや悪臭のひどい人を退館させているという。
どんな利用であっても,具体的な迷惑行為をした場合は,図書館の管理上の権限で退館させる場合があるのは,当然のことである。しかし,記事でも「当然トムレスにも利用する権利がある」と書いているように,問題となっている異臭等を理由として排除することには異論も多い。
 たまに酔っぱらって騒ぐなどの迷惑行為をすることはあっても,ホームレスは普段,比較的おとなしい。ほかに長時間居続けられる公共施設がない彼らは,追い出されたらほかに行くところがないからだ。
 図書館は,資料と施設の提供を最も重要な任務とする,と「図書館の自由に関する宣言」(以下「宣言」)前文は述べている。お互いの利用の自由を尊重するのが自由の本質であることを考えると,現状は望ましい状態であるとは言えない。
 ではどうすればいいのか。この記事を契機に多くの人に議論してほしい。これといった万能の解決策があるわけではない。地域の実態を考え,図書館としてどう主体的に判断したらよいのかを議論することだ。
 ただ,その際に押さえておいてはしいことがある。彼らが利用したいのは長時間居続けられる場所で,別に図書館でなくてもいいのだ。
 あなたは,このことをどう考えるだろうか。
     (にしごうちやすひろ:荒川区立南千住図書館)

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Vol.93,No.2 (1999.2)

図書館の不自由 (渡辺由美)

 「図書館の自由」という言葉はむずかしい。初めて聞いたときに内容の見当がつくだろうか。また,図書館への関心が薄い人に説明しようとして,うまく伝わらなかったことはないだろうか。ここ数年,新聞などで「図書館の自由」の文字が何回も使われたが,どの程度この意義が伝わっているのだろうか。
 「図書館の自由に関する宣言」(以下「宣言」と略す)という題を見て「図書館は好き勝手にしてもいいという意味」だと勘違いする人もいる。「自由」から「思いどおりにする・わがまま」という意味を連想したのだろう。「図書館」は公共図書館のことで学校,大学,専門図書館は関係ないと思っている人もいるようだ。また「の」に所有の意味があるためか,先の図書館大会では講師から「自由を個人が持っのならわかるが,図書館という機関が持つというのはおかしいのではないか」という疑問を呈されるひとこまもあったらしい。どうもこの題は,結構あいまいな印象を与えるようだ。
 「宣言」の英訳を見るともう少し意味がはっきりする。題して,“A Statement onIntellectualFreedomin Libraries,1979”である。これから考えると,「図書館」はあらゆる図書館を含み,「の」は「〜において」とでもいう意味になり,「自由」も「責任をもって何かをするこ.とに障害(束縛・強制など)がないこと。(中略)社会的自由」(F広辞苑」第5版より)の意味だとわかる。
 このように,一度聞いただけでは意味が通じにくいというのは,アピールする上であまりよいことではない。そこで「宣言」をわかりやすく表現するキャッチコピーを考えてみるのもおもしろいのではないだろうか。例えば,「図書館は国民の知る自由を保障します宣言」とか「図書館は民主主義の砦宣言」とか。一人ではあまり気の利いた言葉もでてこないが,より多くの人が考えればいろいろとユニークなものが生まれるだろうし,これがきっかけで「宣言」の理解も深まるかもしれない。
 ところで,自由に対する責任を表明したものとして,「図書館員の倫理綱領」(以下「綱領」と略す)を思い出していただきたい。図書館に働くすべての人が守るべき自律的規範である。「宣言」とは表裏一体のものであるが,どちらかといえば影が薄い感があるようだ。もっと積極的に活用したいものである。
 図書館の自由に関する問題は,図書館の今を映す鏡である。「宣言」が採択されて45年,1979年の改訂から数えても20年たった。社会情勢は複雑さを増し図書館をめぐる状況も変わりつつある。思いがけない新たな問題に驚く一方で,いまだにこんなことが起こるのかと頑を抱えるようなこともあるが,図書館が果たすべき基本は変わらない。「宣言」を広め育てていこう。この機会にぜひ「宣言」「綱領」をひもといてほしい。

(わたなべ ゆみ:枚方市立サ蛇図書館)

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Vol.93.No.1 (1999.1)

ささやかに・したたかに『耳をすませば』 (吉本 紀)

 映画『耳をすませば』に,学校図書館の利用記録から主人公がある少年に関心を抱くくだりがある。公開当時図書館界でこのまま放置していいのかと話題になり,自由委員会にも問題提起があったので,メンバーが製作会社に図書館界の考えを述べたことがある。
 その際には,公開前であることもあって製作会社の態度が硬く,委員会の考えも理解されたとは言えないままに終わった。
 このような場合,過去の事例では,相手方の理解を前提としたテレビドラマのシナリオの変更などがあるが,私たちの最終目的がこういう対症療法的なものでないことは明らかで,根本的な解決策としては,製作者や視聴者の意識から見て,いかにもこういう場面が不自然と思われるような図書館状況を生み出すことだろう。しかし,だからといってこの映画を見て見ぬふりをして看過することもできない。
 という具合に悩んでいたときに,池袋の,今はなくなってしまった場末の映画館で,キュシロフスキ監督の『トリコロール青の愛』という映画を見た。
 冒頭で疾走する自動車が木立に激突する。その直前にブレーキオイルが漏れているシーンが暗示的に映し出される。車はA社製。
 この映画の最後,ちょっとした経緯があって次のような趣旨の一文が入った。
 「冒頭の激突の原因は,A社に何ら起因するものではない。このようなシーンを寛大に理解したA社に敬意を表する」
 『耳をすませば』に,こういう解決方法を投げかけるのはどうだろうか。物語を傷つけることなく,でも製作者や視聴者にさりげなく訴えることができ,長期的には私たちの主張を浸透させる一助にもなろうから,ささやかだが結構したたかな方法だと私は思ったのだが,親しい友人に言ってみたら,「甘いですね」と一蹴されておしまいだった。確かに,映画の製作者は単に訴訟回避としてそうしたのかもしれず,A杜が太っ腹だったわけでもないことを考えると甘いかもしれない。でも,こういう決め手を欠く問題には短期長期をとり混ぜた複数メニューを試行錯誤する胆汁質も必要と思う。

 (よしもと おさむ:国立国会図書館)

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第92巻 (1998年)


Vol.92,No.12 (1998.12)

博物館の倫理規定と図書館の自由 (若井 勉)

 「中国禁輸の孔子鳥化石収蔵 公立博物館,8個国内業者通じ購入」(朝日新聞1998.7.5朝刊)の記事を興味をもって読まれた図書館員も多いと思う。中国が「国家文物保護法」(1982年制定)で国外持ち出しを禁じている「古脊椎動物」や「科学的価値のある化石」に該当する「孔子鳥化石」を日本の公立博物館が購入し展示していることが新聞社の調査で判明し,その間題点が指弾されている。世界各国の博物館の国際的ネットワーク組織である「国際博物館会議(ICOM)」の定める「国際博物館会議職業倫理規定」(1986年採択)にも反しており,その取り扱いを巡り,苦慮しているというものである。中国政府の許可もなく,第三国を経由し,売らんかなの業者の「問題はない」ということと貴重な資料を収集したい思いに道義を逸してしまった博物館関係者の問題点が露呈したとも言えなくもない。
 同職業倫理規定では,博物館としての責任と管理者である館長,学芸員の専門性と社会的責務を厳しく規定し,収集方針の公表や具体的な収集に当たっての取るべき立場や態度まで詳細に成文化している。また,問題点が案じられたり,生じた場合における当事国の博物館との関係のあり方を国家間の政治的な問題に波及しないよう基本的な専門的,科学的立場から対応すべきであると判明した場合には,当事国に返却すべきである等としている。この倫理規定に違反する個別の博物館や博物館の国内委員会(日本では国立科学博物館が事務局)に対する罰則規定も設けられている。
 この間の記事の展開を見ていると,文部省は各館の倫理に任せるとし,各館では規定を熟知していなかった,業者への対応が甘かった,博物館としての主体的な責任の自覚が薄れていたとの反省がされており,同倫理規定に基づき対処される方向に期待したいと思う。
「図書館員の倫理綱領」は,「図書館の自由に関する宣言」によって示された図書館の社会的責任を自覚し,自らの職責を遂行していくための自律的規範であるとしているが,図書館の自由との関わりでも,富山県立図書館問題にも見られるように美術館や博物館との関係も考えていかねばならない。図書館界としても,今回の事件を「他山の石」として,美術館や博物館の動きにも注目し,表現の自由等に関わる共通の課題に対する共同した取り組みや相互の交流を深め,共に学びあっていく必要があろう。

(わかいつとむ:立命館大学国際平和ミュージアム)

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Vol.92,No.11 (1998.11)

たとえ家族といえども… (石谷エリ子)

 親しい間柄であればあるはど,個人のプライバシーを保つのはむずかしい。Web版の蔵書目録を検索して<貸出中>の表示がついたものに自分で予約がかけられたり,自分の図書館利用状況が見られるようになった。これを実行するのに使うパスワードをカウンターで申請してもらっているが,「他人に自分の借りている本とか見られないために,自分だけにわかるものにしてね」と説明すると,怪訝な表情で「別に友だちとかに見られたって困らないけど」という返事。
 返却督促や予約本についての連絡で学生の自宅に電話をかけると,本人不在のときは,@留守電あるいはA家族に伝言することもあるわけだが,@の場合,本人が再生するとは限らないので,書名は言わない。Aの場合,こちらが書名を言わないと家人から尋ねられることがある。もちろん,本人にしか言えない旨説明するが,反応がいまひとつ。
「耳をすませば」に登場したような学校図書館は今はないと思うが,子どもの頃の図書室の思い出の1コマに名前の並んだブックカードがある年代の人も少なくないのではないだろうか。
 林望氏の著書によれば,英国では手紙を出すときに通常,差出人の住所を封筒に明記しないとのことである。何者から来た手紙かは手紙を開封できる受取人本人のみ知る権利がある。どうしても事情があって差出人の住所(リターン・アドレス)を記入する場合,それはプライバシーと引き換えにすることを意味すると。たとえ受取人が子どもであっても,夫や妻であってもどんな内容であっても,あくまで個人の秘密は守られるという生活スタイルがはっきりと表れていると感じた。日本で同じことをすれば,かえって怪しまれてしまうかも…。
 図書館サービスの基本が利用者個人の読む自由・知る権利そしてプライバシーを保障することなのだ,ということが子どものときから,当たり前のこととして自覚されるように,たとえば少なくとも司書講習や学校・大学での図書館利用法のガイダンスにおいても必須の項目として,く図書館の自由>について触れてほしいと思う。

(いしたに えりこ:和光大学附属梅根記念図書館)

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Vol.92,No.10  (1998.10)

改めて問う,図書館の任務と館長の責任 (三苫正勝)

 大都市近郊のある市の住民から日本図書館協会に投書があった。市立図書館で,キリスト教の一派であるエホバの証人の『新世界訳聖書』日本語版を利用しようとして職員に問い合わせたところ「問題のあるというのは知っているね」と詰問されたという。問題というのは,教義からくる輸血拒否問題などが報道されていることを指している。その図書館には『新世界訳 聖書』の日本語版と英語版が所蔵されていて,投書者は,前年に日本語版を一度借り出したのに,今回,再度利用しようとしたところ,検索しても出てこないので職員に問い合わせると,先のような返事が返ってきたというわけである。その後,英語版を借り出したら,そのあと英語版も目録から消えてしまったという。
 日本語版は,改めて予約しておいたにもかかわらず連絡なし。問い合わせても即答がない。何かと埼があかないので図書館に抗議の手紙を出したら,図書館長から返事がきた。これが矛盾だらけなので再度手紙を‥‥‥そして結局,直接面談に至るが,それでも納得できる回答を得られず,日図協に投書したというのである。
 矛盾点を挙げると次のようになる。@日本語版も英語版も,借り出されたあとを追うように除籍されている。A「資料除籍基準」の中の「出版事情,蔵書構成,利用者の需要,資料の保存価値及び収容能力等を勘案して,所蔵する必要がないと認められる資料」に該当するので除籍したという説明があったが,現に投書者が利用している。B分館や県立図書館と重複しているものは除籍する方針というが,当該の聖書は重複していない。逆に重複している他の「聖書」は除籍されていない。
 つまり,問題になりそうな資料はできるだけ排除しておきたいという姿勢が見え透いている。昔の図書館では,ないと言えば利用者はあきらめてくれた。今では,あきらめずにどこまでも資料の提供を求められるぐらいに,図書館は社会的地歩を確立してきているのである。その認識がこの図書館には欠けていた。
 最初に,「問題のあるというのは知っているね」と言った職員は,専門職ではないという。『図書館年鑑1998』によれば,館長は司書資格がなく,しかも「兼務者」となっている。何やら,いま進みつつある「規制緩和」の行く末が見えてくるようではないか。
 館長の発言の中には,図書館の自由についての重大な誤認がある。「知る権利」について,図書館は,人権侵害の問題,少年法の問題,検事調書の秘密漏洩の問題,報道の自由の問題等の「極めて困難な確認作業」を経て,閲覧の可否の判断を迫られると言っている。これでいけば,図書館員は図書館員である前に,裁判官でなければならないようだ。
 もう一度「自由宣言」を読み返してほしい。特に前文は「知る自由」こそ,基本的人権を保障する基礎的な要件であることを表明しているのである。何をおいてもまず提供することを基本にする。このことに責任を負う図書館とそれを統括する館長の見識が問われる事件であった。

(みとま まさかつ:夙川学院短期大学)

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Vol.92,No.9 (1998.9)

住民への周知はなされたか (和田匡弘)

 昨年のフォーカス・週刊新潮から今年の文藝春秋・新潮45にかけての一連の報道は,少年犯罪にかかわる少年のプライバシーに関して,図書館の自由にかかわる重大な問題であった。
 これらの資料を所蔵している館では,それぞれの館の検討と判断にもとづいて,その扱いを決めていかれたことと思う。ところが,振り返ってみると,通常どおりの閲覧から閲覧停止まで相当に幅のある結果となっている。
 さて,これらの雑誌等に関して,通常と異なる扱いをした図書館では,そのことを住民(利用者)にどのように周知されたのだろうか。
 名古屋市図書館では,館内の「図書館の自由問題検討委員会」が中心となって,全館での合意と結論を得た後,通常と異なる扱いとなった資料に関しては,その資料が通常新刊として排架される場所(あるいはその近く)に周知文を提示している。周知文は全館統一文と各分館の独自性を重んじた各館対応文になる。フォーカス・週刊新潮の場合,統一文は「みだしの二誌には,未成年容疑者を保護する少年法に抵触するおそれがあり,また,容疑者の人権侵害にあたると思われる記事が掲載されていますので,名古屋市図書館では閲覧を停止します。」を主な内容とする。各館対応は,当該記事以外のコピー閲覧に関するものであろう。
 多くの館では,言うまでもなく周知されているであろうが,聞くところによると,何もしないまま資料が閉架書庫や事務室にあったり,問い合わせてきた利用者にのみ口頭説明をしたりという館もあったようである。
 「図書館の自由に関する国民の支持と協力は,国民が,図書館活動を通じて図書館の自由の尊さを体験している場合にのみ得られる」という「宣言」副文の言葉を待つまでもなく,カウンター別置の場合を含めて通常と異なる扱いとなった場合,そして一定期間経過後に通常の扱いに戻した場合,多少しんどいかもしれないが,まず,そのことを周知する。これを図書館の自由に関する住民との対話の第一歩としたいものである。            

 (わだ まさひろ:名古屋市緑図書館)

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Vol.92,No.8 (1998.8)

「有害図書」の動きと図書館員の自由 (前川敦子)

 1992年,いわゆる「『有害』コミック規制」問題の際,石ノ森章太郎氏は「コミックで法や条例による規制を認めれば,必ず他の分野にも広がる」と述べた。青少年健全育成条例(等)による「有害図書指定」に関して,最近はいくつかの県で変化がおきている。
 岡山県は,1997年10月「はなはだしく粗暴性または残虐性を助長し,青少年の健全な育成を害する」ことを理由に,図書『完全自殺マニュアル』(太田出版),『ザ・殺人術』(第三書館),『世紀末倶楽部 Vol・1〜3』(コアマガジン),ビデオ『ネクロマンティック特別編』(アルバトロス・フイルム)を「有害図書」に指定した。同県では従来,「著しく性的感情を刺激する」ことを理由にしての指定が行われており,「粗暴性・残虐性の助長」は条例に規制理由として定義されてはいたが・適用されたのは初めてである。同県青少年保護育成条例では「何人も,青少年に,有害図書を見せ,聞かせ,又は読ませてはならない」(第10条6項)としている。ただし,同項に関しての罰則規定はない(販売等を行った業者へのを罰金刑は別項で規定あり)。指定は県青少年健全育成審議会の答申にもとづいて知事が行う。
 他の都道府県でも「粗暴性・残虐性を助長する図書」への指定が増えている。群馬で『完全自殺マニュアル』『ザ・殺人術』『世紀末倶楽部』が,香川で『図説死刑全書』『図説自殺全書』『図説拷問全書』(いずれも原書房)が,宮城・岐阜・長崎で雑誌『恐怖の快楽』(ぷんか杜)が指定されている(ただし巻号は県によって異なる)。
 こうした指定の際,当該図書が「有害」であるとどのような基準・方法で判断されたのかあいまいであり,法学者の間に「検閲」であるとの意見もある。少なくとも青少年の「読む権利」,著者の「表現の自由」,図書館の「収書の自由」に照らして検討されたかどうかは明らかになっていない。また,有害指定と図書館での提供との関係も未だあいまいである。条例に指定されたからといって,図書館側が即,閲覧制限などの処置を行う必然性はないと考える。
 従来,条例に指定される類の「有害図書」は図書館の蔵書にはあまり見られなかった。そのため,この間題に関して,図書館員に「当事者」としての意識は薄かったのではないか。現実に図書館の蔵書が「有害指定」される状況の中,図書館員それぞれがこの問題に関心を向け,対応を考えていく必要がある時期だろう。

(まえかわ あつこ:大阪教育大学附属図書館)

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Vol.92,No.7 (1998.7)

ある大学の日常 (佐藤眞一)

 このところ,特に未成年者のプライバシーを巡って,図書館の自由を揺るがすような事例が立て続けに発生している。特に公共図書館では,否応なく「住民の知る権利」と,「個人のプライバシー」という二つの基本的人権の調整を図らなければならない立場に立たされ続けているわけで,短時間で判断を求められるのは,なかなか困難なことと思う。
 さて,私の勤務する大学は,本年4月に3年制短期大学から4年制大学に組織変更したばかりの医療系の単科大学である。医療系大学の図書館ということで,昨今の事例で話題となっているような雑誌は,ほとんど所蔵していない。唯一あるのは『文垂春秋』であるが,これも医療系雑誌のように,製本保存する対象ではなく,書架に入らなくなれば廃棄する雑誌である。3月号は,通常と何ら異なる処理をされることなく,雑誌コーナーに排架されている。
 図書でも事情は同じで,私が異動してきてから今まで3年余りの間に,資料収集や資料提供上で何らかの問題があったことは,荒川区の住宅地図ぐらいしか思い当たらない。
 一方で,利用者の秘密を守るという点では,いわば小規模な閉鎖集団のための図書館であることから,さまざまな障害に遭遇する。
 まず,図書が書架に見当たらず予約をかけるとしよう。端末の画面は利用者の目を避けるよう,さりげなく斜め内側に向けてあるが,こちらに身を乗り出すようにして覗き込んでくることが多い。まあ,レポート等の締切で切羽詰まっているのだろうが,こんな場合,借りているのはほとんど同じ課題を出されたクラスメートで,出遅れた彼らが必要な期間に戻ってこないことが多いのだが…。
 個室やAVブースの利用では,「友だちが利用しているはずなので,どの部屋か教えてほしい」と言ったり,処理箱を覗き込んだり。
 こんな時,「図書館員というのは,そういう質問には答えないものなのだ」とか,「あなたが借りていることを,他の人に見られたらいやでしょ」などというのだが,どこまでわかってくれているのか。
 なにしろ,自らのプライバシーを管理するという意識が,非常に希薄な集団なのである。         

(さとう しんいち:東京都立保健科学大学附属図書館)

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Vol.92,no.6 (1998.6)

韓国図書館協会の「図書館人倫理宣言」について (馬場俊明)

 今年2月,神戸少年殺害事件の享容鮨A少年の供述調書が総合雑誌『文塾春秋』3月号に掲載さ与れ,館界だけでなく,社会的に大きな論議を呼んだ。この事件に関巨ては,すでに昨夏,容疑者の少年の顔写真を掲載した『フォーカス』等の書店での販売自粛と図書館での対応をめぐって波紋が広ぎがっただけに,自由委員会では,あらためて「図書館の自由に閲すきる宣言」(1979年改訂)のもつ社会的役割の重さを強く受けとめている。
 また検事調書の掲載をめぐる是非論において,少数意見ではあるが,「出版物の品位を保つことに努め,低俗な興味に迎合して文化水準の向上を妨げるような出版は行わない」とした「出版倫理網領」(1957年10月,日本雑誌協会,日本書籍出版協会)の存在を問い,抗議すべきではないかとするものもあった。
 館界では,1980年に“図書館の社会的責任を自覚し,自らの職責を遂行していくための図書館員としての自律的規範である”「図書館員の倫理綱領」を採択し,職業倫理の確立に向けて努力している。
 自由委員会は,1997年10月に制定の韓国図書館協会「図書館人倫理宣言」の全文を入手した。本文がハングルのため,委員会ではすぐに解読できなかったが,筆者の同僚で韓国・朝鮮問題に詳しい藤井幸之助氏に翻訳をお願いして学習することになった。なお,定訳については,日本図書館協会が依頼した専門家の訳を,韓国図書館協会が監修したうえで,何らかの形で発表されると聞いている。
 いまここに紹介できるのは,紙幅の制約もあり,ごく限られた7つの主文(仮訳)だけであるが,職業倫理を考えるうえで参考になろう。
       *
1.<社会的責務>図書館人は,人間の自由と尊厳性が保障される民主的な社会の発展に貢献する。
2.<自己の成長>図書館人は,不断の自己開発を通じて,歴史とともに成長し,文明とともに発展する。
3.<専門性>図書館人は,専門知識に精通し,自律性を堅持し,専門家としての責任を完遂する。
4.<協力>図書館人は,協同力を強化し,組織運営の効率化をはかる。
5.<奉仕>図書館人は,国民に献身する姿勢で奉仕し,図書館の真正な価値に対する社会的認識を誘導する。
6.<資料>図書館人は,知識資源を選択,組織,保存して,自由に利用させる最終責任者として,これを阻害するどのような干渉も排除する。
7.<品位>図書館人は,公益機関の従事者としての品位を堅持する。

(ばんば としあき:堺女子短期大学)

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Vol.92,no.5 (1998.5)

『三島由紀夫 −剣と寒紅』をめぐって (山家 篤夫)

 4月初め,ある公立図書館に勤務するA氏が中央図書館長に提出した「『三島由紀夫】剣と寒紅』に関する今回の措置について」という文書を見せていただいた。これによると,この館では4月3日,著作権侵害の理由で頒布差し止めと回収を命じる仮処分決定が出たので同書の貸出・閲覧・予約を不可とし,利用者には受け入れしないと説明するようにという中央館長名の依頼の事務連絡文書が各地域図書館長にファクス送信されたという。
 A氏は,@著作権法違反の出版物は自由宣言の「人権またはプライバシーを侵害するもの」との条項に当たるものではなく,A資料の作成にいたる過程の「違法性」を理由に資料の排除や提供制限をすれば,内部告発やスクープをはじめ多くの資料が図書館で見られなくなる。さらに,B和解を含めさまざまに被害を回復する方途を探る民事訴訟における司法判断を図書館の資料提供判断に直結すべきでなく,Cまして,本件は仮処分命令という被害原因の除去の迅速性を追求する決定がされた段階,Dその被害者側の請求も地裁の決定も出版社に対してのもので,取次や書店まして図書館を含む購入者に何かを求めるものではないと述べた上で,E「依頼」措置を直ちに解除し,図書館の自由が問われる問題については全職員による検討を行うことを「切にお願いしたい」とされている。文書の日付は4月4日。原稿用紙17枚,6,800字をA氏は一晩で書きあげられた。
 昨年の『フォーカス』『週刊新潮』問題がなければ全く問題にならなかったはずの『文義春秋』3月号が一時書架から引き上げられ,そして今回の「依頼」。「膾を吹きながら自己規制に陥っていく情況に強い不安を抱かざるをえないし,何よりも『資料提供を最も重要な任務』とする職責を全うできず非常に強い苦しみを感じる」と述べてA氏は,「提供制限が常態化し,原則(提供)と例外(制限)が逆転してしま」わないよう,「限定適用と後日の再検討を条件に容認している宣言の提供制限の判断基準は決して拡大解釈すべき享ではない」と強調されている。 
 そのとおりと思う。富山県立美術館の天皇コラージュ作品売却・図録焼却訴訟で・昨年6月,富山県弁護士会は県側に「多様な美術表現の自由と一般市民の鑑賞・閲覧の権利の実現に奉仕すべき役割を全うするよう勧告」しているが,今年3月4日,原告側証人の横田耕一教授(九州大・憲法)は,美術作品を観覧する権利は「国民の知る権利として憲法で保障されている」もので,「公金で作品を購入した公立美術館としては広く公開する義務がある上,たとえ不快を示す人がいたとしても,物議を醸し,議論を提示するべき」と美術館の法的使命に言及して証言された(富山県版朝日,読売新聞より)。
 直接には公立美術館への勧告であり証言だが,自由宣言をより豊かに実践したいと思う私たち図書館員に向けられた法曹人からの励ましと受けとめたい。
 なお日図協事務局では『三島由紀夫−剣と寒紅』の扱いで照会をいただいた場合,@〜Dとほぼ同趣旨により提供制限の理由は見当たらないと話している。

(やんべあつお:東京都立日比谷図書館)

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Vol.92,No.4 (1998.4)

電子情報への自由なアクセス (熊野清子)

 通常国会に「情報公開制度」法案が提出されるという。電磁的記録も対象となり,また電子媒体での開示も可能となるらしい。行政情報の電子化が進み,「住民基本台帳ネットワークシステム」の導入も間近と聞くと,個人のプライバシーが侵されはしないか,意図的な情報隠しはないかと危惧されるところだが,情報公開はそれらへの大切な対抗手段なのだから,健全に発展してほしいものだ。
 四半世紀以上も前に,国鉄のみどりの窓口で全国の列車の指定券が即時に予約できるようになったときは,技術の進歩とは素晴らしいとみなが感嘆したものだ。今日では日本国内どころか世界中に通信ネットワークがはりめぐらされて,電子化された情報が飛び交っている。企業や大学の研究者だけでなく,一般家庭の個人でも最新情報を享受できる。
 が,ちょっと待てよ。誰もが公平に情報にアクセスできるだろうか。通信ネットワーク上の電子情報だけでなく,パッケージされた電子情報(CD−ROMなど)も増加しているが,利用するためにはパソコンとそれを活用する能力が必要だ。パソコンやインターネットの普及が急速ではあるが,どちらにも無縁な人々は必ず存在する。
 顧みると,図書館利用から疎外された人々へ,彼らの情報への自由なアクセスの権利を保障しようしてきたことが,図書館サービスの発展の歴史そのものではないだろうか。個人貸出や児童サービス,BMの連行,対面朗読,多文化サービスなど。利用できる人の範囲をひろげ,利用できるメディアの量と種類を増やすことによって,今日の図書館は利用者の支持を得てきたのだ。
 これからの図書館は,電子情報から疎外された人々へのサービスも視野に入れ,情報弱者一社全的弱者という図式を定着させない努力が求められているのではないか。
「図書館は,基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に,資料と施設を提供することを,もっとも重要な任務とする。(図書館の自由に関する宣言1979年改訂前文)」

 (くまの きよこ:兵庫県立図育館)

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Vol.92,No.3 (1998.3)

カウンター職員の好感度 (奥角文子)

 「これは『図書館の自由』以前の接遇の問題では…」1997年11月22付産経新聞「〔談話室〕本借りる目的問う司書不快」との都内利用者の投書をめぐる,昨年12月の委員会論議での大方の委員の意見である。しかし指摘されている状況にごく近い現場にいる者として思いは複雑である。投書欄では,11月22日「図書館利用の抑制を恐れる」(山家関東地区小委員長),12月3日「司書有資格者積極採用して」(図書館学を学ぶ大学生)の投書が寄せられたほかは,当該館長の釈明もなく事実関係は明らかでない。
 専門職制のない東京23区の図書館窓口では,年に何度か危機的状況に陥る。最も大変な時期は人事異動の4月で,毎年3割前後の慣れた職員が異動し,新任職員の苦労が始まる。そして,レファレンスの多い夏休み,予算編成期,12月。もちろん,新任研修はもとより,カウンター日誌に利用者からの意見や苦情を書き留めたり,毎朝14〜15分のミーティングでケーススタディを行う等,各館さまざまだが,利用者に見限られないために努める。この投書もファックスで全館に送られ職員会議の議題となった。
 勤務経験の長い職員は,サービスの継続性と水準の維持に配慮するあまり保守的であったり,マンネリに陥りやすい。着任間もない同僚が利用者の視点で斬新な改革案を提起してくれることがある。意欲的で活気に満ちた図書館員は窓口の対応も良く,人気が高い。より良いサービスをしていくための前提となる民主的な話し合いは,図書館員としての
サービスの好感度を維持していくためには欠かせない。
 利用者端末が整備され,図書館利用の高度化・多様化が進む。機械化によるネットワークも進み,物流システムも整備され迅速な資料提供が可能となった。このような図書館システムの改善に司書資格を持つベテラン図書館員の貢献は大きい。問われているのはこのシステムの水道の蛇口だ。人員削減の下で消極的な窓口対応は,利用者の「求める資料へのフリーアクセスの権利」を損なうことになると危惧する委員もいる。                  

(おくずみ ふみこ:江東区立亀戸図書館)

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Vol.92,No.2 (1998.2)

繰り返される論調 (竹島昭雄)

 本誌の昨年12月号に,「1997・図書館界10大ニュース」が掲載されている。その先頭に,国の図書館政策の転換と日図協「緊急対策会議」の発足を挙げて,館長の司書資格要件と財源確保を求める活発な運動が展開されたことを報告している。
 一方,同月号の“投稿FORUM”には「図書館の司書よ!人事異動せよ!」と題して,司書職制度は不要であるという意見が掲載されている。そこでは,「プライバシー保護は図書館以前に公務員として当然のこと」であり,これを前提に進められるべき多くの行政事務があることを紹介して,「資料提供の自由のどこにきわめて高い専門性を有するのか」と述べている。そして,司書の守るべき専門性がないにもかかわらず司書職制度を求めることはエゴイストではないかとまで言わしめている。図書館におけるプライバシー保護は・公務員として当然のことだという意識だけで守れるものでないことは・今日まで多くのプライバシー侵害に関わる実例が教えている。また,最近でも「本借りる目的問う司書不快」(産経新聞1997年11月22日)と題する投稿で,司書の責任を聞い,その信頼を大きく損ねている。
 図書館業務は,利用者から寄せられる信頼を前提に遂行される。そこで得られた利用者情熱ま,地方公務員法第34条の博秘義乳以上に慎重に扱われる必要がある。それが図書館設置条例にプライバシー保護条項を持つことにつながり,日常業務に反映することの実践的積み重ねを誘導してきた。このような背景ひとつを見ても,「公務員として当然のこと」だけでは済まされない重さがある。ましてや,投稿者も日常的に,何度もそのことに神経をすり減らしているはずである。
 国の図書館政策が大きく変えられようとする時,これに対する取り組みを推進する時図書館協会の機関誌に,このような論調が登場することにどのような意義があるのだろうか。今日の図書館問題の根本は,職員問題であるといっても過言ではない。こうした論文は,“図書館の自由に関する宣言”とそれに基づく資料提供の責任を果たそうとする心ある職員の士気を削ぐだけでなく,危機的状況に拍車をかけるにすぎない。

(たけしま あきお:栗東町立図書館

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Vol.92,No.1 (1998.1)

住民にとっての自由宣言 (小川 徹)

 あなたの,あるいはあなたが利用する図書館には『図書館の自由に関する宣言』がどこかに掲げられているだろうか。あるいは「利用案内」に見られるだろうか。『宣言』を何らかの形で住民の目が届くようにしている図書館は増えているように思われる。これは当然のことであるが,図書館が図書館の自由の原則に従ってサービスすることを利用者に約束する第一歩が,この宣言を住民に提示することであることばいうまでもない。そして住民に約束することば,実は自らを律することである。よくいわれるように,図書館の自由の実践は何より日常の仕事を通じてこそ実現されるべきものである。かつては館内で決めたのだが,あなたの職場の人事異動でひとが次第に変わっていくに伴い,いっしか曖昧になり,その大切さを語っても理解されにくくなっているということはないであろうか。大したことではないと図書館ではおろそかにしていないだろうか。例えば督促の電話をカウンターで大きな声でかけたりしていないだろうか。何気ない一言が利用者のプライバシーを損ねていることに気づいているだろうか。
 佐賀市図書館で,次のような「図書館の自由宣言」を掲げていることには考えさせられるものがある。
  § 図書館は市民の知る自由を保障します。
  § 図書館資料は自由に利用できます。
  § 図書館は利用者のプライバシーを守ります。
  § 図書館はすべての検閲に反対します。
 手元の「図書館の自由に関する宣言」と比べてみるとわかるが,文章が違う。例えば,確かに「図書館は資料提供の自由を有する」という表現にはさまざまな思いが込められている。しかも固い。この固さがこれまで資料提供をめぐる難しい問題に立ち向かうときの武器となってきたことも間違いない。と同時に,これを例えば上記のように「図書館資料は自由に利用できます」とやさしく言い換えることで,図書館の思いがよりよく住民に理解される,ということもあるのではなかろうか。それぞれの図書館が自分の言葉で図書館の自由についての原則を語る,住民に伝えていく,そのことによって,実は図書館の自由に関する原則はあなたがたの権利なのですよ,ということを言っていくことが大切なのではないか。それぞれの図書館の工夫と努力を望みたい。

 (おがわ とおる:法政大学)

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第91巻(1997年)


Vol.91,No.12 (1997.12)

図書館の自由と国際支援 (井上靖代)

 歴史の流れの曲がり角には図書館がある,というのは言い過ぎだろうか。『図書館雑誌』10月号で報告があったように,今年のIFLAコペンハーゲン大会で,図書館の自由に関する決議が2件行われた。一つはイスタンブール大会以来,懸案となっていた図書館の自由に関する委員会の設置についてであり,もう一つは南仏で起こっている公共図書館への右翼圧力に対する抗議声明ともいえるものである。詳細については,『図書館の自由』ニュースレター18・19号を読んでいただきたいが,これまでIFLAが各国の事情を鑑みて,直接的な意見表明や行動をとらなかった検閲や表現の自由など図書館の自由に関する事件について,新たに調査委員会を設け,なんらかの国際的な支援を図書館団体として行おうとする段階に入ったことを示している。JLAもIFLA加盟団体のひとつとして,その国際的支援の責任の一端を負うことになる。
 ベルリンの壁崩壊後あたりから,ヨーロッパでは多元的思想に対する圧力が高まっている。多様な自由主義的な思想に裏付けられる公共図書館は,その攻撃の矛先となっている。その一つがボスニア図書館の焼き討ちといえるかもしれない。今回は,フランス・オランジュ市で極右政党ナショナル・フロントに属する市長が当選し,自由・平等・博愛を掲げる公共図書館に対して,左翼系とみなされる図書やラップ音楽,北アフリカからの移民へのサービスとみなされる資料などを廃棄し,なおかつ図書館運営マニュアルをとりあげ,司書を追い出したという事件である。住民が選んだ市長の行動ではあるが,移民排斥を公約に掲げる市長の行動に対して,危惧を抱くのはEUおよびその周辺の図書館関係者たちである。ナチズムが一般大衆の支持を得て,ベルリンの広場で本を積み上げて燃やした記憶はまだ鮮明である。遠い異国の地の出来事としてみるのではなく,国際的支援体制を日本の図書館界も考慮し行動する歴史的な時が訪れているのかもしれない。

(いのうえ やすよ:京都外国語大学)

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Vol.91,No.11 (1997.11)

『チャタレイ夫人の恋人』と国立国会図書館 (佐藤毅彦)

 最近,D.H.ロレンス著,伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』完訳版が出版された。この本は,昭和32年3月の最高裁大法廷判決で,刑法175条にいう「猥嚢文書」にあたるとされたものを,ほぼ忠実に再出版したものだそうである。今回の出版によって改めて「わいせつ文書」として摘発された事実は,今のところ報道されていない。
 国立国会図書館では,内規で,「わいせつ物」にあたることが裁判で確定した資料について利用制限措置をとることができるとされており,昭和32年判決の対象となった『チャクレイ夫人の恋人』には,現在全面利用禁止措置がとられている。この内規は,先頃刊行された『図書館と自由第14集 図書館の自由に関する事例33選』事例11で紹介されている。手前味噌的になるが,この内規は,「図書館の自由に関する宣言」第2−1の精神を,図書館レベルで明文化したものとして評価できると,個人的には考えている。
 ところが,今回の『チャタレイ夫人の恋人』出版に話を絞ると,この全面利用禁止措置は事実上意味をなさなくなったと考えられる。そこで問題となるのが,@そもそも,裁判で確定した「わいせつ物」を利用制限する必要があるのか,A利用制限措置をとった場合,再審査の客観的基準の設定・公開が必要なのではないか,という点である。
 「わいせつ物」に関しては,資料保存の観点から若干の利用制限が必要となる場合は考えられる。しかし,裁判所の「わいせつ」判断を国民が検証する機会を提供するためにも,全面利用禁止にすべきではないと考える。現に利用禁止措置がとられている資料については,社会の「わいせつ」評価が流動的な状況も鑑みて,別に特段の事情がない限り,たとえば5年(裁判による確定であることを尊重して,ある程度長期を設定してみた)後には閲覧条件を緩和してもよいのではなかろうか。                    

(さとう たけひこ:国立国会図書館

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Vol.91,No.10 (1997.10)

貸しビデオ店のガイドライン (伊藤昭治)

 神戸で起こった少年殺害事件は,図書館界で大きな話題になった。顔写真の載った『フォーカス』の対応には,日本図書館協会が見解を出さねばならないほど各館では右往左往した。
 それにもう一つ,レンタルビデオ店への貸出し記録の照会も,見落とせない問題である。新聞によると,捜査本部は事件発生直後からビデオ専従班を設けて,猟奇殺人や遺体切断などを扱ったビデオと犯行の手口の分析をはじめた。そしてホラービデオ10本をリストアップし,現場周辺のレンタルビデオ店を中心に,貸出し記録を任意で提出するよう求めていた。
 ある店では,求められた以外にも猟奇的とされる16本分を自発的に加え,記録に残っていた延べ60人分の名簿を渡したという。また別の店では,店にあった1本について30人のリストを提出した。心苦しかったが解決のため仕方がなかった」ということだ。
 提出に応じなかった店もある。「貸出し記録は顧客のプライバシーにかかわる問題だから」と原則を貫いた。レンタルビデオ店の多くは会員制をとっており,内規で“令状による捜査でなければ会員情報は表に出さない”と決めているが,それらの店も「今回の事件はあまりにも凶悪で,“絶対にだめ”では市民感情が許さないだろう」「いっそのこと強制捜査してもらえると助かる」と板挟みの心境を打ち明けている。ビデオ店にもこうした規則があり,しかも守られているのに心強く思った。
 かって各務原市で起きた少女誘拐事件のとき,ある町立図書館長が協力を求めにやってきた刑事に,設置条例の“利用者を守る義務”を説明して調査依頼を断った話をした後,「もしもこれが自分の町の住民が被害者の事件であれば,同じ対応ができたか疑問ですね」と述懐したのが印象に残っている。ビデオ店でも同じ心境であったであろう。事件の地元など,地域によって必ずしも同じ対応はできないこともあろうが,図書館でも基になる考えは何かを知って対処しなければならない。
 一般論で言えば,誰がどのようなビデオを見たかは個人の信条にかかわるプライバシーであり,第三者に漏らすべきでないこと,まして捜査する側の言う「犯人はビデオマニア」という説に,はっきりとした根拠があるわけではない。それだけに,多くの人にプライバシーの犠牲を強いることば問題だといえる。図書館にはホラービデオはないものとさ
れ,今回はそうした照会はなかったようであるが,もしあれば事件が事件だけに戸惑ったであろう。レンタルビデオ店ではその後,統一的ガイドラインの作成を決めたということである。         

 (いとう しょうじ:阪南大学)

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Vol.91,No.9 (1997.9)

司書教諭講習に「図書館の自由」の講座を (細川直美)

 「学校図書館法の一部を改正する法律案」が,5月9日に参議院本会議で,6月3日には衆議院本会議で可決された。これにより,2003年(平成15年)4月1日以降は,小規模校を除く全国の小・中・高等学校に司書教諭が配置されることとなった。改正案の提案骨子は,@司書教諭の講習を,大学に加え新たに大学以外の教育機関が行えるようにすること,A司書教諭の設置猶予期間を,現行法附則第2項に「当分の間」とあるのを「平成15年3月31日までの間」とすることの2点である。
 毎年6月頃になると,教員向けの司書教諭講習の案内が,各学校に届きはじめる。今年は開講を義務づけられた国立大学をはじめ,新規開講の大学からの案内も送られてきている。司書教諭資格に必要な単位は7科目8単位(学校図書館通論,図書の整理・分頬,図書の整理・日録,学校図書館の管理と運用,児童生徒の読書活動,図書以外の資料の利用,学校図書館の利用指導,図書の選択)である。司書教諭相当職務の経験が4年以上あると認められれば,図書の整理1科目2単位だけで修了証吾が受けられるようになっている。司書教諭配置に向けての具体的な条件整備としては,とりあえず有資格者を増やすことが第一義であるが,教員たちは,夏休みと言えども休んではいられない。クラブ活動,就職指導,生徒の2次募集と忙しい。何人ぐらいの教員が受講するのだろうか。資格取得と発令が必ずしもリンクしていないのも現状である。
 司書教諭講習で,ぜひ内容に加えてほしいのは,図書館ルールの基本とも言うべき「図書館の自由」についての講座である。学校図書館は,子どもの読みたい・知りたいという要求に応える機関であり,読みたい・知りたいという要求を自ら進んで持つようになるように手助けをする機関でもある。
 「図書館の自由に関する宣言」では,人種・信条・性別・年齢で差別されてはならないとある。「子どもの権利条約」では子どものプライバシー保護,思想・信条の自由を尊重している。学校図書館の自由が守られるとき,子どもの「読書の自由」が守られる。
 司書教諭は,知る自由を保障し,資料収集や情報提供の自由を守る図書館人でなければならない。             

 (ほそかわ なおみ:東京都立南高等学校図書館)

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Vol.91,No.8 (1997.8)

オンライン・ネットワークと「図書館の自由」 (井上靖代)

 6月にふたっの新聞記事によって「図書館の自由」を再び考えさせられた。ひとっは「通信品位法」が米最高裁で違憲との判決がでたことである。表現の自由を法的に再確認するとともに,未成年でも誰でも自由に情報にアクセスできる,インターネット社会での図書館の存在意義とその役割を明確化したともいえよう。もうひとつはこの,誰でも自由にアクセスできることを,不正に行った大阪市図書館ネット・ハッカー事件である。
 6月21日付新聞記事によれば,コンピュータ・ネットワークへの不正アクセスがあり,侵入者からセキュリティへの「警告」まで受けていたものの,個人情報は無事だったとのこと。大阪市立図書館ネット(通称OMLIN)では個人情報は別にしてあり,侵入されても始めからアクセスできないようにしてあった。これはすでに,1984年の「貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準」や自由委員会の見解に表明されている方向性に沿うものであると思う。
 だが,侵入者は全国の図書館へ偽電子メールを送り,パスワードとユーザーIDを入手しようとしている。こういった事態への対応が各図書館でどれだけなされているのだろうか。さらに所蔵目録のオンライン化や貸出業務のコンピュータ化に伴って,どれだけ個人情報の保護について最大限の注意を払っているのだろうか。例えばパッケージになった貸出業務管理ソフトを利用する際に,個人の名前がレシートに返却予定期日とともに印刷されることもあるが,このようなことに何ら疑問を感じないのは問題ではなかろうか。コンピュータが図書館業務で活用されるのが一般的になり,さらにオンラインで館外とつながってきた今こそ,もう一度情報化社会での「図書館の自由」を考える必要があるだろう。

 (いのうえ やすよ:京都外国語大学)

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Vol.91,No.7 (1997.7)

「ヘア・ヌード」誌と「すみ分け」要求 (山家篤夫)

 今年2月6日,東京都議会文教委員会は,「公立の図書館及び学校などの公共施設に,青少年に有害なヘア・ヌードを掲載した出版物(表題はヘア・ヌード関連雑誌)を置かないようにしていただきたい」という陳情を審議し,学校にかかわる部分についてのみ趣旨採択した。
 この陳情は,千代田区紀尾井町のマスコミ倫理研究会(小川空城会長)から提出されたもので,同一内容の他1件とともに1995年3月9日に委員会に付託,一括議題にされた。宗教団体「幸福の科学」(小川氏が広報部長)が94年末から「ヘアヌード週刊誌」排除の議会要請運動を全国的に行った時の陳情が,今年7月の都議会解散を前にして処理されたものである。速記録によると質問者は1名で次のような審議がされている。都立図書館では,不健全図書に指定されたものについては,収集していないがその他のものについては,特に排除していない現状にある。
○F委員 都立の図書館での収集の方法はどのようになっていますか。
○生涯学習部長 図書資料収集方針というのを定めまして,さらに図書資料選定基準というものを定め,特に性につきましては,人間性の尊重を損なうおそれのある資料を除き収集するという形になってございます。
○F委員 ヘアヌードということでくくってしまいますと,何だかはっきりしないことはあるのですが(中略)不健全図書に指定されていないものでも,私たちが見ていて非常に不快であるというものも大変多く見られるのが現状だと思います。私は雑誌など,オープンということでございますので,ぜひすみ分けするような方向をとっていただきたいということを要望しておきたいと思います。〔のち上記採択〕
 質問者は,収集中止を求める陳情趣旨にこだわらず,いわゆる不快禁止原則に基づくすみ分けを図書館に要望している。これは「不快を及ぼすかもしれないものの公開を禁止することはできる」というもので,表現の自由を尊重し,猥嚢文書の法的規制を緩和・失効させる有効性をもっており,欧米では定着してきた考え方や方法である。猥褻文書どころか不健全図書ともいえず,「何が何だかはっきりしない」表現を「包括規制」する手がかりとするにはなじまない。個人感情を理由に表現を規制する傾向のあるなか,追究すべき考え方である。

 (やんべ あつお:東京都立日比谷図書館)

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Vol.91,No.6 (1997.6)

「ユネスコ公共図書館宣言1994」と館長資格 (馬場俊明)

 1995年,日本図書館協会の「図書館の自由に関する調査委員会」では,全国の公立図書館を対象に,「図書館の自由」に関するアンケート調査を行った。一部概要結果については,昨秋の大分での全国図書館大会や本誌4月,5月号等で,すでに報告されている。
 自由委員会では,調査結果をさまざまな角度から分析しているが,全体的に「図書館の自由」への関心が低く,「図書館の自由に関する宣言」についての認識も甘い。この背景には,ひとりひとりの図書館員が,「図書館の社会的責任を自覚し,自らの職責を遂行していくため」の自律的規範を見失っている現状がうかがえる。特に,運営と管理の責任者であるべき館長の社会的基盤が脆弱になっているのが危供される。
 確かにいま,公立図書館は,人的,物的,財政的に厳しい現実にある。「地方分権推進委員会中間報告」による「規制緩和」は,図書館等の建設費補助金を廃止し,それにともなう館長の司書資格要件まで削除して,図書館法の精神を踏みにじろうとしている。
 こうした状況に対して,図書館・図書館員は何をすべきか,逆にいえば,その力量が問われている。
 先年,改訂された「ユネスコ公共図書館宣言1994」ではそうした図書館・図書館員の基本的使命や理念が明確に表明されている。
 宣言は,「国および地方自治体の政策決定者,ならびに全世界の図書館界が,この宣言に表明された諸原則を履行することを,ここに強く要請する」として,次のように述べている。
 公共図書館は,「教育,文化,情報の活力であり,男女の心の中に平和と精神的な幸福を育成するための必須の機関」であり,「蔵書およびサービスは,いかなる種類の思想的,政治的,あるいは宗教的な検閲にも,また商業的な圧力にも屈してはならない」としている。そして,国および地方自治体は,その発展を支援し,積極的に関与しなければならないという。さらに,運営と管理に関して,「地域社会の要求に対応して目標,優先順位およびサービス内容をさだめた明確な方針が策定されなければならない」など,専門職としての役割と意思決定者としての能力を求めている。
 宣言は,なぜ,館長に司書資格が必要か,という問いへの有効な回答書になりうるが,それはすべて図書館員の力量にかかっている。

 (ばんば としあき:堺女子短期大学)

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Vol.91,No.5 (1997.5)

「検閲ではない」? (藤原明彦)

 北海道倶知安町の町立絵本館での妙な事件が今年の2月,北海道新聞(2月6日後志版)で報道された。同館が去年の11月に北海道立図書館から借りた306冊の絵本や児童書のうち,『少女と風船爆弾』(日台愛子作,理論社)と『毒ガス島』(早乙女勝元・岡田黎子編,草の根出版会)の2冊を町教委が預かったままで,利用できないというものである。新聞報道にみるこの件に関しての町教委の対応や見解は実に興味深い。以下に筆者の注釈をつけて抜き出してみた。
          *    *    *
 @12月中旬,目録を見た町教委職員は「2冊の内容を知りたいので,貸し出さないでほしい」と指示している。この「指示」を出した職員は,どのような権限があって「貸し出すな」とまで指示できたのだろうか? A問題の2冊は「強烈なイメージだったので,内容をとりあえず見てみたいと思い借りた」のだそうだ。が,@を見る限り「借りる」というより「貸出を禁じて持ち去った」というほうが説明として正しいだろう。
 B町教委は「検閲までの意図はなく,児童書としてふさわしくない内容だった場合,どうするかについては考えていなかった」と釈明した。彼らの「検閲までの意図」とは一体どんな意図のことだろうか? また,誰の判断だか知らないが「ふさわしくない内容」とやらだった場合,「どう」かするつもりだったらしいことがわかる。
 C1か月以上,絵本館に返却されないことについて「仕事に追われているうちに時間がたってしまった」としている。「内容を見たい」からと貸出を禁じてまで借りたにしては,ずいぶんずさんな話である。
          *    *    *
 以上のような釈明をした上で,町教委側は「一連の経過をみて結果的に検閲だと受け取られるとしたら申しわけない」としている。どうやら,町教委はこうしたことが「検閲だと受け取られる」とは思わなかったらしい。絵本館もずいぶんとなめられたものである。町教委にその主体性のなさを見透かされていたように思える。
 町教委の主張を何度も読み返しているうちに,思い出した知人のせりふがある。いわく,「他人がやったら検閲,自分がやったら教育的配慮」だそうだ。今回の例にぴたりとはまっているような気がして,少し怖い。

 (ふじはら あきひこ:埼玉県立久喜図書館)

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Vol,91,No.4 (1997.4)

知ることは生きること (土居陽子)

 生きていくうえで「知る」ことがどんなに大切で必要かというのは,ふだんの生活のなかでは気づかないでいることが多い。しかし,ひとたび生死や利害に関わることに直面すると,知ることが生きる力になることを実感することがある。先ごろ読んだ種村エイ子さん(九州で文庫活動や司書養成に関わっているライブラリアン)の『知りたがりやのガン患者』(農文協1996)は,まさに「知ることが生きること」を実感させる体験記であり,「図書館の自由」について考えさせられた。
 種村さんは書名どおり知りたがりやのガン患者。医師に突っ込んだ質問をして,時にはギクシャクしたりもする。彼女は病気の真実を知ることで,納得のいく治療法を自身で選択できる力を身につけたいと切望する。情報を求めて右往左往し,ショックをうけ,迷いながら,ガンの知識を自分のものにして,判断力をつけていく過程は,「知る」ことの重要性をひしひしと感じさせる。
 種村さんのライブラリアンとしての感性に共鳴するところが多かったが,中でも「患者の権利事典」(患者を闘病の主体として「知る権利」や「自己決定権」などの権利を掲げている)は,「図書館の自由」と共通するものがあって興味深かった。昨今,関心の高まっている「ガン告知」や「インフォームド.コンセント」なども,基本は自分のことを患者自身が知ることである。そのうえで治療や臨床試験を患者の意思を尊重しておこなう。もちろん,「知りたくない自由」もあると思うが,どんなこともそれに主体的に関わるためには,まず「知る」ことが保障されなければならないのは当然であろう。図書館が主権者たる国民に「知る自由」を保障することの意味,それが民主主義を支えるのだということを,改めて確認させられた。
 4月は学校図書館ではオリエンテーションの月。生徒たちに「知る」ことの重要性と,図書館の素晴らしさを,ぜひ伝えたいと思う。
 本のことで付け加えるなら,種村さんが,入院中に病院への図書館サービスの必要を痛感したことや,自分がガンだということを秘していたとき,いっも利用している図書館でプライバシーへの配慮があっても,貸出や予約を躊躇した微妙な心理などについては,真摯に受け止めたいと思った。        

 (どい ようこ:西宮市立西宮市東高等学校図書館)

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Vol.91,No.3 (1997.3)

学校図書館と「宣言」ポスター(佐々木信子)

 『図書館の自由に関する宣言』のポスターを掲示して2年。それは,図書館の入口ドアを開けると真っ正面の,閲覧室中央に位置する窓際の掲示板に提示してある。
 先日,カウンターで貸出手続きをしているときの会話.…「あのポスターって,2年生のときから気になっていたんですけど,なんかすごいですよね。学校の図書館も図書館協会なんですか?」「あれはね,日本図書館協会ができて100年になるんだけど,その長い歴史の中でさまざまなできごとがあって,不当な検閲に反対することや自由を守ることなどを,40年前の全国図書館大会で図書館人たちが確認したものなの。いま掲示してあるのは1979年に改訂されたものだけれど,学校の図書館も公共図書館も図書館。日本図書館協会の中に学校図書館部会というのがあって,学校図書館についての研究や勉強会をしているのよ。このポスターもそこからいただいてきたの」「ふ−ん」「君が借りたこの本だって,誰が借りたかわからないようになっているでしょ。個人の人権やプライバシーに配慮してのことなの。それからリクエストや予約制度もそうなのよ。ひとりひとりを大切に,なの」「へーえ。親切だなとは思っていたけど,図書館ってそういうわけなんだ」「そうなのよ。わかってくれた」というようなやりとりをした。生徒の生き生きとした表情とさわやかな笑顔。そして,図書館側の姿勢を理解してもらえた充実感と確信できた信頼関係。
 司書が日々の図書館活動の中で図書館員としての自覚を持って行動していくことと,誠実で地道な実践活動の積み重ねによる生徒との信頼関係を結ぶことの大切さ。“知る自由”を図書館が保障してくれる。それを体験した高校生が大学生・社会人になったときに,図書館の自由を守る協力者に,支持者になると信じつつ,今日もまた忙しさと格闘中…。 

(ささき のぶこ:東京都立北園高等学校)

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Vol.91,No.2 (1997.2)

『富岡町志』問題その後 (棚橋満雄)

 この間題については,昨年2月のこのコラムに書いた。その3か月後の5月1日,調停申し立ては取り下げられて和解することになった。図書館で保存する富岡町志については,当分の間,閲覧・貸出を停止して閉架書庫に保存する。それ以外の富岡町志については回収し,プライバシーに触れる部分を削除した新しい富岡町志と交換することになったのである。
 この解決のやり方が正しかったかどうかについては確信は持てないが,図書館の所蔵する資料の焼却という事態をさけることができたのはよかったと思っている。
 この間題の中でいろいろなことを考えさせられたが,その中の一つは,富岡町志を読んでいなかったことがこの問題を引き起こしたということである。問題が起こって初めて私はこの本を通読し,該当の箇所を発見した。他の館においても,戦前の町村史には富岡町志と同様の問題をもった資料が多いと思われるので,二度とこういう問題が起きないように資料に目を通しておく必要がある。同時に,資料提供の自由とその利用制限(人権またはプライバシーを侵すもの)の事例として,さらに「自由宣言」の理解と定着を図らなければならない。
 問題が解決できたのは,町長,町議会の協力のおかげである。町長は問題が解決するまで,数回にわたって私とともに申し立て人との話し合いを行ってくれた。また,町議会同和対策特別委員会は2度開かれ,この問題を論議し,代表が申し立て人と話し合いを行った。
 また,問題が起こった当初から日図協の図書館の自由に関する調査委員会とは連絡をとってきた。
 問題解決にあたって関係各位のご協力に心から感謝したい。
 なお,問題の経過については図問研編集の『みんなの図書館』1997年2月号(p.72−77)に書いているのでご覧いただきたい。

 (たなはし みつお:那賀川町立図書館)

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Vol.91,No.1 (1997.1)

オウム教団捜査に関わる懸念 (山家篤夫)

 警察からオウム真理教関係の捜査のためとして図書館利用記録の提供を求められ対応した報告を宮城県立(10月),東京・江東区立(11月)から相次いでいただいた。
 両事例とも刑事訴訟法第197項第2項(捜査関係事項の照会)に基づく任意捜査協力依頼である。宮城県の場合は,「県内に容疑者が潜伏している可能性がある」として,個人貸出申込票の閲覧・貸出しを,江東区の場合は,オウム真理教の信者がもっている区内共通貸出券の番号というメモを示し,「容疑者が偽って登録したかもしれないので,登録申込書と貸出リストを見せてほしい」というものだった。両事例とも筆跡や指紋をとりたいと説明されたというが,捜査の目的と提供を求められた利用記録との関係がきわめて曖昧な点で共通している。いわゆる“さぐりの捜査”である。
 図書館側の対応も次の点で共通した。@検討の時間を求める,A個人情報保護条例所管部局に頬似対応事例を聞く(宮城県の場合,県税事務所では基本的には断っているようで,回答を拒否しても罰則規定はなく,どうしても必要な場合は令状による押収という強制手段が残されている,と回答があった。江東区では,197条2項の照会について,個人に関する情報は拒否できる,という回答だった。),B日図協に照会する,C教育機関である図書館として判断・決定する,D地公法の守秘義務と「図書館の自由に関する宣言」「図書館員の倫理綱領」に基づき,提供できないと回答する,というものである。
 昨年の夏に全国の公立図書館にお願いした図書館の自由に関するアンケート調査の結果では,捜査機関からの照会を受けて日図協に相談したという回答は5%弱だった。図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会は両事例のほか,8月に静岡県内のいくつかの図書館にオウム真理教関係の捜査として照会が続いたとの報告をいただいているがみんさんの館ではいかがだろうか。オウム真理教関係者すべてを捜査機関の監視下におく破壊活動防止法の団体規制の手続きが進む中,図書館利用者の個人情報全般が“照会”や“さぐりの捜査”の対象にされる可能性は続いている。
 宮城県立では,地下鉄サリン事件に係る国立国会図書館利用記録押収事件に際してのセミナー記録「図書館利用者の秘密と犯罪捜査」(『現代の図書館』Vol。34 No。1所収)が,江東区立では「名古屋市図書館・プライバシー保護の手引きについて」(高木奈保子『図書館評論』37所収)が参考になったという。ご一読を願うとともに,利用記録を極力残さない工夫.努力の必要性を改めて確認したい。

 (やんべ あつお:東京都立中央図書館)

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第90巻(1996年)


Vol.90,No.12 (1996.12)

「図書館のイメージ」をどう変えるか (渡辺由美)

 学校の怪談がブームである。中丸千賀子「学校の怪奇ファイル」(日本児童文学者協会編『学校の怪奇ファイル』借成社・所収)は,図書室の怪談で,本の貸出カードに並ぶ名前が重要なポイントになっている。昨年公開されたアニメ映画『耳をすませば』でも,主人公が本の貸出カードにいつも同じ名前があるのに気づくことから話が展開していた。学校や公共図書館では本を借りた人の名前が簡単にわかるというイメージが一般にはあることをうかがわせる。
 『幻境図書館』(河路悠,秋田書店)というマンガは,市立図書館を舞台に怪奇現象を不思議な力を持つ司書が解決する話である。ある事件で,司書は「個人情報を利用するなんて…」と良心の呵責を感じつつもコンピュータで調べた貸出情報を協力者に告げる。これでは事件解決という大義名分の前には個人情報は守られないのでは,という印象を抱かせる。サリン事件の時の国立国会図書館の利用記録の押収を思い起こさせ真実味がある。
 図書館界は「図書館の自由に関する宣言」を採択し,プライバシーの保護を重視して,貸出方式を個人の貸出記録が残らないものに改良してきた。学校図書館においてもさまざまな努力が続けられている。しかし,それが一般の人には伝わっていない。また,これらの作品の対象は,主に子どもまたは若者である。まだ社会的な経験の少ない彼らがこうした作品に触れ,間違った認識をそのまま受け入れて育つことを考えると,今後ますます図書館を利用してもらいたい年代だけに不安である。彼らに対して図書館のイメージを回復することば容易ではない。
 督促や予約の連絡,落とし物に図書館の券が入っているという問い合わせ,あるいは,“『耳をすませば』を見たよ”というひと言など,日常出会う「図書館の自由」に関することはちょっとした出来事であることが多い。それを見逃すことなく解決して職員全員のものにしていくこと。その小さな積み重ねによって,図書館の自由はあたりまえのものとして根づいていき,自然に利用者の信頼と満足を得るのだと思う。そのためにも自由宣言を世間にもっと広くPRしていくことが必要である。

 (わたなべ ゆみ:枚方市立嗟ダ図書館)

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Vol.90,No.11 (1996.11)

図書館が果たすべき役割とは‥・ (石谷エリ子)

 推理小説やコミック本では,図書館(特に大学を含めた学校図書館)がある役割を果たすために登場することが少なくない。役割とは「事件」の謎を解く「手がかり」を与えることであり,それはイコール「利用記録の提供」である場合がほとんどではないだろうか。私たち現場の図書館員から言わせれば「こんなこと教えるわけないでしょーが?」なのだが,いつまでたってもこの種の「図書館の役割」がなくならないのは,どうしたことか。ストーリーの展開上非常に便利に利用記録が利用されているわけだが,作家の皆様の認識不足,というだけでは済まされない気がする。ひょっとして「図書館は利用者のプライバシーを守る」ことが社会の常識になっていないことの証明なのかもしれない。
 ちなみに,筆者の勤める図書館のカウンターでも,自分が借りたい本が貸出し中の場合,「きっとそれは00先生が使っているんじゃないかな?ね・そうでしょ?」からはじまって,単刀直入に「だれが借り出しているのか教えてよ。直接見せてもらいにいくから」まで,事例に事欠かない。もちろん,ブラウン式の時代から,現在のコンピュータ処理にいたるまで,プライバシーは守ってきている。返却後は個人の貸出記録は残らないし,返却督促は封書で出しているし,電話で督促するときはカウンターの電話は使わないようにしているし,家族といえども具体的な書名などをあげて伝言しないし,リクエスト用紙は申込者名が伏せられるように工夫している。
 こういった図書館としてはいわば当然の配慮が,利用者である学生・教職員・市民に十分に理解されているとはいえない現実の背景に,図書館自身のPR不足もあるのではないだろうか。
 東京・町田市立図書館の「図書館だより」53号(96年8月)では,「図書館の自由に関する宣言」の特集をしている。題して「ご存知ですか?『図書館の自由』!」。「もし,あなたの読んだ本が他人に知られてしまったら…」と『図書館は利用者の秘密を守る』などの図書館の自由に関する本を紹介,宣言についての町田市立図書館の考え方も5項目にわたってわかりやすく説明している。同様の広報活動をしている図書館もあるかと思うが,利用者の心に届くような,こうした日常的な図書館の努力の積み重ねで,図書館が果たしている役割を社会の常識として根づかせていきたいと思う。         

 (いしたに えりこ:和光大学附属梅根記念図書館)vもくじに戻る


Vol.90,No.10 (1996.10)

たかがポスター,されどポスター (白根一夫)

 「図書館の自由に関する宣言」採択40周年を記念して「宣言」のポスターが全国の公共図書館に配布されたのは2年前の1994年であるので,多くの方の記憶に新しいと思う。全国の県立図書館等から館内での掲示をお願いして配布したと思うが,果たして実態はどうだろうか。福岡県内でもある町立図書館では,移転のどさくさでポスターをなくしてしまったとか,特に必要と考えなかったので掲示していないとか,ある市立図書館では特に理由はないが掲示していないというところもある。しかし,多くの図書館が場所は各館によって違うが館内に掲示している。
 ポスターは掲示を前提としている。掲示してこそポスターの意味がある。掲示していないとそのポスターはいずれ廃棄されるか,紛失の憂き目にあうことは間違いない。
 2年前に配布をした時,日本図書館協会から県立図書館へ図書館数より多く送られてきた。今後新設される図書館も見越しての送付だったかもしれないが,福岡県教研集会に参加する高等学校の司書さんたちにも配布した。毎年開催される教研集会の学校図書館分科会でチューターを2年前から引き受けることになり,高校司書さんたちが「図書館の自由」につ‥いて教師に説明しても理解してくれないとか,ひどい場合は宣言の存在すら信用してくれないという状況を知ったからである。昨年の教研集会で,掲示したポスターを見せながら説明すると「本当に宣言はあるんだね」と納得してくれたと明るい顔で報告してくれた。
 移転のどさくさでポスターをなくしてしまったある町立図書館には,有料になるが協会から手に入れお渡しした。また,掲示していない図書館には上記のようなケース等を話してみることも必要であろう。しかし,掲示するかどうかは当の図書館以外から強制されてするものではない。図書館自身の判断で決定するものである。また40周年だった2年前の後開館した図書館は持っていないので,掲示しようにもできない。これら新しい図書館には,協会は県立図書館や県図書館協会と連絡をとって配布すべきだろう。      

 (しらね かずお:福岡県立図書館)

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Vol.90,No.9 (1996.9)

ある県立図書館の憂鬱 (山本順一)

 不幸にしてある県立図書館が巻き込まれたこの事件は,わが国の図書館の自由にとって,新たな問題を投げかけた‘画期的な’しかし厄介な点を多く含む事件である。
 時の経過を追ってこの事件のあらましを紹介したい。3年前,高校の女性教師の運転する車が駐車していた車に追突した。市の職員であった被害者が示談交渉の過程で‘恐喝未遂’の加害者に変貌したとして起訴され,一昨年地裁で懲役10年執行猶予3年の有罪判決をうけ,控訴したが本年2月棄却され,刑が確定した。この事件と当事者の教師について,地元のローカル月刊雑誌が関係記事を3号にわたって掲載をした。その記事のひとつは件(くだん)の教師と家庭紛争を展開している実妹が,妹の立場から姉の芳しからざる過去と私生活を暴霧したものであった。
 この教師は,本年6月,その雑誌の出版社とその社長,および印刷会社に対し,自らの名誉権とプライバシーの権利を被保全権利として,当該雑誌の販売と広告行為の差止めの仮処分命令を地裁に申し立てた。地裁は申立人の主張をほぼ全面的に認容した。
 この仮処分命令を得た教師の側の弁護士が,地元県立図書館に警告書を送りつけてきたのである(県立図書館を含む多数の機関に同旨の警告書を発送したことが窺い知れる)。彼らの言い分は,同雑誌の閲覧,貸出の継続が同教師の人格権侵害の不法行為を構成し,閲覧,貸出サービスの中止要求に応じなければ訴訟も辞さないというのである。
 県立図書館は,公的任務を帯びた‘善意の第三者’である。所蔵している雑誌のかかる権原を失うことはありえない。裁判所は取り返しのつかない事態の発生を危惧して,取り敢えず仮処分命令を発給した。時間のかかる本案訴訟において,雑誌社の表現の自由と同教師の名誉権,プライバシーの権利のありようが法的評価の対象となる。裁判所も仮処分の結果が訴外の図書館にまで飛び火するとは考えていなかったであろう。図書館が主体的な判断に慎重にならざるをえないとすれば,本案訴訟が確定するまで,実質的に図書館利用者の‘知る権利’が本来の範囲よりも縮減したまま放置されることにもなりかねない。県立図書館の憂鬱は続く。(ちなみに,県立図書館は,現在のところ,当該雑誌が編集著作物であるところから,権利者たる出版社の許諾を得て,当該雑誌の該当部分を除いたコピーを作成し,それを利用者の閲覧に供している。)                  

(やまもと じゅんいち:図書館情報大学)

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Vol.90,No.8 (1996.8)

蔵書についての照会 (塩見 昇)

 つい先日,新聞記者から電話を受けた。全国部落解放連合会(全解連)Y県連が県下の公共図書館に対して,「所蔵している部落問題(同和問題)関係図書の−覧」「部落問題(同和問題)関係図書で開架しているものの一覧」などについて回答を求める照会をしており,それについての図書館の対応がさまざまであること,こうした照会は検閲ではないか,という反応もあることなどを述べ,意見を聞きたいということだった。記者の話を聞きながら,すぐ頭に浮かんだのは,1983年に品川区議会議員が区立図書館の社会思想・労働問題関係の蔵書が偏向しているということで蔵書リストの提出を求めた事例であった。
 そのケースの概略を話している中で,記者の主たる関心は,こうした要求を図書館に寄せることば妥当か,検閲とは言えないとしてもそれに近いものには当たらないか,図書館としての適切な対応は如何,ということらしいと判断できた。
 私が記者に伝えた要点は概略以下のとおりである。@図書館の蔵書は基本的に公開されており,所蔵状況や配架の様子は誰でも自由に確かめられるし,その照会は検閲などというものではない,Aしかし○○関係図書のすべてをリストで欲しいという請求は,その図書館の資料データ管理方式により,非常な負担になることもあるので,応対に違いがあってもおかしくない,B「部落問題関係図書」という枠はあいまいで,回答するにもどれがそれに相当するかについて,求める側との話し合いで範囲等を特定することが必要だ,C照会者が部落解放運動の団体であり,三重県の事件に関連しての照会ということで,図書館側にある種の思い込みなり,身構えたところがあったのではないか,しかしそれは好ましいことではなく通常の蔵書についての照会,調査依頼(レファレンス・サービス)の範疇で対応すべきであったろう。
 記者の話では,一枚の文書による照会でそこに何ら対話はなかったようだとのことである。記者を介してなので詳細はわからないが,ここにはいくつもの教訓が示唆されよう。とりわけ,相手が誰であり,どんな目的であれ,丁寧な話し合いを通して図書館としては何ができ,何はできないかをはっきり伝え,要求者に理解を得ることの重要さである。そのまずさが余計なトラブルや紛糾を招き,いたずらに「問題」を生じさせかねないことを自戒すべきである。

(しおみ のぼる:大阪教育大学)

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Vol.90,No.7 (1996.7)

「新版」の理由 (藤原明彦)

 児童書の『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日著,理論社)が「新版」として改めて発刊されることになった。北海道ウタリ協会から,作品中に引用した童話『春を告げる鳥』(宇野浩二作)にアイヌ民族への差別を助長する表現があるという指摘を受けたためである(なお,この指摘については,個人的には賛同しかねることをお断りしておく)。この『春を告げる鳥』は,これまでの版の中では重要な役割を果たしていたものであるが,「新版」ではこれをそっくり削除し,古田氏自身の創作とそれによる作中人物の感想,考えに入れ替えている。今回のこうした措置には,重要な問題点が含まれているように思う。
 古田氏が,自分の作品に対する指摘を受け止め,その結果作品を改訂して再発表するのは,確かに最終的には古田氏自身の判断に委ねられるものではある。しかし,今回の『春を告げる鳥』は,作品中のさまざまな場面に波紋を投げかけていた重要なトピックであった。それを削ってしまうのは,少なくとも「旧版の一部を訂正したもの」(著者による新版「あとがき」より)といった簡便なものであるとは言えない。この改訂は「新版」というよりは『新・宿題ひきうけ株式会社』になってしまったのではないだろうか。
 出版元である理論社は,図書館に対し,書面で「読者,とりわけ子どもへの影響を考えますと,‥‥‥どうぞご理解をいただき,ご所蔵の『宿題ひきうけ株式会社』に関しまして,教育的配慮をもって対応して」ほしいと依頼している。要するに,一般的に提供する『宿題ひきうけ株式会社』を「新版」のほうにしてほしいということである。図書館が新版を開架とするのが通例であることを意識して,こうした依頼を出したとすれば,理論社がこの『宿題ひきうけ株式会社』を「新版」という形で出すことによって,「旧版」の(図書館における)閉架化・死蔵化を狙っているということもできる。古田氏にとって,自分が精魂込めて創り上げた作品中でわざわざ用いた『春を告げる鳥』は,そんなに簡単にかわりがきく程度のものだったか。

(ふじはら あきひこ:埼玉県立熊谷図書館)

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Vol.90,No.6 (1996.6)

「図書館の自由」を守る 館長の職責 (三苫正勝)

 最近のいくつかの事例から,改めて図書館長の条件に思いを馳せている。
 一つは富山県立図書館の図録『’86富山の美術』所有権放棄である。「図書館の自由に関する宣言」に反し,県の事務決済規定に拠って,図書館資料を単なる「物品」として処分したものである。その時,館長は「館長の責任と権限で決めた」と言っているが,これは図書館長としてではなく,県の部長としての決定に過ぎないであろう。次に三重県立図書館の同和問題関係資料の取り扱いに関してである。部落解放運動の方法についていくつかの対立する考えがあるが,その一方の資料を閉架にしたという。しかも朝日新聞の報道によると,「県の方針を否定する本」を閉架に置いたという。図書館の主体的な判断ではなく,館を超えた次元での意思に従っているという点で,富山の例と共通している。
 他方,徳島県の那賀川町立図書館における『富岡町志』の利用停止焼却要求問題については,調停申し立てをした当事者との間で和解が成立したと聞く。図書館の方針が通り,直接個人の人権に関わるものであるが,焼却はせず,利用制限処置をすることで決着したという。これは図書館の主体的な判断に基づいた主張が理解された結果である。また,松本サリン事件の際には,松本市立図書館で小説『みどりの刺青』が一時利用停止状態になったことを,市民やマスコミから批判されたが,図書館は自らそれを反省して,利用者懇談会を開いて「図書館の自由」を守る決意を表明した。
 これらの事例を見ていると,時の流れに左右されない図書館の責務を果たす要件としての館長の条件が浮かび上がってくるように思う。もちろん図書館活動は,多くの司書職を含む図書館職員集団の「図書館の自由」を守ろうとする意思によって維持されるのであって,館長一人によって左右されるものでないことば明らかであるが,少なくとも外部の不当な圧力を拒否することにおいて,館長の責任は極めて大きい。人類の記録を保存し,国民の知る自由を保障するという普遍の理念を表現した「図書館の自由に関する宣言」を守るという点で,館長の司書としての経験と見識が,見事に結果として表れたとしか言いようがない。                  

(みとま まさかつ:夙川学院短期大学)

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Vol.90,No.5 (1996.5)

一冊一冊の資料を大切に考えたい (和田匡弘)

 昨年は図書館の自由にとって大きな問題があった年である。国立国会図書館の利用者記録押収事件,富山県立図書館の「図録」所有権放棄,ヘア・ヌード掲載雑誌の排除陳情などである。こうした事柄のかげに隠れて図書館界では大きな話題にもならず埋もれてしまっている問題に毎日ムック「戦後50年」削除シール貼付依頼がある。
 1995.7.1付で毎日新聞社クロニクル編集長名の郵便物が発送される。この文書によると,同書236ページ(1974年)の「3/19 西宮の心身障害者施設の浄化槽で園児2人死亡,保母逮捕へ(山田事件)」の部分を白紙の訂正シールで削除するよう所蔵館に依頼するものであった。編集過程でのミスとされる部分は,この事件は通称「甲山事件」とされているが,逮捕された保母の実名を冠した「山田事件」と記述した点にある。
 この事件は現在も係争中であり,支援団体として「甲山事件救援会」(以下「会」という)が活動している。この「会」との話し合いの結果「記述そのものを削除」することを再版を含め取り決めている。1995年9月25日発行「甲山裁判支援通信」に掲載された毎日新聞社への「質問状」では@保母が犯人であるとの印象を植え付ける。A事件名に実名を冠しプライバシーを侵害している。Bその後の経過の記述がないなどを指摘している。毎日新聞社と「会」の話し合いのなかで当該記述の削除が決まっていったと推察できるが,削除依頼文は,県庁所在地の図書館等100の施設に限られている。
 ごく普通に考えれば,出版者と当事者が合意して削除を決めたのであるから,図書館は何ら判断することなく単なる正誤と同様,この事実を受け入れればよいということになる。しかし,正誤であれば「山田」を「甲山」に訂正することでいいはずだ。この項を削除すれば「会」が指摘しているように,その後の経過の記述はないわけであるから「園児2人が死亡」した事実が「戦後50年」から抹消される結果になる。これは抗議に屈した毎日新聞社の安易な対応と勘ぐれなくもない。しかし出版者の申し出を拒否し,「戦後50年」には一切手を加えないことにすれば「山田事件」も訂正されずプライバシーの侵害にもなりかねない。
 図書館としては,倫理綱領の第12の「出版・新聞・放送等の分野における表現の自由を守る活動と深い関係をもつことを自覚し,常に読者の立場に立ってこれら関連諸分野との協力につとめるべき」を拠り所として両者に異議申し立てをすべきではないだろうか。

 (わだ まさひろ:名古屋市守山図書館)

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Vol.90,No.4 (1996.4)

「宣言」の輪をどう広げるか (若井 勉)

 昨年は機会あるごとに図書館の自由宣言採択40周年の記念展示キャンペーンが,全国各地の図書館等で展開され,具体的な事例で,多くの図書館員および図書館利用者に,自由宣言を理解していただいた。このような努力が徐々に積み重ねられ,図書館界では大方「宣言」は一応理解されてきている。ところが,今日の社会状況のなかで図書館の機能や役割,自由宣言について,図書館界以外の人々の理解や協力を広げることは極めて不十分である。今日,私たちにとって,図書館界のなかでの啓蒙活動や普及活動と並行して,マスコミ,出版界をはじめ,情報産業界や経済界との理解,協力を得ることがとみに重要になってきている。これまでは,図書館の自由に抵触する具体的事例が発生した場合に図書館の立場を説明し,理解と改善を計ることが中心であったが,このレベルでの対応では間尺にあわなくなってきている。
 作品との関わりでは,森村誠一著『凶水系』,典厩五郎著『土壇場でハリーライム』,柴門ふみ著『あすなろ白書』などは,作家の理解を得て,自主的な改訂が行われた。積極的に図書館の自由について協力を広げる動きが展開された例ではあるが,反応の乏しい作家もいる。
 「表現の自由」と「図書館の自由」について相互に共通で展開できる基盤,出版や販売の自由との共通の課題について,博物館との関係など,公的なもの,私的なもの等,共通の基盤を広げるような展開が求められているのではないかと思う。例えば,まず,繋がりの深い出版界との間で,自由に関する課題について,対等平等の関係による,懇談や定期的な検討委員会を設定するなど,内容面においても吟味しながら試行してみるのもよいと思う。    

(わかい つとむ:立命館大学)

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Vol.90,No.3 (1996.3)

ホームレス問題と図書館 (西河内靖泰)

 先頃,東京都は新宿駅西口のホームレスを「歩く歩道を設置するため」と称して「強制的」に「排除」した。ホームレス問題に詳しい研究者によれば,行政は,ホームレスを「援助に値しない対象」とみなしてきたけれども,ホームレスになったのは,自ら望んでなったのではなく,その多くはごく普通の人々が社会の変化からはじき出されて,働くところと住むところを失ってしまったからであるという。にもかかわらず,行政も一般市民もホームレスに向ける眼は冷たい。先の都の行為があまりに強権的だったので,批判の声も出ているが,大勢そのものは変わっていない。
 図書館は,だれもが自由に利用できる唯一の公共施設である。さまざまなところから「排除」されるホームレスにとっては,安心して長時間居続けることができるが,そのことによって現実に多くの図書館が困っている。長期間風呂に入らず路上生活を続けているホームレスが発散する異臭。困っているのは異臭そのものではなくて,そのことを理由とする,ホームレスを「排除しろ」という利用者の要求である。公共図書館には「利用の自由」があるのだから,地の利用者に迷惑をかけないかぎり「利用を断る」ことはできない。文句を言ってくる人は悪臭が迷惑だと言いたいのだろうが,臭いでは理由にはならない。どこの図書館でも,もちろんこうした「要求」は受け付けないが,「排除」要求の圧力は多く結構厳しいという。先にこのコラムでホームレスにかかわることに多少触れたため,このところ,今後どうしたらいいかと質問されることがある。筆者は,最も重要なのはホームレス問題の本質を理解することであると思っている。ホームレスは問題の本質を理解しようとしない行政によって切り捨てられ「排除」され居場所がなくなって図書館に来ているのだ。ホームレスを「排除」する社会,行政に責任はある。図書館は,こうした責任を追及しながら,解決を図る立場に立つべきであろう。ここで,筆者としては,ホームレス問題の本質,対策のあり方,必要な課題について,私たち図書館の立場から提起すべきであろうが,スペースもなくなってきたので別の機会にゆずりたい。図書館があらゆる人々に開かれた存在であるからには,「排除」することでなく,別の解決策を探っていくことが大事なのだ。大変だろうが。

 (にしごうち やすひろ:荒川区立日暮里図書館)

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Vol.90,No.2 (1996.2)

図書の焼却について (棚橋満雄)

 那賀川町立図書館の郷土資料のなかに「富岡町志」という資料がある。この資料は大正14年5月に富岡町役場によって刊行されたもので,横井氏という人から寄贈されたものである。従来この資料は貴重な郷土資料といわれており,私もこの寄贈を喜んで郷土資料として自由な閲覧と貸出を行っていた。ところが昨年6月O氏という人がこの資料を借りて帰った。2カ月経過して貸出期限をとっくに過ぎた頃,部落解放同盟大京原(那賀川町の大字の一つ)支部長のN氏より町長へ抗議があり,「富岡町志にはO氏の祖父が藩政時代のエタ頭の子孫である,という記述がある。これは個人のプライバシーの侵害であり,このような資料を自由に貸し出していることを認めるわけにはいかない。」という抗議があった。
 私は驚いて著名な郷土史家に問い合わせたが,これを知っている人は一人もなかった。私はすぐに富岡町志を読んで該当の箇所を確認し,町長,教育長とも相談し,この資料の貸出,閲覧の停止を決定し,O氏とN氏を訪問し,陳謝するとともにその旨を告げた。そして資料の返却を求めたが,その後資料は返却されず,10月になって阿南裁判所へO氏から「富岡町志の貸出,閲覧の停止及び焼却処分にすること」という調停の申し入れが那賀川町長,那賀川町教育長および図書館長を相手取って行われた。
 私たちとしては,貸出,閲覧の原則停止には応ずるが,焼却処分に応ずるわけにはいかない,という態度で応じている。10年前にこれと同じ問題が那賀川町の村史についても起こり,すべて回収して焼却したそうである。このような資料の焼却は他にもおそらく多くのところで行われているのかもしれない。
 調停は結論をまだ見ていない。図書館としては焼却処分にだけは絶対応じるつもりはない。 

(たなはし みつお:那賀川町立図書館)

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Vol.90,No.1 (1996.1)

全国アンケートの自由意見から考える(1) (山家篤夫)

 この夏,JLA「自由委員会」は全国の公立図書館に,図書館の自由についてのアンケートをお願いした。現在集約作業中だが,自由意見欄では当委員会への注文や問題提起,質問も多くいただいた。これから適宜コラムの場をお借りして,関連する委員会の論議の内容をご参考までに紹介していきたい。
○蔵書が遺失物として警察等に保管された場合,警察署から利用者に連絡するため,として住所・電話の問い合わせを受けることが多い。この時,「読書の秘密」を説明し,図書館が連絡するようにしているが,なかなか理解を得るのが難しい−というご意見について
 同様の悩みは委員会にもしばしば寄せられる。先日はある市立図書館職員から,この種の件数が増え,業務量もばかにならず,このような対応を続けること自体に館内から疑問が出ているとの話もあった。
 委員会で話し合った一応の結論は次のようなところだった。
 図書館が利用者に連絡するのは,警察等からの依頼理由を利用者本人から確認する責任が図書館にはあるからである。遺失物の連絡責任を図書館が負うべきなのか,図書館として非本来の業務ではないか,遺失の責任は当人が取るべきで若干の権利の侵害は忍ぶべきだ等の意見における,利用者に市民としての責任を求める気持ちは分かるが,連絡は督促業務の一環と位置づけ,警察等にも同僚にも理解を得られないだろうか。不本意な状況にある利用者の人格を尊重する対応で,市民の支持を深めていく途をとりたい。
○職員録について,発行者からプライバシー保護のために非公開にしてほしいとの要請があり,最新版から事務用資料としたが,名簿の扱いについては考えさせられる−というご意見について
 名簿の扱いもしばしば委員会で話題になる。以前「部落地名総鑑」に準じる名簿とは,と議論したとき,氏名・職業・住所が一定基準で配列されているものという提案が説得力をもった。限定した問題についてはこのような考え方に意味がありうるが,さまざまな個人情報ファイルが流通・連結・利用される現在,名簿によるプライバシー侵害には必ずしも記載事項を考慮するだけでは対応できない。図書館が公開する名簿は,被掲載者の承諾をとったもの−現実的には編集著作権者・発行者が公開を前提に刊行したものに限られてくるだろう。これがほぼ私たちの一致点だった。自由意見欄の対応もこのような考えを踏まえたものと思われるが,いかがだろう。

(やんべ あつお:東京都立中央図書館)

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