エッセイ

飛行機野郎のリテラシー:「情報の達人」ライト兄弟

有吉末充(京都学園大学)

人類が初めて空を飛んだのは今からほぼ100年前の1903年のことで,初飛行に成功したのがウィルバーとオーヴィルのライト兄弟であったことはよく知られている。

 ところで,このライト兄弟が「情報の達人」であったことは意外と知られていない。今回はそこにスポットをあてて,何がライト兄弟の初飛行を成功に導いたのかを見ていくことにしよう。

 ライト兄弟が空を飛ぶ機械(飛行機)の開発を考え始めたのは,1898年ごろのことだった。この時点で,すでにヨーロッパではリリエンタールがグライダーでの滑空に成功し,羽ばたかない翼でも(それまでは鳥のように羽ばたく翼を作ることが模索されていた)人間を乗せて空を飛行できる可能性が示されていたし,それに先立つ1871年にはアルフォンス・ペノーがゴム動力でプロペラをつけた模型飛行機を飛ばすことに成功していた。さらに欧米では蒸気エンジンもガソリンエンジンを実用化されていたので,これらを組み合わせてリリエンタールの翼に,エンジンとプロペラをつければ有人飛行が可能な飛行機が作れるのではないかと誰もが考えるのは当然のことで,フランスのクレマン・アデール,アメリカではサミュエル・ラングレーらが軍や政府から莫大な資金援助を受けて飛行機の開発に着手していた。ライト兄弟は,高名な学者ではない無名の町の自転車屋で,公的な資金援助を受けていたわけでもないので,かなり不利な立場からのスタートだったわけである。

 さて,このライト兄弟が飛行機を開発するにあたって,まずやったことは何かというとそれまでの飛行に関する知識を徹底的にさらってみることであった。彼らは町の図書館に行って,飛行に関する本を読みあさった。つまり基礎的な文献調査を行ったわけである。すべての本を読み終えた兄弟は,さらに新しい情報を求めて1899年5月30日にスミソニアン協会に手紙を書いている。「私は人類の飛行は可能であると固く信じており,これについて系統だった勉強がしたいのです・・・」1)。当時スミソニアン協会の副理事長は先に述べたラングレーだった。

 ラングレーにしてみれば将来のライバルから援助を求められたわけだが,圧倒的に有利な立場にいたラングレーはまさかこの若者たちが飛行機の開発に成功するとは思わなかったのだろう。先達としての余裕を見せて,こころよく最新の文献をライト兄弟に提供している。その文献とは,『飛行機器の進歩』(シャヌート),『空気力学の実験』(ラングレー)『飛行の問題』(リリエンタール)などだったが,ライト兄弟は他にもペノーの文献なども手に入れて目を通している。さらに,文献のひとつの著者であり飛行理論の研究家であるオクターブ・シャヌートに会ってその助言も求めている。

 こうして手に入れた文献を検討した結果,ライト兄弟が気づいたのは,これまでの飛行機開発においてまだ誰も飛行中の姿勢制御のシステムを作り出していないことだった。有人飛行実験のパイオニアであったリリエンタールは1896年8月の滑空実験中にグライダーが墜落して死亡しているが,その原因が姿勢制御の失敗であったにもかかわらずである。この時点で兄弟は,有人飛行を行うためには飛行中の姿勢制御を行うシステムを開発することが不可欠だと確信したのである。このように情報を分析して解決すべき課題を明確にしえたことが成功への第一歩であった。

 兄弟は文献のデータに基づいてグライダー模型を作り飛行実験を開始したが,なぜかうまくいかない。度重なる失敗に兄弟は文献のデータに疑いを抱くようになり,そして検討の結果リリエンタールが遺したデータに誤りがあることを発見する。もう先人のデータに頼っていたのでは実験は先に進まない。そこで兄弟は風洞を自作して翼の形状に関するデータを集め始めた。風洞を使って翼の実験を行うのは今日では当たり前のことだが,これを始めたのもライト兄弟が初めてだった。

 こうして飛行に最適な翼の形状がつきとめられ,ライト兄弟のグライダーによる飛行実験は順調に進んでいく。

この過程で,ライト兄弟は左右の翼の揚力に差をつけることで機体の傾きをコントロールするしくみを開発した。この原理は今日の飛行機とほぼ同じもので,飛行中に突風に見舞われてもすばやく姿勢を立て直すことができるし,しかもこのしくみを使って機体を傾かせた状態で舵を切ると,飛行機は円弧を描きながら旋回して進行方向を変えることができるのだった。つまり飛行機を操縦することが可能になったのである。当時飛行機を開発していた者で,飛行機の向きを変える方法を開発したのは兄弟の他に誰もいない。彼らが作ろうとしていた飛行機はただ前へ前へとしか進めないのである。向きを変えようとしたらいったん着陸して地上で向きを変える必要があった。

 さらに兄弟は軽量でかつ十分な馬力をもったガソリンエンジンや効率のよいプロペラの開発にも成功している(ここでも風洞が有効に活用された)。理想的な形状の翼を持ち,姿勢制御のシステムを備えた機体に,これらのエンジンとプロペラを取り付けた。

 こうして完成したライト・フライヤー1号機は飛行実験の場所であるキティホークの丘に運ばれ,1903年12月17日,人類初の有人飛行に成功したのであった。

 この時のパイロットはオーヴィルだったが,これはくじで搭乗する順番を決めたのだという。この9日前の12月8日,かつてライト兄弟に資料を提供したラングレーは飛行機械「エアロ・ドローム」による有人飛行実験を行ったが,機体はまったく飛行せず完全な失敗に終わっている。

 このようにライト兄弟の初飛行までの道のりは,基礎文献調査→さらに詳細な文献を求めての探索→先行研究の問題点の発見→データの検討と誤りの発見→実験によるデータの収集と検証という,何かを開発するときの王道とも言うべき手順を踏んで行われたことが分かる。ライト兄弟のライバルはたくさんが,彼らのほとんどが直感で機体をデザインしていた。遙かに不利な条件からスタートしたはずのライト兄弟が初飛行の偉業を成し遂げたのはいわば必然だったと言える。情報を活用する力は夢を実現する力でもあるのである。

引用文献
1)根本智『パイオニア飛行機ものがたり』旺文社(テクノライフ選書), 1996,p.75
参考文献
1)『ライト兄弟一世紀:人類の有人動力飛行始まりの記録』デルタ出版(ミリタリーエアクラフト3月号別冊),1999
2)野口常夫『飛ぶ:人はなぜ空にあこがれるのか』講談社,1991
3)『カラー版徹底図解 飛行機のしくみ』新星出版社,2006

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