被災地での修復実習

−スマトラ沖地震津波被害を受けたアチェにおける歴史的記録文書等の保存修復研修−

金山正子

 1.研修会の概要

 アチェ(インドネシア・スマトラ島)において資料保存の現場で働く人々を対象に,2005年12月スマトラ沖地震津波によって被災した文書および写真の保存修復について,実習をともなった研修を行った。この復興支援事業は文化庁の予算において東京外国語大学アチェ文化財復興支援室を拠点として実施されており,先立って2005年5月にはジャカルタにおいて講義による研修会が実施されている。

 今回現地へ派遣されたのは,大湾ゆかり氏(沖縄県公文書館)・荒井宏子氏(19世紀古典写真工房),金山正子(元興寺文化財研究所),そして研修会のコーディネーターの青山亨氏(東京外国語大学)の4名である。研修会はバンダ・アチェ市にあるアチェ州立博物館の講堂で2005年12月14日〜17日の4日間行われた。資料保存とくに被災資料の保存修復に関する講義のほかに,実習は写真保存コース30名(全員),さらに紙修復コースはそのうちの20名の募集枠で,現地の文書館・図書館・記録局などから参加者を募った。

 

●実習の内容

【第1日目】開講式/被災文書の緊急的救援(ウィジャヤ氏 : インドネシア国立公文書館)/インドネシアにおける文書および紙の材質的特徴(ヤナ・スルヤナ氏同)/文書修復技法について・被災文書の修復について(金山)/文書の保存管理法(大湾)

【第2日目】被災写真資料の救済・被災写真資料の複写・写真資料の保存(荒井)

【第3日目】修復実習−修復記録の調査と作成・修復材料の調整・文書のクリーニング(金山・大湾)

【第4日目】修復実習−裏打ち補修・破損部分および欠損部分の補修(金山・大湾)/閉講式

 実習の立案から実施までが短期間であったが,日本において実習に必要な資材を調達し現地へ送った。紙資料の修復材料としては,和紙や生麩糊・メチルセルロース・濾紙をはじめ,骨へら・ピンセット・スパチュラ・水刷毛・糊刷毛などの修復道具を20セット準備した。

 開講式はアチェの慣習にしたがったもので,トゥンク(イスラーム導師)による祝福やイスラーム式祈祷は実に印象的だった。初日の講義は講師全員がパワーポイントを使用して進め,日本人講師の講義は事前に提出したスライドがインドネシア語に翻訳されたものが用意され,通訳は5月の研修会でも通訳をしたモハマッド・テドゥ・ウリニアンシャー氏が担当した。現地は雨季で時には声の聞こえなくなるほどのスコールも降る中,研修会は連日午前9時から午後4時半頃まで和気あいあいとした雰囲気の中で進められた。

 2日目は写真のコースだが,事前に公文書館でみた被災した写真はゼラチン層が水に濡れて固着したうえにカビが生じて,とても修復できるとは言い難いものも多くあった。講義では,基本的な説明ののち,複写の方法が実演された。

 3日目・4日目の実習では,当初は写真コースのみの予定だった10名も残り,合計30名の受講生たち全員とまさしく手とり足取りで進められた。実習のメニューは,消しゴムの粉を使っての文書のドライクリーニングから始まり,破れ部分の手繕い,水を使ってのウェットクリーニング,そして刷毛を使っての裏打ち作業へと取り組んだ。彼らにとってはもちろん初めての作業ではあったが,皆非常に慎重に作業を進め,無事研修を終了することができた。実はこの実習には,現地の公文書館から借用した実際の被災文書を使用している。一見,無茶に思える今回の実習の背景とその意味を次に考えてみたい。

 

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写真1.裏打ち実習の様子

 

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写真2.津波で流された州立公文書館の1階外壁

 

 2.実習の意義

 地震による津波から1年を経過してようやく平静が戻りつつある段階で,現地での研修会が実現できたことの意義は大きいと思う。今回の研修会は修復の実技指導に重点を置いた。受講生は保存機関で働いている人々だがコンサバターではない。残念なことに州立公文書館のコンサバターは津波で被災し今はいない。全員が今後「修復」という業務に携わるかというとそうではない。しかし,基本的な紙資料の修復方法を実際にやってみるのと,ただ写真で知っているだけでは大きな感覚的な違いがある。

 今回の紙資料修復の実習についての基本方針では,初心者向けの手繕いに留めた実習にするか,あるいは原文書の裏打ちという内容にまで広げるかどうか,計画段階で少々議論もあった。実際の被災した文書類にどのような保存処置が必要かというと,まずはクリーニング,そして周囲の破れやクリップの錆跡部分などの部分的な繕いが原則である。日本での実習準備の前に現地の被災文書の現状を把握することができず,裏打ちまでの修復を必要とする資料がどれほどあるのかもかわからない状態であった。いろいろな条件を想定したうえで,実習はやはり裏打ちを基本とした日本の伝統的な修復方法を経験してもらうという選択をした。

 研修会の前日に訪れた州立公文書館の被害はひどく,1階部分は窓もなくなり柱だけがかろうじて残り,収蔵されていたアーカイブは半数近くが津波に流されてしまった。かろうじて残ったドキュメントは汚水による汚れやカビやクリップの錆が甚だしく,エタノールで殺菌して乾燥された後,現在はバラバラになった資料から関連ありそうなものをアルミニウムのクリップでまとまりにする作業がアシスタントの方々で続けられている。実習の対象となる資料を準備するのは現地に依存していたが,結局はこの州立公文書館の整理中の被災資料を修復実習の教材に提供していただくこととなった。

 初めて修復をする受講生に,被災した原資料を触らせることに賛否両論あろうとは思う。しかし,原資料でクリーニングを基本とした処置と破れた部分の繕いや裏打ちなどの修復技法を体験してもらうのが,何より彼らにとっては身近な関心と責任を持つであろうことは予想できた。事前に修復の心構えや取り扱いについても講義し,サンプルでの実技をしたあとで原資料を触ってもらい,彼ら自身が資料に手を加えることの加減と慎重さを体得できるのではないかと考えた。結果としては,皆非常に慎重で手際がよく,実習では我々が心配した資料へのトラブルもなく,きれいにクリーニングと処置が施された資料を無事に公文書館へ返却することができた。

 実習で使用した和紙や糊などの材料や刷毛などの道具類は州立博物館で保管され活用されることを望むが,日本の和紙は非常に高価であり,現地では継続的には入手できない。今後は現地で調達できる修復資材の確保が何より必要である。

 

 3.アチェ市内の様子

 実習前日に見学したアリ・ハシミ図書館は,元州知事であり文化人であったアリ・ハシミ氏(1914−1998年)が創設した財団で,PISKI(Pusat Informasi Sejarah dan Kebudayaan Islam=イスラーム文化歴史情報センター)という名称である。ここは,イスラーム関連書籍を集めた図書を一般公開している。貴重書は空調の効いた涼しい部屋に保管されているが,空調が壊れたときの温度差を考えるとかなり危険な感じもする。この辺も床上で浸水しており,水濡れ痕の図書の処置に困っている様子であった。とくにアート紙が固着してすでに乾いてしまったものが残念そうであった。比較的新しい図書類ではあったが,近隣では入手しにくい図書類も多いようである。

 沿岸地域は被害が甚大で,住宅地エリアは根こそぎ津波でさらわれ,いくつかの頑丈な古い建物がポツリと残る以外は何もかもなくなった跡地が実に痛々しかった。しかし,まだ部分的ではあるが,各国の支援による住宅の再建が進められていた。日本のテレビのニュースでもよく見た港から5キロ内陸の住宅地にまで流された発電船は,そのまま放置されていた。

 スマトラ島北端に位置するアチェは,メッカに行く人々が最後に寄る港で「メッカのベランダ」と呼ばれている。歴史的にもイスラーム教の伝播やポルトガルへの防戦,あるいは民族独立をかけた内紛などたびたび登場する所である。インドネシアで初めて飛行機を飛ばしたのはアチェの人々ということも今回の訪問で知った。この津波で内紛は「まずは復興」という共通認識のもと停戦協定が結ばれた。アチェの歴史的文書が津波で甚大な損害を受けたことは明白だが,たとえば,今回の研修会への参加メンバーの集まりがこの研修だけで終わるのではなく,せっかくできた人脈を自分たちの情報交換に役立ててもらえればと思う。

 

 4.その後

 2005年の実習の受講生の中から2名が2006年7−8月に50日間日本へ招聘され,国立公文書館を中心に修復の実技研修を受けている。彼らの来日に先立って国立公文書館の修復担当者と意見交換したことは,手作業によるクリーニングと部分繕いを修復作業の基本に据えること,そして,日本でしか調達できない道具や機械に頼らない,彼らが帰った後に現地で工夫できる技術を身につけてもらうことである。そして,将来的には,インドネシア国内で調達できる修復に適した材料を開発することが必要となるにちがいない。実習の合間に,現地にも昔から使っている伝統的な糊があるらしいことを受講生から聞いた。また,おそらく手漉き紙の原料になる草木もあるだろう。われわれができる外部支援は,必ずしも物資の調達ではなくて,それらの現地で入手できる材料が,修復に使用しても安全なものかどうかの試験や,あるいは修復に適した材料を現地で開発する援助などであるべきではないだろうか。

 研修後半には奈良にある筆者の勤める研究所も訪れてくれ,帰国後がんばって仕事を続けていってくれることを約束してくれた。彼らの今後の活躍を期待したい。

 

(かなやま まさこ : 元興寺文化財研究所)
[NDC9 : 014.6 BSH : 1.資料保存 2.災害]

 

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図書館雑誌 2006年9月号

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