日本図書館協会図書館の自由委員会「こらむ図書館の自由」もくじ>「こらむ図書館の自由」95-100巻(2001-2006)

「こらむ図書館の自由」95−100巻(2001−2006)

第100巻(2006年) 第99巻(2005年) 第98巻(2004年) 第97巻(2003年) 第96巻(2002年) 第95巻(2001年)

第100巻(2006年)

Vol.100,No.12 (2006.12)

問題となった資料の保存  (西村一夫)

 9月7日発売の『週刊新潮』(9月14日号)は徳山工業高等専門学校生殺害事件の容疑者である少年の実名と顔写真を掲載した。その後、この少年の遺体が発見されたことをうけて、複数のテレビ局が実名と顔写真を報道し、読売新聞がそれを掲載した。しかし、「少年事件報道」のあり方について各社の意見が分かれ、その他の新聞・報道各社は匿名での報道を続けた。
 1997年に起きた神戸の児童連続殺傷事件で実名報道をした雑誌の閲覧制限を多くの図書館で行ったが、その後も、少年事件の実名報道をする資料については、少年法の趣旨を尊重して閲覧を制限してきた図書館も多い。しかし、今回の『週刊新潮』については堺市の通り魔事件容疑者に対する実名報道についての大阪高裁判決など「少年事件報道」をめぐる状況の変化に合わせて、閲覧を制限しない図書館が多く見られた。マスコミ各社はこうした図書館の対応の違いとともに、閲覧を制限している図書館に対する批判を行い、図書館がこのような問題となった資料を提供する必要性を訴えた。
 今回、「少年事件報道」と図書館の資料提供についての問題が提起されたが、こうしたことを考えるにあたって必要なのは、問題となった資料がどういうものかを確認することである。提供制限をしている資料についても社会状況の変化の中でその再検討が必要であるが、一番の問題は、月刊誌や週刊誌などの保存年限が一般的に短く、数年後にはほとんどの公立図書館で見ることができない状態となることである。田島泰彦氏は、「少年事件報道と図書館の自由」(『現代の図書館』Vol.37、No.3、1999)のなかで、「ある問題を研究したり学習する時に、まずそれがどういうものかを自ら確認できないと、すくなくとも理性的な認識と議論をするのに話にならないわけです。ところがそれができない。」と図書館で入手できなかったことを問題だとしている。
 少年事件報道に限らないが、図書館の自由について検討するために必要な資料を保存する体制づくりが必要となっている。

(にしむら かずお:JLA図書館の自由委員会,松原市民松原図書館)

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Vol.100,No.11 (2006.11)

個人情報保護と情報への自由なアクセス  (井上靖代)

 個人情報保護法が完全施行されて、各図書館では名簿などの個人情報記載資料についての扱いを討議し、対応してから約1年半が経過している。どのような対応をされているのだろうか。
 IFLAソウル大会でFAIFE委員会でも同じような問題が議題として提出され、特別討議チームをつくり早急な対応を審議することになった。日本の図書館界ではややなじみが薄い、系図研究図書館活動セクションからのSOSなのである。系図研究図書館は系図学研究者への資料情報提供活動をおこなっている。系図学研究者は過去にさかのぼって、個人情報を入手する必要がある。しかしそれを法律でシャットアウトされてしまうと、研究の途がとざされてしまい歴史研究が困難となる。カナダでは2005年に92年間、オーストラリアでは2006年に99年間、研究者や一般人に対して人口調査データ、さらに行政が管理する広範囲なデータにアクセスさせないという法律が成立している。ドイツやアメリカのいくつかの州でも同じような法律を成立させようという動きがある。
 個人情報保護は必要だが、一方で研究者や一般人の情報への自由なアクセスが阻害されるという事態が生じている。歴史研究のみならず、移民の子孫がルーツ探しをする場合にも支障をきたす。私はどこから来たのか? 個人情報は保護して閉じ込めて保存するか廃棄してしまうべきものなのか。人々の過去を知る手がかりとするため、自由に情報にアクセスできるオープンな状態にすべきものなのか。妥協可能なラインを探し、行政に働きかけるべく国際的に図書館員たちは討議を重ねている。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会,獨協大学)

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Vol.100,No.10 (2006.10)

ピノキオ問題の再認識  (田中敦司)

<名古屋市立図書館の「ピノキオ」事件処理にあたり、確認された三原則について述べよ>
 これは1999年のある自治体での図書館職員採用試験問題である。ピノキオ問題が図書館職員にとって、知っておくべき事柄であることを表している。
 障害者差別、児童図書の提供方法などピノキオ問題はさまざまな課題を図書館に投げかけた。発端となった市の職員としては、「職制による指示のみで、検討もなく資料を回収したこと」が一番の問題であったと認識している。このことをきっかけに、全国にさきがけた自由委員会の設置や「検討の三原則」の制定など、図書館の自由に関する認識が進んだことは、とてもよかったと思っている。
 しかし、ピノキオ問題はもう過去のことで、今後起こらないことかというと、必ずしもそうは言えないように感じている。ただ、水際でとどまって表面に現れないだけなのではないか。たとえば今も多くの予約を抱えるハリーポッターシリーズの最新刊。原題「Harry Potter and the Half‐Blood Prince」が当初は「ハリーポッターと混血のプリンス」と発表されていたが、刊行を前に「ハリーポッターと謎のプリンス」に変更された。出版者による自主規制が進んだ結果と見るのはうがちすぎであろうか。
 図書館としては、資料を収集し、提供していくという基本的な役割をあらためて確認していくのであるが、もう一度過去の事例を紐解いてみることも意義深いことではないのか。図書館の数も増え、職員も多く入れ替わった。過去に学ぶ研修も検討の余地があろう。
 「童話ピノキオ、市民団体が回収要求」という記事が新聞に掲載されたのは、1976年11月。30年の月日が流れた。

(たなか あつし:JLA図書館の自由委員会,名古屋市緑図書館)

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Vol.100,No.9  

男女共同参画施設の図書排除が提起するもの−クレーム対応の手続きを  (山家篤夫)

 今年5月4日、福井県の男女共同参画施設・生活学習館の情報コーナー蔵書(2600冊)のうち150冊が、県男女共同参画推進員のクレームにより除架されていたことを読売新聞福井版が報道した。クレームは、同性愛を許容し家族解体まで目指す過激な内容の本を県の予算で運営する学習館に置くべきではないというもの。これは検閲だとする知事あて抗議文や監査請求が市議や関係団体から提起され、16日、「表現に問題なし」と蔵書は戻された。
 事件の概要は全国紙でも報道され、自由委員会でも論議になった。
 一つは図書館の自由との関連だ。男女共同参画という施策推進を目的とする施設に、知る自由の保障を目的とする図書館の運営原則を直ちには適用できない。協会には図書館の自由の観点からのコメントを求める取材があったが、この説明を記者は納得してくれたかどうか。ともかく次のような自由委員会コメントが掲載された。
 「図書館は意見が多様で対立する問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く提供するものだ。男女共同参画を推進する施設の図書コーナーであっても、図書館の運営原則を参考にしてほしい。住民に考えてもらい支持協力を得る上でも、特定の観点に立つ資料や情報を隠したり、排除する運営はマイナスだ。」(東京新聞6月6日朝刊)
 もう一点は、蔵書へのクレームに対応する姿勢と方法だ。
 各種報道を総合すると、クレームは昨年11月、男女共同参画条例の苦情申立規定に基づく文書で行われた。この時、担当課長は、「男女共同参画に関する考え方には様々なものがあり、学習する上で必要だ」として要請を却下していた。にもかかわらず今年3月には除架され、「倉庫のような所に保管」されることになった。この間、何があったのかは分からない。だが、規定と文書による申し入れ−回答という透明性が確保された過程では、適切な対応が確保されたということは確かだ。図書館が蔵書へのクレームを受ける事態は今後増加するはずだ。不服申立てと回答の手続きを定めて透明性と公平性を確保する、その必要性をこのケースは提起しているのではないだろうか。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会,東京都立中央図書館)

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Vol.100,No.8 (2006.8)

箝口令(かんこうれい):米国愛国者法による発言の禁止  (高鍬裕樹)

 いわゆる「愛国者法」(Patriot Act)により、FBIは、さまざまな記録を捜査するために、「国家安全保障に関する公文書」(National Security Letter: NSL)を発する権限を与えられている。NSLを受けた者は、その内容のみならず、自分がそれを受けたこと自体を他人に漏らしてはならない。
 2005年8月、NSLを受けたコネチカット州の図書館員が、この規定にたいして訴訟を提起した。このとき、原告の素性は明らかにされなかった。NSLの「箝口令」を守らなければ、処罰を受ける可能性があるためである。彼らは自ら訴えた裁判を直接傍聴することもできず、他市にある公の施設で、有線テレビでその模様を見られるのみであった。連邦地裁は政府敗訴の判決を出し、その後法改正などがあって、最終的には政府が法廷闘争を放棄して裁判は終結した。
 裁判の終結後、原告であった4人の図書館員は記者会見を開いた。そのなかで、原告の一人であるバイリーは、「私たちはこのことについて誰と話すことも禁じられた。法律家に相談するにもリスクを負わなければならなかった。箝口令は永久で絶対的なものだった」と述べた。原告の一人チェイスは、州の連邦法務官オコーナーを評し、「図書館の記録は安全ですと州内にふれ回る一方で、私には箝口令を敷き、図書館の記録は安全ではないと発言できないようにした」と述べた。
 2006年3月9日、愛国者法は改正され、図書館の伝統的役割についてはNSLの対象としないとされた。箝口令も緩和され、局長の署名のある正式文書によってのみ執行されることとなった。法律家に相談したり箝口令の不当性を争って訴訟を起こすことも明示的に認められた。
 利用者の情報を公開するよう図書館に求めるのみならず、情報が要求されたこと自体に箝口令を敷く愛国者法が、図書館にもたらす影響は計り知れない。法改正で図書館の主張が通った部分もありその点は評価できるが、政府が認めれば口をふさがれることに違いはなく、図書館の自由にたいする危険は去ってはいない。
 日本でも、令状が出れば警察が図書館の記録を捜査できる。日本には発言を禁止する法律こそないが、国家権力と対峙してでも利用者の秘密を守るこれら図書館員の姿は模範とされるべきであろう。

(たかくわ ひろき:JLA図書館の自由委員会,大阪教育大学)

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Vol.100,No.7 (2006.7)

子どもの読書権は誰のもの?!  (平形ひろみ)

 忘れられない光景がある。ある日、祖母に手をひかれて、ちいさな女の子が図書館にやってきた。大泣きに泣きながら「借りてないったら」と必死で訴えている。調べてみると、その子が予約待ちの成人向けベストセラーを借りていることになっていて、それが遅れていた。
 おそらく親が借りたのだろう。「あなたは悪くないのだから、図書館を嫌いにならないで」と声をかけたものの、帰り際「もう絶対に図書館には来ないから」と更に激しく泣かれてしまった。「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」が総会で決議された頃の出来事である。
 その後、自由宣言の普及やコンピュータ技術の進展にともない無制限貸出を実施するところが珍しくないほどに貸出制限の緩和は進んだ。
 ところが、ここ数年、インターネット予約の開始に伴う爆発的な業務量増加や市町村合併による貸出、予約規則の見直しから、再び貸出冊数や予約制限を厳しくするところが増えてきたとの話を耳にする。だとすると、子どものカードを使って親が自分の読みたい本を借りたり、予約をする例も少なくはないだろう。
 実際に当館ではCDやDVDはひとり1点しか借りられず、予約も1点しかできない。カード持参者がカウンターに来た場合には、本人からの委任行為とみなしているため、家族全員のカードで親が資料を借りたり、予約したりということもある。近い将来インターネット予約や子どものパスワードの発行が開始されれば、親にカードを管理される子どもは更に増えるだろう。子どものカードやパスワードは本来の持ち主の手にいつ返されるのだろうか。利用規則見直しの際には、そうした点にも考慮しつつ、十分な検討がされなければならない。
 誇らしそうに自分の選んだ資料をカウンターに持ってくるきらきらした小さな瞳が曇ることのないよう、「子どもの意思による自由な読書」をあらゆる角度から応援していける図書館でありたい。 

(ひらかた ひろみ:JLA図書館の自由委員会,仙台市宮城野図書館)

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Vol.100,No.6 (2006.6)

以前借りた本の名前を知りたい  (巽 寛)

 「以前に借りたあの本をもう一度借りたいんやけど、わかります?」「本の名前、覚えたはります?」「いや、それが控えてなかったんで」。そこで、書名、著者、内容、本の色、大きさなど手がかりになるものをお尋ねすることになる。記憶があまりにもあいまいだと、まれに探し当てられないこともある。必死に探しているときに、利用者がふとつぶやかれる言葉が「前に借りてた本をコンピュータで調べることはできひんのですか」。その度ごとに、本は返却されると、記録が残らない仕組みになっていると説明しながら、さらに汗をかくことになる。
 返却された本をチェックすると、裏の見返しあたりに、鉛筆書きで小さなチェック印が残されていることがある。ある方にとって、自分が読んだ本と、そうでない本との識別マークのようである。気づいたものは申し訳ないが消さしてもらっているが、どこにどんな印がついていることかと思う。Oさんは大の小説好き。好みの作家の本を次々と読破していき、その1冊1冊が小さいながらかなり分厚いノートに記録されている。ノートを持参され、それを見ながら、次なる本を選んでいかれる。
 このような経験をしている図書館は多いと思う。こんな現実を知ってであろうが、ある図書館でコンピュータの更新を図ろうとしたとき、ある社からの提案の中に貸出記録を残す方法も消す方法も選べるシステムの提案があったという。利用者のニーズに応える一面もあるが、利用の記録を残すことは利用者の信頼をなくすし、図書館の自由を守る点からも取り入れられる仕組みではないともちろん判断されたそうである。
 やはり、図書館のシステムについては考えるとき利用者の秘密を守ることは利用者の利便に替えられないことなのだ思いながら、この話を聴いた。 

(たつみ ひろし:JLA図書館の自由委員会,東近江市立八日市図書館)

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Vol.100,No.5 (2006.5)

誰のための図書館の自由?  (伊沢ユキエ)

 「国境無き記者団」の事務局長のフランス人記者が、報道によって状況を伝えることが、そこに住む人の自由を守ると言っているのを聞いた。紛争地帯では報道されなくなると、人々から忘れ去られ、虐待や暴力など、とたんにそこに住む人の人権が損なわれることがあるからだという。新聞を読む世界中の人の「知る自由」のためだけのジャーナリズムだけではないことを知った。
 では、私たちは誰のために図書館の自由を守るのかと考えた。もちろん、利用する市民の「知る自由」を守る。でも、世の中のあらゆる自由も無視できない。これは、大変なことだ。人権も守らなければいけないし、時には守りたくないような内容の資料でも守らなければならない、いつも、せめぎ合いの渦中である。国境無き記者団でも意見や思想について「引くべき境界は主観的に過ぎない」ので「暴力というものに訴えるような手段で無い限り大多数の人々にとって不快に思えるような思想さえも表明する権利」を守ると明言している。
 人権感覚が成熟し、また、個人情報保護の意識が高くなるなかで、図書の扱いは以前よりも慎重になっている。人権侵害では?とニュースになったとたんに、検討ということでまず引き上げてしまうようになっていないだろうか。報道された内容を検証したい市民の知る自由は守られていない。また、逆に市民からも「みんなが使う公共の図書館がこんな図書は所蔵すべきでない」という意見が寄せられることもある。「どんな資料も大事」と明言するために、課題は、市民に「図書館の自由」の理念が広められるかだ。
 『図書館戦争』(有川浩著)では本当に闘って資料を守る図書館の防衛隊まで登場してしまったが、著者は、図書館での自由宣言の掲示に触発されこの物語を創りあげたそうだ。自由宣言を掲示している図書館はどのくらいあるのだろうか。指定管理者制度の導入や委託化の中で、この理念がどう継承されるのか危惧される。誰のために資料収集や提供の自由があるのかを再確認しておかなくてはならない。 

(いざわ ゆきえ:JLA図書館の自由委員会,横浜市立中央図書館)

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Vol.100,No.4 (2006.4)

「図書館の自由」と学校図書館の選書」  (鈴木啓子)

 学校図書館で「図書館の自由」はどう活かせるのか。教育の場である学校の中の図書館ではなかなか難しい状況がある。学校図書館問題研究会の主催で2006年2月に「『図書館の自由』の視点から、選書を考えよう!」という研究集会が開催された。JLA図書館の自由委員会委員長である山家篤夫氏の「なぜ、『図書館の自由』か」の講演と「図書館の自由」と選書の問題について岡山の中学校司書の報告があった。
 中学校図書館の選書に関するアンケート結果からは、例えば『Deep Love』や『バトルロワイアル』などの提供で教育的配慮や自己規制の現状がうかがえた。学校図書館の役割は、多種多様な本の広がりがもつ教育力の支援と教育の自由を具現することであるという。この姿勢で取組む日常活動の報告は、知る自由、読む自由と教育が自然につながるというのを実感した。問題になった本については、教師や生徒と話し合い、それを活かしていく地道な実践を聞いて、このことが学校図書館で「図書館の自由」を共有していくのに重要なことであると思った。討論からは、小学校司書の「読みたい本を提供することは、楽しみにつながり、広がりができる。読みたい気持ちをいちばん応援したい」という意見が印象に残った。
 塩見昇氏が『学校図書館と図書館の自由』(図書館と自由・第5集)で「『図書館の自由』を職員集団が共有した時、学校運営における学校図書館の自立性が確立する。自立した図書館は、子どもが学ぶ喜びを感じる教育とつながる。つまり、子どもたちを支える教育に変える。」というような趣旨を述べている。まさに、「図書館の自由」の具現化は、教育を変えていくということである。また、多様な資料を提供する学習の支援は、子どもたちの読書の広がりにつながり、知る自由、読む自由を保障することになる。
 学校図書館の機能・本質は、公共図書館と同じでサービス・援助をするところである。サービス・援助する職員がいないところでは、このような論議がなされているのであろうか。 

(すずき けいこ:JLA図書館の自由委員会、兵庫県立西宮今津高等学校図書館)

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Vol.100,No.3 (2006.3)

図書館の自由宣言は「国民に対する約束」  (南亮一)

 今年度の協会の「中堅職員ステップアップ研修」で「図書館の自由」 についての研修の講師を務めることとなり、改めて「宣言」解説を読んでみた。
 私はこのコラムを書いていることからもお分かりのように、協会の図書館の自由委員会の委員である。それにもかかわらず、この「宣言」の成立経緯や内容をじっくり検討したことがなかったので、これらを行えるいい機会となった。
 そんな中、遅ればせながら、いろいろと気づかされたことがあった。図書館の自由の確保や維持が現場の図書館員の具体的な活動に支えられていること、その具体的な活動から図書館の自由宣言が肉付けされ、具体化されたことなどが強く印象に残っているが、最も強く残ったのは、図書館の自由宣言が「国民との約束」である、ということであった。
 私は、恥ずかしながら、図書館の自由宣言は一種の「法規」であり、図書館司書の「守るべき」ルールである、という認識をこれまで持っていた。つまり、図書館の自由宣言は所与のものであり、受動的に「守らなければならない」ものでしかないと考えていた。
 ところが実は、図書館の自由宣言はそうではなかった。図書館の自由宣言とは「国民に対する約束」であり、自分たちのものとして「確認し実践する必要がある」ものなのである。協会が発行している図書館の自由宣言のポスターも、図書館が国民の知る自由を保障するためにこのようなことをやりますよ、ということを利用者にアピールするために掲示されているものである、ということも、今更ながら気づかされた。
 図書館の自由宣言は法規のような「守らなければならない」ものではない。利用者に対する図書館の「行動宣言」である。遅ればせながらではあるが、今後は「国民への約束」を果たすため、図書館の自由宣言を「確認し実践」して行きたい。 

(みなみ りょういち:JLA図書館の自由委員会,国立国会図書館)

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Vol.100,No.2 (2006.2)

マンガ『嫌韓流』を図書館蔵書とすべきかどうかのやりとりから考える  (白根一夫)

 マンガ『嫌韓流』(山野車輪著・晋遊舎刊 2005年9月初版)がリクエストされた。
 このマンガの内容は、高校3年生の沖鮎要と荒巻いつみのカップルが進学した大学で「極東アジア調査会」という歴史サークルに入り、もう1つのサークル「アジア歴史研究会」(反日的なサークルとして描かれている。)や在日韓国人等とディベートや論争を繰り返し、それぞれの歴史観を展開していく物語である。これを読むと 随所に「え?」「本当?」という感想をもつ場面や文章に行き当たるので、職員間でこの本は「受入れていいものかどうか」「今後リクエストに応じるべきものかどうか」と議論になった。
 リクエストに応えた後で、まずは読まないことには始まらないといいうことになり、みんなで順次読んでいくことになった。その最中県内の市立図書館から相互貸借の依頼があった。職員のまわし読みは後回しにしてすぐ送るように指示した。それは、読みたがっている利用者がいること、その利用者に効率的に提供することが図書館の役割であることを説明した。また、1994年の松本市立図書館での事例を説明し、「戻ってきてからまた読めばよい」と指示した。その際、職員から「その本は受け入れるのか」と聞かれ「受け入れる」と応えた。
 「受け入れるのだったらみんなで読みあう必要はないのではないか」という声にならない意見を感じたが、「読む必要はある。図書館のどこに配架するか、どのように見せる(展示する)か、ただ分類どおりに配架するか、またどのような本と一緒に配架するべきか等を考えるためにも読む必要はある」と説明した。受け入れるかどうかのためだけに読み、その結果受け入れなかったとしたら、受け入れた後に除籍や廃棄してしまったら「船橋市立図書館蔵書廃棄事件」と同様なことを図書館として行ってしまうことになる。
 松本市立図書館や船橋市立図書館での事例は、どこの図書館でも日々の業務の中で起きている、起こりうることである。「図書館は何をするところか」を常に考え、その原点から日々の業務を行っていかなくてはならないと強く感じる。 

(しらね かずお:JLA図書館の自由委員会,斐川町立図書館)

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Vol.100,No.1 (2006.1)

議会図書室へのできごとから−ある情報公開請求への疑問  (西河内靖泰)

 自由委員会でのJLA事務局にあった相談の報告に、私はわき上がる怒りを感じていた。
 ある県の県議会事務局に、市民オンブズマンから情報公開請求があった。内容は、ある条例の制定に関して、提案会派に情報提供した全ての資料を公開せよというもの。 調査対象は、議会事務局各課室全部(図書室も含む)。条例制定に際し図書室には、賛成、反対両派からレファレンスの依頼があり、資料提供。図書室では、いつ、 どこからのレファレンス依頼かの記録は残していないので、「文書不存在」として回答。 ここの議会事務局としても、「文書不存在」と回答した。それに対し、請求者から「不存在のはずがない」と不服申し立てがあったという。
 議会図書室はJLAの施設会員である、れっきとした図書館。「自由宣言」の第三で「図書館は利用者の秘密を守る」とあり、あらゆる図書館はこの原則を守ることを掲げている。 議会図書室も、利用者である議員の利用や調査についての情報は、当然守るべきものであり、議員の利用や調査に関する記録には、議員名や会派名がわかる情報は残さないという方針をとってきた。
 それに対して、利用者の利用データを出せという市民オンブズマン。議員は公人であり、その政務調査活動の実態は公開すべき(「議員の活動に「秘密」はない」:朝日新聞 1997年7月30日付社説)と考えているのだろうが、何かがおかしい。
 全国市民オンブズマン連絡会議の規約には、「国、地方公共団体等にかかわる不正・不当な行為を監視し、これを是正することを目的とする」とある。 議会への情報公開の要求は、地方議員の調査研究のために自治体から交付される 政務調査費の不透明な使われ方の実態に迫るものだったはず。 政策づくりのための具体的な調査活動のために取り寄せた資料そのものについて、 議員や会派に直接聞くのではなく提供側に提出を求めることは、その目的の合理性・正当性がさっぱりわからないのだ。教えてほしい、市民オンブズマンさん。

(にしごうち やすひろ:JLA図書館の自由委員会,荒川区教育委員会)

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第99巻(2005年)

Vol.99,No.12 (2005.12)

「アガリクス広告本」薬事法違反容疑のニュースに思う  (熊野清子)

 2005年10月5日の夕刊(朝日新聞、共同通信など)で史輝出版の役員ら逮捕のニュースを読み、この本の自館での所蔵と取り扱いに思いを巡らした図書館員もあっただろう。その後、監修者と執筆者の在宅起訴という続報もあるがまだ有罪と決まったわけではない。
 これには前段がある。2004年5月「バイブル本」が広告にあたると判断した厚生労働省が、虚偽・誇大広告を禁じた健康増進法に基づいて出版社に改善指導。史輝出版は2004年7月17日付け日経新聞で「お詫びとご報告」を掲載、『ガン・難病が治った!紫イペエキス50人の証言…』など18タイトルの絶版、回収、在庫断裁を告知。2004年8月、厚生労働省は日本書籍出版協会、日本新聞協会、日本雑誌協会など7団体に「バイブル本」広告に慎重な取り扱いを求める異例の通知を出している。2005年4月には出版社捜索のニュースがあり、そして10月の逮捕送検である。書店の店頭から「バイブル本」は姿を減らしているという。
 問題となっているのは「健康食品でがんが治る」とうたう「バイブル本」、健康食品の販売会社が製作費や広告費を負担する「タイアップ本」である。図書館で所蔵しているのは内容を吟味して選書したものであろうか、リクエストに応じて購入したものであろうか。健康に関する本は利用者の関心が高く、棚揃えには各館とも力をいれていることと思うが。
 新聞報道によると国立がんセンターの研究成果というデータは在しないことが確認されているというから、巻末の問い合わせ先が販売会社であることから広告と認定して捜査を進める警視庁の思惑は別にしても、間違った知識を与える本である。
 ならば、ひとまず書庫にしまっておこうと考えてもよいのだろうか。もちろん裁判中、参照したい人には提供するし、どんな司法判断が出ようと、係争の対象となった資料として保存しておくことは言うまでもない。

(くまの きよこ:JLA図書館の自由委員会,兵庫県立図書館)

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Vol.99,No.11 (2005.11)

「児童ポルノ」と国立国会図書館  (佐藤毅彦)

 「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(平成11年法律第52号。以下「児童ポルノ法」という。)は、「児童ポルノ」を不特定多数の者に提供した者や提供目的で所持した者を処罰の対象としている。国立国会図書館(以下「国会図書館」という。)が納本により所蔵する資料が、判決で「児童ポルノ」と認定されたような場合、国会図書館がこの法律に基づき提供または所持のかどで処罰(摘発)の対象となる可能性も考えられる。
 ところで、国立国会図書館法(昭和23年法律第5号。以下「館法」という。)は、文化財の蓄積及びその利用に資する目的で国民に対して納本義務を課し、一方で、国会図書館が、国会等からの要求を妨げない限りにおいて、その蒐集資料を最大限に日本国民の利用に供することを義務づけている。館法前文が、国会図書館が憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として設立されると謳っていることから、ある資料を公権力が違法と判断したとき、その判断が妥当なものであるかを国会や国民が検証する機会を確保することは、国会図書館の重要な責務の一つと考えられる。したがって、館法の目的からは、国会図書館が所蔵資料の利用制限措置を取ることには慎重でなければならず、ましてやその所蔵資料を廃棄することは、館法の精神にもとるものと言わざるを得ない。
 法律にはそれぞれの側面があり、目的が異なれば結論が異なる場合もあり得る。ある法律の規定をそのまま適用すると別の法律の目的を損なうこととなるような場合、一方の規定の適用除外などによって、いずれの法律の目的も一定程度には達せられるよう調整が行なわれることがある。たとえば、つい先ごろ実施された国勢調査は、統計法(昭和22年法律第18号)に基づき、行政の基礎となる人口・世帯の実態を明らかにする目的で行われるが、個人情報と深く関わる。そのため、個人情報の保護が厳しく求められているが、一方で、正確な統計を得る必要から、個人情報の提供について一連の個人情報保護法の規定とは異なる措置が取られている。
 児童ポルノ法と館法も、互いに衝突する部分がある場合には、それぞれの法律の目的を損なわないような調整を行なう叡智が求められる。

(さとう たけひこ:JLA図書館の自由委員会,国立国会図書館)

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Vol.99,No.10 (2005.10)

個人情報の保護  (三好正一)

 企業等での個人情報流出が後を絶たない。筆者が勤務する神戸市立図書館では、図書館情報ネットワークシステム内に入るときに、職員IDとパスワードの入力を必須としている。このシステムには、公共図書館だけでなく神戸市立の大学図書館も含まれ、さらにシステムを通じて、国立情報学研究所(NII)の協同分担目録システム(NACSIS−CAT)にも参加している。
 IDやパスワードを必要とするのは、職員ごとにアクセス権限を設定し、システム内での責任を明確にするとともに、職員以外の不正なアクセスを防ぐのが目的である。しかし、どんなに厳重なシステム管理をしても、不心得な職員による個人データの不正使用や、プリントアウトを含むデータの持ち出しに伴う管理不備など、コンピュータシステム自体の安全管理だけでは防ぎきれないことが様々に考えられる。
 先に、高槻市立中央図書館で発生した利用登録者情報をプリントアウトした書類の盗難事件は、職員がカウンターを離れた少しの間に起こった。「利用者の秘密を守る」上で、貸出記録を含む個人情報を保管する図書館の責任はたいへん重い。警察等からの利用者情報の問い合わせには毅然と対応する図書館でも、高槻市の事件を聞いて、他人ごとでないと感じた館が少なからずあったのではないか。筆者の所属する係でも、延滞本の督促リストから氏名・電話番号等の個人情報を削除し、利用券番号からその都度端末画面で確認する方法に変更した。
 社会から人の過失や犯罪行為がなくならないなら、そのことを考えに含めた、より大きな安全管理システムの設計が必要である。危機管理では、危機発生時の対処とともに、危機を少しでも回避し減少させることが重要な要素だと言われている。利用者の個人情報を保護する上で、どこかに死角はないか、もう一度あなたの身のまわりをチェックしてみる必要はないだろうか。

(みよし まさかず:JLA図書館の自由委員会,神戸市立中央図書館)

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Vol.99,No.9 (2005.9)

「児童ポルノ」制限に思う  (佐藤眞一)

 朝日新聞7月17日付朝刊は、「児童ポルノ」にあたる可能性がある本について、国立国会図書館が閲覧などの利用制限を始めるとの記事を掲載した。
 「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」は、東南アジアへの買春ツアー、国内における援助交際や児童の性的な姿態を描写した写真、ビデオテープ等の大量流通に対する国際的批判を背景として1999年11月に施行された。その「児童ポルノ」の定義として、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」が挙げられ、提供のための所持も処罰の対象とされている。そして『清岡純子写真集 Best selection! 』の販売が2002年に同法違反として有罪判決を受けていた。今回、国立国会図書館は、1992年の刊行当時は合法的に収集したものに対して、遡及して判断を求められるという構図になっている。
 ところで、同法の保護権益は、実在する子どもを性的搾取及び性的虐待から守ることであり、適用に当たって国民の権利を不当に侵害しないようにとの注意が、わざわざ条文化されている。一方では、検討過程において、コミック規制や単純所持規制など、同法の目的をかえって曖昧にするような意見もあったようである。
 改めて、同法の保護権益と図書館の機能を考えれば、同法を図書館に適用することは、慎重であるべきと考えられる。図書館は、将来に向けて人類の文化的記録を残す使命を持った機関であり、合法的に収集したものに、遡及して判断を求められるとすれば、国立国会図書館のみの問題にとどまらず、図書館界全体にとって大きな問題である。また、「児童ポルノ」の定義が曖昧であり、処罰範囲が恣意的に拡大する恐れがあることも大きな問題である。
 国立国会図書館にならって自己規制し、提供制限する図書館がないことを希望する。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由委員会,東京都立多摩図書館,)

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Vol.99,No.8 (2005.8)

名簿の取り扱い : 情報交換と論議の蓄積を  (前川敦子)

 6月10日付朝日新聞(関西版)は、「名簿閲覧/23 [都道府県立] 図書館「制限・検討」/個人情報保護に配慮」として、名簿資料の閲覧に関する判断のゆれや、個人情報保護と「知る権利」との狭間での現場の葛藤を報じている。
 図書館資料としての名簿の取り扱いについては本欄でも何度か論じられている。個人情報保護関連法・条例との関係では(館の設置母体によって適用法令が異なり複雑だが)図書館資料そのものは法の適用除外と規定されている場合が多く、また公刊・市販されている名簿・人名録などは、一般に公開を承認されているものと考えられるからその提供に問題はない。にもかかわらず冒頭のように現場で問題となるのは、名簿がもつ特殊性ゆえだろう。会員のみへの頒布など広く流通しないもの、掲載に関して被掲載者の了解を得ていないものをどう扱うか。発行者が図書館での非公開を求めてきた場合への対応をどうすべきか、といった問題が生じている。
 プライバシー保護等の視点から慎重に取り扱うべき資料はたしかに存在する。また同時にそうした場合も「知る自由を含む表現の自由は,基本的人権のなかで優越的地位を持つものであり,やむをえず制約する場合でも,『より制限的でない方法』(less restrictive alternativeの基準)によらなければならない」(宣言解説p28)という立場で検討する必要がある。
 「発行者の意向」という例でいえば、発行者は掲載者に対して責任を持つものであるから、その意向を尊重することは原則的に支持されるが、それを絶対視すれば過度の制限となる場合もある。性格の異なる名簿を一括りに扱うべきではないし、館種や利用目的によっても収集や提供方法、目録のあり方も異なると考えられる。福永正三は、名簿の提供制限について「記載事項が公共性・公益性のない純然たる私的な事柄であることは当然の前提として、通常人の感覚からすれば、単に知られたくないと望む以上に、それの公開によって深刻な困惑を余儀なくされる程度のもの、というように限定的に解釈すべきではないか」(「雑誌」98(6)、2004、本欄)と述べている。具体的な取り扱いについて、各館での検討が主体的に行われるべきなのはもちろんだが、同時に情報交換を広く行い、論議を蓄積することで必要に応じてガイドライン的なものが生まれてくるのではないだろうか。
 主体的な検討に基づくものであっても、過度な制限であれば利用者の権利を侵害することに変わりない。まずは前向きに情報を公開・交換する必要があるだろう。

(まえかわ あつこ : JLA図書館の自由委員会、大阪教育大学附属図書館)

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Vol.99,No.7 (2005.7)

レシート 一枚の小さな紙片から  (井上淳子)

 4月、我が市にも中央図書館がオープンした。
 新しい中央図書館では、レシートプリンターが導入されることになった。その開館前、分館へ予約の本を送ろうとして打ちだしたレシートを見ると、利用者の名前と電話番号があってびっくりした。利用者にお渡しするレシートでは利用者番号が記載されている。
 いずれも館内から声が出て、開館までには設定変更した。館内への送付分については宛先の図書館名に変更、利用者にお渡しする分については利用者を特定する情報は載せないことになった。
 今まで相互協力などで借りてきた本の中に、以前借りた人のレシートが挟まっていることがあった。利用者の中には意識せずに取り扱っている方もいらっしゃるようだ。個人情報についていろいろニュースになったりもしているが、日常生活の中ではまだまだ認識は低いのかもしれない。個人情報という言葉は注目されていても「読書の秘密」という事までは結びついていないのかもしれない。
 しかし、カウンター内に置かれていた登録者の名簿が盗難にあったりする時勢である。図書館としては利用者の情報の取り扱いにもっともっと気を配るようにしなければならないのだろう。
 そう思って手元のレシートに目を落とすと、この小さな紙片には結構情報が詰まっている。技術的には様々な情報を入れることが可能だろう。その中から、どういう情報が必要でどこまで入れるか、許される範囲はどこまでかはそれぞれの図書館が判断し選び取って行かねばならない。
 もう一度小さな紙片を意識してみたい。

(いのうえ じゅんこ:JLA図書館の自由委員会,枚方市中央図書館)

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Vol.99,No.6 (2005.6)

慎重に、そして冷静に 〜個人情報保護と図書館  (藤倉恵一)

 3月のある朝、私は驚いた。いつもなら居眠り・新聞・携帯といった乗客たちが、その日は一様に「同じ話題」の本や雑誌を広げていたのだ。私を囲むほぼ全員が、である。
 「個人情報の保護に関する法律」が4月1日完全施行された。昨秋あたりから急にこの話題が広がり、関連書の出版点数はこの1年で100冊近い。今年に入ってからは協会にも対策や見解を求める問い合わせが館種を問わず相次いだ。図書館関係のメーリングリストでは対応について情報交換がしばし続いたし、私自身も同業の友人知人から多くの質問を受けた。4月に金沢の市立図書館での名簿の扱いをめぐる新聞報道があってからはその動きがいっそう活発になっている。個人情報保護法の適用対象は民間事業者だが、自治体では法施行と同じ4月に向け全国で制定・改訂された個人情報保護条例がそれに該当する。これら条例の多くは総務省が示したモデルに倣っており、その詳細は話題となっている個人情報保護法と似通っているのだから、公立図書館もこの話題には無関心でいられない、だろう。
 ……図書館員のみなさん、まずは落ち着いてみよう。
 テレビやWebでは毎日のように漏洩事件が報じられているし、新聞や雑誌の記事に煽り立てられているのか、なにか世の中全体が妙に過熱しているのではないかという気がしてくる。だが「利用者の秘密を守る」「知る自由を保障する」という図書館の自由に関する宣言に立ち返れば、図書館は慌てる必要はないはずだ。
 公刊されている資料であれば、プライバシーを侵害しているものでない限り利用に供するのは図書館の義務である。前述の名簿をめぐる報道ではその扱いに対し処罰の対象になるような記事になっていたが、個人情報保護条例の多くは図書館で扱う資料については条例の適用除外規定を設けている。そして、個人情報保護法でも、「図書館」という直接的な語ではないが、「大学その他の学術研究を目的とする機関若しくは団体又はそれらに属する者」という表現で条例のそれと趣旨を同じくする適用除外の条文が存在する。
 今回の報道で問題となった名簿は確かに扱いを検討すべき資料ではあった。資料を公開するか否かの判断にあたっての慎重さは必要かもしれないが、過熱気味の風潮に決して流されることなく、冷静に図書館の義務と役割に思いをめぐらせて欲しい。
 図書館は、個人情報保護の先駆者なのだから。

(ふじくら けいいち:JLA図書館の自由委員会,文教大学越谷図書館)

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Vol.99,No.5 (2005.5)

ちびくろさんぼと図書館,再考  (井上靖代)

 「ちびくろさんぼ」と図書館をめぐる論争を実体験した図書館員は,少くともいま,40歳以上のはずだ。児童文学者の間ではすでに1974年段階で論議されていたが,図書館をまきこむ社会的論争となったのは1988年のワシトントン・ポスト紙の報道からである。今年,大学を卒業してそのまま図書館へ現役就職した人がいれば,それは小学校就学前に親に読んでもらって楽しんだ最後の世代ということになる。
 若い図書館員のなかには,司書資格を取得する過程で「ちびくろさんぼ」と図書館の自由宣言の関わりについて学習した幸運な人がいるかもしれない。『図書館の自由に関する事例33選』やシンポジウムの記録等を読んで,自己学習した図書館員もいるかもしれない。ただ,英語の原書版や岩波版の「ちびくろさんぼ」を手にとって,自分で読んで確かめた人はどれだけいるのだろう。なぜ,この本が図書館で論争になり焚書されたのか,自分で考えた人はどれだけいるのだろう。長野市のように本当に燃やすことを求めたところは極端だが,開架から閉架へ移した図書館は多い。この17年間図書館員自身も手にとることなく,書庫の片隅で眠りつづけていたのではないだろうか。
 今回,瑞雲舎が復刊した「ちびくろさんぼ」をなつかしむのもよい。だが,図書館員にとっては,資料選択や提供について新しい側面をもたらし図書館の存在意義を考えさせる資料だった,と再認識する復刊でもある。「ちびくろさんぼ」論争以降,図書館は閉鎖空間ではなく,国際社会と連動し日々成長する場との認識は,多文化サービスの広まりとなって現れている。また,この本の絶版・復刊は出版流通ビジネスの政治的経済的思惑と連動し,図書館に課題をもたらしつづけていることを示している。
 黒人差別本だったと単純に言い切れるような事例ではない。図書館は何のために,誰のために存在し,本を提供しているのかを問われた本なのである。終った事例ではなく,これから図書館に関わっていこうとする若い世代や子どもへ本を手渡そうとしているすべての人びとが再考すべき「ちびくろさんぼ」復刊である。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会委員,獨協大学)

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Vol.99,No.4 (2005.4)

自由宣言の50年  (三苫正勝)

 「図書館の自由に関する宣言」は1954年5月の全国図書館大会で採択された。当時の状況は本誌2004年10月号の森崎論文および拙稿に若干触れられているが、成立に至る図書館員の苦悩は多くの図書館員が共有しているとはいえないように思う。今の社会の表舞台で活躍している人々のほとんどが戦後生まれとなり、戦前の大政翼賛体制あるいは治安維持法下の社会状況を重く考える人は少なくなった。まず国会が軽々しく第九条を柱とする憲法の改正に走り出そうとしている。世間では、知られて困るような本は読んでいないという感覚で、読書の秘密を保持することの大切さに無関心になっている。そこで今一度、当時の緊迫した状況を学習する必要があるのではないかと思う。
 日本の独立を前にして治安維持法に代る破壊活動防止法(破防法)をめぐっての「図書館の中立性」の論議。その前後に実際に図書館に迫ってきた危惧すべき事件。たとえば進歩的文化人と目された中島健蔵の座談会の参加者を調べに図書館に現われた警官。そのような状況を前にして、まだ戦争中の「物言えば唇寒し」の時代を肌で覚えている人たちが、宣言を採択しようとして交わす討議の切迫感と使命感。それにもかかわらず予算獲得への差し障りを恐れて逡巡するジレンマ。その中で、それこそ命をかけた討議を行い、宣言採択に至った経過を、再度とは言わず、常に追体験する必要を思う。そこで50周年に因んで昨年(2004年)刊行された次の書をぜひ読んでいただきたい。上に書いたような『図書館雑誌』の誌上討議、図書館大会の迫真の議事録が収録されている。
◇図書館の自由に関する宣言の成立(図書館と自由1)覆刻版
 また、次の書はこれまでの図書館の自由に関する事件を総覧するものとして『図書館雑誌』から採録したものである。
◇『図書館年鑑』にみる「図書館の自由に関する宣言」50年
 いずれも日図協の出版であり、施設会員には配布されているので、ほとんどの図書館には入っているはずである。
 なお、図書館の自由に関する文献目録も刊行準備中である。

(みとま まさかつ:JLA図書館の自由委員会委員長)

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Vol.99,No.3 (2005.3)

図書館と反テロ  (井上靖代)

 2004年6月,2005年1月とアメリカ図書館協会評議会は『図書館の権利宣言』解説文18項目中,8項目の大幅な改訂を採択した。2002年にプライバシーに関しての新解説文を採択以来の大きな動きである。非印刷資料への子どもやYAのアクセスや学校図書館メディア・プログラムや資源・サービスへのアクセス,電子情報・サービス・ネットワークへのアクセスなどについてである。また,無線利用の情報活用(RFID)技術に関するプライバシー侵害の懸念についての決議なども採択された。
 9.11以降のパトリオット法施行後,アメリカのみならず全世界で反テロを目的とした法的対応が広まりつつある。図書館や情報への自由なアクセスを制限する動きが活発である。多様な自由利用を制限する,あるいは利用者の利用情報を密かに把握しようとする図書館外の権力の動きなどの具体的な形となって表れる。それは図書館という組織だけでなく,各図書館員の専門職としての意識への挑戦となっている。51の州図書館協会でALAのパトリオット法に対する決議を支持する決議を採択しているが,官憲へ利用者の個人情報を提供してしまう図書館員もいる。ALAは長らく忘れられてきた倫理綱領の周知を行ったり,イギリスでも2004年7月にCILIPが専門職綱領の改訂を実施するなど専門職としての危機感が高まっている。
 IFLA/FAIFEでは2005年に実態調査を世界規模で行うことにしている。反テロを錦の御旗として個人の読む自由・知る自由が制限される傾向がかなり強いのではないかと危惧されている。
 日本では公衆無線LANを取り入れたり,書籍のICタグを検討する図書館が増えつつある。しかし,警察による携帯電話の盗聴が実際に行われている現在,はたして図書館が利用者の読む自由を保障できる状況にあるかどうか再確認が必要ではないだろうか。さらに,図書館としてだけでなく,図書館員としての職業倫理も再確認する時代ではなかろうか。日本の図書館界も確実に9.11以降の時代に存在しているのだから。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会,獨協大学)

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Vol.99,No.2 (2005.2)

図書館の自由と「性悪説」  (若井 勉)

 記者のインタビューに「このシステムはどんな悪い者がいてもチェックするのが狙いである。」と企業管理者の担当者が言ってはばからない。話題のNHK「クローズアップ現代:会社が社員を見張っている」(04.11.25)での放送内の言葉である。2005年4月1日から施行の個人情報保護法の実施段階として、今各企業が準備している1例を紹介した番組であった。そこには、その考え方の基盤を「性悪説」においているという。これを現代の情報事情に当て嵌めよういうのである。そもそも荀子(前298?〜238以降)が唱えた「性悪説」は、孔子の意を祖述して、孟子(前372〜289)が説いた「性善説」に対置したものであった。人間の本性は善であり、仁・義を先天的に具有すると考え、それに基づく道徳による政治や社会秩序の維持を主張したものに対抗して、それだけでは、すべての悪を制することは出来ないとしたものである。「性悪説」は「性善説」とパラレルなものではなく、「性善説」を土台にした思想であると理解すべきであろう。図書館の思想がもともと記録を残し、保存・継承することから始まったとしても、現代においては、人間の持つ固有の権利としての知る自由を土台にしているのであり、悪を取り押さえるために存在しているのではない。図書館は良心に支えられた精神的営みであり、そこを外しては成立しえない。、図書館は自由な情報収集による情報発信の礎として、近代市民社会が最も必要としている施設である。自主的・自律的な活動がその本来の機能であり、科学的真理の追究を基礎とする運営が前提であろう。
 この素朴ではあるが、この原理的な考えを図書館運営のポリシーとしえ忘れてはならない。
「青少年保護条例」が各都道府県で改定し、フィルターリングソフトによる、情報の管理強化、有事報道におけるマスコミを巻き込んだ国民への情報統制が進められているが、米国のように情報公開を妨げ、政府情報の機密化まで及ばしてならない。地方自治体の財政難を防衛的にアウトソーシングや指定管理者制度を導入することに力を傾注するより、この時勢であるからこそ、国民の知的リテラシーを高め、創造的文化環境を充実させることに最善を尽くすことが重要なのである。正の側面をどう発展させるかという前向きの思想と政策がいっそう強調されねばならない。図書館の自由は社会情勢の変化に敏感に対応するとともに、そこに土台をおいてこそ発展することができる。新しい『宣言』解説第2版もそのような視点からの接することが大切であると思っている。

(わかい つとむ:JLA図書館の自由委員会)

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Vol.99,No.1 (2005.1)

「マニュアル」に書かれていない大切なこと  (藤倉恵一)

 カウンターから図書館総務に配置換えになって、もうすぐ1年になる。カウンターにいた頃は、貸出でもレファレンスでも利用者と直接接する以上、ナマの利用者情報(たとえば貸出やリクエストの記録)を扱う機会が多かったし、当然それなりの配慮はしてきた。
 いっぽう総務に移ってからは、データとしての利用者情報を扱う機会が増えた。つまり、図書館システムや入退館システムにおける利用者情報である。文字や記号、数字としての利用者情報を扱っていると、それが「ただのデータ」に思えてくるときがある。だが、忘れてはいけない。これこそ利用者のプライバシーの集合《カタマリ》なのである。
 図書館システムに関する知識、あるいはマニュアルがあれば、カウンターの内側にいる誰でもが利用記録を引き出すことができる。貸出システムの中の履歴は直接的なものだが、入退館システムの記録もまた十分に図書館利用記録といえる。それらに対する現場での配慮は、軽視されてはいないだろうか。
 大学図書館では昨今、図書館外への異動が多い。同時に図書館に他部署からの職員や外部委託・派遣による新しい職員を迎えることも多いわけだが、現場において「図書館の自由」はどの程度伝えられているのだろう。業務マニュアル的配慮以上に、十分に伝えなくてはいけない理念や背景が確かにそこには存在する。
 筆者自身のこれまでの不勉強をあえて棚に上げていうが、大学図書館員──特に新しい人たちにももっと「図書館の自由」に関する諸問題に関心を持ってもらいたい。

(ふじくら けいいち:JLA図書館の自由委員会、文教大学越谷図書館)

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第98巻(2004年)

Vol.98,No.12  (2004.12)

「指定管理者制度と図書館の自由  (西村一夫))

 昨年6月の地方自治法の改正(施行は9月)により、公立図書館の管理委託を民間企業も含む指定管理者に委託することが可能となった。社会教育施設としての公立図書館のあり方を検討した上での法改正ではなく、「民」にできることは「民」にという何もかも一緒にした乱暴な議論にたったものである。
 図書館は人的要素の強い施設であり、指定管理者制度の導入による「メリット」は人件費の削減である。従って、指定管理者制度が導入された公立図書館では正規の職員は少なく、多くは不安定な身分保障しかない短期雇用の非常勤職員となるであろう。いくら司書有資格をその雇用条件にしたとしても安い賃金と不安定な雇用条件では個々の職員の個人的努力によるサービスの展開はありえても、公立図書館を運営する組織体としてのサービスの発展は望むべくも無い。年間出版点数7万点にもおよぶ図書の情報を日々覚え、それを望む市民に的確に手渡すという毎日の地道な努力を積み重ねてこそ市民の図書館としての役割を果たすことができるのである。
 「図書館の自由に関する宣言」は「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」としている。住民の必要とする資料を入手し、それを提供すること、すなわち知る自由の保障に社会的な責任を持っているのが図書館である。指定管理者制度を導入した公立図書館が職員体制の不備、効率重視の中で知る自由の保障が確実におこなわれるのか不安が多い。さらに、指定管理者による管理運営が進むにつれ、利用者への応分の負担などという大義名分によって、相互貸借などの業務が一部有料となる恐れもある。また、窓口委託を実施している図書館においてプライバシー侵害事件が起こっており、「図書館の自由」についての組織的な研修が保障されていない状況が明らかになっている。
 財政健全化の名の下、委託・合理化がすすめられているが、各自治体では公立図書館が果たしている役割について今一度しっかりととらえなおして、指定管理者制度への道を選ばないようにしなければならない。

(にしむら かずお:JLA図書館の自由委員会、松原市民図書館)

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Vol.98,No.11 (2004.11)

アドレス流出,スキルのレベルの問題か (山家篤夫)

 9月下旬,「398人分アドレス流出,図書館ネット利用者」と新聞報道があった。
 システム更新のためにWebサービスを一時停止するA市図書館は,その旨を通知するメールをWeb予約の登録者に一斉送信した。このような一斉送信は今回が2度目。ところが,アドレス帳に保存しているWeb予約登録者のメールアドレスをBCCにコピーして送信すべきところを,CCにコピーしてしまった。20人から60人分をまとめて送信作業を続けている最中に,メールを受け取った利用者から,複数のメールアドレスが送られてきたと電話があり,事態に気づいた図書館はその日のうちに流出した全員に謝罪メールを送信した。Web予約は昨年8月に始め,登録者は現在1386人。
 Web予約が広がる中で起こりやすい個人情報の流出ケースだろう。この同じ日に,A市近くのB市上下水道局で,水道事業市民モニターに通知を送信した際にまったく同じミスをするという事例も報道されている。
 この事例を論議した自由委員会では,行きつけの居酒屋が送ってくるご案内のメールのCC欄に,常連客のアドレスがずらっと付いてきたことがあったという委員もいた。
 A市図書館長は,「今回の件はシステム上の障害やトラブルでなく,単純な操作ミスであり,システム更新で一斉同報機能がつくので再発はない」と事情をうかがった自由委員会委員に説明されたという。メールのスキルが不十分な状態でのミスには違いない。マニュアルも,研修も,口伝も不十分だったようだ。「だが」とある委員が言った。アドレス帳に侵入したり,保存してあるメールアドレスにウィルスをつけるなどの加工は難しくない。FDなど別の媒体に保存して使うことはほとんど常識になっている。メールで広報するならメーリングリストを使うのも当たり前。要は図書館が利用者のプライバシー保護を業務の基本においているかの問題だ,という意見である。他の委員のみなさんもうなずいた。
 添付ファイルをつけ忘れて送信し,慌てることがしばしばの私,今夜も勉強させていただいた。

(やんべ あつお : JLA図書館の自由委員会副委員長,東京都立日比谷図書館)

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Vol.98,No.10 (2004.10)

『耳をすませば』と人権 (鈴木啓子)

 「カントリー・ロード」の曲が流れると映画『耳をすませば』の少女の歌を思い出す人は多いと思う。中学3年生の少女が将来の夢に突き進む少年に出会い、進路に悩みながらも成長していくラブ・ストーリーである。このアニメーション映画は、宮崎駿プロデュースによるスタジオジブリの作品(1995年)である。時々テレビで放映されているが、高視聴率のようである。映像のすばらしさや身近に感じる街の風景や登場人物、物語についつい引き込まれ、大人は、思春期の思い出と重なり、なつかしくその当時の想いがよみがえるのではないだろうか。
 しかし、図書館に携わる人は、見るたびに嫌な思いをするであろう。
 なぜならば、少女と少年の出会いが、図書館の貸し出し記録が残るブックカード(ニューアーク式)を介してであるからだ。読書好きの少女が図書館で借りる本のブックカードにいつも同じ名前があることに気づき、どんな人か思いをはせることから始まる。『図書館の自由に関する宣言』の「図書館は利用者の秘密を守る」という観点からこのような貸し出し方式には問題がある。今までこの件に関しては、色々なところで問題提起され、2004年3月には「貸出カード」についても書かれた『生成するフラクタル−『耳をすませば』考』(二村重和著 新風舎)が出版された。今もよく観られていることを考えると改めて述べたい。
 製作段階で日本図書館協会「図書館の自由に関する調査委員会(当時)」や学校図書館問題研究会が貸し出し方式についての問題点を説明して改善を申し入れたが、理解は得られなかった経緯がある。映画の中に貸し出し方式が変わるという公共図書館職員の父と少女の会話があるが以下である。
 父「わが図書館もついにバーコード化するんだよ。準備に大騒ぎさ」
 少女「やっぱり変えちゃうの。私カード(ブックカード)の方が好き」
 父「僕もそうだけどね」
 図書館職員が「僕もそうだけどね」というだろうか。そこは、「でもプライバシ−を守らないとね」などとして欲しかった。せめて、最後に「現在は『図書館は利用者の秘密を守る』という観点からこのような貸し出し方式はとられていません。」というような一文を入れて欲しい。
 ブックカードがロマンスのきっかけになっているので、一般にあまり問題視されないがこれがストーカーにあうきっかけという設定だったらどうだろう。みんなブックカードについて考えざるを得ないと思う。
 このことは、思想・信条の自由や人権と関わることであり、多くの子どもたちが観る映画であるから見過ごせないのである。

(すずき けいこ:JLA図書館の自由委員会、兵庫県立西宮今津高等学校図書館)

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Vol.98,No.9 (2004.9)

知る自由か知る権利か (中村克明)

  もう7年も前のことであるが、現在の職場に就職する際の面接で、当時法学部長を務められていた先生から「君の論文では知る自由という言葉が使われていますが、知る権利ではないのですか」と質問された。この時は「図書館界では、知る権利のことを知る自由というのです」と一応答えておいたが、「自由宣言」を知って以来、このことは私もずっと気になっていた。
 その後少し調べてみたが、やはり図書館界では知る自由=知る権利とする見方が強いようである。確かに、「自由宣言」の前文・副文1および2などの規定内容からすればそのように読むことができるであろう。しかし、法学界の見解もそうなのかといえば、必ずしもそうではない。同概念と捉えている説もあるが、一方で両者を明確に別の概念(知る自由=消極的・受動的権利、知る権利=積極的・能動的権利)と説いている有力な学説も見受けられる。おそらく、私に質問された先生も知る自由と知る権利を別の概念と捉えられていたのであろう。
 今日の日本社会で、知る権利という言葉が一般に定着していることは否定できないであろう。にもかかわらず,「自由宣言」において知る自由をあえて使い続ける理由は一体何なのであろうか。かつてある先生は、知る自由という言葉は図書館人が最初に使ったものだから大事にしたいと述べられた。その気持ちはもちろんわからないではないが、しかしそのことにいつまでもこだわり続けることが本当に図書館にとっていいことなのかどうか、疑問がないわけではない。また、この言葉を使い続ける限り、いくら“「自由宣言」における知る自由は、前文が規定しているように知る権利と同概念となっているのであって、それは積極的・能動的権利なのですよ”といってみても、先にみたように知る自由=消極的・受動的権利と捉える学説がある以上、このようなものと誤解されかねないであろう。
 「自由宣言」は本年、採択から50(改訂から25)周年を迎えた。図書館界はこの辺で一度、−−「自由宣言」の再改訂も視野におきながら−−知る自由および知る権利について本格的な検討を行う必要があるのではないだろうか。

(なかむら かつあき:JLA図書館の自由委員会,関東学院大学)

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Vol.98,No.8 (2004.8)

図書館の道しるべ 自由宣言解説改訂版の普及を図ろう (巽 寛)

 朝、新聞を開く。「プライバシーを侵してる出版」という文字が飛び込んでくる。その資料が図書館に入っているかどうか、記憶を巡らせる。図書館として確保しておくべき資料と考えるがちゃんと入手できるかどうか、収集できたとしてどう扱うべきか、急回転で頭が回り始めている。最近では『週刊文春』3月25日号の例、田中真紀子さんの長女の記事を巡り、東京地裁が出版停止の仮処分を出したと報道された際、また東京高裁がこの仮処分を後日取り消したことを知らせた時、ある種の緊張をもってこの事実を受け止める。この間にマスコミからこの雑誌の扱いはどうされていますかという問い合わせがはいってくるし…。
 ほかにも車谷長吉さんが『新潮』2004年1月号で発表した小説で名誉を傷つけられたとして、東京地裁に提訴したという新聞記事(『毎日新聞』2004.4.8)が出ている。実名で事実と違うことを書かれ名誉を傷つけられたとして、小説を出版しないことや損害賠償を求められているのだ。柳美里さんの小説「石に泳ぐ魚」(『新潮』1994年4月号)の出版差し止め例があったが、裁判のゆくえを追っておかなければならない。
 図書館が国民生活に根づくなか、人権意識の高揚を受け、自由に関わる事例が様々に形を変えながら顕在化してくる。新たな事例にマスコミが注目するなか、時宜を得た形で『「図書館の自由に関する宣言1979改訂」解説第2版』が図書館界のこれまでの成果として3月に出版された。「人権またはプライバシーの侵害」について厳密な定義がされているほか、「子どもへの資料提供」「資料提供の自由と著作権」「インターネットと図書館」については新たに柱だてをし、記述を深めている。多様な事例に対応できるように工夫されたこの1冊は、資料提供という仕事に自信を持ち、豊かにすすめていく際に何を守っておかなけれならないかを明らにしている。個々人の学習や職場研修のテキストとして、そして具体的な事例が出てきた時に、職場で話し合いをする道しるべ役を果たす文書として広く普及されることの意義は大きい。

(たつみ ひろし:JLA図書館の自由委員会,八日市市立図書館)

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Vol.98,No.7  (2004.7)

カウンターから (内尾泰子)

 「こらこら、用もないのに引き出しを開けてるんじゃない!」
 「だって、先輩が何借りてるのか知りたいんだもん。」
 「貸出返却するとき以外、開けたらダメだって言ってるでしょう。」
 「でも借りてるときしかわからないから、気になって。ついつい・・・。」
 「貸出返却作業の最初に言ったよね。誰が何を借りているっていうのは個人情報だから秘密を守らないといけないんだ。あなただって他の人に見られたら嫌でしょう。」
 「それはそうだけど。」
 「ちゃんと守れないんだったら、カウンターに座る資格はないなあ。」
 「ええっー。」
 なぜ引き出しを開けてはいけないのか? それは引き出しの中に貸出記録が入れてあるからだ。勤務先の学校では、予算状況が厳しく貸出などをコンピュータ化できず逆ブラウン式でおこなっている。
 生徒はカウンターに座るのが好きだ。図書委員以外の生徒もよく座りたがる。工業高校であるため、上級生になると課題研究や実習の授業など専門科目の授業でよく図書館が利用される。そのときもわざわざカウンターに座って調べものをしている。図書委員会でもカウンター班は第一人気である。カウンター当番の最初に貸出返却について利用者の秘密を守ることについて説明している。ほとんどの生徒はきちんと守ってくれている。
 貸出返却については生徒には作業をさせていない学校もある。それはその学校図書館として一つのスタンスであると思う。ただ、私は、学校図書館として生徒に利用者の秘密を守る姿勢を育てていきたい。そのためには、実際に個人情報である貸出記録を保護する体験をすることが必要だと思うのである。
 最近は「プライバシーの侵害」「個人情報」などという言葉がすらすら出てくる反面、他人の携帯電話を勝手に見たり、友人のかばんを断りなくあけてしまう生徒がいる。自分のプライバシーは主張するが、他人のプライバシーを守ることには無関心である。そのような状況の中で、カウンター作業を通して他の人の個人情報を守れるようにするのは小さなことなのかもしれない。だが、「図書館の自由」の精神をカウンターから生徒に伝えていきたい。

(うちお やすこ:JLA図書館の自由委員会,東京都立中野工業高等学校)

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Vol.98,No.6 (2004.6)

名簿の取扱について (福永正三)

 ようやく『「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」解説』(第2版)が刊行されるにいたった。
 今回の『解説』では、プライバシーの保護のために資料の提供が制限される場合の判断基準が、一般論としてではあるが、かなり詳しく示されている。しかし典型的な個人情報の掲載資料、それゆえにプライバシーの侵害と近接しがちな名簿の取扱いについては具体的になにも語られておらず、特定の名簿の提供制限の是非が問題になった際のマニュアルとしては、ちょっと物足りないと失望される向きがあるかもしれない。
 その一般論としての判断基準の一つに、掲載内容が「一般に他人に知られたくないと望むことが正当であると認められる」ことが要求されている(『解説』P.26)。
 そこでこの一般論を名簿のケースに当てはめればどうなるのか。私見ではあるが、情報誌である名簿という資料の性質から、ちょっと一般論を修正して適用する必要があるとおもう。広く公刊された名簿の情報源としての有用性、したがって利用者の利用ニーズの強さを無視できないとおもうからである。
 どう修正すべきか。記載事項が公共性・公益性のない純然たる私的な事柄であることは当然の前提として、通常人の感覚からすれば、単に知られたくないと望む以上に、それの公開によって深刻な困惑を余儀なくされる程度のもの、というように限定的に解釈すべきではないかと考える。
 同時に、たとえ上記の要件を具備した個人情報であっても、名簿の客観的な性質や凡例などにてらして、被登載者が不特定の者に知られること、つまり公刊されることを知って登載を許諾していると推測される場合も提供制限をする必要はなかろう。
 そうであれば、図書館に所蔵されることは稀なケースであろうが、非公刊で明らかに構成員のみの利用を想定して編集されたとおもわれるものとか、被登載者の性向が判る同好会的な団体の会員名簿であるとか、仮に公刊されたものであっても蔑視や差別に直結する地域や集団の所属員名簿などに注意すれば足りるということになるのではなかろうか。
 個人情報保護法が施行されて、従来よりも個人情報が慎重に取扱われるべき社会環境下になったが、図書館資料のなかの個人情報の取扱いについては必要以上に臆病になることはないと考えるが、いかがなものだろうか。

(ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会)

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Vol.98,No.5 (2004.5)

「週刊文春」問題はどのように検討されたか (田中敦司)

  「週刊文春3月25日号」に関して、出版社に対して出版差し止めの仮処分が出された。この件では、図書館によって対応に大きな差が出た。
 名古屋市では、新聞報道のあった3月17日に緊急自由委員会を招集し、議論を開始した。該当の雑誌が納入されるのは、館内整理休館日に当たる19日であり、翌20日には書架に並ぶことになる。それまでに全館での議論を組織し、結論を出さなければと焦り気味であった。
 果たして自由委員会内部でも提供制限が必要であるという意見と、制限はすべきではないという意見が出て、議論はまとまらなかった。そのため、方向性を示せぬまま、各館での討議にかけることになりかけていた。ところが、説明を聞いた中央図書館長(司書資格は持っていない)が、「提供制限はすべきではない。ピノキオ以来の自由委員会の蓄積から考えたら、そうなるのではないか」の意見を述べたのである。
 この瞬間、図書館の自由宣言を再認識させられたように思う。正直に言うと、議論の最中に日本図書館協会に電話をした。議論の参考にしようとの思いであったが、何かにすがりたい気持ちがあったのも事実である。実際はお話中でつながらなかったが、このあたりから、「自ら考える」という態度が薄れていったように思えるのである。後日聞いたところでは、協会には問い合わせの電話が、記録されたものだけで39本かかったそうである。同じような気持ちの図書館がそれだけあったと推察される。
 今回の場合、司法判断が確定しておらず、図書館への申し出もない段階で、提供制限の方法を考え始めてしまった。それは、いまもなお、新聞報道のみで右往左往する程度の感覚しか持っていなかった私自身への、痛烈なパンチであった。「プライバシー侵害」と「仮処分」決定というふたつの事象から、隘路に入っていったものである。しかし、過去の事例を紐解き、それぞれの解決にあたって議論してきた過程と、今回の事件で分かっている事実とを結びつけて自ら考えれば、方向性は見つけられたのではないかと反省している。
 名古屋市の全図書館に「通常どおりの提供とする」という自由委員会決定を、FAXで届けることができたのは、3月19日午後のことである。 

(たなか あつし:JLA図書館の自由委員会,名古屋市鶴舞中央図書館)

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Vol.98,No.4 (2004.4)

準備室の時から「図書館の自由」に関して現場研修を (白根一夫)

 斐川町立図書館は平成15年10月1日に開館した。平成12年4月1日教育委員会に図書館準備室が設置されて3年半である。そのうち3年間は公民館図書室を運営しながらの準備であった。
私は公民館図書室も図書館と同様「住民や利用者への資料提供」に徹することが肝要であると思っている。なぜならば、町民にとっては今利用できるのは図書室しかないのであるからである。その他政策的な理由としては、「利用者にとっては図書館利用の経験を積み重ねる」ことができることと、「職員にとっては図書館業務を実践する」またとない現場研修の場になることである。公民館図書室など小さな施設ほど貸出手続きが複雑であったり、読書のプライバシーが守られていなかったりすることが残念ながら多い。この点では、県立図書館が自信をもって指導牽引していって欲しいと思う。
私たちのいくつかの取り組みを紹介したい。
@ 寄贈図書について、「寄贈者名を図書に記名することを止めた。」個人名が館内でいかなる状態でも見られることはプライバシーに反する。ただ、当人への「礼状送付」と広報紙上での「礼文掲載」は行っている。その際にも「個々の資料名ではなくジャンルや分野の名称にとどめている。
A 督促や予約(リクエスト)の連絡は事務室で行うことを徹底した。このことは、図書館のカウンターに電話を置かないことで引き続き徹底している。相談カウンターは面談のみで電話での問合せには事務室にいる職員が交代で対応することにしている。
B お話ボランティアや装備ボランティアの方々にも事務室内への出入りをお断りしている。打ち合わせや反省会、そして装備作業は応接室や作業室などでお願いしている。

図書館サービスをはじめるために図書館を新設する自治体は今後も増えつづけるであろう。準備室の段階から「図書館の自由」について現場研修になるようなことを実践して欲しい。

(しらね かずお:JLA図書館の自由委員会,斐川町立図書館)

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Vol.98,No.3  (2004.3)

本の回収要請と著作権との関係について考える (南 亮一)

 最近、委員会で話題になっているのが、本の回収要請と著作権との関係についてである。
つまり、ある本に載っている文章や図表などが著作権者に無断で掲載されているような本につき、著作権者側やその本を出版した会社・団体が著作権法違反を理由として図書館に本を回収したいので協力してほしい旨の要請が書面で寄せられた場合、どのように対応すべきなのか、ということである。
 著作権法違反の本といえば、いかにも「発禁本」のようなイメージがあり、回収や閲覧禁止措置をしなければならないかのような感じになるが、本当にそうなのであろうか。
 実は、著作権法をいくら厳密に解釈しても、そのよう結論にはならない。せいぜい、複写と貸出しができないと解釈することが精一杯なのである。
 著作権法では、海賊版の流通防止の目的から、ある出版物が著作権を侵害されて作成されたことを知って(「情を知って」)いる場合について、その出版物を「頒布し、又は頒布を目的として所持」することを禁じている(113条)。この「頒布」というのは、著作物の複製物(本や本のコピーのこと)を貸し出したり、不特定の人に譲り渡したりすることである(著作権法2条1項19号)。したがって、この規定を額面どおり読めば、結局、著作権を侵害する内容が含まれるような本を貸与したり、コピーしたりすることや、貸与やコピーをするために本を所蔵することはできないということになる。なお、判例では、この「情を知って」とは、裁判所が「著作権侵害である」との判断を下したことを知っているという意味とされているから、裁判所の判断なしに、著作権者等が「この本は著作権侵害である」と主張して利用制限を求めているような場合には当てはまらない。
 このように、著作権法を最大限厳格に解釈したとしても、裁判所が著作権侵害の判断をした資料に限り複写と貸与が禁じられるだけであって、閲覧に供することまでは禁じられておらず、ましてや裁判所が何らの判断も下していない場合には複写も貸与も禁じられない。したがって、いくら著作権者や出版団体等が著作権法を盾に閲覧を禁止するよう要請してきたとしても、それに従う必要はない。利用者の「知る権利」を保障するため、最大限の範囲の利用を確保するという視点での対応が求められるところである。

(みなみ りょういち:JLA図書館の自由委員会委員、国立国会図書館)

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Vol.98,No.2  (2004.2)

地方分権推進、自治体合併と図書館の責務 (熊野清子)

 今、行政改革大綱を受けて地方分権推進の名の下に市町村合併のかけ声が響く。合併特例債の仕組みなどは財政のつけ回しに過ぎないのではないかとも思えるのだが、自治体の数を減らす方向へと政策誘導されている。一方でe-Japan戦略に基づき、電子自治体の実現をめざした総合行政ネットワークの構築、ICカード(含住基カード)の普及、電子申請の拡大へと行政サービスが変容しつつある。役場に出向かなくてもさまざまな手続きができるから、自治体の数は少ない方が効率的だということらしい。
 地域の将来の姿を住民みずからが考え、決めていくのが本当の意味での地方分権であろう。各地で合併の様態や賛否に関する住民投票が行われ、議会や合併協議会で住民の生活に密着したさまざまな課題が話しあわれている。こんなときこそ図書館の出番である。地域の生の情報や昭和の大合併の経験を提供して住民の判断材料とすること、さらに、次代のために現在の合併協議の情報をきちんと収集し後世に伝達することが地域の図書館に求められているのだ。図書館法第3条にいう公立図書館の責務「土地の事情及び一般公衆の希望にそい」「郷土資料、地方行政資料、…を収集し」「時事に関する情報及び参考資料を紹介し、及び提供すること。」である。
 各県立図書館では県下全域の自治体議会の会議録を備え、誰でもいつでも閲覧できるはずだ。身近で大切なことがらが議会で論議され、きちんと記録されている。自分の住んでいる自治体以外の論議を知ることも出来る。各地の住民意識調査や地域の基礎的な統計資料もある。住民はこれらを活用して真に豊かな地域を築いてほしい。図書館は民主主義を支える自立した市民のための豊富な資料提供、そのための資料費の確保と地域資料の収集にさらに努めてほしい。それが知る自由を保障する第一歩だと信じている。

(くまの きよこ:JLA図書館の自由委員会,兵庫県立図書館)

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Vol.98,No.1 (2004.1)

 しつこく、ホームレスと図書館利用 (西河内靖泰)

 昨年の9月,ある全国紙の東京版で,ホームレスの図書館利用について取り上げた記事が載った。記事は,東京の都心区の図書館を取材したものだが,見出しにこうあった。「図書館にホームレス 市民も(早く来ていい席取るし,いびきかいて眠るし) 職員も(「出ていけ」とはなかなか) 本人も(行くところがない これ以上落ちぬため少しは知識も)困惑」。読者から「図書館に,ホームレスが多い。何とかならないか」と電話があったので取材したとのリード書きが書かれている。記事そのものは,図書館と当のホームレスを取材して,図書館の苦悩とホームレスの実情をていねいに書いている(「図書館の自由」のことには,まったく触れていなかったが)。
 私はこのコラムで,何度もホームレスの図書館利用の問題について,とりあげてきたこともあり,全国の図書館から問い合わせや相談を受けることが多い。この問題には,簡単に割り切れるような解決方法はない。だから,何度でも,コラムで取り上げ,もっと論議をしてより現実的な解決方法に取り組めるよう提起しているつもりなのだが。私も,現実の問題として公の施設の役割は認識しつつも,「追い出せ」という他の利用者の声が圧力となって,そうした声との対決に疲れ,耐え切れずに苦悩する現場の実情は分かっている。だが,何度も繰り返すようだが,「図書館の自由に関する宣言」(以下「自由宣言」)の前文は「図書館は,(中略)資料と施設を提供することを,もっとも重要な任務とする」とあり,あらゆる人びとに資料と施設を提供することに,図書館の存在意義があるとしているのだ。このことは,絶対に忘れてほしくない。具体的な迷惑行為がないのに排除することをしてはいけない。彼らの存在や定義できない「臭い」を問題とする利用者にとっては,ホームレスは「迷惑」だろうが,図書館は,まちがっても,ホームレスが図書館を利用すること自体を「迷惑行為」とする立場だけには立たないでほしい。具体的な迷惑行為があったときに,ホームレスであるなしにかかわらず,すべての図書館利用者に対して,同様に対応するというのが図書館の原則的な立場なのである。
 今年も冬がやってきた。ホームレスの人たちにとっては厳しい季節である。山谷の越年活動に取り組んでいるボランティア団体から,例年カンパの協力をしている,我が図書館分会にまた協力のお願いの手紙が来ていた。「次々に路上で暮らす人たちが増えている」と,その手紙にあった。いま都内には7,000人を超えるホームレスの人たちがいるといわれる。不況が深刻化する今日,ごく普通の市民も容易にホームレスになりうる。勤め先の倒産,リストラ,病気や障害,借金などなど,収入と住居という生活の基盤はいとも簡単に奪い去られてしまう。ホームレスの姿は,明日の私たちの現実かもしれないのだ。「ホームレス自立支援法」もできた。行政には,ホームレスの自立を支援する責任があることが示されたのだ。図書館も例外ではない。図書館とホームレスの問題が,「排除云々」ではなく「自立・支援」の問題であることの実践と提起を,図書館界として指向していくべきではないだろうか。皆さんはどう考えますか。

(にしごうち やすひろ:JLA図書館の自由委員会,荒川区立南千住図書館)

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第97巻(2003年)

Vol.97,No.12  (2003.12)

「図書館の自由」の積極的な発信を−住基カードの図書館利用− (前川敦子)

  8月25日の住民基本台帳ネットワーク2次稼動に伴い,いくつかの自治体での住民基本台帳カード(住基カード)への図書館貸出カード機能の付加が報道されている。多くはカード裏面に図書館独自ID番号のバーコードなどを印刷,あるいは貼付したものである。実施館からは住基ネット自体および図書館利用記録が住基ネットにつながるのではないかという住民の不安,費用,紛失時の対応などへの懸念が報告されている1)
 なぜ住基カードへの付加なのだろう。無料の原則や子どもを含めた気軽な所持とは相いれないものだ。図書館からの発想ではなく,住基カードの汎用性を広げ,普及につなげようとする行政・産業の主導性を感じる。その一方で,「カードが1枚になれば便利」「自分の情報が知られても別によい」という感覚が市民の一部にあるのも事実である。図書館についてふれたものではないが,加藤秀俊氏が住基ネット警戒論への違和感を述べている2)。「図書館利用機能も付加を」という声が行政や住民の中から起きても不思議ではないのだ。
 そうした中で必要なのは,「図書館の自由」を含め,図書館の主張を外部に向けて発信できる力ではないかと思う。利用した資料が他人に知られたら困る日常場面の例や,過去のさまざまな思想弾圧の歴史。「読書の秘密」が守られることが「知る自由」の保障につながっていること。便利さと引き換えに起こりうる危険。そうしたものをわかりやすく説明でき,具体的な策を提案できる力。待ちの姿勢ではなく,組織・自治体内での情報を収集し,必要があればタイミングを逃さず市民や行政担当者に図書館の立場を主張するべきだ。他のさまざまな問題と同じく,そうした態度が個々の図書館に求められている場面ではないかと思う。知らない間に望まない決定がなされてはいないだろうか。

 注1)「住民基本台帳カードを利用した図書館の貸出しサービス−多目的利用への懸念」『図書館雑誌』97(10) 2003.10 p.702

 注2)加藤秀俊「考えたい自己証明できる社会の効用 理解苦しむ『住基ネット』警戒論(正論)」産経新聞 2003.10.5

(まえかわ あつこ:JLA図書館の自由委員会,大阪教育大学附属図書館)

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Vol.97,No.11 (2003.11)

秘密は秘密のままに(田中敦司)

 僕が中学生だったころ、学校の図書室では、ブックカードに過去の貸出記録が記入してあった。その本をいつ誰が借りたのかがはっきりわかるので、カードに憧れの女性の名前を見つけるとドキドキしたものである。彼女にしてみればいい迷惑だったにちがいない。けれど、これはプライバシーの侵害に当たる貸出方式であるというのが、現在の図書館界での認識である。
 住基カードや愛・地球博の入場券などICチップを利用したカード、ICカードがだんだん身近に増えてきた。クレジットカードもその方向で変わりつつある。書店では、書籍にICチップをつけて、万引き防止に役立てるという。2004年3月までに研究をまとめ、実証実験に進むようだ(読売新聞4月22日夕刊)。
 図書館でも、バーコードに替わってICカードを資料に貼って貸出しを行うところが現れた。今のところ順調に稼動していると聞いた。
 このICカードは2KB・約2,000字が記録できる。ここに書誌情報を記録できれば便利だなぁ、と考えてからぞっとした。貸出し情報も記録できることに思い至ったからである。直近の数十人分なら可能であろう。
 もちろん、そうした利用を考えている図書館はないであろう。いや、してはならないことである。しかし、それを可能にする技術が現れたのはまちがいない。本に、目には見えないブックカードを組み込むか、目録カードを組み込むかの違いである。技術をどの方向で活かすかが司書に求められているのである。
 ブックカードで彼女の名前を見たとき、ドキドキすると同時に、なんだか見てはならないものを見てしまったような気がしたものである。秘密は秘密のままにという気持ちを大切にするならば、過去の貸出記録を残さない方法がベストであることに思い至る。彼女の秘密を知ることはできなくなったけれど、それは図書館の自由が浸透したという意味で、よい時代の到来と言える。

(たなか あつし:JLA図書館の自由委員会,名古屋市鶴舞中央図書館)

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Vol.97,No.10  (2003.10)

燃えるベルリン(井上靖代)

 1933年5月10日ユダヤ人迫害が本格化し、書物2万冊がベルリンのベーベル広場で積 み上げられ焚書された。ここでIFLA/WLIC大会が2003年8月1日から9日まで開催された。40度以上という気温が続く京都の夏なみの暑さのなか討議も熱かった。テーマは「アクセスポイント・図書館; メディア−情報−文化」である。
 大会ではIFLA/FAIFEの独立分科会及び図書館の自由関連の合同ワークショップが行われた。分科会では9月11日事件以降世界中で個人情報侵害の事例が増加し、関連の法律を採択する国々の現状が報告された。これをふまえ、最終日には決議案が提案され採択された。ワークショップでは子ども・YA分科会と、さらに図書館学理論・研究分科会との合同のものが2つ開催された。前者では暴力と抗争が続く社会で子どもたちにどのように情報を提供するのかを各国の状況報告をふまえ討論がすすんだ。後者では各国での図書館員の倫理綱領調査をふまえ、国際的な合意点をみいだすべく討議された。委員会では委員長が任期終了、次期会長に選出されたことから次期新委員長を選出、さらに昨年IFLAで採択された「インターネット声明」「グラスゴー宣言」の各国での採択と広報のためのワークショップ開催などが求められた。 
 最終日の決議案で図書館の知的自由に関わるものが多かったのは、世界中の図書館界で重要課題とみなしている表れといえるだろう。だが、情報社会といわれつつも図書館界は各国・国際政治界から重要視されていない。決議案のひとつは「情報社会世界サミット」に図書館界がもっと積極的に関わって、情報格差が拡大している現状に警告を発し、図書館がリテラシー育成の場であることを各国政府代表やサミット参加者に訴えるよう各国図書館界に求めるものである。日本も積極的な関心と参加が求められるところである。
 来年、ブエノス・アイレスでIFLA/FAIFEは多文化分科会や子どもの人権と情報へのアクセスをテーマに子ども・YA分科会とともにふたたび合同ワークショップをもつ予定である。

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会,IFLA/FAIFE委員,獨協大学)

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Vol.97,No.9 (2003.9)

著作権侵害の書籍の閲覧禁止要求があったときには・・・(南 亮一)

 これまでに出版された本の中には、例えば無断借用、盗作、秘密の手紙の無断掲載のように、著作者人格権や著作権を侵害して作られているものも少なくない。これらの中には、裁判で争われた末、そのことが認定されたものもあれば、著作権者等からの抗議を受けて回収したものまで様々ある。最近では、三島由紀夫氏の生前の未公表の原稿を無断で掲載した書籍が、著作者人格権である公表権を侵害したとする判決があった。
 このような判決があったとき、原告側から図書館に対し、このような書籍の閲覧をやめるよう要求する書面が送られ、その対応が問題となることがある。
 この対応については、(1)未公表の著作物を掲載したことが認定された場合と、(2)その他の著作権侵害が認定された場合の2つに分けて考える必要がある。
 (1)の場合には、著作者人格権の一つである「公表権」との関係が問題となる。この「公表権」というのは、未公表の小説、論文、絵画、写真等の無断公表を禁止できる権利で、その作者に与えられているものである。未公表のものを勝手に公表すると、この権利に触れることになる。したがって、「公表権」を侵害して作成された書籍を閲覧に供すると、違法となる。
 (2)の場合には、著作権侵害によって作られたということを知った上で、その書籍を貸し出したり、その部分をコピーしたり、その目的で書籍を所蔵したりする場合に限り、問題となるおそれがある。これは、著作権法上著作権侵害とみなされる行為として掲げられている「著作者人格権、著作権・・・を侵害する行為によつて作成された物・・・を情を知って頒布し、又は頒布の目的をもつて所持する行為」に形式上当てはまってしまい、著作権侵害とみなされるおそれがあるからである。
 ただ、この規定が適用されたとしても、この規定では閲覧まで禁止しているわけではないから、たとえ原告側から閲覧をやめるよう要求する文面が送られてきたとしても、(2)の場合であれば、閲覧までは止める必要がないことになる。各図書館での対応に資すればと思い、このような解釈を取り得ることを紹介するものである。

(みなみ りょういち:JLA図書館の自由委員会,国立国会図書館)

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Vol.97,No.8  (2003.8)

戦争と図書館(井上靖代)

 イラクにおける図書館の被害について調査がすすみ明らかになりつつある。5,000点の貴重書を含む50万点を所蔵していた国立図書館が、略奪され破壊された。オスマン帝国時代の古文書やイスラム古文書を所蔵していた古文書館や宗教庁附属図書館も略奪され破壊された。バクダッド大学中央図書館も破壊された。博物資料の略奪についてはマスコミで頻繁に報道されているが、図書館や公文書館資料の行方についてはあまり知らされていない。
 アフガニスタンでも、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、戦争のたびに民族文化の記憶である本が焼かれ消滅していく。世界史のなかでは、他民族文化の知識・情報をわがものとするための略奪はくりかえされてきた。しかし、現代では他民族文化そのものを消滅させようとの意図をもって破壊される場合が多くなってきている。
 テロ事件でも同じことが起きている。テロ破壊によって、消えてしまったニューヨークの過去の舞台写真などや港湾関係資料もある。世界貿易センター内や近くにあった図書館が被害を受けたのである。美しい建物や風景が世界文化遺産として登録され、マスコミにとりあげられることも多い。美術品や工芸品だけではなく、文字や画像・音声などの情報資料もまた文化遺産である。ユネスコとIFLAでは共同して、民族文化の記憶を復活し、保存していこうとしている。アフリカでの絵はがき収集計画もそのひとつである。現代では書物だけではなく、多様なメディア形態が文化の記憶として保存対象となりうる。戦争のない日本だからこそ意識して地域文化の記憶を残していく努力が必要だろう。
 イラクの図書館資料をとりもどすべく図書館所蔵印がHP※上で公開されている。ボスニアではユネスコとIFLAが図書館の破壊実態を調査し、復興活動の支援をおこなったが、イラクではまだ調査の段階にすぎない。アフガニスタンについては調査すらされていない。2年目の9.11が近づいている。人々の記憶を保存し、伝えていく使命を図書館が担っていることを再考したい。
※ http://www-oi.uchicago.edu/OI/IRAQ/mela/melairaq.html

(いのうえ やすよ:JLA図書館の自由委員会,獨協大学)

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Vol.97,No.7  (2003.7)

改めて船橋市西図書館蔵書廃棄問題を思う(三苫正勝)

 船橋市西図書館で,「新しい歴史教科書をつくる会」の会員の著書を中心にした蔵書が,集中的に廃棄されていたことが,昨2002年4月12日,産経新聞に報道されて1年が経つ。船橋市図書館の除籍基準にも合致していない,理由不明の廃棄であった。
 日図協図書館の自由委員会による現地聞き取り調査(5〜6月)のあとも新たな情報は得られていない(報告は本誌2002年10月号に掲載)。事件は当事者とされる司書が自らも原因不明と述べたまま,解明すべき手がかりも見いだされていない。結果だけで船橋市においても関係者の処分が行われ,著者らは告訴し,その後の経過はわからない。
 直後,日図協には厳しい対処を求める意見が寄せられ,日図協は6月5日,事件を厳しく批判する見解を表明すると同時に,図書館界の自戒をうながした。
 一定の考え方の人たちの著書がほとんど根こそぎ廃棄されたという事実から見る限り,「図書館の自由に関する宣言」改訂のきっかけとなった1973年の山口県立図書館蔵書隠匿事件や,1986年の広島県立図書館の蔵書破棄事件に並ぶ,図書館として最も忌むべき行為であった。
 図書館は,社会で問題になることがらこそ,資料・情報を収集,提供して国民の関心にこたえなければならない。その意味で,注目を集めた歴史観に関連した図書を提供することは,図書館への社会の期待にこたえるものであり,図書館の責務を果すものであった。しかし結果は,提供に至る以前に,残念ながらその一方の資料群を集中的に廃棄するという結果になった。
 日図協見解に書かれたように,図書館は排除の論理をとらず,寛容と多様性の原理に基づかなければならないことを改めて強調しておきたい。
 加えて,前自由委員会委員の棚橋満雄氏の指摘を紹介しておく。
 ――小林よしのりは『反米という作法』(西部邁と共著)の中で「図書館というのは税金で成り立っているのに,左翼の出版物を成り立たせるために本を買う。……という構造になっている」と書いているが,その見方は正確ではない。山口県立図書館の事件をはじめとして,基本的には左翼の資料を対象としている。逆に現在,マルクス主義経済学の唯一の雑誌となっている『経済』を置いている公共図書館がいくつあるだろうか。また,市町村合併問題を考えるのに『議会と自治体』など不可欠の資料であるが,これなどもどこの図書館で読めばいいのだろうか。

(みとま まさかつ : JLA図書館の自由委員会)

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Vol.97,No.6 (2003.6)

防犯用監視カメラの設置をめぐって(安藤友張)

 昨年夏、ある公立図書館を訪問したさい、防犯用と思われるカメラが設置されていたことに偶然気がついた。24時間利用者に開放している大学図書館においては防犯目的の監視カメラが設置されている事例を知っていたが、公立図書館に関しては、初めて遭遇した事例であった。おそらく多くの利用者は、カメラが設置されていることに気がついていないであろう。図書館資料やパソコンなどの備品の盗難、置引き、図書館員に対する暴力、変質者による女性用トイレの覗きなど、図書館施設内において犯罪行為が起きている。犯罪行為を未然に防ぐために、ガードマンの巡回、ブック・ディテクション・システム導入等の対策が講じられている。
 図書館施設内において、監視カメラを設置している館はわが国では少ないであろうし、また、監視カメラの設置によって、図書館利用者のプライバシーが侵害されたという事例は、今までなかったと思われる。しかし、防犯用監視カメラの設置によって、犯罪を抑止する効果がある反面、図書館利用の事実や、場合によっては、何を図書館内で読んでいるのかが映像として残り、第三者に知られてしまうおそれがある。たとえ、防犯用が主な目的であっても、利用者の行動など、当人が知らないところで撮影され、チェックされている事実を見つめ直す必要がある。イギリスやアメリカでは「監視カメラ社会」という称されるほど公共の場において、防犯目的の監視カメラの導入が進んでいるが、わが国もそれに倣うような様相を呈している。目に余るような犯罪行為を防ぐため、図書館内に監視カメラを設置する場合、その撮影記録をどう管理しているか、またその記録を外部に出さないことを利用者に知らせ、宣言すべきであろう。
 なお、『法学セミナー』(日本評論社)の2003年4月号では、「監視カメラ社会と法」という特別企画(特集に準ずる内容)が組まれている。関心のある方はそちらを参照願いたい。

(あんどう ともはる:図書館の自由委員会,名古屋芸術大学附属図書館)

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Vol.97,No.5 (2003.5)

図書館と情報公開(佐藤 毅彦)

 昨年11月11日、日本図書館協会図書館の自由委員会は、憲法学者の奥平康弘東京大学名誉教授を招いて「図書館を利用する権利の法的位置付け」と題するセミナーを開催した。このセミナーは、東大和市立図書館の閲覧制限措置の違法性が争われた裁判の判決を契機として開催したものであり、憲法が保障する権利と図書館との関係を考察することを目的としていた。
 東大和市立図書館訴訟の判決では、一審・二審共に憲法に一切言及しておらず、図書館が国民の知る自由を保障する機関であるという議論は無視されている。
 奥平名誉教授は、日本の伝統的な行政法の考え方に従えば、図書館のような文化施設で提供されるサービスは、権利としてではなく、事実上反射的に利益を受けているものと考えられており、それゆえ、サービス内容に設置者(行政)の自由裁量が広く認められるということを説明してくださった。
 講演を聴きながら、日本では、図書館が国民の知る自由を保障する機関として認知されるのは、だいぶ先のことになりそうだと思った。そして一方で、そういう状況であるならなおさら、各図書館は、図書館が知る自由を保障する機関であるとの認識を持って意識的に活動すべきだとも思った。
 意識的な活動の一つとして、図書館自らが行った施策について、率先して情報公開することが考えられる。館の収集方針を公開することも一例だろうし、閲覧が問題視されている資料について、館としての考え方を示すことも一例であろう。とりわけ、閲覧制限措置を取る場合には、かつて上智大学の田島泰彦教授が指摘されていたが、閲覧に供することでどういう具体的人権がどのように侵害されるのかを説明することが必要だと思う。

(さとう たけひこ:JLA図書館の自由委員会,国立国会図書館)

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Vol.97,No.4  休載


Vol.97,No.3 (2003.3)

個人情報の管理と住民の信頼(佐藤眞一)

 公務員の扱う個人情報の管理について、住民の厳しい監視の目が続いている。 昨年8月5日に稼動した「住基ネット」におけるプライバシー保護において、国は 「公務員には守秘義務があり、罰則も厳しい。」と説明していた。しかし、稼動 を控えた5月に、防衛庁が本人に無断で情報公開リストを作成していたことが発覚し、 強い不信の念を抱かせることになった。そして11月、我々の膝元である公立図 書館で事件は起きた。
 「江東区図書館 業務委託先企業のパート社員が個人情報を私的利用 CDを借 りたいと偽名督促」(都政新報2002.12.17)とセンセーショナルに新聞報道され た事件は、図書館のそれまで築いてきた区民との信頼関係を大きく失墜させた 。区は委託化に伴い、「図書館業務共通マニュアル」をまとめ、受託企業にも提示 して遵守を求めており、その中で個人情報の保護にも言及しているとのことである。 しかし、CDを早く借りたいとの極めて個人的欲求を押さえられなかったこの委託 職員は、雇用時に個人情報に関する守秘義務等の基本的知識を知らされていたのか、 事後報告と共に即刻懲戒解雇された個人の「ミステイク」なのか、「委託」という 職員体制の構造的問題なのかは、しっかり検証しなければならない。
 委託化の是非はともかくとして、区は信頼回復を図るため、なぜこの事件が発生 したのかをきちんと調査し、区民に対して説明する責任がある。「区は厳重注意と 再発防止策の提出求める」と報道されているが、区自身の再発防止策には言及して おらず、区がこの事件をどのように受け止めているのか見えてこない。
 今回の事件で信頼を失ったのは、受託企業ではなく区自身であり、区立図書館で あることを、区はまず自覚すべきではないか。雪印や日本ハムのような大企業でさ え、消費者の信頼を失えば、信頼の回復には長い時間が必要である。失敗にどう学 び、どのように改善されるのか、区民は静かに見定めている。

 (さとう しんいち:JLA図書館の自由委員会,東京都立中央図書館)

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Vol.97,No.2 (2003.2)

骨粗鬆症と図書館 −「名簿」の取扱いについておもう(福永正三)

 突飛なタイトルで恐縮だが、骨粗鬆症に悩む89歳の母親と同居して いて、ときどき最近の図書館は骨粗鬆症に蝕まれているのではないかと 思ってしまう。
 母親は自転車などとすれ違うとき、転んだら最後とばかり腰を引いて オドオドしているのだが、その姿が資料の取扱いについて館外から何か クレームがあると急いでその資料を書庫の奥に引っ込めてしまう、そん な腰の引けた図書館の姿勢とオーバーラップしてしまうのだ。
 先年、ある図書館から名簿の取扱いについて自由委員会に問い合わせ があった。その時の回答は、当該名簿の作製者の意思や意向に配慮して、 その取扱いを決めるべきだというものだった。作製者は名誉・プライバ シーの侵害で訴えられる場合には名宛人になる立場にあり、当該名簿の 編集方針や頒布の範囲・方法等について名簿の被登載者の了解を得てい ると考えられるからという理由である。そして市販されている名簿につ いては、作製者は不特定多数の利用を容認していると考えられるので、 図書館が提供制限する理由はないとしている。
 上の回答で概ね正解だろう。しかし被登載者の了解なしに作製された 名簿もあるだろうし、作製することは了解したが図書館で不特定の者の 閲覧に供されるなどとは考えてもいなかったという場合もあるだろう。 作製者に問い合わせても自分に都合の良い返事しか返ってこないかもし れない。そうであれば、上の回答で常に対応できるとは限らないことに なってしまう。そんなわけで、ついつい「臭いものには蓋」をして一件 落着ということにしてしまっているケースもあるのではなかろうか。
 名簿に限らないことだが、最近の図書館の対応が一様に腰が引けてい るように見えるのは、自信をもって進むことのできる羅針盤を見失って いることに起因するのだろう。本来、この羅針盤は『図書館の自由に関 する宣言』なのであるが、それの具体的な解釈・運用を示すはずの『解 説』が、時代の推移もあって今日では必ずしも十分に解説としての機能 を発揮していなかったようである。その改訂作業がいま進行中である。 衆知を集めて急がねばならない。       

 (ふくなが しょうぞう:JLA図書館の自由委員会)

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Vol.97,No.1 (2003.1)

『自由宣言』をより豊かに−『石に泳ぐ魚』の提供制限に思うこと (渡辺重夫)

 柳美里氏の小説『石に泳ぐ魚』をめぐり,モデルとされた女性が求 めた出版差し止めと損害賠償訴訟で,最高裁は「人格権に基づく出版差し 止めは表現の自由を定めた憲法の規定に違反しない」として柳氏側の上告 棄却の判決を言い渡した(02.9.24)。著者にとっては厳しい判決であり, 表現の自由との関連でさまざまな見解も出されている。
 同時に,この判決は図書館に対しても,同小説の提供をめぐり新たな 問題を提起した。すでに国立国会図書館などでは,同小説の提供制限 措置を採ったことが報じられている。最高裁という司法部の判断が出 た以上,その判決の重みを考え提供制限に踏み切るという論理も成り 立つし,また制限は利用者の知る権利を奪うものであるとの考えも成り立つ。
 こうした場合,図書館関係者が判断の大きな指針としてきたのが, 「図書館の自由に関する宣言」である。宣言は,「人権またはプラ イバシーを侵害するもの」については,「極力限定」した条件下で の提供制限を定めており,制限されるべき資料のあることを想定し ている。しかし宣言には,その運用にあたっての具体的規定がない。 すなわち「極力限定」の具体的内容が記述されていない。そのため, 制限が恣意的かつ秘密裡になされてきたことも皆無ではない。それ だけに提供制限をする際には,「極力限定」の内容をより明確にす る必要がある。たとえば,[1] 「侵害するもの」という判断基準をどこにおくのか,[2] その判断を誰がするのか,[3] そうした判断はどの段階から始まる のか,などの点は,「限定」の内容を明確化することであり,制限 の是非をめぐる論議の素材を提供するものでもある。こうしたこと がない限り,制限にはその拡大の危険が伴っている。
 また「宣言」は,制限が適切であったか否か「時期を経て検討さ れるべきもの」とも述べている。「わいせつ出版物であるとの判断 が確定した」資料の提供制限をした図書館は,これまでも数多くあ ると思うが,その後の社会的観念の変化のなかで,当該資料の公開 に向けた再検討がなされてきたのだろうか。「宣言」は,判決の確 定が所蔵資料の永久的な死蔵へ連動することを想定していない。図 書館は,資料の保存と将来への継承を大きな使命とする社会的機関 であるが,その保存はアクセスの保障(提供)を前提としている。 その点,今回,提供制限となった資料の公開に向けた再検討がどの ようになされるかも,今後注目されることである。
 その意味において,今回の問題を契機に,「宣言」をより豊かに するための具体的方法の検討と論議が,より一層求められていると思う。

(わたなべ しげお : JLA図書館の自由委員会,札幌静修高等学校)

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第96巻(2002年)

Vol.96,No.12 (2002.12)

集会室の活用について (巽 寛)

 最近新たに開設された図書館には、ほとんどといっていいほど、集会に使える部屋や展示できるスペースが設けられており、図書館における集会機能が定着しつつあることを示しているといえる。
 図書館法は、3条第6号で「読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を開催し、及びその奨励を行うこと」とうたっている。西崎恵氏は『図書館法』でこの部分を「図書館資料を使っての読書会や、又色々な研究会等は非常に大きな便益を住民に与えることができるであろう」と解説しているが、その期待に応えるように資料提供を土台にすえ、講演会や展示会、住民の様々な学習会等に図書館の施設が活用されている。
 しかし、一方で集会室の使用を断られたり、借りられても渋々であったりして、思うように使えないことがあるという声を時々聞く。このことについて考えて見たい。
 まず、集会室の使用目的の幅が狭く規定されていると該当外となってしまう事例が出てくる。読書会や文庫活動など図書館活動にかかわるグループや団体に限定されていると、教育や音楽関係では使えなくなってしまう。
 またグループの活動内容が気にされる例もある。分館建設など図書館サービスの改善について話す場合に、集会室が快く借りられないというのだ。住民にとっていい図書館をめざしともに協力しあえる相手を図書館から遠ざけてしまっていいのだろうか。
 集会室使用の許諾に検討を要する場合、最終的に館長が決める形をとっていることが多い。使用の良否が館長の裁量にまかされるのだから、どのような考えに基づき裁量を働かせるかが問われてくる。
 「図書館の自由に関する宣言」は第2の3で「図書館は集会室等の施設を営利を目的とする場合を除いて、個人、団体を問わず公平な利用に供する」としている。図書館という知る自由を保障する大切な施設における部屋の活用なのだから扱い方についてはより慎重でなければならないし、図書館を舞台に様々に集う人達の活動を、みんなの生活が豊かになるプロセスと長い目でとらえることが大切ではないだろうか。

(たつみ ひろし:JLA図書館の自由委員会,八日市市立図書館)

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Vol.96,No.11 (2002.11)

柳美里著「石に泳ぐ魚」(『新潮』1994年9月号掲載)の提供制限 を,誰 が求めているのか (山家篤夫)

 国立国会図書館が標記の小説を閲覧禁止にした措置が大きく報道された10月13日の翌日,ある法学研究者からことの拡大を懸念する電話を受けた。 今,この小説をめぐる裁判を特集する法律雑誌の校正に入っているという。 3年前の一審判決,昨年の控訴審判決,今回の最高裁判決と,判決の度に一般紙各紙も社説等で賛否論評し,文学の表現の自由かモデルのプライバシーかをいわば国民的レベルの論議にした。 だが国民は論評をいくら山と読んでも,その元の小説自体を読めなければ論議には参加できない。 そして刊行後8年経ったこの雑誌を保存対象にしているのは,都内では6区3市の中央館と都立2館そして国会図書館にすぎない。
 ところで,小説のモデル・原告は一審で将来の被害を予防するため,著者と出版社に対し国会図書館と全国の公立,大学,学校図書館に判決内容を知らせ,当該誌への貼付を求める文書(本誌p.856)を送ることを命じる判決を求めた。 裁判で図書館へのこのような通知書貼付が請求されたのは,初めて肖像権が認められた現井上ひさし夫人『フライデー』盗撮事件裁判(1990年東京高裁判決でこの請求は棄却・確定)以来である。 今回も,地裁は「刊行後相当の期間が経過し,総合的に判断して」とこの請求を棄却し,原告はその後は請求をしなかった。 この2件に共通するのは,被害者が対応措置を図書館にではなく加害者側に求めたこと,その目的・内容は判決事実の告知であって,図書館に蔵書の提供制限や排除を求める幾多の例とは異なる図書館の社会的役割への配慮である。 もし,この請求が認められ,通知書が届いていたら,図書館は閲覧制限措置をとっただろうか。
 自由委員会でかつてセミナー講師をお願いし,現在メディア規制の流れに対する論陣を張る研究者に話しながら,私は彼の穏やかな電話の声に「図書館員が図書館を崩すのではないですか」というお叱りを聞く思いだった。

(やんべ あつお:JLA図書館の自由委員会副委員長,東京都立日比谷図書館)

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Vol.96,No.10 (2002.10)

フィルタリングの是非 (鈴木啓子)

 公共図書館よりもいち早く学校図書館にはコンピュータが導入され始めている。私の勤めている高校図書館もコンピュータが入って3年目になる。学校独自で入ったのではなく,また,導入と同時にフィルタリングがなされていた。
 そこで,フィルタリングの構造を知るためにコンピュータ会社によるフィルタリングソフトの説明を聞きに行ったが,その話はいかに有害サイトにつながらないようにしているかというものだった。だが,参加者の質問や意見は子どもたちが調べたいサイトにつながらなくては困るというものが多かったので,ほっとした。
 さっそく,有害サイトになっているという暴力や性についてどこまで調べられるか自校で試してみたが,調べ学習に必要であろうサイトは検索できた。しかし,ごく一般的な言葉なのだが有害サイトとしてブロックされて「なんでこんなんが有害サイトになるの」と高校生がぼやくようなことがたまにある。
 図書館を使った調べ学習の実践報告や自校で行った調べ学習からもテーマはできるだけ自由選択の方が高校生は興味をもって調べる。よって,フィルタリングはその意欲をそぎ,調べる範囲を狭くする。例えば,高校生たちがギネスブックのひとつの項目を詳しく調べようとした時,また,「パンク・ロック」について調べようとした時,有害サイトになり調べられなかった。
 図書館は「資料を提供する」ことが基盤である。フィルタリングはその「知る自由」を奪っていることになる。文部科学省がいっている「生きる力」はメディア・リテラシー教育が重要であって子どもを保護することでは育たないと思う。また,メディア・リテラシー教育はスキルだけでなく,図書館利用教育ガイドラインにあるように情報を取捨選択できる批判的読解の能力を養成することが重要である。そこで初めて主体性を持つことができるのではないだろうか。

(すずき けいこ:JLA図書館の自由委員会,兵庫県立西宮今津高等学校図書館)

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Vol.96,No.9 (2002.9)

<日々の図書館員の仕事>をもっと知ってもらおう!(石谷エリ子)

 たとえば,予算の許容範囲ではあるものの,できるだけ多様な,あるいは利用者のニーズにできるだけこたえられるような資料収集をするために,調査・研究して選書をする。利用者が求める資料に容易にたどりつけるように,目録情報を整備し,OPACにさまざまな工夫を凝らし,新しく入った資料が利用者の目にとまるようにディスプレイし,「新刊紹介」を定期的にUPする。レファレンス事例を記録し,分類・分析・検証して次のレファレンスに活用する。誰でも利用しやすいように,バリア・フリーの図書館環境を整える。総合目録データベースを整備して,入手が難しい資料でも,協力貸出で提供する。館種を越えて協議会を招集し,研修・研究活動を行う。開架書架の環境を維持するために毎週時間を決めて書架整頓をし,定期的に蔵書点検を実施して,在庫管理を行う。紛失本を補充し,傷んだ資料を補修する。年々増加する資料を使いやすく並べかえるために数年ごとに書架移動作業を行う…。
 毎年,図書館学の授業の受講生に「大学図書館・図書館員の仕事」を紹介したり,司書実習生を受け入れていて,思うことなのだが,学生=利用者が見ている(理解している)私たちの仕事というのは,ごく一部分なのだなー,ということ。終了後のアンケートなどでは,こんなに多種多様な仕事があるのだ!と驚きの声も必ず見受けられる。
 ふだん学生たちが利用し,目にしているのがカウンターでの本の貸出・返却(時には督促)・予約・レファレンス業務なのだから,当然といえば当然なのだが,こと『図書館の自由』という観点では,「利用者のプライバシーを守る」ことと同時に,「利用者の知る自由」を保障するためのさまざまな活動が,カウンターの背後の事務室や作業室で日々行われていることをもっともっと知ってもらいたいと思うのだ。そして,それら「利用者の知る自由」を保障するための活動は,組織として企画・立案され,吟味され,予算化され,部署ごとに配分されて実行され,検証されて,次世代に受け継がれ,今日の図書館サービスがあるということを。

(いしたに えりこ:JLA図書館の自由委員会,和光大学附属梅根記念図書館)

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Vol.96,No.8 (2002.8)

とっさの場合に (井上淳子)

 図書館の前で交通事故があった。
 図書館から出てきた自転車が前の道路を通行中の車と接触したのである。自転車に乗っていた人は,頭を強く打ったのか意識を失っている。
 たまたま,仕事で外にいた私は目撃者である。すぐさま館内に走って行って110番通報をした。消防訓練で119番に電話したことはあるが,110番などめったにない。訓練と違ってうろたえてしまい確認のため尋ねられた図書館の電話番号が出てこなかった。
 救急車も行ってしまって,警察の現場検証も終わった後,職場で話題になったのは,こういう火急の際に利用者情報を使うことが許されるのかということである。
 今回の場合,自転車に住所氏名が明記されていた。その点に関しては問題はなかった。だが,事故にあったのが子どもなどの場合,身元を確認する手段が図書館で借りた本,あるいは貸出カードしかないこともあるだろう。そして,一刻を争う場合なら……。図書館の情報がなければ,家族が大事な場面に間に合わない可能性だってある。そんなとき図書館員としてどうするべきだろうか。
 もちろん,大原則は「図書館の自由に関する宣言」の「第3 図書館は利用者の秘密を守る」である。利用者に関する情報として,利用の事実すらも漏らしてはならないというのは言うまでもない。
 しかし,基本的人権を守るために「図書館の自由」はある。そして,命は人権のうちでも最重要なものである。緊急かつ生命にかかわる場合には,プライバシーを守りながらも人命救助のために貢献することも必要であろう。
 交通事故だけではない。何が起こるかわからない世の中である。一つ一つの事件・事故を想定して分厚いマニュアルを作っても実際にはそれだけでは対応できないだろう。大切なのは,職場でもよく話し合い,一人一人が「図書館の自由」の持つ意味を常日頃から考え,自分のものとしておくことである。 

(いのうえ じゅんこ:JLA図書館の自由委員会,枚方市立牧野図書館)

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Vol.96,No.7 (2002.7)

ホームレスと図書館利用 たびたび (西河内靖泰)

 今年の1月月末,東京都東村山市で一人のホームレスの男性が亡くなった。中学生たちに集団暴行を受けたためだったが,その発端は図書館でのトラブルが原因らしいということで,私たち図書館員にとっても衝撃的な事件だった。
 この問題に対し,インターネット上では,読むに耐えない差別意識まる出しの言葉が飛び交っている。男性を殺害した中学生たちを賛美するものは極端な例だとしても,ホームレスの図書館利用を否定するものが圧倒的多数である。
 「図書館の自由に関する宣言」(以下「自由宣言」)の前文は,「図書館は,基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に,資料と施設を提供することを,もっとも重要な任務とする」とうたい,図書館の存在意義を明確に提示している。 だれでも自由に利用できるのが図書館のはずなのに,一部の利用者からの声に押されて,「ホームレスお断り」の図書館も多い。 私の「迷惑行為をしないホームレスを追い出すのはおかしい」「異臭がするというだけでは退去理由にはならない」という意見に対し,「異臭そのものが他人に迷惑だから追い出して当然」という意見も出ている。 しかし,旧南千住図書館の様子を知る私たち荒川区の図書館員にとっては,かつて経験したほどの異臭にお目にかかったためしはない。
 「ホームレス」=「異臭」との思い込みで,苦情を言い立てる一部利用者と, 苦情には過敏に反応する「臭いものに蓋」の図書館。ホームレスを迷惑がり,基本的人権をないがしろにするこの風潮が,中学生たちを殺人に向かわせた一因ではなかったろうか。
 与党原案がまとまった「ホームレス自立支援特別措置法」は,自治体に自立支援の施策を求めているが,この法案には公園等を念頭に置いた公共用施設の適正利用確保として, 「ホームレスの起居により適正利用が妨げられている場合,必要な措置を講じる」という記述がある。「自由宣言」を提供制限の理由に使っているような図書館は,この条文を根拠にどんな措置を講じるつもりか今から心配でならない。 ホームレスの自立支援施策に積極的に取り組もうとしている図書館もあり,希望もあるのだが。

(にしごうち やすひろ: JLA図書館の自由委員会,荒川区立南千住図書館)

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Vol.96,No.6 (2002.6)

『グラスゴー宣言』採択への期待 (若井 勉)

 2001年9月の米国同時多発テロ事件から3ヵ月後の12月10日、アメリカ図書館協会は、「アメリカ図書館協会個人情報保護に関する声明」を発表した。多様な内容を含んだ「パトリオット法」(「反テロ対策法」)の状況下での図書館員の行動について、冷却期間をおいて、改めて襟を正し、毅然とした態度を明確にした声明であり、図書館専門職としての意識の再確認をする意味でその意義は大きい。知的自由のお膝元のアメリカ図書館協会が沈黙を守り、いつまでじいっとこらえているのだろうと心配する向きも多かった。なにせテロという非人間的な響きと屈辱の「強いアメリカ」のナショナリズムが融合したのだから、「悪の枢軸」への憎悪が米国民の血を滾らせたとしても不思議ではないからだ。葛藤の上での声明であるに違いない。
 ところが日本でも、昨年の秋頃からそれと劣らぬ「青少年有害社会環境対策基本法案」「人権擁護法案」いわゆる「有事関連三法案」「個人情報保護法案」などが国会審議に持ち込まれている。戦争を否定し、基本的人権を擁護する日本国憲法の精神をないがしろにする急激な動きである。ナショナリズムを背景にメデイアをはじめ、国民の表現の自由、知る権利が「有事」や「有害」という名のもとに規制、剥奪されようとしていること。地域的に質を変えながらも、国際的な動きの中に連動していることに注視する必要がある。
 IFLA/FAIFE(表現の自由と自由なアクセスについての委員会)は、2002年IFLAグラスゴー大会で『グラスゴー宣言』の採択を予定しているという。その趣旨は「図書館・情報分野での知的自由についての国際合意を明確化し、さらに図書館・情報界内外に対して国際的に主張し、理解と協力を求めようとするものである。」(ニュースレター『図書館の自由』第34・35号p9)インターネット化の時代に対応した図書館界の能動的な動きとして画期的なものであり、嬉しいことである。日本図書館協会としても積極的役割を果たす必要があろうと思う。

(わかい つとむ:JLA図書館の自由に関する調査委員会、立命館大学)

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Vol.96,No.4 (2002.4)

問題のある資料は論議の場に (三苫正勝)

 雑誌『クロワッサン』(2000年10月10日号)が,差別表現問題で各地の図書館で閲覧制限の憂き目に遭ったが,みんな慣れっこになって格別問題にされなかったようだ。ひとり横浜市だけ市民の批判もあって,2001年6月10日の「市民の知る自由と図書館の資料提供を守る交流集会」に発展し,神奈川新聞に大きく報道された。そして日図協の自由委員会では,会員の要求により関東小委員会が横浜市図書館の調査を実施して,その報告が本誌1月号に掲載された。それを見てわかるのは一般行政職員と専門職図書館員との差別に対する姿勢の差である。
 本当の図書館員は,差別は隠すことによっては克服されない,正面から見つめて論議することによってこそ克服できると考える。それを「図書館の自由」をめぐるさまざまな経験と論議の中で培ってきた。ところが一般行政の手法では,いまだに差別は隠すことによって忘れられると考えられているらしい。差別に対する批判が社会的に認識されてきた現在,隠すことに意味はない。閲覧制限は問題を市民から見えなくし,先送りするだけである。調査報告によると,当局は,図書館員は差別に対する意識が低く判断能力がないとバカにしきっている。私の知っている範囲でも,中央館の指令で分館から『クロワッサン』当該号が引き上げられてしまったのを目のあたりにした。職員間で論議が交された結果とは見えない。いとも簡単に閲覧制限が行われた。横浜市同様,一部の管理職で差別的だと判断してさっそく全館から回収してしまったのである。
 かつて,差別的表現のある資料と見ればあわてて中央に回収した時期があった。あの名古屋市の「ピノキオ」問題の発端がそうであった。名古屋では職員からの抗議で取り組みを始め,三年かけて館の内外での論議を重ね,「資料検討の三原則」を生み出した。隠すよりは提供して論議を,という結論に到達して,ピノキオは児童室にもどされた。ところが今や,「とりあえず」回収などというものではなく,差別をなくすことはまず「隠すこと」と確信をもって閲覧制限が行われている。そこには何の逡巡も見られない。職員に対する不信だけでなく,市民に対する不信がある。行政手法である事なかれ主義,くさいものにはふたである。職員もあまり抗議しないように見える。専門職でない館長が増えてきたことと,司書職制度の後退が,それを助長している。

(みとま まさかつ :JLA図書館の自由に関する調査委員会,夙川学院短期大学)

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Vol.96,No.3 (2002.3)

真に「差別をなくす」には、果たしてどちらが有効か!? (南 亮一)

 今年の2月4日付けの朝日新聞朝刊社会面に,『「ドリトル先生」回収論争?井伏鱒二氏翻訳に「差別的表現」』というタイトルの記事が掲載されていた。この記事によれば,昨年9月に発行された「岩波少年文庫」版に「ニガー川」,「つんぼ」という表現が使われていることに対して,『ちびくろサンボ』の回収の件でも有名な「黒人差別をなくす会」という市民団体が回収を求めていて,これに対し,岩波書店は,本を回収する代わりに,「読者のみなさまへ」と題する以下のような内容の文書を差し込むという対応をしようとしているとのことである。
 この文書によると,同書店としては,「侮辱されていると感じる人がいる以上」,「真剣に耳を傾けなければならないと考え」るが,「第三者が個人の作品の根幹に手を加えることは」,「現在の人権や差別問題を考えていく上で決して適切な態度とは思えない」,「古典的な文化遺産を守っていく責務を負う出版者として,賢明ではない」と考え,読者にも「この物語を読まれたことをきっかけに,現代の世界にさまざまな差別が存在している事実を認識し,差別問題についての理解を深めていただきたい」,「そのような態度こそが,現代において古典的作品を読むことの意義であると信じ」るという。
 この手の「回収運動」が起これば,「事なかれ主義」が蔓延する会社であれば,即座に回収,ということになっただろうに,さすがは「腐っても岩波書店」,物事をきちんと正面から捉えた上で,王道ともいえるような対応をしている。図書館としても十分見習えるものなのではないか。
 それにしても,この市民団体である。
 厳然と存在する差別構造を隠ぺいして,差別構造自体を感じることがないようにする方法と,差別構造自体をさらけだし,その上で差別問題に対する認識を深める方法のどちらが差別をなくすのに有効か。いわゆる「言葉狩り」をすることによって,そのような言葉に代表される差別構造が解消の方向に向かったことはあったのか。ある差別用語が使われている出版物を見つけると,すぐさま「回収・絶版」を求める市民団体の皆さま,一度ご再考なされた方がよろしいのではないのですか。
 このコラムの読者諸氏の所属なされている図書館の「事なかれ主義」上層部が,この本を閲覧させないような措置を命じるなんていう馬鹿げたことにならなければよいのだが。

(みなみ りょういち: 国立国会図書館,JLA図書館の自由に関する調査委員会)

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Vol.96,No.2 (2002.2)

公開インターネット端末について (前川敦子)

 米国では同時多発テロ事件を機に言論の自由や情報アクセスの制限を正当化する動きが強まっている。「反テロ法」(2001年10月26日成立)では連邦政府にインターネット利用監視の幅広い権限が与えられており,犯人グループが図書館等の公開インターネット端末を利用して通信していたと報道されていることから図書館への影響も大きい。
 こうした動きに対し,国際図書館連盟(IFLA)は同年10月4日付「テロリズムとインターネット,情報アクセスについての声明」を発表し,こうした動きに懸念を示した。テロ事件では,一方で世界中の人が電子メールやWebサイトによって事件に関する情報や安否連絡を得られたことを示し,情報への自由なアクセスによって人々は強くなり,情報への自由なアクセスと表現の自由について一層努力することによって,この悲劇的な事件に応えるべきだと宣言している。
 テロ事件とは次元が異なるが,私の周囲でも公開インターネット端末に関してはさまざまなトラブルを聞く。ウィルスの猛威,誹謗・中傷の書き込みやメール(大学IPアドレスから送付されたもの)への苦情等々。本来想定した目的外の利用に頭を悩ませ,端末の設置にやや懐疑的になることもあった。
 IFLA声明はそうした消極的な考えを覆す材料となった。利用を制限し,極論すればなくしてしまえば何も問題は起こらない。しかしそれでは「知る権利」を保障する機関としての図書館の責務は果たされない。貧富や知識の差によらず,誰もが必要な情報にアクセスすることを保障するのが図書館の使命なのだ。
 トラブルへのさまざまな対策は無論必要であるが,決定的な方法がなく悩む場合も多い。しかし「情報への自由アクセスの保障」という理念を根底にもち,前向きに考えていきたい。
(IFLA声明は,http://www.ifla.org/V/press/terrorism.htm に公開。「図書館の自由ニューズレターNo.33」(2001.10)に井上靖代氏による翻訳が掲載されている。)

(まえかわ あつこ:大阪教育大学附属図書館,JLA図書館の自由に関する調査委員会近畿地区小委員会)

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Vol.96,No.1 (2002.1)

自分の頭で (佐藤眞一)

 先日,東京都教育庁の行う人権学習セミナー「差別表現の検証」に参加して,前講談社法務部長・西尾秀和氏のお話を聞く機会を得た。図書館員として差別表現をどう扱うかという問題にも示唆を与える内容だと思うので,ここに概要を紹介したい。
 差別表現を考える上の基本として西尾氏はまず,@「ことば」の問題ではない,A過剰な自主規制の問題,B自分の頭で考えることが必要という3つの観点を示された。
 次に,マスメディアにおける問題点を,明白な差別的表現,過剰な自主規制の結果起きる「ことば」の抹殺,グレイゾーン上の表現への対応の3点に収斂されると述べ,著書『差別表現の検証』(講談社 2001.3)で取り上げている具体的な文例を交えて解説された。
 まず,明白な差別表現は当事者の無知,無理解から起きる言い訳のしようがないもので,気づかない人は編集者の資格がないと断じる。ただし,「ことば」を言いかえれば済む問題ではなく,それによって何を表現しようとしているかが本当の問題なのだと指摘する。
 一方,過剰な自主規制により,文化としての「ことば」を簡単に抹殺する事態が起きている。糾弾されそうな表現は使わないという「事なかれ主義」の蔓延が提示される。人権上の配慮というのは建前で,面倒に巻き込まれたくないという後ろ向きの発想である。図書館界の体質にも迫るような,鋭い指摘ではないか。
 グレイゾーン上の表現,すなわち立場によって結論が分かれるような場合,表現する側に立つ人間は,「豊かな表現」を守るために,自分なりの基準を持ち,判断することが必要だと氏は述べる。二者択一的な考えではなく,モノには多様な見方があることを認識し,差別されやすい立場の人へのデリカシーを持つことが,表現の前提にあることを忘れてはならない。
 最後に,差別問題の解消には「知識」を増やすだけではなく,私たち自身の「意識」を変えていく必要性を述べ締めくくられた。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立中央図書館)

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第95巻(2001年)


Vol.95,No.12 (2001.12)

「市町村史」差別的記述の対応 (白根一夫)

 昨年6月島根県益田市人権センターから,勤務している島根県斐川町に次の資料が送られてきた。『益田町史・益田市史・益田市誌下巻における『益田事件』に対する益田市の見解』この冊子の内容は,次のようなものである。上記三史誌における「益田事件」の内容は,記述に誤りがあるだけでなく,在日韓国・朝鮮人に対する偏見と民族差別を助長するものであり,在日韓国人安成甲氏から指摘があるまで見過ごしてきたとして認識不足を痛感した益田市行政が,益田市人権センターで調査・検討した資料にもとづいて益田市人権擁護推進委員会が三誌の差別表現および誤認記述に関する分析を行い,市としての問題解決の具体的方向性について見解をまとめたもので,提起があってから約3か年の論議と編集の成果である。
 指摘者は記述について訂正を求めているが,市は統一見解で今回の提起を「民族差別の現実に対する提起」として「主体的に対応し,解決を図っていかなければならないと認識」し,市の反省点と今後の対応では次のような項目で詳細に厳しく述べている。
 @なぜ公的書籍において事実誤認・差別的記述がなされたのか
 Aなぜ提起を受けるまで三史誌について対応しなかったのか
 Bこれまでの在日韓国・朝鮮人問題について行政対応はどうであったか
 C今後の益田市における行政刊行物・書籍について
 D今後の在日韓国・朝鮮人問題における行政対応
 通知文書において,市は「いずれの史詰も,この冊子を併設して活用いただくよう依頼してきており,連絡いただければ必要部数を送付する」とある。
 当町としては,次のような処置を町長・助役・教育長と関係課長(総務・ふるさとデザイン・生涯学習の各課)の決裁のうえ行っている。
 当町では現在の配架場所はスペースの関係で書庫(開架)だが,図書館開館後は地域資料コーナーに並べて配架する予定である.また,該当ページにこの冊子の紹介を貼付することで対応している。
 会員の図書館では市町村史(誌)等はどのように利用者に提供していますか。現状に目を向けてみませんか。

(しらね かずお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,斐川町図書館準備室)

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Vol.95,No.11 (2001.11)

本の評価 (内尾泰子)

 「なんで図書館にこんな本,置いてあるんだよ。」
 放課後にカウンターで作業をしていたら,生徒が本棚を見て騒いでいる。
「図書館には絶対入らないって思ったから自分で買っちゃったよ。どういう本か知ってるの先生?」生徒たちは興味半分心配半分な顔でこちらを見ている。
「知ってるよ。読んだもん。」
「え−つ,読んだの?やばいよ,これ。どうして図書館にあるの。」
「リクエストがあって入れたんだよ。読んだけど別にやばくないよ。
どこがやばいわけ?」
「だって…。」
 毎年生徒との間で繰り返される会話である。その時々によって「やばい」の部分が「くだらない」だったり,「絵ばっかり」と違ってはいるが。今回は芸能人が私生活を赤裸々に書いていると話題になった本で,その点が「やばい」と感じさせたらしい。生徒の中には未だに学校図書館にある本はすべて硬くなくてはいけないというこだわりがあるようだ。私としては日々そのこだわりをなくすように努力している。すると生徒たちもだんだん図書館を利用するうちにこだわりは薄れ,当たり前になっていき,リクエストも気軽に出してくれるようになっていく。
 東京都では今年7月「東京都青少年の健全な育成に関する条例」が改正施行された。「その内容が,青少年に対し,著しく性的感情を刺激し,甚だしく残虐性を助長し,又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発し,青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの」は「知事」が「青少年の健全な育成を阻害するもの」として指定することができるようになった。
 学校にはいろいろな生徒がいる。先ほどの本の場合も,大声で友人に読んでみて良かったと薦めてまわる生徒もいれば,こっそりと借りて恥ずかしげに返しに来る生徒もいる。貸し出しせずに図書館の片隅で少しずつ読みすすめる生徒もいる。一つの本がさまざまな読まれ方をし,さまざまな受け止められ方をしている。行政が資料の読み方を判断し,その読み方を都民に押し付けることが都民にとって望ましいことなのだろうか。若い都民である生徒が自ら読み,考え判断していける場を学校図書館が提供するためにも,この条例が拡大解釈されないように教育の現場から注目していきたい。

(うちお やすこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立赤坂高等学校図書館)

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Vol.95,No.10 (2001.10)

寄贈新聞記事スクラップ帳の提供 (熊野清子)

 ある図書館から,寄贈された新聞記事スクラップ帳の提供についての相談がありました。「昭和初期から現在にいたる5〜7紙の地域についての記事を網羅的に分野別にスクラップしたもので,現物の傷みなどからそのままでの保存・提供は困難なため,閲覧用と保存用に2部の複製を作成することとした。作業途中に「事件や事故の個人のものは,人権問題が絡む場合が多いので白紙で隠してコピーすべき」と指摘され,そのようにした。さらに人権関係部局からは「犯罪歴が分かるのは当人にも苦痛…親族関係者にも…,公人についても記事ごと伏せるように」と注意された。しかし図書館としては資料に手を加えるのには問題があると思うし,個人が判別できないようにして記事を残したい。(筆者要約)」という内容です。
 新聞記事はすでに公表された著作物ですから,そこでの個人情報やプライバシーに関する争いについては基本的には著作者,新聞社がその当事者となるものです。図書館での収集と提供は自由であるべきです。ただ,人権感覚やプライバシーの権利は時代とともに変遷・確立してきたもので,昭和初期の記事に抵抗を感じることもありえます。犯罪被疑者の実名報道が問題になったのもそう古くはありません。一過性のニュース記事では続報もなく,誤報や冤罪も考えられます。人口の移動が少なければ何十年も前と同じところに同じ家族が住んでいる,といった地域性もあるでしょう。
 しかし,資料に手を加えて一部を読めなくする,また記事そのものを伏せるのは賛成できません。むしろ,貴重な地域情報として積極的に活用する方途を探ってはどうでしょうか。具体的には記事に対する索引を作成し(これこそ司書の独壇場,図書館に寄贈された意義があります),請求に応じて提供すれば,地域について考えるすばらしい資料となると思います。

 (くまの きよこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,兵庫県立図書館)

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Vol.95,No.9 (2001.9)

イチローとプライバシー (渡辺重夫)

 米大リーグのオールスター戦の余韻が覚めやらぬ7月12日,イチロー,佐々木を抱えるマリナーズは,両選手の「プライバシーが侵害された」として日本人報道陣による二人の取材を当面禁止する,との措置を発表した。日本の写真週刊誌が,両選手の球場外での姿を写しそれを掲載したことが,両選手のプライバシーを著しく侵す行動としてとられた措置だという(この措置は数日後解除となる)。
 米大リーグ事情に疎い私には,このような措置の背景にはどのような事情があるのかはわからないが,日本では,スポーツ選手のみならず多くの「有名人」のプライバシーが日々多数のメディアを通じて報道されるのを見るにつけ,この措置は私には,奇異にも新鮮にも感ぜられるものであった。
 プライバシーという観念は,極めて個人的性格を有する観念で,その侵害をどの程度容認できるかには人によって大きな差異があり,またその侵害に対する救済方法も,他の権利侵害以上に困難である。それだけにプライバシー権を社会に根づかせるには,相当の努力が必要である。「図書館の自由に関する宣言」は,図書館利用者のプライバシーの遵守を規定しているが,読書事実や利用事実が利用者のプライバシーに属するとの考えは,市民のプライバシーに関する認知度と深い関わりを有する。プライバシーを市民社会のなかに生きる人間の「尊厳」と関わる重大事であるとの認識が深まるなら,図書館利用者のプライバシー棟も市民社会のなかで容易に理解されていくであろう。
 このことは,学校図書館における子どものプライバシーに関しても同様である。学校社会におけるプライバシーの認識度は,社会のプライバシーに対する認識度と並行しやすい。子どもは,プライバシーを教室で学ぶより先に,一般社会のなかでその度合いを学んでいる。自分の読書歴やら読書傾向を他者に知られることを望まないとの感覚は,子どもの自立的な成長過程と深い関わりを有しているだけに,自分と同様に他者のプライバシーの大切さを教えるのも学校における責務である。自分にもイチローにもプライバシーがある。その度合いには違いがあるけれど,そうした認識を再確認することは,子どもの読書にとっても図書館利用にとっても大切なことである。

 (わたなべ しげお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,札幌静修高校)

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Vol.95,No.8 (2001.8)

著作者の権利と提供の自由 (井上靖代)

 「公立図書館の貸し出し競争による同一本の大量購入」「利用者のニーズを理由として いるが、実際には貸し出し回数をふやして成績をあげようとしているにすぎない。そのこ とによって、かぎられた予算が圧迫されて、公共図書館に求められる幅広い分野の書籍の 提供という目的を阻害しているわけで、出版活動や著作権に対する不見識を指摘せざるを えない」これは日本ペンクラブが6月15日に表明した「著作者の権利への理解を求める 声明」の一部である。
 はて、公立図書館の貸し出し活動を何のため、誰のための成績をあげようとしていると いわれるのだろう。貸出が増えたからといって、図書館員の給与があがったり、特別手当 を支給されたという話はまだ寡聞にして存じません。書店員や出版社の営業担当者の売り 上げ促進のごとく、努力して、図書館員が何の実利的役得を得られるのか。それは商品と して本を扱っているのではなく、過去・現在・未来につながる文化所産として考え、人々 が地域社会を形成し活性化していく指標として、本をあつかっているからではないだろう か。
 「同一本」の話をするのなら、子どもの絵本「ぐりとぐら」を大量に所蔵している公 立図書館は多いはずである。単年度における購入数値をみるならば、日本の図書館界の購 入は微々たるものであろう。ただ、過去30年にわたって、自分で購入できない子どもた ちのために図書館は買いつづけているはずである。子どもの本は長期間読まれ続け、購入 しつづけられている。本を読む子どもたちはいつか親になり、また、その子どもも本を読 むだろう。本のもつ力の結果である。本は商品ではないと実感する時である。  「幅広い分野の書籍の提供」を阻害しているのは、指摘された「同一本の大量購入」よ りも、「限られた予算」ではなかろうか。激減する財政状態のなかで、図書館に対して資 料収集や提供の自由を制限する声明よりも、予算を拡充して、日本という国の文化度を高 めるように働きかけてほしい。そして、私たち図書館人も、何十年たとうと人々が求めつ づける本を選択できる図書館の力をつけていかねばならない。

(いのうえ やすよ 図書館の自由に関する調査委員会全国委員・近畿地区小委員会委員、京都外国語大学)

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Vol,95,No.7 (2001.7)

開かれた施設と安全対策 (佐藤毅彦)

 6月8日に大阪府内の小学校で起きた殺傷事件は,最も安全であるべき場所で起こった事件として,教育関係者だけでなく国民全体に衝撃を与えた。校門が開放され,侵入者をチェックする体制も取っていなかった「開かれた施設」ゆえに,犯人の侵入が容易だったことから,学校施設を開放することの見直しを含めた安全対策が検討されることだろう。
 ところで,「開かれた施設」といえば,図書館もその代表的な施設の一つであることは間違いない。それでは,図書館ではどのような安全対策を取ることができるのだろうか。
 緊急時の連絡体制整備や職員の緊急対応訓練は,ある程度効果が期待できるし,既に対応している図書館も多いかもしれない。さらに,たとえば国立国会図書館では,利用者が入退館ゲートを通過する前に,大きな荷物はロッカーに預けてもらうほか,ゲート付近に警備員を配置している。また,アメリカの議会図書館(LC)入口にも警備員がおり,利用者は金属探知器を通過してからでないと,館内資料を利用できない。
 しかし,実のところ,本当に「開かれた施設」は,目に見えるこれらの安全対策では代替できない安全装置を備えているようにも思える。つまり,単に施設への出入りが自由というのではなく,地域住民との密接な交流が実践されている施設は,常に誰かしら住民が気に掛けており,結果的に何層もの人々の眼で護られているのではないだろうか。
 図書館でも,もはや,目に見える安全対策を全く講じないわけにはいかないが,一方で,あらゆる人に資料と施設を提供するという図書館の使命を追求することも,まさに安全対策の実践なのだと思う。 

(さとう たけひこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,国立国会図書館)

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Vol.95,No.6 (2001.6)

侮辱する意志と心の痛み −「差別的表現」の基準 (山家篤夫)

 かって1970年代,差別的表現であるかないかの基準は,被差別者を侮辱する意志の有無だった。昨今の『クロワッサン』2000年10月10日号のインタビュー記事や,『ハリーポッターと秘密の部屋』の中の表現は,職業や身体の障害に閲し,被差別者の心に痛みを与えるという理由で非難された。
「侮辱する意志」から「心の痛み」に基準が移っていく状況を,『ちびくろサンボ』絶版の論議を追った灘本昌久氏は「論点が狭くなってきている」1)と形容している。確かに70年代前半に行われたサンボ論議では,サンボ,マンボ,ジャンボの名前,サンボ=インド人説,「グロテスク」な絵,無思想童話,クロンボという訳語,−植民地住民への差別観など多彩だった。70年代後半の『ピノキオ』問題でも,多様な論点が議論され,名古屋市図書館はその決着まであしかけ4年をかけた。
 現在,差別的表現と非難された表現について,図書館の中でも論点がより狭くなり,議論の時間が短くなる状況が進んでいる。
 京都部落史研究所研究員だった灘本氏は,このような被差別者の視線を批判する。
「およそ反差別の運動たるもの,その革新的原理が,被害感情の単純総和であっていいはずがない。残念なことではあるが,現在ほど被差別者のあるがままの被害感情が運動の名において公然とまかり通っている時代を私は知らない」2)。
 こういう真筆な提起に,図書館員として応えていければと思う。
      1)『ちびくろサンボ』絶版を考える 径書房1990年 p.65
      2)部落の過去,現在,そして… 阿吽杜1991年 p.133

 (やんべ あつお:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立日比谷図書館)

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Vol,95,No.5 (2001.5)

報道の自由を阻む「メディア規制」法案と「図書館の自由」 (奥角文子)

 青少年に有害なメディアを規制し青少年の健全な育成を図るという論理を掲げて登場した法案が国会に上程されようとしている。参議院・自民党の「青少年社会環境対策基本法案」である。
 すでに報道・出版業界団体,労働組合,市民団体がこの法案の危険な意図は報道規制のフリーハンドを政府が獲得することにあると成立阻止に取り組み,TV各局のニュースキャスターが反対声明を発表して話題になった。日本図書館協会も見解(本誌p、343)を公表し反対を表明した。
 しかし,私が心底恐ろしいと思ったのは,本法案に対しいち早く反対の運動を始めた出版労連の連続学習会に当委員会の取り組みとして参加し,講師の奥平康弘氏(憲法研究家)のお話を伺ってからである。氏は「憲法で保障された言論・出版の自由」と言うけれど,“自由”は国家権力から日々闘いとってきたもので時の政府に保障されるものではないと強調した。出版や報道業界に,襟を正して直視しなければならない状況はないのかと。国民が眉をひそめる過剰取材。受けを狙った“大人社会を脅かす青少年犯罪”の強調報道。これらが善良な市民の心を揺さぶり,“青少年の健全な育成を阻む有害環境から青少年を守ろう!”との合意の土壌の構図を準備したのである。報道の責務をないがしろにした結果,マスコミへの深い報道不信を産み落としたのである。
 このことは我が身に置き換えて考えると,身につまされるものがある。それは,図書館法50周年の記念イベントに参加し『図書館法と現代の図書館』の編著者・山口源治郎氏の講演とパネラーの報告を聞いて思った。記念出版の同書の行間には資料提供に責任を持つ図書館員が,日々,“図書館の自由”といかに取り組んできたか,その暖かい血脈を感じる。日図協に設置されている当自由委員会の役割は,この図書館員の血液の流れを健康的に保っことだと思っている。どんなに丈夫な血管でも時には詰まってしまうこともある。その原因を調べ処方箋を考える。しかしその薬を飲むか飲まないかは当人が決めること。そしてその良薬として今も心に強く残っている言葉がある。昨年の全国図書館大会第9分科会で「図書館の自由とはより良い仕事をすること!」と前置きして語ってくれた元沖縄県立図書館長・大城宗清氏の,米軍統治下で資料提供を遂行するために日々いかに闘ったかについての講演である。「図書館員一人一人が誇りを持って仕事をすれば,自ずから「図書館の自由」はそこにある。琉球政府立法院(沖縄県議会の前身)図書館時代,米国民政府の職員が来ても,私は資料の閲覧を拒んだことはない。沖縄の実情を知ってもらえば,高圧的に対すれば言うことを聞くような県民でないことが分かる。あいつはスパイに手を貸していると言う者もいたが,これが「図書館の自由」であると思う」。
 氏の講演の続きをぜひ聞きたいとの声が強かった。

(おくずみ ふみこ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,江東区立亀戸図書館)

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Vol.95,No.4 (2001.4)

自分の頭で考えよう (渡辺由美)

 昨年,『クロワッサン』(2000年10月10日号)の記事に差別的な表現があったとして,出版社が書店から回収する事件があった。不用意に使われた用語に,発行後,出版社が気づいて自主回収したのである。このとき,管理職など一部の人の判断で該当記事を切り取ったり,中央館に引き上げて閲覧停止にした図書館があった。最近,問題が起きると何でもまず提供を制限してしまう傾向があるように感じる。
「図書館の自由」に関する問題は対象となる資料が毎回変わる。図書館によってそれぞれ事情も異なる。数式のように誰でもどこでも同じ解答が出るということがない。扱う内容がデリケートなので,一つ一つじっくり考えて判断するのは難しい。でも,放っておくと誰かから非難されそうな気がする。そこで,とりあえず問題の資料の提供を制限しようということになるのかもしれない。
 しかし,「図書館の自由に関する宣言」をよく認識して,職員全体で図書館の都合ではなく市民の利益に基づいて考えるのが問題を検討する際の基本である。「職員全体で」という態勢をとるためには,職員がそれぞれ日常的に「図書館の自由」を意識し理解を深めていかなければならない。管理職はなおさらそうである。今回の事件も,ほとんどが管理職の「図書館の自由」に対する理解不足が原因となっている。小さな問題でも折にふれ管理職も含めて話し合っていく努力が必要だ。そして,その経緯を市民に公表し幅広く意見を求めていく。こうした対応の積み重ねが図書館の財産になり,力になる。市民にもいっそう認められ利用を呼び起こすことになるだろう。
 かっこうのいいことを言ってしまったが,なかなかこれを実践するのは難しい。でも,まずは落ちっいて自分の頭で考えよう。上司にリクエストを断れと言われたり,出版社から本の回収の依頼文が届いたりしたときにおかしいなと思う感覚を大切にして,情報をきちんとっかんで考えたい。そして「図書館の自由」をあたりまえに実践できるように,毎日の仕事に取り組んでいきたい。

(わたなべ ゆみ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,枚方市立蹉ダ図書館)

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Vol.95,No.3 (2001.3)

ホームレスと図書館利用 再び (西河内靖泰)

 昨年暮れのある日,出たばかりの週刊誌を開くと,グラビアのページに,都内のある区立図書館の入り口に置かれている看板の写真が載っていた。「不潔な方 異臭のする方の入館は,固くお断りいたします」。情けなくなった。これまで「ホームレス」の問題で,多くの図書館が何で悩み苦労してきたのか。
「ホームレス風」利用者が目立つようになったので,「一般の」利用者から,風呂に入らないため異臭のする,彼らの存在が「迷惑だ」との声や「何とかしろ」「追い出せ」という要求が出てきた。サービス業として,その対応が必要だという気持ちはわからないでもない。
 他区の図書館でも「異臭を放つ方お断り」との看板を出し,警備員が巡回して,長時間の居眠りや異臭のひどい人を退館させているところもある。現実に都市部の多くの図書館がこの問題で苦労しており,ここが特に「ひどい」と言うつもりはない。しかし,あえて言わせてもらうが,この図書館は,図書館の任務というものがわかっているのだろうか。
「図書館の自由に関する宣言」(以下「自由宣言」)の前文に「図書館は,(中略)資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする」とあるように,あらゆる人に資料と施設を提供することにこそ,図書館の存在意義がある。具体的な迷惑行為をしたわけでもないのに,その存在自体が「迷惑」だとして排除できないのは当然だ。アルコールの臭いをプンプンさせ,地の利用者に絡んだりしたのなら,出ていってもらうこともありうるが,「臭い」だけでは理由にならないと思うのだが。
 先日,この図書館に行ってみた。例の看板はなく「不衛生,飲酒の方は図書館の利用をご遠慮ください」という看板が出ていた。別の掲示に,図書館の貸出券を忘れると,原則として蔵書が借りられないとあった。館内には「自由宣言」のポスターは貼られていなかった。
 この写真を撮った記者が書いている。「まさに『臭いものに蓋をする』である。その排除の論理もされど,こんな看板を平気で掲げる,悪趣味な休質の方が,よっぽど臭いぞ!」。この記者の方が「図書館」というものをわかっているような気がしている。

(にしごうち やすひろ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,荒川区立南千住図書館)

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Vol.95,No.2 (2001.2)

「来る者は拒まず,去る者は追わず!」の利用者の秘密 (若井 勉)

 「図書館は利用者の秘密を守る」は,「図書館の自由に関する宣言」(自由宣言)1979年改訂時に重要な柱の1つとしてそれまでの「検閲反対」の項目に含まれていたものを独立させ,主文に新たに加えられたものです。その「利用者の秘密」の範囲は,『「自由宣言1979年改訂」解説』では,主に記録を中心とした記述となっていて,図書館活動上の利用者との接点での貝体的な対応上の問題にまでは十分には及んでいません。それぞれの館の取り巻く環境や取り組みに応じた各館での主体的な対応に委ねられ,具体的に展開されることが期待されています。「窓口での応対と利用者の秘密のことも大切ではないでしょうか」とのある記事を見て,今も,大切だと同感するところです。「日常業務における図書館の自由」について,常々論議はされているのですが,最も利用者との接触の多い窓口は図書館の顔でもあり,多忙なルーティンワークのなかに日常的に最も多く図書館の自由との関わりが含まれているのは確かです。アウトソーシングの名のもとに窓口を軽視する傾向もありますがとんでもないことだと思っています。
 さて,窓口での1つの問題は「利用者の質問」の取り扱いです。内容は即答できるものから書誌的なもの,最近では,データベースや情報検索の方法などさまざまですが,いずれにしても,利用者はできることなら図書館員の手を煩わせたくないのです。それぞれの質問には,その利用者の学習状況や問題意識や生きざまが披涯されなければならず,場合によっては,心の内まで見せなくてはならないのです。
 とりわけ囲みのないフラットなカウンターでの対応は,知人や周囲の人などに筒抜けになっている場合が多く,考えものです。
 図書館の相互利用サービス担当者は,文献検索や所在調査,相互利用などを通常のシステムを通さないで直接特定の個人に頼みにくる経験をしていると思います。研究者にとっては,今,何の資料やデータを探しているかで研究分野やその学会での論争点が他の研究者に知られることがあり,特に先端分野の研究をしている人は極度に警戒しているのです。そこで,館種を問わず,窓口対応での利用者のプライバシーを守る姿勢を堅持してほしいとあらためて思うのです。具体的な対応では小さな声で話すなど利用者への配慮をしてほしいことや,できることならパスポートの出国手続きチェックのように施設上の配慮もしてほしいと思うのです。機械的にものをいうわけではありませんが,公共図書館などで,児童や幼児に対してあいさつや声をかけて利用者とのつながりを心がけておられるのですが,学校,大学,研究所を問わず,そのようなことも相手の立場があることを心しておいてほしいのです。「来る者は拒まず,去る者は追わず」で相手の立場や人格を大切にする精神が必要かとも思います。

(わかい つとむ:JLA図書館の自由に関する調査委員会,立命館大学)

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Vol.95,No.1 (2001.1)

「死」について考えるということ (佐藤眞一)

 小学校の卒業を控えた頃,クラスメートの盗み見に強い嫌悪感を抱いていた私は,一計を思いっいた。確か卒業文集に載せる「わたしの夢」といった文を書くことになっていた。
 私は最初から二つの文を用意した。一つは大工である父のように,物を作りだす仕事はすばらしいと思い,父のようになりたいというもの。もう一つは「私は死にたい」で始まる衝撃的なものだった。
 盗み見をする連中は,どうせ字面しか追わないのだからと,書き出しは思い切り煽情的に,そしてじっくり最後まで読む人のために,死後の世界を見てみたいが,命は一つしかないので叶わぬ夢だと結んだ。
 彼らの反応は予想どおりのもので,私の原稿を読み上げてはやし立てた。しかし,担任と親友の反応は,私の予想に反してたいへん動転したものだった。最後まで読んで,私のいたずらを見抜くと思っていた親友たちへの失望は,やがて親身に心配してくれた彼らへの悔悟の念へと変わっていった。種明かしをする機会は完全に失われ,この件は私にも傷のようなものとして残った。
 青少年の健全育成の名の下に,不健全図書(有害図書)の指定理由に「自殺」を加えようとする動きが広がっている。あの頃「死」についてきちんと語り合える状況だったらと考えると,問題になりそうなものをすべて遠ざけようとする考え方にはどうしても与することができない。とても私的な理由で,図書館員としての模範解答とはほど遠いかもしれないが,これが私が反対する本音ではないかと感じている。
         *        *         *
 図書館の自由に関する調査委員会では,各地の図書館,図書館員の方から事例の報告,相談などを受けることがあります。即座に公開できない場合もありますが,少しでも委員会で討議したことを伝え,同様の悩みを抱える仲間の支えになればと思い,この「こらむ」を始めました。私は初期の頃から,このコラムの担当をしています。
 したがって,このコラムは委員会の公式見解を述べる場とは考えていません。むしろ,図書館員でも意見の分かれるような話題や,新しい課題について,会員が自分の問題として考えるための素材提供と考えています。ぜひ,そのようにお考えいただき,討議の材料としてご活用ください。

(さとう しんいち:JLA図書館の自由に関する調査委員会,東京都立多摩図書館)

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